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スタッフ募集は終了とさせていただきました。多数の申込みをいただき(うそ)、ありがとうございました。引き続き、新ブログを更新しておりますので、そちらをご覧ください。新ブログ版・南堀江法律事務所
2009/10/03
当事務所では現在、業務多忙により、新規スタッフを募集しております。今回の募集は、経験者に限定させていただきます。債務整理(任意整理、破産、個人再生)、執行・保全の事務処理が可能な方、男女不問、年齢25歳~35歳くらいで、人並みに協調性のある方を急募いたします。勤務時間・日数については、週3~5日、1日4~8時間で応相談、勤務期間は6か月~1年で、その後は相談させていただきます。給与は、能力、経験、勤務時間により、時給1000円~1500円 または 月給16万~17万円 とさせていただきます。(正社員の方は社保完)職場は南堀江1丁目、四ツ橋駅すぐのオフィスです。現在、弁護士1名、事務員2名。詳細については、面談させていただきますので、まずは事務所までお電話にてお問い合せください(06-6110-9789)。
2009/08/25
当ブログは移転しました。新・ブログ版 南堀江法律事務所今朝(平成21年4月24日)、新ブログが一時的にアクセス不能になっていましたが、現在のところ、問題は解決しております。引き続きよろしくお願いします。
2009/04/24
新ブログがどういうわけかアクセスできなくなってしまいまして、いったんこちらのほうで告知させていただきます。新ブログが閲覧できなくなった理由は今、調査中ですが、近いうちに改めて、「新々」ブログにてお会いしたいと思います。
2009/04/24
少し前にここで書きましたが、ブログの利便性その他諸々の理由から、当ブログを、下記へ移転しました。新・ブログ版 南堀江法律事務所http://minamihorie.blog.shinobi.jp/(行先は「忍者ブログ」です)まだテスト的に運営中ですが、お暇なときに新ブログの体裁をご覧いただければと思います。今後の更新は、基本的に上記ブログで行おうと思っています。旧・湊町法律事務所時代から2年と数か月のご愛顧をありがとうございました。当ブログをリンクしてくださっている奇特、殊勝な方は、お手すきのときにでもリンク変更をしてくだされば幸いです。今後ともよろしくお願いします。
2008/11/27
今回の話はあくまで軽い雑談としてお読みください。麻生総理が、少し前に、「医者には社会的常識のない人が多い」と発言した。その趣旨や文脈はともかく(親族が地方で病院を経営していて、病院経営の大変さを言ったものらしいのですが)、一般論として「医者は非常識だ」と言ったととられても仕方がない。医師会は、私が思っていた以上の猛反発をしました。日本医師会の会長が、首相官邸に乗り込んで抗議したとか。私は最初に麻生総理のこの発言を聞いたとき、医師会なら笑い飛ばすかな、とも思っていたのです。たとえば、私たち弁護士の業界に関していうと、社会的常識のない人の割合が確かに多い。それはどうしてかと言うと、一昔前の司法試験が異常に難しくて、それに受かることができるのは、よほどの秀才か、社会的常識を身につける機会がないくらいに勉強した人だけだったからです。法律という専門的知識を身につけたから、その世界では生きていけるけど、それ以外の世界では通用しないであろう人も多い(例 横柄である、他人の話をきちんと聞けない、書面の締切りを守らない、客の金を横領する、脱税して国外逃亡する、つまらないブログを日々書いている等々)。医師の世界も、似たような部分があるように思う。弁護士や医師に限らず、プロの世界は、ある程度そういうものだと思います。そういう世界の人々は、社会的常識ではなく、自身の専門的知識や職能を頼みにして生きている。だから、個人レベルでは「常識がない」と言われても、「だから何だ?」と笑い飛ばすことができる。ですから、今回の医師会の猛反発、これはまさに「政治」なのだろうなと思います。すなわち、一国の総理が、医師一般を非難したかのような発言をした以上、医師の利益団体でもある医師会としては抗議せざるをえない。そういう世論ができてしまうと、今後、医師の利益や立場に配慮しない法律や制度ができてしまうことになりかねない。そしてもう一つ。最近マスコミが指摘する「産科医のたらい回し問題」などのように、医師が批判されることも多い。今回の医師会会長の抗議は、そういう風潮に対する、「権力者やマスコミが現場の医師を不用意に批判するなら医師会が黙っていないぞ」という意思表明も含まれているのでしょう。医師に対する批判を封ずる意図であれば、ちょっと恐ろしい思いがするのですが、同時に、医師会という利益団体の政治力に感心せざるをえません。加えて、政界や財界と共同歩調を取ることが多い日本弁護士連合会のトップの姿勢と比べてみても、そのことを強く感じた次第です。
2008/11/26
小室哲哉が保釈されて大阪拘置所から出てきました。保釈保証金の金額は3000万円だそうです。この保釈と保証金について書きます。何らかの犯罪の容疑で逮捕され、その後、取調べの必要があると判断された場合は、「勾留」(こうりゅう)されることになる。期間は10日間ですが、1回は延長がきくので、たいていの場合は20日間は勾留される。20日間の取調べを経て、検事が刑事裁判に持ち込もうと判断すると、その事件を起訴することになります。起訴されるとだいたい1か月後くらいに刑事裁判が始まるのですが、取調べはいちおう終了しているので、もはやその被告人を勾留しておく必要はなくなる。そこで、「後日の裁判の際にはきちんと法廷に来てくださいよ」という条件のもとに、被告人を出してあげるのが保釈です。ただ、保釈してそのまま逃亡されると困るので、お金を出させて、「逃げたら没収しますよ」ということで裁判所がいったん預かる。それが保釈保証金です。きちんと裁判を受ければ返してくれるのですが、いったんは現金で預けないといけないので、お金がないと保釈もしてもらえない、というわけです。小室哲哉の場合はその金額が3000万円とされました。最近の有名なところでは、村上ファンドの村上は5億円、ライブドアの堀江は3億円だったかと記憶しています。この金額はどうやって決まるかというと、簡単に言えば、事件の大きさと、逃亡の可能性と、その人の財力で決まることになります。もっと具体的にいうと、保釈するか否かを判断する裁判官と、その被告人の弁護士との「交渉」で決まります。私はさすがに、何千万とか億単位の保証金を納めたことはありません。一般的な刑事事件なら、200万円前後ではないかと思います。担当の裁判官と、面談または電話で話して、裁判官「保釈金はどれくらい用意できそうですか」弁護士「本人も決して裕福ではありませんので、何とか100万円くらいで…」というふうに値切ることもよくあります。お金がなくて詐欺を行なった小室哲哉ですから、保釈保証金なんて準備できないのではないかと思っていたのですが、どこかから用意してきたのでしょう。それにしても、5億円という巨額を騙し取ったという事件の大きさからすると、3000万円という保釈保証金は正直「安いな」と私は思ったのですが、きっと弁護士が相当に値切ったのだろうなと思います。そして小室哲哉も一時のことを思えば経済的に相当苦しいのだろうなと想像しています。
2008/11/22
厚生労働省の元事務次官を狙ったと思われる死傷事件が起こりました。犯人と、その動機についてはまだ未解明の部分もありますが、おぞましく、そして憎むべき事件です。厚生行政に恨みがある人の犯行であるのかどうかは知りません。厚生労働省と旧厚生省の政策については、最近の年金問題や薬害問題その他、諸々の批判があるのも事実でしょう。しかし、そのことと、人を殺すことは全く別問題です。今日(19日)、夜のニュースで「街の人の声」というのがいくつか流れていましたが、「ここまでの事態にしてしまった政治の責任は重いと思う」という趣旨の発言をする人が複数いて、私個人としてはとても嫌な気持ちになりました。厚生労働省のお役人のやることだから「政治」部門の問題でなくて「行政」部門の話だろうとか、そういう些細なことはどうでもよい。卑劣な犯罪が起こったときに、それを安易に社会や政治のせいにしてしまう考え方が恐ろしいです。かつて当ブログでも取り上げたかと思いますが、私が筑波大学在学中に、イスラム学の学者で「悪魔の詩」(マホメットを冒涜しているとされた書物)を翻訳した五十嵐一助教授が学内で殺害されました。そのニュースに接したいわゆる「文化人」がテレビで「イスラムに対する理解が足りなかったのではないか」と言ってしたり顔をしているのと同じような嫌な感じを受けます。法治国家であるこの日本においては、どんな理由であれ、暴力で言論を封ずるとか、気に入らぬ政治・行政に暴力で報いるとか、そういうことがあってはならないのです。まだまだわからないことが多いこの事件ですが、そのことを改めて強く感じました。
2008/11/19
人それぞれ、いろんな主義・信条をお持ちだと思いますが、私の信条の一つとして、「決して他人に愚痴を言わない」というのがあります。諸々の不平不満に対し、他人に愚痴を言ったところで決して解決しないし、聞いている人の気持ちまで萎えさせてしまうからです。酒場で同僚や部下や店主にいろいろ愚痴を言っている人を見かけたりしますが、ああいう手合いとは決してお近づきになりたいとは思いません。と、そこまで言っておきながら、愚痴ってみます。最近、この楽天ブログが非常に使いにくいのです。これは少し前から何度か書いていますが、ここで女性を被害者とした犯罪について検討しようとして、「ごうかん」と漢字で書くと、「わいせつ、公序良俗に反するキーワードが含まれています」と赤文字で警告が出て、文章をアップロードできない。「強いて姦淫する(しいてかんいんする)行為」なら書けるのですが、長くなるので仕方なく「強かん」と一部平仮名で書いています。前回の記事で、ズボンの上から女性を撮影する行為が条例違反で処罰されたという事件を書きました。ここでは、「とうさつ」と漢字で書いたら、またもアップロードできず、他の表現をとりました。「盗み撮る」ならOKなのですが。弁護士のブログである以上、犯罪問題についていろいろ書きたいことはあります。女性を強いて姦淫するような犯人については、そいつを「暴行犯」とか「強かん犯」とかいう締まりのない表現をとるのでなく、きちんと漢字で「ごうかん犯」と表現したいのに、それができない。「とうさつ」も同じく、これを論じようとしても表現自体ができないわけです。一方で、楽天ブログには、出会い系に誘導するサイトや、女性の裸体写真がたくさん掲載された、それこそ「わいせつ、公序良俗違反」じゃないかと思えるサイトが野放し状態です。本当に規制されるべきものが野放しでありながら、「言葉狩り」だけが着実に進んでいく。とても恐ろしいことだし、ブログの利便性も低下しつつあります。私は現在、当ブログを楽天以外のところへ移転しようと計画中であり、いくつかのブログの利便性を検討しています。移転が決まったらここで告知いたしますので、引き続きお付き合いいただければと思います。それまではしばらく、不便ながら楽天ブログにて記事を書きたいと思います。
2008/11/16
ズボン姿であっても、女性を隠し撮りする行為は有罪である、と最高裁が判断(本日朝刊より)。31歳の男性が、27歳の女性の臀部を、携帯電話のカメラで撮影したと。その行為が「迷惑防止条例」が禁止する「卑猥な言動」にあたるとして有罪になった(10日)。刑罰はといいますと、罰金30万円らしい。刑法では、体をさわる行為は強制わいせつ罪で処罰されますが(10年以下の懲役)、写真を撮るといった行為は処罰されない。それでもたいての県や市には迷惑防止条例があって、こっそり撮るのも「迷惑行為にあたる」ということで処罰されることになっています。本件は、スカートの中を写したという典型的な態様ではなく、ズボンの上からでもダメといったところが目新しい。じゃあ何だ、街なかで風景写真を撮っていて、その中に通行人の女性の後ろ姿が写っていたら罰金30万円になるのか、と息巻く人もいるかも知れませんが、もちろん、そんなことにはなりません。この件は、やり方がちょっと行きすぎだったということだと思われます。新聞記事によると、スーパーマーケットで買い物中の女性に、5分間、距離にして40メートルにわたって後をつけ、1~3メートルの背後から臀部を11枚撮影したということで、ちょっとあからさまな感じがする。条例が禁じる「卑猥な言動」とは、「性的道義観念に反する下品でみだらな言動」をいうと最高裁は言いました。要するに「スケベ根性が見てとれる言動」のことで、上記の行動はこれにあてはまるということでしょう。(それにしても、こんな不明確な言葉で犯罪を定義してよいのか、という点は問題になります。憲法上は、明確性の理論とか合憲限定解釈の議論につながるのですが、ここでは省略)個人的には、この被告人の行動は軽犯罪法が禁じる「他人につきまとう行為」(1条28号)のほうがピッタリくると思います。でも軽犯罪法が定める罪の重さは、30日未満の拘留または1万円未満の科料までにしかならない。そこで検察としては、解釈上の疑問がなくはないけど、条例の「卑猥な言動」のほうを適用してみた、ということでしょうか。ちなみのこの事件は平成18年7月、旭川市内で起こったとのことです。旭川とはいえ夏ですから、女性は薄着で、男性としてそそられるものがあったのかも知れません(実際はどうだったか存じません)。もちろん、女性がどんな服装をしていようと、男性がそれを性的興味から撮影するようなことはあってはならないことです。しかし女性も、治安対策を国や地方に求めるなら、同時に夏の薄着はほとほどにすべきです。と、今年の夏に女性の服装を見ながらそんなことを思ったあたり、自分もオッサンになったなあと思いました。
2008/11/14
詐欺罪で逮捕された小室哲哉の話について、前々回に少しだけ書きましたが続き。各方面に借金があって、その返済が大変になったために5億円を騙し取ったとのこと。冷静に考えれば、借金があって返済できないなら、どうして自己破産しなかったのかという点に疑問が生じます。そこは、「俺は大スターだから」というプライドと、「ヒット曲を出せば借金は返せる」という期待があったのでしょう。さて、破産するとどうなるかというと、少し前に「船場吉兆」の話で書いたように、破産管財人がついてその人の財産を処分してお金に換えて、債権者に返済することになる。(なお、財産がないに等しい人なら、そのステップを抜きにして破産手続は終了する)破産手続を取るデメリットはというと、弁護士や税理士などの職業の場合、手続を終了するまでの間は資格を失うと弁護士法や税理士法で定められているけど、「音楽プロデューサー」にはそんな法律はありません。せいぜい「何となく聞こえが悪い」というだけで、デメリットはないと言ってよい。小室哲哉なら、高いマンションから放り出されても、譜面とエンピツがあれば作曲活動を続けることができる。そして、破産手続が終了し、返済しきれなかった負債はどうなるかというと、「免責」といいまして、「チャラ」にしてもらえる。免責になるか否かはもちろん裁判所の判断によるのですが、かなりのケースで免責が認められているのです。では、小室哲哉が今から破産申請をしたらどうなるか。5億円を騙し取った相手には、それを返さなければならないわけで、破産手続を経て「免責」を得ることでこれをチャラにできるのかというと、それはできない。犯罪的な行為によって生じた債務は、免責されないことになっているからです(破産法253条1項2号)。つまり、一生かかってでも返済していかないといけなくなるわけです。ということで、小室哲哉は、破産という法的手続でなく詐欺という犯罪行為を行ったことによって、余計に苦境に立ってしまったということになります。
2008/11/11
大阪のひき逃げ事件は、容疑者が逮捕されました。いっとき、ミナミにホストとして勤めていたとかで、逮捕場所となったラーメン屋も、うちの事務所からほど近い、私も行ったことのあるお店でした。それはともかく、事件後しばらくは容疑者は逃げおおせていましたね。大阪府警も「自殺」を懸念していたらしいですが、私も、逃亡の末の自殺といったことを想像していました。交通事故によって人を死なせると、一昔前なら業務上過失致死罪で5年までの懲役でしたが、現在は自動車運転過失致死が適用されて7年までの懲役となっており、さらに、危険運転致死罪が適用されると、一気に20年までの懲役が可能となる。20年の懲役を食らうくらいならと、逃亡さらに自殺を図ったのかも知れないと考えていたのです。実際には、この容疑者は事件当時は飲酒しており、別罪で執行猶予中の身であったということが直接的な逃亡の動機であるようですが、おそらく、頭の片隅には、交通事故の厳罰化ということがあって、それも動機の一つになっていたのではないかと思います。ここに、犯罪を厳罰化することの難しさがあるのだと思います。交通事故関係の犯罪についていえば、刑法改正による厳罰化の後、統計的に見て犯罪件数は減っているらしいので、厳罰化は基本的には間違っていなかったのだと思います。それでも、今回の事件で容疑者が「罪が重いから逃亡してやれ」と思ったせいで被害者を引きずるような行動をし、その結果死亡させたのだとすれば、この被害者の方の人生に限って言うと、刑法改正はマイナスにしかならなかったわけです。少し話は変わりますが、強かんその他、わいせつ系の犯罪を行った男性に対して、どこかの国では犯人を去勢する立法が審議されているか、成立したのだったか、そんな話を聞きました(楽天ブログでは「強かん」を漢字で書くとNGワードになります。「かん」は「姦」の字です)。強かん犯罪(3年以上の懲役)は、私ももう少し重くてもいいと思いますが、これだって、法律が「一度でも強かんを犯した者は去勢する」ということになったらどうなるか。罪を犯してしまった人は、逮捕されるまでの間、「どうせ去勢されるのなら今生の名残のないように」とばかりに、同じ犯罪を繰り返すことが容易に想像されます。統計的にみれば犯罪を減少させるとしても、いつ自分自身と周りの人が、自暴自棄になった犯人のエジキになるかも知れない。そしてエジキになった人にとっては、「厳罰化のおかげで犯罪は減ってるから」と言ってみても意味はないでしょう。犯罪厳罰化は、よくよく慎重に検討しなければならないということです。
2008/11/10
うちの事務所でたまにある光景ですが、離婚がらみの相談ということで、夫である男性がこういった話を持ち出すことがあります。「私は借金をたくさん背負って、妻にも迷惑をかけたので、この際、妻と離婚したい。私には妻に与える財産はほとんどないので、私の持っている自宅の名義を妻のものにしたい」といった話です。弁護士ならこれを聞いて、誰だって「財産隠し」を疑うことでしょう。借金を背負った男性が、自分の資産を差し押さえられないように、離婚した妻への「財産分与」の名目で過大な資産を譲渡するわけです。こういった譲渡は、そもそも無効だし(民法94条、虚偽表示)、夫の名義に戻されて差し押さえされるし(民法424条、詐害行為取消権)、刑法上も犯罪になることがある(刑法96条の2、強制執行妨害罪)。ですからこういう相談については、上記のことを指摘しますし、「あなたがどうしてもやるというなら私は何も言わないが、私がその依頼を受けることはできません」ということにしています。そもそも、夫の借金はあくまで夫のものであって、妻に責任が及ぶわけではない。だから「夫の借金が妻に及ばないようにしたい」ということ自体が、法的に言えば誤りということになります。ただ「夫の借金は妻に及ばない」(妻の借金も夫に及ばない)という原則には、いくつかの例外があります。たとえば、妻が夫の保証人になった場合(それがイヤなら保証人のハンコをついてはいけない)、夫が死んで妻が相続した場合(借金が過大な場合は相続放棄すべきことになる)、日常の家事の範囲で夫が借金した場合(夫がツケで家庭用の食料や日用品を買ったなど)、がこれにあたります。それ以外に、夫の借金で妻に累が及ぶ場合として考えられるのは、債権者(貸主)がヤミ金融その他、違法な(またはスレスレの)取立てを行う類の人であり、妻に法的責任はないとわかっていながら嫌がらせ目的で取立てをする場合、が挙げられます。今回唐突に離婚と借金の話を書いたのは、小室哲哉が借金のあげくに5億円の詐欺事件で逮捕され、妻のKEIKOさんと離婚するとかいう話を報道で聞いたからです。これはあくまで一般論ですが、お金が集まるところには、あやしい人たちも集まってくるみたいなので、KEIKOさんにも違法な取立てが行っていたのかも知れません。「ダンナの借金は私にゃ関係ない」と開きなおればよいのですが、それでは済まないような背景もあったのかも知れないなと勝手に想像しています。
2008/11/05
芸能ネタはあまり取り上げないようにしているのですが、春風亭小朝と泰葉の離婚後の騒動に関して法的に考察します。最近、ワイドショーで何度か取り上げられていまして、当人同士にしてみれば離婚についてはいろんな原因があるんだろうけど、他人から見ればまあ、取るに足りない話ではあります。離婚後、泰葉がブログで小朝のことを「金髪ブタ野郎」と書いて罵り、また何度も脅迫メールを送りつけていたと、泰葉がわざわざ自分で記者会見を開いて明らかにしていました。これらが名誉毀損や脅迫などの犯罪にならないのかについて、触れておきます。名誉毀損は、具体的な事実を指摘しつつ他人の名誉を毀損することを言います。刑法230条で3年以下の懲役。では「金髪ブタ野郎」はどうか。「金髪」は事実(髪を染めている)だけど、別に名誉を毀損するようなものでない。「ブタ」や「野郎」(男性に対する蔑称)、これはいまだ抽象的に留まるものです。このように具体的事実を伴わない場合は、侮辱罪という別の犯罪が成立します(刑法231条、30日以下の拘留または1万円以下の科料)。では、脅迫メールを送った点についてはどうか。脅迫は、人に対して害を加える旨を告知することを言います(刑法222条、2年以下の懲役)。「殺すぞ」「痛い目にあわすぞ」などと言うのが典型的です。泰葉がどんなメールを送ったかというと、記者会見のテレビなんかを見ていますと、「切腹しろ、私が介錯してやるから」といった内容だったとか(取るに足りないとか言いつつけっこう見ている)。「私がお前を殺す」と言えば脅迫ですが、「自分で切腹しろ」と言ってるわけですから、やや微妙です。もっとも、義務もないのに切腹を無理やりさせようとしたということで「強要罪」(刑法223条で3年以下の懲役)の未遂にあたる可能性や、自殺をそそのかしたということで自殺関与罪(刑法202条で7年以下の懲役)の未遂にあたる可能性が出てきます。実際には、小朝が警察に被害届を出すとは思われないし、警察もこんな話、立件しようとはしないでしょう。しかし、言葉も使い方次第では犯罪になるのであって、ブログやメールなど言葉を発信するのがいっそう簡単になった現代においては、よくよく考えてからしなければいけないのだと、改めて認識させられます。
2008/11/03
昨日の続き。船場吉兆の元社長と女将(湯木正徳、佐知子氏。以下「湯木氏」と書きます)に破産決定が出たが、船場吉兆の会社の破産管財人は、その湯木氏に対して損害賠償請求すると言った。これも破産管財人の仕事のうちです。前回書いたとおり、会社の破産管財人は、会社の資産をお金に換えて債権者に返済することになる。たとえば心斎橋のOPAの吉兆でタダで飲み食いしてツケをためている客がいたとすれば、代金を回収することになる。それを返済に回すわけです。湯木氏が放漫な経営で会社を潰したとなれば損害賠償金を回収して、それも返済に回す。ですから今後、湯木氏の個人資産を回収しお金に換えて、会社に返済することになるのでしょう。ただ、湯木氏は借金がかさんだから破産したのであって、そんな人を訴えたとしても、お金は返ってこないか、返ってきても微々たるものでしょう。その点は、船場吉兆の破産管財人もわかっているはずなのですが、それでも、可能性がわずかでもあるのなら、やれることはやっておかないと破産管財人の責任問題になるということでやっているものと思われます。それにしても、自分がいた会社から訴えられるというのは、気の毒な部分もあるのですが、会社の取締役というのはそれだけ責任が重いということです。たとえば、ライブドアの元社長の堀江は、社長在任時代に証券取引法違反などで会社の株価をおとしめたということで、現在のライブドアから訴えられるか、またはすでに訴えられたとか。湯木氏とか堀江は(堀江はなぜか「氏」をつける気がしない)まあ、ある程度は自業自得なのかも知れません。しかし、会社経営に縁のない人であっても、たとえば知人から「会社をつくるから取締役として名前だけ貸してくれ」と言われて会社の登記簿に名前を連ねただけで、何かあると会社や、株主ほか第三者から訴えられることもあります。だから形だけであっても取締役になるのは重々慎重にすべきです。湯木氏の転落を見て、改めてそんなことを感じました。
2008/10/31
「船場吉兆らの社長ら破産」(日経30日朝刊)との見出しが。料理人としての頂点からどん底みたいな話で、世の無常をすら感じてしまう事件ではあります。「船場吉兆」自体は、民事再生法による経営再建を目指していましたが、その見通しがたたず、先日すでに破産しています。今回は、船場吉兆の(元)社長とあの女将が破産した。会社の破産管財人の弁護士は、社長らに対する損害賠償請求を検討する、と述べたらしい。これ、何がどうなっているかわかりますでしょうか。会社が破産するとどうなるかというと、突然その会社が消滅してしまうわけではない。破産というのは簡単に言うと、「財産より借金のほうが多くて返せるめどがつかない」状態のことを言います。そうなると会社が「もう借金は返せません」と裁判所に申立てをして、裁判所が「この会社は破産です」と認定する。「破産した」と報道されるのはこの段階で、これを「破産手続開始決定」と言います。でも話はそれで終わりでなくて、まさにこれは破産の「開始」の段階です。そのあとは、会社に残った財産から少しでも債権者(お金を貸してくれた銀行や、給料をまだ払えていない従業員など)に返済するための手続が始まる。その手続きをするのが「破産管財人」で、通常は弁護士の中から裁判所の指名で決まる。船場吉兆の会社は現在この段階です。今回さらに、社長と女将に「破産手続開始決定」が出た。本来、会社(法人)と社長個人の財産は別モノであって、会社は破産しても社長個人は直ちに身ぐるみ剥がれるわけではない。それでも、中小の会社であれば、社長個人が会社の借金の保証人になっていたり、会社に必要な経費を自分の名義で借金していたりすることも多く、会社が潰れると自分も破産せざるをえないことはよくあります。船場吉兆の社長と女将が、個人としてどれくらいの借金を抱えていたか知りませんが、そういう次第で一緒に破産することになったのでしょう。で、冒頭に書いたとおり、船場吉兆の会社の破産管財人は、社長ら個人に損害賠償請求をする、といった。経営陣の不手際で会社が破産したのであって、その責任は社長ら個人にある。それをお金で償ってもらって、会社の債権者への返済にあてるというわけです。しかし破産した個人に「損害賠償せよ」と言って意味があるのか、と言いますと、もちろん破産管財人の弁護士も意味があるからやっているのですが、破産に縁のない日常を送っている方にはすでにずいぶんややこしい話になった気がしますので、また次回以降に書きます。
2008/10/30
このところ雑談が多いので、前回の話に関連して法的な考察を書きます。学校給食の場で児童がパンをのどに詰めて死亡するという、極めて痛ましい事件が起きたわけですが、まずは亡くなった児童の冥福を祈りつつ、この場合、誰にどんな責任が生じうるかを検討します。まず、実際にはありえない話ですが、ノドを詰めて苦しんでいる児童を見て、教師が、「こんな子供は死んでしまえばいい」と思いつつ放置したらどうなるか。刑法の勉強をしている方は思いついたでしょうけど、教師に殺人罪が成立する可能性もあります。人を殺す行為も、死にそうな人も保護しないのも同じと評価するわけです。それはないとしても、学校の管理責任を問うことはできるか。たとえば、学校のジャングルジムなどの遊具が老朽化し、そこで遊んでいた児童が落ちてケガをしたようなケースがたまにあります。その場合、公の施設(営造物)の欠陥によって国民に損害を与えたということで、国家賠償法の第2条による賠償請求が可能となる。(なおこれは公立の学校であることを前提としていますが、私立であれば、民法に基づいて契約上の責任を問うことが可能でしょう。つまり親が高い学費を払って子供を委ねたのに、ジャングルジムの管理費をけちってケガさせたという責任を問うわけです)本件のパンは、さすがに公の「施設」とはいえないでしょうから、これをあてはめるのは無理でしょう。同じ国家賠償法の第1条では、公務員の過失によって損害を与えられた者は、国または県に損害の賠償を請求できるとある。本件でも、学校側・教師側に何らかの過失があれば、賠償請求ができるということになります。では果たして、過失はあったといえるか。児童がノドを詰めたあとに、教師がどのような手段を講じたかは詳しく知りません。救急隊員が持っているようなノウハウがあればこの児童を救えた気もしますが、学校教師にそれを求めるのは酷であり、結果として救えなかったからといって過失ありとはいえないように思います。また、このクラスで早食い競争が日常的に行われており、教師がそれを注意せず放置していたかのように言われているようです。しかし過失というのは、ここでも何度か書いたとおり、「充分に予測できる危険な結果を回避しなかった」ということを意味します。老人ホームでジイサンが餅の早食い競争をしていたら誰だって「危ないなあ」と思うでしょうけど、児童がパンでノドを詰めるという事態を、現実的に予測できた人はいなかったのではないかと思います。だからこそ、誰しもニュースに驚いたわけです。という次第で、気の毒ではあるのですが、学校の法的責任を問うというのはかなり難しいケースなのだろうと思われます。
2008/10/28
休みの日ということで、引き続き、どうでもよいような雑談が続きます。バーと葉巻の話は、実はもっともっと書きたいのですが、それは前回で終了ということで。唐突ですが、私の顔には、傷あとがあります。ちょっと見たところにはわかりませんが、左の下あごの部分に、2センチ程度の傷があるのです。過去にここでもこの話をしたと思いますが、これは小学校の2年生のとき、木から落ちて木の枝か何かでこすって怪我したものです。当時通っていた地元のそろばん塾の「遠足」で、塾の先生と塾生30人ほどで遊園地に行きました。自由行動の時間になって、お小遣いを使いきってしまった私は、ひとり園内の木に登って時間をやり過ごしていて、そこで木から落ちました。自分では気付いていませんでしたが、顔から血が出ているということで、急遽、塾の先生が近くの医院まで、私を背負って駆けつけてくました。休日でしたので急患ということで診てもらって、2、3針ほど縫うことになりました。縫合が終わって先生に背負われて帰ると、塾生仲間が先生の奥様に引率されて、駅前で私の帰りを待っていてくれました(そのため全員が、当初の予定より帰りが大幅に遅れた)。あのときの、恥ずかしくて情けなくて、でも先生や仲間に申し訳ない気持ちは忘れられません。後日、うちの母はそろばん塾に、菓子折りか何か持って平謝りに行ったはずです。このことがきっかけなのかどうかは知りませんが、そのそろばん塾ではその後、遠足に行くことはなくなりました。37歳になった今でも、鏡でこの自分の顔の傷を見るたびに、この傷さえなければ、自分は弁護士などでなくモデルか俳優をしていたのにと思う、というのはもちろん冗談で、この傷を見るたびに、塾の先生に「ご迷惑おかけしました」と、改めてお詫びしたい気持ちで一杯になるのです。何を個人的な思い出話をだらだら書いているかといいますと、最近、何だか違和感を感じる話が多いということを言いたかったのです。こんにゃくゼリーでノドを詰めて死亡した子供がいれば、食べた子供・食べさせた大人の不注意は全く論じられずに、こんにゃくゼリーの製造業者が非難される。学校給食のパンでノドを詰めて死んだ児童がいれば、親は学校に謝罪するでもなく学校の管理責任を問う。人が亡くなったこと自体は極めて気の毒なことではありますが、そこで本当に論じられること、報道されることといえば、議員がゼリーの製造業者をどなりつけたりとか、生徒の親が校長に土下座させたりとか、その次元のことであってよいのか、というのが最近とみに感じることです。
2008/10/26
麻生総理が、毎晩ホテルのバーで飲んでいることについて、一部野党などから批判の声があがっているとか。ここでも少し書きましたが、これらは全く次元の低い批判であって取るに足りない。むしろホテルで散財してもらうほうが、景気回復に少しはつながるでしょう。仕事帰りに、バーに行きたい気持ちもよくわかる気がします。一日中、国会や委員会での論戦、外交案件の処理、陳情の聴取など、分刻みの予定をこなして、それらが終わって1日の最後を過ごす場所が、酔っ払いのオッサンが絡んでくる場末の居酒屋だったりしたら、たまったものではないでしょう。私はホテルのバーにはあまり行きませんが、街なかのバーには仕事帰りにたまに行きます。その日の事件のことや、明日やるべきことなどについて考えているうちに思考がまとまって、緊張も適度にほぐして帰ることができます。だから麻生総理としては、堂々とバーに行ってくれたらよいのですが、上記の批判に対しては「ホテルのバーは意外に安いことをご存じないのでは」と返したらしい。そんなところをフォローしなくてもよいのに、と思ったのですが。では、ホテルのバーで飲んだらどれくらいするか。もちろんホテルにもよるのでしょうけど、一般的には、洋酒やカクテルが1杯1000円から2000円くらいでしょう。チャージとサービス料も1000円前後でしょうか。麻生総理は葉巻をやるらしく、あれもピンキリですが1000数百円です。1時間ほどで2杯飲んで葉巻を1本ふかしたとして、5000円強といったところでしょうか。1時間で5000円。この程度なら、会社のヒラ社員でも、たとえばサウナやマッサージに行って支払うことはあるでしょう。さらに、キャバクラやスナックに行けば、おそろしく不味い水割りを飲まされた末に、1時間で1万円程度取られることはザラにあるはずです。葉巻だって金持ち趣味の象徴のように言われることもありますが、私自身、たまにバーで葉巻を吸いますので、この点も補足して書きます。産経25日朝刊に、麻生総理がホテルでよく嗜むという葉巻が紹介されていましたが、「ホヨー・ド・モントレー」という銘柄のぺティロブストというサイズで1本1300円です。葉巻にしてはリーズナブルな部類のものだと思います。私がたまにバーで嗜む葉巻は、麻生総理よりも高いクラスのものであることが多いです。それでも、1日中タバコを吸っていて、毎日タバコを1箱も2箱も買っている人に比べれば、出費は少ないでしょう。ということで、ホテルのバーが高いか安いかというと、安くはないのだと思う。しかし、それを批判するなら、キャバクラに行ったり毎日タバコを吸ったりしている一般のサラリーマンも同様に批判されなければならない、ということになると思います。取るに足りない野党の批判でしたが、バーと葉巻が好きな者として、休日向けにゆるく書かせていただきました。
2008/10/25
今日の朝刊から。難解な医療用語を見直すべく、わかりやすい言い換えを国立国語研究所が提案したとか。予後とか生検とか浸潤とかが例として挙げられていました(それぞれの意味は省略。たぶん朝刊各紙に出ています)たしかにこれらの用語は、私自身、弁護士になって医療関係の事件に関わるようになってから文献を通じて知ったのであって、そうでなければ知らなかったでしょう。こういった言い換えは、もちろん私たち法律家の世界でも求められています。特に、裁判員制度の施行を控えて、刑事事件についての法廷用語の言い換えが進められている。たとえば、強盗という犯罪は「暴行または脅迫によって反抗を抑圧することによって財物を奪う犯罪」と定義される。強盗犯人が被害者の「反抗を抑圧する」のですが、「反抗」の語が、被害者が何か悪いことをしているイメージになって誤解を招くということで、この表現は裁判員には使わないことにされているとか。(どう言い換えるかという肝心な部分は、流し読みした程度なので忘れました)専門用語にはそれぞれに正確な定義があって、かつ手短に表現できるので、専門家同士の会話には便利なのですが、それを一般の人に使うべきではない。私も依頼者と話すときは、やや正確性に欠けたとしても、用語の意味の重要な部分、つまりポイントを大づかみにできるように言い換えることを心がけています。逆に言えば、一般の人にわかる言い換えができない専門家は、その用語のポイントを本当に理解していないといえます。今日は何だか話が飛び飛びになってしまっていますが、不思議なほどにそういう「言い換え」をしない業界があります。私の偏見かも知れませんが、IT業界の人がそうです。話していると、専門用語やアルファベットの略語がやたら出てくる。かつて、私の「イソ弁」時代に(「イソ弁」も業界用語ですね。独立せず事務所に勤めて給料をもらっている弁護士です)、その事務所のボス(当時70代)と二人で、IT業界の方の相談を聞いていました。その方がやたらと「当社の『デジタルコンテンツ』が…」と口にするのです。その話を一渡り聞き終わったボスがおもむろに、「で、その『デジタル本店』というのは何ですかな」と聞きました。専門用語の言い換えは大切です。
2008/10/22
「涙ぐむ園児」との見出しに(産経16日夕刊)、何かなと思ったら、大阪府が道路建設予定地上にある保育園の野菜畑を撤去したとのこと。保育園の野菜畑がある土地が、道路建設のために府に収用された。府は保育園側に明渡しを求めてきたが応じなかったので、府がこれを強制的に執行したと。府の態度を批判する向きもあるかも知れませんが、私にはなぜ保育園側がここまで事態を悪化させたのか、理解できません。行政による命令に民間が従わない場合、行政自ら代わって執行できる。行政代執行法(ぎょうせいだいしっこうほう)にはそう決まっています。土地の収用は土地収用法に基づいて行われているはずで、代執行に至るまでにも法的な手続を踏んできて、保育園側も意見・反論を述べる機会も与えられてきたはずです。私は役人ではないので行政代執行に関わったことはありませんが、民事事件での強制執行に立ち会ったことはあります。家賃を払わないから家を退去させられたとか、お金を返せないから家を差し押さえられたとかいう、あれです。私は丸8年間、弁護士をやってきましたが、その間、土地や建物を明け渡せという強制執行の手続を取ったのは三回だけです。最初に、裁判所の執行官と一緒にその場所へ行って、住んでいる人に「早く出ていかないと締め出しますよ」という警告をする。それでもなお出て行かない場合は、所定の日がくれば明渡しを強行するのですが、私が経験したその三回はすべて、執行当日に建物はもぬけのカラになっている。事前の警告に行ったときには文句を言っていた住人も、立退きをしなければどういうことになるかは理解できるので、自ら立ち退いてくれるわけです。おかげで私は、実際に住んでいる人を無理やり締め出すような阿鼻叫喚の場には、幸いにも立ち会ったことはありません。そのことを思うと、今回の保育園側の人々の態度が、際立って異様なものに思えたのです。新聞の記事やテレビのワイドショーによりますと、この保育園では2週間後に「芋ほり」の行事を予定していて、その2週間を待てなかったのかといったことが話題にされていました。しかし2週間後の芋ほりなどは些細なことであって、本当に子供のことを思うなら、こうなるまでに畑の移転などの措置を取るべきであったのです。そのための充分な時間はあったはずなのです。
2008/10/17
「三浦元社長」の話を書いたら、突然あの人、自殺してしまいました。この人の肩書きについては少し前にも書いたとおり、「元社長」と書かれたり「容疑者」と書かれたりしていましたが、自殺したことでアメリカでも今後は訴追手続が行われなくなり、そのため「容疑者」はヤメにして「元社長」という呼び名に統一します、と新聞にはありました。と、呼び名の話はともかく…、容疑者が死亡したら、その人を刑務所に送ることができなくなるので、刑事上の手続は終了します。日本の法律では、刑事裁判中の被告人が死亡すると、公訴棄却といいまして、有罪とも無罪とも判断されないまま刑事裁判が打ち切られる(刑事訴訟法339条1項4号)。死んだ人はもはや裁く意味がないということなのでしょう。たしか、ロッキード事件での田中角栄元総理もそうだったかと。裁判になる前の容疑者(被疑者)の段階で死亡したら、どうせそのあと裁判に持ち込んでも公訴棄却で打ち切られるからということで、そこで捜査が終了することになります。アメリカの法律は知りませんが、三浦元社長の訴追手続終了というのは、そういうことだと思われます。たまに日本でも、「容疑者死亡のまま書類送検」という報道を聞きますが、あれは、警察は扱った事件を原則として検察に送らないといけないからでしょう。手続上そうしているだけであって、実際の捜査は終了する。そして書類送検を受けた検察としては、これを起訴しても上記のとおり公訴棄却されるだけなので、不起訴にした上で、然るべき内部処理をするのでしょう。ところで、この事件については、「日本で無罪になった事件なのにアメリカで逮捕されるとは、日本の警察や司法はナメられている」などという論調が一部には見られました。(たしか、警察と司法にずいぶんお世話になった鈴木宗男議員がそういう発言をしていたかと)私はその指摘は全く間違っていると考えています。詳しくは書きませんが、アメリカの裁判所が、「殺人罪については日本で無罪が出ているから逮捕状は無効」と明言していることからも、それは明らかです。アメリカの裁判所も、日本の最高裁の判断を国際的に尊重せざるをえなかったのであって、日本に規定のない共謀罪というものを根拠にしてようやく逮捕が有効とされたのです。加えて、容疑者を留置場の中で首吊り自殺することを許してしまったとは、ロス市警の大失態でしょう。たしかに日本でも、留置場内で容疑者が自殺することはたまにありますが、これほど国際的に注目されている事件で容疑者が自殺してしまうということはなかったと思えます。というわけで、法的には極めて興味深い論点を数々示したこの事件も、意外な終結を迎えることになったわけです。
2008/10/13
いつか書こうと思っているうちに時期を逸しましたが、麻生総理の就任に関する話です。この人はご存じの通り、吉田茂元首相の孫であり、名家のお坊ちゃんです。民主党とか、左翼的な政党の人は、「金持ちのお坊ちゃんに庶民の気持ちがわかるのか」「庶民のための政治ができるのか」と、麻生さんの総理就任を批判しています。この手の発言はよく聞かれますが、これらは全く無内容な批判であると思っています。この手の批判を行う人に対しては、全く同じ批判が返されて然るべきです。すなわち、「ならば庶民に金持ちの気持ちがわかるのか」と。世の金持ちの人は、庶民が知りえないような、責任や苦労や、諸々の重いものを抱えていると思います。そういう金持ちの気持ちがわからない庶民出身の政治家が、金持ちに重税を課し、金持ちがこの国から出ていったとしたら、高い税金を払う人がいなくなって、国の財政はますます悪化します。そしてそれは結局、庶民に跳ね返ってくるわけです。それにそもそも、「○○の立場になったことがない人は、その○○の問題を扱ってはいけない」という発言自体、論理的には全くおかしいと思われます。私たち法曹に対しても、たとえば、「会社に勤めた経験もない弁護士が、企業法務を扱うことができるのか」とか、「免許も持っていない裁判官が、交通事故の裁判を裁けるのか」といった言葉が向けられることがあります。しかしその論理が通るのなら、「人を殺したことのない裁判官は殺人事件を裁いてはいけない」「風邪をひいたことのない医者は病気の治療をしてはいけない」「子供を産んだことのない男性は産科医になってはいけない」ということになるでしょう。もちろん、企業勤めの経験のある弁護士のほうが、より実感を持って企業法務を理解できるかも知れない。病気一つしない医師よりは、多少は病気もする医師のほうが、患者の気持ちはよくわかるかも知れない。しかしそれはあくまで「気持ち」程度のことであって、その問題を解決するには、その事柄に対する専門的な知識や能力(つまり法律や医学)が必要なのです。政治の世界はよく知りませんが、たぶん高度に専門的な知識や能力や手腕が必要なものと思われます。麻生総理には庶民の気持ちをわかってもらう必要はないのであって、祖父から引き継いだ(かどうかは知りませんが)政治の手腕を発揮してほしいと思っています。
2008/10/11
ロス疑惑の最近の動き。報道によれば、三浦元社長がサイパンからロサンゼルスに移送されることになったとか。ロサンゼルスで妻を銃撃した殺人罪の容疑については、日本の最高裁で無罪が確定しておりまして、アメリカもそれを尊重して殺人については問わないとした。でもアメリカには、日本には存在しない「共謀罪」という犯罪があり、そちらはまだ裁かれていないので、事件の現場になったロサンゼルスの裁判所で、三浦元社長が妻を殺そうと共犯者と「共謀」したことが裁かれることになるらしい。(過去の記事)というのは新聞等に報道されているとおりで、付け加えて書くことは特にありません。書きたかったのは、この「三浦元社長」という呼称についてです。この人、なんか会社をやってたか? という感じで、「元社長」と言われてもピンと来ないのですが、テレビや新聞でもそう呼ばれています。これはつまり、「容疑者」と書いてよいかどうかが難しいところなので、こう表現したものと思われます。日本国内では、すでに無罪となっており、容疑者とか被告人とか呼ばれるべき立場にないわけですから。(新聞各紙を調べたわけではないですが、新聞によっては「三浦容疑者」と書いた上で「日本では無罪確定」とカッコ書きしているものもあります)以前、東海林さだおさんのエッセイで読んだ記憶があるのですが、ある人を「容疑者」と報道するのがためらわれるときにどう書くかという話で、「さん」付けだったら締まりがないし、何だかいい人みたいな印象になる、そこで、その人の職業を付して表すことになっているのだそうです。新聞社の規定でそう決まっているのかとか、そのへんは忘れましたが。ロス疑惑の三浦和義は、いま何をしているのかよくわからない人なので、とりあえず以前会社をやっていたようだから「元社長」というわけです。思い出す人も多いと思われますが、SMAPの稲垣吾郎が道交法違反か何かで逮捕された際は「稲垣メンバー」と表現されていました。SMAPのメンバーであることがあの人の職業なわけです。じゃあその人が無職だったらどうなるかというと、上記の東海林さんの話によると、「誰々無職」とそのまま書かれるのだそうです。ということで、今日は何の話かわからなくなりましたが、職業はその人を表すということで大切だ、と締めくくっておきます。
2008/10/10
韓国で女優が、インターネット上での虚偽の情報による中傷を苦にして自殺したとか。今朝の産経によりますと、韓国ではネット上での書き込みがもとで自殺するケースは少なくないらしく、韓国政府はネット上での中傷を処罰する「サイバー侮辱罪」の制定を検討しているらしい。ネットでの人格攻撃が、ここまで人に影響を与えるものかと、やや驚きました。近くの国で、人の噂が原因で女優が自殺したといえば、1930年ころの上海の女優、ロアン・リンユイ(阮玲玉)の話を思い出しますが、これは確か、詳細は忘れましたがタブロイド紙によるゴシップ記事を苦にした自殺だったかと思います。ネットを全く知らずに育った私としては、ネットはここ数年で突然普及した「出来星」みたいなもので、便利なモノとして利用はしますが、心のどこかでは「ヘッ『ネット』なんて」という意識がある。同世代の多くの方もそう感じているでしょう。ネットの伝える情報の価値は、テレビや新聞や、タブロイド紙よりももっと低いモノという意識がある。もちろん価値の高い情報はありますが、まさに玉石混交で、ネット上の情報の99%以上は「石」かそれ以下だと思っています。日本でも、いわゆる「学校裏サイト」など、子供間のネットいじめが問題となりつつありますが、あれは不幸にして物心ついたころからテレビとネットが同等の情報媒体として存在しており、「ヘッ『ネット』なんて」と思うことができない子供世代に特有の問題と思っていました。ということで、今回の韓国の事件は驚いたのです。かくいう私自身も、過去にネット上で取り上げられたことがありました。私が弁護士になりたてのころに、友人のデザイナーと飲みながら話しているうちに何となく若気の至りで個人サイトを作って( これ )、それが某掲示板サイトで話題にされたのです。そのことに気付いたときは、やはりびっくりしました。ただ書かれていることを読んでみると、「勘違いしている」とか「写真がイタい」とか「仕事もせずに自分のホームページをいじってばかりしている」とか、それ自体はそこそこ本当のことだし、別に実害もないので、やや有名人になった気持ちで傍観したら、そのうち話題にもされなくなりました。韓国でのネットとか、子供社会での学校裏サイトが、どのような内容のものであるのか、具体的には知りません。ただ私としては、来年無事に第一子が誕生したら、「ヘッ『ネット』なんて」という精神を伝えるとともに、ネット上で「勘違い」「イタい」と書かれても普通に生きてる人はいるということを教えてあげたいと思います。
2008/10/07
当ブログでも注目していた事件の判決。橋下府知事に名誉毀損で総額800万円の賠償を命じる判決が出たと。ご存じのとおり、山口県光市の母子殺害事件で、被告人の弁護団の弁護方針について、橋下さんが「納得いかない方は弁護士会に懲戒請求をしてほしい」といった、その発言についてです。正直なところ、ここまでの判決が出るとは思っていなかったのです。過去の当ブログでも書いたように、この事件の弁護方針について、事件と無関係の人が懲戒請求するのはおかしいと書きました。(過去の記事。4回連載です)私は幸い、懲戒請求されたことはありませんが、職務柄、懲戒請求の審理に立ち会ったことはあります。懲戒請求すると、弁護士会のそこそこエライさんが、懲戒請求した側の人、された側の弁護士の意見をじかに聞く、聴聞手続があります。そこに懲戒請求をした何千人の人たちが堂々と出て、「俺はあいつらの弁護のやり方は間違っていると思う」と主張すれば、結論は何か違ったかも知れません。弁護士会も裁判所も、事態の重さを受け止めざるをえなかったかも知れない。でも実際そこまでやった方は、聞く限りでは一人もいない。結局、あの何千通の懲戒請求というのは「テレビ見てて何かハラ立ったから出してみた」という程度のものに過ぎなかったわけです。一方、何千の懲戒請求を数人で受ける弁護士側としては、手続上、それに対する答弁書を出さないといけないので、その処理に忙殺される。(ウチみたいな零細事務所では、短期間のうちに何千通の書類を提出しないといけないとなると、それだけで事務所がパンクします)橋下さんも一応弁護士資格を持っている以上、こうなることは予想できたはずで、それなのにテレビを利用して、煽られやすい視聴者に懲戒請求をそそのかしたのは、まさに品がない行為であったと思っています。…ただしかし、それでも橋下さんのこうした行為が、弁護団に対する名誉毀損になるかと言うと、私は疑問に思っているところもありました。弁護団の人たちが、正しい弁護を行っていると自信があれば、堂々それを貫き通せばよい。それが、日本国憲法が弁護士に負わせた役割だからです。憲法に沿った弁護活動をしている弁護士の「名誉」が、橋下さんの品のない発言によって「毀損」されるものでもなかろう、と思っていたのです。判決を出した広島地裁は、そういった精神的な部分ではなくて、上記のように弁護団側に生じた煩雑な事務処理という「実害」を重視したのかも知れません。何をもって名誉が毀損されたとするか、そしてその賠償額をどう算定するか、いずれの点においても興味深い判決なので、いずれ判決全文が入手できたら続報を書きたいと思います。橋下さんは控訴すると言いましたが、私としてもぜひ最高裁の判決を聞きたいと思います。
2008/10/04
前回の八百長の話の続きを書こうとしたのですが、まずはこんな話から。たまに人から「弁護士同士で談合することってあるんでしょ?」と聞かれます。たとえば、原告が被告に対して、1000万円払えと請求する裁判をしているとする。原告側弁護士と被告側弁護士が話し合い、間を取って、500万円払うことで話を付ける。原告側弁護士は、「500万取れたから報酬1割よこせ」と言い、被告側弁護士は「500万ねぎったから1割よこせ」と言う。双方の弁護士とも、50万ずつ儲かるというわけです。私でも、五分五分のきわどい勝負で、判決が出ればどちらに転ぶかわからないときであれば、半分くらいの和解を依頼者に勧めることもあるでしょう。そして、相手側の弁護士がよく知っている人であれば、「率直なところ、話し合いでカタをつけませんか」と持ちかけることもなくはないと思う。これを談合というなら、そういうこともできるでしょう。ただそれは、事案の性質と、今後の裁判にかかる労力を考えて、そうするのが依頼者のためになると思うからするのであって、依頼者の意向を無視してこのような話を進めることはありません。八百長の話に戻ると、以前、プロの将棋指しの世界について、こんな話を本で読みました。プロ棋士というのは、段位や収入が1年間の公式戦の勝敗によって左右される厳しい世界です。そこでたとえばAという棋士が、その年の所定の勝ち星を稼ぐことができたとする。次の対戦相手のBという棋士は、負けがこんでいて、次の対戦で負けると段位が下がってしまう。そういう場合、今年はもう勝たなくてもよいAとしては、ついBに対し手加減してしまうこともありうるだろう、それを八百長というかどうかはともかく、そういう話でした。昔、棋士の米長邦雄さんが、「私はどんな勝負でも手加減しない。特に、相手にとって進退がかかっているような試合は全力で臨んで必ず勝つ」と(正確には忘れましたが)公言しているのを読んだことがあります。そこだけ聞けば「イヤなヤツ」なのですが、考えてみると、プロの棋士でもそこまで強い心を持っておかないと、つい相手に手心を加えてしまうことがあるということなのでしょう。だから、相撲の世界で仮に八百長があるとしても、ドラマや漫画みたいなあからさまなものではなく、こういう微妙な話なのではないかと思っています。昨日書いた若ノ鵬は「お金をもらった」と言っているみたいですが、まあ、力士にはいわゆるタニマチがいて、いろんなところからいろんな金品をもらっているでしょうから。とは言いつつも、週刊現代の裁判で、八百長が「真実」と証明されるのかどうか、この点は注目しております。
2008/10/01
外国人力士の若ノ鵬が相撲協会を解雇されたことについて先日書きましたが、その若ノ鵬が相撲での「八百長」を裁判で証言すると、記者会見で述べたとか。週刊現代の「八百長」記事については読んでいませんが、朝青龍らの相撲において、カネで白星を買う(相手にカネを渡して負けてもらう)ということが行われているとの内容らしい。これに対して日本相撲協会と朝青龍ら上位力士が、週刊現代を出版する講談社に対し、名誉毀損を理由にして損害賠償を払えと訴えている民事裁判が東京地裁で行われています。若ノ鵬は、講談社側の証人として法廷に出ることを意思表明したわけです。記者会見の様子はテレビや新聞各紙で報道されていました。私はそれを見て、「節操のない外人だ」「大麻やってた人間に相撲協会の改善とか外国人力士の名誉とか言われたくない」と正直なところ感じたのですが、いちおう弁護士としてこの事態を客観的に解説したいと思います。若ノ鵬は、相撲協会から被告として訴えられている講談社側の証人となると言いました。名誉毀損で訴えられたときの被告の反論方法として(以前にも書いたと思いますが)、その事柄が「公共の利害に関することで、報道が公益目的であり、真実であること」の証明がされたときは、その責任を免れます。日本相撲協会は公益目的の財団法人であり、相撲は日本の国技でもあるので、その内部問題に関する報道である以上、「公共の利害」「公益目的」の点はOKだと言える。あとは、八百長が「真実」であると証明できるかどうかが問題の中心となる。もっとも、「真実」であると立証するのは極めて困難である(真実は神のみぞ知る)ので、「『証拠』に照らせばある程度は真実と見られてもやむをえない」程度のことが証明できればよいとされています。若ノ鵬は、その「証拠」(証人)として出廷しようというわけですが、裁判はあくまで「相撲協会プラス上位力士 VS 講談社」の間のものであって、若ノ鵬は部外者です。証人となるには、裁判長の許可が要る。おそらく講談社側の弁護士は、次回の口頭弁論の際にその許可を申請するのでしょう。ただ、幕内とはいえ下っ端の若ノ鵬が、「ワタシ、お金もらいました」と証言したとして、この裁判での争点(上位力士が八百長していたか否か)にどこまで関係があるかは疑問です。ということで、若ノ鵬の証人尋問が実際に行われるのかどうかは、まだまだ微妙なところだと思います。
2008/09/30
前回に引き続き、週末にまとめ読みする人の便宜のため(ホントは手抜き)、雑談を続けます。ここでも書いたことがありますが、弁護士として、市役所や弁護士会での法律相談を受け持つことがあります。1人30分程度、半日で8人くらいの相談に応じます。その法律相談の場面でよく聞く話に、こういうものがあります。相談者が、トラブルの相手方に対し損害賠償請求をしたいと考えている。それに対して私が「感情的には分かるとしても、法的に損害賠償請求までするのは無理なケースだ」と答える。すると相談者は、「私の知り合いに相談したら、請求は認められるって言われたんですけど」と言う。そういうときには私は、「法律のプロである私と、その『知り合い』とどちらを信じますか。もしその『知り合い』の方が、最後まで責任持ってあなたの主張を実現させてくれるというのであれば、どうぞその方に依頼してください」と言います(言い方はもう少し穏やかにしますが)。無責任なギャラリーの方は決して、責任を持って事件を請け負ってくれるわけではないので、そういった甘い言葉に惑わされないようにしてほしいと思います。他に、特に最近よく聞く話は、「相手方が最近、弁護士をつけたみたいなんです。だからこちらも早く弁護士をつけないと、うまく言いくるめられてしまわないか心配で」というものです。こういう話を聞くと、一般の人々にとって弁護士っていうのは「人を言いくるめる」職能と思われているのかと、少しガッカリした思いになります。一般の人々にそういう思いをさせる一つの原因として、最近見られる「弁護士バトル」を売りにしたテレビ番組の存在が挙げられるのでしょう。しかし私たち弁護士の仕事は、口でまくしたてて他人を言いくるめるようなものでは決してない。証拠と論理に基づいて依頼者の法的権利を実現させる仕事なのです。ともかく、そんな具合で法律相談が進んでいきます。上記の他にもいろんな不安や不満を抱えた方が、相談室のブースに入れかわり立ちかわりします。その際の私の目標は、「不安そうに来訪した相談客が、30分後には笑顔になってくれる」ということです。その日8人の相談が来るとしたら、8人全員が笑顔で帰ってくれることを目指しています。以前は正直なところ、うまくいかないこともありましたが、私も間もなく弁護士やって丸8年になりまして、最近は少しずつうまくいくようになった気がします。ということで、法律相談の際は「打率10割」(全員を笑顔に)を目指して、相談室のブースに座っています。(今日はちょっと「いい人テイスト」のお話でした)
2008/09/27
今週はなかなか、ブログを更新する時間がありません。更新を期待してくださっている方には申し訳ないですが、一方で、「毎週末に更新分をまとめて見るのを楽しみにしています」と言ってくださる読者の方も何人かおられて、それを考えると、あまりたくさん更新すると「まとめ読み」が大変なのかな、とも思います。というわけで(ホントは私の手抜き)、今回は軽く事務所風景を書いてみます。最近は、遠方の裁判所の仕事が増えてきました。相談者からたまに、「東京の事件ですけどお願いできますか」と聞かれたりします。弁護士は、いずれかの都道府県の弁護士会に所属していますが、たとえば大阪弁護士会に属しているから大阪地裁の裁判しか扱えない、ということはありません。依頼さえあれば、全国どこでも行きます。もちろん、交通費や日当は請求することになりますし、時間的制約から「明日、札幌地裁の裁判に出てくれ」と突然依頼されてもお断りすることになるとは思いますが。インターネットが普及して、いまや情報は瞬時に世界をかけめぐりますが、裁判の世界は未だアナログ的です。近年は電話会議やテレビ会議システムも導入されてきてはいますが、多くの事件において、弁護士が法廷に行かないと話が始まらない、というのが通常です。さて先日、ある事件で東京地裁に行ったときのことです。その日の法廷が終わって、裁判長と双方の弁護士とで、次回の裁判期日を決めることになりました。私は大阪から東京に行くので、1日まるまる空いている日でないとお受けできないため、なかなか双方の都合のあう日が決まりません。相手方の弁護士は東京の方で、こちらを気遣って「次回の弁論は電話会議でやりましょうか」と裁判長に提案してくれました。その事件の裁判長は、割りとクールに審理を進めていく印象の方だったのですが、そこで初めて苦笑しながら「いやまあ、当事者で膝を突き合わせてみないと分からないこともあるでしょうからね」と言い、当面は電話でなく法廷で審理を進めることになりました。裁判所がいつまでもアナログなのは、人と人の間の紛争という、どんなに時代が進展してもなお人間くさくてアナログなものを扱っているからなのだと思います。ということで、明日(25日)も朝から関東のとある裁判所に行きますので、明日も当ブログの更新はない見込みです。
2008/09/24
高校での行事(サッカーの試合)中に男性が落雷で大けがをして重度の障害を受けた事件で、高松高裁は高校などに3億円の賠償を命じた(17日)。まず何より、落雷で両目や両手足に重度の障害を負った男性(当時は高校生、いま28歳)には気の毒としか言いようのない事件ですが、この判決について考察します。高校側に落雷が予見できたか、その上で避難措置を取るべきだったか、という点が事件の争点だったようですが、1審・2審は、「落雷は予見不可能だった」として原告の請求を退けていたのを、最高裁は「落雷は予見できた」としてこれを破棄し、高裁に審理やり直しを命じた。そして今回、学校側の過失責任が認められたわけです。素人的には、「どこかで雷が鳴っていれば誰だって『落ちるかも』と思って怖がるから、当然予見できたはずだ」と思うかも知れませんが、法的責任を認めるためには、抽象的に「落ちるかも」という程度では足りず、具体的にそのことを予見できたと言える必要がある。かと言って、「魁!男塾」の三面拳月光みたいに「何秒後に雷が落ちる」とまで具体的に予見できる必要はない。法的な意味での予見可能性とはその中間にあって、「その場に落雷する可能性が相当程度に現実的なものである」、といった状況をいうのでしょう。しかし、行事の現場で、学校教師にその判断をさせるのは酷であるとも思われます。落雷を予見できたか否かについて、上記のとおりプロの裁判官でも判断が分かれたくらいですから。だからこの判決が出るに際しては、「学校には酷だけど、現に重度の障害を負ってしまった男性に何とか救済を得させよう」という判断が働いたのは間違いないと思います。特に、被告が公立の学校とか病院であった場合には、そのような配慮が働きやすいと言われています。多額の賠償を命ぜられても、お金は国や県や市が払うわけですから。(もちろんそのお金は、もとはと言えば私たちの税金です。しかし、私たちもいつ同様の災難に遭うかも知れないのですから、その災難を私たち全員で広く薄くカバーしてあげようと考えるわけです)しかし今回の被告(土佐高校)は、どうも「私立」みたいです。サッカー大会主催者である高槻市体育協会も被告として連帯責任を負っているようですが、「市」そのものでなく「市の協会」にどこまで財政的余裕があるかはよくわかりません。被害者の救済という意味では意義のある判決であることは間違いないのですが、行事などの場の管理者に対しては厳しい判断を下したわけです。そしてこれが、現在の最高裁の志向する「弱者救済」のスタンスなのだと思われます。
2008/09/19
この数日、経済面はリーマン・ブラザーズの破綻話で持ちきりですが、経済・金融の話はよくわかりませんので相撲の話です。力士の大麻問題も最近、目まぐるしく動いているため混乱気味でして、誰に陽性反応が出て誰が逮捕されたのかとか、たまにテレビに出てくるヅラっぽい弁護士はどの力士の弁護士だったかとか、ややこしくなってきました。ここでは、若ノ鵬が日本相撲協会を解雇されたことに対し、協会を提訴した話について触れます。これは、若ノ鵬が原告となって、日本相撲協会を被告として、「解雇は無効であって協会に所属していることを認めよ、したがって給料も協会から支払え」ということを求めた民事訴訟です。これが普通の会社相手であれば、その解雇処分は会社の就業規則に照らして認められるかどうか否かが検討されることになります。日本相撲協会に就業規則に該当するものがあるのかないのか、調べたことはありません。もっとも日本相撲協会は「財団法人」であり、これは公益を目的として国から認可を受けた存在であることを意味するので、きちんとした内部の決まりはあるはずです。(会社の「定款」に相当するもので、財団法人の場合は「寄付行為」といいます。民法総則を勉強している方なら聞いたことがあるでしょう)とはいえ、大相撲の世界に、どういう場合に力士をクビにできるかといったチマチマした規則がこと細かに定められているとは思えないので、ある程度は「条理」や「常識」で判断されることになるでしょう。さて、若ノ鵬については、検察は「不起訴」とました。おそらく、物的な証拠が残っていないことに加え、若ノ鵬が若いために刑事裁判の被告人にするのは猶予してやるという配慮も働いたものと思います。で、弁護側としては、「不起訴で終わったのに解雇するのは厳しすぎる」という主張をするのでしょうが、この主張はある程度理解できます。たとえば公務員の場合は、起訴されて懲役刑や罰金刑を食らうと失職するという規定があることが多いですが、不起訴でも失職するという厳しい規定はおそらくない。私自身、不祥事を起こした公務員や会社員の刑事弁護をし、不起訴で収まったので復職できたという案件をいくつか担当しました。もっとも、大相撲の力士は公務員や会社員の世界とは違う特殊性があるのも否定できない。相撲はもともと神様が照覧するための競技であり、いわば神聖な世界であるにもかかわらず、大麻を使用しているような者が存在してよいのか。そういった視点も無視できないように思います。まとまりが付きませんが、裁判所(東京地裁)の判決に注目したいと思います。
2008/09/17
冒頭から唐突ですが、「吉本新喜劇」の「茂造(しげぞう)じいさん」の話です。辻本茂雄が老人の扮装で出てくるアレですが(と言っても関西の人しかわからないか)、茂造じいさんが誰かから「クソジジイ!」と罵られたとき、茂造じいさんが、「何ぃ!『クソ』の上に『ジジイ』まで付けよったなぁ!」とピントの外れた怒り方をし、共演者から「逆や。『ジジイ』に『クソ』を付けたんや」と突っ込まれる定番のシーンがあります。説明不要とは思いますが…、本来は「『ジジイ』だけならまだしも、『クソ』まで付けるとは」と怒るべきなのに、「『クソ』だけならまだしも」と、本来と反対の怒り方をしているというギャグです。かように、「クソ」という言葉は本来、侮辱的発言の上にさらに侮辱を重ねるときに使用される言葉であり、かなり程度の強い罵り言葉といえます。したがって、コントならともかく、実社会でこんな言葉を使うのは相当に品がないということになると思います。何の話か想像がついた方も多いと思われますが、橋下府知事がラジオ番組の中で、学力テストの結果開示に反対する教育委員会のことを「クソ教育委員会」と発言したことについてです。ちょっとした物議になりつつも、一方ではこの発言に理解を示す向きもあるようです。そこは各人の捉え方なので、それはそれで良いと思っています。それでも中には、「あれはまさに弁護士流の駆け引きであって、最初に強い言葉で押しておいて、だんだん妥協点を探る方法なのだろう」という理解をする方もいるみたいでして(たとえば「おはよう朝日です」で板東英二がそういう趣旨のことを言った。これまた関西ローカルですが)、この点は私は弁護士として「異議あり」と言いたいところです。弁護士の論争や駆け引きの方法にも色々あると思いますが、少なくとも私は「論理」を売りにしているつもりであり、「強い言葉で押し立てる」などというのは「下の下」のやり方だと思っています。そこは弁護士それぞれの考え方の違いだとしても、少なくともいかなる弁護士であっても訴訟の相手方に対して「クソ」とは決して言わないはずです。いかにガラの悪い弁護士でも、法廷での口頭弁論や、自ら作成する文書の上で、相手に対し「クソ」などという表現をしているのを見たことはありませんし、もしそんなことをすれば「弁護士としての品位を汚す」ということで懲戒モノでしょう。「クソ教育委員会」発言を聞いたときは、橋本府知事の品のなさが露呈しただけのことであって取るに足りない話だと思っていたのですが、あれを「弁護士流の論争方法だ」というふうに理解されると少なくとも私は心外なので、ちょっと書いてみました。
2008/09/11
昨日の朝刊各紙から。JR宝塚線の脱線事故に関して、JR西日本の社長ら幹部何人かが「書類送検」されたとの記事。これは何を意味し、今後この事件はどうなるのか。 「書類送検」とは、文字のとおり、警察が作った書類が検察庁に送られることを意味します。このとき、容疑者(被疑者)が逮捕されていれば、容疑者の体(身柄)と一緒に検察庁に送る。これを「身柄送検」と言ったりする。ですから書類送検というのは、容疑者が逮捕されていないことを意味します。 いずれにせよ警察は、受け持った事件は、原則としてすべて検察庁に送らないといけない。その上で、起訴して刑事裁判に持ち込むかどうかは検事が決めることになる。検事に事件が送られることなく、「警察でお叱りを受けて終わり」ということもありますが、これは子供の万引きなんかの微罪に限られるでしょう(もちろん万引きも立派な犯罪ですが)。 ですから、送検されるというのは、まだその人の処分が決まったことを意味しない。弁護士として刑事事件に関わることもある者の感覚としては、「まだまだ入り口」の段階といえます。 報道によると、警察側は検察官に対し「処分相当」(起訴すべきだ)という意見を書いたとか。もっとも、警察はたいてい、訴追側の最も先鋒的な立場にある者として、厳しいめの意見を書くことが多いです(そもそも「処分は相当でない」と警察が考えるのなら、送検しないでしょう)。送検を受けた検事が、「警察はああいうけど、この程度の証拠で有罪判決に持ち込むのは無理だ」と判断すれば、起訴されずに終わることも珍しくない。 では本件についてはどうか。書類送検されたJR西日本の社長は、事故当時の鉄道本部長として、事故現場の線路を管理する立場にあったらしい。 とはいえ、運転手が居眠りして減速せずカーブに突っ込んだことの責任まで負わせることができるかどうかは、かなり微妙な問題ではあると思います。 さらに、事故当時の社長の書類送検は見送られたらしい。事故を起こしてトップが断罪されないのは納得がいかない、という感情もありましょうが、当時の社長の立件はなおのこと難しいでしょう。似たような話を度々書いていますが、この脱線事故に対して、JR西日本が組織(会社)として死傷者に対する賠償責任を果たすべきなのは当然のことです。これは民事責任です(民法715条、使用者責任)。しかし、組織のトップが「個人として」刑事責任を負わされるべきか否かというのは全く別問題であって、従業員が居眠りで事故を起こすと社長まで懲役刑をくらうというのなら、人を雇って仕事をするなんて怖くてできなくなる。ということで、当時の社長が書類送検されなかったのは妥当だと思います。書類送検された人については、検察による冷静で厳密な判断により、起訴すべきか否かが決められることになるでしょう。
2008/09/10
少し前ですが、作家の深田祐介さんが産経新聞の「正論」に寄せておられた手記が目にとまりました。北京オリンピック開会式で日本選手団の旗手を務めた福原愛さんのことに触れ、旗手が福原愛さんでなければ大混乱や暴動が起こったかも知れない、福原さんはその美貌によって国際的緊張を溶かしたのだ、と書いておられた。戦前(昭和12年)すでに吉川英治氏(小説「宮本武蔵」の著者)が、「国際面において国家は美貌を容姿として持たねばならない。日本は殺伐な顔つきを連想されやすく、外交上も損をしている」というエッセイを書いておられたのも引用しておられました。(元の記事は産経のウェブ「IZA」から閲覧可能です。これ )何かをなそうとする際には容姿も重要な要素である、と私自身も考えています。私は弁護士の中ではそこそこ男前の部類に入ると思うのですが、8年もこの仕事をやっていると、「これは自分の容姿のおかげでうまく解決したな」と思ったことが何度かあります。そういう話はいずれ、事件が風化したころに書くとして、今回は「裁判員制度」の話です。来年の施行に向けて、最高裁が陣頭指揮していますが、裁判員になりたくないという世論はまだまだ強いようだし、実務界(一部の弁護士会、判事など)からも制度の廃止または施行延期を求める声が上がっている。そんな中、先月末あたりから各地の裁判所で、上戸彩の広報用チラシが配布されているのに気付きました。私も何度かこのブログで触れましたが、これまで確か一般配布はされていませんでした。昨年、仲間由紀江がイメージキャラクターとして採用されていたとき、私は「あのポスターは配布されているのか」と大阪地裁に問合せをしたことがありますが、「一般配布はしていない」との回答でした。(そこで「私は大阪弁護士会の弁護士である、広報に協力したいから一部ほしい」と言えば違ったかも知れませんが、その程度のことでこちらの名前を出すのが恥ずかしかったのでそれ以上は言わなかった)ところが最近になって、上戸彩のチラシは近畿一円の裁判所で「ご自由にお取りください」と書かれたラックに置かれている。私も裁判員制度はどちらかと言えば反対ですが、上戸彩に「裁判員制度に協力してね」と言われたら、手のひら返して賛成派に転ずると思います。最高裁は、北京オリンピックにおける「福原愛」効果よろしく、裁判員制度における「上戸彩」効果を狙ってきたのだな、と思った次第です。ということで、いま私の事務所には上戸彩のチラシが掲示されています。ちなみに、大阪地裁のラックに置かれていた上戸彩のチラシは、1週間ほどで全部なくなっていました。
2008/09/07
福田総理の辞任表明に関して、雑談を書きます。昭和53年、当時の福田赳夫総理が自民党の総裁選挙で大平正芳に敗れたとき、福田赳夫は「天の声にも変な声があるなあ」と言った。この発言に対しては、「強烈な自信の表れを飄々と言ってのけた名言」と肯定的に評価する向きもあれば、「苦し紛れのバカらしい妄言」と否定的な向きもあるみたいです。私はというと、総理の去り際の一言としては好きなほうです。稚拙な「韻」を踏んでいるところに、敗戦の悔しさをこの人らしくユーモアで言い表そうとしたが、悔しいあまりこの程度のことしか思い浮かばなかったのだろうなと想像できて、少し微笑ましい。その福田赳夫の長男である現総理の福田康夫は一昨日、辞任表明。記者会見でのやり取りが、テレビや新聞で取り上げられていました。記者が「会見を聞いていると、何だかひとごとのように聞こえる」と言ったのに対し、「私は自分を客観的に見ることができる。あなたとは違うんです」と言った。この発言に対しては、まさに「政権を放棄しておいて何を逆ギレしてるんだ」という否定的な評価が多いかと思いますが、私は、この発言も肯定的に捉えています(別に福田一族の肩を持つわけではない)。何より問題なのは、記者の質問のレベルが低すぎることです。こういう場で政治記者なら、もっと具体的に突っ込んだ質問をしないといけない。たとえば、「『安心実現内閣』と言っておきながら内閣改造後すぐの辞任であり、この間いったい何が実現されたと考えているのか」とか、「野党が審議に応じなかったと批判するが、それならどうして解散総選挙で国民の信を問うことをしなかったのか」とか、「左目がどうしてずっと腫れているのか」とか、具体的なツッコミどころはあったはずです。前回書いた月亭可朝への取材とも相通ずるの話かも知れないのですが、記者はどうしても福田総理に「私の不徳のいたすところでした、申し訳ありません」とでも謝罪させたかったのでしょうか。福田総理は、政治家としての会見のあり方をそうは考えていなかった。記者はどんな問題が起こった時でも、その個人に主観的な謝罪の意図を表明させたがるが、総理の進退は「ゴメン」と言ってすむような単純な問題ではない。あなたがた記者とは考えている次元が違うんだ、そういった趣旨での「あなたとは違う」発言だったのだろうと想像しています。では、客観的問題として、福田総理は日本の総理として何をしてくれたかというと、特に大したことはしなかったかも知れません。ということで、去り際の言葉としてはどちらもそれなりに味がありますが、父・福田赳夫の「天の声にも変な声」のほうが、まだちょっと面白いだけ勝ち、ということにしておきます(何の話だか)。
2008/09/03
昨日は、大阪地裁で痴漢事件に無罪判決が出たとか、福田総理が辞意を表明したとか、注目のニュースは多々ありますが、ひとまず前回の続きで、月亭可朝氏のストーカー事件の話です。報道によると、可朝氏は先月末ころ、大阪簡裁で略式裁判(公開法廷でなく書類審査で判決が出る)を受け、罰金30万円を納付して釈放されたとか。その釈放後の可朝氏を、マスコミが取り囲んで取材した内容が、何度かテレビで流されました。記者が可朝氏に「被害女性に申し訳ないという気持ちはないのですか」と突っ込んで、可朝氏が一瞬しどろもどろになったかと思えば、最後には例の「嘆きのボイン」の節で、「ストーカーで警察に御用やでぇ~」と歌っていました(節もはずし気味でしかもウケてませんでしたが)。この可朝氏の姿に対して、ワイドショーなんかでコメンテーターが「不謹慎だ」「反省しているのか」などと批判的な発言をしているのを2、3回見ました。(それを言うなら、あの場で可朝氏に「嘆きのボイン」を歌わせた取材記者と、その映像を繰り返し放映するテレビ局も「不謹慎」ということになりそうですが、それはさておきます)しかし、です。私は別に可朝氏を擁護するつもりはないし、やったことは犯罪行為であるのは間違いないのですが、可朝氏は裁判を終えて、罰金を納付して出てきたのです。司法の場において可朝氏の行為はすでに断罪されて、それに対する処罰は終了し、刑事責任は消滅しているのです。たしかに、刑罰が終了したとはいえ、「嘆きのボイン」の一節で事件を茶化してみせることは、品のよいこととは思えない。道義的には責められるべきかも知れません。とはいえ、被害女性本人でも、また本人から依頼を受けた弁護士でもない、被害女性と全く関係のない取材記者やテレビのコメンテーターが、神妙に反省せよとか、被害女性の気持ちをどう思うかなど、問い詰めるような立場にはないはずなのです。しかも彼らは、酒場で酒の肴に「可朝はアホやなあ」と言っているわけではなくて、メディアという巨大な影響力を有する場においてそれをしているのです。こんなことがまかりとおるなら、司法の場での禊ぎが終わった人に対して、取材記者が「国民はまだ納得していない」などと言ってカメラとマイクを向け、その前で謝罪することを当然のように求めることになる。これはすなわちマスコミによる私刑(リンチ)を意味します。事件を起こしたのが月亭可朝氏という、特に大阪の人間には名前を聞くだけで笑ってしまうような存在の人であったために、何だかキワモノ的な扱いの事件になってしまったようです。でも私はこの取材風景と、それに対するテレビ局のコメンテーターの反応に、ちょっと恐ろしいものを感じたのです。
2008/09/02
落語家の、というより「ボインの歌」(正式な題はたしか「嘆きのボイン」)の人、という肩書しか思い浮かばない月亭可朝氏が、愛人に対するストーカー行為をして、ストーカー規制法違反で逮捕されました。この法律によりますと、ストーカー行為の定義は、「特定の者に対する恋愛感情を充足する目的で、つきまとい行為などをすること」とされています。この法律は、条文の文言の中に「恋」という字を含むものとして、やや珍しいものであるという話は、以前ここでも触れました。 過去の記事)さて何をもって「恋愛」感情かといいますと、これは酒場なんかでも酒の肴に「恋愛と友情の境界線はどこか」と議論されたりしながらも、決して結論に達することのない、深遠な問題であるといえます。(法律を作った法務省側はたぶん「恋愛感情」を定義しているはずですけど、きちんと調べていません)だから例えば、宇都宮地裁の判事が裁判所職員の女性に対するストーカー行為で逮捕されたときは、当初あの判事は、「メールは送ったが、恋愛目的ではない」と言ってストーカーに該当することを否認した。たしかに、「あの子が好きで会いたいから」という目的ではなくて、例えば「貸した金を返してくれないから会って返済を申し入れたい」ということであれば、ストーカーではない。ストーカーが成立するための要件として、「恋愛感情を満たす目的」であったという、結局は「本人にしかわからない内心」が必要となるので、その点を否認されるとストーカーとしての立件が難しくなることも考えられます。ならばあの判事は何のために会おうとしたというのか。「恋愛目的」ではなくて「司法制度について語り合いたかった」とでもいうのか。それなら職員の女性でなく最高裁長官にでもメールすればよいのであって、客観的状況からしてあの判事の下心は恋愛目的だったのでしょう。たしかこの判事は、最終的には「恋愛目的だった」と認めて、有罪判決が出ました。さて、冒頭の月亭可朝氏ですが、愛人に対して卑猥な内容の手紙を送って復縁を迫ったということで、恋愛目的であったことは当初から認めていたようです。こっちの事件について書こうとしていて、前提としてストーカー規制法の話をしているうちに、宇都宮の判事の話になってしまいましたが、月亭可朝氏の事件については次回もう少し書くかも知れません。
2008/09/01
少し前に書いた福島の妊婦失血死事件について、その後の動き。今朝の新聞記事等によりますと、福岡地裁で医師に無罪判決が出たことに対し、検察側は控訴することを断念したとか。このまま判決から2週間を経過すると無罪が確定します。では、今後この事件はどうなるのか。無罪が確定するのは刑事事件のほうですが、民事事件が残ることが考えられる。この件ではどうなっているかは存じませんが、遺族が医師の過失を民事事件で追及することがある。民事事件は刑事事件とは異なる裁判官が担当するし、刑事事件の結論に拘束されないので、民事では医師の責任が認められて賠償責任が発生することは、可能性としてはある。また、死亡させた責任までは問えないとしても、死に至る経過について説明を尽くしてくれなかったという「説明義務違反」を理由にして、賠償責任が認められることもある。(この事件の実情を私はほとんど知らないので、あくまで一般論として捉えてください)一方、これを刑事事件として立件した警察や検察、ひいては国の責任はどうなるのか。この医師は逮捕され、ほどなく保釈されたようではありますが、何日間かは留置場に入れられている。その後無罪判決が確定した場合は、刑事補償法に基づき、1日あたり12,500円以下の補償金を受けることができる(4条)。それから、新聞で報道されているところなどによると、ある検察首脳はこの事件について、「何であんなものを起訴したんだ」と言ったとか。不当逮捕、不当起訴ということで、捜査を担当した警察官や検察官の責任を追及することはできるか。この点は国家賠償法によりますと、公務員の過失は、国または県が賠償することになっている。だから、日本国または福島県に対し、賠償責任を追及することが考えられる。では、この事件を担当した警察官・検察官に過失は認められるか。じっくり刑事裁判をやった結果として無罪が判明したとしても、事件当時は非常に嫌疑濃厚な容疑者も存在する。結果論として無罪になると直ちに過失ありとすれば、警察や検察は萎縮してしまって果敢な捜査ができなくなります。本件は、いま思えばかなり「無理」な立件であり、逮捕までしてしまったことも行き過ぎだったかも知れません。しかし当時の遺族感情を踏まえて、警察・検察がこれを刑事事件として立件したこと自体までが過失であって違法だといえるかというと、かなり微妙だと思います。具体的な事実経過を知らないので、とりあえずこの程度にしておきます。ついでに私ごとですがウチの妻(妊婦)の経過はおかげさまで今のところ順調です。
2008/08/30
前回の続き。費用が高くて手間もかかる「内容証明郵便」、これを利用すべきなのはどういう場合か。結論から言いますと、それは、「ある法律上の請求をするにあたって、それが認められるために必要な要件として、ある意思表示を一定の時期にしたことが要求されている場合」です。平たくいうと「ある意思表示をしたことについて、後から相手に『知らん』と言われると困る場合」です。具体的に示したほうが分かりやすいと思いますが、一番典型的なのは、「時効」を中断するときです。たとえば知人にお金を貸して、返済期日になっても返してもらえないままになっている。そのままだといずれ時効で権利が消滅してしまうので、時効期間(10年とか5年とか、権利の内容により異なる)が過ぎる前に「はよカネ返せ」と催告しておく必要がある。催告しておくとそこから6か月間は時効にならない(民法153条。ただきちんと時効を中断するためには訴訟を提起して訴状を相手に送る必要があります。同147条)。つまり、時効が来る前に催告したことを証拠に残しておかないと、あとから相手に「催告なんか受けていない」と言われると、時効が認められて借金を取り立てられなくなるわけです。だから、内容証明でもって、「カネ返せ」と言ったことを残す必要がある。この場合、配達証明や配達記録だけだと、「ある郵便物が届いた」ということしか証拠に残らないので、後で相手に「何か郵便が来たみたいだけど催告じゃありませんでした」とトボケられると困ることになるわけです。他に身近なものとしては、訪問販売で要らないものを買わされたので、特定商取引法に基づいてクーリング・オフで取り消したい、という場合があげられる。所定期間に取消の意思表示をする必要があるので、それをしたことを証拠に残す必要があります。(民法を勉強している方は、他に内容証明が必要なのはどういう場合か考えてみてください。ヒント、民法412条3項、467条2項、541条、591条など)このように、ある時期にある意思表示をしないと権利が消滅してしまうことというのは、かなり限定的であって、日常そうそうあるわけではない。ウチの事務所では、上記のように本当に必要なときにしか内容証明は使いません。相手にきちんと届いたかどうか不安だ、というだけなら、わざわざ内容証明ではなくて配達証明だけで充分なので、ウチではよくこちらを使います。何でもかんでも内容証明、というのは手間と費用の無駄です。配達記録という制度はなくなりますが、配達証明という方法がもっと利用されてもいいように思います。
2008/08/27
ネット上の記事で見たのですが、「配達記録郵便」が廃止されるらしい。配達記録郵便とは、郵便が届けられたときに受取人から受領印を取ることで、その郵便が届けられたという記録が郵便局に残るものです。郵便物を送ったことが後々の証拠として残る「ナントカ郵便」にはいろいろあって紛らわしいですが、それらを区別して適切な方法を選択すべきです。今回はそういう話。多くの方が聞いたことがあると思われる「内容証明郵便」とは、「こういう内容の手紙を送った」というのが証拠として郵便局に残るものです。だから郵便局でそれを出すときにはコピーを持参して保管してもらうことになる。1行何文字、1ページ何行までという字数制限があるなど、割と面倒です。料金は内容にもよりますが、だいたい1000円くらい。また、「配達証明郵便」というのもあって、これは郵便物が相手に配達されたことと、その日付が、郵便局からハガキで知らされる。ただ郵便物の「中身」(手紙に何を書いたか)まで証拠に残るわけではない。料金はだいたい800円くらい。この2つをミックスして、「内容証明」と「配達証明」の両方がついた郵便というのも可能で、そうすると、「こういう内容の手紙を何日に発送して」「それが何日に相手に届いた」ということが証拠に残る。料金は2つを足して2000円前後です。冒頭の「配達記録郵便」は、受取人から受領印を取るが、それが差出人に知らされるわけではない。ただ、あとあと何らかの問題が生じた際には、郵便局で調べればその郵便が付いていたかどうかがわかる。料金は安くて200円くらい。これが廃止されるらしいですが、うちではあまり使わないので、特に影響はありません。さて、「内容証明郵便」というのは、上記の通り所定の文字数や書式があり、手続きが面倒なだけあって、普通の手紙に比べると少し厳めしい感じがします。だから、例えば知人が借金を返さないなどといったトラブルの際に利用されることが多い。実際、内容証明を送りつけると、相手が驚いてお金を返してくれるようなこともある。しかし、内容証明郵便は法的に見れば単なる「手紙」です。郵便局がハンコを押してくれて、「こういう内容の手紙を送った」ということが証拠に残るだけであって、その内容が正しいと認められたわけではないし、その主張に法的な強制力が発生するわけでもない。何でもかんでも内容証明を送る、という人がいますが、実際には内容証明にする意味のない場合も多い。不必要なのに内容証明を出すと、手間と費用が無駄にかかるだけです。何より、相手を驚かせてやろうと思って内容証明を出したのに、わかる人が見れば逆に「こけおどしだ」と内心笑われることも予想される。では、郵便物を内容証明で出すべきなのはどういう場合か、これは次回に続きます。
2008/08/26
日経18日の特集記事から。「弁護士もマーケティング」という見出しに注目しました。内容は、同業の方々のことなので私もすでに存じていましたが、80席のコールセンターで全国から依頼を受け、年間90億円の売上高を上げる、「ホームロイヤーズ」という大事務所の話とか、「弁護士ドットコム」というインターネット上の弁護士紹介サイトには880人の弁護士が参加し、依頼案件に対して受任可能な弁護士が見積もりを出して、依頼者が選ぶシステムになっているとか、そういう話題でした。私自身はと考えてみると、マーケティングをきちんと勉強したことはありません。私のマーケティング論(というほど大げさなものでない)は、弁護士としての師匠にあたる上坂明先生がおっしゃった、「手持ちの事件をコツコツこなしていけば、その依頼者が次の依頼者を呼んでくれて、そうしているうちに事務所が成り立っていく」という、それがすべてです。上坂先生が弁護士になったのは今から50年以上前であり、そのころと今とでは社会・経済の状況が全くと言っていいほど変わっています。しかし、法律家としての仕事(世界史的に見れば何世紀も昔から存在するはず)のあり方の基本が、半世紀程度で変わるものではないだろうと思います。現に私自身、今は事務所の依頼者の事件のことを考えるだけで手一杯であり、マーケティングのことを考える余裕はありませんし、考える必要もないと思っています。「だから御社の営業はダメなんだ」と(昨今の自己啓発本ふうに)言われようと、今のあり方を変えることはないでしょう。門戸を広く、敷居を低く、これは私も重要だと思うし、心がけてもいることです。しかし、多くのスタッフを雇って全国から仕事を取ってくるとか、インターネットの比較サイトに登録するとかいうのは(これからの弁護士業の一つのあり方だとは理解できますが)、私の目指すところとは大きく違っています。唐突なたとえ話になりますが、私が休日や仕事帰りにお酒を飲むとしたら、全国にチェーン展開している居酒屋ではなく、マスターが一人でこじんまりやっているようなバーへ行きます。決して大きく拡大することはないけど、マスターと客が顔なじみで、マスターがそれぞれの客の酒の好みを知り尽くしているような、そういうお店が好きです。そして私の法律事務所も、そういう存在でありたいと思っています。
2008/08/24
福島県の妊婦が帝王切開の手術中に失血死した事件で、医師に無罪判決。私自身、弁護士として医療事件も扱っておりますし、また当ブログでは初めて触れますが来年には第1子の誕生を控えている身であり、この事件には関心を持っていました。とはいえ、判決の内容は、どの新聞でも比較的わかりやすく書いてあったと思うので、ここで私が付け加えて述べることはないように思えます。刑法理論的には、子宮内に癒着した胎盤をはがすという行為によって、大量出血を生ずることが予見できたか、そしてその行為を回避すべきであったかという、予見義務・回避義務の有無が問題となっています。判決は、大量出血が生ずることは予見可能だったが(弁護側は予見不可能としたがその点は退けた)、その場合でも胎盤をはがすことは医療行為としては標準的なものだったので、それを回避すべきであったとまでは言えない、とした。その理論構成には、特に目新しいものはありません。刑事裁判にまで発展した背景の一つとしては、遺族感情も大きいと思われます。本件の医師が遺族にどのような説明をしたかは存じませんが、医療事故が民事訴訟に至る大きなきっかけとなるのが、「充分説明してくれなかった」ということです。医師としての説明責任のあり方が今後検討されるべきなのでしょうけど、こういった指摘もすでに各紙で行われているとおりです。ということで後は法律と関係ない個人的感想です。この事件に限らず、出産にからんで法的トラブルが生じやすい一つとして、お産は安全、という「神話」の存在がよく指摘されます。私も冒頭に述べたとおり、妻が妊娠しておりまして、それで最近、「たまごクラブ」などの雑誌を買って帰ったりします。私はあまり読んでいませんが、妻が読んでいるのをちょっと覗いてみたところ、愛らしい写真やイラストが満載で、何だか幼稚園や小学校のころ読まされた国語や算数のドリルみたいだなと思いました。こういったものを見ていると、出産というものが、いかにも楽しいものであるといった印象を受けます。しかし、発展途上国などでは妊婦の死亡や死産は珍しくないはずで、日本だって一昔前はそうでした。たとえばドナルド・キーンの「明治天皇」を読んでみると、明治天皇の子供は出産直後に何人も亡くなっているし、子供を産んだ側室も亡くなったりしている。天皇陛下だから当時最高の医療スタッフがついているはずなのに、です。「お産は病気ではない」とはよく言われる言葉ですが、私の妻は妊娠が発覚してからお酒は一滴も飲まないし、食べるものにも気をつかっている。私だったら、10か月もお酒を飲めないなどという事態は、病気以上に大変なことです。その一事のみをもってしても、出産の大変さがわかる。お産は安全、それはこれまで、日本の産科医師の努力によってギリギリのところで実現されてきたのであって、本当は命がけの事態なんだという意識を持つことが、私たちには求められているように思うのです。
2008/08/22
このところ連続して書いていた「弁護士増員問題」について、雑感をもう少し。私自身の実感として、弁護士の就職難は本当に生じているのかといった話を「補遺」として書きます。ウチの事務所あてに、司法修習生の方がメールを送ってくれることがこれまで何度かありました(事務所のホームページからアクセスしてくれているようです)。そのメールの内容は、要するに就職活動的であり、「先生の事務所(つまりウチ)に興味がある、一緒に働きたい、できれば事務所を訪問したい」といったものです。加えて、「これまでどういう思いで法律を学んできたか」とか、「こういう弁護士になりたい」とか、弁護士業にかける熱い思いも書き添えられている。このあたりは、私と比べてみて、ずいぶん違うなあと思って感心してしまいます。たしかに私も修習生のころ(平成11年前後)はいろんな法律事務所を訪問しましたが、それは就職活動というよりは、いろんな事務所の仕事ぶりを見せてもらって、そしてそのあとは北新地あたりに飲みに連れていってもらえるという、そちらを楽しみにしてたくらいです。そのころでも、司法試験の合格者数が少しずつ増えていて、いよいよ若手は就職難になるのではないかと言われていましたが、私の同期で実際に就職できなかったという話は聞いたことがありません。それはともかく、私自身はあまり「熱さ」を前面に押し出す人は苦手なのですが、同業の後輩となるべき人からこういったメールを受け取ると、やはり嬉しい気持ちになります。ですから返事はきちんと書きます。「うちは個人でやっている小さい事務所だから新人弁護士の採用は考えていない。でも興味があったらぜひ事務所を見物に来てほしい」と。それだけでなく、彼らの熱いメールに少しでも答えるべく、私が弁護士業について思うところとか、若い修習生の人たちとも情報交換がしたいとか、そういうことも書くわけです。しかし、そういう私からのメールに対して、さらに返信をくれたり、実際に事務所を訪れてくれたりした修習生は、残念ながら一人もいません。つまり、「ウチは新規採用しない」と言った瞬間、彼らと私の関係は終わってしまうわけです。何とまあ現金な、と思ってしまうのですが、ひるがえって考えると、それくらいシビアに就職活動しないと就職もおぼつかないのかも知れないわけで、それを考えると、相当に大変な状況になっているのだなというのが、私の実感です。
2008/08/19
多くの方がお盆休みを過ごされたことと思いますが、私も世間なみにお休みをいただきました。今、自宅でオリンピックの中継を眺めながら、休み気分を引きずってダラダラと雑感を書きます。私が過去に司法試験の受験勉強をしていたころ、勉強でしんどくなったときには、「オリンピックでメダルを取ろうと思えば世界で3位以内に入らないといけない、司法試験に受かるためには日本で7~800位以内(平成10年当時の合格者人数)に入ればいいのだから、決して大変なことではないはずだ」と自分に言い聞かせていました。司法試験直前には、緊張と疲れのせいか体調を崩したりしました。試験に受かるかどうかは私一人の問題ですが、国家の期待を背負っているオリンピック選手の重圧はもっとすごいのだろうなと想像しています。さて、水泳の北島選手。平泳ぎの100メートルと200メートルで両方金メダルを取りました。100メートル競技が終わってから200メートル競技までの間の気分というのは、「いちおうの結果は出したけど、本当の戦いはまだ終わっていない」という状態で、私自身になぞらえて低いレベルで例えると、司法試験の最難関とされる論文試験に受かって、次の口述試験を受けるまでの期間に似ているでしょうか。大きな関門は終わったけど、もうひとふんばりテンションを持続し続けるのはたしかに大変でした。ついでに言うと北島選手、100メートルで金メダルを取ったときは泣かんばかりに喜んでいましたが、200メートルの競技後はかなりクールでした。それにはもちろん、目指していた世界記録が出なかったからという実際的な理由もあるかと思います。ただこれまた私自身になぞらえると、司法試験でいちばん嬉しかったのは論文試験に受かったときで、本当に最後の関門である口述試験に受かったときは「まあこんなものだろう」と思っただけでした。北島選手も、スランプや重圧をはねのけて挑んだ最初の100メートルが本人にとって最難関であり、それを金メダルでクリアして挑んだ次の200メートルは「勝って当然、まあこんなものだろう」という気持ちだったのでは、と勝手に想像しています。お盆休み期間中は、当ブログでも仕事を離れて諸々の雑感など書こうとしていたのですが、休んでしまうと却って何をする気も起こらず、更新も手抜きになりました。オリンピック選手の方々の活躍に敬意を表しつつ、休み明けの業務に邁進する所存です。
2008/08/17
法曹人口問題について、あと少しだけ。我が大阪弁護士会では、上層部と若手で増員に対する提言の内容に温度差がありますが、重要なのは、増員しすぎは見直せ、という点では一致しているということです。「法曹」(裁判官、検察官、弁護士の三者をいう)を増やすと言いながら、裁判官・検察官はほとんど増員されない結果、「裁判の迅速化」という司法改革の最重要課題は進展がない一方、弁護士だけがハイスピードで増え、若手弁護士の就職難が顕在化しつつある。司法改革の一環として導入された「法テラス」(相談先がない人に弁護士等を紹介する)や「被疑者国選弁護」(刑事裁判が始まる前から国費で弁護士がつく)は、経済的弱者の保護という美名のもとに、実際には弁護士に安い対価で仕事を押し付ける結果となっている。かような現状を、若手弁護士は深刻な問題として受け止めている。もっとも、先日の大阪弁護士会の臨時集会では、若手側の「提言」は上層部の組織票に押しつぶされ、政治的配慮に満ちた玉虫色の上層部案が通ったようです。私もいちおう若手の世代に入ると思うのですが、この問題に対して私がどういう立場を取ったかと言いますと、「特に何もしなかった」というのが実際のところです。若手グループの多くの人を私は直接存じておりますが、いずれも私以上に弁護士として優秀な方ばかりであり、したがってこの人たちは自分が仕事にあぶれるという心配をしているのでなく、自分の次の世代のことを考えてやっているのに違いありません。ただ、私はずるい人間なので、私自身のことしか考えていないだけです。司法改革や法曹増員が今後どうなろうと、私自身は弁護士としてとりあえずやっていけると思っています。それ以上のことは考えていません。法曹増員という政府方針が正しいことなのかどうかは知りません。どちらかというと疑問を持っています。でも、やるならどうぞ、というスタンスです。改革だ、増員だ、競争せよ、というなら、私はそれでけっこうです。でも、競争するからには国選弁護のような制度に協力はしないことになると思いますし、弁護士費用を払えないような人には、「ウチじゃなくて『法テラス』に駆け込んでくれ」と言うことになると思います。そうしないと、正当な対価を支払ってくれるウチの依頼者のための仕事に集中できないからです。弁護士間の競争になれば、おそらく何割かの弁護士が同様のことをするでしょう。それによって、「依頼者への法的サービス」は充実することになり、その点では「司法改革」の目的は達成されるでしょう。経済的理由などで弁護士に依頼できない人は、「法テラス」のような「セーフティーネット」で救済されることになるのでしょう。私自身は、弁護士というのは行き過ぎた競争は必要ない代わりに、自発的に弱者のための公益的活動をする、というのが美しい姿である(そのためセーフティーネットが自動的に働く)と思っているのですが、司法改革と法曹人口増員によってそのような弁護士のあり方は今後少しずつ失われていくことになるでしょう。それが大多数の国民にとって望ましいことかどうかはわかりません。しかしこれが司法改革と法曹増員の近い将来の姿となると思われます。最後がまとまりのつかないままとなりましたが、ひとまずこの話題を終了します。
2008/08/12
法曹人口問題について、あと2回ほど続く。法曹の質の確保のために適切な司法試験の合格人数は、私の個人的経験からして1500人程度だろうと書きました。司法改革についての政府方針は年間3000人をめどとしているが、それだと多すぎることになります。で、次の問題。ではこの3000人への増員は見直すべきなのか。ここでも書いたとおり、先日、日弁連会長が「見直し」を提言したところ、官房長官が「見識を疑う」と言った。日弁連会長が言ったのは「質の確保のための見直し」であって、人数を減らせと明言しているわけではないが、端から見れば「今になってどうして」という感じを受けるかも知れない。これはおそらく、今から10数年くらい前、現在では弁護士界の長老となっている人たちが、当時の財界や政府に丸め込まれたということでしょう。司法改革とか法曹人口増大とか、当時は多くの弁護士が「ジイサンらが調子のエエこと言うてよるなあ」くらいに聞き流していた。それが近年では、実際に司法試験合格者数が増加し、一部で弁護士の就職難が現実化した。今さら何をと言われても、ここでこの流れを止めないと、と思っている人も多い。そしてこの問題は、私が所属する大阪弁護士会でもホットな争点となっており、いくつかの新聞に報道されたのでご存じの方もおられると思います。大阪弁護士会の会長以下の上層部と、若手弁護士たちの間で意見が割れている。もっとも、上層部も若手も、増員問題に見直しをすべきであるという提案を採択してアピールしようという点に違いはない。ただ上層部は「適切な見直しをすべきだ」という玉虫色の表現を取るのに対し、若手は「直ちに1500人程度に減少すべきだ」という、言わば政府方針に明確に反対するアピールをしようとしている。詳しい話は省きますが、上層部には各方面に対する政治的配慮が働いていることが容易に想像されます。若手グループにはそういった配慮は必要ない。しかも自分たちのすぐ次の世代の弁護士や司法修習生が、満足に就職もできずにいる場面を直に見ているので、増員見直しは深刻な課題となる。この問題に対し、当の弁護士としてはどうアピールすべきか、私の考えは次回に続くということで、ひとまずお茶を濁しておきます。
2008/08/08
法曹人口問題について、続き。弁護士に資本主義の論理や競争原理を単純に導入するのは問題となる余地を含むと前回書きました。市民法律相談や当番弁護士などを例として挙げましたが、そういった制度的なこと以外でもっと重要なことがあります。弁護士としての日常業務の中で、「この人にはお金がないけど何とかしてあげたい」という人はたまにいる。私自身、そういうときに、着手金を分割払いにするとか、ほとんど「実費」だけで事件を処理することも、なくはない(普通はしていませんので、それを期待して当事務所に来ることはご遠慮ください)。私だけでなく、多くの弁護士が似たようなことをしていると思います。これはいつか改めて書きたいと思いますが、たとえば無実の罪を着せられて再審で無罪を獲得したとか、そういう重大事件でも、弁護士がほとんど対価を受けていないこともある。しかしこれなど「不採算事業」の最たるものでして、市民相談みたいに半日の拘束で済まずに、何年がかりになることもある。そんな事件でも受けるのは、弁護士の多くが「素朴な正義感」を持っているからですが、裁判官や検察官みたいに税金から給料をもらっていない立場でもそんなことができるのは、「弁護士の経済的基盤が安定しているから」です。つまり、弁護士の多くは、正義感だけでやっている不採算事業ばかりでなく、相応の経済的対価を見込める事件も抱えている。両方をこなしていれば、トータルとして法律事務所の経営は成り立っていくわけです。しかし今後、弁護士の数を増やして競争させるようにすれば、経済的にも心理的にも余裕のない弁護士が今よりは増えるでしょう。経済的に余裕があって初めての正義感です。妻子に満足に食わせずに儲からない事件ばかりやっているとすれば、弁護士としては立派でも、人間としては失格でしょう。今はまだ、自分や家族が食べていくことのできない弁護士はいないでしょうけど、増員が過ぎると、特にこれから弁護士になる若手においてそういうことになりかねない。かくて、弁護士に競争は、もう少しはあってもいいけど、行き過ぎると弊害が生じる。それが「弁護士の経済的窮迫」で済めば、個々の弁護士の自己責任だからまだ良いが、大げさに言うと「国民の間に正義が実現されなくなる」という大問題となる余地もあるのです。
2008/08/04
法曹人口問題について。3回目。弁護士人口を拡大して弁護士に「競争」させることの是非について。法曹人口増加論者の主張の大きな根拠の一つとして、弁護士にも競争原理を導入すべきだという論理がある。競争が起こって市場原理が働けば、弁護士のサービスもよくなり、依頼するときのコストが下がるだろうということでしょう。「弁護士が増えすぎると食うにも困るようになる」などとして増加に反対する弁護士に対しては、業界のエゴだとか、自らの収益を改善せよとか言った批判が向けられることが多い。私自身としては、たしかに日本全体で見れば弁護士はまだ数が少ないと思うし、もう少し増やして競争させたほうがいいと思う。当ブログでも何度か似たような話をしましたが、私は弁護士とはサービス業だと思っています。その私から見て、人間的にちょっとおかしいのではないかと思えるような、到底サービス業に向かなさそうな弁護士は割合多い。何十年か前、もっともっと弁護士の数が少なかったころなら、「昔、司法試験に受かった」というだけで一生をエラそうに生きていくこともできたのかも知れませんが、私はそういう弁護士など仕事にあぶれてさっさと退場してくださればいいと思っています。そういう意味で、ある程度は競争があってもよいと考えるのですが、それを強調しすぎると、明らかにおかしなことになりそうに思っています。資本主義社会におけるような競争原理が働くことになると、弁護士は一般の私企業と同じ考えのもとで行動し、収益改善のためにコスト削減や不採算事業からの撤退といったことが行われるようになります。不採算事業として撤退が予想されるのはこういうものです。半日間ほど拘束される、市役所などでの「無料市民法律相談」。弁護士が受ける日当は1万円少々です(市からはもっと出ているけど弁護士会が「負担金」名目でピンハネしているらしい)。弁護士なら、その時間帯に自分の事務所で通常の相談業務をしていれば、2~3万円の収益になる。ならば市民相談なんてやめようということになる。こんな計算をするのは私自身イヤですけど、収益を改善するというのはこういうことでしょう。刑事事件の容疑で逮捕された直後に弁護士が出動する「当番弁護士制度」。これも同じように、拘束時間は長く、日当も1万円程度です。これもヤメるという弁護士が増えれば、たとえば痴漢冤罪で警察に連行されても面会に来てくれる弁護士がいなくなる。競争せよ、収益体質を改善せよ、と言われれば、現役の若手弁護士はいくらでもするでしょうけど、果たしてそれでよいかは疑問です。この問題については次回もう少し書きます。
2008/08/01
法曹人口問題について。第2回。質の確保のために適切な合格人数はどれくらいかということについて。「3000人合格」見直し論者の多くの方は「1500くらい」という数字が適切としているようです。一方、法曹関係者以外の方からすれば、「司法試験なんてもともと難しい試験なんだから、何万人の受験者のうち上位3000人くらい合格させても優秀な人が取れるんではないか」と感じる方も多いかも知れません。私としては、結論的には法曹関係者の多くと同様、1500くらいが妥当と考えているのですが、以下、自分自身の狭い経験に基づいて私なりの根拠を述べます。私は平成9年、司法試験に落ちて、翌10年に二度目の受験で合格しました。過去には司法書士試験や社会保険労務士試験など、法律系の国家試験には難なく受かってきた(と自分では思っている)ので、司法試験も一発合格を目指したのですが、さすがに手ごわく、「合格発表を見にいったときに自分の受験番号がない」という経験を生まれて初めて味わいました。思い出話はともかく、私が落っこちた平成9年の司法試験では、マークシート試験には受かったものの、次の論文試験で落ちました。論文試験に落ちると、自分の成績はどれくらいであったのかということが、AからGの7段階にランク付けされて通知されます。要するに、あまりにランクが低い人はさっさとあきらめなさいということでしょう。私のランクは「C」ランクでした。これは「上位1501番~2000番」を意味します。こうして私はもう1年間、再起を期して勉強を再開しました。詳しくは書きませんが、その時期は「猛勉強」したと言い切らせていただきます。そして2年目に合格しました。その年(平成10年)の合格者はたしか812人でした。受かった後になって思えば、1年目の受験のときもかなり勉強はしたつもりですが、やはりまだ理解が浅かったし、論文試験のときに書いた答案もまだまだ甘い内容だったと思っています。私が「法律的なものの考え方」なるものを身につけて、現在何とか法律家の端くれとして弁護士業務をしていられるのも、受験2年目で身に付けたところによるものが多いと思っています。仮に私が1回目の受験で合格していたとしたら、不充分な実力のまま司法試験に一発合格したことで「やはり俺はエリートだ」と増長してしまい、弁護士としてまた人間として、どこかで道を誤っていたような気がしています。そして現在に戻って考えてみますと、現在の合格者数は約2000人です。繰り返しますが私が1回目に受験したときの成績順位は「1501番~2000番」ですから、現在なら、私は1年目の実力で合格していたことになります。近い将来、これが3000人になるとされているから、当時の私を下回る実力の方がさらに1000人も合格することになる。私自身の過去の反省も踏まえて考えてみて、私の受験1年目程度の実力の方を弁護士として世の中に出すのは、少し危なっかしいと思っています。だからそれを排除するということで、1500番までくらいが妥当なのではないか、というのが私の個人的経験からの実感です。
2008/07/30
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