全163件 (163件中 1-50件目)
2000年3月8日旅に出て68日目やっと最後の朝がきたそう思うほどに恋こがれた帰国の日がやってきた昨夜は相も変わらず空港泊だったので飛行機の中でも眠いことには代わりはない。だが旅の間に芽生えた熱い気持ちはやり場のないほどに高揚している。今晩は帰国後早速彼女と会う予定である。そして僕は彼女の新たなる決意を告げるつもりでいるのだ。思い起こせばほんの2ヶ月前。彼女に見送られて成田空港のゲートをくぐった元日のあの日が遠い昔のことのようだ。僕は成田へと向かう飛行機の中でもういちど猿のぬいぐるみを握りしめてみる。この数ヶ月のことが走馬燈のように脳裏をよぎる。ほんの数ヶ月前に奥多摩で二人過ごした夜を思い出して切なさが胸にこみ上げる。そんな思いはきっと彼女も一緒だろうでも僕らはそんな切ない思いを昇華して新しいステージにたたざるを得ないのである。だから・・・と僕は後ろ髪を引かれつつも、彼女への想いを捨てて、自分の夢に駒を進める自分が夢を叶えることが、障害者となった彼女への最大の勇気づけであるのならば、ならば・・・僕は精一杯自分の夢を描こう!そして彼女を勇気づけよう!なだめたり、すかしたり、言葉をもって励ましたりすることは誰にでもできるでも僕のように行動をもって彼女に勇気や感動をあたえることができるのは絶対に僕しかいない!絶対に僕しかできない!だから自分が彼女にしてあげられる唯一絶対のことは、ただ「自分の夢を叶える」だからこそ、彼女への特別な感情は捨て去って、ただただ、彼女に勇気や感動を与えるべく、自分の夢を叶えていくべきなのである。そして・・・・そんな錯綜した想いを抱えながら飛行機は成田へ着陸しようとしていた。冬の気配濃厚の68日前、元日に彼女に見送られた成田も今でははかすかに春の気配がした。時の流れに驚愕をしつつも、僕の目の前には新たなるステージへの期待と不安で胸がいっぱいになっているのであった。第3章~完~
2012.11.20
2000年3月8日アフリカには1ヶ月くらい滞在していたのだろうか?彼女から託された猿のぬいぐるみは長い旅の雨や風や砂や人の手触りの中で色あせ、ぼろぼろになり、そのやつれた分だけの時間が過ぎ去ったことを教えてくれた。この間にすでに彼女は僕の手をはなれ、盲学校へと入学手続きをすませ、自分で自分の道を切り開こうとしている。ほんの3ヶ月前に成田で見送った別の友人は、ラオスというなれない土地で毎日泣きながら仕事をしているのだと知らされていた。そしてまたイギリスに発った友人は毎日毎日ホームシックに泣きたくなる日をあるけれど、でもがんばってるよ!とメールをくれた。逆らえない時間の流れの中で誰もみな、自分の背負った荷の重さに苦しみながら、自分で選んだ道を歩んでいる。有形無形のつらさの中で歩んでいる。その姿はたとえようもないほど美しい。だから自分もがんばらなければと心の底から思うのだ。だからこそ知らぬ間に流れた時の流れは、過ぎ去った時への回顧を催させるものではけしてなく、ただ、空白の未来への高揚を後押しさせるほどに、ナニモノカにむかって僕の背中を後押しさせるものであった。3/1にバンコクに戻り、矢も楯もたまらず日本に戻って再スタートを切りたかった。残念なことに、日本へのチケットはなかなかとれず、次の夢に向かってスタートを切りたい僕の足を止める時間ではあったが、そんな足止めの時間にこそ自分の夢を白紙に描くまたとない機会となる。バンコクの1泊700円の古ぼけたゲストハウスで僕は眠れない夜のつれづれに、日本に帰国してからの夢を思い描く。誰も訪れないゲストハウスの1室で、新たなる夢を描く。あのケニア山という夢を叶えてくすぶっていたナンユキの日々のように・・・そしてその一方で、バンコクの安宿のベッドに寝ころび彼女のことを思う。ザックにくくりつけられたぼろぼろの猿のマスコットを見つめ、彼女のことを思う。この旅の中で僕は彼女に何ができたのか?そしてこれから先の時間の中で彼女に何をしてあげられるのか?あの日奥多摩の夜に彼女に拒絶された。でも、そうせざるを得なかった彼女のの気持ちが今は痛いほどによくわかる。そしてそんな彼女のことを大切に思う気持ちは今でも何も変わっていないだからこそ・・・と僕は思う。彼女にとって負担となる「恋人」というスタンスではなく「友人」いや「親友」というスタンスで彼女のことを支えていきたいんだと。彼女に恋人として必要とされないのならば、せめて親友として必要とされたい。そう思うことにとがはないだろう。僕は窓のない部屋の昼下がりのベッドに寝ころび、もう一度猿のマスコットを握りしめる。熱帯特有の午後の空気がとたんに体中を包んで心地よい眠りに誘われる。夢の中、かつて何の身体障害もなかった数年前の彼女が現れ、言葉を交わす。まるで恋人のように・・・そして夢から覚めたときに、あらためて自分の将来への方向性を迫られる。こんな日々を何度過ごしてきたのだろう?この旅の間、何度こんな夢を見てきたのだろう?そしてそんな夢をみるたびに思う。いや、夢に迫れるように自分の未熟さをうれい、彼女に対してなすべきことを感じる、それはつまり「強くならなくちゃな!」って、心の底から感じるのである。彼女を支えられないのは自分が弱いから。だから人の弱さを支えてあげられるくらい強くなんなくちゃ!って。彼女のことを支えるよりも、今、目の前の自分がもっともっと強くなんなくちゃダメだなって今自分が彼女にしてあげられることは、「山」しかないんだから・・・自分ががんばって夢を叶えて彼女に一瞬でも勇気を与えてあげること。それが彼女にできる唯一のことなのだから。って・・・・
2012.11.16
2000年2月28日ほとんど一睡もできないまま逃げるようにベッドを這い出した。そしてこのサファリホテルから一刻も早く逃げ出す準備をして朝一番キッチンでコーヒーを飲んでいると、おかまのまりもちゃんが話しかけてきた。「おにいさん昨日は、大部屋だったんでしょ?眠れた?」「全然。一睡もできなかったよ。なんなの?あの連中!何度怒鳴ろうと思ったことか」「まあまあ、そう怒らないで。あの子達も初めてのアフリカでうかれているんだからさ」「はあ・・・」まりもちゃんは新宿2丁目のおかまバーで働きながらアフリカ中近東を旅する、この世界ではちょっと有名な旅人である。その彼女(彼?)と、偶然昨日はこのエジプトカイロの日本人宿「サファリ」で同宿することになったのであるが、しかしながらこの宿は腐りきった宿であった。いや腐っているのは、この宿ではなくって、この宿に巣くう日本人たち(旅行者ではけしてない)である。昨夜この宿のドミトリー(大部屋)のベッドにザックをおろし、長い移動の疲れをいやし、これから帰る日本での生活に想いはせて床についた僕であった。ドミトリーにしては人数が少なく、ああこれは静かに眠れそうだと思ったのもつかの間。夜中の12:00頃になって、同じ部屋の日本人達がつるんで一斉に帰ってきたのだ。きけばみんなしてナントカいう町にマリファナを買いに行ってたとのこと。さらにきけば、みな日本から旅立ってきてはいるものの、日中はどこにもいかず昼過ぎまで眠って、毎晩夜中からマリファナパーティーをやり出すのだそうな。今日日中静かだったのは、たまたまマリファナが切れたので遠くまで買いに行ってたとのことだ。さあそれから今夜もパーティーが始まった。パーティーといっても、酒を飲むわけでもなく、乱交するわででもない、ただひたすらマリファナをまわしのみするだけの集まりだ。せっかくこちらが前向きな気持ちになっている時に、この退廃的な空気はいかにも水をさされる感じだが、しかたがない。どうせすぐに終わるだろうと、パーティーには参加せずにベッドに潜った僕である。だんだんとマリファナがきまってきた連中は、そのうちけたけたと笑い出したり、ろれつの回らない口調でかみ合わない話をしたりしだした。「おまえなにわらっとるねん?」「なに言うた?おまえ?」「だから何笑うとるねんて?」「なに笑うとるねん?。それおもろいわ!そんなおもろいうこと言われたら腹いとうてかなわんわ!」「よし、おもろいから歌おう」そのうち誰かがラジカセをかけるとそこから加藤登紀子の歌が流れてきた。「なんじゃこりゃ!むっちゃいい歌やンか!」「ほんまや。なんていい歌なんや!」みながそういっておいおいと号泣しはじめ、大声で歌い始めた。なんだんだこいつら!夜中の12時をすぎてからの高歌放唱知性のかけらもないくそくだらない話をバカデカ声でまき散らし、部屋にはマリファナの煙が充満。混乱の中、何とか眠ろうと努力するのだけど、こいつらののあまりのバカさに腹が立って眠れず。おまけに煙の充満した部屋なのに何故かこの部屋には蚊が多く、毛布をかぶってしのぐけれど、なんと毛布の上から針を差し込んでくる凶暴な蚊だ。いつ果てるとも知らぬ馬鹿余興は朝まで続き、毛布をかぶって騒音と怒りと蚊の襲来をしのいだ夜は、一睡もできなくて当然だった。そして朝、気がつくと、沈黙の中、馬鹿どもはベッドに崩れるように眠り果て、そして戦乱を耐えた僕の手と顔は蚊にさされぼこぼこになっていたのだった。・・・そして冒頭の朝のシーンに続くのである。今日はあまりにも疲れすぎていたが、とにかく明日にでもカイロをたってバンコクに戻れるようにチケットの変更手続きをしなければならん。今日1日は休養日にして、何はともあれ、きちがいホテルから普通のホテルに移り、エジプト航空オフィスにて明日のバンコク行きを予約し、日本大使館で手紙を受け取り、ナイルヒルトンホテル内のサイバーカフェでメールチェックをし、慌ただしい中で終わってゆく。ナイル川に沈む夕陽を満足に見ることもできずに明日、僕はエジプトを去ることになる。今日は最後の夜なので、お金を奮発してエジプト産ビール「ステラビア」を2本買って飲んだ。久しぶりに飲んだビールはむちゃくちゃうまくて、昨夜とうって変わって静かな室内でエジプト最後の夜を堪能した。さて明日はバンコクに戻り、空港オフィスで予約の変更ができれば、あさってにも日本に帰れるはずだ。最後の夜ともあって、少々感傷的になる。そして彼女のことを思った。ナイロビでもらった手紙から、障害者手帳を取得したということと、この春から盲学校に通うための試験を受けるのだという知らせを聞いていた。そして「話したいことはいっぱいあるから・・・こんな手紙じゃ伝えきれないから・・・今度あうときにいっぱい話するね・・・」という言葉で締められていた、その手紙を思い出した。元旦の日に成田で別れた時とどんな風に彼女は変わったのか?どんな風に僕は変わったのか?そしてどんな風にふたリの関係は変わったのだろうか?その答えはこの次に彼女と会った時に出るのだろうか?そんなことを思いつつ、アフリカ最後の夜は心地よく過ぎていくのであった。
2008.05.20
2000年2月27日の日記いよいよ気持ちが前向きになって、日本を目指す帰途につくことにした。振り返ってみるとケニア山に登ってからあとの日々はだらだらとしていて、無為に過ごしてしまった時間が悔やまれる。駄目だ。俺はやっぱりいつも前向きに、目標に向かって突っ走っているべきだ。そう思ったから帰途につくことにした。とはいえ、ここは紅海を望むシナイ半島の片田舎。ここから日本への道は随分と遠い。遠いとはいえ日本への帰途と思えば気持ちは一層前向きになる。ともあれまずはカイロを目指さねばならん。昨日町はずれの旅行会社で予約したカイロ行きのミニバスに乗り込んだのは朝8時であったが、ミニバスはピックアップのため狭いダハブの町中をぐるぐると周り、実際に町を離れたのは9時過ぎであった。ミニバスといえば名はいいが11人乗りのハイエースにすぎん。乗り込んだのはいかにもバックパッカー風の白人ばかり9名。ダハブから紅海のほとりのヌエバまでは美しい海辺を走る。紅海は世界一美しい海と呼ばれるが、うんなかなか美しい。世界一かはともかく、自分的「輝け世界美しい海ベスト3には入る美しさだ。ちなみに1位は礼文島の海だ2位はボルネオのサピ島だやがて道が海から離れればあとはシナイ半島の砂漠地帯をひたすら突っ走るだけである。ダハブ~カイロはおおよそ600キロだから、東京から八戸くらいかな?その間に信号も民家もまったくなく、オンぼろのミニバスはきしみをあげながら時速100キロで走り続けるものの、眺めは相変わらずどこまでいっても砂だらけで死ぬほど退屈なのである。行きと同様スエズ運河地帯の厳しい検問を通り抜け、やがて太陽が砂漠の向こうで傾きかけたころ、夕陽の向こう側にカイロの町並みが見えた。バスはなんだかよくわからないけど、町中まではいかず、郊外にてみなおろされ、そこからメトロを乗り継いでカイロの中心部に降り立った時は、もう薄暗くなりかけた午後6時であった。すっかりくたびれ果てた僕は今夜の宿を探す気力もなく、退屈さも手伝って、カイロ中心部にある日本人たまり場「サファリホテル」に宿を取った。ここもスルタンホテルと同様のドミトリーで1泊ざっと6ポンド(200円くらい)日本人宿といってもいろいろあるが、基本的には僕はたまり場的というか引きこもり的な雰囲気が僕は嫌いで、普段は近づかないようにしているのであるが、でも今日はもうよかった。しばらく日本語と、ご無沙汰していたことと、またナイロビのイクバルホテルで出会えた熱い旅人たちのような人がいれば新たな刺激を受けられるだろう。そんな思いでサファリホテルの門をくぐったのであった。そしてその夜は今回の旅の中で最悪の夜となるのである。
2008.05.19
2000年2月26日の日記退屈な日々が続いていた。いや一昨日このダハブにやってきたばかりの身に「続いていた」という表現はおかしいであるのだろうが、感覚的には何日も退屈という地獄に閉じこめられているような心境だだった。今回の旅もすでに56日目。目標であった、ケニア山も登って。ルヴェンゾリは立入禁止だからあきらめたけど、ウガンダにも足を延ばして。現地の女の子とも仲良くなって。シナイ山も登って。そして、後の残りの時間を紅海ですごそうとやってきたダハブであったが。そこにあるのはただただ退屈という時間の流れであった。今回の旅の目標を果たしたことで、僕の心の中ではあらたなる目標が燃えている。その目標のままに今すぐにでも突っ走っていきたい感情が燃えている。そんな心情の中にあって、のんびりするために立ち寄ったリゾート地など、長居するべき土地ではないのだろう。今日も昨日と同様に何の予定もない。退屈な午後、部屋から歩いて10秒のビーチに立って海を眺めてみた。吹きすさぶ風の向こうにアラビア半島が見えている。あの向こうはサウジアラビア。見知らぬ国だ。僕はふと感傷的になってみた。そして前回の旅で南米のアリカで太平洋を眺めた時のことを思い出してみた。太平洋の先には日本があって、あのときは遠いはずの日本が、すぐそこにあるような郷愁を感じて懐かしく海を眺めていたものだった。でもこの紅海を眺めていても、対岸のアラビア半島が邪魔して日本をすぐ近くに感じることはできず、随分と遠いところに来てしまったような感じを覚えるのだった。「随分と遠い所に来てしまったな・・・」そしてそんな思いは彼女に対する思いと同様であるのかもしれなかった。部屋に戻ってひとしきり読書などして暇をつぶしたあと、町にでてみるが、歩いて5分ほどの町はもはや見るものも何もなく、ただ退屈を増長させるだけだった。夕方になってやはり意味もなく海に出る。いつもなら海を見ながらビールでも飲んで万感の思いに浸りたいところであるが、イスラム教国のエジプトにビールはない。いやカイロのような大都市になら外国人向けの高価なビールが置いてあるが、こんな田舎のベドウィンの村にはビールなんておいそれとは置いてやしないのである。酒も飲めない夜が退屈さを助長させる。遠くの方で潮騒が聞こえてくる窓のない安宿のベッドの、でこぼこの天井を眺めながら明日、ここを発つことを心に決めた。発つって、どこへ?本来なら、ここから北に向かいヨルダン~シリア~イスラエルと旅する予定であったが、目的を果たしてしまった後の感情の耐えられなくなった僕は、今すぐにでも日本に帰りたい思いが心に充満していた。こんな思いは前回の旅でヒマラヤの麓で感じた感情と同じだった。ここがいやなんじゃない。この次の場所に早くいきたいだけだ。早く次の夢のスタートラインに立ちたいだけなんだ。そんな思いに気がついた僕は、明日カイロに戻ることを心に決めた。いやカイロに戻るのではない。もう日本に戻ることを心に決めたと言っていい。カイロからバンコク行きの飛行機に乗ってしまえば日本はすぐそこだ。そして日本に帰って次の目標を目指そうと思った。次の目標は「ヨーロッパアルプスグランドジョラス北壁ソロである。自分の今居る環境と、その目標のギャップに多少苦笑しながらも、でもそんな目標を心に思い描くことはけして悪い心地ではなかった・・・
2008.05.18
2000年2月24日シナイ山という目的をひとつ片づけたことで、またここにいる目的を見失った僕は早くも次の目的地に動くこととした。次の目的地はシナイ半島を横断して紅海の海辺のリゾート「ダハブ」である。朝7時に目覚めて外に出ると、外は気持ちのよい砂漠だ。外に出たところで、昨日食堂で会った、女子大生のひとりで、今朝未明に一人でシナイ山に登ると言っていた子にあった。「おはよう。あれずいぶんと早いね。もう登ってきたの?」「いえ~朝3時に起きて真っ暗な中歩き出したら、寒くてすぐに引き返しちゃいました。やっぱり友達と一緒に今日登ります。」「ところで今日はどうするんですか?」「もうこの町にいてもしょうがないし、今日はこれから「ダハブ」に行くよ」「ダハブってどんなところでしたっけ?」「紅海に面したリゾートだよ。リゾートっていってもベドウィン村なら物価も安いし海もきれいそうだからさ」「そうですか気をつけてくださいね」「お互いに」そんな社交辞令のような話をした後で女の子は友人達のもとへとかけていった。そして僕もまた一人旅の続きである。宿にいたドイツ人旅行者とタクシーをシェアして10:00に宿を出る。タクシーの窓の外の眺めはやはり砂漠で。とにかく砂漠の中を突っ走ってあきあき。それでもタクシーは速くわずか2時間で海が見えるとそこがダハブのベドウィン村であった。とりあえずシングル7ポンドの宿をとり、まずは久しく見ていなかった海へ。といっても部屋から歩いて30秒。紅海の海は透き通っているというよりはむしろ濃紺。うち寄せる波の情景は「浜」というよりはむしろ「磯」で、風の強い今日などはどっぱーんとうち寄せる波が北国情緒さて醸し出して肌寒さとうらさびしさが旅情をかき立てる。まさに紅海冬景色対岸にはアラビア半島が思いの外すぐそばに見え、ああサウジアラビアってあんなに近いのかと果てに来た感慨もひとしお。どこかの情報でここにくれば泳げるとも聞いていたものの、こんな寂しい光景の中で泳いでいるやつなんて誰もいないよ。とりあえず久しぶりの海を眺めた後で、町に出て散歩する。といっても5分もあれば歩き回れる町だ。町をはずれて北方面に向かってみたらどこまでも砂漠が続いていたのであきらめて戻ってきた。今度は南方面に歩いてみたらやっぱりどこまでも砂漠が続いていたのですぐに戻ってきた。浜辺にたたずむには少々寒すぎる。そして今日は部屋の中でうだうだしたまま時間が過ぎてしまうのであった。
2007.10.24
2000円2月23日おそらくは普通の旅行者が聞いたこともないような土地に今僕はいる。今僕がここにいるということは家族も友人も誰も知らない。そして昨日初めてこの土地に来た僕もまたひとりぼっちだ。思いがけず心底冷える寒い朝に今が2月だということを知る。そして今自分がエジプトシナイ半島の聖カトリーヌという土地にいることを知るのである。部屋の外に出ると寒さがいっそう肌身にしみた。そして凛とした青空の下には荒涼とした砂漠が広がっていた。自分でわかしたモーニングコーヒーをすすりながら、出発の準備を整える。今日はモーセの十戒で有名なシナイ山に登る予定である。といっても、たかが砂漠の2000m峰。ハイキングというよりは散策みたいなもので、お気楽に水やらお菓子やらザックに詰め込んで8:00に外に出た。とりあえず、時間はたっぷりあるし、シナイ山とは反対方向にある町に行くことにした。朝の空気は冷たく吐く息が白い。そしてサンダル履きの足がとてつもなく冷たい。日本から吐いてきたスニーカーはケニア山ですでにぼろぼろになり、ポーターにさえ「It's finish!」とさえ言われるほどだったので、ナイロビで捨てた。代わりにカイロで靴を買うつもりであったが適当なものがなく、まあいいやサンダルでと、ここまで来てしまったのだった。 見渡す限りの砂漠と砂山の中てくてくと歩いて15分。町とはとてもいえないショッピングモールのようなものが砂漠の真ん中にぽつんとあって、食料を少々買い込むともはや何もやることがなくなったので元来た道をたどってシナイ山登山口を目指した。しかしシナイ山は世界的な観光地であったのだ。登山口となる修道院に着けば観光バスはウヨウヨ、今までどこにいたのか観光客ははぞろぞろ、ラクダ引きがごろごろ、そんな中を一人とぼとぼ。修道院はシナイ山の登山口。薄ら寒い砂漠にあった花の咲くオアシスだ。こんな寒い日に花が咲いているんだなあと思ってよくよくみれば、咲いているのはなんと梅の花だ!そういや日本でも梅の季節。「梅の花が咲く頃に会おうね」と言った彼女のことを思い出す。同じ時期に日本とは遠く離れた場所で梅を愛でるとはなんと風流なことだろう。一首できた。「弥生待つ花白梅の香をかげば 昔のひとの袖の香ぞする(※新古今和歌集より盗作)」9:10に修道院をたった。うじゃうじゃいた人混みも修道院泊まりで、ここから山に登るのは僕ひとりのようである。今回は地図も何もまったく持ってきていないが、道はまるで舗装道路のように立派で迷うところもなければサンダル履きでも全く問題ない。しかしさすがに天下のシナイ山。簡単に登れてはモーセに失礼なのだ。道は徐々に急になり息も上がってくる。道の両脇には土産物屋風の建物が連なっているが今はどこも開いていない。おそらくは稼ぎ時は夜明け前なのだろう。そう、シナイ山の登山客はほとんど頂上でご来光を眺めるのだ。でも富士山もそうだけど、何で素人が山に登るとご来光を拝みたがるのだろうか?山の良さは朝だけじゃないのにね。なんてひねくれたことを思いながらも、確かに頂上から茜色に染まる砂漠を眺めたらさぞや美しいことだろう。ましてや、今夜は満月である。こんな日に頂上で野宿したら最高だろう・・・そんなこんなで結構時間かかって11:40に頂上についた。朝は吐く息白かった空気も今では暑いくらいの日差しが遮るものひとつない空から降り注いでいる。周囲はひたすら岩と砂ばかりだから、日中に眺めるにはやはり退屈で、すぐに下山を開始した。急な下りはサンダル履きには歩きにくくって修道院に戻ったのは13:00頃だった。14:30に宿に戻り、シャワーを浴び、洗濯をした後でコーヒーを煎れて中庭で飲んだ。心地よい疲労が体を包む。そしてまたひとつ登りたい山に登った感激が心を癒す。目の前には砂漠が果てしなく広がっている。そしてまた、ケニア山から降りてきた時と同じ気持ちが心の奥からほとばしってくる。山に行きたい。旅に出たい。まだまだ僕は夢の途上にいる。そこで足踏みしている暇はないのだろう。寂しさと裏表の感情が交互に表れては僕の背中を前へと押し出してゆくのだ。まるで憑かれたように。この感情を一体誰がわかってくれるだろう。「旅につかれ 夢は砂漠をかけめぐる(※奥の細道より盗作)」僕はふと自分の夢を叶えるためにイギリスに行ったK子のことを思い出して、そんな気持ちを手紙に書いてみた。夢と寂しさの裏表の感情に揺れながらきっと僕の彼女に対する思いも揺れている。そんな予感を感じながらである。・・・・・・・・・・・・・・・・・夜になると宿は急ににぎやかになった。宿の食堂(といっても座敷)でいつもようにエジプト定食を食べていると日本語ががやがやと聞こえてくる。なんとこんな町のこんな宿に日本人女子大生卒業旅行3人グループのお出ましである。久々の日本語に少々おしゃべりが弾んだ。何でも、旅行サークルのメンバーでエジプト旅行中。シナイ山に登るためにこの聖カトリーヌに来たと、リーダー格のしっかりした女の子が話してくれた。そして明日の朝は危険だし寒いので日中登る予定なんだけども、うち一人の女の子がどうしてもご来光が見たいので一人で早朝登るのだけど不安なので、いろいろ教えてくださいと言って来た。異国の地で暗闇の中、女の子一人で山に登るのではそりゃ不安だろうに。後1日早く出会っていたらご一緒したところだけど、さすがに女の子にほだされた2日続けて同じ山に行く気はなかったので必要なアドバイスをしてあげた。ああでも、こんな砂漠の町の薄暗い宿で、久々に楽しい時間をもてて、またひとつ元気をもらった気分である。
2007.10.07
2000年2月22日治安はよいが刺激も少なく、従って退屈なカイロを離れて、今日はシナイ半島に移動することにした。シナイ山に登るにはまずは麓の聖カトリーヌという町に行かねばならない。朝10::00発にバスターミナルに行き、難解なアラビア文字に悩みつつ、無事に聖カトリーヌ行きのバスに乗り込んだ。しばらく町を走れば後はひたすら砂漠である。とにかく砂漠を走る。退屈でしょうがない。退屈して外を見てもやはり砂漠である。やがてスエズ運河が近くなると検問がものものしくなった。スエズ運河って橋みたいなもので上をわたるのかと思ったら、実はトンネルで下をくぐるのであった。さすがに交通の要衝だけあって警備も厳重だ。シナイ半島がエジプトに返還されるのだというニュースを中学1年の時に聞いた記憶があるが、まさかそのときは自分がスエズをこの目で観る日がこようとは思いもしなかったが。運河をくぐったら、右は蒼い海。左手には砂漠。退屈な時間は続く間にも、陽も徐々に傾いてくる。やがて海から離れて内陸部に入ると砂漠しかなくなった。そのころには陽も大きく傾いて夕陽に照らされた砂漠は濃淡のあざやかな茜色にその姿を変え、時間とともに変化してゆく姿が息をのむほどに美しい。しかし退屈な砂漠が美しく染まるのは朝晩のわずかな時間だけ。地平線に陽が沈んだ後はただの闇になった。聖カトリーヌはそんな暗い砂漠の中のオオアシス都市だ。到着は19:30で所用ざっと9時間。この時間ではさすがに真っ暗でふきぬける風が冷たい。まずはとにかく宿探し。ここは観光地なので安宿はないということだ。多くの旅行者は修道院に泊まるが1泊31米ドルも払うのはいやだった。何となれば野宿も考えたがおもいのほかの寒さにそんな気もなくなりタクシーの運ちゃんに安宿を紹介してもらった。石造りのドミトリーで1泊15ポンド(450円)。カイロに比べると高めだが仕方ない。夕食に鶏肉とスープのエジプシャン定食を食べて明日のシナイ山登山に備えて早めに眠った。酒絶ち何日目か?さあ明日はどんな山?
2007.10.06
2000年2月20日アフリカの帰り道にカイロに立ち寄った僕にはいくつかのテーマがあった。・エジプトでピラミッドを観たい・シナイ山に登りたい・紅海で泳ぎたい・死海に浮かびたい・この際禁酒をしてみようなどなどである。なのでこの後の予定としてはシナイ半島を横断し紅海に抜けて、ヨルダンからイスラエルに抜け、地中海経由にてアレクサンドリアからカイロに戻るつもりであった。そしてカイロに着いたばかりで取り急ぎは右も左もアラビア語もわからないまま昨日は町を歩き、考古学博物館にてツタンカーメンの棺をみて、地下鉄に乗り、ナイルヒルトンホテルで暇をつぶし、夜はシシケバブを食べるなどして、それとなく中近東の空気に体を慣らしてゆくのであった。さてそういうわけで本日はピラミッドを見に行ってきた。タフリル広場から適当にバスに乗ってピラミッドが近くに見え、他の乗客がぞろぞろと降りるところで一緒に降りる。あとはピラミッドに向かって歩いていけば良いのだから非常にわかりやすい。学割10ポンドの入場料をはらい、まずはピラミッドをぐるぐる。ピラミッドに憧れている人には悪いが外から眺めている分には「ふ~ん」程度の感動しかない。中に入ってみようかとも思ったが、また切符売り場まで歩いて戻るのが面倒なので止め、スフィンクスとピラミッドが同時に見渡せる丘の上でのんびりと過ごす。砂漠から来る風は暑いと言うよりはむしろ寒いくらいだ。それも30分もすれば飽きて、もう戻ることにした。スフィンクスの前から913番のバスにてカイロに戻る。難解なアラビア文字も数字だけは何とかわかるようになっていた。夜は本日で3日目の禁酒デイである。口が寂しいのでノンアルコールビールなど飲んで、今日もカイロの寂しい夜は更けてゆくのである。
2007.10.05
2000年2月18日続き~ケニアを去った余韻もままならず、そして今朝の早起きの疲れもとれないままに、やげた飛行機はナイル川に沿って下降を開始しほどなく昼前のエジブトカイロ国際空港に着いた。Tシャツでは少々肌寒い空気が全身を包む。それはナイロビの高原のさわやかな空気とはまた違ったものであった。カイロ国際空港ではVISA代に15米ドル支払い、ケニアからの入国者には検疫でマラリアの薬を飲むようにと毒々しいカプセルを渡された。どんな副作用があるのかしらんので飲まなかったけど。さて、手続きが済めばバスにて町にでるだけ。町までのバスは400番だよと空港の係員がエジプシャンイングリッシュで教えてくれた。でもその400とかかれたアラビア数字が読めないんだよ。アラビア数字は例のアラビア文字のようにうねうねした象形文字のような文字で現代で使われているアラビア数字のおもかげがあるのは数字の9くらい。あとは全然わからない。わからないなりにその辺の人に聞いて何とかカイロの中心のタフリル広場にたどり着いた。そしてそのバスの中で思ったのであるが、外国人がタクシーではなく、バスにて町に出られるということは大変に治安がよい国であるという証拠でもある。帰国までの日程は、カイロをベースに中近東を旅するつもりでいた。ただ中近東では酒と女はタブーだから、その中で僕がどれほど旅を続けられるかはしらないけど。カイロはちょっとした大都会で、町の中心にはケンタッキーやマクドナルドもある。エジプトはイスラム教だけどな。ろりいそぎ大きな荷物で町を歩いて、日本人旅行者にはなじみの「スルタンホテル」に宿泊した。料金はドミトリーで8エジプトポンド(240円)で自炊可であった。それにしても寂しい部屋だ。やけに天井が高く照明の薄い部屋にはベッドが5つぽつんと並んでいた。この昼間の時間帯には誰もおらず、皆どこかに行っているのかな?がらんとした部屋は多少かび臭く、旅のうらさびしさを感じるところだ。がらんとした部屋のベッドにひとり横たわり、睡眠不足を補う午睡に沈む。そしてああまたわからない土地に、だあれも知り合いのいない土地に来てしまったなあ。またひとりぼっちの始まりだなあと心の奥底で思ってみるのであった。ふと僕はザックにつけられた猿のマスコットを見る。彼女から手渡された思いはずいぶんと遠くに行ってしまったような気がするが、こうしてひとりぼっちを感じる時には確実にそばでその存在感を大きくしていることに気がつくのである。夕方になって同じ宿に泊まっている日本人とコシャリを食べに行った。コシャリとは赤飯の上に、マカロニ、スパゲッティ、小豆などをぐちゃぐちゃと混ぜトマトペーストをぶっかけて食らうエジプトの吉牛みたいな代表的なファーストフードである。1口目は新鮮な味だが後は飽きてくる。しかしたった1杯で腹一杯になってお値段わずかに1ポンド(30円)。手持ち現金のだいぶ少なくなった僕にはこれから貴重なメニューになりそうだ。夜になっても町の人通りは変わらずにぎやかで、治安の良さにほっとする。宿に戻ってがらんとした部屋でわかしたコーヒーを飲む。ドミトリーなのに同室者もなく、話す相手もおらず、酒を飲むこともできず、手紙でも書いて過ごすしかない。そんな感じの素っ気ないエジプト第一歩の始まり始まりであった。
2007.10.05
2000年2月18日とうとうケニアを去る日がやってきた。朝4時起床。顔を洗ってさっぱりしていきたいところだが、昨日からこの辺一体で断水がいまだ続いており、顔も洗えなければ、歯も磨けないし、シャワーも浴びれなければひげもそれず、自炊もできなければ、トイレも流れないのである。日常生活における水がいかに大切なものか知る。それとともに先進国で騒がれたY2K問題もこの地域では無関係そうなことを知るのである。町中から空港までは20分である。7:30の定刻通りに飛行機が飛び立つとサバンナが一望にできた。東アフリカには結局ほぼ一ヶ月滞在した。予定通りケニア山にも登れたし、楽しい日々を送ることができた。いろんな人に出会うことができた。イクバルホテルの旅人たちも、あの怠け者のポールのことも、少々しつこかったけど可愛かったアンナのことも何もかも思いでだ。そして思いでを背に僕は次の夢を目指そう。そして。と思い返すとき元旦に成田で別れたきりの彼女のことが脳裏をよぎった。アジアの日々もアフリカの日々も思い出に過ぎ去ろうとしている矢のような時間の流れの中で、その思い出の中には彼女の存在も入ってくるのだろうか?自分がこれから強く歩もうとしている未来と去っていく過去の中で彼女の存在が揺れている。その存在がどこに落ち着くのか、日本に帰国して彼女に会うときにわかるのだろうか?寝不足の頭でうつらうつらと考える間にも飛行機はあっという間にナイル川に沿って下降を開始していた。そして僕の旅はケニア山から次の土地へとそのステージを変えようとしていたのである。
2007.09.18
2000年2月16日10時間眠って朝起きると腹痛も頭痛も嘘そのように消し飛んでいた。思いいたせば昨夜の腹痛はナイル川の水をそのまんま飲んだからに違いない。窓を開けるとビクトリア湖からくる朝の風が気持ちよい。しかし断水は相変わらずで顔を洗うこともできないのはもちろん流すことの出来ないトイレは昨日のまんまだ。もう田舎町はやめてとにかくナイロビに戻ることにするナイロビに戻るということはとにかく、次の目的地に歩を進めようということなのだ。気持ちは前向きになればとにかく早いのだ。バスとマタツを乗り換えて午後の早い時間にナイロビに戻ることが出来た。すっかりナイロビの常宿になったイクバルホテルのドミトリーはあいにくとふさがっていたので倍の料金払って個室に泊まった。個室っていったって420シリング(600円程度)なのだ。その足で早くも航空会社のオフィスに赴きあさっての便でナイロビを発つことにしたのである。アフリカを発つことが現実になってこの1ヶ月間に通り過ぎた山々や風景、人々や様々な想いが脳裏をよぎり出す。しかしそれらはけして過去を顧みるときの切ない感情ではなく、希望に満ちた未来へ向かって背中を押し出してくれるような感情だった。
2007.09.02
2000年2月15日夜はなんだかいろいろな夢をみた。めざめたときのふと思う感情はあれここはどこだろう?って気持ち。暑くもなく寒くもなく蚊もいない夜は極めて快適でまるでにほんの自分の部屋にいるような気持ちのよい目覚めで7:30に起きた。ねぼけた頭でさて今日は?と考えるのも毎日の日課だ。今日はナイル川の源流へと出向き1日中ぼーっと過ごす予定である。でもそんな予定の裏で、ぼっとする時間が過ぎていくのももどかしい自分が居る。どのみちタイムリミットで明日中にはナイロビに戻らなければいけないので、とりあえずバスの時刻を調べに行こうと外に出る。しかしバスステーションに行っても要領を得ず。なんだかめんどくさくなってくる。もういっそのんびりするのはやめて今日中にケニアに戻ろうか?一旦そう思ったら90%その気になった。それはさておきとにかくこの町に来た目的も果たそうと思いたってその足でナイルの源流を目指すことにした。町はずれを15分くらい歩いていくと「この先ナイルの源流」というような案内板が見つかった。その道を入ると幅広い道路の両脇におびただしい鳥の群が旅行者を迎えてくれる。げーげーと鳴く鵺のような鳴き声と時折降ってくるおしっこの中を10分ほど歩くと前方にきらきらと輝く海のような輝きを発見する。あれがビクトリア湖か!しばらく歩くとまもなく道はゲートにさえぎられ、係員のおっさんに入園料100シリングを払ってゲートをあけてもらう。ここはスピークス記念公園というちょっとした緑園地。そういえば、ナイルの源流を発見したのは「アラビアンナイト」の翻訳で名高い冒険家のリチャードバートンとその助手のスピークスであったか。小気味よい緑地を川面に下りてゆくとビクトリア湖の岸が狭まってナイル川となって出てゆく所に出向いた。なかなかの美しいところである。しかし厳密に言えば、ビクトリア湖はナイル水系の途中のみずがめみたいなもんだから源流はあくまで山にあるというべきであろう。そしてナイルの源流にある山こそが僕の憧れる「ルヴェンゾリ」であるのである。しかしながら今回はかの山には立ち入れないのでここを源流と認めよう。みとめた証に源流の水を飲んでみた。 「まずい・・・」これならアマゾン川の水の方がうまいかも。ともかく目的を果たしたので、1日ぼーっとするどころか5分で去る。行きと同じ道を歩いて宿に戻ったのは10:20。もうこの町の目的は果たしたのでせっかちなことではあるがとにかくもう戻ることにする。次の夢に目覚めてしまった僕にはじっとしているのは苦痛なのである。マタツステーションに行くとちょうどブシア行きの車があったので飛び乗った。そして3時間揺られブシアに到着し、24時間の滞在を終えてケニアに戻る。ルヴェンゾリという目的さえ近くにあればもっと滞在したい国ではあったが今回は致し方ない。今日中に帰れるところまでと歩をすすめ、道ばたでキスム行きのマタツ拾われて夕方にキスムについた。今日はちょっと奮発してバストイレ付き450シリングの宿をとった。湖側の部屋からは、先ほどまで近くにいたビクトリア湖が夕日にきらきらと反射し、湖の方からさわやかな風が流れ込んできた。旅のさなかにあるひとときの幸せを感じる瞬間である。しかしその快適さが、仇になろうとはそのときには思わなかったのである。夕食に外に出た僕の体を急激な悪寒が走った。全身に寒気が走り、頭が少し重い。咳がこんこんと出始め、何よりも下痢がひどい。旅先で体調を崩すと途端に弱気になるのはいつものことだ。もしかしてこれはマラリアでは?いや肝炎かデング熱かそれとも眠り病か?夕方以降部屋にこもって横になっていると、さっきとうってかわって、暑苦しさに全身から汗が噴き出してきた。体が少し楽になってほっとするが、急激な熱の低下はマラリアの可能性もある。今はとにかく寝ているしかない。しかしその安眠を破るように腹痛が断続的に襲ってくる。しかしああ何ということだろう。キスムは今日も断水で、蛇口からは1滴の水もでなかった。もちろん、歯を磨くことも、顔を洗うことも、手を洗うことも、ああそれより何より下痢でお世話になったトイレの水を流すことさえできやしない!倦怠感と腹痛は絶え間なく襲ってくる。さあ明日の旅はどこへ行く?
2007.08.22
2000年2月14日朝になっても相変わらず断水状態でうかつに歯も磨けなかったが、キスムの町そのものは治安も気候もよくぐっすりと眠れた。さてここからウガンダへは国境の町ブシアまでマタツ(乗り合いハイエース)に揺られる。相変わらず20人乗りのハイエースに揺られること3時間でウガンダとの国境である。ウガンダは現在内戦がさかんな国ではあるが国境にはそんな緊迫感も漂うことはなく、うっかりしていると密入国してしまいそうなそんな国境であった。やたらと無愛想なおっさんがケニア出国のスタンプを押してくれた。歩いてウガンダ側のイミグレーションもあっけなく、30ドルのビザ代を払うと、やはり無愛想なおっさんがパスポートにスタンプを押して投げ返した。アジアなどだと陸路の国境の役人は相当にワルで、いつも一悶着あるだけにあっけない。イミグレを抜けたら銀行にて両替を行いだいたい100シリングで8円という相場予想をたてる。なんだかいかほどの価値があるのかちっともわからない現金を手にしたところで、町にでるのはいつものこと。町に出るためにはまずは足の確保と、バスステーションを探すが見あたらない。わからない時はタクシーに頼るに限る。ここではタクシーといっても車ではない。最末端の公共交通機関は「自転車タクシー」なのである。自転車タクシーとは文字通り、自転車の荷台に客を乗せて運ぶという何ともシンプルな乗り物である。初乗り運賃が1000シリングだから80円くらいか。自転車の荷台にまたがってバスステーションまで!というとあんちゃんはいきおいよく自転車のペダルをこぎだした。そして探してみればすぐのバスステーションにたどり着く。そこからナイル川の源流の町ジンジャ行きのバスに揺られ2時間半。気がつけば夕方は4時半で1日がかりの移動であった。ジンジャは欧米人の旅行者に人気の町である。もともとウガンダはアフリカの真珠とも呼ばれ、風光明媚な風景と過ごしやすい気候がうりの国だ。しかしこうして歩いてみるとジンジャの町からはナイル川のビクトリア湖も見えずにただの田舎町だけどね。とりあえず町をぐるぐる回って適当なホテルに泊まり、適当なレストランに入って適当な夕食を頼む。気がつけばウガンダの夜は更けて、今日も生ぬるいビールを飲みつつ夜は更けてゆく。そういや今日は2月14日で日本ではバレンタインだなんだと浮かれている時分であろうが、こんな日本人が聞いたこともないような国の聞いたことのない様な町でひっそりと聞いたこともないようなビールを飲んでいる自分に少しばかりの優越感と劣等感の入り混じるそんな夜であった。
2007.08.10
2000年2月13日早朝のナイロビのバス停からウガンダとの国境の町キスムまでのバスに乗り込んだ。今回は長距離ということでマタツ(乗り合いハイエース)ではなく、普通のバスを洗濯したのであるが、ここまで20人以上のハイエースに詰め込まれてきた身には、バスのシートで十分に足を伸ばせたり、シートがリクライニングで倒れたりするそんな乗り物自体がしごく快適であった。バスはサバンナの中を突っ走ってゆく。道ばたのサバンナにシマウマが草をはんでいる。突然、隣の席の人の携帯電話が鳴る。このサバンナのどこに携帯電話のアンテナがあるのだろう?そんなどうでもいいことを考えつつ、そしてぼまたここ最近の日課となった思考が頭の中を巡ってくる。今までのこと。そしてこれからのこと。今、日本への帰国が待ち遠しい。日本で待っている現実が恋しい。今、この胸にともっている情熱のまま次の夢に向かって1日も早く突っ走っていきたい。ここ数日の間に日本に帰国してやるべきスケジュールができあがっていた。3月はじめに帰国して、次の出発は7月。場所はヨーロッパアルプス グランドジョラス北壁そして出発までの4ヶ月、やることはいっぱいある。やりたいことはいっぱいある。そして・・・・いつしか僕は眠りについて、気がつくとバスは昼下がりのキスムに到着していた。キスムはケニア第五の都市ということだが、どことなく平和そうな田舎町の趣がある。今日はここに泊まることにして町中の1泊200シリングの宿に荷物を下ろした。さて早速シャワーを浴びようとしたら、なんと断水である。しかし宿のおやじはハクナマタタ!(問題ない!)とシャワールームの脇の水瓶を指さした。僕はそうかハクナマタタかとつぶやいて、水瓶の水を桶で浴びてさっぱりした。ここキスムはビクトリア湖の東の端にあたる町である。町はずれの高台からはビクトリア湖に沈む夕日が望まれた。できれば夕食はビクトリア湖畔で夕日をみつつ食べたいものだ。と思って湖の方に歩いてゆく。でも道は行き泊まって湖の方には行けない。国境だけに入れないのかな?道のどんづまりにが草原になっていて、そこに「HOTEL」(簡易レストラン)とかかれた看板があったので何が食えるかわからないが入ってみた。おばちゃんはおそらく湖でとれたのだろう得体のしれない魚をとりだして見せ、調味料をもってこれをこれであれするのでよいか?と聞いた。よくわからんがそれでよいと答えると、10分後にとびきりおいしい魚料理が現れた。ビクトリア湖は見えないが、アフリカの田舎の風を感じながら地元の料理に舌鼓をうつのはなかなかに幸せな時間である。宿に戻って、隣の部屋のフランス人旅行者と情報交換したり、バールにいってサッカーのアフリカカップファイナルを観ににったりして旅らしい夜は更けてゆく。
2007.08.09
2000年2月12日ナンユキからナイロビに戻ってきてからはもう肩の荷もおりた気楽さで楽しい日々がすぎていった。イクバルホテルの日本人たちとエチオピア料理を食べにいった。エチオピア料理といえばもちろん「インジェラ」である。エチオピアの方には悪いが、あのネズミ色のぞ○きんのような生地に、まるでげ○のような酸っぱいソースをかけてたべるなかなかに気の強さが必要な料理だ。でもくせになるあじだったりする。ナイロビのディスコ「フロリダ2000」では現地の女の子と仲良くなって、一緒にデートしたり家に招かれたりもした。アフリカにきたからにはとサファリに参加してライオンや象をみてきた。参加中に微熱を出して寝込んでしまった。旅行中にできた擦り傷2カ所が2箇所とも化膿してぱんぱんに腫れ上がって抗生剤をがぶ飲みしてやっつけた。アフリカにはどんな細菌があるかもわからない。そしてナイロビの大使館で彼女からの手紙を受け取った。今、彼女はどこで何をしているのだろう。盲学校の入学試験を受けるといっていたっけ。彼女の将来が万事うまくいくように遠いところから祈ってみる。そんな風に肩の荷が降りたあとの旅は心地よくすぎていった。どれもこれもかけがえのない思い出だ。でも何かが足りないんだ。ここには、旅の途上の発見はあったにしても、あの山にいるときの上を目指して登ってゆく時の昂揚はない。ひとつ夢を叶えて次の夢を見始めた僕にとっては、次のスタートラインにたつことこそが必要なことかもしれない。それでとにかく残りのアフリカの日程を使ってウガンダに行くことにした。ウガンダにはアフリカ三山のひとつ「ルヴェンゾリ」と言う名の5000m峰がある。ルヴェンゾリははナイル川の源流の山として名高く、頂上に至る道はジャングルと湿地帯が続き、しかも頂上付近はほぼ365日深い霧に閉ざされた伝説の山である。ある意味、今回のケニア山よりもあこがれの山であるのだが、今回は内戦のため付近は立ち入り禁止になっていた。でもまあいい。行きたい気持ちがあるかぎりいつかまた登る機会はあるだろう。そのときのためにもウガンダに足を踏み入れておくもの悪くない。僕はアフリカでの残り少ない滞在をウガンダに行ってみることして、そしてナイロビの安穏とした日々に決別するかのようにして東に向かうバスに乗ってみたのであった。
2007.08.07
2000年2月4日朝がきている。ここはケニア山麓の町ナンユキの安ホテルの一室。窓のない部屋にも朝の空気が流れ込み、赤道直下ながらさわやかな空気が部屋のどこかに流れ込んでくる。僕は部屋の中でガソリンコンロをつけていっぱいのコーヒーを飲んだ。きのうは久しぶりに心も体も解放された安堵感からぐっすりと眠れた。今回の旅の目的を果たした達成感があらためてこみあげてくる。そして達成感と安堵感の心の一方でまたえもいわれぬ感情がこみ上げてくるのを感じていた。明日はナイロビに戻る予定なので今日はこの平和なナンユキの町を散策する。散策といっても10分もあれば歩けてしまう赤道直下の小さな町だ。そうか赤道直下にあるのなら。と南半球に遊びに行くことにした。町を抜け南に20分ほど歩くと赤道の標識があった。周囲には「赤道小学校」とか「赤道病院」とかあるぞ。もっとましなネーミングはないものか?赤道には昔地学の授業で習った「転向力(コリオリの力)」の実験ができるように桶がおいてあった。地学の授業が大好きで共通一次理科も地学で受けた僕には懐かしい。転向力F=2mvωsinφ赤道直下はsinφ=0∴f=0である。つまり洗面所の排水溝に流れてゆく流水は北半球では左回り。南半球では右回り。赤道直下では回転せずに流れるということになる。だから何?といわると困るがそういうことなのだ。ついでに言うと1日1週の自転する地球にあって、赤道は時速1666キロのスピードで回転していることのなる。どうでもいい話であるが、今自分がそんなように目に見えないうねりの中にあることは僕自身のこれからを示唆しているようで僕をすこしばかり感激させた。そして昨日から僕の心中に巣くっている感情が形をあらわにして喉元から飛び出そうとしているようだった。赤道上は観光バスがひっきりなしに訪れては去ってゆく。昼の太陽が66.6度の南中高度でぎらぎらと降り注いでくる。ふと遠くの草原から風がながれてくる。赤道の風は熱くもなく、寒くもなく、体温と気温の境目をさわやかに流れていく。そして、頭の中にここではない場所の光景が鮮明に流れる。ネリオンの壁を登っている時のあの緊張感アンデスを登った時のあの昂揚旅のあいまに出会った山、人、風景・・・「ねえ」と彼女の声が聞こえる。「夢を追いかけている君って最高だよ!」感情が心の底から奔流となって流れ落ちてくる。山に行きたい。夢を叶えたい。そしてもっと・・・もっとここではないどこかへ!まだここで終わりじゃないんだ。アンデスの山に登って、アルプスの山に登って、そしてアフリカの山の夢も叶えて、それでもまだまだ先がある。つきることのない夢は形をあらわにし、衝動をかりたて、2日前のアフリカの山でさえ思い出にしてしまおうとしている。でもそれでいい。心のそこからほとばしる感情はけしてうっとうしいものではなくむしろ心地よい感情でさえあった。山のこと仕事のこと彼女とのこといつかすべてに結論が出る日がくるのだろう。でも今その時を待たずに、自分の方から全力で突走って行きたい。赤道上にはいつしか観光客は去って、静寂に包まれていた。そして僕の心にまたひとつ次の夢がともるのであった。そしてまた彼女への感情についてもほんの少しだけ、1歩横にずれてみることができたのかもしれない。そんな風に感じながら帰北半球への帰路を歩いていた。
2007.08.06
2000年2月2日さあいよいよ下界へと下る日。本当ならここから16キロ歩く予定だったのであるが、また例によってポールがごねだした。「俺は疲れている。もう歩きたくない。小屋の親父が町へ出るのに500シリングでジープに乗せていってくれるそうだ。500シリング払ってくれ」ときた。歩くのはいやじゃないし、のんびりとオーラスを楽しみたいので、できればここでポールとさよならしたいくらいだ、だがまあそういうわけにもいかずに500を折半するということで妥協してジープで帰ることにした。しかしジープで走れるとはいえひどい道である。250シリング払った僕に用意された席は荷台である。荷台の席はでこぼこを踏むたびに激しく揺れて振り落とされそうになる。そして対向車とすれちがう度にもうもうとした砂煙に巻き込まれる。行きの時と同様に真っ先に助手席に乗り込んだポールは涼しい顔をしている。1時間くらい激しく揺れてゲート通過。ここから少し道らしくなって午前9時には麓の町チョゴリアに着いた。ああやっと娑婆だ!と思ったのは僕よりもポールの方か。ナンユキに戻る前にここで朝飯にしようと言い出したポールの提案に、うんそれももっともだとザックを下ろす。近所のレストランに入ったポールはビールを飲もうと早速注文。いくら何でもまだ9時だぜ。そっちはそっちで勝手にやってくれとこちらは軽めのブレックファストを取る。しかしアフリカでは朝から酒を飲むのは罪ではないらしく、周囲の暇そうな男どもは何杯もビールをあけつつビリヤードに興じている。もちろんポールもそのひとりだ。その合間を忙しそうに動き回っているのはやはり女性で、やはりここアフリカでも働き者は女性、怠け者は男性という万国共通の図式がある。「さあもういいだろそろそろ行こうぜ」と声かけるが、ポールがゲームに熱中して、瞬く間に6本のビールが空いた。さすがに頭来て「おいいい加減にしろよ」と日本語で怒鳴ったらようやく重い腰を上げたポールである。チョゴリアからメルーへ。26人乗った乗り合いハイエース(ほんとは9人乗り)にて1時間。さらにメルーから10人乗ったプジョー(ほんとは5人乗り)にて無事にナンユキに到着したのである。ああやっと到着だ。しかし、やっとの肩の荷を下ろしたい僕の前にもう一波乱待っていた。前回泊まったリバーサイドハウスに荷物を取りにいく。ここはいろいろな意味でうるさいので今回はここに泊まるつもりではなかったのである。すると、何かを聞きつけたのかたまたまいたのかどうなのかそこにはアンナが立って待っていたのである。そういえばケニア山に出発する前夜に彼女の誘いを断って、「山から下りてきたら会おう」などとその場しのぎの言葉を語ったことがある。別に前回のことで何かを約束したというわけでも何でもないので何も憶することはないのであるが何となく、せっかく一人の夜を過ごしたいと思っていたおりには何となく気まずい気持ちになる。そんなことを思っているうちにまたもやポールが「ビール飲もうぜビールビール!」と騒ぎ出した。しかも「今回は旦那のおごりだよな」とかふざけたことを言っている。お疲れさまでビールおごるのは別に構わない。だが。「ビールは部屋を決めてシャワーを浴びてからだ!今は勝手にやってくれ!」と釘を刺したら、向こうも逆に怒り出して、しかも勝手に人のつけでビールを注文しだしたではないか!「ブチ!」と音をたてるように堪忍袋の緒が切れた「ふざけんじゃねえ!」ろくに働きもしねえで、金くれ、物くれ、チップくれ、ビールおごってくれだあ!人にさんざん不快な思いさせやがっててめえ何様のつもりなんだ!本当にこの美しい山を食い物にする奴らは最低だ!スワヒリ語がわかんなかったのでもちろん日本語で怒鳴った。でも怒鳴ったあとでむなしくなった。良い悪いとかではなくここはそういう文化や考え方なんだから、自分の立腹ももしかしたら価値観の押しつけなのかもしれないと思ったからだ。勝手によその国にやってきて、山登って、酒飲んで、女抱いて、もしかしたら反感を買われているのは僕の方かもしれないのだから。そうなんだ。ここがいやだったらその場を去ればいいのだから。僕は重いザックを背負い直してその場をとにかく離れた。背後にはアンナもいたのであろうが、僕には振り返る余裕がなかった。そしてその場を離れたら、何かひとつ吹っ切れたような気がしてようやく晴れ晴れとした気分になれた。ナンユキの目抜き通りを反対側に歩いてやや格下のゲストハウスに200シリングの宿をとった。ここからうるさいガイドもポン引きも娼婦も訪ねてはこないだろう。シャワーを浴びて、さっぱりし、洗濯をして夕食に固い固いステーキを食べてビールを飲んで夜は21:00に眠った。久しぶりに一人きりの夜。久しぶりにぐっすりと眠れそうだった。今回の旅の目的を果たした夜に僕がみる夢はどんな夢だろうか・・・
2007.08.04
2000年2月1日昨晩は19:00に眠って、ぐっすりと今朝は6:30起床。筋肉痛はないけれど。高度による頭痛は昨日にましてひどく、すこし動くたびに頭ががんがんと痛む。でも今日は下りだけだ。標高4000mまで下ったら嘘みたいに頭痛は消し飛ぶはずだから。8:00ポールとともに下山開始。ふと後ろを振り返る。ネリオンの南東壁に、昨日1日停滞していたドイツ人とおぼしきパーティーが壁の中程に張り付いている。昨日は自分が主人公だった舞台がもう過去のものと化している。ならば僕は次の舞台を求めて歩を前に進めるしかないのだろう。荷物は初日にくらべ格段に軽く、娑婆へと向かうポールの足取りも初日とは比べ物にならないほど軽い。それに反して高度障害に苦しむ僕には歩く度に激痛が頭の中に突き刺さる。4000mまで下れば4000mまで下れば・・・そんなことばかり考えて、僕は頭を抱えながらのろのろとひとり下りてゆく。急な下降を終えて、あとはだらだらとした下りがどこまでも続く。1時間半ほど歩いてミントハットに到着。ここは草原に池の点在する素晴らしい所だった。こんなところに気のあった仲間と何日かキャンプしたら最高だろうに。 ミントハットを出て、更になだらかな丘陵をひたすら歩く。空気は乾燥してほこりっぽいものの道は非常に歩きやすい。下るに連れて心なしか太陽の日差しも強く感じられ。上の方ではあんなに冷たかった空気もここでは心地よい。そして目の前の風景が草原から樹林帯へと変化してゆくにしたがって、頭にこびりついていた頭痛も和らいできた。いつしか草原はなくなって熱帯の樹林帯の中、ケニアロッジに到着である。まだ13:00今日中に下山できるぞ。しかし例によってポールはもうすでに疲れたからここに泊まると言い出した。まったくもってサーブの言うことをきかないやつではあるが、まあケニア山登山最後の日にもう1泊山で過ごすのも悪くない。他に誰も登山客などいない中、マットと屋根だけのバンクハウスに500シリング(750円)出して泊まる。小屋は粗末だが、のんびり過ごすにはいいところだ。そして明日はいよいよ下山である。山でもっとのんびり過ごしたい気分と、ああ明日はやっと一人になれるのかという気分が交錯している。小屋の主人に生ぬるいビールを売ってもらう。ビールを売っているのに栓抜きがおいてないので仕方なく瓶の栓を歯で開けて久しぶりのビールにありついた。山のことや人のことやそろそろ女のことなどが頭の中にかけめぐって久しぶりに飲んだビールはうまいようなうまくないような複雑な味だった。
2007.08.03
2000年1月31日続き 無事に壁を下りきり危険な箇所を無事通過した安堵感にしばし浸っていたかったものの、まだここで終わりではない。体はだいぶん疲れてはいたが精神的には高揚した気分のまま、僕は落石の多い崖推を慎重に下り氷河に降り立った。 ここま下りればもう小屋は目の前である、 後は今朝岩陰にデポした靴とアイゼンを見つければよいだけだ。 しかし、今朝すぐに発見できるようにと蛍光色の目印を置いた場所が見あたらない。見あたらないということはどういうことか? 単に広くて見失っただけのことか、それともその辺を徘徊する誰かに盗まれたのか? 登頂して気持ちよい気分にひたっていたところなので、ここは前者であることにして自分のミスを責める。まあ、靴もアイゼンも高校時代から使い古した年代物だし、思い出の逸品をこの赤道直下に葬るのも悪くない。それに、ちょうどこれからの荷物が減ってちょうど良かったかもしれない。 しかしそうはいってもアイゼンがないと氷河が渡れないと言う目の前の現実に対処しなければならない。 さいわい氷河は短いので氷河に沿って右岸を下りターミナルモレーンを回り込んで対岸に上がることができるはずだ。 渡れば10分の氷河に沿って、簡単な岩場を1時間下る。そこから氷河舌端の湖を周りこんでサイドモレーンの崖推を200mの登り。モレーンは大変崩れやすく死ぬような思いをしたが、まずは無事に登山道に合流して、今日1日暇をもてあましていたポーターのポールが鼻歌交じりに迎えに来てくれて、ザックを背負ってくれた。 へろへろの体に道案内は大変ありがたくて、17:30に無事に小屋に戻ったのであった。体が大変疲れ切っていて、もう何をする気も起きなかったが、ポールはいろいろ気が利いて小屋に着くなり暖かいお茶を出してくれたり、「腹へってんだろ」と野菜たっぷりのインスタントラーメンを作ってくれた。 ここまでいろいろありながらもポールの心遣いが嬉しく、ああ僕がいつも一人で山に登るのは結局は人の暖かさを知るためなのかもしれないななんてきざなことを考える。今 日は1日頑張って体がぼろぼろだが、今夜はぐっすりと眠れるに違いない。
2007.08.03
旅日記怠けている間に旅立ちの日からすでに8年たってしまいました。そろそろ旅を再開いたしたいと思います。古いアナログ写真をデジタル化してアップする作業がおっくうでつい二の足を踏んでしまいますが、写真はさておき日記の方でも先行させたいと思います。みなさまのご声援あればこそ末永い旅を続けられるものにつき、どうぞ今後ともご声援のほどよろしくお願いします。え~っとまずはアフリカのケニア山登山の続きから。
2007.08.03
もう標高は5000mを越えている。薄い空気の中、息を弾ませて次々と岩場をよじ登ってゆく。19ピッチ目からはもう難しいこともなく傾斜の緩いガリーを歩くように登ってゆく。23ピッチ目 易しいチムニーを登りきるとバチアンの雄姿が眼前に大きくなってゆく。もうすぐだ。心がどきどきする。24ピッチ目 最後のピナクルをふたつ越える。そしてケニア山主峰の一角ネリオンの頂上にたどりついた。誰もいない頂上には十字架がぽつんと静かに僕を迎えてくれた。僕はザックを下ろす間もなく、頂上に大の字になって横になった。もう視界をさえぎる光景もなく、眼前には赤道の上の空がどこまでも青く広がっていた。時計をみると10:52だった。所用時間はジャスト4時間。易しいルートとはいえ、標高5000mの岩場をすべてフリーソロで登ることができて大満足。何か長い間の宿題が片づせたようで実にスッキリした気分だった。僕は思い出したように、ここまで胸のポケットに入れていたマスコットを取り出して写真を撮った。確かにここまできたんだぞとの思いをこめて。。。さてケニア山はバチアンとネリオンの両ピークからなる双耳峰。標高5189mのネリオンからダイヤモンド氷河を隔ててバチアンは5201mの高さにそびえている。ここから標高差はわずか12m。距離は140m。ただしこの間は完全な岩登りなので所要時間は推定3時間。一番高いところ踏みたいし行っていけないことはないんだが、今回はここまでで十分に満足したので無理はしない。5000mを越えてから登るスピードが落ちてきているしここからの下りにも時間がかかるだろう。だからネリオンの登頂でよくやった。これで正真正銘本物のケニア山を登ったと公言できるだろう。こんな風にわざわざ難しいルートをたどらなくても頂上に立つためにはどうしても特殊な技術が必要になってくる。そんな山が好きだ。アルパマヨしかり。マッターホルンしかり。そこには人間側の思惑で作り出した山対人の敵対関係ではないもっとピュアな関係があるのだろうと思うのは僕だけだろうか。でもまあそういう山は登るのも大変ならば下るのも大変なんだ。ここからの下りは全て懸垂下降となる。持ってきたロープは50m一本。つまり一度に降りられるのは25mまで。一体何回の懸垂になることか。こんな僻地の山に下降用視点なぞあるまいと思って残置用の捨て縄とカラビナは大量に持ってきた。ともあれ不安はつきずに下降を開始する。まずは登ってきたガリーを下って右に行った所に真新しいハンガーボルト発見!大変心強く、ザイルを頼りにまずは25m懸垂下降する。おおすると降りきったところに再び下降用のハンガーボルトが打ってある。そこを懸垂下降するとさらに下降用支点発見!ここは人気ルートだけあって下降の支点もしっかりと作られているようだ。しかし安心してはいけない。登ってくるルートは屈曲していてルートは右に左にかなりふられていた。そこを真っ直ぐに下ってゆくと、登ってきたルートを離れて、自分の現在地がつかめなくなることがよくある。しかも迷っても下ってしまったルートを登り返すのは至難の業なのだ。だから下降中もルートファインディングには十分すぎるほど気を遣って下った。壁が横に広すぎて現在地はつかみにくい。左手はるか下にジャンダルム下のシェルターが見えている。正しいルートはもっと右よりだろうか?するととなりのリッジは一体なんだ?リッジ上のギャップから左に降りたら変な崖にでてしまい。もう一度登り返す羽目となる。右に降りたらアンカーが現れそこを支点に懸垂下降。そんなこんなで気が付けばいつしかビバークシェルターははるか上の方で午後の光に照らされて輝いていた。あれがあそこにあるということは自分のいる場所から左に大きく出ていかなくちゃいかん。するとどうやってトラバースしてゆくか?なんだかよくわからなくなってきたが、幸いなことにここからハンガーボルトが25m間隔で打ってあり、ほぼまっすぐ下に向けて下降することができた。支点の強度を確認し、ロープを支点に通し折り返したロープの末端を結んで、もつれないように下に放り投げる。もつれたらもう一回やり直して、下降器にロープを通し、ハーネスと支点を再度確認して下降する。途中のテラスでロープが回収できるか確認し、動かなければ登り返し、動けば下まで降りてゆく。そこでロープを途中でひっかからないように回収し、そして次の支点で同じ事を繰り返す。そのプロセスでたった一つのミスも許されない。1人では確認してくれる人もいないので、とにかく声をあげながら慎重に下ってゆく合計14ピッチ。350m。所用3時間の下降で無事にとりつきに帰着!これでとにかく無事に下山できそうだった。時間は14:22でまだ余裕もある。のんびりとザイルをほどいて下山の準備を整える。しかしここでまた問題が発生するのである。
2007.03.12
下の核心を抜けたとはいえまだ先は長い。ぶら下げていたザイルをサックにしまって僕は再び登り始めた。この上7ピッチ目は「ワンオクロックガリー」と呼ばれるポイント。易しい。8ピッチ目~10ピッチ目は易しい所を右にトラバース気味に登ってゆく。易しい分ルートファインディングが難しい。右手上方にマッキンダーズジャンダルムと呼ばれる岩峰が見えてきた。そこに左右から合流するように尾根がせり上がってきてその下あたりにビバークシェルターがあるはずだ。11ピッチ目 この辺はケルンがあるような易しいスラブ帯12ピッチ目 右へ右へと登ってゆき易しいスラブを100mくらいトラバースする。13ピッチ目 やや傾斜が強くなってきたところで直上するとそこがジャンダルムの尾根でそこにビバークシェルターがあった。よくこんな壁の途中にシェルター作ったもんだ。ジュラルミン性の些末な作りだがいざという時には心強い。こんなのが一の倉沢のテールリッジの途中にあればいいのに。ここでふと一息。今時間は8:22。13ピッチをわずか1時間半で駆け上ったことになる。太陽はまだ十分に登り切ってはいないが陽がさせば赤道直下のこの山はぽかぽかと暖かくシャツ1枚でも登れそうだ。空気は登るに連れ薄くなってくるがちっとも苦しさを感じない。今、目の前にそびえる壁を登ることだけが頭にある。最高の充足感の中に僕はいる。ここまですべてノーザイルで登ってきたが、ここからルートはちょっとだけ難しくなる。高度計もはや5000mに近くこんなところでノーザイルで岩登りしているだけで危険なことには代わりはない。14ピッチ目 リッジを乗り越えて左手の陰気なガリー(岩溝)に下り、バンドに出たところで上へ。技術的には難しくないがルートが分かりづらい。易しくてもでかい壁でルートを見誤ることほど恐ろしいことはない。折しもこの辺は派生ルートが入り乱れ懸垂下降用の捨て縄もいくつもぶら下がっていてわかりにくい。15ピッチ目 直上して4級程度のクラックを4m登ったらリッジ上のギャップに飛び出た。ここが「シプトンズクラック」か?いやしかし、リッジに合流するにはまだ早い。たぶんルートが違っている。仕方なく、シュリンゲ残置してこのクラックを下り、左へ大きくトラバースして残地ハーケンのある正規ルートを探し出した。壁の途中を右往左往するのはいつもやだ。16ピッチ目 やや難しい。17ピッチ目 ここから左に出てここでリッジに合流。するとおおここで上から降りてくる3人パーティに出会った。「hallo!昨日は何処に泊まったんだい?」中の1人が陽気に声をかけてくる「昨日は下の小屋だよ。君たちは?」「小屋だって?すごいスピードで登ってきたね。僕らは昨日このルートを登って頂上の小屋に泊まったんだ」こちらとしてはこんな岩山の頂上に1泊できる方がよほどすごいことだ。彼らの話ではもうこの先は楽勝のとのことで、人と合った安心感もあって気楽に登り続ける。ここまでくるともはや緊張感も不安もない。ただ山にいることを楽しんでいる自分がいる。まもなく傾斜がゆるくなって空が大きく大きく広がってくる。頂上はもう目の前だ。
2007.03.06
ネリオン南東壁の最初のピッチは易しいフェースから始まった。いきなりノーザイルではあるがいつでもロープを出せるようにしてある。陽が差したとはいえまだまだ壁は冷たくて裸の手が凍えそうだ。クライミング用に持参したシューズもこの寒さでは履くきにならず穴のあいたくたびれたスニーカーのまま岩を踏んでいった。3級の壁を20mほど登って、バンドを左にトラバースしてガリー(岩溝)に入る。ガリーは雪がついてしかも岩はもろく慎重に登る。ガリーの出口から右にトラバースする4ピッチ目で早くも先行するドイツパーティーに追いついた。登攀開始からここまで15分できたが、なんとこのパーティが登りきるのを待つのに15分も経過する。心強くはあってもこのパーティー昨夜ビバークした割に、まだここにいるのはあまりにも遅すぎる。このパーティーに先を行かれたのでは日が暮れてしまうと早くも不安になる。これはもう抜かすしかない。5ピッチ目で易しいが高度感のあるレッジを2~3越えると下部の核心部「マッキンダーズチムニー」の入り口に至る。チムニーは4級と少々難しいから普通は皆、チムニー右の「ラビットホール」と呼ばれるフェースから登るのが普通だ。すなわちここはルートが2つに別れその上での合流するそんなところだった。そして先行パーティーもそのラビットホール相手に苦闘しているところだった。今しかない。この遅い先行パーティーをぬかすためには今しかない。僕は迷わずやや難しい方のチムニーに入っていった。このチムニーはややバランスを要するところではあるのでロープを使おうかどうか迷ったが、でもと考える。先行パーティーを抜かすためにはロープを使っていたらだめだ。自信を持って登れば大丈夫だ。ここで僕はスニーカーをとっておきのクライミングシューズに履き替えてザックを背負ったまま登りだした。慎重に慎重に登る。手がかじかんで無感覚になりがちだが体には熱い血が流れて岩との接点を認識させてくれる。チムニーに一歩足を踏み入れるとさっきまですこしだけあった緊張感も解きほどけてゆくようだった。見上げたチムニーの彼方には蒼い空が輝いて見える。そして足下には数100mの虚空が開けてゆく。背中にはそれなりの重さのザックがあって万が一のために腰からぶら下げたザイルも今は重さを感じない。久しぶりに履いたラバーソールはまるで岩に吸い付くかのようにホールドをしっかりととらえ、さっきまであった頭痛はどこかへと消えて手足を動かす体は軽く、そうまるで山と一体となったような感覚だ。チムニーから岩を隔てた隣のルートから人の荒い息づかいが聞こえてくる。ちょっぴり恐怖心を感じながらも確実に僕はチムニーの上に登りたった。登りたったところは広いテラスになっていてほっと一息。下を見れば急峻な壁の上を先のパーティーがカタツムリのように登ってくる。そしてここから僕は完全に先頭に立った。
2007.03.06
2000年1月31日旅に出て1月目にしてようやく憧れのケニア山アタックの日がやってきた。憧れとはいえ、去年のアルパマヨの時のようなどうしてもっていう悲壮感がない分気持ち的には楽だ。朝4:30に起床し、まだすっかり眠っている小屋の中でごそごそと準備をする。朝食にリンゴ一個とコーヒー一杯まだ暗闇の外に出ようとすると階下の暗くてだれかはわからんがガイド連中の誰かが起きて声をかけてきた。お~励ましの言葉でも掛けてくれるのか?と思ったら「たばこに火を貸してくれ」ときた知るか一昨日の無理がたたって頭はがんがんと割れるように痛い。4000mから一度も下に下がっていないので高度障害は一向に治っていない。こんなんで高度5000mを越える地点での岩登りなんて危険だとはわかってはいるんだけどね。本音を言うととっととこの山を片づけたい。そして本当にあのうるさい連中から離れて一人きりになりたい。ひとりで山を楽しみたい。結局なんだかんだ他人に振り回されている今回の山を思うとなんだか悲しくもなってくる。何から何までひとりで登った山の方が数倍楽しい充実感もある。でも今は考えるまい。今はとにかく一人きりになれた。そして今日がこのたびの晴れ舞台だ。この一瞬を精一杯に楽しもう。5:30に小屋を出ると外は真っ暗闇。暗闇の中目の前にはルイス氷河が海のように横たわり、その上にネリオンが軍艦のように黒々とそびえて見える。標高4000mを越える高所に風がひゅうひゅうとふいて凍るように寒い。10分歩いて氷河の縁に立ち、そこでアイゼンをはいて氷の河をわたっていく。氷河は氷が見えていてクレバスの心配は少ないが、それでも歩いている氷が時折「メキッ」と音を立てると一瞬ひやっとする。いつ歩いても氷河の上の一人歩きはいやなもんだ。10分でルイス氷河をわたりきり、モレーンを越えると頭上の星も半分以上見えなくなった。いよいよネリオンが頭上に圧倒的に迫ってきたのだ。モレーンの上でアイゼンと靴を外し岩陰にデポ。ここから岩場の取り付きまでは急峻ながれを歩くが思いの外、トレールが安定していて、6:30問題なく取り付きの大テラスに到着する。空はいくぶんか明るくなって岩場もつぶさに見えてきた。壁全体は急だけど岩場の出だしはそれほど威圧感も無く、このままノーザイルでも登っていけそうに思えた。気がつけば上の方で人の声もして心なしか安心感も芽生えてくる。それはおそらく昨日このテラスでビバークしたドイツパーティーだろう。しかし安心感はいいが一本道の壁上で順番待ちにならないだろうな。めざすケニア山ネリオン南東壁ノーマルルートはグレード4級。ロープスケール700m。全24ピッチのルートである。ピッチごとのグレードは3級~4級-なので難しいこともあるまい。見た感じ雪や氷もなさそうだし天気もいい。技術的な難しさはないが、標高が5000mを越えるので高度障害に負けずに確実に登ることが求められる。そして何よりも心配のなのは時間である。普通にパーティーくんで登ったって24ピッチもの登攀には12時間はかかるだろう。それをソロクライミングの教科書通り登って降りてを繰り返していたら倍の24時間はかかってしまうのだ。だから危険ではあるが易しいピッチはロープの確保なしで登ってゆくしかない。落ちれば死ぬフリーソロ。標高5000mを越えるフリーソロ(ノーザイルで登ること)なかなかエキセントリックな題目である。幸い頭痛は晴れて、頭はしっかりと澄んできた。ここまで対人関係のことや彼女のことなどでごちゃごちゃ考えてきた頭がクライミングのことに急速に切り替わってゆく。山のことで頭がいっぱいになって、体中に力がみなぎってくる。何はともあれ行くしかない。大丈夫!おれならば絶対に登れる!陽の差し始めた6:52に僕は岩場をゆっくりとそして確実に登り始めたのである。
2006.12.30
2000年1月30日意外と暖かい空気に、昨日の頭痛もそこそこに夜はそこそこ眠れた。でも山の中にいるのにちっとも楽しくないのはひとりじゃないからか?そりゃそうだ。気のあった仲間と気ままに山登るのならともかく、別に山なんか好きでも何でもないおっさんと一緒に登ってるんじゃ楽しいはずがない。ともあれ今日はとにかくオーストリアンハットまでの移動だ。最短コースは昨日たどったとおりのレナナピークを越えてゆくルートだがあんなザレザレ道はもう沢山。なのでここは一旦シプトン小屋まで下降してそこからシンバのこるをコルを経由する。シプトン小屋にはものの30分で8時到着。しかしポールは仲間のところにいくとすぐに仕事を忘れてしまう。早く歩き出したい僕を横目に40分の休憩タイム。そこから黙々とシンバのコルにはい上がりあんだらかなザレのアップダウンしばらくでオーストリアンハット到着11:40である。まだ頭痛は残っているので今日の午後は休養とルートの偵察とする。しかしこの小屋もまた休養するにはよろしくない環境であった。ポールはすでにどこかに消えてしまったが、この小屋は他の登山者のガイドおよびポーターが十数名たむろしていた。彼らの主人は一体どこにいるのだろうか?いずれにしても主人ほったらかしで遊んでばかりなのは何もポールに限ったことではないようではある。たむろするなら仲間うちだけでたむろってくれればよいのだが、こちらにもちょっかいだしてくるのがうっとうしくてかなわん。山の資料広げて見ていれば「どれどれ」と持っていってしまう。クライミングギアを整理しえちれば「どれどれ」と持っていってしまう。こちらが頭痛かろうが寝ていようがそばにやってきて騒ぐのは勘弁してほしい。明日の登攀に必要な捨て縄用のシュリンゲを結んでいたら、自称ガイドの兄ちゃんが手伝ってくれたんだがそのひもの結び方がただぐるっと結んだだけのあまりのいい加減な結び方だったので顔が引きつってしまった。命預けるロープにこの結び方はないだろ。指導者も指導書も不足しているのはわからないでもないが、こんなんでよくも人の命預かれるな。山の登るのに地図もコンパスも刃物もライトもライターも持っていないのだって、登り方の違いだから別に攻めるつもりはないのだけれどガイドという商売やっているのならば最低限の山の知識は身につけるべきであろう。なんだか小屋の中にいてもイライラしてくるので、小屋から離れた小高い場所でしばらくルートを偵察して過ごす。眼下にルイス氷河が大きく横たわってその先からいきなり高度差700m程の岩場が城塞のようにそびえたちその城塞をとりまく垂直の壁の頂点にネリオンの頂上があった。ネリオンの南東壁は主峰のなかでももっともよく登られているルートで、その分気安いが反面落石の危険が高くなる。ヘルメットを持ってきていないのでやや気がかりではある。ただルート自体はそれほど難しくなさそうで問題となるのは時間と高度だけだろう。もう午後の遅い時間だったが今頃ルイス氷河を横切って壁に向かってゆくパーティーがいる。ガイド達の情報によればあれはドイツ人のパーティーで今夜は岩場の基部に泊まり明日朝一で壁にとりつくのだという。そのパーティとは逆に壁を懸垂下降で降りてくるパーティーが一組。そのパーティーのライン取りを目で追ってみたらルートがおぼろげに見えてきてああこれなら絶対登れる!という自信になった。よし!いける!いけるぞ!懸案していたヘルメットは小屋にたむろっていた自称レンジャーの兄ちゃんが1日15ドルで貸してやるとか言ってきた。黄色い丸形のヘルメットはたいへんにださい代物ではあったが安全にはかえられない。15ドルの変わりに日本で100円ショップで買った電卓と交換に1日借りるということで交渉成立これですべての不安は払拭された。後は早めに眠るだけだ。とはいえ多少なりとも高度障害の頭痛が残って寝付きは悪い。しかもやけに窮屈だなあと思ったらなぜかガイド連中がわざわざ、他の棚が空いているのに、僕が眠っている2階の棚にやってきて窮屈そうに眠っているのだ。ああ!ほんとにもう!
2006.12.25
2000年1月29日標高も4000mを越えると夜は結構冷えこんだ。今日はカミハットまで登ってそこから主峰の外輪山を単独で1週するつもりである。6:30に起床し素ラーメンを食ってすぐに出発の準備するがポーターの準備待ちに1時間。昨日あんまり遅かったし、自分の気持ちにひっかかることもあったので今日から自分の荷物は自分で持つことにした。まさに何のためのポーターかよくわからんが、とにかく自分の気持ちには正直でいるべきだ。ポールの荷物は20キロ程度になって僕の荷物は30キロ。担ぐ荷は重くなったが心は少し軽くなって心身共にいたって快調でわずか40分でカミハット到着。20分ほど遅れてポールも到着する。さて今夜はここに宿泊予定なので不要な荷物は全部小屋に残して、僕は僕で1人偵察を主峰の偵察と高所順化を兼ねてレナナピークを目指すことにする。ポールには荷物番ということで小屋に残ってもらう。つまりは山に入って念願の単独行動である。ザックに行動食とお茶などつめこんで10:00出発。レナナピークはケニア山外輪山の中で一番高いピークで、主峰の登頂が困難なため一般にレナナピーク登頂をもってケニア山に登頂したと定義されてはいるものの、悪いがレナナピークなど外輪山の一突起。この山を登ってケニア山に登ったということは例えば、三つ峠に登って富士山に登ったよと言うくらいに無茶な定義なのである。カミハットからレナナピークまでは標高差500m。体も快調だし1時間でかけあがってやろうと小走りに登り出す。しかし焦りが注意不足をよんでどつぼにはまる。地図にのっている水平道がないのである。しかたなしに100mもの下降を余儀なくされ、その後でレナナピークまでの大斜面を登り出す。しかもこの斜面の道は地図には載っているが道とは思えない道。砂礫を積み上げた斜面にか細く続く踏跡は3歩進んで2歩下がる蟻地獄のような道で大変に体力を消耗するのである。酸素が薄いなか1時間の悪戦苦闘後レナナについたのは11:50とえらく時間を費やしてしてしまった。 レナナピークからケニア山主峰無理して気合いしれて登ったために高度障害が顕著にでて頭ががんがんと痛い。寒気までして手足もしびれてきた。もうこの際レナナピーク登頂を、もってケニア山に登ったと公言してよろしいのではないか・・・とりあえず低いところに下ろうとカミハットとは逆のオーストリアンハットに降りる。ここはレナナピーク表の肩みたいなもんだから登山者で大にぎわいである。さっきまで誰もいないザレザレの大斜面を登っていただけにこのにぎわいは違和感を感じてそそくさと立ち去った。このあとで山群を一週するつもりであったがなんだか今日は体力を消耗してしまったので大人しくカミハットに戻った。ここ数日そうであったように午後の山は霧の中であったが帰り道のさなかに久しぶりに山の中に1人になった満足感を感じていた。しかし夜ともなればまたあの葛藤の中に入る。そう今夜は粗末な小屋にポールと二人きりである。しかしながらその憂鬱は杞憂に終わった。食事時になってお互いに持ち寄った食べ物を何となく差し出し合う食事は各自の約束であったが今夜はポールが持参した食料をいろいろと振る舞ってくれた。「俺はどうも体力では旦那にかなわないからな、だから料理ではまかしてくれ。俺は名コックなんだ」とポールは笑って言った。僕の方も、日本から持参したみそ汁を彼に振る舞う。いい加減なところはあるがこうやって面と向かって話しをすれば彼は彼で悪いやつではないのだ。もしかしてガイドという職種に嫌悪感をいだいて自分から壁を作っていたのは僕のほうなのかもしれない。つかのま彼とうち解ける。山にいて整備された環境ではなくお粗末な環境にいる方が人と人との結びつきは強くなるのかもしれない。この小屋は標高4500m木造の粗末な作りだが夜は以外とあったかく眠ることができた。本日の高度障害と壁の状態を考慮してケニア山登山ルートはバチアン北壁からネリオンの南東壁に変更することにした。明日はその出発点となるオーストリアンハットまでの短い行程である。
2006.12.16
2000年1月28日今日も朝から素晴らしいお天気だ。そして今日からいよいよ歩行開始である。今日の予定はカミハットまで標高差1100mの緩やかな登り。どこまでも広がる大地にそびえるケニア山の雄志目指すケニア山はそんな大平原のさなかに情けないくらい小さくそびえてさながらおっぱいの上の乳首のようなもの。その乳首のふもとを目指してひたすらなだらかな丘陵を上り詰めてゆく。 ポーターのポールに預けた荷物は登攀具などおよそ10キロ。10キロ預けたとはいえ僕の背中の荷物もトータル20キロを超えてけして軽くはない。ポールは16キロまでは背負うと言っていたが、あまり預けてもこちらの気分は良くないので控えめに10キロにしといたが。それでも彼の自分の荷物がやたらとでかくて重いからプラス10キロの荷物でもしんどそうだ。普通ポーターを名乗るのならばヒマラヤだってアンデスだって女子供でも30キロ背負うもんなんだけどなあ・・・などと愚痴る自分と、金で楽さを得ている自分への多少の嫌悪感がまざってあんまり気分良くない心中である。早いとこ山に登りたい自分の気持ちに反して、ポールはすっかりばてばてで10分歩いては小休止。30分歩いては大休止。行程はいっこうにはかどらない。だがしかし今日はどうせアプローチだ。標高も4000m越えているしのんびりいくのも体調には悪くない。 急登はないけれど緩やかに道はあくまで登り続けて、遙か彼方の乳首もやがて目の前にでっかくそびえるジャイアンツとなった。真上から照らす太陽も少しは西に傾いて、それでもまだ十分な高さにある。15:00ちょうどにシプトン小屋に到着。シプトン小屋は有人有料のベッドつきの小屋で、たいがいの登山者はここで泊まる。ここから1時間ほど登った山の中腹にあるカミハットは無人のお粗末な小屋だ。無人の避難小屋であるカミハットに比べシプトン小屋の方が快適には違いないが高度順化のためにも今日中にもう少し上に上がっておきたい。それに山にきてまでの雑踏はもともときらいな僕である。よしもう少しだ頑張ろう。そうつぶやいてザックを背負った僕の背後でもうすでに歩く気を失ったポールは座ったままだった。「俺は今日疲れている。今日もうこれ以上歩けない。今夜はここに泊まりたい。」さすがに計画のイニシアティブをとられるのは本末転倒のことなのでいや今日中にカミハットまで行くんだ。何ならひとりもでもいいんだ。と僕は主張したの。できればもう契約はここまでにしてここから先はもう一人で行動したかったのではあるが、さすがにそれは言わなかった。結局、宿の主人に交渉して宿代ただにしてもらうからということでお互いに納得し、今夜はこの小屋で泊まることになったのである。今日も投宿そうそうポールは仲間のところに行ったきり姿をみせないがそのほうがかえってありがたい。いろいろ感じ入ることはるのだが1人になって山を見上げるときは心は和む。シプトン小屋の眼前にはバチアンが大きくそびえている。僕は午後の時間のんびりと紅茶を煎れながら山の姿を眺めてみた。ケニア山の主峰バチアンとネリオンは周囲をぐるりと岩に囲まれさながら城塞のようだ。目標のバチアン北壁は雪をべったりとつけて非常に厳しそうだ。スタンダードルートは技術的には登れそうだが岩雪ミックスとなると時間がかかって厳しそうだ。標高4250mとそこそこの標高にやや頭が痛い。早く山を終えたい気持ちとあいまってバチアン北壁はやめてネリオン東南壁にルート変更しようかという気持ちもよぎってくる。今夜の夕食は標高が高くてうまく炊けないご飯の上にスープをぶっかけただけのキャットフード。それでも山にいる気持ちはまずまず。夜見上げた空には見たことのない星々が高々と輝いていた。
2006.12.12
2000年1月27日一旦、日本の家に帰宅した僕はまたやってくる圧倒的な日常の中で後悔している。そんな夢をみて目が覚めた。ホームシックってわけじゃないんだ。旅に疲れたといえば疲れたのではあるが、それはいつもの人恋しい心情によってもたらされる感情とは正反対のものだった。ただ今、ひとりになりたいんだ。誰もまわりにいない圧倒的な孤独の中に入っていたいんだ。アフリカにきて1週間、よきにつけあしきにつけつねに周囲に誰かがいる状態で人間関係に疲れた面もある。そして今日からせっかく、自分の大好きな山に入っていこうとしているのに、同行しなけらばならない人もいる。それが多少なりともうっとうしかったのだろう。気持ちよい朝の空気の中で出発の準備を整えていると今回雇ったポーターのポールがやってきた。話しからなにかとうさんくさそうなおっさんではあるが、とにかくこれから1週間の相棒である。 出発前に記念撮影。筆者(右)とポーターのポール(左)今回ベースまではシリモンルートをたどる予定。シリモンまではバスの便はないので車をチャーターすることになる。車はポールが手配してくれた。同じくシリモンから登るイギリス人1人、ドイツ人2人+ポーターで車をチャーター。チャーターとはいえ車はぎゅうぎゅう詰めで料金は1人23ドルなのだから明らかにぼったくっているのであるが、じゃあひとりで行きなと言われても困るので納得してぼられる。 1時間ほどダートを走ると公園ゲートへ。ここで入園料などの手続き(1日12ドル)をする。ここからはなだらかに隆起した平原の彼方にケニア山が小さく見えてのびやかなところだ。さて本来ならここから登山開始となるのであるが、今日宿泊予定のオルモカスロッジのジープが宿まで入るとのことで渡りに船をばかりに乗せてもらった。そんなんで今日はまったく歩くことなく13:30にロッジ着。余裕のあるうちにあと3時間歩いてリキノースハットまで行こうとポールに提案したら「このロッジには友達がいるんだよ。それに、もう今日は歩きたくないよ」といってそそくさとロッジの裏の仲間のところに行ってしまった。まあ本来の予定だし不満は言うまい。こちらも予定外に出来た時間にのんびりと周囲を散策できるというものだ。今回はポーターも自分も別々に食事を用意することにしたので、食事時の不和もなく自分の時間を持つことが出来るのは幸いであった。夕食後にどこからかポールが現れて「明日は友達がシプトン小屋に泊まる予定なので俺たちもそこに泊まろう」などと言うが、少々イライラしつつ無視する。明日は標高4000mを越えてカミハットまでの予定である。
2006.12.08
2000年1月26日狭いベッドの寝返りも打てない窮屈さを感じて目が覚めた。目が覚めると同じベッドに浅い黒い肌の背の高い女性が全裸で安らかな寝息を立てていた。昨夜のことが切れ切れに脳裏に浮かんでくる。ナンユキはケニア山登山を前にした植村直己がダンスホールで知り合った黒人女性と一夜をともにしたという逸話でも知られているところではある。そんな町でケニア山登山を控えた僕も同じようなシチュエーションにあった。ただ違うのは氏は20代前半の清純な初体験であったのに比較して、僕の場合はもともと女好きと娼婦のよくある出来事ということぐらいか。よくあることなので後悔とかは別にないが、明日山への出発を目前にしてやるべき事とこの状況のギャップにしばし戸惑う。起きあがった僕に気がついたのか彼女も目をあけて「グッモーニン」と言った。起き抜けのシャワーを浴びると彼女は「一緒にご飯食べにいこ」と言った。アフリカでは商売と商売でない女性との垣根は非常に曖昧だ。その垣根の低さにどう対応していいかとまどう。しかも明日からの山の準備に今日は食料や燃料の買い出しや、銀行でお金をおろしたりなどの仕事があった僕は山のことで頭がいっぱいだったので彼女の言葉も上の空に響いた。だからといって「おれはやることがあるから」なんて彼女を追い返すのは人としてあんまりのような気がした。ならば毒を喰らわば皿までだ。「明日からケニア山に行くんだけど、食料や燃料の買える店とか教えてよ」僕の申し出に彼女は快く応じてくれた。彼女名前はアンナと言った。キクユ族出身の23歳。英語を流暢にしゃべる。町のスーパーマーケットや郵便局や銀行の場所を教えてもらったりタクシーや市場の適正価格を教えてもらったりと非常に頼もしいガイドである。昼ご飯にテイクアウトでニャマショマチップス(焼き肉とポテト)を買って彼女の部屋で食べた。所詮一夜の相手に継続的な関係はのぞむべくもない。だから僕も割り切って、一夜過ごしたとは忘れて彼女と友人のように過ごす。このこと事態は間違いではないはずだ。ナンユキの町並みおおかた買い出しもすんで、彼女とふつうに別れて自分の部屋に戻る。昨日約束したポーターと明日以降の計画を詰める。そして買い出しした食料などをパッキングする。山の準備が整うほどに気合いが入ってくる。山のことで頭がいっぱいになってくる。そう。日本をたって4週間目にしてようやく目的の山にあいまみえることができるのだ。そう思うと山への思いがみなぎってくる。集中力が高まってくる。僕は心持ち興奮した気持ちのまま自分の部屋のベッドに入ろうとした。明日の朝は早起きである。するとそこにノックの音がする。なんだよまたガイドの勧誘かよ!と憤り気味にドアを開くとそこにアンナが立っていた。「ディスコにいないからどうしたのかと思って・・」というや否や彼女にベッドに押し倒される。だけどだめだった。この山を目前にした高揚した気持ちの中ではたとえ誰であっても抱くことはできなかった。「ごめん。今夜はだめなんだ。」「何で?」「山の前だからひとりでいたいんだ。わからないかもしれないけど今夜はひとりで寝たいんだ。ごめん。」「うんわかった。今夜は帰るから、だけど山から戻ったら絶対合ってよね。きっとだよ」そう言ったアンナは去っていった。素直に帰っていったことがなおさら僕の心に罪悪感を感じさせた。ふと日本ににいる人のことを思いだした。「ごめんね」そうつぶやいたのは誰に対してだったのか?「やっぱり俺にとって一番大事なのは山なのかもしれない・・・」
2006.12.07
2000年1月25日続き宿は目の前に芝生があってなかなかすてきなところであった。重いザックをおろしてくつろぐまもなくそれは始まったのである。トントンと部屋をノックする音。何だろう?管理人がシーツでも届けにきたのか?とドアを開けると先ほどのガイドの1人が「ガイドいらんか?」と売り込みにくる。「これからシャワー浴びるんだから後にしてくれ!と追い払うと30分後にノックの音。今度は別のガイドの勧誘。それを追い払うとさらに数十分後にノックの音。ここはバンガロー形式なので結構外部の人間が玄関まで入り込んで来るのである。はっきり言って日本の新聞勧誘より数倍しつこく、そしてうっとうしい。「あのね俺はねバチアンの北壁というところを単独で登りたいのよ。いい?1人で登りたいの」そう説明すると「判ったじゃあベースから1人で登ればいい。そこまで俺がガイドしてやる」ときた。「ガイドはいらないんだって言ってるだろ」「OK じゃあポーターでどうだ。俺はストロングだから35キロ担げるぞ」「あのね俺はガイド雇うようなお金もないのよ」「OK じゃあ1日10ドルでどうだ」ああいえばこういう。あまりのしつこさに加え、単独入山禁止の懸念事項やさらに、その他めんどくさい手続きのことを考えてそのうるさいガイドをポーターとしてならばということで雇うことにした。ポーターとは荷物運びの事である。加えて彼には入山口であるシリモンまでの車をチャーターしてもらうことにした。出発は明後日である。こんな外国の山にきて素性のわからん人間と一緒に登るのはあまり気持ちはよくないがとにかくこれで懸念材料がいくつか消えた。そんな約束をした後も他のガイドがしきりに尋ねてきていたが「もう雇ったからいい」と断り続けているとそのうちガイド攻撃も無くなってきた。夕方暗くなる前に夕食に外に出た。ナンユキの町はこぢんまりしていて10分もあれば町を歩けてしまう。くすんだ町の彼方には目指すケニア山が小さく見えてきてのどか。治安もそれほど悪くないので明るいうちなら緊張もなくのんびりと散歩ができるところだ。宿近くのレストランでカランガとウガリを食べる。カランガとはジャガイモやキャベツと肉のごった煮で味は肉じゃがに近い。ウガリとはこの国の主食でトウモロコシの粉を練ってすりつぶしたものである。夜部屋に戻ってさあ日記でも書こうかと思う頃、安眠を妨害する大音響が宿併設のディスコから流れてきた。うるさ~い日記を書く程度なら我慢できるがいざ眠ろうとするとうるさくてしょうがない。うるさい。うるさくて眠れない。眠れない夜は酒でも飲むに限る。この国の連中に騒ぐなといっても無理だし、いいや一緒に楽しんじゃえ!そう思うと僕はディスコに出向いて、カウンターで冷たいビールを頼んだ。フロアに踊っている女性はもちろん黒人ばかりの地元娘の商売系もしくは準商売系反して男たちはイギリス系の白人がほとんど。そういえばナンユキには英軍キャンプがあったっけ。男たちはこのディスコで酒を飲みそして踊り、今夜の相手を連れ帰っていくのである。ナイロビのディスコでは日本人は人気だったけど白人御用達のこの店では日本人はやや部が悪いようで僕が彼女たちの激しい勧誘(?)にさらされることは残念ながらないようだ。僕は踊りの輪に入ってゆくこともなくカウンターでマスターと話しなど話しなどしながらタスカービールを何杯か飲んでいた。それでも白人と黒人ばかりの中で東洋人の姿はやっぱり目立つのか何人かの女の子が僕に声をかけていった。「ねえどこから来たの」「名前はなんていうの」「ねえ今晩暇?」などという会話が繰り返される。「そうだね」などとはぐらかしているうちに女の子は執着するまでもなくあっさりと他の男の元へと鞍替えしていった。そんな会話をしているうちにディスコはだいぶ客が少なくなってまもなく閉店の時間がきた。男達はめぼしい女の子をあらかたさらっていってしまったのか?大音響も鳴りをいそめてきたところで部屋に戻って寝るかなと立ち上がろうとした僕の前を背の高い女の子がふさいだ。黒い肌に長い髪のエキゾチックなにおいにぞくっとする。こういう場面でよくあるような自己紹介ごっこの手間もなくいきなり彼女は僕の背中に両腕を回すと、僕の顔を覆うように強くキスをした。唇を離した僕の目の前で彼女はささやくように言った。「ねえあなたの部屋に行っていい?」
2006.12.05
2000年1月25日治安の悪いナイロビも幾日かたつと快適に楽しく過ごすことが出来る町だということに気がついた。僕はイクバルホテルをベースにして昼間は山や交通機関の情報収集をしたり手紙を書いたり、夜はグリーンバーに行ったり、日本人旅行者とエチオピア料理を食べに行ったり、ディスコに行っては朝帰りしたりと楽しくも日々はすぎていった。だけどそんな折りにでも山のことと彼女のことは片時も頭を離れなかった。だからそんな日々におぼれないようにと僕は準備がそろうと早々にナンユキへと向かった。ダウンタウンの乗り合いバス乗り場からナンユキ行きの「ニッサン」に乗り込む。「ニッサン」とはトヨタハイエースを改造して15人乗りにした「ニッサン」と呼ばれる乗り物である。元々9名の定員に詰め込まれた乗客はざっと21名。こんな状況でも動くのだから日本車は偉大なのである。ナンユキはナイロビからバスにて3時間くらいの赤道直下の町であると同時にケニア山の登山口でもある。バスから降りると山の町らしい澄んだ空気。いやそんなすがすがいい空気を感じるまもなくきわめて人間くさい空気にとりかこまれてしまったのである。バスから降りた登山姿の僕をガイド志望の現地人が待ちかまえていたのである。お隣の国タンザニアのキリマンジャロと同様にケニア山への登山客が落とすガイドやポーターの費用は雇用の不安定なこの国の重要な外貨獲得手段である。登山がさかんな地域ではこの外貨をあてにしてガイド同行を義務づけている国も少なくない。安全や自然保護のためという大義名分hあるものの基本的には外貨獲得の思惑が強い。だからそんなところではガイドの質はよろしくないことが多いのだ。僕とて今までいくつかの登山でガイド登山を余儀なくされてきたものの、体力技術ともに僕を越えるものはおらず、正直あしでまといの感は否めなかった。「ケニア山登るのか?俺がガイドするぞ」「いや俺の方が良いガイドだ」「ケニア山までのタクシーはいらんかね?」キリマンジャロと違ってケニア山に登るのにガイドやポーターの同行が義務づけられている訳ではない。だから金払ってまで足手まといを連れていくのはごめんである。ただし単独での入山は禁じられているという話しもあるし、ガイドはごめんだがポーターくらいなら案内人代わりに雇わないでもない。そんな僕の心中を察したのか、次々にガイドが「俺を雇え!」と叫んでくる。「どこの山に登るんだレナナピークか?ならば俺がガイドするぞ」レナナピークはケニア山の外輪山でスニーカーでも登れる簡単な山だ。そんなハイキングと一緒にされてガイドされたらかなわない。「バティアンの北壁だ!」僕は手にしたアイスバイルを目の前にかざしてみせた。するとうるさかったガイド群が一瞬静まりかえって「お~テクニコ!」という声がどこからか漏れた。そう、ここナンユキを訪れる登山者のほとんどがケニア山といえばレナナピークを踏みに来る。レナナピークだけならば特別な技術はいらないからだ。だからこの辺のガイド連中はほとんどレナナピークオンリーのガイドであって、完全な岩登りであるバチアンやネリオンら主峰をガイドできる連中などここにはいないのだ。どうだ参ったか。これでこの場のイニシアティブはもらったと内心思った。しかし僕は甘かった。「ベースキャンプまでガイドしてやる1日15ドルでどうだ?」「ポーターやるぞ」と彼らは全くあきらめない。そのしつこさに参ってとにかく宿に逃げることにした。バス停近くにあるナンユキで一番高級な(といっても400シリング=600円)リバーゲストハウスに宿をとる。しかし後に思えばこれが後々の大きな間違いのもとであったのである。
2006.12.05
困ったことがあった。ケニアは高原都市なのでそれほど暑くはないんだが、日中日が差すとそこそこに暑い。暑い日差しのしたでどうしても欠かせないのはビールなのである。ケニアのビールは象さんマークの「タスカービール」であるしかしアフリカはインド文化圏であるせいなのか最寄りのレストランなどではビールを置いていないところがほとんどであった。ならばスーパーで買えばよい。しかしこの国ではビールは人肌温度で飲むのが正しいようで「冷たい」ビールは手に入らない。酒のあるレストランなどでもあえて「冷たい」ビールを注文しないかぎり生ぬるいビールが出てくるのである。それでもどうしてもきりっと冷えた冷たいビールで1日の終わりを締めくくりたい僕は毎晩、イクバル前の「グリーンバー」に出向いた。しかしナイロビでは酒を飲む店は例外なくマラヤさんの商売の場なのである。そしてマラヤさんは皆、趣味と実益を兼ねているのかと思うくらい積極的に商売してくる。マラヤとは娼婦のことなのである。ナイロビはタイバンコク、ブラジルのサンパウロと並んで世界三大性地と呼ばれるほどにこの世界最古の商売がさかんな土地であった。しかしアフリカのそれは商売と言うよりはどこか恋愛的な要素が感じられるものだ。実際にマラヤさんと仲良くなって商売を越えたつきあいをしている日本人旅行者も何人かはいた。アフリカの娼婦にとって仕事と恋愛のかきねはかぎりなく低い。グリーンバーもそんな彼女たちが頻繁に出入りしていて、毎晩のように通う僕には必然的に知った顔が多くなる。ある時はグラスを傾ける僕のそばに半分酔っぱらったマラヤさんが現れ、「ねえ今晩つきあってよ」と言った。「うん今度ね」などと曖昧に返事をする僕のビールを彼女は突然奪うとごくごくと飲み出した。「何すんだよ。返せよ」と手を伸ばした僕の顔を彼女は思いきりつかむと強くキスをした。娼婦に言い寄られて困るほどうぶじゃない。今までだって山の直後の達成感と旅のさなかの欲望に流されながら幾人の女を抱いてきたことか・・・だけど今はだめだった。こんな場末のバーでということはもとより、ケニア山登山の目前であるということと、彼女からの重い手紙を受け取ったあとではそんな気分もいっこうにおきず、僕は自分の首の後ろにからまる彼女の腕を苦労して引きはがした。そんな光景を一部始終見ていたのか、店員らしい大男が彼女の襟首をつかむと「おら酔っぱらい娘め、表に出ろ!」と彼女を店外につまみだした。うしろにひかれつつ「ダーリン!」などと助けを求められても困るのであるが、少しばかり心が痛んだ。旅人はいつも遠い異国の地をひとり旅しながらどこかに心安らげる場所を求めている。時に言葉さえ通じない異国の娼婦がその安らぎを醸し出す夜もある。言葉のいらない男女の会話が時に旅の方向を狂わせることさえある。ナイロビの夜はとくにそう・・・僕は首元に残った娼婦の腕の感触にいろいろと複雑な気持ちになってみるのだがその気持ちはけして不愉快なものではなかった。そう思うことで自分が旅の最先端で夢に近づくときのあの寂しさのさなかにいるのだということにあらためて気がつくのである。
2006.10.29
2000年1月22日アフリカとは言えナイロビの町には東アフリカの中心らしい活気と整然さがあった。そんな整然さは一介の旅行者にはどこか空々しく、入り込めない空気に寂しささえ感じてしまうものだ。昨日ナイロビに着いた僕は早速,受け取った彼女からの手紙の重さもあって、そんな空々しさを抜け出したい欲求にかられていた。朝起きると僕は荷物をまとめホテルをチェックインした。行き先はどこか?活気のあるところ人のいつところそして目的に近いところであるホテルを出た僕はすぐに目の前のタクシーを止めてダウンタウンまでと頼んだ。ここからダウンタウンまでは歩いていけない距離ではない。が治安のよくない街で荷物を背負っての移動はタクシー利用がセオリーだ。指を一本たてて「モジャ!」と交渉したが運転手は人差し指と親指をたてて「ンビリ!」と答えた。交渉をきらって言い値の200シリングで手を打った。ダウンタウンはナイロビのまさに下町と呼べる環境に位置し、適度な人混みと適度な排気ガスと過度の騒音が混在するところだった。ホテルイクバルはそんな下町の一角にある。イクバルの扉を開けると何もない空間にガードマンが立ってここに泊まりたい旨を伝えるとガードマンがさらに奥の扉を開けてくれる。その先の階段を上ったところにレセプションがある。つまりはセキュリティは下町にあって悪くない。レセプションで空いたベッドがあることを確認し210シリング(300円ほど)の宿代を払うと「じゃあ君は1号室ね」と案内される。もちろん部屋の鍵などは渡されない。1号室に入るとまだ昼間だということもあって5人定員の部屋には先客は一人だけだった。「こんちは」と日本語で挨拶すると僕は空いたベッドに適当にザックをおろした。ここはいわゆるドミトリー。つまり相部屋である。旅行者はわずか300円ほどの金の対価としてベッドひとつとその近辺の空間および共同シャワーと共同トイレを使用する権利を与えられるのだ。ユースホステルの下品なやつと想像すればよい。そこには旅行者同士のセキュリティはあまりないし、プライバシーは全くない。しかし何となく大部屋的合宿的な雰囲気がマッチしてこの手の宿は日本人の好みとなる。日本人が何となく好む宿は口コミで広がりいつしか日本人専用のような宿となってゆく。世界にはそんな日本人のたまり場として名をはせた宿が無数にある。たとえば、バラナシの久美子ハウス、たとえばプノンペンのキャピトルホテル、サンパウロのペンソン荒木、リマのペンソン西海、カイロのホテルサファリなどなど枚挙にいとまがない。ここイクバルもそのような日本人宿の一つであった。僕は実はこの手の宿を軽蔑し敬遠していたのである。人恋しさにそこに集まり、麻薬や娼婦におぼれそして次の一歩を踏み出す精力を失いながら日々そこに沈んでゆく日本人旅行にはたとえようもない頽廃のにおいがしたから。目的を持たずに世界を旅するものは必ずやどこかに沈む。もしかしたらどこかそんな安住の地を見つけることが彼らにとっての目的であるのかもしれない。しかし本当の意味での安住はそこに生活の基盤を移さないかぎり訪れるわけがない。だから多くの旅人がいずこの地にか惹かれ終いのすみかとまで思いながら、肝心のお金が無くなった時に始めてそれが幻想であると気が付くのである。しかし結局は僕もそんな日本人の一人であったのかもしれない。日本人から交通や治安についての情報を得たいということもあったし、何より同じ日本人の気安さからくる緊張感の緩和と治安の良さと、そして宿代の安さが僕をここに引きつけた。しかし本音の部分ではこのアフリカの片隅でひとりでいることの孤独に参っていたのかもしれなかった。午後の時間を下町の探索と、バスの時間の下調べなどについやしホテルに帰ってくると宿の住人がすでに帰ってきていた。隣のベッドにいた久野君という日本人とまずは意気投合した。ジャーナリストを目指す彼はアフリカの内戦をライフワークにして取材しているのだと言った。別の日本人は、エジプトから内戦のスーダンやエチオピアを自転車で走ってここまで来たと言った。息抜きできたので明日には南アフリカにむけてタンザニアに発つのだと自転車の手入れをしていた。また別の日本人はザイールからウガンダの道無き道をヒッチハイクで横断してきたと言った。2000年問題のことを聞いたら「もともと電気も水道も電話もないから関係ないのだ」と答えた。幸運だったのかもしれないがこの宿には頽廃の空気はなかった。むしろ周囲の人々の夢と旅への姿勢に励まされ、夢追う自分に納得がいく心地よさを感じていた。久々の日本語が心地よい。そして久々に夢を語り合うのが気持ちよい。遠い異国の地で今それぞれが夢を追い、その夢を手中にと行動してきた結果ここに集っている。そこに何がしかの不思議さを感じる夜であった。
2006.10.25
2000年1月21日続き目が覚めたのは昼過ぎだった。昼寝にしては長すぎたのか窓からは町の騒音と一緒にだいぶ傾きかけた夕陽が差し込んできていた。セキュリティのしっかりしすぎるホテルはかえって外界のからの刺激も少なく孤独感をいっそう強くさせる。そんな孤独間にあらがうように僕は表に出るとまずはいつものように日本大使館へ出向いた。町は活気に満ちあふれている。町を行く人々は当然のこと黒人ばかりで見慣れないせいもあってか圧倒される光景である。そしてタクシーやバスや客引きのがなり立てる騒音と人いきれ・・・そんなエネルギッシュな風景は多少、心地よくもあるが、しかしいつどこの路地裏から強盗が現れてもおかしくないほどの治安状況でもある。持ち物は危ないので手ぶらのまま歩いていく。いや手には幾ばくかのコインを握りしめている。こいつで多少の買い物は出来るし、いざというときは賊に投げつける武器にもなる。もちろん歩くときは路地裏ごとに振り返ることは忘れない。たかが数100mの距離にそれほどの気合いいれように随分と疲れた。日本大使館に届いていた手紙は2通。1通はイギリスにいるK子からだった。「I send you my heartful greeting word on your birthday! ~応援してるからね~」と書いてあった。ただそれだけの手紙に心から暖まる。そしてもう1通は彼女からの長い手紙だった「無事ケニア到着おめでとう。今頃どんな空気の中にいるのだろう?年明け早々私のまわりでいろいろなことがあわただしく動いていきます。障害者手帳2級を取得しました。1級というのは失明段階であるので2級というのはかなり重いらしい。春から私は盲学校で針灸師の資格を取ろうと思います。「見えない」ってことにも少しずつ慣れていこうと思って。手帳をとったのはそのために必要ということもあるんだ。いまはその準備手続きも終わりほっとしているところです。私ね、病気の事で悲しいなって思ったの、自分の人生の選択肢が減っていくことだと思ったの。選択肢が減ってゆくって悲しいよ。自分で選べないってことだもん。今、目の前にあるものが自分の意志とは別に遠くにいってしまうことってなんだかとっても悲しく、そしてどうしても惜しいと思ってしまう自分がいます。まだまだ未熟な自分がいます。あ~なんか一気に自分のことばかり書いちゃった。ごめんね。だから梅の花が咲く頃、君に会える頃にはもっとちゃんと話したい。こんな手紙じゃ書ききれないから・・・」その夜はもう一度眠れない夜に、孤独と迷いの中に沈んでいった。今自分がここにいることはこれでよかったのかななんて少し気弱になりつつ・・・・
2006.10.19
2000年1月21日朝7時。夜中にカイロを発った飛行機はナイロビに到着しようとしていた。飛行機が降り行く先には緑豊かなサバンナが見える。あの草原には象やライオンがふつうに跋扈しているのだろう。まだ見たことのない国、見たことのない風景に心からわくわくする。そしてまだ見たことのない国に期待と不安でどきどきする。タラップを降りると高原らしいさわやかな空気が身を包んだ。ケニアは標高1500程度の高原地帯。空気は暑すぎでもなく、寒くもなく、やや乾燥していてまあ要するに快適なのである。空港に着いたらまずは何はなくともホテルを予約してタクシーにて街に出なければならん。そのためにはまずは旅の常識、地図と情報をもらうためにツーリストインフォメーションを探す。しかし重い荷を背負い何かを探して歩き回る旅行者など絶好のかもなのだ。「こっちだよ」と案内してくれたおっちゃんについていって、インフォメーションに案内されることもなく結局、そのおっちゃんのタクシーに乗る羽目になった。寝不足でごねる体力もないしまあいっか。空港を出た車の脇にはど~んと地平線が見えそうな草原地帯が広がった。おおアフリカだ!アフリカなのだ!道路脇の草原にはふつうにシマウマが走っていたりする。そう。この空港の近くはすでに国立公園地区なのである。そしてその草原の彼方にまるでドームのようにスモッグかかかった大都市がケニアの首都ナイロビなのであった。ナイロビは、南アフリカのヨハネスブルグ、ナイジェリアのラゴスとい並んでアフリカ3大治安最悪都市なのである。ちなみに南米ではペルーのリマ、コロンビアのボゴダ、ブラジルのサンパウロがビッグ3だ。そのうちリマを経験している分だけ治安の悪い街の歩き方は知っているつもりである。しかしアフリカの治安悪さは想定も困難であって相当の緊張は禁じ得ない。ちなみにナイロビにはもうひとつ世界3大○○と呼ばれている都市なのであるがそれは後でいやがおうでわかることになる。試みにタクシーの運ちゃんに「ナイロビはそんなに治安の悪い土地なのか」と単刀直入に尋ねてみた。するとそのおっちゃんは突然怒り出したのだ。「NO!ナイロビはそんな悪いところじゃあない!誰だそんなこと行った野郎は!俺がぶっ殺してやる!」と頼もしいことを言ってくれた。そうなのである。アフリカは部族社会の精神風土が今でも残っていて、たとえば誰かが村の秩序を乱そうものなら一族一丸になって制裁を加えるとのこと。だからたとえば、町中で泥棒なんかを見かけたりすると、通行人が一丸となってその泥棒を捕まえ、寄ってたかってふくろ叩きにするということである。そういうと治安は良いような気がするが、反面、泥棒も命がけということでかえって凶悪かつ計画的な犯罪が多かったりするのである。タクシーの運ちゃんには途中で旅行会社に連れ込まれ頼んでもいないサファリのセールスをされたが、「頼んだホテルに連れて行かないのだったら金は払わない!」と強気に出たら予定していたホテルに連れて行ってくれた。今日はナイロビ初日と言うこともあり、様子見でやや高めの山の手地区に宿をとった。900シリング(約1400円)と高めだがセキュリティは比較的しっかり。とりあえずは仮眠して昨日からの寝不足を解消する。ベッドに横になった僕の脳裏にここまで来る道程が浮かんでは消えた。そして孤独感の中のまどろみに沈んでゆく。ロスに着いた日も、リマに着いた日も初めての土地に着いた時のベッドは期待よりも不安と孤独に彩られていた。また日本から離れて遠い土地に来てしまっている自分。冬の日本で彼女は今何をして、何を思っているのだろう?日本におざなりにしてきた過去がまた少し気にかかる。客観的に見ればこんな異国の治安の悪い土地にきて一人山に登ろうとしている自分の方がよほど心配に違いない。僕は孤独にあらがうように未来に目を向ける。ケニア山に登って、その夢が叶ったら次はヨーロッパアルプスに行くのだろう。そしてその夢の先には・・・その先にあるのは新たな夢なのか?自分はそのときどれほどの強さを身につけることができているのか?そのときに彼女との関係はどうなっているのか?考えながらもけして孤独と不安は消えることなくその中で僕は深い眠りへと沈んでいった。
2006.10.14
2000年1月20日機内には遠距離フライト特有の倦怠感が漂っている。バンコクから乗り込んだMS865便はなぜか日本人ばかりが乗っていた。そりゃそうで、MS865は東京発マニラ、バンコク経由、カイロ行きなのである。東京~バンコクの所要時間が9時間だから、そのうえカイロまで10時間も乗せられりゃそりゃ拷問だろうに。だからこそ、アフリカ大陸は日本人にとって遠い大陸なのである。そしてそんな日本人達の中にあって疎外感を感じる僕は昨年のヨーロッパを思い出す。まわりに日本人がたくさんいながらも、そこに疎外感を感じて遠い異国の中に孤独を感じていたあの旅を・・・そうだ。僕はそんな日常的な旅行風景から離れて新たな旅へ向かうの途上にある。機内は思いの外すいていたので4連シートに横になって快適に眠りカイロには翌日の明け方に到着した。タラップを降りると思った以上に冷たい空気が身を包んだ。エジプトって意外に相当に寒い。とりあえず空港のトイレに行くと、手洗い場にいたおっちゃんが「MONEY」と声かけたのが最初に話しかけてきたエジプト人だった。目指すナイロビまではカイロでいったん乗り換えねばならない。その待ち時間ざっと20時間。明け方のカイロ国際空港にて、ぞろぞろと降りてゆく日本人達について、空港のゲートをくぐろうとすると、「STOP!」と銃を持った二人のガードマンに僕だけ通せんぼされた。エジプシャンイングリッシュ聞き取りにくいが、要するに「ビザ」を持っていない人間はここから出ちゃだめよということらしい。ビザは空港で即日取得できるのでこの20時間の間に観光なども可能だがビザ代15ドル払うのしゃくだし、どうせナイロビの帰りに中近東旅するつもりだし、眠いしで、航空会社が用意してくれたエアポートホテルに泊まることになった。ホテルは無料だし3食付き。しかも食事が朝食からさっそく豪華!朝食後に仮眠して眠い目をこすり頑張って豪華な昼食を食べる。時差ぼけは激しく、昼食後に昼寝をしたらもう起きることはできずに結局夕食を食べ損なった。ちぇ1食損しちまった。と思うまもなく、フライトの時間が近づいてくると、ルームキーパーのおっちゃんに「ほらもう出発だ出ろ!」と追い出され、再び無宿の旅は続くのである。
2006.10.13
2000年1月18日日本を発ってずいぶんと時間がたってしまったような気がしていた。バンコクに戻り、次の目的地であるアフリカへのチケットを手にしたとき、まだ僕は旅の途上にあることを身にしみて感じていた。まだ旅は終わりではない。まだ見果てぬ先がある。そんな現実がほんの半月前に発った日本を随分と過去のものにしてしまっていたのだろう。そしてそんな思いは彼女に対しても同じだった。プラナンからクラビーに出て、窮屈な夜行バスでバンコクに戻った僕がとるものもとりあえず向かったのはバンコクの日本大使館である。そこに行けば間違いなく彼女からの手紙がある。そう約束したわけではない。けれどそこにあることを信じ、そしてそれを裏切ることなく、大使館のお姉さんは僕宛の手紙を5通ほど渡してくれた。1/1 1/3 1/5 1/7 1/9・・・・手紙の裏にはきちんとその手紙を書いた日付が書かれていて、それは今までとまるで変わらず、すべては前回の旅の続きを見ているようだった。1/3の手紙「日記、もう読んでしまったよ。7月25日の日記は私の心も不安やひとりぼっちとかいう感情でいっぱいになってなんだか泣きそうになった。なんだかそのときの君を抱きしめたくなったよ。ごめんね。結局何も役にたつことができなかった・・・」1/9の手紙「お誕生日おめでとう!君にとっては今日はこの世に生まれた奇跡に感謝する日。そして私は君がこの世に生まれ私と出会わせてくれた大きな力に感謝する日。今日という日が君にとって最高の日でありますように・・・」手紙に込められた一字一句が心の奥底までしみこんで心のエンジンに火をともす。そうなんだ。南米を旅した時は彼女の存在にほだされて後ろを向いてばかりだった。でも今は違うんだ。今は力の限り、前を向いて進みたいと思うんだ。思う存分に夢に向かってみたいと思うんだ。だってそうだろう。彼女から病気のことを告白された時に思っただろう。自分にできることは、山に登ること。夢に向かうこと。そんな生き方が人に感動を与えることができるのならば、僕が彼女にできることはそれだけなんだって。彼女にプロポーズしてふられた時に思っただろう。今の自分は弱すぎるんだって。だからもっと彼女のことを守れるくらいに強くなりたいんだって。強くなるために今自分ができることは未来に向かって走り続けることだけなんだ。だからもう悲しい過去は振り返らないんだ。手紙を読み返すたびに熱い感情が流れてくる。空白の未来が輝きを増してゆく。そしてそんな感情が僕の背中をぐいぐいと押してゆく。この半月の南の島での葛藤の中でまたひとつ彼女とのことに区切りをつけ、未来へと向かう自分がいた。アフリカにわたる最後の準備をしながらまたひとつ新たな期待と不安がわいてくる。そんなバンコクの夜であった。
2006.10.13
2000年1月15日今日はプラナンを去る日である。なんだかんだここプラナンには9泊10日もいていろんな人との出会いがクライミングの思い出を彩ってくれている。たったの10日では技術的に輝かしい進歩があったわけではないが、こうした経験がこの後のケニア山での自信となるにちがいない。そして様々な人との出会いや別れが、日本の日々で彼女とのことで複雑になっていた自分の感情に道筋を照らしてくれるような気もした。ならばここに来た価値は十分にある。オリーたちと一緒に朝食をとった後、彼らと固い握手をして別れ、僕はライレイの船着き場を目指して来たときと同じビーチを歩き始めた。船着き場に向かう道すがらで日本人と出会って誘われたので、重い荷物のまま「1・2・3」で少々クライミングを楽しんだ。なんだか名残惜しいプラナンである。今度ここに来るのはいつのことになるだろう?でも今は過去は振り返らないんだ。前へ前へ進むんだ。クラビー行きの粗末なボートに乗り込むと行きと同じような不整脈様のエンジン音を響かせてボートは走り出した。やがて岸が遠ざかって蒼い海が目の前いっぱいに広がって行く。ここに来た日には少し遠ざかってゆく日本に感傷的な気分になったものだがそれも遠い思い出にしてしまおう。今は過去や現実に後ろ髪引かれ後戻りつつしながらも、前を向くことだけは忘れないでいよう。ボートはほどなくクラビーに到着する。大地に足を踏みおろした時、それがまた別の新しい1歩であるような気がした。アフリカへの旅はまだ始まったばかりである。そして彼女への思惑も今、混沌の中から脱し始めたばかりである。
2006.08.17
2000年1月14日朝起きると全身が心地よい筋肉痛だった。日々のクライミングに筋肉は日に日にパワーアップしていくようだけど、全身体力使ってないから山に登る肝心の持久力が落ちていきそうだ。プラナンに来て9日目。そろそろここを去るときかもしれない。せめて思い残すことのないように精一杯クライミングを楽しむんだ。今日も昨日同様、オリーたちと一緒にくんでトンサイの北に最近開かれたという「イーグルウォール」という新しいエリアに行くことになる。トンサイからはボートに乗って海辺のエリアへ。ここはまだクライミングガイドにも載っていなく静かなエリアである。このエリアは最近できたルートらしく30~40mクラスのロングルートばかりでなかなかにパワーが必要なエリアだ。しかしパワーなら負けない。6bクラスを何本かオンサイトして最高の気分だ。終了点からの海の眺めがまた最高に気持ちいい!結局1日このエリアでみんなで遊んで気がつくと夕方である。今日もライレイまでビールを買いにいくことはできなかったが昨日今日と最高の充実感である。夜にはトンサイのレストランでオリーたちと乾杯しながら話をする。「明日はどこ行くの?」パウラが僕にスペイン語で尋ねた。英語でもタイ語でもない懐かしいスペイン語が僕の旅情をかきたてる。そしてその問いにどうしようかと自問自答する。この数日間のプラナンでのクライミングの成果を振り返る。なんとかかんとかながら6bクラスなら余裕でオンサイトできるようになったし、まあ今回の旅はクライミングが目的ではないからこのレベルでも十分に及第点ではある。だからこれでももういいだろう。もうここを発ってもいい頃だ。そう思ったならば行動は早い方がいい。「明日ここを発つよ。もうバンコクに戻るよ」僕もスペイン語でそう答えた。「日本に戻るのかい?」オリーが英語で訪ねた。「いや、日本はしばらく先だ。これからアフリカの山を目指すんだ」僕は英語でそう答えた。日本とタイのビーチとアフリカの山は普通の考えでは結びつかないものだが、オリーたちは「アフリカかあ!そいつはいい!気をつけて行ってきてくれ」と陽気に笑った。「君たちはどこに行くの?」今度は僕が訪ねる。「明日はレスティングだよ。近くの小島にシュノーケリングに行って来るよ」「シュノーケリングか!いいなあ。そっちも気をつけていってくれ」そして彼らと別れた後で僕は、そうかもう出発なんだと人事のようにつぶやきながら明日のバンガローのテラスで潮騒を聞きながらもう一度飲み直してみるのだった。
2006.08.16
2000年1月13日昨晩、寝ながらふっと考えた。心がどこかにひっかかって気持ちがマイナスになっている時って、何をやってもうまくいかなくて運にまでも裏切られるんだよな。「幸運は我らが努力の所産である」カーライルの言葉だったかな。その通りだ。そう気がついたからだから気持ちを前に据えていこう!彼女のことでとらわれている心を未来にむかって解放してあげよう!そう割り切ったら気持ちがすっと楽になっ胸の奥に情熱が芽吹いてきた。さあいこう!どんどんいこう!がんがんいこう!つまづいたりもするけれどかまわずに走り続けよう!走り続ければ風景も変わっていくし何かいいこともあるだろう。新しい発見や出会いもあるだろうだからまだ未の新しい世界にむかってさあLet's Go!ねぼけた頭のそう状態であってもそんな気持ちになることが旅を大きく変えることもある。朝起きていつもように筋トレとブランチをすませたあとで、心持ち気合いを入れて岩場へと赴く。すると、昨日岩場で知り合った外国人の4人組と意気投合し、今日一緒にグループを組むことになった。メンバーはフランス人のオリビエアメリカ人のジョーそしてチリ女性のパウラそれに僕が加わって一体どこで知り合ったの?と不思議に思わせる4ヶ国混成グループなのである。言葉もみんな違うやんか。 右からジョー(米) オリビエ(仏) パウラ(チリ) わし(日)まずは「Melting Wall」へここの6a 6bを皆でトライした後、このエリアの白眉「Smoking room」6b+をオリーがオンサイトし、僕はトップロープでやらせてもらう。なかなかの好ルートだ。グループの中でもジョーはアメリカ人らしく「まあのんびりやろうよ山は逃げないしさ」という気楽な人で、パウラは「せっかく海がきれいなんだから海でも遊びたいわ」とい感じ。それに反してフランス人のオリーはクライミングを楽しみたいという情熱が伝わってくるような人。だからもっぱら僕とオリーが組んでがんがん登って残りの2人はのんびりと時間を過ごしている。グループがもともと多国籍だから言葉の問題もそれほどなく皆わきあいあいと楽しんでいる。Fire Wall に移動し6A+のルートをフラッシングその他6a~6bクラスのルートを時にリードし、時にトップロープでトライし夕方になる頃には腕の筋肉がぱんぱんにパンプしていた。みんなと別れてバンガローに戻ったのはもう薄暗くなった頃であった。今日は最高に心地よい疲労感である。疲労感に拍車をかけるように夜も筋トレしたあとで夕食とともに最高にうまいビールを飲む。気持ちが前向きになれば未来もすこしづつ広がってくる。そんな未来を信じながら明日も頑張っていこう!
2006.08.14
2000年1月12日9時に起きてレストランに行くとウェイターがいつもと同じメニューを持ってきてくれる。もうここではすっかり常連客になっている。しかしここにきてだらだらと過ごす時間が多くてなかなかここにいる時間に比例した十分な結果を出せていないことも確かだった。トースト2枚とゆで卵とオレンジジュースの朝食をとり終えるといつものように考える。さあ今日はどこに行こうか?今日は昨日と同様に気持ちが十分にのならい。そんな日こそのんびりといレスティングをきめこめばいいのにな。でも回り道は許せても停滞は許せない性格なんだよな。ならばとにかく進むしかないのかな。さあどこに行こう。行くべき所はパートナーになる日本人にいそうなところかもしくはだあれもいないエリアだ。結局「ダイヤモンドケーブ」に行くものの、いざ登り始めると突然スコールがやってきて、突然の大雨に体はずぶぬれになって、岩場はびしょぬれになった。クライミングどころではない。雨に濡れた岩場はもはやクライミングはできないし、登攀の道具も雨と泥まみれになって気持ち悪いことこのうえない。服なんて濡れれば気持ちよいだろうと思うのは大間違いで体感湿度をあげて不快指数がアップする。そんなんで一層やる気なくなってきた。その後すぐに雨はやんだので、一応日当たりのよいエリアで乾いているルートを探したんだが一度切れたモチベーションは復活するはずもなく今日も1日むなしく過ごしてしまったのだ。こんな日もある。明日。明日頑張ろう・・・
2006.08.13
2000年1月11日昨夜はうだうだしながら1時に寝た。そして寝ながら夢を見た。彼女の目が悪化して見えなくなる夢を見た。悲しい夢はみたくないのに淋しい心がいろんなことに出会うたびに気持ちを過去に揺り戻す。今日もいい天気。いい天気であるが今日は予定通り休養日とする。ボートに乗ってクラビーの町に出て、手紙を出したり買い出しをしたり、タイマッサージ店に入って固くこった全身の筋肉をほぐしたり町ならではの時間を楽しむが、でも町はすぐにあきて結局すぐにプラナンに戻る。休養日にはのんびり海辺で音楽でも聴いているに限るか・・・夜には買い出したビールを何本もあけて南の空をひとり眺める。明日はどんな日になるのだろうかなんて思いつつ・・・
2006.08.13
2000年1月10日今日は珍しく早起きをしてまだ人影まばらな海辺をライレイビーチ目指して磯伝いに歩いて行く。引き潮時はライレイまではすぐだ。まだ混雑する前にと「1・2・3」エリアにでむき、クライミングの準備をしていると、日本人のMさんが現れた。彼女とは初日にトンサイビーチで会って話を交わしてそれきりだったのでが、今日が彼女の最終日ということで一緒に組むことになったのだ。同じくここで知り合ったオランダ人のアンナという女の子も加わって今日はひさしくにぎやかなクライミングである。まずは「1・2・3」の「We Sad」とかいう悲しげな名前の6a+にトライする。1本目のボルトが5mくらいの高さにあるのでちょっと怖いが所詮下は砂浜だ。パワーで登ってオンサイト!それからエリアを変え、「ジャングルジムタワー」の6A+。ここも2人ともオンサイト。このエリアは山の中だけど終了点から蒼い海とシーブリーズが飛び込んできて最高に気持ちよい。Mさんやアンナもリードにトップロープに思い思いに楽しんでいる。うんやっぱりフリーは自分と同じくらいのレベルの人と登るのが楽しいようだ。 ライレイビーチからタイワンドウォール「ダイヤモンドケーブ」の6aを快適におとす。そんなこんなですでに午後になって、アンナは宿に戻って行ったが、僕とMさんはせっかくだからと次に「タイワンドウオール」を目指すことにする。午後の西日を浴びながら岩場の取り付きまでの山道を大汗かいて登りついたところはライレイビーチを一望にできる素敵なところ。ここに来るだけでも価値があるというものだ。 右手のビーチがライレイ。岬を挟んで奥がトンサイビーチさて岩場の方は6A+のルートに行きたかったのであるが先客が頑張って順番待ち。それならと僕はその隣の6bのルートにトライする。出だしのオーバーハングを越えるとその上には細かいフェースが続きなかなかの好ルート。背後には素晴らしく開けた海と心地よい潮風・・・でも登っている最中はそんなものを眺めている余裕などない。何度も落ちそうになりながら全身の筋力を使い果たしてどうにかこうにか終了点。かっこいい登りではないが気持ちよい。ロワーダウンするにはロープの長さが足らなかったので懸垂下降にて降りていくと、Mさんは笑って言った。「アルパインの人ってどんな状況でも何とかして登って何とかして降りてくるんだよね。安心して見てられたよ」つられて僕も笑う。初めて会って気が合うということもよくあることだ。年の近い彼女にこちらも気負いもなく笑うことができる。その後で、夕暮れ迫る中、6A+のルートを登るMさんを確保してこれもオンサイト!帰り支度を済ませるころにはもうあたりは夕闇に包まれて、ビーチに降り立つ頃にはすっかり薄暗くなっていた。お互いに今日の成果はまずまずで気持ちよい1日だった。このまま突然に一人になるのが寂しかったのかな、僕はライレイビーチを歩きながら彼女のことを食事に誘った。別に旅人同士で食事をともにするなんて珍しいことでもない。「うんいいよ」と彼女は言った。「じゃあどうしようか?あたしがトンサイビーチまで行こうか?」彼女はライレイビーチに泊まっている。ライレイとトンサイは海と山に隔離された難路なのである。「まさか女の人を夜一人で歩かせるわけにはいかんでしょ。俺が行くよ。7時半頃に「YaYa(※バンガローの名)」のレストランでいいかな」「うんいいよ。飲まないで待ってるね」______________________________________一旦バンガローに戻って汗を流したあとで、再度ライレイビーチを目指して磯を歩いてゆく。すっかり暗くなった磯は歩きにくくて「YaYa」まで30分もかかった。「遅かったね。もう飲んじゃおうかと思ったよ」そういって笑う彼女は南国風のラフなファッションにきめてとても今日、灼熱の岩場を登ったようには見えない色香があった。「だって磯つたいの道、もう潮が満ち初めてさ。高潮がきたらどうしようかと思ったよ」そしてお互いに乾杯する。そしてお互いにクライミングをしに来たのにクライミングの話はほとんどしないで世間話に終始する。でもそんな時間が楽しかった。こんなどうでもいい話や、お互いにちらりと見せる心根の話が目的意識に彩られた旅に安らぎを与えてくれる。そうか。とふと気づく。Mさんはきっと彼女と同じ匂いがするんだ。それに気がついたところでどうというわけでもない。何か違う未来が開けるわけでもない。ただこの一時を楽しむだけである。いやもしかしたら、後ろ髪をひかれて、目の前に開けていく未来に自ら踵を返しているのは他ならぬ僕自身なのかもしれなかった。ビールにワインにグラスを傾けて気がつけばもう0:00近くになっていた。時の早さが僕を現実に引き戻す。「俺、もう戻るね」Mさんにそう言い残して僕は席を立った「もう帰るの?」彼女は少し酔った口調でそう言った。「うんもう帰らなくちゃ。」それは自分自信への言い聞かせであったかもしれない。「明日気をつけて日本に帰ってね」「君の方こそまだ長い旅なんだから気をつけてよね」Mさんはイスに座ったまま僕を見送った。「うん。またどこかで会おうね」「うん。じゃ」そう言って、お互いの連絡先も何も教え会わずに彼女と別れた。磯伝いの道は満潮で通れず、夜の山道を越えてトンサイに戻る。歩きながら心がもやもやする。そして何とも言えない寂しさが心を締め付ける。馬鹿だよな。俺は一体何を期待していたんだろう。こうやってひとりになった後で無性に寂しさが募るのはまるで失恋でもした後のようだ。どういうわけか日本を発ってから初めて心の底から「淋しい・・・」って思う夜だった。淋しいと思っても会ってくれる友人も電話かけられる相手もここにはいない。彼女のことを思い出すわけでもない。ただ思う。こんな風にほんのささいなことで寂しさが募るその時って言うのは、古いしがらみから新しい未来への過渡期なんだってこと。何となくわかってはいるんだ。~新しい未来へ!~
2006.08.08
2000年1月9日昨日は心身共に充実した登攀をしたつもりだったが夜はなかなか寝付けなかった。よきにつけ悪しきにつけ彼女のことを考えると考えすぎて眠れない夜になる。もういい加減彼女のことにとらわれている後ろ向きな心を解放させてあげたいのに。眠れない夜を越えて朝、目を覚ますと今日が自分の誕生日であったことに気がつく。昨日と比べて何か変わったわけでもないし、観念論的数値なんて無意味なもんだ。誕生日になるとここ数年いつも何故かついていないことばかりで少々憂鬱になる。去年は誕生日に40℃の熱を出して倒れたし、一昨年は誕生日に大雪が降って電車が止まって出かけ先から帰れなくなり、10キロの雪道を深夜に歩いて帰宅したことがあった。過去のことをうだうだと考えてもしかたがない。今はただ目の前だけを見つめていこう。とにかく今日もいつも朝食をとっていざ岩場へ出陣である。とりあえず海辺を歩いて「1.2.3」へ向かう。相変わらず人混みがひどくてパス。その上の「ムエタイ」というエリアの6Aを登った。あいかわらず単独だと難しいがすこしずつでも上達していておくれ。それから灼熱の太陽ぎらぎらのプラナンビーチを横切って「Escher World」というエリアを目指した。ここはなかなか行ルートがそろった海沿いの素敵なエリアだがクライマーはほとんどいない。何となればここはあまりにも日当たりがよすぎて熱すぎる。岩場はフライパンのようにじりじりと熱く素手でさわるとやけどしそうなくらい熱い。なんだかあまりの暑さにモチベーションも落ちて6aの易しいルートに挑んだら手が汗でぬるぬるすべって全然歯が立たなかった。おまけ岩場の下でギアの整理していたら、こんなフリーの岩場では滅多に起きない落石が背中の上に降ってきて腰をかすめて地面に落ちた。直撃してたら大けがやんか!上をにらむと上の方で登っていたクライマーが「Sorry!」と行って降りてくる。やっぱ誕生日はついてない。今日はついていない日なんだなんて思う日はやっぱりだめで、今日はすごすごとトンサイビーチの宿に戻った。すこしばかりむなしい。だがこんな日もある。夜は観光で来ていた日本人旅行者と一緒に飲みながら話をする。もう正月休みもたいがい終わって皆帰国していこうとするところ。これから旅をしようとする僕にとっては、ほんの数日前に出てきたばかりの日本でさえすこし懐かしい。いやもしかして寂しいだけなのかもしれないな。日本に残してきたものふっきれていないもの扱いに困っている大きめの荷物を心の中で整理しきれずに、過去と未来と、人と孤独と、恋と夢といろんなものとの間で結論がだせずに宙ぶらりんで揺れている自分がいる・・・
2006.08.07
静かなエリアを探してさまよう。2000年1月8日夜は久しぶりのクライミングに少々心地よい筋肉痛を感じつつ、南海といえどもやや肌寒い夜にシュラフにくるまって眠った。肌寒い異国の夜には少々寂しさが募って寝言のように彼女の名をつぶやいている。情けないね。今日も起きたらまず海辺のレストランに出向き、トーストとゆで卵とオレンジジュースの朝食をとる。ここでは昼食はとらないことにしているから、これで夕方までクライミングに燃焼させる。今日ははなから1日一人で登るつもりいたから多少とも気は楽だ。ひとりで登る場合はとにかく人気のないエリアに限る。南の岸には「1・2・3」という名のそれこそ日本名にしたら「イ・ロ・ハ」のような名の初心者向けエリアがあるがここは世界各国人がうじゃうじゃでたまらないところだ。人の多いエリアを単独で登っていると、登っているそばから、やれ単独登攀は危ないだとか、あの道具は危険だよとかうるさくて気がちっていけない。下手をすると「パートナーいないのなら俺がくんでやるよ」なんて一方的に話をすすめられ大変なことになってしまうものだ。船頭多くして船山に登る。ギャラリー多くしてクライマー壁から落ちるのである。そういうわけで今日はメインの南岸エリアを避けて北岸エリアにむかう。まずは森の中の「Fire Wall」の6Aのルートをソロでリードする。こんな山の中のルートに誰もいない。だれもいない分落ち着いてルートに取り組める。6Aとはいえソロでのリードは落ちれば大けがものなので緊張はするが問題なくオンサイト(一撃初見で成功すること)。調子づいて隣の「Melting Wall」の6Aもオンサイト。気分良くなったところで一回トンサイビーチに戻り、熱くなった体を覚ました後で次に「Present Wall」へ。ここもマイナーでだれ一人おらず落ち着いて6A+にトライ。さすがに6A+になると一段難しくなって、もうやめようと何度も思いながらもどうにかこうにかレッドポイントで登り切る。今日はここでおしまい。誰もいないエリアで一人クライミングに堪能できて昨日以上の満足感だ。やっぱり僕は人に煩わされることのない一人の山が好きなのかもしれない。だったら最初からこんな南国のクライミングなどしなければよいものを。でもいつも一人で登りたいわけではない。所詮人一倍寂しがり屋の僕だから、人嫌いと人恋しさがいつも心で揺れている。その中で自分の心の安住の地を求めているのだ。明日はどんな思いでいる自分であるのだろうか・・・
2006.08.06
2000年1月7日南の島の夜は暑すぎることもなく夜行の疲れもあってよく眠れた。起き抜けにバンガローのドアを開けると南の島らしい蒼い海から気持ちのよい風が吹き込んでくる。宿付属のレストランで遅い朝食をとった後でクライミングギアを整理していざ岩場へと乗り出す。フリークライミングは山登りから独立したスポーツであり、絶対安全が保障された中で垂直の岩場をよじる困難を競い合う。従来のアルパイングレードが1級から6級まであり、6級こそもっとも困難な登攀であったのだが、アルパインの6級はフリークライミングでは5.9(フレンチグレードでは6a)というグレードであり、5.9はフリーでは初心者がまずトライするグレードということになっている。僕の登れるグレードはせいぜい5.10a(6a+)あたりである。つまりはフリーはそれほど難しい、そのかわり危険がないのであるが危険がないというのは確実な確保支点ととパートナーがあってのことだからパートナーがいない僕にとってはどのみち変わらないのであるが。今回宿泊したのはトンサイベイというどっかぶりエリア。ここは何故か日本人に人気のエリアで、ここで日本人をつかまえて一緒に登ろうという魂胆である。思惑通り、正月休みでプラナンを訪れていた日本人と今日はくむことになった。まずはダムズキッチンの6aにトライ。久々のクライミングに体は固い。次にダンカンスブーツの6a。こおもどうにかこうにか登り切る。それから波打ち際のエリア「ロータイドウオール」へ。ここも6aのルートを何とか登る。ここのエリアを登りたかったという日本人のHさんは6Cのルートに執拗にトライしていた。やはり正月休みにこんなとこくんだりまでくる日本人はやはり正当派フリークライマーなのである。アルパイン育ちの自分など足下にも及ばない。その現実に少々へこむ。それだけではない。一人で登ることに固執してきた自分が今日であったばかりの人に確保してもらい命を預けている。その辺にも違和感を感じ、何かしっくりこないままHさんと別れ、バンガローに戻った。これはあくまでトレーニングであって自分は山にいるわけではない。なのに何か割り切れない自分がいる。久々のクライミングに心地よい疲労を感じつつ海辺のレストランで今日も一人酒を飲む。最高の気分とは言い難く、心がどこかに引っかったような気分でいるのは山のせいか、自分のせいかそれとも彼女のせいか?よくはわからないけど心が複雑になったときの僕の行動はいつも同じ。「よし明日は一人で登ってみよう」
2006.08.05
2000年1月6日ボートは穏やかな海を走っていく。まるで絵の具を溶かしたようにブルーに染まる海の彼方にやがてプラナンの岩場が見えてきた。プラナンはプーケット島の南側に小さく突き出た半島であるが半島の付け根部分は深いジャングルで遮断されており船でしか行き来できない。当然車も走ってはおらず、ボートと徒歩がこの半島での唯一の足となるのだ。そんな隠れ家的な環境が魅力となって、プーケットの喧噪を嫌う旅行者に静かな人気のビーチリゾートとなっている。それと同時にこの半島は東南アジア最大のフリークライミングエリアとしても名高く、バカンスを楽しみながらクライミングを楽しもうと世界中からクライマーが集まってくるところでもある。ボートは半島の中心部ライレイイーストに到着した。といっても船着き場などなくビーチの沖にボートが停まるとあとはビーチをじゃぶじゃぶ歩いて上陸する。ここから5分も歩けばライレイウェスト。その5分がここプラナンの中枢である。あとは何にもない。浜辺にはトップレスの女性も多く、このビーチに重いザックの自分はいかにも不釣り合いだ。宿泊施設はこの界隈に集中しているが、僕は中心地をさけてトンサイビーチに移動する。トンサイビーチは日本人に人気のエリアである。ライレイウェストからは磯伝いに10分程度。しかし潮が満ちている今の時間帯は磯伝いに歩けないので山道を歩くことになる。南国の容赦ない日差しの下むっとする草いきれの中を歩くこと20分ほどでトンサイビーチにたどり着いた。ビーチの脇には空から覆い被さるような岩場と、そこにとりつくクライマーたち。浜辺にはトップレスのお姉ちゃんもいなくて、ちょっと異質なクライマーの聖域がここトンサイビーチなのである。トンサイに1軒だけあるコテージタイプの宿にチェックイン。その傍らを歩く他の宿泊客の手は皆チョーク(滑り止めの粉)で真っ白だ。自分も早くクライミングがしたい。自分の中のモチベーションが徐々に高まってくる。とりあえずはここまでの移動の汗を流そうとシャワーを浴びて、昼寝をする。昼寝からふと目覚めた時にはもう夕方であった。窓の外からは潮の香りと一緒に夕焼けのオレンジ色がかすかに入り込んでくる。クライミングは明日から開始だ。南の島の岩場と、この旅の目的であるアフリカの大きな山と、そして日本での帰国後のイメージはどれひとつとして直に結びつかないのだけれど、とにかく迷ったときはまずはこの1歩を踏み出して見るんだ。
2006.07.19
さあミレニアムの朝が来た!2000年1月5日正月のアジアの風は熱いようでそれでいてどこかさわやかだ。長距離バスの車窓からは椰子の葉が風にそよぎ、まっすぐにのびた車道からはどこからか潮の香りがしてくるようだった。「もうじきクラビーですかね?」昨夜乗り込んだ南行きのバスでたまたま隣の席に座った日本人の女の子がおはようのあいさつがわりに寝ぼけた声で話しかけてきた。「まだスラータニーをすぎたあたりじゃないかな」僕もよくはわからないがまあその辺だろうといったいい加減な答えをする。バスが朝食の休憩にドライブインに止まり、ちょっと遅いモーニングコーヒーを飲みながら、隣り合った女の子と話をする。彼女はもう日本を発って8ヶ月たつという。美術の勉強をしながらアジアを旅し。これからクラビーの先のコ・シボヤという島に行くのだとうれしそうに語ってくれた。アジアでは彼女のような長期旅行者は別段珍しくもない。「あなたはどこに行かれるのですか?」彼女は逆にそう訪ねてきた。「山に登りに」薄目のネスカフェをすすりながら即座にそう答えた僕に彼女は怪訝そうな顔をする。それはそうだ。こんなマレー半島のトロピカルな海を実ながら南下するバスに「山」という答えはいかにも不釣り合いだった。「クラビーの先にプラナンという半島があるんだ。そこは東南アジア最大のクライミングエリアなんだよ」クライミングの意味を、そして僕のこれから目指す場所の意味を通りすがりの旅人にわざ説明することもない。だからその話題は何となくそこできれて、僕は「そうだ山に行くために日本をたったんだ」ともう一度自分の中でひとりごちでみるのだった。元旦にバンコクに着き、正月早々空港で夜明かししたあとアユタヤのワットマハタートで初詣をすませバンコクに移動し、すぐにアフリカケニア行きのチケットを手配しその足で南に向かう夜行バスに飛び乗った。目指すアフリカのケニア山は4方を岩に囲まれた岩山である。求められる技術はさほどではないが、何しろ標高5000mを越える場所でのクライミングである。しかも僕はしばらく純然たるクライミングから離れていた。ケニア山の前に足慣らしが必要だと思った。クラビーの先プラナンにはフリークライミングの一大エリアがある。そこでしばらくクライミングの勘を取り戻してからいくことにしたわけである。混沌と喧噪の大都会バンコクを離れて南に向かう僕に冬の日本での出来事は遠い出来事のように思えたが、ふとザックのファスナーにくくりつけられた猿のマスコットにふれると、ほんの数日前の出来事が胸をつきさしてくる。ここ2ヶ月間の日本の出来事が切なく胸によみがえる。夢を叶え意気揚々と帰国した自分。そして入れ替わりに旅だっていった仲間たちそしてなによりも彼女の病気のこと・・・自分に弱さを見せてくれた彼女になにもすることができず、ただ次の夢へと邁進するしかなかった自分。次の夢、アフリカバチアン北壁そして最後の夢、ヨーロッパアルプスグランドジョラス北壁その夢の先に僕を待っているものはいったい何なのだろう僕はもう一度彼女のことを思い出す。雲取山で見せた彼女の涙と、今目の前に広がっていく風景との間にかぼそい橋がかかっている。その間で風景が揺れている。僕の心も彼女の心も揺れている。その先にはいったいどんな光景が広がっているというのか「もうすぐクラビーですよ。お別れですね」隣の席の女の子がそうつぶやいて去っていった。彼女はここからさらに次のバスに乗り継いでいった。クラビーの町はずれのバスターミナルにおりたつと、思ったよりも静かで乾いた空気が僕を包んだ。プラナンはここからボートに乗って30分くらいのところである。南の海はどこまでも蒼い蒼い海にうかぶボートに重いザックを積み込んで僕はボートに乗りこんだ。カタカタと素朴なエンジンが音をたててボートが岸を離れていく。またすこしだけ日本が遠ざかる。蒼い海が目の前に大きく広がっていく。遠ざかる風景と広がっていく風景の間で心が行き来しながらも少しずつでも前に進んでいきたい。新しい旅はまだ始まったばかりである。
2006.07.13
第3章 アフリカの空の下2000年1月1日3ヶ月分の旅の用意と山の装備がぎっしりとつまったザックを背負いながら僕は元旦で珍しく人気のない新宿駅付近を歩いていた。元旦の分だけ町は静かでそして平穏だ。さんざん心配されていたY2K問題もなにも起こることなく世の中は無事に2000年を迎えることができたようだ。人々が新たな気持ちで新たな年に望む中、僕もまたあらたな気持ちで新たな土地へと旅立とうとしている。人混みのない今日は待ち合わせ人も容易に見つけることができる。新宿駅東口の富士銀行前に、正月らしくうっすらと化粧をして心なしか少し着飾って彼女はたたずんでいた。「おめでとう」挨拶代わりに僕は彼女に新年の挨拶を投げかける。「あ おめでとう。今年もよろしくね」一瞬はじかれたようにこちらを向き直ると、笑顔で彼女は答える。「それにしてもすごい荷物だね。何キロくらいあるの?」「これでも軽量化したんだよ。30キロくらいかな。とりあえずコインロッカーに預けようとしたら正月でどこも開いてないんだよ。背負ってみる?」「やだ。汚なさそうだもん」こんな他愛もないやりとりのあとで少し真顔で僕は彼女に言った。「ごめんな。無理言って出てきてもらっちゃって」「ううん。いいの。あたしの問題でもあるんだから。で。どこ行く?」「うん。そこに行きつけのアジア料理の店があるんだ。とりあえずそこで飯を食おうよ」「いいよ。でも今晩はバンコクなんでしょ。出発前にアジア料理なんだ・・・」僕はもう一度重いザックを背負い直すと、新宿の人混みに中彼女を先導した。食事をともにするふたりの間はどこかしらぎこちない。なんとはなしの世間話で時間が過ぎて、何か本音が話せないでいる。つい先日にふたりで行った山の夜が脳裏をよぎる。あの本音と強がりの夜のことがお互いに心に後を引いている。それをどこかで払拭できる機会がほしかった。「これ読んでくれないか」僕はザックの中から、いくぶんすりきれた日記の束を取りだして彼女に渡した。「何それ?」「こないだの旅の日記だよ。俺のこともっと知りたいって行ってたじゃん。だから、この日記を君に見せたいんだ。この旅が俺のすべてだ。俺そのものだよ。」ずいぶんとふるぼけた小振りなノートにあの旅の記録がすべて凝縮されている。彼女はそれをぱらぱらとめくってみる。そして僕はこの10日間の彼女のとのやりとりを思い出している。あの日のあと、僕は少々落ち込んだ。そして考えた。自分は今何をなすべきなのか自分に今できることは何なのかそして自分に足りないものは何なのか彼女への思いはかかえきれないほどある。だから彼女との間に足りないものは「覚悟」なのかもしれないと思った。そんな思いをありのまま伝えた。出発の日に成田まで見送りにきてほしいともそして彼女から返信がきた。「君の気持ちが痛いほど伝わって言葉にならないよ・・・でもね君に足りないものがまだひとつだけあるよ。それはあたしのことじゃなくて好きな人のことじゃなくて君自身がどう生きたいかということです。あたしのこといっぱい考えてくれるのはうれしい覚悟を決めるのもいいかもしれない「前に好きな人のためなら山をやめてもいい」って言っていたよね。でもそんな君自身を捨てるような覚悟は必要じゃない。私は自分のことをいっぱい君に伝えてきた。言葉にすることで私を理解してほしいってはなしてきたつもりだから今度は君が私に伝えてください。もっともっと心の中にあること、考えていること、「君自身」のことを知りたいよ・・・元旦に行くよ。夢に向かう男の姿は素敵だよ。応援してる。君が次の夢に向かって旅立つのをこの目で見届けます。」そんな内容だったそしてそんなお互いのやりとりがあって今日という旅立ちの日を迎えていた。「いいの読ませてもらって?」まるで読んではいけないものにふれるように、彼女は大事そうにその日記の束を受け取った。「いい。俺のありのままの日記だから。君に読んでほしいんだ」何となくいつものように少しばかり重い空気な中、僕らは成田行きの電車に乗り込んだ。今日は冬晴れの気持ちのよい青空が広がって、車窓を横切る川面は青々と流れている。僕らは重い空気をはらうように他愛のない話をする。それもいつものことだ。「ねえ。今日はどこにとまるの?」「今日はバンコクの空港だよ。きっと。アフリカを前にすこし、ハードな旅に体ならしとかないとね」「バンコクからアフリカはすぐに行くの」「ううん。しばらく、タイのプラナンビーチにいる。ケニア山は岩登りの山だし、しばらく怠けてたから、プラナンでクライミングの修行してから行く。プラナンはアジア有数のクライミングエリアなんだ」「へ~そうなんだ」「ところで今日予約してる飛行機大丈夫かな。2000年問題で予約消滅してたりして」「そのときは一緒に帰ろう」「そうだね成田山で初詣した帰ろ」そして他愛ない話の後に別れの時が訪れる。それもいつもと一緒だ。「今日は見送りありがとう。おかげで気持ちよく出発できるよ」僕は気持ちとは裏腹なことを言った「見送りじゃないよ。あたしは見届けにきたんだから」「どう違うんだよ」「見送りは相手のためでしょ。見届けは自分のためにするんだから」彼女は気の強そうな表情をして言った。「よくわかんないけど。でもありがと。」ぎりぎりの時間まで一緒にいたあとでやがて別れの時がくる。成田空港第1ターミナルの搭乗ゲートの前でふたり見つめ合う「これ俺にはもういらないから帰りにしてきな」僕はそれまで首にしていたマフラーを彼女の首にまいた。彼女はそれには答えずにややうつむき加減でいる。「どうした?」「なんか一緒に行きたくなっちゃった・・・」彼女はうつむいたままそうぷつりとつぶやいた、一瞬後に急に向き直って作り笑いをして言った。「でも大丈夫だよ。」「ほんと大丈夫か」「大丈夫だよ。行ってらっしゃい!」その場を離れがたい思いにとらわれた僕に気づいたように彼女はうつむき加減に僕の背中を押した。「行って」「・・・・」「もう!早く行け!」今度は彼女は強く背中を押す。そんな彼女のことを軽く抱きしめたあとで、僕は出国ゲートをくぐった。飛び立った飛行機からは、夕暗闇の中に送迎テラスがぽつりと見える、きっと彼女はあの空間のどこかで僕のことを見届けているのだろう。飛行機はすぐに水平飛行に入って日本を離れていく。今彼女は、どんな思いで帰途についているのだろう。心配と思慕が心の底で混ざり合って、深い混沌の中に自分の心と体が沈んでいく。旅立ちと呼ぶには心と体にあまりに重い荷を背負ったまま、次のステージは始まった。この旅が自分自身の成長だけでなく、彼女をすこしでも勇気や感動を与えられたらいいなと思いつつ・・・
2006.06.09
全163件 (163件中 1-50件目)