森川雅美の詩生活・歴史生活

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2006.10.08
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カテゴリ:
 これもまた「千年紀文学」の再録です。


明るい輪廻
小川三郎『永遠へと続く午後の直中』
森川雅美

 六本木の森美術館で開催された、「杉本博司「時間の終わり」展」を1月に観た。現在を代表し国際的にも活躍している写真家の、三十年に及ぶ仕事を一覧する回顧展である。杉本は、ジオラマを命あるかのようにリアルに撮った、「ジオラマシリーズ」や、長時間の露光で空白になったスクリーンを中心に、映画館を撮った、「劇場シリーズ」で知られている。
 海原をやはり長時間の露光で撮影した、「海景」シリーズもまた、杉本の代表作といえる。写っているのはあくまで海だけである。しかし、海面は生き物の皮膚のように質感があり、きめ細かな細胞すら見えてくる気がする。地球の肌、海とはこういうものだったのかと再認識させられる。そして、水平線から上は空。じっと見詰めていると、どこまでが海でどこまでが空か分からなく、とても遠い時間を見詰めている錯覚すら起ってくる。まさに時間の終わり、永遠に少しだけ近づいた。
 だが、はじめは心地よい浮遊に似た感覚を覚えたが、見続けていると少しずつ息苦しくなってきた。広がる完璧に近い空間を見詰めること、それは一色に統一された部屋に閉じ込められた、感覚に似ている。
 小川三郎の第一詩集『永遠へと続く午後の直中』(思潮社)の、読後も似たような感覚だった。小川の詩は異なる時間からの言葉の、奇妙にねじれた連鎖により、独特の時間を形成している。永遠とまではいわないが「永遠へと続く」、現在だけでは語れない、時間の広がりに触れている。


今年もあの太陽が
水平線の向こうあたり
もうやってきている。
あなたは手足を食い千切られ
助けようとした私も
手足も頭も食い千切られ
二人して海の底へ
バラバラと沈んだ。
冷たい海流にのって
小魚などもがやってきて
私たちの残りの肉を

(「夏の思い出」部分)

 詩集の最初に置かれた詩から引用した。ここでもそうだが、詩集には至るところに死の描写がある。しかもその描写は全て、極めて冷静な視線から描かれている。とはいえ、他人事を見ているような、冷めた描写ではない。出来事は小川の詩の主体にとって切実なのだが、その切実な意識を客観的に見る、もうひとつの目が動いている。この引き裂かれた詩の主体の意識が、今ではない時間の意識を引き寄せ、より大きい時間への接続をはたしている。それは小川の詩の魅力で、絵空事にならないのは、根底にある日常の感覚が詩を支えているからだ。

また今年もあの海に
去年と同じ鮫がやってくる。
去年と同じ

鮫は二人の顔を
ちゃんと覚えていて
去年と同じ食らい方を
してくれるに違いないのだから
心配はない。
いつまでも何も変わらない
(「夏の思い出」部分)

 同じ詩の最終連を引用した。小川の詩の主体の持つもうひとつの眼の位置は、このような場所だろう。最後まで詩を読んで行くと、詩の主体の意識は死を捉えるのではなく、死後もなお生が続くような現在の生の感覚、であることがわかる。その実感がこの詩集にリアルを与え、読んだものが空恐ろしさを感じるとするなら、繰り返される日常感覚になった死である。何もかもが「去年と同じ」なのである。
 もちろん、詩の主体はこの点に関して十分意識的だ。詩は「心配はない。/いつまでも何も変わらない」と、終わっている。詩の主体はこのような言葉を告げるのではなく、告げられる側にあることを意識している。少なくとも心底からは、「心配はない。」などとはいわないだろう。その嘘の空恐ろしさ白じらしさを、よく知っているのだ。今という私たちの生きる時間は、単色に統一された部屋に近いという自覚、ともいいかえられるだろう。どうしようもなく明るい日差しに、曝されながら、輪廻にも似た日常は続く。
 人は食われるものである限り、どのように悲惨や残酷であろうと日常は続く。時に食われるものは食らうものになる。その自覚に曝された時、日常はもろく破綻する。石原吉郎やパウル・ツェランが悩み、やがて彼らを死へと傾かせたのも、このような問題と深く関わっている。
 小川の詩の主体は、食らう鮫の意識までひき込めるのか、詩集は暗示の段階で終わる。詩集の最後の詩は、「私」が「あなた」と「俊樹くん」だけがいる部屋に、落ちてきたという設定だ。「私」は「あなた」に絶えず質問を繰り返し、詩の主体の自問自答の様子が強い詩だ。「俊樹くん」は黙って堪えている。末尾を引用する。

堕ちて来た私の姿は
到底見られたものではなかった。
窓の外は
活動的だ。
ここは静まり
世界はあなたの
俊樹くんを愛する心のみで
成り立っている。
(「部屋」部分)

 主体の内なる「私」は、「あなた」の「俊樹くんを愛する心」を、どこまで否定できるのか。この部屋に留まるのか破壊するのか。そこに、詩の主体は世界との対峙できるのかが、かかている。





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Last updated  2006.10.08 11:21:18
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