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2018年4月21日、19世紀に生まれた脊索動物門、哺乳鋼、霊長目、ヒト科、ヒト属、ヒト(Homo sapiens)の最後の一人が亡くなり、地球上から19世紀生まれのヒトはいなくなりました。鹿児島県喜界島に住む田島ナビさん(1900年8月4日~2018年4月21日)です。117歳と260日生きて、記録に残る長寿の世界第三位です。ちなみに第10位まで全て亡くなっていて、1位はジャンヌ・カルマン(F)で122歳と164日です。21世紀の終わりごろには女性の平均寿命が100歳を超えることが予想されますが、それでも人間の寿命には限りがあります。今年はライオンズの周年が2Rで5クラブあり、ZCは毎回呼ばれますが、4月22日の豊橋北クラブの40周年では締めのローアを頼まれたので、このことを話し、人間の寿命がいくら延びても限りがありますが、ライオンズクラブは不滅ですと話したらかなり受けていました。父:安藤源三(1995年~1985年12月28日) posted by (C)ドクターTところで私の父も19世紀の生まれ(1995年、明治28年)です。今生きていれば、123歳と言うことになります。何故そんなことになるかと言えば、私は父が56歳の時の子供だからです。
2018年04月22日
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メジャーリーグに移った大谷翔平の連日の投打に渡る活躍が報じられています。ベーブルース以来の二刀流での活躍が期待されています。1994年7月5日生まれの24歳、父は元実業団野球選手、母は元バドミントン選手、身長190cm、体重93kg。スポーツマンの両親を持ち、体格も日本人離れしています。パッと見たところは普通なのですが、実は巨人です。何故普通に見えるかと言うとシンメトリーだからです。巨人でもジャイアント馬場やアントニオ猪木のような体型だといかにも大男と言う感じがするのですが、シンメトリーに大きくなっているので、大男と言う感じがしないのです。小さい方で言うと、イトトンボは華奢なトンボと言う感じですが、ハッチョウトンボはシンメトリーに小さくなっているので、華奢なと言う感じがしません。竹内久美子が書いていました。シンメトリーな男はもてると。シンメトリーな体型を作るスポーツに一番なのはトライアスロンだと思っています。相撲取りほど極端でなくとも、マラソン選手は華奢過ぎますし、水泳選手は上半身がいかつ過ぎますし、競輪選手はモモが太過ぎます。3種目同時にやることで全身の筋肉をバランスよく使いますので、シンメトリーな体が出来ると言う訳です。もてたい男はトライアスロンをすべきだと言う展開になります。( ^)o(^ )
2018年04月06日
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山下清ギャラリー (16) posted by (C)ドクターT昨日は碧南市医師会の事業所検診の仕事で3か所ほど事業所を回りました。検診に来た人たちの最後の診察をしています。いろいろな場所で診察するところを造るのですが、昨日の3軒目では応接室のような場所でしたが、そこに山下 清の絵が30点以上飾ってありました。ほとんどはリソグラフと言う版画のようなもので〇〇/300と書いてありましたので、300枚刷ったうちの何枚目かと言うことだと思いますが、ネットで調べるとそれでも6~7万円くらいはしています。山下 清と言うと放浪の画家として有名ですが、サバン症候群であったと言う話です。サバン症候群とは知的障害や発達障害などのある者のうち、ごく特定の分野に限って優れた能力を発揮する者の症状を指します。 サバン症候群の特殊な能力の例としては次のようなものがあります。1.航空写真を少し見ただけで、細部にわたるまで描き起こすことができる(映像記憶)。2.書籍や電話帳、円周率、周期表などを暗唱できる。内容の理解を伴わないまま暗唱できる例もある。3.並外れた暗算をすることができる。4.音楽を一度聞いただけで再現できる。5.語学の天才で数カ国語を自由に操る。山下 清の場合は最初の映像記憶の能力だったようで、見た風景を記憶していて帰ってからそれを絵に描くことが出来たと言います。 長岡の花火やパリのエッフェル塔などの絵を描き残しています。山下清ギャラリー (17) posted by (C)ドクターT作品の中に見た風景ではなく心象風景を描いたものがありました。放浪時代に出会った辛い出来事がこのような夢に出て来て夜な夜なうなされていたそうです。
2017年09月13日
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今年もあと2日となりました。お陰様で今年の後半は楽天ブログのアウトドア・釣りジャンル総合でランキング1位をほぼ毎日続けました。 ブログランキング posted by (C)ドクターT人気記事ランキングに古い記事がいつも載っていて、写真も消えているので、書き直します。 【伝説の天才数学者】2006年12月28日掲載今日は、伝説の天才数学者、森重文君のことについて書きましょう。何故私がこの世界的な天才数学者を森君と呼ぶかというと、彼は私の中学・高校の1年後輩だからだ。名古屋、伏見のタオル卸問屋の長男として生まれた森君は中学から東海に入った。お姉さんが1人いて、本来森君が後を継がなければいけないわけだが、東海時代から数学の好きな森君をみて、ご両親はこの子には好きなことをやらせようと思ったという。”大学への数学”という受験雑誌があり、ことし創刊50周年を迎える。掲載記事は入試問題の解説だけにとどまらず、一流数学者によるエッセー、数学史などを載せ、巻末に骨のある添削問題を並べた「学力コンテスト」があった。この「学コン」で1年間ほぼ連続満点を続けた「伝説の人」となり、高校時代から全国の数学者から注目されていた。そんな森君と初めて出会ったのは、私が高校2年のとき、囲碁が好きだった数学の先生を顧問にして、囲碁同好会を作ったとき、1年生の森君が入ってきた。その当時私はすでにアマチュアの初段か2段くらいあったので、森君には最初星目置かして打っていた。学年が違うので、数学の好きな変わった子という印象しかなかった。第3回高校囲碁選手権出場 posted by (C)ドクターT 高校2年のとき、東京へ第3回高校囲碁選手権に主将で出た。1回戦は早稲田大学高等学院高校との対戦、1勝1敗で主将の私の碁に勝負がかかった。この当時はまだ対局時計を使ってなかったので、時間がくると審判の判定になる。第3回高校囲碁選手権1回戦坂田栄男名人本因坊の判定にて勝ち posted by (C)ドクターT審判長はその当時全盛期であった坂田栄男名人本因坊だった。判定で私の勝ちとなり、2回戦に勝ち進んだ。でも2回戦であっさり敗退した。森君の話に戻そう。次に森君にあったのは、雪の降る京都であった。私は理論物理学に憧れて、東大受験に失敗した後、京大の理学部を受けにきて、京大病院の前の小さな旅館に泊まっていた。何とそこに森君がお母さんといるではないかあれ、どうしたんだというと同じ理学部を受けるという。東大入試が中止となり、史上最難関と言われた年だが、2人とも無事合格した。大学に入っても半年ほど教養部は過激派学生で封鎖されていて、学生が好きな先生を呼んで自主講座をしていた。私はすぐに囲碁部に入って囲碁三昧の毎日だった。最初一乗寺の方に下宿、3年目から吉田の方に移った。森君の下宿も近くだった。ときどき遊びに行っては、囲碁やトランプ(神経衰弱)をしたり、ビリヤードやボーリングに誘いだすこともあった。下宿は数学の本で溢れており、いつも数学の問題を考えていた。考えるときの森君の癖は頭の毛を指でくるくると巻きつけては離し、巻きつけては離しを繰り返す。さも頭の中から何かを取り出そうとしているように。ときどき、お母さんが京都まで来ると私も呼んでくれて、美味しいものを食べさせてくれる。貧乏学生でアルバイトをしていたので、お金がなくなると生協の素うどん(当時30円だった)で飢えをしのいでいたので、これは有り難かった。森君はとても気さくで付き合いがよかった。私はどちらかというと、勉強の邪魔をする悪友であったが、ビリヤード、ボーリングなども誘えば嫌がらずについてきてくれる。数学の問題を考えながらだけれど、・・・。ときどき、遊んでいても「わかった、わかった。」と言い出す。「何が解ったんだ」と言うと、「考えていた問題が解けた。」と言う。そんな森君を見ていて、最初は解析概論を読もうとしたこともあったが、とてもこんな人たちについていけないと思って、ますます学問から遠ざかっていった。4回生の夏に女房と再会して、転向を決断した。森君は大学3年のときに、米ハーバード大にいた広中平祐が母校へ来て行った臨時講義を聴き、それを克明にノートに取った。講義のあと、広中と定食屋に行き、広中が難しい例を簡単な絵にして説明するのを見て、代数幾何学という分野に進んでいった。70年代に若干20歳代で「ハーツホーン予想」という世界中の数学者を悩ましていた難問を解き、そこから代数幾何における3次元の図形にはどんな種類のものがあるかを示した。90年にこの業績で数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞の日本人で小平邦彦、広中平祐についで3人目の受賞者となった。京大大学院を出たあと、ハーバードへ assistant professor として行き、帰ってきて名大理学部の助教授となった。このころ、結婚式に呼ばれて行ったら、東大、京大、東北大、名大など、全国のおもだった国立大学の数学の教授が一同に会していた。ヒェ~、えらくなり過ぎと思った。森 重文君結婚式 (2) posted by (C)ドクターT現在は母校京大の数理科学研究所の教授となり、新幹線で名古屋から京都まで通っている。東海からは総理大臣(海部俊樹)、知事(神田正秋)も出ているが、学者と言えばこの人であろう。森教授と。 (5) posted by (C)ドクターT2013年2月8日、久しぶりに名古屋で森君と会いました。まだ京都へ通っていて忙しそうでした。ライオンズの企画で蒲郡で講演会を頼もうと思ったのですが、結局日程が合わず実現しませんでした。 森 重文教授定年退官 posted by (C)ドクターTその後、森君は世界数学連盟の会長となり、世界の数学界の頂点に立ち活躍、2016年に京大教授を定年退官しました。
2016年12月30日
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クワイの絵と本物 (2) posted by (C)ドクターT この前休耕田で掘ったクワイと小山大輔君が描いたクワイを並べて写真に撮って見ました。この絵は東京芸大在学中に小山君がしばらく家に逗留して絵を描いていた時のもので、モデリングペーストを使って盛り上げて描いてあります。小山大輔君 posted by (C)ドクターT小山君はデザイン科でしたが、絵を描くのが好きでいろいろな自然の素材を絵に描いていました。 小山大輔展 (2) posted by (C)ドクターT展覧会の案内が来たのは今年の3月頃でした。 クワイの絵と本物 (1) posted by (C)ドクターT銀座の gallery 『一枚の繪』まで行き、小山君に会って買い求めて来ました。(70,000円) クワイの絵と本物(交差法) posted by (C)ドクターTクワイの絵と本物(平行法) posted by (C)ドクターT絵の盛り上がりが判るように3Dにしてみました。 3Dで見ることが出来る方は試みて下さい。
2016年11月17日
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愛知県では毎年、県民の環境保全意識の高揚を図り、快適な生活環境の保全に資することを目的として、県内の環境の保全に関し顕著な功績のあった個人・団体について、その功績をたたえ、知事による表彰を行っています。今回、平成28年度の受賞者として、5団体・12名を決定しました。蒲郡では、L加藤ともりもりクラブ(さがらの森の保全活動をしています)が表彰を受けました。そこで、L○田△平、bokeabさん、L竹内(ホテル竹島会長)が発起人となってホテル竹島で祝賀パーティが行われました。L加藤環境保全賞受賞祝賀パーティ(ホテル竹島) (6) posted by (C)ドクターT 6,000円の会費で10,000円くらいのご馳走が食べられるとあって、私も女房と2人で参加。全部で70名ほど集まりました。6割くらいはライオンズ関係、残りは猟友会、同級生と来賓です。L加藤環境保全賞受賞祝賀パーティ(ホテル竹島) (9) posted by (C)ドクターTL○田△平の開会のことばに続いて、L竹内(康)の環境保全賞についての説明がありました。 L加藤環境保全賞受賞祝賀パーティ(ホテル竹島) (10) posted by (C)ドクターT続いて来賓あいさつです。最初は衆議院議員、元副大臣の鈴木克昌さんです。L加藤は克昌会の会長をしています。 L加藤環境保全賞受賞祝賀パーティ(ホテル竹島) (11) posted by (C)ドクターT次は稲葉蒲郡市長のあいさつです。 L加藤環境保全賞受賞祝賀パーティ(ホテル竹島) (21) posted by (C)ドクターTいろいろな人から花束をもらいました。 L加藤環境保全賞受賞祝賀パーティ(ホテル竹島) (16) posted by (C)ドクターTL加藤のお礼の言葉です。L加藤環境保全賞受賞祝賀パーティ(ホテル竹島) (18) posted by (C)ドクターT乾杯の音頭は蒲郡マリンライオンズクラブ会長のL榊原幸博です。 L加藤環境保全賞受賞祝賀パーティ(ホテル竹島) (19) posted by (C)ドクターT334-A地区元ガバナーのL杉浦 均もお祝いに駆けつけました。 L加藤環境保全賞受賞祝賀パーティ(ホテル竹島) (29) posted by (C)ドクターT本当はbokeabさんが締めのあいさつをする予定だったのですが、bokeabさんが入院・緊急手術となったので、私にお鉢が回って来ました。 L加藤環境保全賞受賞祝賀パーティ(ホテル竹島) (1) posted by (C)ドクターT万歳三唱で締めくくります。
2016年08月19日
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小山大輔展 (2) posted by (C)ドクターT小山大輔君から展覧会の案内が届きました。銀座の gallery 「一枚の繪」で23日までやっています。小山大輔展 (1) posted by (C)ドクターT小山君はさくらの芸大時代の友達でデザイン科を出ていますが、自然素材をモチーフに生き生きとした絵を描いています。家にも逗留して絵を描いていたことがあります。わざわざ案内をくれたので見に行って来ようか。 葉書用額(ドクターT作) (2) posted by (C)ドクターTところで女房が葉書を飾る額が欲しいと言うので、自作しました。最近工作に凝っています。材料はカーマホームセンターで買って来て作りました。 葉書用額(ドクターT作) (1) posted by (C)ドクターT裏の止め具が私の新工夫です。隅に穴を開けて料理用の竹ひごで止めました。
2016年04月17日
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時々、朝早く呼ばれて、知多から蒲郡へ行く時に、岡田から阿久比へ向かう道を車で走っていると阿久比の方から岡田に向かって走ってくる小柄なランナーがいました。朝5時ごろのまだ薄暗い頃です。夏はランニングシャツにランニングパンツと言う本格的ないで立ちで、首を少し傾けてゆっくりしたペースで走っています。その人がマスターズマラソンの世界では有名な永井貞雄さんであると言うことを知ったのはまだ最近のことです。永井さんは1932年富山県の生まれで、中学卒業後鍛冶屋に奉公します。23歳で名古屋に出て、町工場で働きます。その後三菱自動車工業株式会社に就職して、60歳の定年まで働きます。定年後は趣味の絵画、マラソン、俳句などを続け、多くの絵画展、個展にも出品し、マラソン大会もフルマラソンを中心にウルトラマラソンにも挑戦します。そして、70歳、80歳でエッセイ、俳句集「井の中の蛙」を文芸社から出版します。井の中の蛙 posted by (C)ドクターT永井さんは毎日休まずに30kmを走り続けました。朝早く、岡田から阿久比に向かって車で走ると必ず出会うのはそのためでした。若い人ならともかく、80歳を過ぎて1日30kmを走り続けると言うのは常人のなせる業ではありません。多くのマラソン大会で年代別入賞をされました。その著書に載っている80歳で詠んだ短歌を少し引用させていただきます。人生や 早くも八十 長生きで 好きな絵を描き 走る喜び人生や 井の中いやで とび出して 自然にカエル 生きる幸せ人生や 好きな絵を描き マラソンと 走り続けて 八十歳に平成27年12月20日の中日新聞知多版に次の記事が載っていました。交通事故 posted by (C)ドクターT ◆知多で男性はねられ死亡19日午前5時40分ごろ、知多市岡田の市道で、阿久比町卯坂、無職永井貞雄さん(83)が軽乗用車にはねられて頭を強く打ち、外傷性くも膜下出血で死亡した。知多署は、自動車運転処罰法違反(過失傷害)の疑いで、軽乗用車を運転していた・・・・を現行犯逮捕し、容疑を過失致死に切り替え、調べている。署によると、・・容疑者は出勤途中、永井さんは日課のジョギング中だった。市道沿いの歩道は工事中で、永井さんは車道を通行していたらしい。女房とお祖母さんは「80歳過ぎまで好きなマラソンをしていて、車にはねられてコロッと逝ければ幸せな人だ。貴方もそのうちに、・・・。」と言います。私は90歳、100歳まで走り続けて欲しかったと思います。この話も星空文庫「レクイエム」で公開中です。
2015年12月21日
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愛知県出身の女優川島なお美が胆管がんのために亡くなりました。私も外科臨床医として過ごした33年間に癌の手術(乳がん、甲状腺がん、食道がん、胃がん、大腸がん、肝臓がん、胆管がん、膵臓がんなど)を多数手がけ、不幸にして再発・進行で亡くなった患者さんをたくさん見送って来ました。報道から知る彼女のがんとの闘いと死に様を検証したいと思います。まず彼女は無類のワイン好きとして知られていました。肝臓がんの診断がついた時に、まずワインの飲み過ぎが発がんの原因ではないかと言うことが頭をよぎっただろうと思います。「ワインに申し訳ない」と言って、その後自宅ではワインを控え、外では急にワインを止めては怪しまれるとワインを飲み続けていたそうです。ワインに加えられる酸化防止剤(亜硫酸塩)に発がん性があると言われたことがあります。しかし、胆管がんの発症リスクに関係していると言う証拠はありません。アルコール類の発がんリスクはタバコや他の食品に比べて総合的には低いと言うのが現在の通説です。胆管がんの発症リスクとしてはっきり証明されたのは印刷業界で校正印刷の過程で使われている「ジクロロメタン」「1,2-ジクロロプロパン」です。厚労省も職業病として認定しました。昨年8月に診断され、今年1月に手術されたそうですが、最初は良性なのか悪性なのか診断が難しかったようです。切ってみないと悪性か良性か判らないということも言われたようです。胆管がんは肝臓で作る胆汁が十二指腸まで流れる管に出来ますが、出来る場所により症状の出方は違います。総胆管と言う肝臓から出て十二指腸へ合流するまでの間に出来るとがんによって胆汁の流れが塞き止められて、早くから黄疸が出るために、比較的小さなうちに見つかりますが、肝内胆管に出来た場合には全く無症状で診断が難しいのです。彼女の場合も恐らく検診のエコー検査で見つかったのではないかと思いますが、その時点でかなり進行していたのではないかと思います。1月に12時間に及ぶ内視鏡手術を受けたとのことですが、果たしてそれでよかったのでしょうかこれはかなり問題ありと考えます。彼女は仕事が忙しく、悪性か良性かも判らずに手術を受けることを躊躇し、いろいろな医者を転々としたようです。また手術の方法についても早く仕事に復帰出来るようにと内視鏡手術を選択したようです。しかし、診断のついた昨年8月の時点で開腹手術を選択していれば、結果は随分変わった可能性があります。内視鏡手術は時間がかかりますが、手術侵襲が少なく回復が速いのが特徴で、彼女の場合も1週間で退院してよいと言われもう少し長くと希望して10日で退院したそうです。しかし開腹して直視下に手術するのと比べると、リンパ節の廓清など細かいところで、不十分に終わった可能性があります。術後の補助療法としての抗がん剤治療も放射線治療も拒否をしたと言いますがそれはよかったのでしょうか残念ながら、胆管がんに関しては確実に効くと言う抗がん剤もありませんし、放射線治療も有効性は疑問ですので、これはこれでよいと思います。舞台の降板会見後10日で亡くなり、あまりにも速い結末に驚きました。昔はがんの告知はしない、予後告知なんてとんでもないと言う時代でしたが、今はそうではありません。がんの告知はもちろん、余命どれくらいですからその間に出来ることをして下さいと言うのが常識です。恐らく彼女も会見時には死期を悟っていたと思います。その上で最後の大芝居を打って、女優としての人生を全うしたのだと思います。(合掌)
2015年09月25日
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この記事は9年ほど前に書いた記事ですが、最近もアクセスが多く、その頃は楽天写真倉庫から写真をアップしていたのですが、容量制限のために古い写真を削除しては載せていたので写真も消えていましたので、もう一度リニューアルして載せます。今日は、伝説の天才数学者、森重文君のことについて書きましょう。何故私がこの世界的な天才数学者を森君と呼ぶかというと、彼は私の中学・高校の1年後輩だからです。名古屋、伏見のタオル卸問屋の長男として生まれた森君は中学から東海に入りました。お姉さんが1人いて、本来森君が後を継がなければいけないわけですが、東海時代から数学の好きな森君をみて、ご両親はこの子には好きなことをやらせようと思ったといいます。”大学への数学”という受験雑誌があり、ことし創刊50周年を迎える。掲載記事は入試問題の解説だけにとどまらず、一流数学者によるエッセー、数学史などを載せ、巻末に骨のある添削問題を並べた「学力コンテスト」があった。この「学コン」で1年間ほぼ連続満点を続けた「伝説の人」となり、高校時代から全国の数学者から注目されていました。そんな森君と初めて出会ったのは、私が高校2年のとき、囲碁が好きだった数学の先生を顧問にして、囲碁同好会を作ったとき、1年生の森君が入ってきました。その当時私はすでにアマチュアの初段か2段くらいあったので、森君には最初星目置かして打っていました。学年が違うので、数学の好きな変わった子という印象しかありませんでした。Shigefumi_Mori posted by (C)ドクターT高校2年のとき、東京へ第3回高校囲碁選手権に主将で出ました。1回戦は早稲田大学高等学院高校との対戦、1勝1敗で主将の私の碁に勝負がかかった。この当時はまだ対局時計を使ってなかったので、時間がくると審判の判定になります。審判長はその当時全盛期であった坂田栄男名人本因坊だった。判定で私の勝ちとなり、2回戦に勝ち進んだ。でも2回戦であっさり敗退しました。森君の話に戻そう。次に森君にあったのは、雪の降る京都であった。私は理論物理学に憧れて、東大受験に失敗した後、京大の理学部を受けにきて、京大病院の前の小さな旅館に泊まっていた。何とそこに森君がお母さんといるではないかあれ、どうしたんだというと同じ理学部を受けるという。東大入試が中止となり、史上最難関と言われた年だが、2人とも無事合格しました。大学に入っても半年ほど教養部は過激派学生で封鎖されていて、学生が好きな先生を呼んで自主講座をしていました。私はすぐに囲碁部に入って囲碁三昧の毎日でした。最初一乗寺の方に下宿、3年目から吉田の方に移りました。森君の下宿も近くだったので、ときどき遊びに行っては、囲碁やトランプ(神経衰弱)をしたり、ビリヤードやボーリングに誘いだすこともあった。下宿は数学の本で溢れており、いつも数学の問題を考えていました。考えるときの森君の癖は頭の毛を指でくるくると巻きつけては離し、巻きつけては離しを繰り返す。さも頭の中から何かを取り出そうとしているように。ときどき、お母さんが京都まで来ると私も呼んでくれて、美味しいものを食べさせてくれました。貧乏学生でアルバイトをしていたので、お金がなくなると生協の素うどん(当時30円だった)で飢えをしのいでいたので、これは有り難かった。森君はとても気さくで付き合いがよかった。私はどちらかというと、勉強の邪魔をする悪友であったが、ビリヤード、ボーリングなども誘えば嫌がらずについてきてくれる。数学の問題を考えながらだけれど、・・・。ときどき、遊んでいても「わかった、わかった。」と言い出す。「何が解ったんだ」と言うと、「考えていた問題が解けた。」と言う。そんな森君を見ていて、最初は解析概論を読もうとしたこともあったが、とてもこんな人たちについていけないと思って、ますます学問から遠ざかっていきました。4回生の夏に女房と再会して、転向を決断しました。森君は大学3年のときに、米ハーバード大にいた広中平祐が母校へ来て行った臨時講義を聴き、それを克明にノートに取った。講義のあと、広中と定食屋に行き、広中が難しい例を簡単な絵にして説明するのを見て、代数幾何学という分野に進んでいきました。70年代に若干20歳代で「ハーツホーン予想」という世界中の数学者を悩ましていた難問を解き、そこから代数幾何における3次元の図形にはどんな種類のものがあるかを示した。90年にこの業績で数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞の日本人で小平邦彦、広中平祐についで3人目の受賞者となった。京大大学院を出たあと、ハーバードへ assistant professor として行き、帰ってきて名大理学部の助教授となった。このころ、結婚式に呼ばれて行ったら、東大、京大、東北大、名大など、全国のおもだった国立大学の数学の教授が一同に会していた。ヒェ~、えらくなり過ぎと思いました。東海からは総理大臣(海部俊樹)、知事(神田正秋)も出ているが、学者と言えばこの人であろう。【森教授略歴】1969年 - 東海高等学校卒業1973年 - 京都大学理学部卒業1975年 - 京都大学大学院理学研究科修士課程修了1977年 - ハーバード大学助教授(1977-1980年)1978年 - 京都大学より理学博士号1978年 - ハーツホーン予想を解決 (ハーバード大学滞在中)1982年 - 端斜線の理論を発表1982年 - 名古屋大学理学部助教授1985年 - コロンビア大学客員教授(1985-1987年)1986年 - 3次元の代数多様体の極小モデルの存在証明に成功1988年 - 名古屋大学理学部教授1990年 - 京都大学数理解析研究所教授1999年 - 国際数学連合副総裁(1999-2002年)2011年 - 京都大学数理解析研究所所長(2011-2014年)2015年 - 国際数学連合総裁森教授と posted by (C)ドクターT今年、国際数学連合総裁となり、とうとう数学界の頂点に立ちました。
2015年08月20日
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木彫展 (13) posted by (C)ドクターT昨日から蒲郡図書館でやている小田克己氏の木彫の世界展を見に行って来ました。木彫展 (4) posted by (C)ドクターT木彫展 (3) posted by (C)ドクターT私の「蒲郡の蝶」を参考にして、蝶の模型も作ってありました木彫展 (9) posted by (C)ドクターT木彫展 (8) posted by (C)ドクター木彫展 (7) posted by (C)ドクターTトンボ、その他の昆虫、カワセミもありましたよ。木彫展 (6) posted by (C)ドクターT蝶の翅はモーラステープの裏紙を使って作ってありました。ペーパーで色がのりやすい様にざらつきを出して、それからアクリル絵具で色をつけたそうです。木彫展 (12) posted by (C)ドクターT70歳から木彫を始めて、今ではプロの能面師も称賛する出来栄えです。木彫展 (11) posted by (C)ドクターTもう90歳を越してみえますが、お元気で掘り続けています
2013年03月23日
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RIMG0017 posted by (C)ドクターT鵜飼U子さんの原画展に行ってきました。U子さんは最初少女漫画が描きたかったようですが、長谷川真知子さんのサザエさんのようなファミリーコメディー漫画家になりました。女房も初めて見たようですが、面白いと言ってました。今日が初日ですが、30日まで蒲郡市図書館でやってます。(月曜日休館)
2011年03月13日
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鵜飼U子さん posted by (C)ドクターT東愛知新聞や広報蒲郡に4コマ漫画を書いていて、私の「儲かる舟券の買い方」にも挿絵を書いていただいた蒲郡の主婦漫画家、鵜飼U子さんの原画展が明日(13日)から30日まで蒲郡市図書館で開かれます。(月曜日休み、入場無料)ご主人は趣味で集めた焼き物の店を竹島の入り口で開いています。(ラ・ポンポ)
2011年03月12日
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昨日は、忙しい一日で、ブログを書く暇がありませんでした。昼、警察へ行って留置人を診て、午後乳腺外来、6時ころまでかかり、それから豊橋で三河乳腺内分泌講演会に出て、終って情報交換会で飲みました。でも朝知多から蒲郡へ行く途中に美浜へ鳥見に寄りました。先日、湖北みずとりステーションに行った時に、そこの学芸員の方が、美浜の鵜の山にメジロガモを見に行ったと言っていたからです。RIMG0002 posted by (C)ドクターT鵜の山(鵜の池)はカワウがコロニーを造っている場所で、昭和9年にカワウの集団繁殖地として国の天然記念物に指定されています。近くを走る知多半島道路には遮光トンネルが造ってあります。愛知県にはカワウがコロニーを造っている場所は、田原市、弥富町、名古屋市緑区、豊明市などあちこちにあるのですが、天然記念物に指定されているのはここだけです。IMG_7095 posted by (C)ドクターTもう巣作りが始まっていました。ここへ来ると、この鵜の山の絵をライフワークとして描き続けた片山昭博画伯のことを思い出します。片山先生は知多市大草に住み、地元の中学の美術の先生をしていましたが、この鵜の山の風景を描くことをライフワークとしていました。私は習ったことはありませんが、娘さんが女房のところにピアノを習いに来ていて、時々会ったことはあります。透析をしていて、60歳代で亡くなられました。DSC_1982-1 posted by (C)ドクターTDSC_1991-1 posted by (C)ドクターT撮ってきた写真を片山画伯風に処理してみました。残念ながらメジロガモはもう帰ったようでいませんでした。いたのは、マガモ、ハシビロガモ、ホシハジロ、キンクロハジロでした。ここまで来ると、もうひとつ近くにある、杉本美術館の横の池も見て行きましょう。RIMG0006 posted by (C)ドクターT杉本美術館は名鉄が杉本健吉画伯(1905-2004)の作品を収蔵するために美浜町に建てた美術館でこの横にも大きな池があり、いろいろなカモが来ることで知られています。杉本健吉画伯(1905-2004)は名古屋市出身で、愛知県立工業学校図案科を卒業して、洋画家を志して、岸田劉生に師事しました。ヨーロッパ各地をスケッチ旅行で巡遊してたくさんの作品を残しています。99歳で亡くなられましたが、最後は安城更生病院で神経内科部長をしてる私の弟がみとったようです。この横の池にはまだたくさん鴨が浮かんでいました。その写真はまた次のブログで紹介します。
2011年03月03日
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今日は私の父、安藤源三のことを書きましょう。これは30年ほど前の父の写真です。抱かれているのは私の娘、孫のさくらです。父は明治28年(1895年)生まれですから、今生きていれば116歳になります。父は、この辺りの親分をしていた安藤家の三男として生まれました。私は竹内家に婿養子に入りましたが、安藤の祖父は昔岡田村の村長をしていた、女房の曽祖父、竹内兼三(かねぞう)さんの用心棒をしていたそうです。安藤親分の偉かったのは、5人の子供をもうけましたが、当時遺産は長男が継ぐのが当たり前の時代に5人の子供に平等に生前贈与したことです。5人の子供はそれを元手にそれぞれ好きなことをしました。長男の初代梅吉は岡徳織布を創設し、知多木綿の中心企業として成功し、財をなし、2代目梅吉が継承し、政界に進出し、県会議員を12年務め、県議会議長もしました。初代梅吉の二男、安藤嘉治は知多市長を務めました。2代目梅吉の長男、龍彦さんは慶応ボーイでしたが、岡徳証券(アーク証券)を創設しました。梅吉さんの屋敷は大きくて、本宅と呼んでいましたが、運転手初め食客のような人たちがたくさんいて、私が中学の頃に、毎週1回プロ棋士の西条正孝先生が教えにきていたので、私も囲碁を覚えたてのころによく通いました。安藤家の二男、繁三さんは若くして亡くなりましたが、その長男、梅幸さんは四男、孝三さんの飛行機研究所を手伝い、その後競走会に入って競艇の鬼競技委員長として活躍しました。梅三さんの二男も早くして亡くなりましたが、その奥さん、節子さんは蒲郡市初の女性部長として活躍した方で、随分いろいろなところでつながりがあります。父の下の弟、四男孝三さんは遊び人でしたが、飛行機に魅せられて、飛行機乗りとなり、新舞子に安藤飛行機研究所を創設し、日本初の民間航路を始めました。1927年には衆議院議員に当選し、2期務めました。娘が衆議院議員、丹羽兵助さんの長男に嫁ぎ、その長男秀樹氏も衆議院議員となりました。孝三さんは終戦とともに占領軍に飛行機研究所を辞めさせられて、その後は競艇三昧で87歳で亡くなりました。安藤家の5番目は時枝さんと言って女性でしたが、当時珍しく大学(日本女子大学)を出て、結婚して小林時枝となり、市川房枝議員の右腕として活躍しました。私の母、ツルは会津の出身で、一時開拓農民の父について北海道に住んでいたようですが、最初の結婚で子供も出来ず、夫も病気で亡くなり、小林家に住み込みで働いている時に、丁度源三の最初の奥さんが女の子を6人設けて亡くなったところで、男手ひとつで困っているというので、時枝さんの勧めで兄、源三の後妻に入り、そこで私が生まれたという訳です。さて、父、安藤源三はどんな人だったんでしょうまず学校は出ていません。岡田尋常小学校中退です。何か先生と喧嘩して辞めたと聞きましたが詳しい事情は解りません。それから常滑の方に小僧で勤めたこともあったようですが、囲碁を覚えて、当時まだ日本棋院も関西棋院もない時代ですが、桑名に強い人が二人いると聞いて、そのうちの一人桑原三段に弟子入りしたことがあったようです。当時もう一人の三宅三段門下に日本棋院中部総本部創設の祖となる酒井四兄弟の長兄、酒井通温氏がおり、互い先で打ったと言います。桑原三段は力碁、三宅三段は形勢判断に明るい碁であり、私は父の影響を受けて力碁になりました。明治43年、15歳の時に父は徴兵されて、シベリアへ行きます。ロシア革命の時に、日本はシベリア出兵しています。騎兵隊でした。秋山好古とは少し時代が違いますが、同じ満州からシベリアの草原をバイカル湖からトムスク、オムスク辺りまで、馬で走り回っていたようです。お尻には馬のタコがあり、晩年は馬をホンダのスーパーカブに替えて、90歳まで乗っていました。昔の思い出があるのか、出かける時には、戦友の一節「それじゃ~行くよと別れては~」と歌ってから出かけました。シベリア出兵から帰ってから知多運輸という運送会社を創ります。丸善運輸に吸収合併されるまで社長を務めていました。最初の結婚をしたのこの頃で、長兄初代梅吉さん、次兄繁三さんが芸者さんを奥さんにもらい、弟の四男孝三さんが置屋の娘をもらったのに、唯一堅気の女(薬剤師であったと言います)をもらいました。私が、中学の頃に引退して、その後は、貯め込んだ骨董品を売っては小遣いを作っていました。母は先妻の娘6人を嫁に出し、自分の子供4人を大学まで出すために、代用教員をして随分苦労をしました。母は父と20歳年が違い、現在96歳ですが、その母も施設に入って、ボケています。安藤家は個性あふれる人がたくさん出ていますが、私が碁を打ち、競艇をやり、あちこち走り回っているのは安藤家の血筋だからなのです。先日、福井の姉(腹違いの姉6人の一番下です)に会って、父、源三のことを訊いてきましたので、追記します。父のシベリア出兵時代の話として、朝起きると眼に氷が張っていて、カシャカシャいったという話は聞いたことがありますが、迂闊にドアノブを素手で触ると凍りついて、とるのに皮が剥けてしまうとか、便所へは金槌を持って行き、前の人がして凍ったものを叩き割ってからするのだという話は初めて聞きました。また姉が結婚する前に、ロシアの女は大きくて大海に爪楊枝だったと話したそうですが、結婚前の娘に話すことではありませんね。
2011年02月15日
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今日はこれからbokeabさんの喜寿祝いを愛艇会でします。みんなで会費を出して、競艇のジャンパーと帽子を贈るとのことですが、私も贈り物を創りました。bokeabさんの写真を戒名をつけて額に入れて贈ります。喜んでくれるかな最初考えた戒名は「愛艇院大物釣鯛居士」でしたが、女房から戒名には名前の1字をいれるもんだよとクレームが付き、ちょっと替えました。調べて見ると必ずしもそうでもないようですが、最近は1字入れる方が多いようです。さて、これから駅前の“美波”へ行きます。
2010年11月21日
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英訳 英語で読みたい方はここを押して見てください今日は午前中、暇だったので、大高緑地で少し鳥見をして、その近くのF君の仕事場に寄りました。F君とは中学・高校の同級生で奥さんが女房と同じコーラスグループに入っていて、昨年たまたま40年ぶりに再会しました。1月3日に蝶の標本を土産に持ってきてくれたF君です。ここがF君の仕事場です。一番右がF君です。真ん中はたまたま来ていたF君の小学校の同級生だそうです。還暦3人が並びましたが、誰が一番若いでしょう鳴海駅の近くで、もともとはF君の奥さんの親がここで鳴海絞りを創っていたそうです。このモダンな建物の中でF君はどんな仕事をしているのでしょうえっ、この機械は何だろう実はF君は高校時代からプラモデルを作るのが趣味で、とうとうプラモデルのキットを創る仕事を始めてしまったという訳でした。工場の片隅には何やら箱が所狭しと並んでいました。ひとつ出して見ると、眼が回りそうな蝶の標本でした。全部で150箱ほどありました。防腐剤を年に1回替えるそうですが、2日に1回一箱ずつ替えても1年近くかかる量ですね。ここの棚はギフチョウばかり全国から集めたものだそうです。いったい、こんなに集めてどうするんでしょうか
2010年01月11日
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今年1年を振り返ってみると、随分知り合いの方が亡くなりました。それだけ自分も年をとったと言うことかも知れませんが、・・・。大学の時の師匠(研究室のチーフ)M先生、市民病院の副院長で退官し、肺がんになって、皆からがんセンターへ行ったらという勧めを断って、私の手術を受けに来たN先生、そしてこのブログにもよく登場した走り仲間のSさん、・・・。特にSさんとは毎日のように一緒に走ったり、山へ行ったりしていたので、空いてしまった心の空間をまだ埋められずにいます。ここでSさんの追悼特集を載せようと思います。Sさんは旧市民病院の隣で奥さんと理容店を経営していました。5年ほど前から私もここで頭をやってもらうようになりました。時々、車の中まで掃除してくれました。Sさんは中学の時から走るのが好きで、一人で朝早く走っていました。蒲郡には走友会というのがあって、日曜日の朝7時に中央公園に集まって走る仲間がいるのですが、日曜日は理容店が忙しいのでそれには出ることができません。でも元旦マラソンだけは毎年出て来ます。元旦マラソンは朝6時に中央公園に集まって、石山神社によって、竹島の八百富神社に行き、お参りして初日の出を拝みます。これは八百富神社で甘酒の接待を受けているところです。そして、また中央公園に戻って、おでんとぜんざいで一杯やります。その後、走友会のメンバーとメンバーの家に行って二次会です。一昨年の元旦マラソンの時に、うっかり飲みながらSさんと朝走る約束をしたのです。そうしたら、毎朝4時半に起こしてくれるようになり、1年ほど市内を朝あちらこちらへ走って行きました。だいたい5~10kmくらいです。お蔭さまで昨年の宮古島は余裕を持って完走することができました。山菜採りも好きで、いろいろな場所を知っていて、一緒にいろいろ採りに行きました。私もマツタケ採りやイワナ採りに案内しました。理容師になる前には東京で流しのギター弾きをしていたこともあり、演歌を歌わせるとなかなかのものでした。酒もまずまず飲めたので時に一緒に飲むこともありました。昨年の正月過ぎに、最近どうも下痢したり便秘したりでおかしいと相談を受けた時には、もう閉塞寸前の進行直腸がんでした。それから長い闘病生活に入りました。手術をしたのですが、取りきれずにすぐに再発し、イレウスを起こしたりで4回も手術をしました。この写真は昨年の8月、退院した合間に女房と3人で新城市の長ノ山湿原へ行ったときの写真で少し痩せていますが、まだ元気で最高の笑顔でした。その後、昨年10月に一緒に、長谷村へキノコとイワナを採りに行ったのが最後の山行きでした。下血したり、イレウスを起こしたりで入退院を繰り返し、最後は痛みを押さえるためにモルヒネを使って、意識も朦朧としていました。亡くなる1週間くらい前に、意識のはっきりした時にまた山へ行きたいな~と言うので、きっとよくなるから一緒にイワナを採りに行こうと励ましましたが、夢かなうことなく、10月13日に亡くなられました。享年69歳、私より10歳年上ですが、若すぎる死でした。
2009年12月31日
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英訳 英語で読みたい方はここを押して見てください。 今日の午後は知多市歴史民俗資料館に大澤鉦一郎展を見に行きました。大澤鉦一郎(1893-1973)は知多市ゆかりの画家で、岸田劉生(1891-1929)と同時代に活躍しました。この地方の最近の画家はほとんど皆、大澤先生に教えを受けています。何を隠そう、この私も保育園から小学校の2年くらいまで、知多市大草にあった大澤先生の自宅に週1回絵を習いに行ってました。1955-1957年頃の話です。名鉄電車に長浦から乗って、大野で降りて歩いて行ったような気がします。行くと、たいてい静物画を描かされました。遊びたいさかりでしたから、早く済まして帰りたかったのですが、なかなかOKを出してくれません。「絵を描くときには対象をよく見て描きなさい」というのが口癖で、「3分みて1分描きなさい」と教えてくれました。その教えは今でも自然観察に役立っています。女房が家に大澤先生の絵があったはずだと言うので、土蔵の長持ちの中を引っ繰り返して探してみました。ありました初期の細密画のような写実的な画風から印象派の影響を受けて変わって来た頃の作品で多分1930年前後の作ではないかと思います。この頃知多市新知に住んでみえましたので、多分新知の美濃川あたりの風景ではないかと思います。やはり横須賀高校時代に大澤先生の教えを受けて、デザイナーの道に進んだ幼馴染みの克君に見せたら、間違いなく大澤先生の絵で多分100万くらいの値がつくのではないかと言ってました。
2009年11月22日
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英訳 英語で読みたい方はここを押して見てください。 昨日家に帰ったら、久米仙人からの手紙が着いていましたので紹介します。差出人は沖縄県久米島町”怪しげな久米仙人”となっていて、開けて見ると、綺麗な字で書いてありました。久米仙人というのは私が9月10日のブログ「久米島の洞窟の住人」で紹介した如何にも久米島の仙人という感じのこの小父さんです。たまたま車で走っていて見つけた鍾乳洞の看板に惹かれて、行ったのですが、暗いし、懐中電灯もなかったので、引き返そうとしたら、声をかけて中を案内してくれました。お蔭で蝙蝠の飛ぶ写真も撮ることが出来ました。さて、その久米仙人ですが、手紙を読むと、1年ほど前から暇があると日中1~2時間ほど、洞窟へ行って、誰か来るのを待って、案内を買って出ているのだそうで、この1年間で320人ほどを案内して、もらったお礼は私の「蒲郡の蝶」とビスケット一袋だけだったそうです。携帯もパソコンも持たない久米仙人が知り合いに頼んで私のブログを見てくれて、手紙を書く気になったようです。案内した中で特に印象に残った、美人の京大博士課程生(民俗学専攻)についてのエッセーが添付してありました。いつの日か久米島案内記を出したいと思って、案内した人のことをメモったりしているそうです。久米仙人に指摘された、前のブログでの間違ったところは洞窟に棲んでいたこの虫を久米仙人が”トビムシ”と呼んでいたと書きましたが、正しくは”とぅびむかじ”だそうで、むかじはむかでの方言だそうです。飛んでいるのは見たことがないそうですが、何故かそう呼んでいるそうです。さて、久米仙人に返事を書きたいけれど、住所も名前も判りません。手紙の内容から家系は神事を司るノロの家系であること、1984年にノロであった叔母さんが亡くなるまではよく民俗学者等が訪ねてきたこと、連絡をとりたければ、国指定の重要無形文化財の”上江洲家”のおばさんに「鍾乳洞の怪しい人知りませんか?」と訊いてくれとのことが書いてあります。今年案内してもらった二つの洞以外にもまだ洞窟があるようで、また来年マグロ釣りに行ったら連絡をとってみようかな
2009年10月17日
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昨日、外科の師匠の訃報が届いた。私には外科の師匠は二人います。お一人は私が大学を卒業して、名鉄病院で外科の研修を始めた時の外科部長のK先生です。K先生は定年過ぎまで働き、最後は名鉄病院の院長をされて辞められました。今は趣味の帆船模型と写真を楽しんで見えます。K先生には外科医(医者)の心得を教わりました。医者は私利私欲のために働くのではなく、すべては患者さんのためにという医者の基本姿勢を教わりました。この時に私は開業はせずに、一生勤務医で終わろうと決心しました。次に、研修を名鉄病院で終わって、大学に帰局するときに、さてどの研究室に入ろうかと考えてました。当時の大学には腫瘍研究室、肝臓研究室、内分泌研究室と肺研究室がありました。その時に飲み会に誘ってくれたのが内分泌のチーフをしていたM先生でした。そして、今研究室でやっていること、手術をたくさんさせてくれることなどを聴いて内分泌に戻ることにしたのです。この選択は間違ってはいませんでした。内分泌外科は名大第二外科でも古い歴史のある研究室で、対象疾患は乳癌、甲状腺、副甲状腺、副腎、膵臓(内分泌腫瘍)です。手術をたくさんさせてくれるというのは嘘ではありませんでした。内分泌には教官がM先生とF先生がみえましたが、教官は執刀はせず指導だけで、全部下のものに平等に執刀医を回してくれるのです。大学にいる3年5カ月の間に150例の内分泌疾患の執刀をさせてもらいました。当時M先生の手術は乳癌、甲状腺癌でも超拡大手術をしていました。胸骨を縦切開して3領域のリンパ節郭清をするというどこの大学もやっていない手術でした。7時間から10時間くらいかかる大きな手術でしたが、それを合併症なく、創痕も出来るだけ目立たないようにやるのに命をかけていました。この時代に鋏の使い方から左手の使い方など手術の基本と決して諦めない手術をみっちり教えてもらいました。大学にいるときにK教授が定年退官を迎え、変わってがんセンターからT教授が赴任してきました。M先生の存在はT教授には少し煙たかったのか、間もなく、M先生は赴任助教授を経て、岐阜県のT病院の副院長で出されました。その後、B市民病院に移り、そこで院長になるのですが、たまたま在任中に脳梗塞で倒れられて、その間に外科部長がその病院をくちゃくちゃにしてしまい、脳梗塞から殆ど後遺症なく回復されたのですが、その責任をとってやめることになりました。その後は公の席には顔を出さなくなり、私立の病院を転々としていました。そして昨日、肺がんで自宅療養中のところ亡くなったとの連絡が入りました。本人の希望で告別式も内輪だけですませたとのことでした。ヘビースモーカーではありましたが、肺がんになったことすら誰も知りませんでした。M先生は高校の先輩でもあり、年は私と一回り違いますが、まだ70歳くらいだと思います。肺がんで在宅死を迎えることはどれだけえらいことかはよく判っています。M先生だからこそ出来ること、「老兵は消え去るのみ」という覚悟であったかと思います。
2009年05月20日
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昨日は近場の池めぐりをして午後名古屋に出て、夕方上飯田の志ら玉旅館で師匠を囲む会(将門会)に出ました。師匠とは私が大学を卒業して最初に行った名鉄病院で習った先生です。昨年、名鉄病院の院長を退職されて、今は悠々自適、趣味の写真と帆船模型を楽しんで見えます。お元気そうでなによりです。横にいるここの女将も30年前と変わってないですね。この中では私が一番兄弟子になります。最後にここの名物の麦とろを食べて、・・・。ここのお宝のお雛様を見せてもらいました。中央の段飾りは250年ほど前のものらしい。さて、今日は三好でJTUの認定記録会(スイム400m、ラン5000m)に出ます。全然練習してないので、どんな記録が出るやら、・・・。
2009年03月01日
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昨日、碧南の市古靖男さんの奥さんから電話があり、ご主人が1月30日に亡くなって、今日お通夜だと言う。え~、あんな元気だった人が、・・・。市古靖男さんと知り合ったのは15年前くらいに遡るだろうか。碧南で碧南マンモストライアスロンという子供の大会をしていたころです。その頃私は愛知県トライアスロン協会の理事長をしていて、子供の大会を何処かでと思っていましたが、加藤高峰さん、市古さんたちが中心となって、碧南市トライアスロン協会を立ち上げて、いろいろと市の方と交渉してくれて、立派な子供の大会を創ることが出来ました。その後、碧南のマンモスプールそのものが閉鎖されてしまったために、幸田町のハッピネスヒルに子供の大会は移されるのですが、確か8年くらい続いたように思います。その後もJTUの審判資格を取ってくれて、あちこちの大会でマーシャルとして協力していただきました。市古さんが”スナック市古”のマスターだと言うことも判り、何回かスナックにも足を運びました。そして、ご自身もトライアスロンで一度宮古島に出て見たいという夢をかなえて、その時の写真がいつも店に飾ってありました。そう言えば最近あまりお見かけしないなと思っていたら、2年ほど前に胃癌の手術をされたようです。半年ほどで再発して闘病生活を送り、体調も悪かったようですが、先に亡くなったお父さんの葬儀、法要を気丈に済ませたという話です。享年66歳、まだ惜しまれる年です。お通夜には大勢の人が参列していました。碧南市飲食店組合の役員などもして、人柄がよかったことが偲ばれます。トライアスロン協会からも7~8人の方が来ていました。祭壇の横には元気だったときのレースの写真、自転車が飾られていました。父親思いの市古さんの俳句が飾ってありました。市古さんの分も宮古島頑張ってくるからね。どうぞ、安らかに
2009年02月03日
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昨日は2時間早引けして、豊橋でやっている野草写真展を見に行ってきました。可愛い弟子から情報をもらって、行ってきました。この地図の上の方に載っている病院が可愛い弟子のお父さんの病院です。そこに通っている患者さんで野草研究家の大町忠久先生が開いていました。大町先生は三河地方の野草に詳しく、私より先に豊岡町のフウリンユキアサガオ(アワユキヒルガオ)を見つけたのも大町先生です。30点ほどの野草(花)の写真が飾ってあり、私も見たことのない珍しいものが半分以上でした。大町先生と初めてお会いして、1時間ほどいろいろ話を聴いてきました。この花はどこにいつごろ咲いているというのを詳しく教えてくれます。一例を挙げるならば、節分草で有名な石雲寺のもう少し先の151号線沿いの石垣にツメレンゲがいっぱい生えているところがあるそうで、明日の朝は早速Sさんを誘って見に行ってきます。今なら丁度花の時期ですから。大町先生の偉いところは写真を撮るだけでなく、保護にも力を入れているところです。下手に教えると皆採って持っていってしまう人がいるのは悲しいことです。この写真展は今月31日(金)までですので、興味のある方は是非行って見てください。
2008年10月28日
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アメリカで行われていたフィギアスケートのグランプリシリーズ第1戦で小塚崇彦選手が見事優勝しました。おめでとう小塚選手はフィギア界のサラブレッドと言われて、お父さんはフィギアでグルノーブル五輪に出場しています。蒲郡プリンスホテルの支配人をしていましたが、数年前、定年前に、息子の指導に専念すると言って退職しました。今息子は世界の頂点に立ち、夢が叶ったことになります。私も、トライアスロンの草分けで全日本選手権にも出て、宮古島で年代別表彰を受けたこともあり、鉄平はトライアスロン界のサラブレッドだったのですが、・・・。私も退職して息子の指導に専念していれば、今頃は、・・・。ところで、今日の夕方のクローズアップ現代に検死の話で私が少し出るかも知れません。今年はもう42件の変死体を診に行きました。先週も4件検案がありました。
2008年10月27日
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児童文学を志した新美南吉(1913-1943)は半田市出身、代表作「ゴンギツネ」を初め、30歳前に死ぬ間際までたくさんの作品を残しました。花のき村と盗人たちに出てきそうなお地蔵さんもありました。新美南吉安城高等女学校赴任70年記念の特別展も開かれています。お祖母さん(81歳)も無事退院してきましたが、お祖母さんは10人姉妹の3番目、親が学校の先生をしていましたので、あちこち転校したようですが、丁度新美南吉先生のいるころに安城高等女学校にいたそうです。教師南吉と67人の生徒たちの中には、K子叔母さん(お祖母さんの姉)も写っていました。(後列左側です)
2008年09月21日
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昨日は名古屋で国保審査会の後、飲みました。いつもの俊ちゃんと、弟とそれから一度お会いしたいと思っていたえらい先生です。名古屋大学名誉教授の高橋昭先生です。隣にいるのが私の弟です。ストロボを使わずに撮りますので、ぶれてしまいました。高橋先生は昭和7年生まれで、名大の神経内科の初代教授です。学生のころにポリクリで教わったことがあります。弟の大先輩で昨日は弟にセッティングしてもらい、最初伏見の大尽へ行きました。先生は小さい頃から蝶の研究もして見えて、京都で日本燐翅学会が出来たときにまだ中学生だったそうですが、京都まで行って入ったそうです。日本燐翅学会の創設者の岡田先生(当時京大の学生だったそうです)とその弟さんについで会員番号3番をもらったそうです。来年名古屋で日本燐翅学会総会があるそうですが、その会長をされるそうです。瑞陵高校から旧制八高(すぐに名古屋大学に変わったそうですが)にすすみました。本当は理学部に入って、蝶の研究をしたかったそうですが、親の反対で無理やり医学部に入ったそうです。前々からご高名は聴いていて、一度お会いして蝶の話を聴きたいと思っていました。最近撮った蝶の写真を10枚ほど葉書サイズにプリントして持って行きました。(ナガサキアゲハ、クロツバメシジミ、メスグロヒョウモン、ツマグロヒョウモン、ウラゴマダラシジミ、サツマシジミ、クジャクチョウ、ヒメキマダラヒカゲ、オオモンシロチョウ、ジョウザンミドリシジミ)さすがに、見てすぐにジョウザンミドリシジミを除いて、見破られてしまい、学名などもすぐに出てきて、その名前のついた由来などを話していただきました。ジョウザンミドリについては、ゼフィルスは似たものが多いのでと保留されました。すごい先生ですね~私はまだ燐翅学会にも入っていないのですが、来年は先生が主催されるというので、入ってお手伝いをしなければ、・・・。またご健脚で、山へも採集に行かれるとのことで、一度山へもお元気なうちにご一緒しなければ、・・・。次に入った店はやはり伏見にある島正というお店、ここの味噌おでんがまた美味しかった。御園座の近くで島田正吾がよく来るそうで、店の名前が島正になったそうです。三軒目はやはり近くのバーへ行き、そこで少し飲んでお開きとなりました。しかし、弟もよく店を知ってますね~。弟が撮ってあとから送ってくれた写真を追加で載せます。
2008年07月23日
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昨夜は緑屋さんで御利益会だった。私と女房の他に、緑屋さん、写真家の水道屋さん、東三河青色申告会の会長(bokeabさん)、大学教授二人、金トビ麺の志賀さんという錚々たるメンバーです。緑屋さんの厨房で飲みます。L○田△平がマンガン漁で獲れたシャコも持ってきてくれました。アマチュア写真家の水道屋さんに、今度警察署の文化展に出す写真を選んでもらいました。最後は金トビ麺の志賀会長自らそうめん(乾麺ですが)を茹でて食べさせてくれました。茹で時間はきっかり3分、すぐに氷水で冷やして締めるのがコツだそうです。そしてすぐにいただきます。女房も一生懸命教わっていました。金トビ麺は愛知県のうどん屋の70%くらいのシェアを持っていますが、一般には小売をしていません。さすがに会長の茹でた金トビ麺は美味しかった。今度はまた生麺でやってくれるそうです。讃岐より美味しいよと自負していました。金トビ麺志賀さんのブログ
2008年07月13日
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午後から病院へ行ったのは、患者さんも診に行きましたが、院内コンサートがあったからです。年に3回くらい院内コンサートを開いています。今日は左手のピアニスト、新澤隆志さんです。6年前に脳出血で倒れて、右片麻痺と言語障害が残りましたが、世界的に有名なピアニストの舘野泉さんが同じように右片麻痺になってから左手のピアニストとして再起していることを知り、自分もやってみようと始めたそうです。さいたま市在住ですが、全国各地の病院を訪問してはボランティアで演奏活動をしています。私は病院の広報委員長をしているので、始めと終わりの挨拶をしました。患者さんや見舞いに来た人たちが聴いて行きます。左手一本で弾いています。義足のトライアスリートもいます。片手が使えなくなってもピアノ演奏が出来るというのは一般の人に勇気を与えてくれます。ボランティアですから交通費も出ません。行きはムーンライトながら(夜行列車)で来て、帰りは夜行バスで帰ると言います。大変ですね。お年は昭和25年生まれということですから私と同じですね。ありがとうございました。さて院内コンサートが終わってから武豊町の町民会館で女房がコンサートをしているというので、行ってきました。着いたら丁度終わったところでした。でも壱町田湿地と昔の武豊町の写真展もやってましたので、それを見てきました。久しぶりに知多へ帰りました。お祖母さんは東京へ、三男は名古屋へ。女房と水入らずで夕食です。ギリシア土産のOUZOと名倉の帰りに蓬莱泉で買ってきた量り売りで一杯です。
2008年05月24日
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古田花子さんから楽譜が届いた。古田花子さんは岐阜県八百津の古田酒造(雪中寒梅が美味しい)の社長さんです。bokeabさんとは幼馴染。あちこちの校歌などの作詞をしてみえる。一度うちのライオンズクラブにも講演に来てもらったことがある。古田花子さんの作詞した「ささゆりに寄せて」という歌がある。今回平井秀明さんが女声・混声合唱曲に編曲して、楽譜を出した。その表紙に私の撮ったささゆりの写真を使ってくれた。完成した楽譜を送ってくれました。女房に歌ってもらおう。
2008年05月02日
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昨年の4月24日の日記で久留米裕(くるめゆたか)さんというイラストレーターのことを紹介しましたが、今日その息子さんから掲示板に書き込みがありましたので紹介します。────────────────────────────────────────────────Re:はじめまして ドクターT9323さん 久留米さん>トライアスロン宮古島大会のシンボルマーク等を>デザインしている、久留米という者です。ネットを>巡回中に貴方のブログに辿り着き、亡父の美術館を>ご来館いただいた際の書き込みを見つけて、本当に>嬉しかったです。>>大会は17回大会ごろから僕が父と共同で担当する>ようになり、20回大会のシンボルロゴが父の最後の>デザイナーとしての仕事だったと記憶しています。>>こうしている今も表彰盾や完走証を制作しており、>この仕事を続けていく限り、自然とトライアスロン、>父と自分と宮古の縁は切れないモノだと感じます。>>自分が自分の為に何かを成したと思えるように>なったら、その後は父の作品をプロデュースしたい>ですね。父の作品をPC用壁紙にしたものなども>ありますし。●初めまして、久留米裕先生に息子さんが見え、後を引き継いでロゴを創ってみえるとは知りませんでした。私は宮古島の第1回大会から出場して、宮古島は第二の故郷と思っています。第何回大会の時だったか、南国美術館を訪れ、お会いすることはできませんでしたが、お父さんの作品を見せてもらい、素晴らしい南国の自然の数々を膨大な作品として残し、また地元の子供たちにも絵を教えているというのを聞いて感動いたしました。アダンの樹に登るヤシガニの絵を買ってきたのはその翌年のことです。そして、その翌年に行ったら南国美術館は閉鎖されており、亡くなったことを知りました。久留米先生と島豆腐作りを教えてくれたおばあ(石嶺シズさん)は今も僕の心の中に生き続けています。●ブログ本文で紹介させてもらいます。(2008年03月28日 05時43分54秒) ────────────────────────────────────────────────これがその絵(版画)ですよ。子持ちベンケイソウの花が咲きました。
2008年03月28日
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昨日は親父の23回忌で、知多へ戻りました。まず、岡田の慈雲寺でお経をあげてもらいました。改装なった本堂の前で記念写真。私は養子に出たので、弟が一応主催者になっています。母はもう93歳で、足が弱くなったので、車椅子に乗せて連れてきました。兄弟10人のうち、7人が揃いました。その後、お寺の裏山でお墓参り。高くて階段もあるので、母の車椅子は二人がかりで担ぎ上げました。お墓の前で母が子供のように大きな声で泣いていました。足が弱くなってから何年もお墓に来ていなかったからです。それから在所へ行きました。女房とは保育園・小学校の同級生ですから在所もすぐ近くです。それから座敷でみんな揃ってお食事です。昔話に花が咲きます。皆、携帯の待ち受け画面の孫の写真を見せ合ったりしてました。女房がアカペラで”千の風になって”を歌いました。架かっている写真右が親父です。左は先妻さんです。上6人が女ばかりで先妻さんの子供です。これは親父の若いころの写真です。みんなが私に似ているというんですが、・・・。親父は明治28年生まれ、今生きていれば113歳です。第一次大戦のとき、ロシア革命が起きて、日本はシベリアに出兵しました。そのときに騎兵隊で満州を走り回っていたようです。さて、妹(美ん美んさん)が法事の準備で片付けていたら、昔の私の作品が2つ出てきました。リクエストがありますので、お見せします。まず、これが私が岡田小学校1年のときに描いた絵らしいです。描いたことは忘れてしまいましたが、家のすぐ上の麦畑でよく凧揚げをしていたのは憶えています。そのころの凧は四角いのと、扇子凧と蝉凧というのがありました。凧も竹を切って作っていたような気がします。もうひとつはこれです。幼馴染のデザイナーになった2年上のM君と二人でガリ版刷りで作りました。前半と発刊にあたってはM君が、後半と終わりにあたってを私が書いています。発案は私がしたようです。M君が原本の日焼けもそのままにコピーを作ってくれました。岡田の蝶として31種類が載っていました。その後新たに見つかったものを入れると40種類くらいになるのですが、・・・。作ったときは中学2年、何処へ行くにも網を持っていました。美ん美んさんがオオフサモを池に植えたいというので、西田川から少し採って持っていったら、庭に置いてある甕にあるじゃないですかしかもミミカキグサまでおまけに生えていた。庭にある池ではよくザリガニ釣りをしましたが、まだザリガニがいっぱいいました。今日は、朝3時に起きて、更新してから長谷村へ行こうと思ったらいきなり楽天がメンテナンスに入って、帰ってからの更新になりました。
2007年11月11日
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昨日、女房のコメントの中で私の母のことが事件として取り上げられていましたので、一度母のことを書いておきましょう。私の母は大正4年生まれで今年93歳になります。会津の出身で小さいころは開拓に行った父親に連れられて北海道にいた時期もあるようです。東京へ出て教員の資格を取り、結婚したようですが、子供はなく、ご主人を若くして亡くしたようです。あまり、その辺のことは話したくないのか聴いていないのですが、絵の先生だったようです。その後、東京で下宿していたところに、父、安藤源三の妹の小林時枝先生(日本女子大を出て、市川房江議員の右腕として働いていた人)がみえて、兄が奥さんを亡くして困っているから、ツルちゃんどう?と話を持って来て、女ばかり6人の子供がいる、20歳も年の違う父、源三のところへ後妻に入ったのです。当時母は34歳で、父は54歳、一番上の姉(先妻の子供)は30歳くらいでした。父はその頃は知多で運送会社を経営しており、大きな屋敷に住んでいましたが、私が中学に上がるころには大きな運送会社に吸収されて、父も引退しました。それからは父の収入はなく、母が代用教員をして家計を支えていました。再婚後3男1女が出来て(私は2番目で次男です)、全員大学まで出して、先妻の子供たちを全部嫁に出して、古い屋敷が残っただけでした。土蔵にあった骨董の類も少しずつ父が売って小遣いに消えました。立派な萱の天地柾8寸盤に転がりそうな蛤と那智黒の碁石があって、それは欲しかったのですが、生活のために300万で売られて行きました。母はとても教育熱心でした。生活費を切り詰めても、勉学のためには惜しまず出してくれました。当時はまだ田舎では珍しかったのですが、兄、私、妹とお金のかかる名古屋の私立へ通わせてくれました。一番下の弟はお金がなくなって公立で通しました。物心ついたころのエピソードで、教育に厳しかった母の話があります。ひとつは保育園に上がる前に2kmほど離れたカトリック教会のやっている幼稚園に入れられたのですが、毎日まだ3歳の私が一人で通うにはつらい距離でした。ある時大きな台風が来て、「やった~、今日は台風で休みだ~」と思っていたら、母が鬼のように「何があっても休んではいけません。」泣く泣く、台風の中を、傘を途中で飛ばされながら、やっとの思いで着いたら、幼稚園の先生が「あら~、こんな台風の中を一人で来たの。今日は休みよ~。」その時は連絡がいって、さすがに迎えにきてくれました。もうひとつの話は、先妻のお姉さんたちがたくさんいる中で、少し小さくなっていましたが、初めて自分用の本立てを買ってくれたのです。机もなくてミカン箱を代用していたころです。嬉しくて早速漫画本を並べて置いたら母が烈火のごとく怒って、「漫画の本を置くために買ってあげたんじゃありません!」怒るばかりではなくて、よいところは褒めてくれました。この3歳ころのことが、その後の私の生き方を決定したようなものです。 さて、母の話に戻って、母は努力家です。知多へ来てからずっと短歌を詠んでいます。馬場あき子先生が主宰する花林(かりん)の会に入って、友達を誘い、知多にかりんの会の支部を作ります。55歳で車の免許を取り、90歳近くまで乗っていました。腰椎の圧迫骨折をして腰が曲がり、耳はとても遠くなりました。今は杖をついて短い距離ならなんとか歩ける程度です。8月25日・26日とかりんの会の全国大会が蒲郡の三谷温泉であるというので、6月ころに何とかして出たいと言っていましたが、耳が遠くて会話が一方通行だし、第一蒲郡までくるのが大変です。今一緒に住んでいる妹が説得して諦めさせたと聞いたのですが、24日の夜に突然母から電話がかかってきて「もっちゃん、明日平野屋さんを一部屋頼んでちょうだい。新海さんが付いて行ってくれることになったから。」「え~、新海さんって、81歳のシルバーカーをひいて歩いている~?付き添いの付き添いがいるよ~。」「だいたい、明日のことだよ。今から頼んでも部屋がないかも知れないよ~。」「タクシーを頼んだから、gjajia a a hajbab・・・」「だって、明日は僕もアッコも伊豆に行っていないよ~。」「もっちゃん、それじゃ頼んだよ。」こうなるともうどうにも止まらない。仕方ないので、平野屋さんに電話しました。「予備の部屋があるので、ご用意できます。」「え~あるんですか?それでは腰が悪いので、低いベットを入れてください。それから車イスはありますか?」予想に反して部屋はありました。2泊したがっていたのを何とか1泊に諦めさせて、・・・。伊豆の日帰り旅行から帰ってきたら、また平野屋さんから電話です。「もっちゃん、ありがとうね。みんなよくしてくれたよ。明日の朝、かりんの会の世話になった人たちに挨拶に来てくれないかね?」「え~、明日は女房と一緒に知多へ帰ろうと思っていたのに、・・・」「7時半ころ、平野屋さんに来てちょうだい。みんなが食事をする前に、gnaj;aa haijn・・・」仕方ない。朝行って、馬場あき子先生始め、主だった人たちに挨拶して、どうやら母も思い残すことなく満足したようです。それから朝食の終わるころに迎えに行って、知多まで乗せて帰りました。これが事件の顛末です。
2007年08月28日
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今年もピンクリボンキャンペーンで市民セミナーをすることになった。一昨日ポスターが出来て、後援の製薬会社が持って来てくれた。今年の目玉は乳癌を体験した女優の音無美紀子さんに来てもらって20分くらい話をしてもらう。その後、私の司会で音無さんにいくつか質問を投げかけて答えてもらう。最近乳癌は増えている。日本人で23人に一人は乳癌になる。毎週木曜日午後の乳腺外来も混んできた。今月はもう5件も乳癌手術の予約が入っている。仕事が忙しいと夜は飲まずにはいられない。朝採ってきたカノコユリを”志な乃”へ持って行った。後ろの色紙はエビスさんが飲みに来たときに書いてもらったもの。今年は蒲郡でもうじきSGがある。またエビスさんも来るだろうかここのお母さんは信州飯田の出身。昭和45年からこの蒲郡駅前の地下で飲み屋をしている。病気をしない限り盆も正月も休まない。この何年かの間に一日休んだだけだお母さんはもう86歳になる。この上のビルに一人暮らししている。いつまで続けられるだろうお母さんはドラキチである。私は巨人ファン。巨人ファンで店に入れてもらえるのは私ともう一人しかいない。お母さんは独身を通した人で、まじめだから愛人を連れていくと怒る。私も、女房と娘と研修医以外の女の人を連れて行ったことはない。酔っ払いもお断りで、一現の客はまず断られる。殆どは常連客かその紹介である。お母さんはとても気前がよくて何でも大盛りで安い。今日は、まず朝採ったワラビをアク抜きして持って行った。ビールを1本自分で出す。カウンターだけの店なので、セルフサービスでビールは出すのです。白菜の漬物がサービスで出る。そしたら、まずオクラがたくさんもらったからと言って出てきた。次に、シャコとキスの刺身を頼みました。刺身は新鮮で盛りがいい。ビールを1本開けたので、焼酎のお湯割りにしました。マイグラスに焼酎6:お湯4の濃いのを作ってくれる。お母さん特製のイモサラダを頼みました。あと、ご飯を頼みました。オカズに紅鮭を焼いてくれました。ここで、ご飯を出してくれるのは私の他に2~3人しかいない。これだけ、飲んで食べて2000円超えたことがないお母さん、長生きしてね~今朝は砥神山から相楽を回って15kmほど走りました。飲みすぎたあくる日はえらい。今朝はオケラだった。
2007年08月03日
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昨夜は金山の全日空ホテル、グランコート名古屋29階の花梨という中華料理の店で、大学の同級生が外科系ばかり7人集まった。夜景が綺麗ですね。国際会議場も見えます。まず、前菜から、ワインで乾杯し→ビール→紹興酒と変っていきます。集まったのはこの7人です。真中の梛野先生が今回名大第一外科の教授に就任しました。専門は胆道外科です。同級生では4人目の教授になります。私は第二外科所属ですが、同級生ですので、一外、二外関係なしにお祝いに集まりました。大学も昔のような白い巨塔ではなくなりました。独立法人化、臓器別再編、若手医師の医局離れで、昔のようなピラミッド型の構図はなくなり、関連病院とのつながりも臨床研修制度によって、弱まりつつあります。でも何と言っても、名大第一外科は東海地区の主要な病院を押さえており、関連病院も東海地方を中心に40近くあり、開業の先生も含めると、数百人の同門の頂点に立ち、臨床と研究と教育の責任者となります。でも仕事の多忙さと責任の重さの割りに給料は私より少なく、手取り50万もないという話です。先々代の第一外科の教授は「医学部教授、3日やれば嫌になる」という本を書いて、停年のだいぶん前にやめてしまいました。まあ、外から見るのと、中から見るのではずい分違うんだと思います・・・。今朝は、いつも大きな実のヤマモモを採らしてくれる患者さんの家に行ってきました。あれ、今年は実が見えませんね。でも、樹の中に入って登ってみると、実がたくさんついていました。よく熟したものもあります。大きくてよいものはワインシロップ煮にしました。外から見るのと、中から見るのと違うというのはこういうことでしょうか
2007年06月23日
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宮古島は珊瑚礁で出来た島です。海岸線は珊瑚礁か珊瑚でできた砂浜で囲まれています。星砂はみられません。一部沖縄製糖の横の海だけ廃液のためか死んだような海になっています。砂浜で有名なのは、水泳会場の前浜ビーチ、鮫が出たという砂山ビーチ、港の近くのパイナガマビーチがあります。ここが、水泳スタート地点の前浜ビーチ、白い砂に青い海です。前に見える島は来間島。ここが、昨年の写真ですが、砂山ビーチです。珊瑚礁は海へ入ればどこにでも見られ、いろいろな魚が泳いでいますが、砂浜も少し持った有名なところでは、前に紹介した、シギラビーチそれから新城(アラグスク)海岸、そして吉野海岸があります。吉野海岸は東平安崎の少し北側、ここから入ります。去年来たときには左の駐車場の看板はありませんでした。入ってすぐのところに駐車場が出来ていました。そこから下の海岸までは500mほど歩かなければいけません。でもすぐに出るなら下まで行ってもいいよというので、そのまま車で降りて行き、漁民の停める駐車場へ車を置きました。ここです。ちょっと一昨年と様子が違います。これが一昨年の写真ですが、吉野海岸というところです。女房の後にゴミのようなものが並んでいます。また女房がマスクとシュノーケルをつけています。ここで、女房はマスクとシュノーケルを借りて初めて潜りました。ここには、実は名物おじさんが棲み付いています。宮古島、吉野海岸、おじさんで検索すると600~700件ヒットします。どうも内地から来た方のようですが、あまりの珊瑚礁に感激して、ここに棲み付いて珊瑚礁の番人になってしまったようです。このガラクタなどが並べてある奥のモンパノキやアダンやユウナの木陰にテントを張って生活しています。初めての人がこの海岸にやってくると、目ざとく見つけて近づいてきて、まずこの珊瑚礁の解説をしてくれて、注意事項をいろいろと教えてくれます。そしてマスクとシュノーケルをタダで貸してくれます。上がってくると、シャワーはありませんが、山から流れてくる水がポリバケツに用意してあって使っていいよといいます。ヘンプ糸と拾ってきた珊瑚のかけらが用意してあって、首飾りの作り方を教えてくれます。奥へ入ってみると、いました、いました。右手奥のバンダナを巻いた白髪のおじさんです。観光客を相手に何か話をしていました。右手前に地元の人も一人いました。「おじさん、こんにちわ。2年ぶりにきました。」「よく来たね~。」早速女房に首飾りを作ってかけてくれました。このおじさん、変わっています。新興宗教の教祖かインテリめいた雰囲気なのですが、ここで珊瑚礁の番人をボランティアでしています。何を食べて生きているのでしょうか。きっとこっそり珊瑚礁の魚を獲って食べているのかな~このおじさんも地元の観光開発との間で軋轢があるようです。上には、先ほどの有料駐車場(¥500)が出来、降りてきた入り口にはマスク・シュノーケルの有料レンタルがあります。これが出来ておじさんも無料貸し出しは出来ないようです。おじさんはボランティアでやりたいのですが、・・・。海岸にはハマヒルガオの花も咲いていました。それでは、シギラビーチの珊瑚礁の魚たちをもう一度ご覧下さい。ハマクマノミ。オコゼの頭、から揚げにすると美味しそう。ミスジリュウキュウスズメダイ。ベラの仲間ハマクマノミ、黒っぽいのもいます。カニもいます。ウツボが珊瑚の間から覗いています。これが、深くてうまく撮れなかったのですが、岩の下に張り付いているハナミノカサゴ。ウミヘビかと思ったらあまり動きません。イカリナマコ。ハタタテダイ。竜宮城の数え切れない魚たち。来年もまた来るからね~。
2007年04月28日
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今日は幻の豆腐造りを教えてくれたおばあとおじいのことを書きます。1985年、宮古島トライアスロンの第1回大会に子供3人を連れて行きました。鉄平が小学校1年生、純平はまだ3歳くらいでした。私のゴールを待つ間に純平は疲れて競技場で寝てしまいました。女房は困ってしまいましたが、そのとき西原の部落の池間さんの奥さんが純平を見てくれたのです。それが縁で、池間さんのお宅にゴール後お邪魔するようになりました。2年目の時でしたか、近くに美味しい豆腐屋さんがあるからと連れて行ってもらいました。地元でも幻の豆腐と言われて、あまりたくさん造らないので、地元の市場にも出しますがすぐに売り切れてしまうという話でした。その豆腐屋さんは小学校の横の道を入ったサトウキビ畑の中にありました。石嶺豆腐です。石嶺勇太郎さんとシゲさん夫婦が棲んでいました。昭和22年小さなユクタギ部落の石嶺家長男の勇太郎さんは軍服姿で西原部落から風呂敷ひとつ持ってきたモンペ姿のシゲさんを嫁に迎えました。勇太郎さん22才、シゲさん24才でした。勇太郎さんは生みの母を知らず、シゲさんは父を知らず、二人とも片親に恵まれない環境で育ちましたが、二人は初夜の日に誓い合いました。「明るく楽しい家庭を築こう!!」と、・・・。やがて、正直で働き者の二人は1男5女の子宝に恵まれて、子供たちは大きな病気をすることなく、すくすくと育っていきました。勇太郎さんは農業(さとうきび)と養豚で生活を立てていましたが、6人の子供を育てるには生活も苦しく、シゲさんは43才のときに少しでも生活の助けになるようにと豆腐作りを始めました。昔ながらの生絞り、釜戸で薪を燃やして、呉汁を煮て、海水で固めるという作り方です。たちまち島で人気の豆腐になりましたが、海水汲みと薪の準備はおじいも手伝いますが、作るのはおばあ一人ですから、午前4時ころに起きて2鍋つくるのが精一杯でした。私が、石嶺豆腐にお邪魔するようになったのは、子供たちも独立して、落ち着いた生活ができるようになったころでした。おばあも豆腐でそんなに儲けなくてもよいのだけれど、島の人たちに人気があってやめられないと言っていました。何しろ本土の豆腐よりでかくて締まっている。大きさで倍、目方では4倍くらいはある。でも1丁が140円でした。最初に行ったときにまず出来たてのゆし豆腐(型に入れて固める前のおぼろ豆腐)をいただきました。海水で固めるので、塩味がついていますが、甘いのです。3~4年、毎年伺ってはご馳走になり、帰りに豆腐をお土産にもらってきました。そのために、おばあはいつもより早く起きて一鍋余分に作ってくれます。何度も伺っているうちに自分で豆腐が作れたらいいなと思い、おばあに作り方を教えてとお願いしました。おばあは気よく教えてくれました。それでは、作り方を写真入りで説明しましょう。まず、にがり代わりに使う海水を汲んでくるのはおじいも手伝います。週に1回くらい西平安崎辺りへ汲みに行き、外のポリタンクに貯めておきます。大豆は国産がよいですが、それほど豆にはこだわっていません。前の日に水に漬けてポリバケツの中に入れておきます。一晩水に漬けた豆をグラインダーにかけて磨り潰します。これが呉汁です。これを大きな脱水機の中に入れて絞り、生豆乳と生オカラに分けます。十分にこなれてないオカラはもう一度水を加えてグラインダーにかけると、もう少し豆乳が採れ、オカラもより細かくなります。そうしてできた豆乳を釜戸の大きなアルミ鍋に移します。釜戸はふたつあり、おじいが準備しておいた薪をくべて沸かします。ふきこぼれないように見張りながら、おじいが育てている豚のラードを消泡剤に加えます。沸騰しかかった頃合を見計らって、びっくり水を加えて少し温度を下げたところで、にがりの代わりの海水を少しづつ混ぜて行きます。すると豆腐が固まり、水と分離してきて、ゆし豆腐ができます。それを型に入れて、・・・。重石をします。重石の重さと、時間によって、硬さは調節できます。出来上がった豆腐を切り分けて、・・・。袋につめて出来上がりです。ゆし豆腐も人気があるので、半分はゆし豆腐のままで袋につめます。また、温めた豆乳をニガリを入れずに温度を下げていくときに表面に張ってくる蛋白質が湯葉ですが、湯葉も少し作ることがあります。以上が私がおばあから伝授された豆腐作りです。私は海水の代わりに天然にがりを使っているのと、消泡剤のラードを使っていない点が違いますが、その他は同じです。おばあが70才を超えて豆腐つくりが少しえらくなってきた時に、四女の洋子さんがご主人の山村日出男さんを連れて宮古へ戻ってきました。1993年のことです。それからおばあの豆腐は山村夫婦に受け継がれ、パーキンソン病を発症したおじいの世話も忙しくなったおばあに代わって作られるようになりました。平成15年3月29日おじいが突然亡くなりました。その年のトライアスロンで訪ねたとき、おばあが一人でさみしそうにしていました。1年経たないうちに後を追うようにおばあも逝きました。今年石嶺豆腐を訪ねたら、山村夫婦に受け継がれた幻の豆腐は健在でした。鉄平と一緒に来た友達もゆし豆腐には大満足でした。後を継いだ山村夫妻と記念写真。ともにおばあの兄弟弟子です。私は豆腐の収率が悪いと言ったら、ミキサーで二度挽きするとよいと教えてくれました。子供たちが作ったおじいの記念誌をいただいてきました。おじいは几帳面な人で、日記を書いていました。その中に私の名前もときどき出てきます。これは平成6年の日記。これは平成8年の日記。これは平成11年の日記です。庭にはおじい自慢のユウナの花が今年も咲いていました。
2007年04月25日
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一昨日、朝の練習中に怪物に出会った。朝4時半にSさんが家を出るときに私の携帯を3回鳴らす。それが、今から行くよという合図。最近は4時半ころになると起きて待っていることも多い。Sさんの家から私の官舎までは1kmくらいある。私も着替えて、官舎を出て、Sさんの家の方へ向かう。途中で出会って、それでは今日は海岸線を走りましょうと。まず竹島へ出て、そこから三谷の方へ向かって海岸線の堤防沿いを走る。港や河口があるところは内側に回る。堤防が切れて、三谷海岸へ出たところで、お爺さんが一人で走っていた。Sさんは話好きなので、走っている人がいると必ず声をかける。顔見知りのようであった。昔一緒に、マラソン大会に行ったことがあるらしい。そのお爺さんはKさんという、年を聞いてびっくり、大正9年生まれの87歳でした。わたしより30才、Sさんより20才も上です。まだ競技スキーの大会に出ていて、今度猪苗代湖で大会があるので、その練習のために走っているとのことでした。一緒に2kmほど走って、弘法山に登りましたが、足腰がしっかりしている。私などまだまだ子供です。怪物の写真は恐れ多くて撮れませんでした。弘法山を越えて星越えの陸橋の上から見ると国道23号線を経て、ラグーナのマンションの灯りが見える。蒲郡には90歳でマスターズ水泳の背泳ぎで世界記録を作ったお婆さんなど、ときどき怪物がいる。私も怪物になれるだろうか?そういえば昨日の朝はこの陸橋のところからちょっと入った山の中で74歳のお爺さんが首を吊っていた。年末にパーキンソン病と診断され、車椅子生活になるといわれたのがショックで悲観していたとのことであった。一昨日の夜は仕事が終わるとSさんから電話、駅前のカラオケスナックで飲んでいるから来ないかという。行ってみたら、Sさんが北島三郎になっていた。Sさんは昔、演歌師を目指して東京へ行き、演歌師の親分に弟子入りしたことがあるという。でも、ある時、年が上でも、若い兄弟子のいうことは間違っていてもきかなければならないその世界が嫌になり、雨の降る日に屋根から逃げ出したという。そして、理容師になった。今でもカラオケへときどき行き、北島三郎を歌う。人にはいろいろな人生があるものだ。そのうちに立って歌いだした。Sさんは火曜日、仕事が休み、火曜日の夜は飲みに行くことが多い。従って水曜日の朝は練習がお休み。私は毎晩飲みに行くので、あまり休みとは関係がない。昨日の朝は外来の看護婦さんがミモザの花を持ってきてくれた。ジンチョウゲは病院の入り口に咲いていたもの。可愛い、面白い花だが、ミモザの花粉症の人がくるとちょっとまずいかな~。
2007年03月01日
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昨日の昼は月に2回のライオンズの例会だった。大体は金曜日のお昼にある。午前中の外来を済ませてから2時間年休を取って出かける。私は市民病院に勤めているので、一応公務員である。仕事をさぼってと言われるのは嫌だから、余って困っている年休を使ってライオンズの行事には参加している。電子カルテシステムに変わったところで、慣れていないので12時過ぎまで外来がかかってしまった。急いで駆けつけたら、始まっていた。例会は12時半から13時半まで、その前に集まって食事をする。着いたらライオンズの歌を歌っていた。最初にいろいろな儀式があるのです。その後、会長挨拶がある。それを聴きながら食事をする。昨日はスピーチ例会で、スピーカーは何とbokeabさんでした。私はbokeabさんの紹介で(スポンサーといいます)、8年前にライオンズに入りました。たまたまbokeabさんの主治医になったときに知り合って、誘われた。最初のうちはとても忙しいのでと断っていたが、熱心に勧められて入りました。いろいろな業種の人がいますので、会って話するだけでも息抜きにはなります。ただ、正会員50人の中で医者は私1人なので、病気のことになると、皆から相談されます。さて、bokeabさんの紹介ですが、私と知り合ったころは繊維関係の卸をしていましたが、入院中にパソコンを覚え、パソコン関係の仕事を始めました。私もパソコンはbokeabさんからずい分教わりました。今は年金暮らしで、えらいのは体と生活だけと言っていますが、現在東三河の青色申告会の会長をしており、とてもえらいお方です。昨日のスピーチもパソコンの話からe-tax(電子納税)の話までしてくれました。病院も電子カルテになり、国民保険の審査ももうじき電子審査になり、納税も電子納税に代わっていくそうです。私は、病院勤めのサラリーマンですが、警察医、国保審査員もしており、また講演なども頼まれることもあり、少ないですが、不動産収入もあります。あちこちからの収入があるので、まもなく確定申告をしなければいけません。女房とお祖母さんも不動産収入があり、それぞれ別々に確定申告しています。いつも、書類を揃えたり、計算が大変です。今年は私もbokeabさんに教わってe-taxにチャレンジしてみようかな電子納税をするには、まずパソコン(Windows XT以上)、会計ソフト、住基カード、e-tax申し込み、カードリーダーなどが必要だそうです。tozyokoさんからライオンズクラブの歌のリクエストがありましたので、それでは、・・・。まず、音符を見て、♪ひろい世界を~ひとつに結ぶ~♪~~~。ありゃりゃ、音符が動いて調子が狂っちゃう~。
2007年02月10日
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昨夜は市長さんからお誘いがあって、市長さんの家に行ってきました。毎年この時期に単身赴任者を慰める会を催してくれる。呼ばれるのは私と、院長、警察署の署長、副署長、そして世話役に秘書課長。私が一番長い、単身赴任歴20年。座敷でちゃぶ台の上にコンロを乗せて、3人づつで鍋を囲む。ふぐ鍋ですよ~。市長さんは釣りも好きらしいが釣った魚ではないようです。蒲郡には漁港が三つあるので、三河湾産の美味しいふぐが安く手に入る。ふぐ料理屋も駅前にあるが、そこでやるより随分安上がりにできる。刺身もから揚げも出ましたよ。ポン酢は市長さんのお手製、レシピを訊いて私も造るようになった。お酒は最初ビールで始まって、ヒレ酒、焼酎(鹿児島の伊佐見)、空(設楽の蓬莱泉の人気銘柄)、養神の原酒(蒲郡の造り酒屋)、6人の中では市長さんと私が群を抜いて強い。それも、そのはず、市長さんの家はもともと造り酒屋。かけてある額はその昔絵師に頼んで、その当時の造り酒屋の様子を絵に描いてもらったものだという。酒造りの全ての工程が描き込まれている。右下に見える、菊花誉という銘柄のお酒を造っていたらしい。市長さんの代になって、造り酒屋は廃業し、酒類販売店と倉庫業になり、量販店があちこちできたので、販売もやめて、今は倉庫業と市長業に専念している。庭には昔使っていた酒樽が茶室に改造してある。この中でお茶をいただいたこともありますよ。酒造りには綺麗な水が必要、裏に深井戸が掘ってあって、のぞき込むと底まで透き通って見える。倉庫を見せてもらうと、あちこちに市長さんの道楽の道具が置いてある。これは三河の手筒花火、竹筒に藁縄を巻いて火薬をつめて作る。これを抱えて上げる、最後にボンといって底が抜ける、勇壮な花火である。下手すると大火傷する。原則として、上げる人が自分で花火を作るものである。今年は統一地方選、市長選もある。二期連続無投票当選している。三期目の今年はどうなるでしょう?
2007年01月16日
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一昨日の披露宴のあと、その会場のホテルに泊まりました。そこに面白い木彫が飾ってありましたので紹介します。あしたのジョーという漫画のパロディーです。花咲かじいさんのパロディーです。太陽がいっぱいのパロディーです。他にも猪木の洗濯(命の洗濯のパロディー)、汚いキツネ(キタキツネのパロディー)、亀ライダー(仮面ライダーのパロディー)など面白い木彫がいろいろありました。パロディー彫刻だそうです。駄洒落のようなものばかりですが、笑ってしまいます。 おまけの画像です。婿さんの家の庭に咲いていました。
2007年01月15日
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今日は、伝説の天才数学者、森重文君のことについて書きましょう。何故私がこの世界的な天才数学者を森君と呼ぶかというと、彼は私の中学・高校の1年後輩だからだ。名古屋、伏見のタオル卸問屋の長男として生まれた森君は中学から東海に入った。お姉さんが1人いて、本来森君が後を継がなければいけないわけだが、東海時代から数学の好きな森君をみて、ご両親はこの子には好きなことをやらせようと思ったという。”大学への数学”という受験雑誌があり、ことし創刊50周年を迎える。掲載記事は入試問題の解説だけにとどまらず、一流数学者によるエッセー、数学史などを載せ、巻末に骨のある添削問題を並べた「学力コンテスト」があった。この「学コン」で1年間ほぼ連続満点を続けた「伝説の人」となり、高校時代から全国の数学者から注目されていた。そんな森君と初めて出会ったのは、私が高校2年のとき、囲碁が好きだった数学の先生を顧問にして、囲碁同好会を作ったとき、1年生の森君が入ってきた。その当時私はすでにアマチュアの初段か2段くらいあったので、森君には最初星目置かして打っていた。学年が違うので、数学の好きな変わった子という印象しかなかった。高校2年のとき、東京へ第3回高校囲碁選手権に主将で出た。1回戦は早稲田大学高等学院高校との対戦、1勝1敗で主将の私の碁に勝負がかかった。この当時はまだ対局時計を使ってなかったので、時間がくると審判の判定になる。審判長はその当時全盛期であった坂田栄男名人本因坊だった。判定で私の勝ちとなり、2回戦に勝ち進んだ。でも2回戦であっさり敗退した。森君の話に戻そう。次に森君にあったのは、雪の降る京都であった。私は理論物理学に憧れて、東大受験に失敗した後、京大の理学部を受けにきて、京大病院の前の小さな旅館に泊まっていた。何とそこに森君がお母さんといるではないかあれ、どうしたんだというと同じ理学部を受けるという。東大入試が中止となり、史上最難関と言われた年だが、2人とも無事合格した。大学に入っても半年ほど教養部は過激派学生で封鎖されていて、学生が好きな先生を呼んで自主講座をしていた。私はすぐに囲碁部に入って囲碁三昧の毎日だった。最初一乗寺の方に下宿、3年目から吉田の方に移った。森君の下宿も近くだった。ときどき遊びに行っては、囲碁やトランプ(神経衰弱)をしたり、ビリヤードやボーリングに誘いだすこともあった。下宿は数学の本で溢れており、いつも数学の問題を考えていた。考えるときの森君の癖は頭の毛を指でくるくると巻きつけては離し、巻きつけては離しを繰り返す。さも頭の中から何かを取り出そうとしているように。ときどき、お母さんが京都まで来ると私も呼んでくれて、美味しいものを食べさせてくれる。貧乏学生でアルバイトをしていたので、お金がなくなると生協の素うどん(当時30円だった)で飢えをしのいでいたので、これは有り難かった。森君はとても気さくで付き合いがよかった。私はどちらかというと、勉強の邪魔をする悪友であったが、ビリヤード、ボーリングなども誘えば嫌がらずについてきてくれる。数学の問題を考えながらだけれど、・・・。ときどき、遊んでいても「わかった、わかった。」と言い出す。「何が解ったんだ」と言うと、「考えていた問題が解けた。」と言う。そんな森君を見ていて、最初は解析概論を読もうとしたこともあったが、とてもこんな人たちについていけないと思って、ますます学問から遠ざかっていった。4回生の夏に女房と再会して、転向を決断した。森君は大学3年のときに、米ハーバード大にいた広中平祐が母校へ来て行った臨時講義を聴き、それを克明にノートに取った。講義のあと、広中と定食屋に行き、広中が難しい例を簡単な絵にして説明するのを見て、代数幾何学という分野に進んでいった。70年代に若干20歳代で「ハーツホーン予想」という世界中の数学者を悩ましていた難問を解き、そこから代数幾何における3次元の図形にはどんな種類のものがあるかを示した。90年にこの業績で数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞の日本人で小平邦彦、広中平祐についで3人目の受賞者となった。京大大学院を出たあと、ハーバードへ assistant professor として行き、帰ってきて名大理学部の助教授となった。このころ、結婚式に呼ばれて行ったら、東大、京大、東北大、名大など、全国のおもだった国立大学の数学の教授が一同に会していた。ヒェ~、えらくなり過ぎと思った。現在は母校京大の数理科学研究所の教授となり、新幹線で名古屋から京都まで通っている。東海からは総理大臣(海部俊樹)、知事(神田正秋)も出ているが、学者と言えばこの人であろう。
2006年12月28日
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