かりん御殿

かりん御殿

February 5, 2004
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カテゴリ: 旧(時事/社会/家庭)
*2月2日付・日記「虐待・糾弾ではなく認識を」続編*


加害者の罪が軽すぎる、
現在の法律は被害者よりも加害者を優遇している、
という様に一般市民の「不公平感」が強くなればなるほど
加害者と家族に対する一般市民からの糾弾
社会的制裁は強まるものだと思う。

実は、英国でも、一般市民の「不公平感」が
加害者への「糾弾・制裁」を強くしている。


本当に一見すると信じられない話が多いのだ。


例えば、3年前・去年と新聞で大々的に騒がれた、この事件と顛末。

場所は、英国の農村。
何度も自宅である小さな農場が盗難の被害にあった一人暮らしの農民が
ついに強盗二人を撃ち、一人を射殺、もう一人を負傷させた。
結果的に農民は4年の実刑で服役し、
生き残った方の強盗は、別の犯罪で、農民と同時期に服役したが
ちょうど農民より一週間前に出所となった。
この事自体もかなり一般市民の神経を逆なでする事になったのだが
大反響を呼んだのは、その後だ....。

その強盗(前科何百件!のふだつきチンピラと新聞に書かれていた)は、

精神的トラウマを負った・性生活に影響を及ぼした...等
肉体的障害は殆ど残っておらず全て精神的影響なのだが
日常生活に支障をきたす様になった事に対して
農民に賠償金を要求するという、民事訴訟を起こしたのだ。
しかも、本人に収入が無いので国税を使っての訴訟だ....。

(この強盗は、犯罪以前以後、続けて生活保護を受けているらしい)


全く悪夢の様な成り行きなのだが、
この事件で、私が一番怒りを感じるのは、何よりも、警察だ。
農民が何度も保護や調査や対策を依頼していたのに
全く、なんの対処もしなかった。
「人が死ぬまで門を出ない」と揶揄されて仕方が無い。
「軽」犯罪に対処する「余力」が無い警察の現状を公的に嘆いていた。
もちろん、当時の警察の処置に対して警察内部で「厳重な調査」が
着手されたが、その調査結果は、どうなったのか、
結果が出たのかどうか、事件自体ほど騒がれていない。
(いつも、大体、こうなる。)
もちろん、全ての英国警察が、おそまつなのではなく地域差も大きいのだが...。


同時に、現況に対処しきれていない役所や制度・政府にも
強い怒りを感じている。
例えば、現在の英国の福祉制度を見ると
どんなに規制や制度を改正しても
その抜け穴に突進して悪用する犯罪者は後を絶たないのに
抜け穴を最初から仮定して柔軟性のある制度を作る事が
なかなかうまく行っていないし
どうも各役所・機関の協力体制が整っていない、というか、
最初っから、違う役所どうしが協力する気が無いんじゃないか?
と感じる事が非常に多い。
「学習困難」関係の本の大部分でも、各公的機関及び研究者どうしの
連帯活動や協力意識の乏しさが大きな問題点として挙げられていた。
このあたりは、日本でも、随分、状況が似ているかもしれない。


私的には、この農民が執行猶予を与えられず
実刑に服したのは間違いだったと思う。
彼には、隔離される必要は無かった。
彼は、一般市民にとって危険な存在では無い。
自分自身の財産、そして、生命に危機を与えられた事が
この事件を引き起こした。
もし、適切な保護を受ける事ができれば
刑務所で管理される必要は全く無いはずだ。

実は、この強盗二人組みはジプシーで
それが、今度は人種差別問題をも引き起こし
すったもんだ状態にもなってしまったのだが
農民出所後、射殺された強盗(ティーンエイジャー)の一族が
「仇を討つ」と公言した為、この農民と彼の小さな農場は、現在
24時間体制で警察に保護されている。

じゃ、最初から、刑務所に入れず、自宅で
警察が24時間体制で警備(実質的には軟禁?)しても
良かったんじゃないか.....とも思うのだが
おそらく
警備にかかる予算
「殺害された加害者兼被害者」の家族への配慮
人種差別判決と糾弾される事への危惧?
純粋的に法律的問題(過失殺人に対する刑罰の規定)
等、様々な要因が絡んでか、4年の実刑判決となった。
(規定により、実際に服役したのは2年だと思う。)
この判決は、農民にとって、不公平だったと私は今でも思っている。

だが、当時、ラジオの討論番組やタブロイド版(大衆)新聞の投書欄で
「強盗は射殺されて当然」という意見が
さすがに少数派なのだが、出て来た時には
非常に複雑な暗い気持になった。

裁判でも、農民に強盗を殺す意志があったか
故意か過失か自己防衛か
という点が焦点だったのだが、その際も
「英国人の家は城。城を守る為には殺人も仕方が無い」
という意見も結構多数出て来て、
それに対しても複雑な気持になった。

気持は理解るのだが、どうしても
この感情が野放し状態で社会的制裁につながる事に
莫大な危機感を持つのだ。
この危機感・危惧は、ちょっと
体罰に関する複雑な思惑にも通じる。
どこまでが、しつけの体罰で、どこからが虐待か?
体罰は、どれもが虐待へ発展する可能性を秘めているのではないか?
....という思惑だ。


犯罪者への社会的制裁で、一番私がおそれているのは
これが犯罪者の家族への社会的制裁に発展しやすい点だ。
犯罪者の家族も、ある意味、被害者なのである。
世間からの制裁が厳しい社会では、完全に被害者になる。
これは、絶対に間違っていると私は信じている。
だが、犯罪者の糾弾として湧き上った強い感情は
時として方向を失う。

人の命、特に児童の命が犠牲になった事件では
冷静さを保つ事は、非常に難しい。
こんな時は、普段、ちょっと悪い事をしている様な人にも
正義感が沸き上がり、
犯罪者を糾弾せずにはいられなくなったりするものだ。
刑務所で小児事件の服役者が他の服役者に襲われたりするのは
この一例だと思う。
だから、普段から、辛い環境でも
まっとうに精一杯生きているという自負感を持つ人だったら
強い怒りを感じるのは当然至極の事なのだ。


しかし、私は、ここで、冷静さを失ってはいけないと思う。

まず、犯罪者を糾弾する事に、どんな建設性があるだろうか?
私が、まっさきに思い付くのは「見せしめ的効果」だ。
「こういう罪を犯すと、こういう末路が待っている」というものだ。
公開処刑は、この目的を持っている。

だが、現代社会、というより、具体的に、英国や日本で
この「見せしめ効果」が、どれだけ犯罪の発生を
阻止しているのだろうか?

自分のしている事が犯罪だと認識しながら
犯罪に走りざるを得ない犯罪者の方が多いのではないか。

この走りざるを得ない、という所には
大きな個人差があって
処々の事情で、不本意ながら犯罪に至る
という、世間の同情をかいやすい犯罪者から
徹底的に自分さえ良ければいい、という
倫理観念、公共道徳意識に全く欠如する犯罪者まで
含まれるのだ。

これだけ、多種多様の犯罪者を
糾弾する事によって犯罪の成立が防げるだろうか?
私の答えは否だ。

私は、
いくつもの数字が組み合わさって金庫の錠が開く様に
いくつもの要因が組み合わさって犯罪の発生に結びつくと考えている。

この要因の中には
犯罪者の「人としての弱さ」等、
犯罪者自身の内的要因も入っているが
公的手段・制度の確立で防ぐ事が可能だと私が信じて止まない
外的要因の占める割合が非常に高いのではないだろうか?

だから、犯罪者の糾弾よりも
まず、コントロールできるはずの外的・環境的要因を押さえ、
新たなる犯罪の発生を事前に阻止する、
これが、何より最優先だと思うのだ。


一方、犯罪者の人権は、どうだろう?
冷静な状態にある人であれば
犯罪者の家族の人権が保護されるべきであり
それを侵害する事は、新たな犯罪である、という事が
容易に理解できると思う。

だが、犯罪者自身の人権は?
犯罪者の人権も守るべきだ、と
心の底から言う為には、かなりの冷静さ、
無関心とも誤解されるほどの冷静さが必要とされるのではないだろうか。
でも、犯罪者にも人権はあるのだ。

人権は、人を問わない。

人権は
罪を犯したから奪われる物ではない。
罪を犯さず、まっとうな人生を歩んでいる事に対して
ご褒美として贈られる物でもない。

人権は、人と共に発生するのだ。

被害者の人権と
加害者の人権は相反し拮抗する。

この二つの人権のバランスをとる為に
加害者に対する社会的制裁は起こるのだとも思う。
被害者の人権の侵された分だけでも
加害者の人権は侵されなければ
どうしても不公平感はぬぐいきれないのではないか?

被害者が殺された場合、被害者の人権は全く否定された事になる。
その場合、加害者の人権も全く否定されるべきだろうか?

この人権と人権の衝突を解決する事は非常に難しい。
それは、冷静さを失っている時にはできない作業だ。
一歩間違えると、人権という概念そのものが危機にさらされる
綱渡りだ。
犯罪者への感情的「糾弾」は、この綱をゆらすものだ。
だが、ゆらすべきなのは綱ではなく、社会の土台自体ではないのか?


実は、この加害者と被害者の人権の衝突の解決に関しては
私の考えはまとまっていない。
今まで「冷静さ」を主張して来ながら
こんな事を言わざるを得ない自己の未熟を恥じるが
正直に告白してしまうと
この件に関して、現在の私は
心に従っているのではないかとも思う。


息子が生まれた時、私は、
私が生んだ命だと思った。

でも、今は、そう思わない。
この命は、私の体を通して生まれて来た、と思っている。

子は親に与えられたのではなく
親に預けられた。
親は、子の誕生と共に発生した人権を
大切に保護しながら、社会に返還する。
その繰り返しで社会が継続して行く。

人権は未来そのものだ。

そんな事を私は
肉体的に親となった後
精神的に親となっていく過程で考える様になった。

子供がティーンエイジャーとなり
体格的に大人と変わらなくなっても
子供には子供なりの幼さがある。
そんな幼い体、自分の子供達だけでなく
社会中の子供達の幼い体
その中に、小さくともった火、
それが、現在の私にとっての、人権なのだ。

そして、そんな小さな火を消さない様に
小さな火が大きな未来に結びつく様に
守って行く事
それが、私の社会人としての使命、責任だ。

だからこそ、その小さい火を守る為にも
冷静さを失ってはならない、と、私は考えるのだ。





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Last updated  August 16, 2004 06:35:22 PM
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