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私は'23年(令和5年)1月8日、満70歳の誕生日を迎えました。生まれて3年後に初めて血友病の診断を国立大学病院で受けましたが、満70歳の正月と誕生日もこの病院で過ごしました。私は今日まで生まれて二回、病院で正月と誕生日を迎えましたが、同じ病院で最初は満60歳の時でした。 今回、三年以上このブログの更新が滞ってしまいましたが、この間様々なことが起こりました。病院への入退院はもちろんのこと、ICUには3回入り手術も小さいもの(CVポ―ト、バスキャスの挿入、検査等)を含めれば10回以上受けてきました。特に'22年(令和4年)9月20日の入院は、同じ病院に115日間となり人生最長の入院生活でICUにも27日間入っていました。腎臓も弱り、同年9月28日から透析治療が始まりました。 この間、悪いことだけではなく、良いこともありました。最大の喜びは、私の次男の結婚が最近正式に決まったことです。相手の娘さんとは、私も長期入院前に数えきれないほど我が家で会っていて、この子と結婚してくれればいいな、と想っていました。 もう一つは、私の血液凝固第八因子のインヒビターの力価が下がり、特に免疫寛容療法を実施した訳でもないのに、第八因子製剤の長期使用が可能になっていたことです。やはり私は血友病A患者ですので、不足している第八因子を補うことが一番効果的です。ただし、私のインヒビターがすべて消えていた訳ではないので第八因子製剤を使う場合、一般の患者よりも大量の製剤が必要になります。今回、第八因子製剤を使ったのは約13年ぶりで、尿管ステント留置や、透析に必要なバスキャスの挿入などに効果を発揮しました。尚、日常の出血は主に(関節)内出血ですので、毛細血管に強みを発揮するへムライブラを常用しています。 私の体重も、ブログを休んでいる間に20Kg近く落ち、ついに50Kg前後になってしまいました。ですが、この体重は人生最大の高調期だった高校卒業のころと同じなのであまり気になりません。 モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。
2023年01月17日
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私の、小学校3年生の孫娘が描いた画が、「初等教育資料」2019年 09 月号 [雑誌] の表紙に掲載されました。 (Amazonより転載) ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします※
2019年09月19日
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現在、私が確実にこの世で生きていられるのは、自らの血友病に関する考えを貫き、最高9割以上のシェアがあった非加熱の輸入濃縮血液製剤を1バイアルも使わなかったからです。私は、「非加熱製剤を投与しなければ、患者たちの命が持たない。」という医学者の言葉が嘘であったことを、自らの体験で証明しました。過去において血友病に関し無知な医学者があまりにも多かったことに、いまさらながら驚愕させられているのが今の私の立場です。日本の薬害エイズは、大勢の血友病患者が主治医に騙されたことに気づかされる結果で終わってしまいました。日本の大多数の血友病患者は、「血液製剤を使えば健常者と同じように生活できる。」などと主治医等に唆され、社会活動のために非加熱濃縮製剤を使ったのです。 日本の薬害エイズの実際の被害状況は、日常的に血液製剤を必要としていた血友病患者約3.000~3.500人に対し、HIV感染被害者数は約2.000人であり、感染率は約57~67%であった、というのが正しい見方です。これは、安全な加熱濃縮血液製剤が出回る'85年(昭和60年)頃までのことで、'83年に認可された自己注射を実際に行っていた血友病患者は、当時2.000人にも達していなかったと考えられています。 私は重症血友病患者ですが、治療目的で病院へ行ったのは、血清肝炎に罹患することを恐れ、'81年から'85年までの5年間で計4回程度でした。この時期は、HIV感染に関し最も警戒を要した期間です。内'84年に1回、'85年に2回であったことはエイズ問題も表面化していたため、よく覚えています。故に私は、日常的に血液製剤を必要としていた血友病患者には該当していなかったと想います。この4回の時も、痔による出血が1回と関節内出血が3回であったため、特に命に係わる問題はありませんでした。もちろん患者による個人差は大きいと考えられますが、私の場合年3~5回程度、関節内出血が原因でその都度会社を1~3日間休まざるを得ない時が続いていました。 「私が患者さん六人のHIV抗体を調べたのが六十年('85年)頃ですが、既に全員が陽性でした。・・・」これは以前ネットから拾った、北陸地方のある個人開業医が38歳のころの体験として語った弁明で、彼の言い訳も書かれていましたが現在は消されています。当時から輸入濃縮製剤は特殊な薬剤で、高額な処方料に加え”おまけ”や”値引き”を含む薬価差益を得る行為が公然と行われていて、6人もの患者を診ていたらさぞかし儲かったことでしょう。彼のように高確率で血友病患者にHIVを感染させた医師が、全国の大学病院などを中心に大勢存在していました。彼らは、この最も危険な時期に、あえて血友病患者に'83年2月に認可された自己注射を勧め、毎日や週数本使わせるなどの定期補充療法(予防投与)を推奨してきたのです。 非加熱製剤がなければ助からなかった血友病患者が、当時の日本にどれほど存在していたというのでしょうか。真っ先に語らなければならない患者は皮肉にも非加熱製剤が原因で、エイズを発症した血友病患者や血清肝炎が悪化し肝硬変や肝癌を発症した血友病患者だったのです。非加熱製剤が、彼らの延命のため大量に使われたことも事実です。およそ'85年以前、エイズ関連死の死因を、血友病が原因の死因に置き換えれれた血友病患者が存在していたことも決して否定できません。他に敢えて挙げるならば、健常者と同じように血友病患者が罹患する、症例としては極めて稀である、赤痢や結核などの重篤な感染症や悪性腫瘍等による頭蓋内出血や臓器、筋肉内などの出血、また事故による失血等で、新鮮な血液や血漿、または加熱製剤等が入手困難な止むを得ない場合に限られるはずです。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします※
2019年07月03日
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日本は今月1日、令和の時代を迎えました。現在、日本国民は祝賀ムードで、しかも世間は正月休みやお盆休みよりも長い10連休を満喫しています。しかし、世界を見渡せば多くの国々が、国の存続に関わるほどの大きな問題を抱え、困難にに直面しています。今後これらの危機に、多かれ少なかれ日本が巻き込まれないとは考えられません。この混迷の世の中の、日本の政治を見まわしてみれば、与野党、特に野党の体たらくぶりには、嘆かわしく腹立たしい思いが募るばかりです。 日本の政治を動かしてきた人物は、大東亜戦争までは陸軍、海軍の軍人たちでしたが、戦後は自由民主党と東京大学の卒業生に代わりました。しかし、この戦後の態勢も汚職や腐敗が表面化するようになり、現在、終わりの時代を迎えようとしています。今、世界の最大の懸案事項は米中貿易摩擦であり、ますます激化しています。世界の企業では、「下方修正」、「人員削減」という言葉が昨年から目立っていましたが、最近は日本の大手企業からもこの言葉が出てくるようになりました。 米国では今月15日、IEEPA法(International Emergency Economic Powers Act、国際緊急経済権限法)を発動し、情報、通信技術と関連サービスへの脅威に関する国家非常事態を宣言しました。結果として、米国と中国は紛れもなく経済戦争に突入したのです。米国はこれだけではなく、中国共産党の覇権主義に対抗するあらゆる法律を用意しています。これから米国の同盟国である日本の企業も、中国からの撤退を余儀なくされます。反日国家である中国や、やはり反日国家であり米国から同盟国扱いされなくなってきている韓国の日本離れが、これからますます進んでいくであろうと予測できます。 米国のIEEPA法の基になる法律は、NDAA法(National Defense Authorization Act、国防権限法)です。米国の法律は議会で決議され承認されるもので、トランプ大統領には、この法律に署名し従う義務が課せられます。米国の中国に対する強硬姿勢は、トランプ大統領の意思よりも、むしろ議会の意向の方が強く反映されるのです。昨年('18年)8月13日にトランプ大統領の署名により、米国国防権限法2019が成立し施行されました。さらに強硬な米国国防権限法2020が今年の夏に施行されようとしています。これらの米国の法律については、経済評論家の渡邉哲也氏が詳しく解説しています。 大東亜戦争後の中国、朝鮮(韓国、北朝鮮)の日本に対する国を挙げての国民への反日教育は凄まじく、これらの国が無くならない限り続くと考えられます。彼らの主張は日本を貶めるための妄想であり、史実に基づくものではありません。戦前から白人国家に忠実であった支那や、支那の属国であった朝鮮が、ついに米国から見放される日が来たのです。この動乱の世の中、安倍政権は以前の政府ような誤った日本の歴史観で臨むのではなく、日本の内外に対し正しい歴史認識を示し、未来に繋げてほしいものです。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。※
2019年05月06日
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一般の国民に公表される「政府提供の統計」を、日本は正確に発表している世界でも開かれた国のはずです。しかし、この日本でも、統計をとる時期を遅らせたり、権力者に不利になる統計をとることを見合わせたりする行為などが、現代でも姑息に行われています。正に、日本の血友病患者が被害を受けた薬害エイズ問題では、正確な被害者数が把握されないまま、現在に至ってしまいました。この重大な問題について、血友病である私は、政府または政府の関係団体から、過去に調査依頼を受けたことが一切ありません。現在、厚生労働省が血友病の指針としているはずの、財団法人エイズ予防財団による「血液凝固因子異常症全国調査」の依頼を受けたことも一度もなく、今になっても調査票の現物を、実際にこの目で見たことがありません。私も例外なく、群馬県知事から「先天性血液凝固因子障害等医療受給者証」の交付を受けています。にもかかわらず、調査票さえ私の手元に届かない、ということは「血液凝固因子異常症全国調査」が如何にいい加減な調査であるかが解ります。 '85年(昭和60年)のフランスの人口は、約5.500万人。対する日本の人口は、約1億2.000万人でした。当時のフランスの人口は、日本の半数以下です。フランスの血友病患者のHIV感染率は約45%、人数にして約1.300人だと言われています。従って、当時のフランスの血友病患者は、約2.900人存在していた、ということになります。 では、世界の被害状況はどの程度なのか。'08年(平成20年)までの、元新潟医療福祉大学大学院 片平洌彦医療福祉学研究科特任教授の研究によると、血液を介し世界の血友病患者30.000~40.000人がHIVに感染した、と推定されています。1996年現在各国からの被害者報告数は、米国が4.864人で最も多く、次に日本の1.792人、ブラジル1.577人、ドイツ1.377人、フランス1.300人と続いています。この報告数は推定ではなく、飽くまでも各国で確認された人数に過ぎません。ちなみに総報告数は、56ケ国16.766人でした。日本では、'90年代に「血友病患者約5.000人の4割にあたる約2.000人がHIVに感染した」と言われていたので、実際の被害者は2.000人に昇ると考えるのが妥当だと想います。この根拠については、後に詳しく解説します。私がこのように書くと、日本の頭の悪い官僚らは、すぐに「1.792人中には、重複者が含まれていた。」などと反論するでしょうが、そうではなく日本の薬害エイズの構造は、誰もがすぐに理解できるほど単純ではありません。 日本の「薬害エイズ」問題を語るには、'55年(昭和30年)代まで遡る必要があります。奈良県立医科大学病院小児科 初代教授吉田邦男医師と、東京大学医学部第一内科 助手安部英医師は、古くから「日本血液学会」に於いて深い繋がりがありました。二人の共通点は、ともに血友病を研究していましたが、この二人の藪医者は、日本の薬害エイズの構造を創り出す切っ掛けを、全国に隈なく拡散しました。結論から先に語れば、この二人が日本の血友病患者にもたらした影響が絶大で、彼らが過信した血液製剤を使った血友病の治療法により、過大な犠牲者をも生み出してしまった、ということです。この二人の医師が日本の血友病患者にもたらした数々の悪事は、決して見逃せません。 「非加熱製剤を投与しなければ、患者たちの命が持たない。」これは'05年(平成17年)10月4日読売新聞掲載の、血友病患者にHIVを感染させた、ある医師の弁明です。基本的に、この何の根拠もない嘘の考え方を積極的に推進し、日本の隅々の血友病患者にまで広めたのが、吉田邦男医師と安部英医師です。しかし、肝心な血液製剤の安全性は最初から無視されてきたのです。私は、この二人が血液製剤の安全性について語った言葉を、一言も耳にしたことがありませんでした。次回の日記から、いよいよ問題の核心に迫ります。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。※
2019年04月27日
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平成の時代も、残り僅かになってきました。令和の時代になる来月、安倍晋三首相が、今年10月からの消費税増税延期を打ち出す方向が視えてきました。世界の景気が現在不況に向かっているなか、今決断しなければ、首相退陣が明らかになります。本来ならば、消費税を5パーセントに戻すくらいの対策がないと、まもなく到来が予測されるリーマンショック級、またはこれ以上の不況には、とても乗り越えられません。安倍政権による金融緩和策は、円安誘導の効果を生み出し株価上昇などを伴い日本の景気を維持してきましたが、まもなく限界の域に達すると考えられます。 平成の時代が始まった'89年(平成元年)1月8日は、私の36歳の誕生日でした。昭和最後の日の昭和64年1月7日は土曜日でしたが、私は総務兼経理責任者として勤務先の会社で仕事をしていました。この日の午後、社長室でテレビを見ていた社長から、地元出身の小渕恵三官房長官が、次の年号が「平成」であることを発表したと、事務所で初めて聞かされました。当時は土曜日の休みがまだ定着しておらず、私が勤務していた会社では、慢性的な人手不足の状態であり、毎週土曜日が休みの体制がまだとれていませんでした。時は、日本のバブル真っ盛りの時代で、私も人並み以上に大変忙しく過ごした思い出が残っています。 '84年(昭和59年)、私が米国を旅行した時は1ドル約240円でした。地元の群馬銀行で1.000ドルのトラベラーズチェックを2冊買って、米国へ向かったことを覚えています。今思うと、物の値段にもよりますが、日本の物価が当時とさほど変わらないように感じられます。当時のガソリンの価格は、日本で1リットル約150円、米国では1米ガロン(約3.8リットル)約1ドルでした。旅先では、日本の車を多く見かけたり、ホテルでテレビを見ていると日本の車、電化製品や化粧品などのコマーシャルが盛んに流されていて、このころの対米輸出額は、輸入額を大幅に上回り、今日のように大問題になっていました。ちなみに日本が、安定的な貿易黒字国になったのは、'80年代初めのころからでした。 当時の問題を解決させた出来事は、「プラザ合意」でした。これは、'85年(昭和60年)9月、米国、英国、西ドイツ、フランス、日本の先進5カ国による、基軸通貨である米ドルの高騰を是正する目的のための合意でした。結果として、この年の末には1ドル200円にまで逆に円が高騰し、さらに円高は進んでいきました。この時の日米貿易摩擦の解決策は、円高誘導だったのです。 近く、日米通商協議が本格的に行われようとしています。米国は、自由貿易主義から保護貿易主義に転じ、日本からの貿易赤字を解消しようと、現在日本の安倍政権に経済改革を迫っています。これから日本が米国の農産物を大量に輸入したとしても額が知れていて、とても輸入額を増やした程度では収まりません。今回の日米貿易摩擦の解決策も円高誘導で落ち着くと考えられます。米中貿易戦争が長引いている中、日本の安倍政権は、中国との貿易問題も抱えています。いずれにせよ、近い将来日本の経済界が相当の打撃を受けることは間違いなさそうです。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。※
2019年04月25日
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日本の厚生労働省発表による「薬害エイズ」に関する情報には、嘘や間違いが多すぎます。これは、日本国民に対し被害状況を過少に公表し、自らの責任を少なく評価する魂胆が見え見えで、官僚の傲慢かつ姑息さがあからさまであり、一国民として断じて許すことができません。このまま生き証人が死に絶えれば、嘘の歴史が後世に引き継がれることになります。私は、国民を見下す現在の厚生労働省の悪の体質が改善されるまで、抗議を続ける所存です。以下、厚生労働省並びに厚生労働省官僚の天下り先団体等の、ネット上の資料より抜粋し検証します。 資料年表には、「1972(昭和47)年頃~1988(昭和63)年頃 血液製剤(血液凝固因子製剤)によるHIV感染」とあります。(「医薬品副作用被害救済・研究振興基金 十年史」(平成元年10月)等を参考に作成)人間がHIVに感染し、AIDSを発病するまでには、平均10年程度かかると言われていました。ということは、ともに昭和47年に認可された、国内血液が原料の日本製薬の第9因子製剤PPSB-ニチヤクと、米国血液が原料のミドリ十字の第9因子製剤コーナインの、2つの会社の明暗が発売当初から既に決定していた、ということです。ちなみに第9因子製剤は、血友病B患者用の濃縮製剤です。また、血友病B患者数とA患者数のの比率は、B患者一人に対しA患者4~5人の割合です。 血友病B患者用の血液製剤は、血友病A患者用と違い、当初から血液凝固第9因子の純度が高い濃縮製剤でした。日本で初めて血友病患者用の血液製剤が発売されたのは、'67年(昭和42年)、血友病A患者用の国内血液が原料のミドリ十字のAHG(Antihemophilic globulin)で、私が14歳の時です。しかしこの製剤には、第1因子(フィブリノゲン)他多くの不要な物質が含まれていて、'70年(昭和45年)には、不要物質を減らしたクリオプレシピテート製剤である、国内血液が原料のミドリ十字のAHF(Antihemophilic factor)が発売されました。やがて、'78年(昭和53年)になると、血友病A患者用の血液凝固第8因子の純度が高い血液製剤が6社7品目が承認され、翌年には血友病A患者も濃縮製剤が使える様になりました。しかし、この中で国内血液が原料に使われたのは1社1品目しかなく、日本製薬のハイクリオだけでした。このため、'90年代初めのころ血友病患者のAIDSによる死亡者数が格段に増え、'90年代中旬までピークを迎えることになったのです。 私の父親は、血友病は長く生きられないなどと疑う考えは毛頭なく、私が慢性肝炎に罹ることの方を心配していたようでした。父親も、医学に対する知識などは持ち合わせる術もなく、身近な情報だけが頼りでした。周囲に遅れ、我が家に白黒テレビが入ったころの、'64年(昭和39年)に「ライシャワー事件」が起きました。父は、詳しく書かれていた新聞などにも目を通し、輸血による慢性肝炎罹患の怖さについて、よく私に話しをしてくれました。それにしても、自国の血液は自国で賄う、という国際的な取り決めに対し、いったい誰が米国からの血液の輸入を決断し、日本が世界中の血漿の2/3を消費するほどに輸入量を拡大させてしまったのか。この権限は、旧厚生省にあったはずです。もし、日本の皇太子が血友病であったならば、血液一滴の輸入もなかったことでしょう。あまりにも日本の血友病患者の命が軽く扱われていたことに対し、私の腹立たしく思う気持ちは爆発寸前です。 厚生労働省提供、中学生用教材の作成資料には、「昭和60年 3月 国内第1号患者認定、血友病のエイズ患者認定(5月)」とありますが意味が解りません。また、社会福祉法人はばたき福祉事業団の「薬害エイズ年表」に「1983年7月5日帝京大症例患者死亡(日本初の薬害エイズ被害者)の報告」と掲載されています。となれば当然、日本のAIDS患者国内第一号は昭和58年7月の血友病患者です。この時の帝京大学には、安部英医師が医学部長として就任していました。また、「米国で採血された血液を原料として製造された血液製剤(血液凝固因子製剤)の投与を受けたことにより、我が国の血友病患者約5,000人のうち1,400人強等が、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染。」とありますが、これでは感染率が僅か28%しかなく、あまりにも現実とかけ離れ過ぎています。そもそも、厚生省が非加熱濃縮製剤による新たなウイルス感染症エイズを初めて認めた'85年(昭和60)年当時、血液製剤を必要としていた血友病患者は、3.000~3.500人程度しか存在していなかったはずです。また、現実のHIV感染被害者数が僅か1.400人強等という数はあり得ません。フランスの血友病患者のHIV感染率は約45%。フランスよりも大幅に対策が遅れた日本の感染率が、たった28%とは・・・? ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。※
2019年04月18日
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私が訪問看護を依頼して、今年の7月には10年目に入ります。私の、途絶えることのなかった繰り返し起こる関節内出血による苦痛の低減や、健康維持をを目的に訪問看護を依頼したことで、医師と看護師、、ケアマネージャー(Case management)との連携も密になり、肉体的なことや精神面で、今では充分過ぎるほどの安堵感を得ることができています。 それと、忘れてはならないのが、安定した安堵感が持続できる、画期的な新薬であるへムライブラ皮下注の存在です。私が25歳のクリオプレシピテート製剤の時代に、初めて出会った血友病専門医から数えて、現在、5人目になる主治医から、へムライブラの処方を受けています。注射は、私の左手首が拘縮状態のため、引き続き看護師に依頼しています。へムライブラにより、私が幼い頃から続いていた関節内出血により起こる苦悩が、一気に解消されました。 今、過去を振り返れば、父親の血友病に関する対応と、平坦な土地柄が味方し、38歳の時まで膝や足首の関節を温存することができ、それまでに、制限はあったものの人の温かみを感じながら、健常者と同じ世界で踠き苦しみながらも、なんとか生活することができました。私はその時、どうにか生き延びられた、という安堵感から、職を失っても今日から体を酷使することもなく楽な生活ができる、と心の中で思いを巡らせていました。私は、この時受けた加熱濃縮血液製剤の大量投与により、自分がインヒビター保有者であることが判明しましたが、特に驚くことも悲観することもなく、これ以降も、重篤な出血が起こったとき以外は、永い間血液製剤を頼ることがありませんでした。このため、濃縮製剤を数年使わずにいるとインヒビターの力価が限りなく0に近づくことを、自ら体験できました。また、この時以来、全く動かなくなった両膝と両足首には関節内出血がなくなり、この分激痛に耐えることが少なくなっていました。今、当時の若いころ体験してきたことについて思い起こしても、全く悔いは残っていません。 最近、高校生時代の友人が夫婦で我が家に遊びに来て、娘さんの留学先のサンフランシスコで、レンタカーで家族と市内を巡り歩いた話を聞かされても、ガソリンの値段や車、市内の話題などで盛り上がり、私の若い時にしか味わうことができなかった、血液製剤を携帯しない米国の些細な体験談で、優越感さえ感じることができました。ウイルス感染のリスクを考え、血液製剤の使用をできる限り控えてきた私にとって、ノボセブンに続くへムライブラの血液に頼らない薬剤の出現が、私に未来への希望を与えてくれました。 従来の血液製剤は、当初、血清肝炎の罹患の問題がありました。肝炎ウイルスに感染し、亡くなっていった血友病患者も決して少なくはなかったと考えられます。この重要な案件が解決されないまま、血液製剤は、クリオプレシピテート製剤の時代から濃縮血液製剤の時代へと変わっていきました。血友病患者は、血液製剤を使えば健常者と同じように生活できる、などと宣伝ばかりが盛んになり、非加熱濃縮製剤の需要は劇的に増加しました。やがて、HIVに続いてHCVが発見されましたが、この間にも多くの血友病患者がウイルスを同定されないまま亡くなっていったはずです。血友病患者の感染症対策は、皆無だった、と天国の血友病患者の嘆きの声が聞こえてきそな気がします。この世の中、歴史を正しく解析し理解しない限り、過ちは繰り返されます。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。※
2019年04月09日
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現在米国は、トランプ大統領の政策である「米国第一(America First)」を掲げ、世界の流れを変えようとしています。現在の、「秩序なきグローバル時代」に対し、米国を最優先に考えた新たなルールを作り、実行していこうとするものだと想います。過去に起きてきた世界の戦争は、基本的に人類の生活に必須である食糧、鉄、石炭などの資源や、領土の奪い合いでした。世界の物資や領土の奪い合いの流れは大航海時代のヨーロッパ諸国から始まり、現在終わりの時代を迎え、民族対立や宗教対立の様相があからさまになってきました。 過去の二回の世界大戦は、いずれもヨーロッパ諸国から始まりました。大東亜戦争により、アジア、アフリカなどの植民地を失った欧米諸国は戦後、力による物資や領土の奪い合い、白人至上主義を反省し、ヨーロッパ諸国はEU(European Union)を設立しルールを制定しました。世界のグローバル時代の始まりです。しかし、このルールには、物事を制限する細かな規制が多く、参加国ごとに様々な不満が生じ、現在、EUは崩壊の危機に直面しています。 最近「ブレグジット」という言葉が、メディアで盛んに語られるようになりました。この言葉の意味を、「goo辞書」で次のように解説しています。「【Brexit】《British(英国の)、もしくは、Britain(英国)と exit(離脱)を組み合わせた言葉。(ブレクジット)(ブレクシット)とも》英国が欧州連合(EU)から脱退すること。英国のEU離脱」(全文掲載)英国では、国民投票でEU離脱が決定したものの、議会でもめており、まだ離脱に至っていません。たとえ、英国がEUから離脱しても、ロンドンの国際金融市場が揺らぐことは考えられませんが、一時的な景気後退は避けられないと想われます。 この世界の流れに対し、世界一の歴史を誇る天皇を中心にした民主主義により栄えてきた日本は、欧米に遅れ、いまだ秩序のないグローバル化を推進している状態にあります。一つの例として、大量の移民を受け入れていた欧米は、国内の混乱から移民を排除する流れに変わってきました。比較して移民受け入れを制限してきた日本では、逆に受け入れを推進す方針を掲げ、止まる気配が見受けられません。日本の現在の労働者不足は、移民に直結する外国人労働者を大量に受け入れなくても解決する問題です。この問題にも、政治を自由にコントロールできるほど力をつけてきた経団連が深く関わっています。 平成の時代は、世界のグローバル化の波に乗り、多くの日本の企業が世界に進出したため、国内のGDPが停滞し、経済成長率が極端に低下しました。結果として、日本が世界一の債権国にはなったものの、日本の多くの国民は、企業からの恩恵を直接受けられなくなってしまいました。日本の企業が生産拠点を日本に戻すことができさえすれば、日本の景気は間違いなく急向上します。日本は現在、外国のGDPを押し上げることに貢献しているのです。平成の時代が終わろうとしている今、日本の景気を上昇させるためには、国内の老朽化したインフラを見直すなどして、公共事業の予算を倍増するなどの思い切った対策が必要です。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。※
2019年04月06日
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かつて、奇病として伝えられていた「エイズ」という病気を、私が初めて知ったのは、'83年(昭和58年)頃です。恐らく新聞からだと想いますが、内容は、極めて致死率が高いことと、カポジ肉腫やカリニ肺炎を伴うこと位いしか、その時の私は解っていませんでした。また、これと同じ頃、私は血友病患者に自己注射が認められたことを知りました。ですが、程なくするとエイズは血友病患者の中にも発生し死人も出ていて、原因は輸血だという報道も新聞で目にするようになりました。原因が輸血となれば、血友病の私には当然血液製剤が想い浮かびます。これは米国の問題として取り上げられていたので、海の向こうの米国だけの問題ではないだろう、と常に心の中では疑っていました。 AIDSは、速くのうちから性感染症であると考えられていたため、日本に上陸するまでには、かなり時間がかかると予測されていました。ですが、血液製剤が原因となると、事の成り行きが少し変わってきます。案の定、日本のAIDSによる犠牲者の第一号は、血友病患者でした。しかし、日本の官僚は、この事態を認識しながら長く隠し続けました。AIDS医療の過去に遡れば、結局、血友病専門医が引き続きAIDS患者も診ることになり、この流れは現在でも変わっていません。 '85年(昭和60年)に入ると、日本中の血友病専門医が、診ている患者のウイルス感染を疑うようになり、いよいよ血友病患者のAIDS問題が表面化し、深刻な事案になってきました。また、米国に続き日本の大手メディアである、テレビ、ラジオ、新聞などにも、AIDS関連報道が、目立つようになりました。この頃になると、血友病患者の間でプロパーと呼ばれていた製薬会社のMRは、患者に対し我が物顔な振る舞いができなくなっていました。MRの多くが、非加熱血液製剤の危険性を理解し、自らの行動が常軌を失っていたことが、身につまされて実感できたと想います。 私が、初めてHIV抗体検査を受けたのは、'85年3月末のことです。知り合って8年目の私の担当医から、血友病なので、という理由から検査を受けました。この医師は、血友病専門医として私が初めて知り合った医師でした。採血の際、エイズ検査だということを告げられ、承認書類に署名し、捺印の代わりに、印鑑の持ち合わせがなかったので、拇印で済ませました。この検査で、私が陰性であるということは分かっていたので、結果を聞くこともなく未だ聞いていません。私は、この時までに、何れも関節内出血の治療目的で、この医師から1バイアル100単位のクリオプレシピテート製剤を、回数にして5~6回、本数で6~7本の投与を受けています。私は、この年の3月末に、日本製薬のクリオ100単位2本を、8月中旬に、日本製薬のハイクリオ500単位1本の計3本を、いずれも関節内出血と痔による出血の治療目的で使いました。この年に病院へ行ったのは、この二回だけです。今考えても、当時の血液製剤は、私にとって気休め程度の存在でしかありませんでした。以来、約6年間は病院へは行かず、血液製剤を一本も使っていません。 大人の重症血友病患者が、社会で健常者と同じように活躍しようとすれば、最低毎日、従来の濃縮血液製剤1,000単位以上は必要だと思います。これは、各種凝固因子ごとに健常者平均の25%以上ないと、血液凝固の障害になり、生活に支障をきたすという思想で、私は、これを「限界のクオーターライン」であると、考えます。ただし、これは血液製剤が安全な薬剤であることが条件になるはずです。血液製剤の考え方として、治療に必要なのか、それとも社会進出に必要なのかを考えることも重要です。両方を希望するのであれば、血液製剤の消費量がそれなりに増大するのは、当然の成り行きです。なお、使用には不足する凝固因子ごとに正しい計算方法がありますので、ご注意ください。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。※
2019年04月05日
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私が製薬会社を考えるとき、常に「プロパー」という言葉が頭に浮かびます。私が初めてこの言葉を耳にしたのは、初めて血友病患者会に入会した31歳の時でした。ここで私が言うプロパーとは、製薬会社の営業担当で、MR(Medical Representative)のことです。そのころ患者たちがMRをプロパーと呼んでいたので、意味はすぐに解りましが、深くプロパーが血友病患者会に浸透していたことまでは、理解できるまでに、かなり時間がかかりました。ちなみに、これも昭和の時代の話です。 薬害エイズ事件が発生した当時は、薬剤に関する副作用情報を集めるのに、非常に苦労した時代でした。特に、私のように薬に関しての知識が少ない者にとっては、成り行きに任せるしか方法が無かったのかも知れません。インターネットのなかった時代に、血友病患者会がプロパーからの薬剤に関する情報を信じ込んでしまうのも、当然の成り行きです。 私は'84年(昭和59年)8月、一時期、地元の血友病患者会「群友会」と「全国ヘモフィリア友の会」に入会しましたが、総会の席で、プロパーと呼ばれていた製薬会社のMRに初めて遭遇しました。彼が持ち込んだ段ボールの中の血液製剤から推測すれば、ミドリ十字のMRであったと想います。この血液製剤の中にHIVが混入していた可能性は充分感じられましたが、それよりも、医師の処方が必要であるはずの医薬品を、コマーシャルフィルムの上映が終わった休憩時間中に、MRが前の机の上に数多く積み上げている姿を見て、出席していた妻と私は、急いで帰宅しました、と言うよりも逃げ帰りました。MRが多数の患者の前で直接営業活動を堂々と行う行為そのものが、私には信じられませんでした。 その頃の私のAIDSに関する情報源は、テレビ、ラジオ、新聞からなどのものしかありませんでした。テレビでは、ちょうど、その頃から放送が始まった、テレビ朝日の「CNNデイウォッチ」で、米国で問題になり始めたAIDSについて盛んに放送していました。もちろん、この中には血友病に関する情報も含まれていました。「CNNデイウォッチ」については、ウィキペディア(Wikipedia)に下記のように掲載されています。「日本ケーブルテレビジョン (JCTV) により、アメリカで急成長していた24時間ニュース専門局・CNNが日本へ24時間衛星伝送されるようになり、その素材を基にして数多くのニュースから日本人が日本人の視点で選択したニュースを、日本語翻訳のダイジェストとして生放送で伝えた。」ただ、この番組の情報源が米国のため同時通訳が入り、放送時間帯は、視聴率が極端に下がる深夜でした。 当時の一般的なMRが、非加熱血液製剤の危険性を証明する的確な情報を掴んでいたとまでは、私には想像できません。血液製剤の売り上げを、1バイアルでも多く販売することを目的としているMRは、勤務先の製薬会社などから情報を掴んでいたとしても、目的を達成するため、患者から、「この薬は大丈夫か?」と聞かれても、胸を張って「大丈夫です。」と答え、患者に不利な情報は決して口に出さないと想います。私が初めて遭遇したプロパーは、見本としての血液製剤を患者の前で数個提示していたら、まだ少しは理解できますが、段ボールで運び込むほどの量を見せつけられたため、私の彼に対する不信感は募るばかりでした。彼と話をすることや、二度と会うこともありませんでしたが、非加熱血液製剤の供給量の多さを、彼は私の目の前で証明してくれました。彼の足元にあった段ボール箱は、一つだけではありませんでした。私の記憶が間違っていなければ、3箱以上はあったはずです。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。※
2019年04月03日
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天皇を中心に栄えてきた日本国は、今年、皇紀2.679年です。古事記、日本書紀の神話に基づく揺るぎない思想は、日本人の心の支えです。この世界に誇る、かけがえのない世界一成熟した日本の文化を破壊しようとする勢力が、いつの世にも出現しては消えていきました。現在存在する日本を破壊に導こうとする最大の勢力は、中国共産党と日本の経団連です。 中国共産党は現在、中華思想を基に領土拡張を続けていいて、日本もターゲットになっています。既に、北海道から沖縄まで広大な面積の土地が中国人民により買い取られ、中国共産党による日本への侵略は着々と進行しています。これは、単に中国共産党の野望に過ぎないと言ってしまえばそれまでですが、彼らが今以上に力を蓄えれば日本にとってさらなる脅威になることは間違いありません。また、日本の経団連は、日本の政治を自由にコントロールできるまでに権力を拡大させました。経団連のカネへの貪欲性は、なりふり構わず、また我を省みず見上げたものです。 中国共産党は現在、北海道や沖縄などを中心に多数の人民解放軍のスパイを送り込み、日本分断工作を行っています。この謀略には多くの反日日本人や韓国人などが中国共産党のスパイに加わり、ますます過激化してきています。日本の多くの国会議員や官僚、経団連の役員らが、闇で中国共産党から賄賂を受け取ったり、ハニートラップにかかったりと、単に噂話では済まされない事態も起こっています。先進国でスパイ防止法が存在しない国は、日本以外にはありません。 '22年(大正11)に日本の天皇制打倒を目的に設立された日本共産党や、米国GHQから日本を貶める思想を受け継ぎ'50年(昭和25年)に組織された日教組の権力が、近年になりインターネットの発達に伴い力を落とし、変わって、日本のグローバル化を目標に掲げる経団連の活動が活発化し、現在、この権力は絶頂期に達していると想われます。 世界一永い文化の歴史を誇る日本が、中国共産党や日本の経団連ごときに簡単に屈服するとは考えられませんが、何の防衛策もなければ、日本が今後どのような結末を迎えるのか予測できません。「日本のグローバル化」という用語を私が初めて耳にしたのは、昭和の時代が終わる頃のことでした。まだ、私がサラリーマンとして働いていた頃で、企業の中国大陸進出が盛んになり始めていました。私が勤務していた会社でも、人手不足が深刻で、派遣社員や外国人の雇用が始まりました。しかし、何れも当時は法律違反でしたが、行政からのお咎めもなく、雇われている私も経営者に対し余り不信感を抱きませんでした。これらの、今の秩序のないグローバル化の波に乗り、中国共産党の日本侵略や経団連の権力の膨張が起こってきました。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。※
2019年03月30日
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私の最近受けている血友病医療の薬剤について感想をを語れば、血液製剤の概念から外れた画期的な新薬の発売に伴い、充分満足でき納得できる、また将来に希望をもてる態勢が既に整ってきている、ということです。この長く待たされた新薬であるへムライブラについては、まだ若干の不安は残されているものの、現在、私が期待していた以上の治療効果を得ることができています。 私がへムライブラを使い始めてから既に9ケ月経過しましたが、体のいたるところに発生し、絶えることがなかった痣を、使い始めてまもなく経過した頃から見ることがくなりました。皮下出血である痣の場合、よほど酷くなければ痛みはさほど感じないのですが、今以上に悪化しないかと心配し、常に気にはなっていました。 私は、今週の火曜日の早朝、睡眠中、高さ35Cm程のベッド上から床に転げ落ちました。しかし、落ちた後、体に何の変化もなく、何事もなかったかのように生活できたのには驚かされました。実を言うと私は、昨年の4月、同じようにベッドから落ち、この時は痛みで起き上がれなくなり救急車で入院に至りました。ただし、この二つのエピソードには、二つの条件の違いがありました。一つは、長年使い古したパイプベッドから、昨年の7月より介護保険を利用した介護用電動ベッドに変わっていたことと、もう一つは、5年以上の続けてきたノボセブンの定期補充療法から、昨年6月よりへムライブラの定期投与に変わったことでした。ちなみに、二度とも同じ状態で落ち、ベッドは平らの状態で高さは殆ど変わっていませんでした。 医学的には、患者毎に異なる不足する凝固因子量が健常者平均のの40パーセント未満であれば、血友病と診断されます。人体の血液の量は、体重の約1/13であると言われており、体重60Kgの大人の場合、約4,5リットルになります。従来の血液製剤で不足する凝固因子を補う場合、健常者平均のの40パーセントにまで上げなければ、やはり病的状態となってしまいます。 成人の重症血友病患者の場合、半減期のある血液製剤で血友病状態から脱却するためには約2,000単位以上の量を使い続ければなりません。にもかかわらず、患者会や血友病専門医、製薬会社らは、「毎日、製剤を1,000単位使えば、あるいは週三回1,000単位づつ使えば健常者と同じように生活できる。」などと、過剰に血友病患者を煽ってきました。今のところ、へムライブラはAPTTでしか治療効果を計測できないようですが、少なくても私は現在、血友病状態から脱却できていると、確信しています。ちなみに、へムライブラ皮下注にも薬剤であるため半減期があり、この期間は約1ケ月であると、私は聞いています。このため私は現在、二週間に一度の間隔で、へムライブラの投与を受けているのです。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。※
2019年03月28日
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私が病院へ一人で行くようになったのは、中学1年生の時からでした。以来、父親の血液を必要とするとき以外は、常に、初めて行く病院でも一人で行きました、その頃の日本ではまだ、インフォームドコンセントの概念などは、考えも及ばない時代でした。当然ですが、血友病患者であっても、血友病治療を必要としない病気にもかかります。ただ、歯科医だけは治療に出血を伴う場合があるため、虫歯があっても逆に父親から行くことが禁じられていました。 中学生の時は、1年生が中耳炎で一回5Kmほど離れた耳鼻科の個人病院で、3年生の時が気管支炎で二回8Kmほど先の日赤病院で、いずれも初めて行った病院で、それぞれ一人で診察を受けました。ただ、受診の際は前もって血友病であることを医師に伝えておくように、と父親から言われていました。この時以来、私は誰にも頼らず直接医師と向き合うことになりました。 中耳炎の時は、耳垂れが始まったことで、気管支炎は咳や痰が長引いていたことで、いずれの時も父親から悪化する前に病院へ行くよう促されました。中耳炎の時は液体の薬を耳の中に入れられ、気管支炎の時は飲み薬を処方されたことが思い出に残っています。気管支炎で二度目に病院へ行った時、医師は私の胸に聴診器をあて、「ボコ、ボコという音が聞こえなくなったから、もう大丈夫。」、などと言ってました。 伊勢崎市の北部にあった耳鼻科の個人病院は有名で、朝から一日中混み合っていました。我が家から病院までの距離は5Km程度とそう長くはないものの、交通の便が悪く、朝、父親にオートバイで病院まで送ってもらいました。父は、病院の受付けを待っている人たちに、私が診察してもらえる時刻を予測してもらい、出勤時刻が迫っていたため慌ただしく帰り、私は一人、診察してもらえるという午後まで待ちました。そして、診察が終わり、空腹に耐えながらかなり長い時間、父親の迎えを待ったことを記憶しています。日赤病院へは前橋の市街地にあったためバスの便が良く、あまり不自由を感じませんでした。今では、2つの病院とも当時あった場所に存在していません。 21世紀になって、あまり語られなくなった用語に、「医療(医者)の常識は世間の非常識」という言葉がありました。まだ、インフォームドコンセントの概念さえない時代のことで、一時、メディアでも盛んに語られた時期がありました。そのころは、まだ癌の治癒率も低く、大勢の癌患者本人が、はっきり病名を告知されないまま亡くなっていった時代でした。母親も私が37歳の時亡くなりましたが、母には大腸癌であることを最後まで伝えていません。正に薬害エイズが表面化したのがこの頃で、多くの医療現場で医師と患者の関係が対等ではありませんでした。日本の大勢の血友病患者は、素直に主治医の治療方針に従い、HIVに感染させられました。さらに、血友病患者にHIVを感染させた医師の多くが、患者に知らせず勝手にHIV抗体検査を行ったり、患者への告知義務を怠ったりと、これらも大きな問題になりました。 モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。
2019年03月27日
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重症血友病患者の場合、例外なく、運動が活発になる幼いころから関節内出血を繰り返し起こすようになります。特に人体の重量を支える膝や足首の内出血が顕著に現れるのが特徴です。この内出血の原因は何か?もちろん血友病という病気が原因であることは間違いありませんが、過去の患者会では、このメカニズムについてまでは殆ど議論されてきませんでした。 「歴史は繰り返す。」という言葉がありますが、関節内出血も繰り返し起こります。さらに「歴史に学べ。」という言葉もあります。この「学ぶ」という行為が疎かになると、何度苦しんでも同じことを繰り返し、結局、「歴史は繰り返す。」で終わってしまいます。過去の血友病患者会は、学んだ結果苦しみの多くが未来に託す薬剤で解決できると、血液製剤を過大評価してしまいました。ただ、安全な血液製剤は血友病患者にとって、最小限必要な薬剤であることは間違いありません。 血液製剤には、過去に問題が余りにも多く、特にHCVやHIVに代表される感染症と、血液製剤の治療効果を喪失させるインヒビターの二つの大きな問題では、かけがえのない大勢の血友病患者の命が奪われることになりました。このような試練に見舞われても、血友病患者会は血液製剤から離れようとしませんでした。過去の血液製剤を、私が32歳以降、全く使わない期間が約6年間の長期に渡っても、命を奪われることがありませんでした。また、私が24歳までは、血液製剤を一本も使っていません。ただし私には、治療のための最小限の血液は必要でしたので、念のため。 血友病患者の関節内出血のメカニズムを説明し、患者に対し日常生活などについて的確なアドバイスを行なう医療を掌る医師の例を、かつて私は聞いたことがありません。関節内出血は繰り返しにより、関節内に接する骨と骨の間の軟骨がすり減り、最後には関節が拘縮で動かなくなります。医師は患者に対しここまでは説明しますが、個々の患者ごとに異なる病気の進行を抑える方法や、異なる患者ごとの生活環境などについての助言にまでは対応できていませんでした。血友病患者会だけではなく、多くの医師も血液製剤を過大評価していたと、私は想います。 ここまで云うと、私のこのブログのトップページの内容をご理解いただけていない人たちからは、反論が出てくると想います。確かに一部の病院では、患者に過大なリスクを負わせながらも大量の血液製剤を使い、内出血の繰り返しにより動かなくなった関節を人工関節で補う大手術は、早くのうちから行われていました。しかし、この人工関節には耐用年数がありました。私は、この事実を31歳になってから初めて聞き、人体実験ではないかと感じ耳を疑いました。21世紀になってからの血友病医療を考えると、私が想像している以上に、また患者の期待を裏切らない程度に進んでいるのかも判りません。そうであったら、私としても喜ばしいのですが。 モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。
2019年03月23日
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ここまで云えば、日本の大東亜戦争前後の歴史を捏造し、日本を悪い方向に導いている人物を、少しは特定していただけるだろうと自負しています。敢えて今ここで名前を挙げませんが、日本を戦犯国などと評価し「日本悪玉論」を展開してしまっている人物を随時特定し糾弾していこうと考えています。このような人物が日本保守論壇の中にも大勢存在し、また、これらの人物が描いた本がベストセラーになるなど沢山売れているのだから、困ったものです。 「Hatena Keyword」で「保守論壇」を次のように解説しています。「保守主義の傾向を持つ言論人が意見表明する場。メディア。日本では[正論]、[諸君]、[Voice]、[Will]が代表的。1980年以降、日本の保守論壇は親米か民族自立か、或いは新自由主義への評価などで分裂傾向にあるが、どの雑誌にも立場の異なる保守主義が混在し、雑誌による保守主義の色分けはまだできていない。その意味では、日本の保守論壇はまだ、冷戦構造或いは55年体制を引きずっているとも言える。」(全文掲載) 幸いなことに最近になり、欧米では日本が仕掛けた大東亜戦争を正しい方向に見直す動きが盛んになりつつあります。しかし、肝心な日本の保守論壇に登場する多くの評論家やジャーナリストたちは、今日に至っても考えを変えようとしません。彼らは、今日までの発言が基本的に嘘であったことが明らかになるため、そう簡単には引き下がれないでしょう。日本共産党や旧社会党系の日教組に至っては、存続の危機に直面するため簡単には認めないと想います。 日本は、大東亜戦争において国際法に違反する行為を実際に行っていたのか。多くの日本人は敗戦自虐史観に洗脳されているため信じられないでしょうが、欧米などには、日本の潔白を証明する記録(カラー)フィルムや写真、公文書などが数多く残され、保存されているのです。私が、この証拠映像を初めて確認できたのは、約1年前You Tubeにアップされた、オーストラリアで製作されたドキュメンタリー映画を編集したもので、安濃豊氏の解説が付け加えられていました。この映像には日本軍がシンガポールで行ったとされる病院襲撃のカットや、日本軍が華人を取り締まる残虐なカットがカラーで映し出されていますが、病院襲撃は英国軍とともに武器を持って戦っていたインド兵の集団が病院に逃げ込んだためであり、華人は英米軍のゲリラであったためで、いずれも国際法には違反していませんでした。 米国GHQは、大東亜戦争後の日本占領下において、米国にとって不利益な文献などは殆ど処分し、後に日本を正当化する証拠となり得る物の全てを、本国に持ち帰っているはずです。
2019年03月21日
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大東亜戦争において日本軍は、いずれ日本本土決戦になれば米軍に対し決して負けなかったことは、後のベトナム戦争が証明しています。ただ米軍は日本に対し、広島、長崎に続き東京を含む日本の大都市への原爆投下を画策しており、日本は戦争を止めざるを得なかったというのが現実です。ベトナムでは大東亜戦争以降、戦争で民間人を含め日本とは比べものにならないほどの犠牲者を出しているのです。にもかかわらずベトナム人は現在、めげることなく堂々と復活を遂げています。 それに比べ大多数の日本人は、戦後70年以上経過してもいまだ敗戦自虐史観から逃れられず、反日日本人や反日国家に対しまともな反論すらできず、もがき続けています。米国GHQは、日本の復活を阻止するため憲法まで変えてしまいました。これも明らかな国際法違反です。日本の国体を変えてしまった不可思議な今の憲法をなぜ日本人は変えようとしないのか、私には全く理解できません。 日本が仕掛けた大東亜戦争は、「正当防衛の戦争」です。日本軍が戦った相手は、中国大陸を除けばアジア諸国を植民地にしていた欧米の国々であり、非独立国の原住民ではありません。日本軍は欧米諸国と戦っただけではなく、欧米諸国により植民地にされたアジア諸国の原住民に対し武器弾薬などを提供し、また、軍事指導を行い彼らの独立を応援してきました。国が自国の軍隊を保持することは国際法で認められています。白人から差別を受けていた、黄色人種である日本を含むアジアの国々の人民の自由を獲得するため、多くの日本の軍人が血を流したことは、紛れのない事実です。 このようにアジア開放のために勇敢に戦った多くの日本の軍人は尊敬されるべきであり、彼らのことを「無駄死にだった」とか、「日本の権力者に騙された」、「アジアの国々を侵略した」などの発言は以ての外です。私も伯父(父親の兄で三男)を一人大東亜戦争で亡くしていますが、出会うことができなかった彼を敬う気持ちは常に持っています。伯父が祀られている靖国神社を参拝することを、私は誰からも邪魔されたくありません。 '51年(昭和26年)年5月 米国上院の軍事外交共同委員会で行われた マッカーサー米国GHQ総司令官解任後の日本についの質疑に答えた内容が、ウィキペディア(Wikipedia)に下記のように掲載されています。「太平洋において、我々は、彼らを回避して、これを包囲しました。(中略)・・・日本は産品がほとんど何もありません、蚕を除いて。日本には綿がない、羊毛がない、石油製品がない、スズがない、ゴムがない、その他多くの物がない、が、その全てがアジア地域にはあった。日本は恐れていました。もし、それらの供給が断ち切られたら、日本では1000万人から1200万人の失業者が生じる。それゆえ、日本が戦争に突入した目的は、主として安全保障(security)によるものでした。・・・」日本では、肝心なこの事実が永く隠蔽されてきました。
2019年03月20日
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我が国は大東亜戦争以前に外国との戦争にほぼ負けなかった状態であったためか、 終戦後70年以上経っても「敗戦自虐史観」という呪縛から逃れられないでいます。「歴史は戦勝国が創る。」などと言いますが、日本は大東亜戦争に負けた訳ではありません。米国は確かに第二次世界大戦には勝利したでしょう。しかし、国際法に違反する非道なウラン型とプルトニウム型の原子爆弾2発を世界で初めて使い、日本に勝った勝ったと喜び勇む米国の姿こそ哀れなものです。戦後米国のGHQ(General Headquarters=the headquarters of a military commander )は、日本に対し「大東亜戦争」という言葉を禁じ、国際法違反である自国の蛮行を隠蔽したのです。 日本が大東亜戦争後、急激な高度経済成長を遂げられたのは、戦争の成果として中東を含むアジア諸国等の独立により自由な貿易体制が成立したからです。大東亜戦争以前、欧米は多くの非独立国を自国の植民地とし、資源を搾取してきました。アジア諸国を開放し、経済成長に必要な膨大な資源を正当な自由貿易で得られるようにすることが、日本の戦争目的であったはずです。このような正しい日本の歴史を歪め、戦後国民に対し誤った教育を施している日教組は今すぐにでも解体すべきです。 北海道在住の安濃豊氏は、ご自身が執筆した本やネットで「(日本が)アジアを開放して何が悪い!」、と発言していますが、これは、日本悪玉論を今日に至ってもいまだ繰り広げている文系脳みそ集団である日本共産党や日本保守論壇などを痛烈に批判した言葉です。日本共産党や日教組、日本保守論壇などの共通点は、いまだ国際法違反である東京裁判史観から抜け出せないことです。 大東亜戦争後、米国GHQは戦争による日本の悪事を見いだせないため、「南京大虐殺」や「バターン死の行進」などを捏造し、東京裁判において「日本悪玉論」を展開しました。しかし、米国の犯した戦争時の悪事は日本の比ではありません。なぜ日本人は、大東亜戦争後70年以上も経過しているのに当時の米国の悪事を糾弾してこなかったのか。戦争犯罪である原子爆弾投下に対してさえ、公共の場で明白に抗議した日本人を、私は数えるほどしか知りません。 日本では大東亜戦争前、多数を占めていた庶民が貧困に喘いでいました。我が家でも四男であった父親が戦前、家計を助けるために小学校卒業と同時に桐生の製糸工場へ奉公に出されています。貧困からの脱却を目標に、資源の乏しい日本が外国に活路を求めることは当然の成り行きであったはずです。アジア諸国を植民地にして、これらの国々から資源を搾取し、自国の利益のみを追求していた欧米に対し、公平な貿易を求める日本の当時の姿勢は決して間違っていません。 モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。
2019年03月16日
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中国共産党の主体である漢民族は大東亜戦争後、満州、南モンゴル、チベット、ウイグル、南シナ海等を侵略し領土を拡張してきました。中国共産党の方針とも言える、「他民族を人間扱いしない!」、これは人類究極の人種差別です。中国共産党 現習近平主席はウイグル人民の強制収容所送りを継承し、今日では人数が優に100万人を超え数百万人に達するとも言われており、すでにドイツナチス党 ヒットラー総統のアウシュヴィッツ等ユダヤ人強制収容所送りの人数を超えてしまっています。 近代の領土拡張政策の歴史は、大航海時代のヨーロッパ諸国によるアフリカ、アジア、南北アメリカ、オセアニアへの侵略から始まりました。当初は主にスペインやポルトガルにより行われ、やがてヨーロッパの国々が世界中に植民地を求め進出していきました。この侵略による領土拡張政策は、日本が仕掛けた大東亜戦争の成果によりアジア、中東、アフリカ諸国が次々に独立を勝ちとりほぼ終焉を迎えましたが、戦後になっても堂々と続けている国は中国共産党に支配された中華人民共和国です。 米国は、民主党オバマ政権時代に中国共産党の南シナ海侵略を止めませんでした。そもそもオバマ前大統領は、大統領選に必要な資金を中国共産党から提供されており、大統領就任中に中国共産党の領土拡張政策に対し口出しできなかったのです。しかし、'17年1月の共和党トランプ大統領の就任により、時代の流れは変わりつつあります。 米国の共和党ペンス副大統領は、昨年('18年)10月4日、中国共産党を痛烈に批判する、中国に対する宣戦布告とも言える演説をワシントンのハドソン研究所(Hudson Institute)で行っています。この演説では、チベットで過去10年間で150人の僧侶が中国に抗議して焼身自殺したことや、新疆で中国共産党が100万人ものイスラム教徒のウイグル人を投獄しているなどと語っています。 この演説の内容を「日経ビジネス電子版」では次のように伝えています。『副大統領は中国を「米国に挑戦する国」と決めつけたうえ、「大統領と米国人は後ろに引かない」と国民に訴えました。中国とはともに天をいただかないと言い切ったのです。NYT(ニューヨーク・タイムズ)は「新冷戦への号砲」と評しました。米中関係が暗くて長いトンネルに入るとの認識が広がりました。ペンス副大統領はまず、中国が困っていた時代に米国がいかに助けたかを強調しました。その部分を要約しつつ翻訳します。『(19世紀から20世紀にかけて)中国が西欧や日本の半植民地の境遇に陥った際、米国だけがその主権を尊重した。伝道師を送って中国に最高の大学(清華大学)を設立しもした。(21世紀には)中国をWTO(世界貿易機関)に招き入れ、米国市場への参入も許した。中国は米国の投資で急成長にも成功した。』米国らしい自画像です。米国人は自らを聖書に出てくる「善きサマリア人」と見なしがちです。この演説では、盗賊に襲われた瀕死の旅人は中国。「善きサマリア人」である米国に助けられてきたというわけです。』
2019年03月13日
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私は、日本を代表する作家である保阪正康氏や半藤一利氏、司馬遼太郎氏など、妄想で生き延びているような人物が描いた本を、買ってまで読もうと思ったことがありません。これらを読むと、気持ちが暗くなる一方で、生きる意欲さえ失われてしまいます。なぜ、現在の日本人はこれらの自虐史観本を競って読み漁っているのか、私には全く理解できません。これらの文系脳みそ本は、結果的に国民の自信を喪失させる一方で、国力の低下に繋がっていくのだろうと想います。 現実問題として、英国ではサッチャー政権時代に巻き起こった自虐史観思想が、著しく国力を低下させたと言われています。但し、自虐史観思想は、日本と英国に根本的な違いがあります。日本の場合、大東亜戦争後の主に米国や日本共産党などによる捏造に基く思想であり、英国の場合、残虐な自国の植民地政策による蛮行に対する反省で史実に基く思想です。 欧米によるアジア、アフリカなどでの植民地政策が、原住民に対しいかに無慈悲かつ横暴であったのかを、最近では簡単にネットで詳しく知ることができます。現代では最強国である米国でさえも、英国から独立を勝ち取り、原住民であるインディアンを殺戮し絶滅に近いところまで追い込んでいたのです。また、米国はアフリカの黒人奴隷を大量に本国に運び入れ、人権を無視した過酷な労働を強いていました。ちなみに日本では昔から、欧米のように無慈悲かつ横暴な植民地政策や奴隷制度は存在しませんでした。 日本では歴史を過去の史実に対し善悪を問わず忠実に判断し評価しようとしますが、国外では必ずしもそうではありません。米国民主党の仕掛けた東京裁判(極東軍事裁判)は、究極の歴史修正裁判であり歴史捏造裁判でもあります。にもかかわらず、現在の日本の保守論壇でさえ、いつまでたっても東京裁判史観から抜け出せず、七転八倒している状態です。また、日本の大多数の大手メディアは今、米国の新聞やテレビの大メディアが米国民主党に支配されている影響を受け、彼らの発言が全て正論であるかのように何の考察もせずそのまま報道しています。 近代の世界三大極悪政党は、ドイツナチス党、中国共産党、米国民主党です。ドイツナチス党は現在抹殺されていますが、残りの二党は、乳幼児から老人まで罪のない他民族を大量に虐殺しておきながら何の反省もなく、また、何の憚りもなく、しぶとく生き残り続けています。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。※
2019年03月02日
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大東亜戦争において、日本は戦争目的を達成しているので戦勝国です。大東亜戦争の成果として、欧米による残虐な植民地政策は終わり、アジアは言うまでもなく、アフリカまで、人種差別を受けていた国々が独立に至ったのです。 日本軍が負けていたのは、太平洋に存在する小さな島々のみで、他のアジア各地の戦場では全くと言って良いほど負けていませんでした。沖縄戦、東京大空襲、広島、長崎への原爆投下などは、もはや戦争ではなく、日本の民間人をターゲットにした大量虐殺です。当時の米国軍には、日本の本土まで上陸する能力さえなかったのです。 ただ、広島、長崎に世界初の原子爆弾を米国により投下され、昭和天皇が、これほど無惨な兵器を使われたのでは人類そのものが滅んでしまうという考えに至り、止む無くポツダム宣言を受諾することになりました。米国民主党は、今日に至ってもまだ国際法違反である日本への原爆投下を正当化するため、決死の構えで奮闘しています。大東亜戦争に深く関わったルーズベルト元大統領やトルーマン元大統領らは、いずれも米国の民主党に所属していました。だから今日でも米国民主党員である彼らは、中国や韓国などと結託し反日主義を止められないでいるのです。原爆投下を決定したと言われているトルーマン元大統領は戦争犯罪人です。彼を庇うため、米国民主党員は必至なのです。 最近になり、戦後でっち上げられた「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」などが、科学的分析などにより大嘘であったことが証明されつつあります。日本共産党、日弁連、日教組などのファンタジーの塊である文系脳みその本質が、やがて暴かれていくのであろうと想います。 ジャーナリストである桜井よしこ氏は、以前薬害エイズ事件について追跡していましたが、文系脳みその彼女の頭では、結論が出るまで充分解明できなかったようです。私は、彼女の書いた本を図書館から借りて読んだことがありましたが、買ってまで読もうと思ったことがありません。大東亜戦争のことでも彼女の考えはあるようですが、私は全く同感できません。人から何か言われると、何の疑いもなく、また調べもせず信じ込んでしまうのが文系脳みそです。記憶力だけは抜群な彼らには、脳の中の何かが足りず思考力や想像力、分析力等が無いのかも知れません、
2019年02月16日
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昨年末、担当医から次のことを告げられました。私が、へムライブラを使い始め6ケ月余りが経過した日のことです。毎週使っているへムライブラの使用頻度を、年明けから、2週間に一回または4週間に一回に変更できるということです。使用量は患者の体重により異なりますが、私の場合、体重約60kgなので一週間分の必要量が90mgになります。従って、2週間に一回の場合は一回につき180mg、4週間に一回の場合は一回につき360mgを皮下注射により投与する、ということです。結果として、私は今年から2週間に一回を選択しています。 私は、昨年65歳になり2月から介護保険制度を利用しています。昨年、要介護4でスタートしましたが一年が経ち再認定を受け、今年の2月から要介護3に変更になります。これは、私が自ら行動できることが増えた、ということであり、間違いなくへムライブラの治療効果であると想います。 へムライブラを使い始め、昨年から感じていたことですが、病院での採血が非常に楽になりました。これは、肘の運動が可能になり、血行が良くなっていることが考えられます。針の刺し直しもなくなり、採血後1~2時間して絆創膏を剥がした時、血が滲むことが多くありましたが、これも全くなくなりました。内出血を繰り返したため、両肘が骨まで変形し曲げ伸ばしできる角度は狭まったままですが、動きがスムーズになり、28年間使えなかった腕時計も腕を捻ることが苦痛でなくなり、最近になり普通に利用できています。 私は、第Ⅷ因子製剤を、非常時と手術以外には使ったことがないので、濃縮血液製剤を日常的に使った場合、どの程度の治療効果があるのか解りません。ですが、恐らく長年血友病に苦しみ抜いた患者が、今の私がへムライブラを使って感じているように、健常者はこれほど楽に生活できるのか、というような心境を得られていたのではないかと想像しています。 へムライブラが安全かどうかは、使い始める前からあまり疑っていませんでした。それは、インターネットで米国の情報を含め、予めへムライブラに関する知識を得ることができていたからです。米国では日本の約半年前から患者に出回っていました。日本の製品の情報については語るまでもなく、治験による副作用情報や、米国の患者の使用状況なども予め入手できました。 モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。
2019年01月23日
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日本の血友病患者を襲った薬害肝炎や薬害エイズを考えるとき、なぜ大勢の患者が薬害の原因となった、危険な米国から輸入された非加熱の濃縮血液製剤を使ってしまったのかについて、この難問を解析するにあたり、65歳になり私はようやく、血友病や血友病以外の日本の正しい近現代史を徹底的に理解しない限り、納得できる結論には至らないことが解ってきました。これは、10年余り前に仕事をやめてから、毎日ネット漬の生活があったからこその成果であると感じています。 薬害を含む日本の血友病の歴史について、今日までに医師以外のジャーナリストや文系の学者などから、いくつかの論文が発表されていますが、どれも中途半端で血友病である私が納得できるものは一件もありませんでした。私の考え方については、一部このブログで既に公表していますが、非の打ちどころのない論文の完成を目指していきたいと考えています。 私は、大東亜戦争終結7年5ケ月後に生まれています。大東亜戦争に召集された父親や3人の伯父が語っていたことが、やはり間違っていなかったこともネット上の膨大な発言や資料から再確認できました。もう1名。太平洋上で戦死した父方の伯父が存在しましたが、彼も決して無駄死にではなかったことも再認識できました。亡くなった父親も、よくこの兄のことを語っていました。彼ら全員に言えることは、敗戦自虐史観ではなかった、ということです。少なくても私には、彼らは常に東京裁判を否定し、白人至上主義を否定し、日本人がいかに偉大であったのかを語っていました。 私は3歳の時、血友病の診断を受けましたが、以来父親や伯父から止血のための血液をもらいました。やがて私が20代になると、輸入濃縮血液製剤が出回るようになりました。そのころ一人の伯父から、「なんで、あの残虐なアングロサクソンの血を使うんだ。日本人は一億人以上もいるのに!」、と言われたことがありました。私は、この言葉が頭の片隅に残っていたので、最高9割以上の占有率があった輸入された血友病患者用の非加熱血液製剤を一本も使わずに済んだのだと、今でもつくづく思っています。戦後の日本は、自国の血液は自国で賄うという世界の常識から逸脱していたため、世界から批難されていました。これは、米国によるWar Guilt Information Programや、日本共産党の陰謀などにより日本人が敗戦自虐史観に貶められてしまった結果であり、敗戦利得者という無用の長物をも生み出てしまった結果でもありました。 父親や伯父たち全員が亡くなった後、今の私がネットで一番影響を受け、正論を語っている人物は、私よりも1年1ケ月前に生まれている札幌市在住の安濃豊氏です。彼は、米国や日本共産党などにより隠蔽された帝国政府声明文などを発掘し、大東亜戦争は、アジアにおける欧米による植民地開放のための戦争であった、と主張しています。日本は、戦争犯罪国家ではありません。原子爆弾により民間人を大量に虐殺した米国こそ、毒ガスによりユダヤ人を大量虐殺したドイツに並ぶ、国際法違反の戦争犯罪国家なのです。戦後一貫して断行されている日教組教育は、大きな間違いです。噓八百を並べ立て、国民に対し自虐史観教育を植え付けている国は、世界でも日本ぐらいしかありません。安濃豊氏ブログ http://blog.livedoor.jp/giranbarekanjya/archives/51503119.html
2019年01月19日
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私は、今年6月8日より、中外製薬製造販売、血友病A患者用インヒビター治療薬、「へムライブラ皮下注」の使用を開始しました。へムライブラを毎週金曜日、最初から4回は1回につき180mg、以降1回につき90mgで、既に計7回の投与を受けています。今年5月22日から販売が始まったへムライブラですが、さしあたり一年間は2週間ごとに医師の受診が必要になるという条件が付いていたため、これほど早く使い始められるとは、当初考えていませんでした。2週間毎の受診が可能になったのは、我が家の近所に送迎と受診の介助を、比較的手頃な料金で請け負ってくれるNPO法人が存在したからです。 私には、血友病のインヒビター治療薬であるノボセブンからへムライブラに移行する、もう一つのきっかけがありました。それは、ノボセブンの静脈注射のため5年6ケ月前に入れたCVポートが、ついに限界の時期に達してしまった、ということです。5月28日に、数日間発熱が続いたため入院し、CVポートから抗生剤の点滴を受けました。入院時には発熱の原因が、10年前から入れている膀胱瘻からの感染だと想われましたが、後にCVポートからの感染症だと分かり、ノボセブンの大量投与により、6月4日にCVポートの抜去手術、並びに引き続きノボセブンや抗生剤の輸注のため中心静脈カテーテルの挿入手術を受けました。なお、除去したCVポートには、既に膿が付着していたそうです。 へムライブラの出血予防効果は抜群で、初回投与後1ケ月以上経過した7月20日までに、認識できた出血(内出血を含む)は全くありませんでした。また、初回投与後3日目の血液検査で、APTT値が36.1秒で正常の範囲に治まっていたことには、大変驚かされました。 ただしへムライブラにも、私には気になる問題がいくつかあります。一つは、既に米国で報告されているへムライブラに対する抗体の出現です。まだここで詳細を語ることはできませんが、既にへムライブラの抗体が発生した日本の血友病患者さんの話も、私は聞いています。もし私にへムライブラの抗体が発生したら、米国で報告されている様にノボセブンによる治療に戻るだけですし、通常血友病A患者が使う凝固第Ⅷ因子製剤も、もう10年以上1バイアルも使っていませんので、この抗体の力価は相当下がっているはずです。また非常時には、一時的に第Ⅷ因子製剤を使うことになるかも知れません。もう一つの問題は、血管内に出現する血栓です。血友病患者ついては、そもそも血液が固まりにくいため、健常者に出現するような脳血栓や心筋梗塞などの症状のことは、ほとんど語られてきませんでした。しかし、私にはインヒビター治療製剤ファイバを使い、血管内に血栓が出現した前例があります。へムライブラを使い始めてから、エコノミークラス症候群の対策を考えるなど、自ら出来ることは可能な限り実行しています。他の対策については、後にこのブログに詳しく掲載する予定です。 血液製剤の安全性について人一倍口うるさかった私が、なぜ今回に限り新薬であるへムライブラに、いち早く飛びついたのかなど、記載すべき事柄はまだ数限りなくありますが、これらの点についても随時語っていきたいと考えています。何れにせよ、インヒビターを保有する血友病患者である私の苦悩は、まだまだ続きそうです。
2018年07月20日
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血友病に関する報道は、薬害エイズ問題が一段落し、最近はほとんどなくなっていますが、血友病患者が受ける風評被害は、まだ続いているようです。'18年(平成30年)2 月27日(火)、インターネット放送(YouTube FRESH ニコニコ動画ほか)、株式会社DHCテレビジョン製作放送 虎ノ門ニュースで、出演した作家の百田尚樹さんの、血友病に関する発言に複数の間違いや問題がありました。 私は、この問題発言に関し、メールで3回ほど反論しましたが、放送から一ケ月以上経過した後に、何の返答もありません。私は当初、百田尚樹さんに悪意は無いと考え、直接DHCテレビに対し強くは反論してきませんでしたが、先ずは何が問題なのか、内容を明確にするため、私のブログに発言内容と反論を掲載することにしました。 1.百田さんは、血友病患者の血小板について、異常を指摘されましたが、血友病患者の血小板数は、一般的に15-40万個μl の範囲内にあり、極めて正常です。血友病は、十数種類ある血液凝固因子の一部が不足することにより発生する、血液凝固因子障害による疾病です。 2.百田さんは、血友病は男性だけに発生するとし、女性血友病患者について否定されましたが、血友病は女性にも発生し、現在の日本には、血友病A、B合わせて50人以上の女性患者数が公表されています。一般的に、女性の血友病保因者と血友病患者の間に、女性血友病患者が生まれる場合がある、と言われています。また、血液凝固因子障害である血友病には、関連しフォン・ウィルブランド病や各種凝固因子の欠乏、低下、異常症などの類縁疾患が複数存在します。これらの患者数は、現在2.000人以上が報告されており、この約半数は女性患者なのです。 3.百田さんは、血友病患者は血が止まらないため、鼻血が原因で死ぬ可能性があることを指摘されました。しかし現在65歳の重症血友病の私は、鼻出血だけが原因で血友病患者が死に至った、などという事実は一切聞いたことがありません。このような症例が現実にあったとすれば、極めて稀であると考えられますので、今後の参考のために詳しく聞かせていただきたいと思います。 また、百田さんは、血友病患者の医療費が、1人年間5千万円かかることを指摘されていました。しかし、血友病は不足する凝固因子量により、重症、中等症、軽症に分類され、症状にも個人差があります。私は、46歳になってから血友病と診断された例を聞いたことがありますし、重症血友病の私は、過去に遡れば、このブログのトップページに詳しく掲載しましたが、病院に行かず医療費が全くかからなかった年が何回もありました。また、血友病には関連して血液凝固因子障害である類縁疾患等もあり、すべてを平均にすれば、5千万円にもならないと想います。 人気作家である百田尚樹さんの発言は、常に世の中の人々から注目されています。私は自分を弱者とは思っていませんが、軽はずみな発言は、真の弱者を傷つけたり、視聴者に悪影響を与えてしまう場合も出てきます。最近、百田尚樹さんは、「PHP新書」から「逃げる力」という本を出版されました。ご自身の発言が巻き起こしたこの問題からも、うまく逃げ切るつもりなのでしょうか。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。
2018年03月28日
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我が家では、私の3人目の孫が10日ほど前に誕生し、以来、私の二親等以内の血族が5人になりました。 2人の息子と3人の孫で、計5名です。妻や長男の嫁も含め、私以外は全員健康で暮らしています。 '90年(平成2年)に63歳の母親が亡くなり、'07年(平成19年)に83歳の父親が亡くなり、たった一人の兄妹である57歳の妹も'14年(平成26年)に亡くなりました。亡くなったのは全員平成の時代です。 私の息子二人は昭和生まれなので、私の両親は、妹の子供二人を含め、4人全員の孫の顔を見届けることができていました。 「俺より先には死ぬなよ!」と、私が入院するたびに語っていた父親をはじめ、亡くなった3人には、どれだけ心配をかけたか分かりません。最近では妻から、入院時に「死ぬなよ!」と言われ、血友病患者が長く生きられることを証明するためにも、過去は教訓として将来を夢みながら生きていこうと考えています。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。
2017年06月23日
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私は、今月初旬から中旬まで約2週間の入院生活を過ごしました。今年2度目の入院生活でした。同じような症状での入院は、今回で10回程度になります。 入院の理由は、尿路結石による出血(血尿)が続いたことと、背中の鈍痛の症状のためでした。原因は、機能不全を起こしている右腎臓内で発生した2個の結石の内の1個が流れ出て尿管内に留まったことによるもので、入院時には、Hb(ヘモグロビン)の値がに6.8g/dlにまで下がり2回の赤血球輸血も受けました。 また、血友病Aのインヒビター保有者である私は、止血のため1週間ほど、毎日4回のノボセブンの投与も受けました。以降、1日2回から1回へと減りました。さらに、尿路結石による出血の場合、感染症対策のため抗生剤の点滴も受けています。 尿路結石(尿管結石)は、健常者でもかなりの激痛を伴う場合や、血尿を伴う場合があると言われており、血友病の私にとっては、健常者とは比較にならないほど、失血による生命の危険にさらされていると想っています。 血友病である私は、年齢が増すごとに入院生活の回数も増え、その都度、訪問看護や病院スタッフの協力と、全血輸血よりも効率的な血液製剤の効力により、難を逃れています。
2016年11月20日
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私は、今年の4月中旬から、米国 ギリアド・サイエンシズ社の「ハーボニー」というC型肝炎治療薬(錠剤)を飲み始め、定められた12週84錠を、7月初旬に飲み終えました。 入院の必要もなく、副作用と言えるような副作用もなく、5月初めの血液検査では既にウイルスが検出されなくなり、つい最近まで行われていた、インターフェロン治療に比べれば格段の差を感じ、あまりの速さと普段と何一つ変わらない体調に呆然としています。 まだ、服用後24週間の、ウイルスが完全に消えたかどうかの判断が残されているため予断を許さない状況ではありますが、ようやく一息つけるような心境になれた、といったところだと思います。 私は、約10年以上前に、C型肝炎には遺伝子の型によりいくつかに分類されることを知り、自分のウイルスの型が1bであり、日本人の約70%がこの1bであることも分かっていました。「ハーボニー」の小冊子には、「C型肝炎は遺伝子型により、適した治療法が異なるため、個々の患者さんごとにセログループ(ジェノタイプ)を調べてから治療を行います。」、と書かれています。 4年ほど前にインターフェロン治療を真剣に考えたこともありましたが、治療を開始する直前に、私が転倒による胸椎の圧迫骨折を起こしてしまい、この治療を一時断念していました。私はその時、眼科の検査も受けています。4年前のインターフェロン治療による治癒率は、約70%と言われていました。この後まもなくすると、飲み薬だけでC型肝炎の治療ができるようになるという情報が、私の耳にも入ってきていました。 ※モバイル版やタブレット版ではトップページを直接表示できませんので、PC版サイトに移行してご覧くださいますようお願いいたします。
2016年09月06日
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私が中学校1年生(12歳)の頃、65年(昭和40年)の日本の血友病の実態を考えてみたいと思います。この時代は、まだ血友病を確定診断できる医師さえ極めて少なかったことが、当時の医療の状況や患者の体験談などから容易に推測できます。 この年、血液製剤はまだ出回っておらず、2年後の67年に血友病A患者用のAHGが、7年後の72年に血友病B患者用の濃縮製剤がそれぞれ発売されました。 この年に、日本で初めて全国規模の血友病の実態調査の結果が文部省により公表されています。これ以前の実態調査は、奈良県立医大、小児科の吉田邦男教授により実施されたことが知られていますが、調査対象が小児科という限られた世代であり人数も少なく、とても全国の血友病患者を網羅しているとは言えない内容のものでした。 65年と言えば、太平洋戦争終結後20年、前年には東海道新幹線の開通や東京オリンピックが開催されるなど、庶民の暮らしも落ち着きを取り戻し、我が家の生活にも少しゆとりがでてきた時代でした。 65年の文部省による血友病の実態調査で、日本の血友病患者が長くは生きられない時代は戦後の混乱期までで、もはや終わっていた事実が明白に実証されたのです。日本のメディアの在り方http://kanzawa53.blog71.fc2.com/
2012年08月26日
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一人で行動することが多かった私は、無花果の木に登ったり家の外でもよく遊んでいました。小学校低学年のころは家の庭で、高学年になると近くの川に出かけました。 我が家から50mほど先には小さな川があり、少し足をのばせば沢ガニ、川エビ、シジミ、どじょうなどを捕ることもでき、さほど危険な場所もなく私が小学生の頃は遊ぶ所には苦労しませんでした。 それも小学校高学年のころまでで、その後は田畑が整備されヘリコプターによる農薬散布が行われ、辺りの自然は急速に破壊されました。夏のホタルは消滅、春のモンシロチョウや秋の赤とんぼの数は減少し、一年を通しカラスだけが自棄に目につきます。それでも、カタツムリ、スズメ、カブトムシなどは最近でも希に発見することがあり、思わず心が和みます。 私が小学生のころのメディアを考えると媒体が限られており、学校は情報源として欠かせない場であったと思います。全国的に評価の高い、群馬交響楽団の演奏や、日本の古代史を変えた相沢忠洋氏の講演、その他演劇、映画など、小学校の時、直接ふれあうことができた体験は、今でも忘れ得ぬ思い出になっています。 足に障害があった私は、養護教諭として赴任していた母親の同級生の気遣いにより、いつも椅子に腰を下ろし視聴できました。特に63歳の誕生日を迎えることなく亡くなった相沢氏の体験は、本を読むくらいでは決して味わえないほどの感動が残っています。この相沢氏の話の中に、群馬から東京まで自転車で通ったという事実が、彼の味わった苦悩とともに、都会への憧れがあった私の心の中にいつまでも残りました。ふだん、テレビや新聞などでしか見られない都会の風景が、身近にあった自転車と結びつき、夢は膨らんでいきました。日本のメディアの在り方http://kanzawa53.blog71.fc2.com/
2012年04月29日
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私の周囲には、物心ついたころからガキ大将と呼ばれるような暴れん坊もいませんでした。と言うよりも、私が普通の男子の遊びには着いて行けなくなっていたため、自分でそう感じていたのかも知れません。 私も一人前に男子2人を育ててみて実感できたことですが、2人でよく暴れまわっていました。私には妹しか兄弟がいませんでしたので、膝や足首の関節内出血の後遺症が比較的軽く済んだ原因の一つだと想います。 幼い時から一人で過ごすことが多く、いつの頃からか団体行動が苦手になっていました。家では、鋏で新聞や雑誌を切り抜いて、トヨタ・クラウン、ダットサン・フェアレデー、スバル・360など、車の名前を覚えました。 貧しかった我が家にも、私が5年生の夏休み前に待望の白黒テレビがようやく入りました。東京オリンピックの前の年でした。それまでは、向かいの金物店などで見せてもらっていました。 この年の日本のテレビの普及率は、すでに9割近くになっていました。一人で過ごすことが多かった私にとって、テレビは欠かせない存在になりました。日本のメディアの在り方http://kanzawa53.blog71.fc2.com/
2012年04月12日
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3歳の時、群馬大学病院で血友病という病気の初診を受け、半世紀余りが経過しました。激動の時代は、昭和から平成へと引き継がれ、特に死の恐怖に怯えたこともなく、いま生きている実感に浸っています。 ただ、弱者である私には限界がありました。しかし、常に未来の自分を頭の中にイメージし、目標を定め少しずつ前進すれば必ず夢は実現すると思います。客観的な目で現実を認識することで、自分だけの裏ワザも発見できました。 自分流の考えを貫き、周囲の人間を驚かせたり、過大な迷惑をかけたこともあったと想います。副作用を心配するあまり、当初から血液製剤の使用を控えたこともその一つでした。 多くの失恋の後、結婚。まもなく28年になります。改めて周囲を見渡せば、まだ一度も結婚していない健常者である友人、知人も多く、羨ましいとさえ言われ、何と返事を返せばと困惑したこともありました。 人生何が一番辛かったかと言えば、日常付きまとう血友病という病気以外にはなく、これも慣れてしまえば世の中の温もりも実感でき、誰を恨むこともなく感極まりない人生を謳歌している現状です。
2012年03月29日
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私は、小、中学生のころ、鼻出血や歯茎からの出血、また血尿などにも、そう多くはありませんでしたが悩まされました。ですが歯で舌を傷つけた時や歯茎に魚の骨が刺さった時意外は特に痛みもなく、病院へも行かず最終的には自然に止血していました。 鼻出血については健常者でもよくあることですが、歯ぐきからの出血や血尿などは、そう多くはないと思います。 歯は私の自慢でもありますが、歯が抜け替わる時の出血はありました。口の中が出血した血液と唾液でいっぱいになるため、よく飲み込んでいました。出血が多い時は口の中で固まり、それが大きくなると飲み込むこともできず、授業中の時などは、休み時間になるまで待ち、トイレに捨てたこともありました。また。梅雨時などには、教室のどこからともなく、「臭え!」という声が聞こえたこともありました。 血尿は、用を足しているとき、隣の同級生に見られ、「あけえ、しょんべんだ!」と言われたことがありました。他の同級生にも話していたようでしたが、信じてもらえなかったらしく、何事もなく終わりました。 血尿があった場合、腎臓に問題がある可能性がありましたが、09年(平成21年)の膀胱結石の除去手術の頃までは、特に大きな問題はありませんでした。
2012年03月28日
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血友病患者が最も住みやすい環境は、膝や足首に負担がかからない、平坦な地形や生活空間だと思います。我が家の場合、通学路には階段はもちろん、坂と言えるような坂もなく、当時は歩道橋もありませんでした。 我が家から1kmほどの距離の小学校、1、5kmほどの中学校、5kmほどの高校まで全て木造2階建てでした。2階建ては3階建てに比べ階段の数が半分に、4階建てに至っては3分の1で済みます。 小学校の通学は、2年の時の入院以来、関節内出血の後などの調子が悪い時、朝は父親のオートバイで送ってもらい、帰りは母親に自転車で迎えに来てもらっていました。 6年になると、自転車通学を許可してもらいました。当時は左膝の可動が20度程度までで、端から見れば変な乗り方だったでしょうが、私にとってはかなり楽ができました。もちろん、中学校にも自転車で通学しました。 高校生の時は、朝は父親に車で送ってもらい、800mほど歩きバスで帰りました。この頃になると関節内出血も比較的軽く済むようになり、調子の良い時は歩いて帰ったことも数回ありました。
2012年03月25日
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小学校2年の退院以降19歳の高校卒業まで、病院へ行ったのは5~6度程度でした。内数回父親と一緒に近くの病院へ行きました。それは、父親の血液型も私と同じO型であり、舌を傷つけてしまった時や、歯ぐきからの出血の時、止血してもらうためです。 父親の血液を採取し、その場で輸血してもらいました。強引に、医師に頼み込みこんだこともあります。医師が、止血の効果に驚いていたこともありました。この間、関節内出血等の内出血や血尿、鼻出血、外傷などでは一度も輸血は行っていません。 小学校低学年までは関節内出血の激痛に泣き喚いていましたが、小学校高学年になると涙も出なくなり、歯を食いしばり汗だくになりながら激痛に耐え、治まるの待つようになりました。 関節内出血で病院へ行ったこともありましたが、湿布薬やビタミン剤を処方してくれる程度で、気休めの効果しかありませんでした。歯科医へは61歳の時まで、治療目的では一度も行ったことがありません。 私が成人に至るまで、重症血友病患者の中でも他の患者に比べ関節内出血の後遺症が比較的少なかったのは決して偶然だけではなく、多くの理由があったからであると思っています。
2012年03月20日
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貧しかった我が家では、小さい頃学校から帰っても食べる物がありませんでした。近所の子どもが薩摩芋を食べながら遊びに来て、生唾を飲み我慢していたこともありました。 唯一あった物といえば、出汁をとるのに使っていた煮干しくらいです。これは、よく食べました。出汁をとった後の煮干しも食べました。捨ててあった納豆の包みに残っていた、海苔を舐めたこともあります。 私は、どちらかと言えば母親よりも父親に多く愛情を注がれてきた様に想います。外出の時は、あまり歩かせないようにと、よく背負ってもらいました。自転車やオートバイの後ろに乗せられ、父は「よく、つかまってろ。」と怒鳴るような大声を出し、日曜日になると一緒によく出かけました。 近所の川にエビを捕りに出かけ、帰って母親に天ぷらにしてもらい、家族で食べた事もあります。また、父の会社の同僚主催のオートバイのツーリングにも、よく同行させてもらいました。サラリーマンで残業も多く、夜食に出されたコッペパンを食べずに持ち帰り、日曜日以外はあまり話もできませんでしたが、朝、ご飯の上に載せておいた温かいパンを食べられるのが、楽しみの一つでもありました。 父親は、戦争の体験もあり、人一倍命の大切さを、私に教えてくれました。父親は、私の病気のことを、充分すぎるほど理解していたと思います。
2012年03月18日
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私は、小学校1年の夏休み以降、関節内出血が重症化し学校では一部一般の児童と同じ行動ができなくなりました。体育の授業は、出られる時は校庭に出て見学。朝礼などの校庭で行われる行事の時は一人教室に残り、窓越しに見学していました。 中学校の卒業式に間に合った体育館は今でも残っていますが、私が小学校や中学校に在籍していた時は、児童、生徒が全員集まることができる体育館の設備は、まだありませんでした。 小中学校時代の血友病の症状としては、関節内出血の他、歯が抜け替わる時の歯茎からの出血、食事の時などに舌を傷つけてしまった時の出血、血尿などです。ですが私は小学校1年の入院以来、特に大きな怪我もなかったので、あまり多く病院へ行った記憶はありません。 中学校でも体育の授業以外は普通に受けていました。技術家庭の授業では、普通の生徒と同じように、カンナやノコギリ、、カナヅチ、ノミなどの道具も買い揃え、当時作った椅子が我が家の玄関先に残っています。 高校生になると、関節内出血以外の症状は殆どなくなりました。
2012年03月17日
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幼稚園の頃は血友病の症状が少なかったと思いますが、小学校に入学後2年生のころ関節内出血が重症化してきました。幼稚園は小学校のすぐ隣にあり、何れも1kmほどの距離を歩いて通っていました。 小学校1年の1学期までは体育の授業も普通に受けていましたが、2年生の夏休みに入った頃、関節内出血により左膝がとても歩けないほど曲がったまま硬直してしまい、3歳の時以来2度目の群馬大学病院外科への入院に至りました。 治療としては、膝を伸ばすため脹脛に包帯で止めた錘をベッドから吊り下げるもので、リハビリを経て、一ヶ月足らずで退院しました。夜寝る前に錘をつけてもらい、朝目がさめると自分で外していました。 外科病棟には叔母が看護婦として勤務していたので、仕事の合間に鶴や風船などの折り紙をよく教わりました。後に母親は、入院の当初は病院に寝泊りしたと言っていましたが、その頃高価だったバナナを買ってきてくれたことくらいで、母がいつ付き添ってくれていたのかまでは、どうにも思い出せません。今でも頭に焼き付いていることは、入院してまもなく柔道の練習中に骨折したという大学生が隣のベッドに入院してきたことです。彼はいつもその時分はやっていた三橋美智也の「古城」を大きな声で歌っていました。 「朝早くに、錘を外した時、下に落ちる音がいつも聞こえるよ。」などと、付き添っていた大学生の母親が、見舞いに来た私の母に話していたことも憶えています。私は、この入院生活で多くの家族以外の人たちに励まされました。 退院後、膝を固定し負担を軽減するためギブスを作ってもらいましたが、このギブスはあまり使いませんでした。この年の12月に、身体障害者5級の認定を受けています。
2012年03月15日
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6歳のころ、我が家の前でオートバイに当てられた記憶があります。当時、交通量が少ないといえども幹線道路沿いです。向かって来るのが分かり、避けたところオートバイも方向を変え当たってしまいました。 オートバイもスピードを緩めており、膝の擦り傷程度で、病院へは行っていなかったと思います。軽い傷程度でしたら、アカチンを塗り包帯で傷口を圧迫することで、完治していました。 その後も、近くの小川に裸足で入り小指の付け根を切ったことなどありましたが何れも軽く、物心ついたころからは、怪我で病院へ行った記憶はありません。 「道路で遊ぶな。」、「靴を履いたまま川の中に入れ。」、「自分が病気を持っていることを忘れるな」など、その頃から両親に怪我による出血の怖さについて言い聞かされてきました。 それよりも、自分でいくら注意しても避けることができなかったのが、膝や足首に理由もなく突然襲ってくる内出血です。私も、激痛を伴うこの内出血には、幼稚園に通う頃から相当悩まされました。
2012年03月14日
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私の家は、前橋市街地から東に延びる国道50号線の南側に面しています。3歳の頃は道幅も狭く未舗装で、側溝もありませんでした。その頃は、車の交通量もかなり少なかったようです。 国道を挟み北側には金物店があり、調味料や缶詰め等の品揃えもありました。30mほど西に県道伊勢崎ー大胡線が交差する十字路があり、その向こう側の角に駄菓子屋が、反対側には酒店がありました。 その頃、幼児用の三輪車が与えられ、最初は家の中でこいでいました。やがて家の中では物足りず、外でこぐようになりました。母親は家で和裁の仕事をしていましたが、いつの日か駄菓子屋の前までこぎ出してしまったようです。 駄菓子屋の入り口は下り坂になっていて、前に大きな石が置かれていました。どのような状況だったかは、誰も見ていなかったようで分かりませんが、その石に上唇が当たり、出血が起こりました。近くの外科医院では結局傷の深さや出血の多さに手に負えず、叔母(父の妹)が群馬大学病院で看護婦として勤務していたため数日後に搬送され、ここで受けたのが、「新鮮血輸血」です。これも欠乏する凝固因子を補う「補充療法」です。 このままでは、傷口が化膿し感染症を起こすと言われたそうです。ここで初めて血友病と診断され、命を落とさずに済みました。この時手術も実施され、当時の医療現場では血友病の最適な治療法だったと想います。輸血用の血液は、父親と近所の親せきから集めたと聞いています。
2012年03月12日
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私は5歳の時、幼稚園に入園しました。その後、6歳で小学校に入学し、、、15歳で中学校を卒業、一年遅れ19歳で高校を卒業するまで、健常者と同じ進路で学校生活を過ごすことができました。 この頃を振り返れば、一度も血液製剤を使ったことがなく、苦しかった体験も思い出されます。しかし、今頭に浮かんでくるのは楽しかったことの方が多く、こう思えるのは両親をはじめとした周囲の人たちの存在が欠かせませんでした。 私の場合、他の患者よりも当時としては比較的早く血友病であることが判明していたため、両親も私が幼い頃から将来の対策を考えやすかったのだと、最近になって思っています。 もちろん、関節内出血の激痛で2~3日眠れない夜を過ごしたことも年に3~5回程度ありました。欠席日数が多くなり先生方に心配をかけた年もありました。ただ、私が14歳の時出回ったAHG(最初の血友病血液製剤の製品名)は、売血が原料として使われているという情報が入ったため、すぐに使用することはありませんでした。 この間、他の病気の併発や大きな事故にも遭遇せず、苦しいのは血友病特有の症状だけで、それも比較的軽く、順調に推移してきたと思います。
2012年03月03日
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「おまえは21世紀まで生きられるけど、俺は無理だろうな。」私が小学校の高学年のころ、当時40歳を過ぎたばかりの父親が突然こんなことを言い出しました。東京オリンピックが開催された、日本の高度成長時代の初期の頃です。私は、「父ちゃんも、大丈夫だよ。」と返事をした記憶があります。 小学校では、欧米人と比べ日本人はたんぱく質を中心とした栄養摂取量が、まだまだ少ないことも学びました。 父親は、「俺が生まれ育った頃は、貧しくてろくなものも食えず、よく歩き出した妹を背負って小学校へ通っていた。それから比べれば、いい時代になた。」と、いつも話していました。 2001年の父親の年齢は77歳、私は48歳です。1960年代の平均寿命は現代より10年以上低く、とても80歳近くまで生きていられると考えていなかったのだと想います。 もちろん、血友病を取り巻く環境は、患者用の血液製剤が出回る以前で、血友病の確定診断のできる医師が極めて少なかった時代の出来事です。3歳の時群馬大学病院で血友病と診断された私は、その時以来、83歳で亡くなった父親にどれほど助けられたか分かりません。
2012年03月01日
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これまで私は、私生活までは詳しく記載してきませんでしたが、重症血友患者として59年生きてきて、治療効果が劣り使い勝手も良くないと言われてきたクリオプレシピテート剤(初期の凝固因子製剤)さえ殆ど使わず、健常者の渦中で生活していた現実を中心に描きたいと考えています。 健常者と同じように高校を卒業し、就職、結婚、約20年間のサラリーマン生活と、この頃までに使ったクリオプレシピテート剤は、たった6~7本でした。 血友病の場合、重症度、体質、置かれている環境等により、症状に個人差が生じるため、考え方の違いも発生して当然です。 今日まで全くと言ってよいほど私のような血友病患者の実態は報道されてきませんでしたが、表面化しなかっただけで、決して稀有な存在ではなかったと想います。 そして近況は、今月初孫が満一歳の誕生日を迎え、慌しく平穏な日々を過ごしています。
2012年02月27日
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日本の血友病の実態は、薬害エイズを含め、新聞、テレビ、書籍等のメディアにより、様々な形式で報道されてきましたが、同じ血友病の私にとっては、まだまだ満足できるものではありません。 中には血友病患者個人の弱点を突く悪質なケースがあり、その多くが患者にとってもプライバシー保護の問題で反論しにくい状況に置かれているのです。 「やらせ問題」といえば、公共放送NHKにより製作、放送された「禁断の王国ムスタン」があまりにも有名ですが、同じ頃NHKは血友病患者に対しても差別や偏見を増幅させる、より悪質なやらせ番組を製作、放送していました。 この放送により被害を受けたと考えられる取材対象者本人が書いた書籍と、私が投稿した放送業界誌などに証拠が隠されています。 これから私は、「日本のメディアの在り方(公共放送NHKの捏造行為)」と題し、このブログとは別のブログで詳しく公表しようと考えています。日本のメディアの在り方http://kanzawa53.blog71.fc2.com/
2012年02月26日
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私が血友病や薬害エイズに関し、17~20年前に徹底的に調べ上げた原稿用紙にして200枚ほどの手記が10年ほど前から行方が分からなくなり探してきましたが、最近ようやく見つかりました。 4年ほど前から私もホームページとブログを始めネット上に載せてはみたものの、どうしても思い出せないデータや過去の出来事などが存在し、納得できる文章がなかなか書けませんでした。 近年になりAIDSは発症を予防できるようになり、AIDSによる死亡率は極端に減少してきましたが、20年前ごろはHIV感染から10年ほど経過してきており、発症して亡くなる血友病患者が毎年数多く出ていました。 そのころHIV訴訟もなかなか進展せず、書いた手記はテレビ局や通信社、新聞社等にファクスで送り、陰ながら原告を応援してきました。 なお、手記を書く際に持ち合わせていた資料もありましたが、今は亡くなってしまっている血友病患者さんや患者会などからも多くの資料をいただきました。
2011年08月29日
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血友病の症状で、最も起こりやすい出血の一つに「関節内出血」があります。 膝や足首、肘などの日常的に負荷のかかる関節に多く発生し、一般的にこの内出血の場合、出血した関節内に激痛を伴います。 一度内出血が起こると、私の場合この激痛が安静にしていても2~3日続きます。 唯一、この激痛を和らげたり、場合によっては消すことができるのが「血液製剤(血液凝固因子製剤)」です。 私が、この血液製剤の効能を生まれて初めて実感できたのは、93年(平成5年)の40歳になってからでした。
2011年04月30日
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私の年代で肝炎ウイルスに感染していない血友病患者は皆無に近いと考えられます。もし存在するとすれば、輸血や、血液製剤を使った経験のない軽症の患者くらいでしょう。 日本では74年(昭和49年)、輸血用血液の売血による採血が禁止された後も、血漿分画製剤(血液製剤)用の売血による採血は90年(平成2年)まで認められていました。 「血友病患者は、肝炎になって一人前だ!」などと言っていた者が、医師にも患者にも存在した、という話を聞きました。一部の血友病患者の間では、薬害エイズ以前の感染症として、血清肝炎の感染を止むを得ない事実として受け入れていたというのですから、私には納得できません。 私は、輸血は父親や伯父、いとこからのもので、何とか輸血による肝炎ウイルス感染は免れましたが、国産の売血を原料としたクリオプレシピテート製剤により、HCV(C型肝炎)に感染しました。 私の体内に存在するHCVの遺伝子のタイプは1bで、日本ではこの型が約70%と、最も多いと言われています。
2010年11月16日
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私が、自分以外の「血友病患者」の存在を初めて知ったのは、地元の同級生で、65年(昭和40年)の中学1年生の時でした。 次に知ったのは、新聞の広告欄から作家の大西赤人さんで、71年(昭和46年)の私が高校3年生の時です。そのころ彼が血友病患者だったためか、高校への進学を拒否されたことも、私が高校1年の時担任だった教師から聞かされました。同じ頃、高校には行かず大検に合格したという血友病患者がNHKの朝のニュース番組に出演していましたので、彼の存在も知ることができました。 次に74年(昭和49年)、母親から九州の兄弟2人の血友病患者の存在を聞かされました。 それから、既にエイズ問題が騒がれていた84年(昭和59年)8月まで、私は前記の5人以外の血友病患者の存在を知りませんでした。 血友病の患者団体も存在するだろうとは想っていましたが、健常者の渦中で何とか生活できていたため、敢えて患者会を知ろうとも考えていなかったのです。
2010年11月03日
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最近になり、図書館にあった「薬害エイズ」に関する本を二十数冊読んでみました。 以前私が読んだことのある「薬害エイズ」に関する本(雑誌等を除く)は、今から20年近く前の、薬害エイズ訴訟の和解より数年前に出版されたもので、現在では亡くなっている血友病患者本人が書いた本3冊と、他2冊の計5冊だけでした。 感想としては、私が予想していた以上の発見はありませんでしたが、やはり患者たち本人が書いた「原告からの手紙」(三省堂発行)からは、深い感銘を受けました。 「原告からの手紙」は、東京HIV訴訟の原告たちにより書かれたものですが、大阪でも同じ裁判が行われており、「大阪版 原告からの手紙」が発行されていないのが残念でなりません。 被害に遭われた人たちにとって、「薬害エイズ」は語っても語り尽くせない出来事であったはずです。
2010年10月27日
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毎年、今頃になると85年(昭和60年) 群馬県 御巣鷹山 日航機墜落事故の話題をメディアが競って取り上げます。今月12日には事故から25年が経過します。 忘れもしない、この事故が発生した日に私は痔による出血の治療ため一回群馬大学病院へ行っています。 担当医から、「加熱剤は9月からだよ。」と言われ私が困惑していると、「高濃縮のクリオがあるから・・・。」と返され、エイズの心配がない500単位のハイクリオ(日本製薬)を1本打ってもらいました。 日本の厚生省が血友病A患者用の加熱濃縮製剤を認可したのは、この年の7月1日です。厚生省が非加熱輸入濃縮製剤の回収命令を出さなかったため、使い切るまで非加熱輸入濃縮製剤が利用されていたのです。 日航機墜落事故の犠牲者は520人、薬害エイズの犠牲者は判明している数だけで既に600人を超えています。犠牲者の数からすれば、メディアはもう少し薬害エイズについても取り上げて欲しいものです。二度と悲惨な薬害を繰り返さないためにも。
2010年08月11日
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