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1. 初対面に無心で接すること。有能な人ほど、とかく慢心や偏見があって有心で接してしまう。これはいけない2. 批評癖を直し、悪口屋にならぬこと3. 努めて、人の美点・良所を見ること4. 世の中に隠れて案外善いことが行われているのに平生注意すること5. 好悪を問わず、人に誠を尽くすことその他第一は、目先にとらわれないで、できるだけ長い目で観察する第二は、一面にとらわれないで、できるだけ多面的、できるならば全面的にも考察する第三が、枝葉末節にとらわれないで、できるだけ根本的に観察する
October 4, 2007
※字数の問題で一箇所に書ききれず(文章をまとめる力がないだけです。(笑)前回の日記を分割することにしただけですので…。『平等院』 場所は、京都の宇治にあります。宇治は、平安時代の貴族の別荘が多くあったとされています。ここも元々は源重信の別荘だったらしいです。(詳しくは忘れました)それを藤原道長が譲り受け、後にこの地を受け継いだ子供の頼道が寺に変えたようです。10円玉の表の絵として日本人に一番身近な国宝だと思います。因みに10円玉に描かれているのが鳳凰堂です。現在鳳凰堂の上にある鳳凰像は複製で本物は展示室に飾られております。お寺などの上に飾られているものの多くには左右で男女の区別があるものが多く存在しているようですが、こちらの鳳凰像には、性別は無いそうです。娘曰く・・・「ママ、おかまって事?」と・・・説明をしてくださった係りの方がまだ近くにいらっしゃったのでちょっと恥ずかしかったです。また、この鳳凰像はもともと金であったとされております。また、資料館のところに書きました天蓋なども全て金で装飾されており当時は本当に華やかであったろうと思われます。 鳳凰堂の中には、入れなかったのですが、復元映像がこの後の項目にある資料館で見ることが出来ます。平安神宮や三十三間堂のイメージをもしも出来るようであれば、その華やかな朱色や濃い紅色が多く使われたものを想像していただければ、イメージ的にはほぼ同じかと思います。それらのどれよりも豪華であったであろうとは思われます。黄金の仏像とそれを結ぶ黄金の豪奢な天蓋、遊戯をしておられている様子の黄金の像が数十体。明かりが少ない時代であってもこの黄金と白や紅や明るい藍で飾られたお堂ないは上手に反射効果を使って光を取り入れられていたのではないかとのお話でした。また、当時はかなり広域に整理されていたらしく、平等院を中心に多くのお堂や塔なども配置され、その周りを美しく塀で囲み、きっと今の時代であればTDLのように貴族の一大アミューズメントパーク状態だったのでは?と思います(笑)(←これは私の単なる想像。話は少しずれますが・・・。今回、平等院を訪れたのは、勿論有名な建造物であるからでもありますが・・・。先に名前が出ていた藤原道長が紫式部の書いた源氏物語の源氏のモデルであったのでは?との説を娘が信じている為、藤原道長と紫式部の縁の地ということで訪れました。ただし、この「モデルであったのでは?」の説には他にも同様の説が他の人物でも沢山あり、道長が有力な候補であるわけではありません。たまたま娘の読んだものにそのように書かれていたようです。また、道長が源氏物語を一番最初に読んだ人物だと書いている本もあるようです。いずれも何らかの根拠があって本に書かれているのでしょうが、定かではありません。ここでついでに藤原の話を簡単に・・・。(間違えていたら教えて下さい)最初に出てきた『藤原道長』は『藤原兼家』の息子です。兼家には、他にも道隆・道兼など歴史にでてくる息子たちがいます。余り歴史に詳しくない私ですが、兼家には道綱という息子もいるようです。 この、道綱の母こそがあの蜻蛉日記の作者です。私などは歴史の出来事には疎い為、藤原兼家といえば蜻蛉日記のほうを思い出します。(笑) ただ、余り興味のない藤原家だったのですが、娘が歴史マンガを無理やり貸してくれるので読んでみると、とても面白い一族のようです。兼家は兄弟仲があまりよろしくなかったようでして兄弟で出世を競争しているときに病気に臥せた兄の家に向かって弟の兼家が車を走らせる(感動!)それを家人から伝え聞いた兄は、仲が悪くともやはり兄弟!と感動!して待ち受けていると・・・。弟(兼家)は、兄の屋敷の前を素通りして御所の方へ行ってしまうのです。それを知った兄(兼道)は逆上して病身を押して参内し関白を弟の道長に譲らず他のものに譲ったとの話が乗っておりました。また、兼家が出世街道に乗り始めた頃の天皇が籠愛していた女御が亡くなった事を悲しんでいるのを逆手に取り出家を進めたそうです。(紫式部のところでもう一度この天皇の話がでてきます)その天皇が出家すれば次期天皇に自分の娘が生んだ皇子(東宮)を天皇に立てられると考えたからです。(笑)出家を進め自分(兼家の息子)もお供するといい、天皇をそっと御所を抜け出させ出家させたのですが、息子のほうは(出家前の姿を最後に父に見せたいとなどと言い訳して)とっとと逃げ帰ったとか・・・。当時は、笑い話ではなかったでしょうが、今知るとなんともドタバタと面白い(笑)話が少し前後しますが、孫にあたる親王が東宮になる前にも、娘を中宮にしてほしいと願っていたのが敵わず、そのためにふて腐れて三条のお屋敷に親王ともども引き連れて引き篭もり参内をせず、当時の天皇がいよいよ親王あいたさに東宮にさせるとの話まで引き出されるような件があり、笑えます。事実はもっとドロドロとした話なのかもしれませんが、子供向けに書かれた本ですから、面白可笑しくかかれておりますので歴史が苦手でも興味があれば一度ご覧になってみると面白いかもしれません、殆ど漫才の世界です。(笑)しかし、個人的な感想をいわせていただくと私の様に捻りのない(面白味のない)人間からすすと藤原兼家や道長は賢すぎて話の流れについていけず(あまりにも姑息で)好みではありません(笑)多分これも読む本によって感じ方が違ってくるかもしれませんので、後に気持ちが変わるかもしれませんね。最後に藤原道長の有名な歌を1つ『この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思えば』この歌は、道長の書いた日記には残しておらず、あまり反りが合わなかったと思われる実資の日記に書き残されて後世に残ったようです。これを1人月を見ながら或いは身近な人との間で読んだのであれば、満足してたのね~くらいで終らせますが、実資(道長とは仲は良かったわけではない。が、息子頼道とは交流が深かったらしい)が日記に書いているところによると公卿を集めての宴会で読まれたそうですので何とも傲慢な方だったのかもしれませんね。本来は他にも多くの功績を残されている方なのでしょうが、母の記憶に残ったのはこれだけです。(勿論年号も頭に入っておりません。爆)『平等院資料館』 現在100年に一度の改修工事をしているようです。外観は修理の為綺麗に全部見ることはできませんが、その代わりに天蓋など普段間近でみることが出来ないものをこの資料館で現在見ることができました。次回みられるのは100年後とあってか?娘は必死にみておりました。『宇治上神社』 平等院と源氏ミュージアムの間にあります。詳しくは…分りません。(笑)『宇治源氏物語ミュージアム』 紫式部の源氏物語のミュージアムです。土地柄か?宇治で入水した浮船の映画が上映されておりました。コンパクトなミュージアムですが、人形の展示などがあり華やかではあります。しかし、紫式部の資料などがなかったのがちょっと残念だったようです。※映画は20分ほどですので娘は2回も連続でみておりました。『紫式部』について少しだけ…。娘の話なので間違えて覚えたものを聞いているかもしれません。源氏物語の作者として有名な女性作家。百人一首では「めぐりあひて見しやそれおともわかぬまに 雲がくれにし夜半の月かな」の歌が選ばれている。娘が一番始めに覚えたのもこの式部の歌でした。学校で何か一首覚えてくるように言われた時に、何を覚えようか?って聞かれた為、単純に娘が知っている作者で歌の意味も知っているであろう物というので勧めたところ、もともと紫式部の本をよみ多少の興味は持っていたようなのですが、今まで以上に興味を持ったようです。母にはピンときませんが、娘的に百人一首に含まれている人!って事で紫式部の格があがったようです。(爆)式部の父は花山天皇(ほら!?兼家親子に出家させられた天皇!笑)に仕えていた方らしいのですが、天皇の出家と同時に職を失ったようです。その後、道長の娘中宮彰子(一条天皇)に使えていたようです。今回京都の御所に行ったのは、数々の天皇がすごしたところだから(本当は現京都御所で過ごされた天皇は2天皇のみで建築も比較的新しいものです。)と、紫式部も中宮に仕えていたのだから御所に行けば式部のいた部屋がみられるかも~!と、娘が言い出したためであります。(見られないって…。苦笑)京都には、式部が源氏物語の後半を書いた場所とされるところやお墓だといわれる場所がありますが、今回は時間が足りず立ち寄っておりません。
August 26, 2007
殆どメモも取らずに帰ってきましたので、時間とともに忘れてしまいそうです。取りあえず時間ができたら少しずつでも覚書に・・・。『北野天満宮』 菅原道真に関係ある場所ということで娘が足を運ぶ天満宮です。学問の神といわれるのは、道真の父も優れた学者であり、道真もその子孫も優秀な学者でり道真の為に作られたものが天満宮であったからなのでしょうね。(多分)北野天満宮には牛と梅が沢山目に付きます。牛は、道真が生まれた年が丑年だったとも亡くなった時が丑の日だったとも、牛が道真を守ったとも…どれが本当でどれが異なるものなのかよくわかりませんが、そのような牛にまつわる言い伝えが多くあるため牛の像を多く置いてあるようです。また、梅に関しては、道真が大宰府に送られるときに残した歌に「東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘るな」(本によって最後の言葉は多少違っている場合があるようです)との和歌が残っていますので庭に綺麗な梅が植えられて大切にされていたのでしょうね?そのような事から梅が用いられているのかもしれません。全国の天満宮は、道真死後に都に病気や御所に落雷が落ちたりする不幸は道真が濡れ衣により遠い大宰府で淋しく死んだ魂が怨念としてさまよっているから…みたいな?話が流れ全国に天満宮が作られ道真を天神として祀ったそうです。道真は、代々学問に優れた家系だったらしく大伴家持などもおり、子孫には更級日記の作者もおります。(代々なんて羨ましい。そんな家に生まれてみたかったわ。笑)なんだかんだと・・・結局優秀な家系って続くのね。(これは、母の感想。笑)最後に百人一首にある道真の歌「このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに」私は先の1首もあわせて、道真の歌を2首しか知りませんが百人一首の恋愛物の歌が多い中私はこの歌結構好きです。菅原道真祖父・父ともに文章博士を勤めた家系。元々は中流の公家でしたが宇多天皇の信任を受け要職に就くようになったそうです。藤原家の力が強くなってきている頃のお話です。遣唐使を止めるように助言した人?依頼した人?(わかんね~笑)その後、醍醐天皇にも仕えましたが、藤原時平と醍醐天皇の策略により?大宰府に下り、その地にて他界。道真の死後、死を伴う病が流行し天皇の皇子が次々になくなったり、御所に落雷があったり、時平が短命だった事は、道真の怨霊だと言う事になり道真を祀る天満宮が建てられた。天神さん、天神様などとも呼ばれる事が多い。また、天満宮の「天満」は、道真に死後ついた「天満大自在天神」から来ているらしいです。『平安神宮』 平安遷都1100年を記念して当時天皇であった桓武天皇を祀る神社として建てられた建物です。(1895年明治28年)因みに平安京で過ごした最後の天皇は孝明天皇です。※桓武天皇皇居:平城宮・長岡宮・平安宮※孝明天皇皇居:平安京・京都御所私はもっと早い時期に立てられたものだとばかり思っておりました。(苦笑)『方広寺』 豊臣家滅亡のきっかけになった鐘があるお寺です。この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文章に家康が「家」と「康」を分断し豊臣を君主とするものとの言いがかり?(笑)をつけて戦(大坂冬の陣)に突入です。また、昔、このお寺には奈良の大仏よりも大きな大仏様が鎮座されていたようです。が、徳川家康が天下を取った後に壊されたようです。しかし、何故この鐘だけ残したのかが不思議です。『豊国神社』 豊臣秀吉が祭られている神社です。もともとは、阿弥陀ヶ峰の中腹に埋葬されたようですので、同じく阿弥陀ヶ峰の中腹に神社は立てられていた世らしいのですが、徳川家康が天下を取って後に壊されて今の場所に移されたようです。豊国神社は全国に数箇所あり、その内のひとつになります。京都では「とよくに」長浜では「ほうこく」金沢の「とよくに」(加賀藩の前田家が作った?)大阪の「ほうこく」、名古屋の「とよくに」と、秀吉と関係の深い場所にそれぞれ祭られているようですが、豊国の呼び名はそれぞれ「とよくに」「ほうこく」と違うようです。『智積院』 豊国神社と隣接するように立っているお寺です。秀吉の子「鶴丸」の為に立てたお寺とも聞きますが、もともとは2つのお寺が一緒になったため複雑な歴史があるようです。秀吉の逆鱗に触れ?たの?か?もともとのお寺は根来山であったらしいのですが秀吉に焼き払われたようです。その後関が原で徳川が勝ち、豊国神社の土地などを切り取るようにして分け与え再建したのが現在の智積院のようです。だから、秀吉に焼き落とされたのに秀吉の子を祀っているようです。。(解釈違っていたらごめんなさい)『三十三間堂』 後白河上皇が平清盛に命じて自身の離宮内に立てさせたものらしいです。この、後白河上皇は娘曰く「平清盛を随分利用したのに源氏に倒させるように仕向けた張本人」らしいです。(本当?)1001体の観音像などが祀られております。過去に火災にあい、当時の仏像がまるごと残っているわけではないようです。弓の競技で有名です。(競技名は忘れました。笑)『養源院』 淀君が父(浅井長政)を供養したいと秀吉に申し出て立てさせたお寺です。後に火災にあいましたが、徳川秀忠にお輿入れしていたおごう(ミニ曰く、淀君の妹らしいです。)が、伏見桃山城の一部を使用して再建したそうです。このお寺には、血の天井板と呼ばれるものがあるのですが・・・それをみるのは怖いといわれて天井板は見ることが出来ませんでした。三十三間堂の真正面にあるお寺です。 『豊国廟』 秀吉のお墓があるところです。智積院と豊国神社の間の道(京女の坂道です。大学のお隣になります。)を上った突き当たりです。『高台寺』『圓徳院(えんとくいん)』5月の旅行日記に多少記入した覚えが・・・。『六条河原』 処刑場・古戦場として名前をよく聞くところです。今は、普通に川です。現在は道(土手部分)が高くなっておりますので河原は見辛いのですが、昔はもっと土手が低かったのでしょうか?それとももっと川の幅が広く取られて広場のような場所になっていたのでしょうか?テレビなどで見ると処刑を見に来ている人がいますが現在の状況だと無理かな?娘的に一番印象が深く残っている処刑された人は明智光秀。その昔、名前は忘れましたが合戦場にもなったところらしいです。その他処刑された中に、豊臣秀頼の息子(当時6~7歳)国松が処刑されたそうです。6~7歳か~・・・。。。年長さんじゃないの。。。残酷すぎる。。。なんと残酷非道な・・・と、思いますが、娘の話を聞いていると平清盛などは、源氏の子供たちに情けを掛けて生かしておいたために倒された可能性があるとの事。ま~確かに相なんでしょうが・・・・。それを聞いてもなんとなくやっぱり野蛮・・・って。7歳児くらいなら自分の手元で育てて後ろ盾する人を近づけなければ良いんじゃないの?などとどっちが親か無いような会話をしておりました。(笑)『壬生寺』『本能寺跡』現在の本能寺は織田信長が暗殺された場所にはありません。四条大宮の駅から徒歩で5分程度?のところにあります。今は石の1m程度の柱に刻まれている「本能寺跡」以外はその名残は見当たりません。近くには名前は忘れましたが、小さなお寺が3件ほどあります。ゆかりのある寺なのかどうかは訪ねていきませんでしたので不明です。『二条城』 前回の旅行記に詳細記入済み『醍醐寺』 豊臣秀吉の花見が開かれたことで有名なことろです。現在、桜があった場所は空き地になっており、当時咲いていた桜は醍醐寺の庭に移されております。(醍醐の花見)名前から想像できる通り醍醐天皇が庇護しかつては、広大な土地を有し発展していた時期もあるらしいです。(寺の名前の由来に天皇が直接関係有るかどうかは分かりません)現在も五重塔を初め多くの古い建物が残っているようですが、説明の看板をよく読みませんでしたので醍醐天皇の時代のものかどうかは定かでは有りません。もしかすると古そうにみえても秀吉の時代のものかもしれません。京都御所1回目相国寺下賀茂神社金閣寺等持院本能寺東寺平野神社京都御所2回目銀閣寺
August 22, 2007
忘れちゃいそうなので、行ったところだけ書いておきます。平等院平等院資料館宇治上神社宇治源氏物語ミュージアム醍醐寺京都御所1回目相国寺下賀茂神社金閣寺等持院北野天満宮平野神社京都御所2回目銀閣寺平安神宮本能寺東寺方広寺豊国神社智積院三十三間堂養源院豊国廟高台寺圓徳院(えんとくいん)六条河原壬生寺本能寺跡二条城まだ、忘れているところがあるかもしれない・・・けど・・・思い出せない(涙)行った順番も娘や旦那は覚えているかもしれませんが、母は既に忘れかけている。。。5日間京都に居ましたが、実質初日は午後からだし、5日目は、3時ごろには京都を後にしておりましたから丸ごとで考えると4日間程度の時間??因みに二条城!今回は一回しか言っておりませんが、一度の入場で好きなだけ居て良いのですが、5月に4時間近くかけてみたのに・・・。今回は3時間近くかけて二の丸を4周。その他を2周させられました。(疲)その日の気温は39度。。。母のハンカチは既に絞れるくらい濡れておりました。因みに京都御所は2日間とも同じコースで同じ様な説明を炎天下の中1時間ずつ聞きました。結構まわったようですが、今回は史跡は殆どまわれておりません。天皇陵なども多くあるのですが、それも1つもまわれずに終りました。京都を短い日数の旅行2回程度で制覇するのは不可能だな。。。後2年くらいかけたら一通り大まかに回ることができるのかな~??いや・・・年2回行ったとして後4回じゃ~無理だな。。。責めて来年の夏休みの3週間くらい京都に滞在すれば半分くらい目的地にいけるかしら~~??ミニ曰く、京都の楽しいところ・・・。京都御所と二条城がやっぱり一番面白いそうです。その次は、高台院と三十三間堂と平等院だそうです。単純に楽しめるのは下賀茂神社だそうです。(夏限定)母的にはカキ氷が美味しかったのは、二条城の後のカキ氷です。その次に美味しかったのは、京都御所の後のカキ氷です。それは、単純に一番体力的にきつかった順番ともいいます。その他思い出した場所があれば追記します。
August 17, 2007
お引越し完了です!もっとも完了したのは荷物の移動だけの状態ですが(滝汗)でも、寝具と電化製品はちゃんと使える様になっているからよしかな?ミニの勉強セットも机にセットしたし・・・。って・・・それ以外は殆どそのままの状態!寝室は開梱待ちのケースが山積み状態です。(笑)とりあえず来週1週間で何とか開梱していこ~う。それまでは、ケースから必要なものだけを引っ張り出しつつ・・・(苦笑)因みにダンボールに入れると後で箱の処分が大変なのでお引越し専用ケースに入れてもらいました。(※一部はダンボールケースを使いましたが)が・・・早めに開梱してケースを返さないとどんどん追加料金が・・・(汗)目標は木曜に完了!金曜の朝に返却!ダメ?難しい?疲れる?あ~何とか頑張りますっ!
August 5, 2007
二条城のお話。書いておかないと忘れてしまいそうだから・・・。昨日も書いたのですが、GWは京都に4日間おりました。本当は4日もいれば相当の場所を訪れる事ができるのですが、我家の娘は兎に角一箇所にかける時間が長い!その為、それ程沢山の場所には行っておりません。それでも朝から夕方まで、ず~と京都を巡っていたので、誰もが知っている有名な場所の半分程度は巡れたのではないでしょうか?その中の二条城。。。ミニが歴史に興味を持ち始めたきっかけとなる徳川のお屋敷です。関西方面ばかり歩いておりますと、関が原以外で徳川縁の場所というのは案外目に付かないもので・・・。そんな中始めて娘が徳川が直接でてくるお城ってわけです。(笑)(お城(天守閣)は既にありません。)場所は京都御所から程近い場所にあり、そもそもその御所を見張るために作られたお城だとのことです。東大手門より入りすぐに番所、二の丸御殿があり、そこを見学することになります。皆さんよくご存知かと思いますが、天守閣・本丸の手前にあるのが二の丸です。御殿に入ると早々に柳の間・若松の間などがあります。その、すぐ隣に遠侍の間があります。ここで、参上の旨を伝えてもらうのですね。外様大名より下のものは、これより先には入ることが出来ませんし奥に呼ばれることもありません。また、贈り物などもこちらで受け取られたようです。そのずっと奥に豪華な大広間が3つほど続いております。入り口から近い方より外様大名が入れるの間、譜代大名が入室できる間、その奥に親藩大名が入室できる間があります。これは関が原の戦いの際に学校で習った大名の呼び名ですね。私唯一覚えていた歴史の用語です(爆)その後、書院などを通り過ぎると大広間や老中の間、勅使の間などがあります。そして奥に上様がお寛ぎになる部屋があります。ま~豪華な彫刻や襖絵は流石に徳川の権力の大きさを誇示するものばかりでした。しかし、そのような事を8歳のミニが感じるはずもありません。なのに何故二の丸に4時間近くも居たのかって??(昨日の日記に書いたのですが4時間近く居りました)最初に書いた遠侍の間を覚えているでしょうか?かつて徳川に秀頼が挨拶した歴史的な出来事がありました。(1602年)その際に使われた場所が、この遠侍の間だったのです。そうです、外様大名でもない豊臣秀頼は、遠侍の間より奥には通さなかったのです。これをもって豊臣から徳川の世に完全に移ったことを世間に知らしめた場所になるのです。それを知ったミニは大喜び?感動?興奮?して部屋の隅々まで眺めていたのです。もっとも部屋の中には入れませんが、そこは8歳児!床に這うようにして天井まで全部眺めておりました(爆)その他、大政奉還を発表したのは、先程の親藩大名が入室できる一の間だったような・・・。部屋はもしかすると間違えて覚えて帰っているかもしれません。(汗)ただ、大政奉還を発表したのは確かにこの二の丸の部屋には違いないようです。ただ、ミニが大政奉還をよくわかっていないために、この部屋にはそれ程興味を示しませんでした。(笑)でも、豪華で立派な部屋なんですよ♪さて・・・。その後、本丸・なんにもない天守閣を歩いて帰りました。二の丸・本丸と庭園もとても美しかったですよ。でも、侘びさびというよりは、海外からの観光客が喜びそうな分りやすい造りです。(笑)さて、この程度かな??とりあえず、今回のGW日記はここでおしまい!【おまけ】本能寺跡と(現在の)本能寺にも行ったのですが、ミニは「ねね」と「信長」のお墓参りが出来たと喜んでおりました。普通、見たことも会ったことも、まして何の縁もない人のお墓参りをしたからといって嬉しいかな~?この感覚が分らない。。。因みに、京都・東本願寺には母の祖母のお墓があるのですが、ミニはそこには過去一度も立ち寄っておりません(爆)もっともお墓の場所が広くって・・・お墓の位置が母自体も分りませんが(爆×爆)
May 13, 2007
GWの日記を書いておこうと思いつつも・・・。実は、母は利き腕の骨が軽~く欠けてしまっているために、手が上手く使えず何をしても時間がかかり思うように自分の時間が取れない状態です。それでも、こうやってパソコンを打ったり、お菓子を食べたり作ったりと信じられないようなことしておりますが・・・。あっ!勿論仕事もしております。(折れてから2日間は痛いのに骨だと思わず仕事もしておりました。笑)本当は、お菓子(アップルパイを作りました。Dきちさんの日記を見て思わず食べたくなって・・・作って食べました~笑)作っている暇があればほかの事でもしているべきなのでしょうが・・・。不自由とわかれば、余計関係のないことをしたくなる母でした。(笑)さて、忘れない内に行った所だけでも書き留めておきましょう♪今回、ミニは山梨~長野に行きたかったようですが、絶対に混んでいる。しかも、距離が長い。。。ってことで却下。次に、鎌倉が候補に挙がりましたが・・・。ここも混んでいる。。。しかも行くまでも混んでいる。更に、まったく母には土地勘がない場所の為、ガイドブックも何もない状態で行くには・・・。ってことで、京都に決定!(笑)今回は、武田信玄か源義経を訪ねたかったようです。信玄は無理でしょうが、義経ならば京都に行けば多少は縁の地もあるということで決めたのですが・・・。義経と言えば・・・鞍馬。。。天狗に武術を習ったという鞍馬山。も~信じられないくらい足がガクガクしましたよ~あまりの階段の多さと斜面のきつさに。母は、結局最期まで歩かずに途中で待つことにして、ミニとパパとだけで奥の院まで行ってもらいました。(安土の方がずっと楽でした。)途中、義経が鞍馬を旅立ったときに背を比べたという石を発見しました。本当にそうだったのかどうかは分りませんが、その石の高さが本当に義経の背丈だったとしたら、かなり小柄な少年だったようです。また、義経が天狗に習う為に夜な夜な駆け上がった山の途中、休憩して飲んだとされる水場も発見。(今は水は流れてませんが)しかし・・・いくら身軽だったとしても、この山を毎晩往復したのであれば、天狗に習わなくともかなりの体力と筋力があったのでは・・・と、山登りの辛さを忘れられない母でした。(笑)その他、秀吉を祀り、ねね様が晩年すごした高台寺や圓徳院等。ここは、流石にミニがよく知っている人物の縁の地だけに4時間ほどかけてまわりました。距離にすると大したことないのですがね。テレビなどで見たことがあるでしょうか?秀吉とねねの木像が祀られている場所。あれが、高台寺にある霊屋(たまや)と呼ばれる建物なのですが、そのねねの像の下2mに今もねね様が土葬されている状態だそうです。手が届きそうなくらい近くに埋められていると知ると、じ~と見つめるようにみていたミニでした。(怖くないのかい?って思いましたが、歴史上の(ミニ的に)スーパースターがそこに眠っていると知って興味津々だったのでしょうか?)圓徳院では、ねね様が過ごしておられたと伝えられる伏見から移築した屋敷は火災でなくなっておりましたが、そのほかの屋敷や襖絵、屏風や庭などを見てまわりました。そこで案内をしてくれる女性がいたのですが、ミニはその女性に付きまとい(笑)あれこれ子供らしい事を(早い話がつまらないことを)聞いたり見たり。(苦笑)8歳の子が、異常に興味を持って質問したり、細々したことなどを知っていたりするものですから、案内の女性のかたも面白がり、通常の説明以外の事をわざわざ後できて時間をかけてミニに教えてくださいました。また、ねね様が眺めた庭の片隅に、江戸時代に何処からか運ばれてきたといわれる茶室がありまして、そこでミニと二人お茶をいただきました。なかなか風情のある建物でした。いただいた羊羹も上にかけられた金箔がなんとも秀吉を思わせる粋な選択!(爆)清水は、今回は避けて、知恩院、八坂を歩きました。八坂では、結婚式が挙げられていました。ミニは教会での結婚式以外を見たことがありませんでしたので、興味があったのでしょうか?全然知らない人の結婚式なのですが、30分程見ておりました。(公開挙式なので、だれでも見られるのです)金閣寺は、二度目なのですが前回は小さすぎて覚えていなかったらしく、あのキラキラに驚いておりました。(笑)また、一休さんはここに来たことがあるのか?とも訊ねておりました。(笑)一休寺は、風情のあるこじんまりしたお寺なのですが、今回は時間もなく行きませんでした。三十三間堂は軽く見学のつもりでしたが、ミニのつぼに入ったらしく2時間もかけて見学する羽目に・・・・。1001体の観音像に驚き、一体一体のお顔が全て違うと気付くと必死で知り合いに似た顔がないかと探していた為です。(爆)本当に反応がというか・・・好みがというべきか・・・何処までもじじばば臭いミニです。すぐ近くでは、ミニが好きな後醍醐天皇や後白河天皇の特別展、藤原道真の特別展がありミニにとっては絶対に見逃したくないものだったのでしょうけれど、観音様に時間が取られすぎて見送ることに・・・・。だって、その後に北野天満宮に行く予定でしたから、そちらの方を優先したかったようです。京都市内を移動しているとどうしても何度も通ることになる二条城にも行きました。初めての徳川にまつわるお城ということでとても興味をもって見学したようです。二条城だけで4時間近く過ごすのですから相当ゆっくりまわったことになるでしょうか?ここについては、書くと本当に長くなりますので機会がありましたら後日。その他にも数箇所まわりましたが、どれも興味深く見ることが出来たようです。母的には平等院などはいかが?って思ったのですが、京都市内からは少し距離がありますので今回は行きませんでした。今まで「京都に行ってみる?」と声をかけても興味を示さなかったミニですが、とても楽しかったようです。また、京都に行こうね♪って言っております。子供の頃京都の近くに住んでいたのですが、母にとりまったく興味を引く街ではありませんでしたが・・・。どうして、こんな子が私から生まれたのかしら?と不思議でなりません。母が唯一嬉しかったのは、京都に行ってお茶漬けとちりめん山椒を買うことが出来たことぐらいかな~?あっ!そういえば、花街でちりめん山椒をかったのですが、そのお店のお姉さん舞妓さんや芸子さんよりも美人でした。(笑)夕方近くになって通りましたし、一見さんお断りの裏通りのお店になども教えてあげたくてお店の前を通りましたら、舞妓さんや芸子さんがお座敷に呼ばれて入っていくところを見ることが出来てミニは大喜びでした。(笑)参考までに本物でなくてもよいのであれば、清水~八坂までの通りに舞妓さんが時々出没します。これは、家族連れできたお母さんが化けております。(爆)時々、独身のきれいなお姉さんが変身していることもあるようですが、母が今まで通りを歩いてみたことがあるのは、化けたほうだけです。(爆)さて、訪れた順番も無視して思い出すままに書き留めました。行ったところを、ダラダラと書いただけですので読んでくださった方がいらっしゃいましたら感謝感謝!お疲れ様のありがとうございます♪次回は、恒例の笑えるnanati家日記でも書こうかと・・・(笑)では、おやすみなさい♪
May 12, 2007
現在お引越し中です。( ̄ー ̄)ニヤリ更新が、また少しだけ途絶え気味になるかもしれません。(いつもの事だって?笑)いや・・・パソコンがまた調子悪くなる可能性もあるかな?(笑)取り急ぎご報告まででした。nanati
March 13, 2007
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