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2024年5月4日、妻と一緒に、東京都庁第一本庁に投影された「ゴジラ都庁襲撃」プロジェクションマッピングを見ました。ゴジラが都庁を襲撃し、ゴジラ兵器「スーパーX2改」がゴジラを攻撃します。最後は、メカゴジラも姿が出ました。ーーーーーーーーーーーーー東京都庁第一本庁
2024.05.22
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2024年4月からスタートしたNHK連続テレビ小説「虎に翼」ですが、伊藤沙莉さんが主人公の猪爪寅子(いのつめともこ)役をされています。第5週では、寅子の父・猪爪直言(岡部たかしさん)など16人が収賄罪容疑で逮捕された「共和事件」を描いており、「ウルトラセブン」のモロボシ・ダン役だった森次晃嗣さんが貴族院議員の水沼淳三郎役で出演されました。水沼は検察の日和田(堀部圭亮さん)と共に倒閣に動きます。最終的には裁判により、事件の16人は全員無罪となりました。ーーーーーーーーーーテレビの「共和事件」ですが、歴史的には1934年の「帝人事件【ていじんじけん】」が元になっています。「<日本の近代5 政党から軍部へ1924~1941/北岡伸一/中央公論社」p188~190に「斎藤内閣の崩壊」についての記述があります。第30代総理大臣・斎藤実【さいとうまこと】内閣の時に、帝人事件が起こり、斉藤内閣は総辞職しました。一部を紹介します。(p188)斎藤内閣のもとで、満州国の承認、国際連盟からの脱退、アジア主事への方向転換など、いくつもの重要な転換が行われた。しかしそれでも全体として、斉藤内閣は、急激な変更を避け、現状維持を試みた内閣であった。(p189~190)同じ頃、帝人事件が起こりつつあった。武藤山治【むとうさんじ】(元鐘ヶ淵紡績【かねがふちぼうせき】社長で、かつて実業同志会をつくり既成政党支配の打破を訴えた)が経営する『時事新報』は、1934年1月17日から3月13日まで、実に56回にわたる連載記事で、帝人株をめぐる疑惑を取り上げた。それは、実業家郷誠之助【ごうせいのすけ】を中心とした政界サロン番町会【ばんちょうかい】において、いかに政界と財界が癒着し、権力を利用した不正を働いているかを「暴露」したものであった。とくにそこで批判されたのが、帝人株をめぐる不正行為であった。帝人すなわち帝国人造絹糸【ていこくじんぞうけんし】会社は、鈴木商店の系列の会社で、その倒産とともに台湾銀行の系列に入っていた。(人造絹糸すなわち人絹とは、レーヨンのことである)。そして、人絹業が好調のとき、帝人の株を番町会グループが不当に安く買い入れたというのが、疑惑の核心であった。問題は1934年2月から3月にかけて議会で取り上げられ、大きな問題となった。そして議会閉会後、4月から検察が動き出し、帝人、台銀関係者を検挙し、5月、大蔵省の黒田英雄【くろだひでお】次官を召喚、起訴するという事態となった。さらに大蔵大臣の責任も批判された。そして、鳩山一郎前文部大臣、三土忠造鉄道大臣、中島久万吉前商工大臣にまで検察の取り調べは及ぼうとしていた。ここに、斎藤内閣は7月3日、総辞職することになったのである。しかし、のちに1937年の判決で、関係者は全員無罪となった。それも証拠不十分による無罪ではなく、事件はまったく根拠のない空中楼閣であったことが、裁判官によって明らかにされたのである。前代未聞のことであった。ここで追及されたのは、すべて斎藤内閣を支えていた人物であり、政民提携派の閣僚であった。そして追及の背景には、倒閣を目指す久原房之助【くはらひさのすけ】があった。そして、斎藤内閣が倒れた場合のもっとも有力な首相候補は、平沼騏一郎だといわれていた。平沼みずからあるいは平沼の配下の検察が、政治的な意図を持って取り調べを行った可能性が高いのである。ーーーーーーーーーーー↓ NHK連続テレビ小説「虎に翼」で、主人公の猪爪寅子(いのつめともこ)役の伊藤沙莉さん。↓ NHK連続テレビ小説「虎に翼」↓ ドラマでは、「共和事件」として、寅子の父・猪爪直言(岡部たかしさん)など16人が収賄罪容疑で逮捕された。↓ 裁判官 桂場等一郎(松山ケンイチさん)↓ 「ウルトラセブン」のモロボシ・ダン役だった森次晃嗣さんが貴族院議員の水沼淳三郎役で出演された。裁判官 桂場等一郎(松山ケンイチさん)を呼び止めた水沼淳三郎。↓ 貴族院議員水沼淳三郎役の森次晃嗣さん。↓ 検察の日和田(堀部圭亮さん)。ーーーーーーーーーーーーーーーー「<日本の近代5 政党から軍部へ1924~1941/北岡伸一/中央公論社」↓ p188
2024.05.15
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NHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」で、ウルトラセブンのモロボシ・ダン役をされていた森次晃司さんと、初代ウルトラマンのスーツアクターでウルトラセブンではアマギ隊員役をされていた古谷敏さんが出演されました。私の本棚にある、ウルトラセブン関連の本を紹介します。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ ダンとアンヌのウルトラセブン ~森次晃嗣・ひし美ゆり子 2人が語る見どころガイド~/森次晃嗣・ひし美ゆり子/小学館↓ 森次晃嗣さん、ひし美ゆり子さん ↓ 森次晃嗣さん、ひし美ゆり子さん ーーーーーーーーーーーーーー↓ ウルトラセブン ベストブック/竹書房ーーーーーーーーーーー↓ ウルトラセブン・クロニクル/双葉社ーーーーーーーーーーー↓ ウルトラセブン 大侵略者図鑑/双葉社ーーーーーーーーー↓ ウルトラセブンの帰還/白石雅彦/双葉社ーーーーーーーーー↓ ウルトラマン画報 上巻/竹書房ーーーーーーーーー↓ ウルトラマン「正義の哲学」/神谷和宏/朝日文庫/朝日新聞出版ーーーーーーーーー↓ ウルトラセブンが「音楽」を教えてくれた/青山通/新潮文庫/新潮社ーーーーーーーーー↓ ウルトラ音楽術/冬木透・青山通/集英社インターナショナル/集英社ーーーーーーーーー↓ 決定版ウルトラマンシリーズFILE / Gakkenーーーーーーーーーーー↓ ウルトラマンになった男/古谷敏/小学館
2024.05.14
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2024年5月4日、妻と一緒に神奈川県藤沢市鵠沼(くげぬま)海岸にある洋食店「ジョリーシャポー」に行きました。特撮テレビ番組「ウルトラセブン」の主人公であるモロボシ・ダン役をされた森次晃嗣さんが営業されている店です。以前、「散歩の達人 2021年8月号 No.305 大特集 湘南散歩 藤沢・辻堂・茅ヶ崎・平塚・大磯/交通新聞社」を読んでいた時、P47~49で「鵠沼(くげぬま)でモロボシ・ダンに会いたい(取材・文=佐藤さゆり(teamまめ)、撮影=小澤義人)」という記事を読み、いつか「ジョリーシャポー」に行こうと思っていました。2024年4月からスタートしたNHK朝の連続小説「虎に翼」を週末にまとめて見ていますが、4月の最後の週で、主人公役の伊藤沙莉さんの父役が疑獄事件で逮捕され裁判が行われる話があり、出演者の紹介画面で「森次晃嗣」と見えたので、びっくりしました。森次さんは疑獄事件の黒幕である貴族院議員役をされていました。演技をされている森次さんを見ていると、「ジョリーシャポー」の記事を思い出し、GW後半に妻と一緒に行く事にしました。「ジョリーシャポー」に入ると、ウルトラセブンを初め、森次晃嗣さんが出演されてきた貴重資料が壁一面に飾られていました。森次さんが好きなシャンソンが流れ、とてもお洒落な空間です。私はハンバーグを、妻はオムレツを注文して頂きました。店内には森次晃嗣さんご本人がおられました。とてもお元気そうでした。店を出るとき、森次さんに挨拶し「NHKの朝ドラで拝見しました」と言うと、森次さんは笑顔でした。店から出ると、ウルトラセブンの主題歌が口から自然に出てきました。(家に帰ってからも、このブログを書きながらもウルトラセブンの歌を歌うので、妻がいい加減にしなさいと言います)(店内は撮影禁止だったので、撮っていません)*なお、NHK朝ドラ「虎に翼」ですが、ウルトラセブンのモロボシ・ダン役の森次晃嗣さんだけでなく、初代ウルトラマンのスーツアクターをされ、ウルトラセブンシリーズではアマギ隊員役をされた古谷敏さんも新聞記者役で出演されていました。(後から他の人から教えていただき、気が付いた次第です)ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ ジョリーシャポー。特撮テレビ番組「ウルトラセブン」の主人公であるモロボシ・ダン役をされた森次晃嗣さんが営業されている店。↓ ジョリーシャポー。↓ ジョリーシャポーの駐車場看板。↓ ウルトラセブンのモロボシ・ダン役の森次晃嗣さんに挨拶した後、店前で撮影。ーーーーーーーーーーーー「散歩の達人 2021年8月号 No.305 大特集 湘南散歩 藤沢・辻堂・茅ヶ崎・平塚・大磯/交通新聞社」↓ 特撮テレビ番組「ウルトラセブン」の主人公であるモロボシ・ダン役をされた森次晃嗣さんが営業されている店「ジョリーシャポー」の紹介。「散歩の達人 2021年8月号 No.305 大特集 湘南散歩 藤沢・辻堂・茅ヶ崎・平塚・大磯/交通新聞社」P47~49「鵠沼(くげぬま)でモロボシ・ダンに会いたい」「地球を愛して戦い抜くウルトラセブンは、地球人・モロボシ・ダンの姿を借りてウルトラ警備隊に入隊。54年前に現れたダンは今、鵠沼(くげぬま)にいるという。そこで、基地とするカフェに訪ねてみた。デュワッ! (取材・文=佐藤さゆり(teamまめ)、撮影=小澤義人)」↓ ウルトラアイを持つモロボシ・ダン役の森次晃嗣さん。↓ モロボシ・ダン役の森次晃嗣さんの紹介。1967~68年放送の特撮テレビ番組「ウルトラセブン」で主役のモロボシ・ダンを熱演。以降、ウルトラマン・シリーズを初め、ドラマ、映画、舞台などで活躍する。鵠沼の洋食店「ジョリーシャポー」を営み、ツイキャスにて月に1度、ファンミーティングも発信中だ。
2024.05.13
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以前、「散歩の達人 2021年8月号 No.305 大特集 湘南さんぽ 藤沢・辻堂・茅ヶ崎・平塚・大磯/交通新聞社」を読んだとき、藤沢のコーナーで「鵠沼(くげぬま)でモロボシ・ダンに会いたい」という記事があり、興味深く拝見しました。ウルトラセブンで主役のモロボシ・ダン役を熱演された森次晃嗣(もりつぐこうじ)さんが、鵠沼で洋食店「ジョリーシャポー」を営業されているという内容でした。いつか行こうと思っていたのですが、そのまま時間ばかり経ってしまいました。2024年4月から、NHK朝の連続テレビ小説「虎に翼」があり、私が応援している伊藤沙莉さんが主人公をされているので、週末にまとめて見ています。主人公の父が逮捕されて疑獄事件巻き込まれた週を見ていたところ、2024年4月29日分で、番組の出演者に「森次晃嗣」とあったのに気が付き、びっくりしました。妻は毎朝の放送を見ていたのですが気が付かなかったようで、すぐに妻と一緒に見て、森次さんが疑獄事件の黒幕である貴族院議員役をされているのを確認し、とても懐かしく思いました。私は小さい頃から、再放送も含めてウルトラシリーズを見ており、ウルトラQ、ウルトラマン、キャプテンウルトラ、ウルトラセブン、怪奇大作戦、帰ってきたウルトラマン、ウルトラマンA、ウルトラマンタロウ、ウルトラマンレオ、ザ☆ウルトラマン、ウルトラマン80辺りまで見ていました。子供が生まれてからは、子供と一緒にウルトラマンティガ、ウルトラマンダイナ、ウルトラマンガイアを見ました。妻もウルトラセブンを見ていたので、その話で盛り上がり、森次晃嗣さんが鵠沼で営まれている洋食店「ジョリーシャポー」に行く事にしました。2024年5月4日、妻と一緒にJR品川駅から東海道本線でJR藤沢駅に行き、小田急江ノ島線に乗り換えて「本鵠沼(ほんくげぬま)駅」で下車し、歩いて「ジョリーシャポー」を訪問しました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ JR藤沢駅のホームのNewDays。オレンジと深緑色の湘南色をした国鉄80系車両のキオスク建物。↓ 小田急藤沢駅。↓ 小田急「本鵠沼(ほんくげぬま)駅」で下車。↓ 本鵠沼駅から洋食屋「ジョリーシャポー」まで歩いて行った。↓ 小田急3000形クハ3553。↓ 小田急ロマンスカー30000形 EXEα(エクセアルファ)。↓ 小田急「本鵠沼駅」。↓ ウルトラセブンの駐車場看板。↓ ウルトラセブンで主役のモロボシ・ダン役を熱演された森次晃嗣(もりつぐこうじ)さんが、鵠沼で営業されている洋食店「ジョリーシャポー」。
2024.05.12
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2024年4月7日、妻と一緒に東京ミッドタウン日比谷に行きました。ゴジラ像と桜、そして「ヒビヤ・ブラッサム2024」のフラワーを見たので写真を残します。ーーーーーーーーーーーーー2024年4月7日 東京ミッドタウン日比谷の広場。↓ゴジラ像と桜。↓「ヒビヤ・ブラッサム2024」のフラワー。
2024.04.18
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2023年11月9日、妻と一緒に「ゴジラー1.0」を映画館で見ました。元々、妻にゴジラを見に行こうと誘っていたのですが、「興味が無い」と言うので、一人で見に行く予定でした。しかし、テレビで「ゴジラー1.0」の紹介を見ると、面白そうと思ったようで、一緒に行くことになりました。私の感想ですが、とても良かったです。昭和感満載で、なんとなく懐かしさもありました。これ以上は書きませんので、皆さんも是非、映画館で見てください。ーーーーーーーーーーーー「ゴジラー1.0」ーーーーーーーーーーーーーー↓ 映画館で購入した「ゴジラー1.0」のパンフレット。
2023.12.01
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2023年9月15日に山口県の田舎に帰省しました。母親が古いアルバム類を断捨離して、クリアファイルに写真をまとめてくれていました。私が幼稚園児の頃、家の庭で怪獣人形を並べた写真が残っていました。昭和46(1971年)9月12日と日付が書いてあります。弟が生まれて5カ月の頃です。ブルマアクなど、怪獣人形を買ってもらい、集めていました。小学生低学年の時期まで集めていたので、段ボール箱が3箱になっていました。両親が広島から山口県の田舎へ引っ越す時、怪獣人形を全て、子供が多い隣の家にプレゼントしました。私は当時、海外赴任をしていたのですが、もし日本におれば、手放さないでほしいと言っていたと思います。両親はその後、テレビ番組「お宝探偵団」で古い怪獣人形の価値を知り、ショックを受け、手放したことを後悔したそうです。ーーーーー↓ 昭和46(1971年)9月12日。家の庭で、私と怪獣人形。↓ 生後五か月の弟と一緒に。ーーーーーーーーーーーー↓ 家の庭で。近所の友達兄妹が遊びに来た。カラー写真になっている。私は右端。弟は左端。
2023.11.09
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2023年9月15日から18日まで、山口県の両親の家に帰省していました。母親が古いものを捨てて断捨離をしており、私や弟の小さい頃の写真を貼った分厚いアルバムから写真や台紙を取り出し、薄いクリアファイルにまとめてくれていました。懐かしかったので、一部を写真に撮りました。【ゴジラのポスター】昭和46(1971)年3月とあります。私が幼稚園児の時の写真です。家の壁にはゴジラポスターが飾ってあり、大喜びの私です。この頃は、ゴジラ、ガメラ、ウルトラシリーズに夢中でした。小さい頃に興味があった事は、この歳になっても興味があります。↓ ゴジラ、キングギドラ、ラドンの写真を持って。ーーーーーーーーーーーー「怪獣怪人大全集1 ゴジラ/ケイブンシャ」を親に買ってもらい、繰り返して読んだ。↑「怪獣怪人大全集1 ゴジラ/ケイブンシャ」。ゴジラ、キングギドラ、ガイガン、アンギラス。↑ ゴジラ。↑ ゴジラ、ミニラ、カマキラス、クモンガ。↑ ゴジラとモスラの卵。↑ ゴジラ。↑ ゴジラとヘドラ。
2023.11.08
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2023年7月15日に、スタジオジブリ宮崎駿監督の新作映画「君はどう生きるか」を映画館で見ました。映画館では他の映画の予告映像が流れ、その中に山崎貴(やまざきたかし)監督が制作中の「ゴジラー1.0(マイナスワン)」がありました。2023年11月3日封切りということで、とても楽しみです。2023年7月15日(土)朝日新聞朝刊 be に、映画監督・山崎貴(やまざきたかし)さんの紹介記事があったので、一部を紹介します。(文:斉藤勝寿、写真:外山俊樹)まさに「未知との遭遇」だった。1978年春、13歳の時にスピルバーグ監督の映画「未知との遭遇」に登場した宇宙船に感動。「本当に宇宙人に会った気分になって、家に帰ってきて母親に何時間も映画の話をしたそうです」。特撮の仕事を志す原点だ。中3の夏には、友人たちと8㍉フィルムでSF映画を撮影。ベニヤ板などで約2メートルの宇宙船をつくり、夜空を宇宙に見立てて撮影した。秋の文化祭で上映するや学校中の評判になり、上映会場に長蛇の列がつくられた。「自分の映画が観客にどれぐらい受けたか、興行成績を気にするのは、その時の快感が忘れられないからでしょうね。長野県松本市出身。高校卒業後は都内の美術専門学校で映像制作などを学んだ。転機は制作会社「白組」でアルバイトをしたことだった。島村達雄社長(現会長)に認められて入社。新人ながら、実写とCGなどを合成させるVFX(視覚効果)部門を任せられることになった。「何か面白いことをやる目をしていた」と島村会長。白組がVFXなどを担当した制作現場で、10年以上腕を磨くうちに映画監督デビューの機会がやってきた。提出した企画が映像制作会社「ロボット」社長(当時)でプロデューサーの阿部秀司さんの目にとまり、監督に抜擢されたのだ。~5年後、「ALWAYS 三丁目の夕日」を映画化。昭和30年代の東京を再現したVFX技術と家族の情愛を描いた演出力が高く評価され、大ヒットとともに賞レースも制した。~そして、満を持して「ゴジラ」に挑戦。11月3日公開の「ゴジラー1.0(マイナスワン)」にはどんなゴジラが出現するのか?「めちゃくちゃ怖いゴジラです。観客が約70年前に初めてゴジラを見た時と同じ衝撃を味わってほしい」↓ 2023年7月15日(土)朝日新聞朝刊 be映画監督 山崎貴(やまざきたかし)さん (59歳)↓ 最新作「ゴジラー1.0(マイナスワン)」は戦後すぐが舞台。全てを失いゼロになった日本に、ゴジラが襲来。マイナスに叩き落すといった物語だ=東京都世田谷区の東宝スタジオ。↓ 山崎貴監督とゴジラ。↓ ゴジラ。ーーーーーーーーーーーーーーー「ゴジラー1.0(マイナスワン」の予告映像。
2023.07.16
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映画「シン・仮面ライダー」を見た後、本屋で関連本を買いました。「仮面」に魅せられた男たち/牧村康正/協力・山田哲久/講談社です。1971年に放送開始した「仮面ライダー」ですが、制作のため神奈川県川崎市にあったスタジオを借りました。それが東映生田スタジオです。所長は内田有作さんで、このスタジオは吹き溜まりの梁山泊のようだったようです。人も時間も金も無い中、工夫を凝らし、「仮面ライダー」が作られました。この本には、当時の状況や内情が大変詳しく書かれています。所長・内田有作さんの、清濁併せ呑む豪快な人間性、反骨精神に驚きました。仮面ライダー自体も面白いのですが、はやりこのような当時の現場がどのようだったのかに興味が湧き、読んで満足でした。本の終わりに「主な参考文献」が記載されており、とても参考になります。興味がある方は、ぜひ読んでみてください。よみうりランド近くにあった東映生田スタジオは、今はありませんが、いつか跡地を見に行きたいです。ーーーーーーーー↓「仮面」に魅せられた男たち/牧村康正/協力・山田哲久/講談社。↓『シン・仮面ライダー』に受け継がれた魂と夢とは!?正史では語られてこなかった仮面ライダー誕生の聖地「50年目の真実」-。衝撃の千葉真一ビンタ事件/なぜ改造人間は消えたのか/ロケ隊驚愕の「アイドル御一行様」騒動/車椅子の子供が仮面ライダーショーを見て歩けるように/実演ショーの地方興行でヤクザと対決、決闘の連続/低予算ゆえに発案された「ライダーキック」/放送開始前日、藤岡弘の大怪我、一夜漬けのシナリオから生まれた「変身ポーズ」、そしてまたたく間に変身ブームが日本中を席巻していく・・・・。↑ ライダーのマスクは怒りと哀しみのモチーフ。「あんなにスピーディーでかっこいいものはなかった。おカネがないことを逆手に取って」「(東映生田スタジオの)魂は引き継ぎたいと思っています」ー庵野秀明氏。↓p68~69「東映生田スタジオ内部」 (今は無い)↓ p330~332 主な参考文献。(参考文献ページはとても重要)ーーーーーーーーーーーーーー手元にある本↓ ウルトラマン対仮面ライダー/池田憲章・高橋信之/文春文庫PLUS/文藝春秋 ↓ 泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年/平山亨/講談社」↓ 仮面ライダー画報 仮面の戦士三十年の歩み/竹書房↓ 甦る石ノ森ヒーローファイル/Gakken ↓ 「シン・仮面ライダー」/東映 映画館で購入、1,200円。↓ 昭和40年男 2022年4月号増刊 俺たちが愛した昭和ヒーロー/クレタパブリッシング巻末スペシャル 永久保存版 仮面ライダーカード全552枚 原寸一挙掲載。↓ 昭和40年男 2019年1月号増刊/クレタパブリッシング俺たちを育てたモノ大全仮面ライダーカード552枚一挙掲載。
2023.03.28
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1971年に4月からテレビ放送された「仮面ライダー」ですが、毎週見ていました。当時は幼稚園児でしたが、親に連れられて映画館で「東映まんがまつり」と「仮面ライダー対ショッカー」を見ました。仮面ライダーの主題歌が流れると、映画館の全員が大合唱でした。「仮面ライダー対ショッカー」の時は、今までテレビで見て来た怪人が、崖の上にずらりと並んで姿を現します。それぞれアップになると、皆が大声で怪人の名前を叫びました。異常な盛り上がりでした。大げさに言うと、映画館が揺れるような感じでした。あの楽しさは、忘れることができません。いまだに、当時の雰囲気を思い出すことが出来ます。「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~/平山亨/講談社」P135~137で、『仮面ライダー』劇場版(昭和46年7月、47年3月 劇場公開)について詳しく記載があります。怪人大集合の裏側がよく分かり、大変面白いです。私はこのような本を読むのが大好きです。当時の状況や雰囲気がとても良く分かります。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(P135~157)「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~/平山亨/講談社」 『仮面ライダー』劇場版(昭和46年7月、47年3月 劇場公開)映画部の営業から話が来た。テレビの高視聴率を受け、試しに「東映まんがまつり」で、どれか1話を引き伸ばしてかけようと。昭和46年(1971年)7月公開のものは、第13話を劇場用に大きく伸ばしただけ。それでもアンケートは1番で、評判が良かった。それなら新作をと撮ったのが、新怪人ザンジオーが出てくる昭和47年(1972年)3月公開の『仮面ライダー対ショッカー』。~ テレビは1本、400万くらい。特別予算を組んで2000万出すというので喜んだ。でも、映画とすれば安い。それなら、テレビの手法で考えようと作った。私は、もともと映画屋だから、オールスター映画の感じで、怪人を沢山出そうと言い出した。ウワーっていう、テレビで見られないことをやらないと、映画館へ1000円払ってくる価値はない。以前、生田スタジオで、ぬいぐるみ倉庫の前を通った時に、ぬいぐるみが沢山あるなあと思った。1年やれば52体だから。私は、それを思い出して、そういう発想が出た。あのぬいぐるみを使おう。「ぬいぐるみ、何体残ってんだ」「全部で50体くらいあるよ」「使えるか」「使える」「じゃあ、これ、全部出そう。再生軍団だ」。既にあった怪人を全部出せたからでした。新しく作ったら大変。いろいろな意味でお金かかる。中に入る人のギャラ、運ぶバス代、弁当代。脚本は伊上勝さん。いいよと、やってくれた。あれは凄かった。死神博士と2人のライダーが対峙し、崖の上に、怪人が次々と登場し、名乗りをあげる。これぞ映画だという感じがする。劇場の騒ぎは凄かった。みんな一度見ているから、出てくると、自分が一番先に言いたい。夢中で、座席の上に立ち上がり「あれはアリガバリだ」とか、怪人の名前をひとり一人叫ぶ。場内総立ち。実は、山田稔監督は嫌がった。「そんなに尺、持たないよ。子供がだれちゃって、運動会はじまったらどうすんだ」。監督は、延々と見せる長いショットは嫌なんだ。私は、やれば子供が喜ぶと判っていた。子供は怪人好き。一度死んだ怪人でも、出てくれば喜ぶ。もともと、私が子供だから、そういうことが判る。理屈じゃない。怪人を見たら騒ぎたくなる。子供はそういうもの。私自身も見たいから、「いや、山田さん。他のことならいや知らず、怪人が出てきて、運動会やる子なんていないよ。絶対、子供が喜ぶんだから、やってよ」と、山田監督を説得した。山田監督は「感激した。あんなに喜ぶとは思わなかった。あれ、もっと長くしても良かったな」と言う。確かに忙しい。一体ずつ、ナントカ、ナントカと名乗る。尺数から言うと、名乗るのに時間が足りない。だから、声優さんたちも忙しかった。あの倍くらいあっても良かったと山田監督も言っていた。子供が怪人の名前を叫ぶ間がもっとあっても良かった。『仮面ライダー』の劇場版は何本もあったが、あれが一番子供たちの印象に残った映画だったと思う。出口アンケートでも、一番は『仮面ライダー』ということが、当分続いた。ーーーーーーーーーーーーーーーー「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~/平山亨/講談社」
2023.03.27
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石ノ森章太郎さんがテレビ番組「仮面ライダー 第84話『危うしライダー! イソギンジャガーの地獄罠』で監督をされました。「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~/平山亨/講談社」のP133~135で、「原作者自ら監督」として、経緯が記載されています。とても興味深く、紹介します。ーーーーーーーーーーーーーーー(P133~135) 原作者自ら監督『仮面ライダー』は藤岡くんが半年近いリハビリの末に現場復帰を果たし、佐々木くんの2号ライダーと交代する形で再び主役の座に戻ったが、一度火のついた人気は下がることなく20パーセント台後半を維持していた。その中で特筆すべきは第84話の「危うしライダー! イソギンジャガーの地獄罠」で、原作者の石森先生が自らメガホンを取って監督を務めたことだ。実は前々から監督をしたいという話は聞いていたが、畑違いの分野で石森章太郎の名前に傷をつけるわけにもいかず、のらりくらりかわして返事を遅らせていた。第一、毎月300ページの連載を抱える人気漫画家だけに撮影で1週間かかるテレビドラマの監督などする時間の余裕はない。現に石森プロの加藤昇マネージャーは絶対ダメと反対していた。ところが、先生は自分の手で『仮面ライダー』を撮ることを諦め切れなかったらしく、何かの折に顔を合わせた東映の(渡辺)亮徳さんに直接訴えたんだ。亮徳さんが了解したものを我々が断るわけにもいかないし、助監督の長石多可男くんを補佐役につけて数カットだけでも撮ってもらうことにした。たとえ一部でも撮影中の宣伝写真があれば、立派に監督作品として通用するからね。ところが、本人は最初からお客さん扱いされるつもりはなく、ロケハンや台本の手直しに始まって、カット割りの絵コンテまで描いたりして獅子奮迅の活躍。30分番組を1本まるまる監督した上に、怪人に出会う釣り人約で台詞付きの出演までこなしている。出来もそこらのヘナチョコ監督に比べてもまったく見劣りしないし、さすが一芸に通じる人は違うってスタッフ全員が感心したよ。ただ、石森先生はスタジオゼロや東映動画に関わってアニメ制作の経験はあったわけで、実写の演出とはちょっと違うけどイメージを形にするという部分では同じだからね。第84話は千葉県の勝浦市にあった行川アイランドでロケを行い、先生も施設内のホテルに泊まり込んで、撮影が終わると部屋の中で一人漫画の原稿と格闘していた。勝浦の海岸は何回も撮影で使ったけど、先生が監督を務めたときは波がすごく良い具合で迫力があった。「こんな波は滅多に撮れるもんじゃありません」と言ったら、運も実力の内かなと言って喜んでいたよ。でも、あまり褒めると加藤マネージャーが怒るんだ。先生がもう1本撮りたいと欲を出して、実写映画の制作にのめり込んだら石森プロが潰れてしまうと言うんだ。実際、監督のギャラなんて漫画の印税に比べたら格安だしね。それでも『仮面ライダー』で経験した監督の醍醐味が忘れられなかったのか、その後も石森先生は『イナズマン』の第11話でメガホンを取っているし、昭和55年(1980年)公開の劇場映画『仮面ライダー 8人ライダーVS銀河王』でも総監督を務めている。ーーーーーーーーーー「仮面ライダー画報 仮面の戦士三十年の歩み/竹書房」(P49)第84話の「危うしライダー! イソギンジャガーの地獄罠」石ノ森章太郎先生が監督した「仮面ライダー」 第84話。↓ 泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~/平山亨/講談社」ーーーーーーーーーーーーー昭和40年男 総集編 俺たちが愛した昭和ヒーロー 永久保存版 巻末スペシャル 仮面ライダーカード全552枚 原寸一挙掲載/クレタパブリッシング/2022年2月16日発売。↓ 仮面ライダーカード 「イソギンジャガー」↓ ラッキーカード。(仮面ライダーカードアルバムがもらえる)↓ カルビー仮面ライダースナック。[
2023.03.26
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仮面ライダーの敵として、ショッカーの戦闘員が「イー!」と叫びながら出てきます。なぜ「イー!」と言うのか、そのきっかけが「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~/平山亨/講談社」P129に記されていますので、ご紹介します。「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~/平山亨/講談社」(P129)大野剣友会の演じる戦闘員の「イー!」も台本にはなかった。怪人と違って戦闘員は何度も出てくるし、その存在を印象づける声は大事ということは判っていた。もっと独創的なものがないかと考えているうちに、アフレコの録音当日になって、あの「イー!」が出てくるまで1時間以上掛かったんじゃないかな。監督やプロデューサーはブースの中からダメ出しするばかりで、何十回やってもОKが出ない。そのうち大野剣友会の若手が腹立ち紛れに、「いい加減にしろ」とか「もう何でもいいや」とかのつもりか、「イー!」と叫んだんだ。下っ端でいいように使われていたから不満もあったんだろうな。偶然というか怪我の功名というか、それを聞いた録音技師の太田克己さんが顔を輝かし、懸案だった戦闘員の声が決定した。「イー!」は頭で考えたものじゃなくて、もっと感覚的な心の叫びだから、みんなの胸に響いた。戦闘員のマスクは折田至監督の発明なんだよ。初期の戦闘員は顔にペイントしてたけど、それじゃ一度やられた奴が何度も出てくることになって不自然。戦闘員は大野剣友会の20~30人しかいないわけで、いくら顔に絵具塗っても髪型とか顔の形で同じ人間と判っちゃう。それで折田監督がプロレス用のマスクを被るアイデアを出したんだ。黒戦闘員に混じって赤いコスチュームの戦闘員は小隊長のつもりだったけど、番組の中では今ひとつ判りにくかったかもしれないね。ーーーーーーー↓ 仮面ライダー画報 仮面の戦士三十年の歩み/竹書房 P30ショッカーの戦闘員の紹介ページ。【戦闘員 1~13話】各怪人ごとにチームが組まれ、メイクや衣装が微妙に異なる。赤戦闘員と黒戦闘員から構成され、赤戦闘員がリーダーをつとめた。戦闘力は人間の3倍。【戦闘員 14~52話】ゾル大佐に仕えた戦闘員は額に各怪人のマークが入る。死神博士の下で働く戦闘員は黒戦闘員のみとなり、赤戦闘員はいなくなってしまった。【戦闘員 53~79話】主に地獄大使の配下として活動した戦闘員。ボディに骨をあしらったデザインが施された。ショッカー崩壊時には、大量の戦闘員が処刑された。
2023.03.25
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「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~/平山亨/講談社」P122~128には、東映の平山亨プロデューサーが「仮面ライダー」を低予算で制作するため、大変苦労されたことが書いてあります。当時で1本400万円の予算だったそうです。読むと、当時の雰囲気や熱気が伝わってくるようです。ーーーーーーーーー「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~/平山亨/講談社」(P122)毎日放送の庄野至部長は我々の前で「いくらお金が掛かってもいいから最高の企画を出してほしい」と言い切り、私(東映の平山亨氏)の上司、(東映の渡辺)亮徳さんは仮面のヒーローもので行くことを決めた。正直言って私にはピンとこなかった。その頃はスポ根のアニメやドラマが花盛りの時代で、円谷プロのウルトラマンでさえ一時的に制作を中断していた。今更、月光仮面でもあるまいしと思ったが、どこもやらないからやるというのが亮徳さんの考えであり起死回生の秘策だった。(P124)最初は金に糸目はつけないという話だったのに、「庄野が何と言ったか知りませんが、この枠は赤字がひどいんです」といって毎日放送の経理部長が提示したのは1本400万円くらい。円谷プロの制作する『ウルトラマン』の半分以下で、白黒時代の『悪魔くん』とそんなに違わない額だ。それじゃ話が違うと抗議しても、亮徳さんの政治判断で「やってやれよ」。亮徳さんは一旦腹を括っちゃうと、何があっても決定を覆すことはない。あとは現場が苦労しながら何とかやりくりするしかなかった。(P126)『仮面ライダー』の正式な製作決定は遅れに遅れて2月に入ってからだった。昭和46年(1971年)4月3日のオンエアまで2ヵ月ない綱渡り状態で、生田スタジオの内田有作所長がライダーや怪人の被り物をフライングで発注してくれたから間に合ったようなもの。内田所長は企画が流れたら自腹で払うからとエキスプロの担当者を説得したらしい。番組のタイトルも1月半ばの会議まで決まらず、広告が入る予定の少年マガジンは印刷の輪転機を止めて待っていた。講談社にしたら刷り直しは大損害だし、編集長の責任問題にもなりかねないんで、さすがに呼びつけられて怒られたよ。そんな苦労の末に放送した第1回の視聴率が8.1パーセントとわかり、毎日放送の庄野さんはちょっと肩を落としていた。前の魔女ドラマよりはいいが、大成功というほどの数字ではない。ところが、視聴率は回を増すごとにグングン上がり、30パーセント超こそ1回しかなかったが、約2年の放送期間で平均21.2パーセントを記録した。裏番組の『お笑い頭の体操』に肉薄する数字で、特に後半は逆転することも多くなり、惨敗続きだった土曜の夜7時半に奇跡がおこったといっていい。視聴率獲得にもっとも貢献したのは変身シーンだけど、そのときにライダーのベルトがピカピカ光シーンがある。当時は幼稚園児が描いたのかと言われて不評だったピカピカは、特撮研究所の矢島信男さんにお願いする予算がないから、スタッフが自分たちの手でフィルムに描き込んだんだよ。稚拙には違いないが、逆にある種の力感が生じたのも確か。同じようにライダーキックも苦し紛れの末に誕生した必殺技だった。生田スタジオを預かる内田所長にとって予算不足は常に悩みのタネ。円谷プロみたいに光線技なんかバンバン使われたら、お金も掛かるし制作の時間も足りない。そんなときライダーはバッタの改造人間という事実に気づいた内田所長は、昆虫特有の跳躍力を生かして空中から蹴ったらどうかと閃いたんだ。(P127~128)もちろん『仮面ライダー』が成功した一番の要因は、素晴らしい役者さんやスタッフに恵まれたことに尽きる。共同プロデューサーの阿部征司くんは実家が映画館を経営し、本人も早稲田大学のシナリオ研究会で鳴らした硬派の論客だった。阿部くんは東映の東京撮影所からテレビ部に移ってきて、最初にセクシー路線の『プレイガール』を担当したが、途中交代した。それで私の下に付くことになったとき、喫茶店のテーブルに『仮面ライダー』の企画書をバーンと置いて、「これを読んでも何のことか全然判りません。どうして人間とバッタが一緒になるのか説明して下さい」と言ってきた。阿部くんにしたらお色気アクションも嫌だが、子供向けドラマも関わりたくない番組だったに違いない。ただ、私には別の考えがあって阿部くん一人を論破できないようでは、テレビ局やスポンサーのお偉方はもちろん、肝心の視聴者を納得させることはできないという思いがあった。とにかく必死に理屈を考えて2時間喋りまくった。本音でいえば人間がバッタに変身するなんてあり得ないし、その辺はシナリオが作り上げた嘘なんだけど、誤魔化しといわれても自分なりの解釈で押すしか方法がなかった。阿部くんは全身に汗をかきながら改造とかバッタの能力とか真剣に語る私がおかしかったのか、最後は口元に笑みを浮かべ、「判りました。一緒にやらせてもらいます」と言ったんだ。人間は一生の中で運命の分岐点みたいなときが何度かある。結局、阿部くんは昭和56年(1981年)のシリーズ第7作『仮面ライダースーパー1』まで、約10年にわたって苦楽を共にする相棒となった。他にも『ザ・カゲスター』や『5年3組魔法組』などでタッグを組んでいる。ーーーーーーーーーーーー↓ 石ノ森章太郎さんが平山亨さんに描いた色紙。「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~/平山亨/講談社」
2023.03.24
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「ウルトラマン対仮面ライダー/池田憲章・高橋信之/文春PLUS/文藝春秋」のP329~333には、「八方破れの突撃スタイル 『仮面ライダー』制作夜話」という記事があり、どのような背景で「仮面ライダー」が制作されたのかが分かり、とても面白いです。1970年代の労働争議が影響していたり、よみうりランドの近くに急遽借りた生田スタジオや、採掘場で「仮面ライダー」が撮影されたことなど、読むと当時の熱気が伝わってくるような気がしました。ーーーーーーーーーーーーーー「ウルトラマン対仮面ライダー/池田憲章・高橋信之/文春PLUS/文藝春秋」(P329~333)『仮面ライダー』が企画されていた1970年後半、東映の東京撮影所は、労働組合の争議が過熱化し、スタッフ編成も組めず、毎日放送用の新しい企画を撮影所で制作するのは無理と思われた、担当プロデューサーに企画を練りあげさせながら、東映の渡辺亮徳専務は、『柔道一直線』を撮影中だった折田至監督を呼び、内田有作担当と一緒に新企画を撮影できる貸しスタジオを見つけ出すよう指令を出した。『仮面ライダー』は何と撮影所探しから始まったのだ。折田監督はこう語る。「組合にわかると問題になるので、秘密で毎日、内田有作さんとスタジオ探しに自動車で出かけた。近くだとバレるので、多摩川沿いを探しました。テレビ用やCM用の独立スタジオが結構あったんです。スタジオ風の建物を見つけると行って、そこが倉庫だったり、仕事が入っていたり・・・だんだん川崎市へ近づいて行って、よみうりランドの側まで来て、ユニオン映画の小さいスタジオを丘の中腹に見つけた。聞くと借りられるとのことで、その生田スタジオが『仮面ライダー』のスタジオになりました。スタッフも撮影所をあてにできないため、大映テレビのロケ撮影を主力にやっていた予備のスタッフ、ロマンポルノに転じた日活をやめてきた技術スタッフ、大映のガメラなどの特撮物を手がけていた特撮美術のエキスプロ、『柔道一直線』のアクションや殺陣を担当していた大野剣友会と、『仮面ライダー』のために一からスタッフ編成も進んでいった。主人公がオートバイに乗るという話に、スタッフから、二輪は撮影が危ないので四輪にならないかという意見もでた。ライダーのバイクシーンは凝りに凝って、ジャンプさせたり、ショッカーとのバイクアクションなど今までのヒーロー物にない撮影をおこなった。またサイクロンの撮影は、ジャンプする度にカウルや排気管が壊れてしまう。あわてて修理に出して、また撮影で故障の連続だった」と阿部征司プロデューサーは回想する。第一話は『キイハンター』の竹本弘一監督が手がけ、小河内ダムでロケ撮影を行い、まったく新しいアクション物を作ろうという意味で、大幅にカット数が増え、編集がコマとばしで調整するという一幕もあった(一話は375カットもあった。一時間物が200カットの時代にである)オープニングと、仮面ライダーがバイクに乗り変身するバンクシーンは、折田至監督が演出。排気管から火花を噴射したり、東京撮影所にあった回転バックを生田スタジオに持ち込んでその前で変身シーンを撮影、べニヤを切りぬいてバイクの変身シーンにスーッとフレームインしてきたり、オプチカル合成を極力排して、初の変身シーンを撮影した。テレビシリーズのため、予算には限界がある。折田監督は語る。「生田スタジオの所長になった内田有作さんから、ロケーション撮影もスタジオから30分で行ける場所、半径5キロメートルの縁を地図の上に書いて、その中で撮影するようにといわれました。特例は海が出てくるシーンと富士山をバックにしたときだけ。それでロケハンしてみると、近くに三栄土木という埋立地用に土を採掘している工事地区があって、工事の邪魔をしなければОKということ、そこがおなじみの赤土とガレ場のライダーと怪人の決戦場になった。広いところで、一か所で工事してても、あとはガラアキ。そういう場所だったので、後では火薬も思い切って使えたんです」火薬には、折田至監督もいろいろな思い出があるという。「最初、生田スタジオには火薬のスタッフがいなくて、怪人がやられると、グジュグジュと溶けたり、絵具をバシャッとかけたり、スタッフがおそまつと呼んでいた小さな火薬があったくらい。「もりあがらんなあ」といってたら、山田稔監督が大泉の東京撮影所からこっそり自分で火薬を持ってきて、やりだした。山田さんはベテランだからね。それがだんだんエスカレートしていって、一度山火事になりそうになって、東京撮影所から太平特殊効果の火薬スタッフに正式に来てもらうようになった。~「まだ矢島信夫氏の特撮研究所がなかったので、煙突の上に仮面ライダーが現れるシーンは、写真をはって写したり、変身シーンは写真を加工してアニメで作ったり、空をサイクロンや怪人が飛ぶのも本編スタッフで撮影して何とかごまかしていた。特撮は残念だが貧弱だった(笑)」本郷猛役の藤岡弘氏がオートバイシーンを撮影中、電柱のワイヤーに足を引っかけ左足大腿部を複雑骨折、第10話の撮影で主役俳優が3カ月から半年の入院という事態が起きた。放送開始数日前のことで、第11~13話は何とか仮面ライダーのほうを中心に作られたが、第14話以降をどうするか、東映と毎日放送は連日会議を重ねることになる。平山亨プロデューサーは語る。「せっかく主役をつかんだ藤岡がかわいそうで、何とか降ろさずに作れる方法はないかと考えた」~ 会議になると、脚本側から「本郷を殺した方が話は書きやすい」と何度も提案されたが、「主人公がわずか13話で死ぬなどとんでもない。子供たちのオールマイティーの夢をつぶしてしまう」と東映側は反論した。意見は出そろい、本郷猛はヨーロッパの陰謀を追って旅立ち、第二の仮面ライダー・一文字隼人の登場というプランが煮詰められた。ついでに第13話までに出ていた問題点、仮面ライダーの色を明るくし、造形も力強くしよう。仮面ライダーと風圧の関係、自分の意思で変身するポーズをつけよう。佐々木剛氏の一文字隼人は本郷より明るいユーモラスな面を出すなど作品の面目が一新することとなる。「おかげで藤岡復帰とともにダブルライダーを作ることができた。第14話の変更プランは、いずれやろうと思っていた設定です。14話で思い切って新シリーズにして、災い転じてシリーズの強化につたがったのは幸運だった」と平山プロデューサーは回想する。ーーーーーーーーーーーーP229 (上記の撮影場所:三栄土木・採掘場の追加情報)『仮面ライダー』におけるその代表地は、三栄土木(東京都稲城市)と呼ばれる場所であるが、実際には造成地ではなく東京湾埋め立てのための土を削る場所だったらしい。現在、京王相模線・稲城駅周辺の新興住宅地。なお、この赤土を背景とした戦いは2号編に顕著であり、新1号編に入ってからは、雑草が生えてきているため違う場所にも見える・・・・。ーーーーーーーーーーーー2023年3月18日朝、映画館で「シン・仮面ライダー」を見ました。冒頭でバイクに乗った主人公(本郷猛、緑川ルリ子)が、2台のダンプカーに追いかけられるシーンがあります。ダンプカーには「三栄土木」という文字が見えました。1971年からスタートした『仮面ライダー』の撮影で、三栄土木の採掘場が使われたので、シン・仮面ライダーでも、オマージュとして「三栄土木」が使われたのではないかと思います。ーーーーーーーーーーーー↓「ウルトラマン対仮面ライダー/池田憲章・高橋信之/文春PLUS/文藝春秋」
2023.03.23
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「ウルトラマン対仮面ライダー/池田憲章・高橋信之/文春文庫PLUS/文藝春秋」に、とても興味ある記事があります。P62「遥かなる満州の荒野こそ 仮面ライダー発症の地!?」で、オートバイを乗りまわす仮面ライダーの存在は、毎日放送編成局長(当時)廣瀬隆一氏の、強い思い入れが関係していることが紹介されています。ーーーーーーーーーーP63 「遥かなる満州の荒野こそ 仮面ライダー発症の地!?」仮面ライダーが、それまでのオートバイを駆る等身大ヒーローと一線を画しているのは、一つに、まったく新しくデザインされたオートバイに乗っていた、という点がある。~ さらには、仮面ライダーこそ、ジャンプスーツを着てオートバイに乗った本邦初のヒーローである点。~ こうした新しいオートバイヒーロー誕生の背景には、毎日放送編成局長(当時)廣瀬隆一氏の、強い思い入れが存在した。戦時中、伝令兵として満州(現・中国東北部)の大地を「陸王」(国産オートバイ)を駆ってすごしたという経歴の持ち主である廣瀬氏こそ、スピード感の必要な70年代のヒーローは普通のオートバイではなくモトクロス用のオートバイに乗せよう(アクションをさせよう)と、かつてないイメージのオートバイヒーローを誕生せしめた、陰の功労者なのである。バイクなんてほとんど走っていなかった時代、異形の仮面のライダーという強烈はインパクトを持つヒーローの出現に、(ボクも含め)子供達が少なからず衝撃を受けなかったはずはない。あの疾走感が、満州の荒野から運ばれていたのか・・・・などと考えてみるのも楽しいのではないだろうか?P81仮面ライダーこそオートバイに乗って荒野を駆け抜けた、本邦初のヒーローなのだ。それは、月光仮面らのスクーターでは不可能ともいえたわけで、中型のオートバイにこだわった廣瀬氏の思い入れは、まさに時代とシンクロして、あらゆる場所にかけつけるヒーローとしての『仮面ライダー』を作り出したのである。P195 ついでに仮面ライダーの愛車『サイクロン号』のネーミングについてもふれておくと、これはちょうど番組の企画を進めていたころ、「インド洋にサイクロン(暴風雨)が発生し・・・」とニュースでやっていたため、「語感がかっこいい」とすんなり決まったという。仮面ライダーは風がエネルギーなわけで、意味の上からもこのネーミングはハマっていた。P238~239さて、単にサイクロンといっても、劇中にはかなりの車種が登場しており、初期の旧1号期においてもフルカウリングタイプ(ホンダCB400がベース)と同時にカウルなしのアクション用(ホンダCB350DTがベース)が併用されている。~ 続く2号期になって、先のCD350DTに簡易改造を施して登場するのが、いわゆる改造サイクロンと呼ばれる車体。後に2代目がつくられ、こちらはスズキハスラーTS250Ⅲがベースになっている。そして、満を持して登場するのが、新サイクロン!(ベース車はスズキハスラーTS250Ⅲ)ジャンプ時にカウル横から出る翼を使い、停車時には後部からパラシュートを打ち出すなどのアイデアも素晴らしく、この新サイクロン(昆虫的アレンジを加えシャープさを増したデザインが機能的で、さらに新幹線に近づいた印象もある)によって、ライダーのヒーローイメージはますます高まることになる。ーーーーーーーーーーーー↓ 仮面ライダーとオートバイ(サイクロン号)。ーーーーーーーーーーーー↓ 「ウルトラマン対仮面ライダー/池田憲章・高橋信之/文春文庫PLUS/文藝春秋」ーーーーーーーーーーーーーーー
2023.03.22
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1971年4月から、TVで「仮面ライダー」が放送されました。色々な本を読むと、仮面ライダーの企画から番組になるまで、紆余曲折があった事が分かり、とても面白いです。企画も「マスクマンK」→「仮面天使 マスクエンジェル」→「クロスファイヤー 十字仮面」→「スカルマン」→「仮面ライダー」と変わりました。 下記本を読むと、経緯が書いてありますので、一部を紹介します。「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~/平山亨/講談社」「ウルトラマン対仮面ライダー/池田憲章・高橋信之/文春文庫PLUS/文藝春秋」「蘇る!石ノ森ヒーローファイル/Gakken」ーーーーーーーーーーー「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~/平山亨/講談社」(P122~123)『仮面ライダー』はタイトルや内容が決定するまで二転三転している。最初に書いた企画の第1稿は「マスクマンK」で、さらに脚本家の伊上勝さんや市川森一さんが参加して「仮面天使 マスクエンジェル」に変わった。原作者で漫画家の石森(後:石ノ森)章太郎先生は講談社のパーティーで紹介されたのが最初の出逢いで、『サイボーグ009』『佐武と市捕物控』など作品のアニメ化はあったが、実写ドラマの原作は初めてだった。石森先生の出したアイデアはフルフェイスヘルメットに赤い十字の「クロスファイヤー」で、それをベースに書き上げた「十字仮面」は毎日放送に出したら好評だった。ところが、テレビ局の承認をもらって具体的は制作に乗り出そうとした矢先に、原作者の石森先生から連絡があり、「クロスファイヤー」は格好良すぎるから主人公を変更したいという。けっきょくいくつかの企画を考えた後、石森先生はヒーローのモチーフを昆虫のバッタに変え、「仮面ライダー ホッパーキング」として毎日放送に再提出。向こうは十字仮面に未練があったようだが、原作者の意向を尊重して漫画版の雑誌掲載を条件にホッパーキングを呑んでくれた。タイトルは短くして『仮面ライダー』とすることに決定した。↓「泣き虫プロデューサーの遺言状~TVヒーローと歩んだ50年~/平山亨/講談社」↓ 仮面ライダーの部分。ーーーーーーーーーーーーーーー「ウルトラマン対仮面ライダー/池田憲章・高橋信之/文春文庫PLUS/文藝春秋」(P26~32)渡辺亮徳専務(東映)は、「もうスポーツ根性物のブームも凋落の傾向にある。今から企画を立てるなら、新しいジャンルのヒーローものを開拓しよう」と考えていた。~ 渡辺氏の命を受け、平山亨プロデューサーは、企画プレーンとして脚本家の伊上勝、上原正三、市川森一の3氏を集め、新しいヒーロー像の創造にチャレンジすることになった。~ 原作の相談にものってくれる漫画家は、『サイボーグ009』で東映とのつきあいもあり、『幻魔大戦』「佐武と市捕物控』と実力派に成長していた石ノ森章太郎氏(当時は石森章太郎)を使おうということになった。1970年、まず作られた企画書が『マスクマンK』であった。主人公・九条剛が父から世界中の格闘技と人類愛を教えられ、日本への経済侵略をたくらむ謎の組織ショッカーと戦うというストーリーで、主人公は体育教師で仮面をつけ、身についた格闘技でショッカーと戦うというスポーツ根性物のムードを持つ作品であった。さらなる飛躍が求められ、次に提出されたのが『仮面天使 マスクエンジェル』という企画書である。主人公は本郷猛と改められ、警察に追われる逃亡者という設定が斬新であった。(このムードは『仮面ライダー』第1~2話に引きつがれた)作品の方向性がかなり見えはじめ、第三の企画書として作られたのが『クロスファイヤー』(決定稿は『十字仮面』)であった。~ この企画は毎日放送側の企画書『十字仮面』、伊上勝氏の手になる検討用シナリオ『クロスファイヤー(仮題)第一話 怪奇蜘蛛男」まで作られた。石ノ森氏のクロスファイヤーのデザイン画も、「かっこいい」と毎日放送側には好評で、このまま企画がGOされるかと思われた。ところが石ノ森氏から「自分のデザインが気に入らないので、作り直したい」との連絡があり、渡辺亮徳専務は現場に、「本人がのってきた証拠だ。まだまだ新しいものが出て来るぞ。クロスファイヤーにこだわらずやってみろ」と指示を出した。石ノ森章太郎氏が新たに出したデザインが『スカルマン』であった。「週刊少年マガジン」に読み切り100ページで書いたことのあるヒーローで、骸骨のような白いヘルメットの頭部、黒い服に白井ストライプが骨を思わせる形で走るスーツデザイン、今までにない強烈なキャラクターであった。平山亨プロデューサーは毎日放送にも『スカルマン』を持ち込むが、営業部が「主人公がガイコツなんてエンギでもない。そんはキャラクターでは、番組にスポンサーがついてくれない」と難色を示し、「黄金バットのようにガイコツでもヒットした作品がある」という平山プロデューサーの意見にも消極的で、この企画書はNGとなってしまった。『スカルマン』が気に入っていた石ノ森章太郎氏は、当然新しいキャラクターを作るのにも熱が入らない。平山亨プロデューサー、加藤昇石森プロマネージャー(当時)は、参考になりそうな動物、昆虫、科学図鑑を20冊並べて、何かヒントになる写真はないかとページをめくりつづけていた。そのとき、バッタの顔を正面から撮った大きな写真が載っているページに目が止まった。見ようによっては、ガイコツに見える写真であった。それを石ノ森氏に見せると、「バッタもこう見ると迫力があるな」とおもしろがり、何枚かのスケッチを仕上げていった。手元にバッタも含めていろいろなタイプの80枚ほどのデザイン画がアップしていった。その中から5枚を選び、壁にピンで止め、石ノ森氏は当時小学生の息子の丈くんを呼んできて、「どれが一番かっこいいか」と選ばせてみると、バッタのキャラクター・マスクを選んだ。まさに”仮面ライダー誕生”の瞬間だった。↓「ウルトラマン対仮面ライダー/池田憲章・高橋信之/文春文庫PLUS/文藝春秋」↓ P28 『クロスファイヤー』のデザイン画。↓P29 『スカルマン』デザイン画。↓ P31 バッタのデザインを採用した『仮面ライダー』デザイン画。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 「蘇る!石ノ森ヒーローファイル/Gakken」↓P23 クロスファイヤー。周囲の高評価に対して、石ノ森は時図からこのデザインにNGを出す。↓P23 仮面ライダーの前段企画であるガイコツモチーフのスカルマン。その意匠は「仮面ライダーW」の仮面ライダースカルへと受け継がれた。P19 決定稿直前のデザイン画。すでに「仮面ライダー」としての意匠は出来上がっている。P19 EPレコードに掲載されたイラストから。くも男にサイクロンで突進する豪快な構図が魅力。
2023.03.21
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1971年4月から、「仮面ライダー」がTVで放送されました。当時の「仮面ライダー」OPと、「シン・仮面ライダー」プロモーション映像を比較します。ーーーーーー1971年4月「仮面ライダー」OP。ーーーーーーーーーーー「シン・仮面ライダー」プロモーション映像。ーーーーーーーーーーー↓ 2023年3月18日、映画館にて「シン・仮面ライダー」を見た。
2023.03.20
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2023年3月18日(土)、映画館で朝8時20分から「シン・仮面ライダー」を見ました。「プラーナ」という言葉がでてきて難しかったのですが、全体的にはとても面白かったです。石ノ森章太郎さんの原作に、庵野秀明さんが脚本、監督をされています。石ノ森さんへのリスペクトと「仮面ライダー」愛に満ち溢れていました。本郷猛(仮面ライダー1号)は池松壮亮さん、緑川ルリ子役は浜辺美波さん、一文字隼人(仮面ライダー2号)は柄本佑さんでした。映画館では、早速「シン・仮面ライダー」のパンフレット本を購入し、入場するときは、「入場者特典・シン・仮面ライダーカード」を頂きました。カードの袋を見ると、小さい頃にカルビー・仮面ライダースナックを買っては、仮面ライダーカードを集めていた事を思い出しました。映画の中で、仮面ライダーがサイクロン号に乘って、山口県にある角島(つのしま)大橋を走る画面がありました。景色の美しさと相まって、本当に仮面ライダーがカッコ良く見えました。ーーーーーーーーーーーーー↓ 2023年3月18日 8時20分から映画館で「シン・仮面ライダー」を見た。↓ 「シン・仮面ライダー」8時20分。とにかく早く見たくて、朝一番を予約した。ーーーーーーーーーー↓ 映画館で購入した「シン・仮面ライダー」のパンフレット本。↓ ネタバレ注意。↓ 袋を外して、中を見た。↓ 山口県の角島大橋を走る、カッコイイ仮面ライダー。↓ 羽田から福岡空港まで飛行機で移動中、窓から角島大橋を撮影した。ーーーーーーーーーーーー↓ 映画館で入場時に頂いた「入場者特典 シン・仮面ライダーカード」
2023.03.19
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2022年5月29日、日比谷のゴジラ像に違和感を感じました。よく見ると、ゴジラ像の頭にハトがとまっていました。
2022.06.03
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2020年11月22日、京王調布駅地下1階の改札口通路で、大映の「ガメラ」、「大魔神」シリーズの壁画パネルが設置されていたのを見ました。大映東京撮影所(現角川大映スタジオ)が調布にあり、ガメラ、大魔神が撮影されたので、そのシルエットが装飾されています。私はガメラ、大魔神が大好きで、小さい頃にテレビで放送されたものを見ていました。当時は親にお願いし、「ケイブンシャ 怪獣怪人大全集1 ゴジラ」と、「ケイブンシャ 怪獣怪人大全集2 ガメラ、大魔神」を買ってもらい、繰り返して読みました。ゴジラ、ガメラ、ウルトラシリーズのビニール人形を集めていましたが、ガメラ、バルゴン、ギャオス、バイラス、ギロン、ジャイガーを持っていました。家でクサガメを飼っていますが、カメが水槽の縁で立ち上がる姿を見ると、ガメラが仁王立ちをしているような気持になります。ガメラのように手足を引っ込めて、ジェット噴射し、空を飛んでほしいと思います。「ガメラ創世記 映画監督・湯浅憲明/唐沢俊一/エンターブレイン/2006年4月26日発行」を読むと、湯浅監督がどのような考えてガメラシリーズ作品を作ったかが良く分かります。東映のゴジラとはまったく違う作品にするために、苦労されたことが書いてあります。特に面白かったのは、P146にあるガメラの主題歌の話で、下記のように記載されています。「オープニングで主題歌が流れるようになったのもこのバイラス(ガメラ対宇宙怪獣バイラス 1968年3月)からですね。永田専務の作詞ですよ。もう、はりきって会議室から出てきてね、みんなに、「オイ、ガメラの歌ができたから、みんな聞け!」と言って、「ガメラ、ガメラ、強いぞガメラ・・・」と朗読するんです。そしたら、専務ですからね、みんな拍手しないわけにはいかないじゃないですか。そしたら、「湯浅くん、みんなが感激して、いいと言っていたから、これを使ってくれ!」って。(笑)。で、広瀬(健次郎)さんに作曲してもらってレコーディングするんですよ。あれ、「大映児童合唱団」って書いてますがウソでね、そんなものないんですよ。そこらの子を集めてきて歌わせたんです(笑)。でも聴いているうちにこれ、覚えちゃうようないいメロディですよね」。ガメラの主題歌は小さい頃に覚えたので、私は今でも歌うことができます。【京王調布駅 ガメラ、大魔神の壁画装飾 全11枚」↑ 「大怪獣ガメラ」 1965年11月公開 大映(現KADOKAWA)。↑ 「大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン」 1966年4月公開 大映(現KADOKAWA)。↑ 「ガメラ対宇宙怪獣バイラス」 1968年3月公開 大映(現KADOKAWA)。↑ 「ガメラ対大悪獣ギロン」 1969年3月公開 大映(現KADOKAWA)。↑ 「ガメラ 大怪獣空中決戦」 1995年3月公開 大映(現KADOKAWA)。ギャオスと戦う平成ガメラシリーズ第1作。 ↑ 「ガメラ 大怪獣空中決戦」 1995年3月公開 大映(現KADOKAWA)。ギャオスと戦う平成ガメラシリーズ第1作。 ↑ 「ガメラ3 邪神覚醒」 1999年3月公開 大映(現KADOKAWA)。イリスと戦う平成ガメラシリーズ第3作。 ↑ 「ガメラ3 邪神覚醒」 1999年3月公開 大映(現KADOKAWA)。イリスと戦う平成ガメラシリーズ第3作。最後は京都で戦う。↑ 「大魔神怒る」 1966年4月公開 大映(現KADOKAWA)。↑ 「大魔神怒る」 1966年8月公開 大映(現KADOKAWA)。↑ 「大魔神逆襲」 1966年12月公開 大映(現KADOKAWA)。ーーーーーーーーーーーーーーー↑ 立ち上がるガメラの姿。↑ 立ちあがる我が家のカメ。ーーーーーーーーーーーーーーーー↑「ガメラ創世記 映画監督・湯浅憲明/唐沢俊一/エンターブレイン/2006年4月26日発行」。湯浅監督がガメラの制作をどのように取り組んできたかが分かる。ーーーーーーーーーーーーーーーーー【京王調布駅】↑ 京王調布駅。↑ 私の頭に雨が降る。でも、わかっているんだ。止まない雨はない。だから私は、走り続ける。その先にはきっと光が差しているから。京王電鉄雨にぬれても。↑ 紅葉に包まれながら、冷たい空気を吸い込んだ。なぜか、胸が熱くなった。すぐ感動に手が届く。高尾山
2021.03.08
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2019年6月2日午前、映画館で「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ / GODGILLA KING OF THE MONSTERS /マイケル・ドハティ監督/2019年5月31日封切」を見ました。見た感想としては、一言でいうと「面白かった」です。スクリーンに怪獣が出る時間が多く、楽しめました。各場面毎に、主人公たちが怪獣のそばで動き回りますが、いつも奇跡のように助かります。ハリウッド映画なので、日本の要素が少ないのは寂しいですが、俳優の渡辺謙さんが、日本人科学者の「芹沢猪四郎」として演技をされています。「芹沢猪四郎」というと、1954年(昭和29年)11月に公開された「ゴジラ」で、オキシジェンデストロイヤーを抱いて海底のゴジラの所へ向かった「芹沢大助博士」と、ゴジラ映画の「本多猪四郎」監督を思い出します。映画では、ラドンは「ロダン:RODAN」、キングギドラは「モンスターゼロ」でした。伊福部昭さんの「ゴジラのテーマ」、古関裕而の「モスラのテーマ」をモチーフとした曲に、般若心経や祭り衆の掛け声が流れるサウンドを聴きながらエンドロールを見ていると、ゴジラの着ぐるみから顔をだされた中島春雄さんの写真が画面に出てきたので、びっくりしました。「怪獣人生 元祖ゴジラ俳優・中島春雄/中島春雄/洋泉社」を持っていますが、表紙にその有名なカラー写真があります。中島さんが酒田で育ち、日本海軍で生活し、終戦後は東宝の専属俳優になります。ゴジラの中に入って演技をし、円谷プロのウルトラマンシリーズなどでも怪獣役をされていました。この本を読むと、ゴジラを着て演技する大変さが良く分かります。小学1年生の時に「怪獣怪人大全集1 ゴジラ/ケイブンシャ」を買い、何度も繰り返して読みました。生まれる前のゴジラシリーズの情報は、この本を読んで知りました。↑ 「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ / GODGILLA KING OF THE MONSTERS」パンフレット。↑ 高いパンフレットを買うと、特製カバーが付いている。↑ 「怪獣人生 元祖ゴジラ俳優・中島春雄/中島春雄/洋泉社」。↑ エンドロールにもあった、中島春雄さんの写真。↑ 「ゴジラ」1954年の足元アップ撮影用のゴジラ下半身ぬいぐるみと中島さん。足の中は下駄式のため、爪先の割れた地下足袋を履いている。↑ ゴジラ 銀座に現る!↑ 「モスラ対ゴジラ」1964年 浜松砂丘ロケにて。↑ 「モスラ対ゴジラ」。浜松砂丘ロケの合間に一服。ロケも常に手塚勝巳さんが同行して、中島さんをサポートしている。↑ 「三大怪獣 地球最大の決戦」。大11ステージのホリゾントに描かれた雄大な富士山。このゴジラとラドンはギニョール(人形)だが、スタッフと比較して背景の大きさが分かる。見事なセットを用意されて中島さんのゴジラ演技にもさらに力が入る。↑「怪獣怪人大全集1 ゴジラ/ケイブンシャ」。ゴジラ、キングギドラ、ガイガン、アンギラス。↑ ゴジラ。↑ ゴジラ、ミニラ、カマキラス、クモンガ。↑ ゴジラとモスラの卵。↑ ゴジラ。↑ ゴジラとヘドラ。
2019.06.08
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2016年8月21日に横浜ランドマークタワーで「大ゴジラ特撮王国」を見た時の写真です。1992年に公開されたゴジラシリーズ第19作「ゴジラvsモスラ」で、横浜のみなとみらい21が、ゴジラ、モスラ、バトラの戦いの舞台となりました。その時の戦いのジオラマが展示されていました。ゴジラを見た後、横浜の中華街で中華料理を食べて帰りました。 ↑ ゴジラ。↑ 窓からのぞくゴジラ。↑ 横浜みなとみらい21とゴジラ。↑ 横浜赤レンガ倉庫とゴジラ。 奥にバトラが飛んでいる。↑ ゴジラとモスラ。↑ モスラ。↑ バトラ。 モスラの亜種。↑ ゴジラ 潜水タイプ。↑ カイザーギドラ。 (2004年 ゴジラFINAL WARS)。↑ ガイガン。↑ キングシーサー。↑ バラゴン。↑ バラゴンとゴジラ。↑ マンダと轟天号。↑ シンゴジラ。↑ 記念撮影用ゴジラ。↑ メカゴジラ。↑ 横浜みなとみらい21地区。↑ 横浜ランドマークタワー。↑ 横浜スタジアム。↑ 横浜中華街。
2019.06.07
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ゴジラ映画は初代からヘドラ、ガイガン辺りまでが好きです。小さい頃、親にお願いして映画館に連れて行ってもらったり、TVでの放送を見たりしました。サザエさんの四コマ漫画で、カツオやワカメがサザエさんに「ゴジラ、ゴジラ」と映画館に行くことをお願いした所、サザエさんが「あじらに行って!」と言う話がありましたが、当時は私もそのような感じでした。いまだに覚えているのが、親に連れられてゴジラを見に行ったとき、映画館は超満員で、横も後ろも立ち見の人たちが重なり、スクリーンが全然見えない状態でした。父親が私を肩車して映画を見せてくれましたが、すぐに肩が痛くなり、降ろしてはまた肩車をすることを何度も繰り返しました。結局、ゴジラの姿を少し見ただけで、途中で帰りました。それでも、映画館に連れて行って、肩車をして映画を見せてくれたという事が嬉しく、ものすごく記憶に残っています。↑ 1954年の初代ゴジラ。↑ 古生物学者の山根博士、娘の恵美子さんと恋人の尾形さん。↑ 芹沢博士。開発した化学物質「オキシジェン・デストロイヤー」を持って水中に潜り、ゴジラと共に亡くなる。芹沢博士は恵美子さんの事が好きだった。↑ アンギラス。大阪城でゴジラと戦う。↑ キングコング。勝敗は引き分けとなる。↑ ゴジラ対メガロまで続く、ポスターに記された有名な五線譜。↑ 五線譜。↑ 迫力あるモスラ。↑ インファント島の双子。ザ・ピーナッツが演じている。「モスラーや、モスラー」という歌が流行った。↑ キングギドラ。造形として、美しい形。↑ ゴジラ、キングギドラ、ラドン、モスラ。↑ 糸を吐くモスラの幼虫。↑ X星人の役だった水野久美さん。 X星人の弱点は、防犯ブザーの音だった。ゴジラが「シェー」をした。↑ エビラ。 ザリガニ釣りをして家で育てていた。エビラを飼っているような気がした。↑ ゴジラの息子「ミニラ」。ゴジラに似ていないと思った。↑ バラン、ラドン、キングギドラ、ゴジラ、マンダ、ゴロサウルス、ミニラ、アンギラス、バラゴン、クモンガ、モスラの幼虫。↑ ヘドラ。 オタマジャクシを家で飼っていた。もしかしたらオタマジャクシが集まってヘドラになるかもと心配していた。↑ ゴジラ、キングギドラ、ガイガン。↑ ビオランテ。 芦ノ湖で花を咲かせるシーンを思い出す。
2018.06.27
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東京駅と日本橋の間にある常盤橋界隈が再開発中です。今年の2月から工事現場を囲むパネルに、「常盤橋ゴジラギャラリー」として歴代ゴジラ29作品のポスターが貼られています。東京駅近くの本屋に行くときは、必ず寄ってポスターを眺める事にしています。↑ 常盤橋ゴジラギャラリー。↑ 江戸時代、参勤交代で常盤橋から大手町門へ行くのが正式なルートだった。↑ 昔の常盤橋。↑ 古地図と常盤橋御門の場所。↑ 右「ゴジラ(1954年11月)」、左「ゴジラの逆襲(1955年4月)」↑ 右「キングコング対ゴジラ(1962年8月)」、左「モスラ対ゴジラ(1964年4月)」↑ 右「三大怪獣 地球最大の決戦(1964年12月)」、左「怪獣大戦争(1965年12月)」↑ 右「南海の大決闘(1966年12月)」、左「ゴジラの息子(1967年12月)」↑ 右「怪獣総進撃(1968年8月)」、左「オール怪獣大進撃(1969年12月)」↑ 右「ゴジラ対ヘドラ(1971年7月)」、左「ゴジラ対ガイガン(1972年3月)」↑ 右「ゴジラ対メガロ(1973年3月)」、左「ゴジラ対メカゴジラ(1974年3月)」↑ 右「ゴジラ対メカゴジラ(1974年3月)」、左「メカゴジラの逆襲(1975年3月)」↑ 右「ゴジラ(1984年12月)」、左「ゴジラ VS ビオランテ(1989年12月)」↑ 右「ゴジラ VS キングギドラ(1991年12月)」、左「ゴジラ VS モスラ(1992年12月)」↑ 右「ゴジラ VS メカゴジラ(1993年12月)」、左「ゴジラ VS スペースゴジラ(1994年12月)」↑ 右「ゴジラ VS デストロイア(1995年12月)」、左「ゴジラ2000(1999年12月)」↑ 右「ゴジラ X メガギラス(2000年12月)」、左「ゴジラ モスラ キングギドラ 怪獣総攻撃(2001年12月)」↑ 右「ゴジラ X メカゴジラ(2002年12月)」、左「ゴジラ X モスラ X メカゴジラ 東京SOS(2003年12月)」↑ 右「GODZILLA FINAL WARS(2004年12月)」↑ 右「シン・ゴジラ(2016年7月)」↑ 右「GODZILLA 怪獣惑星(2017年11月) 3部作の第一章」
2018.06.25
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夜のゴジラ像と、東京ミッドタウン日比谷の中にある、以前この地に建てられていたゴジラ像です。↑ ライトアップされたゴジラ像。↑ 東京ミッドタウン日比谷。↑ TOHO CINEMAS入口と、右にはゴジラ像。↑ 昔は、この像が日比谷の広場に建てられていた。↑ 空中庭園。↑ 日比谷公園と、霞が関方向のビル群。↑ 日比谷公園と皇居方向。
2018.04.21
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日比谷シャンテの広場に新しいゴジラ像が出来ました。シン・ゴジラをベースにした作品で、本当に力強く美しい姿です。
2018.04.05
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小田急・成城学園前駅の隣にある祖師ヶ谷大蔵駅周辺の祖師ヶ谷商店街は、ウルトラマン商店街と呼ばれています。円谷プロダクションの本社や、円谷英二氏の自宅もあったことから、ここの商店街がウルトラマン商店街として名づけられました。ウルトラマンの像や、ウルトラセブンのウルトラアイの形をした街灯を見ることができます。この通りを抜けて北に約5キロ歩くと、京王線の芦花公園駅に着きます。この隣駅の八幡山まで歩くと、駅前近くに「Culture Station /カルチャーステーション」という店があります。時々この店を覗いては、河合奈保子さんなどの掘り出し物が無いかどうか見ています。↑ 小田急線・成城学園前駅。↑ 成城大学前。↑ ウルトラマン商店街。(祖師ヶ谷商店街)↑ ウルトラマン。↑ アントラー。↑ バルタン星人。↑ ピグモン。↑ 初代ウルトラマン。小田急・祖師ヶ谷大蔵駅前。↑ ウルトラセブンのウルトラアイの形の電灯。↑ 小田急・祖師ヶ谷大蔵駅から約5キロ北に歩くと、京王線・芦花公園駅に到着。↑ 芦花公園駅の隣駅である八幡山駅の近くの「Culture Station / カルチャーステーション」。 時々この店に来ては、河合奈保子さんや80年代アイドルの掘り出し物がないかどうかチェッ クする。
2017.07.02
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夜にWOWOWでウィンブルドンテニスの試合を見ていたところ、2017年7月8日にWOWOWで「シン・ゴジラ」を放送するメッセージが流れました。2016年7月に庵野秀明総監督の「シン・ゴジラ」を映画館で見て、政治的なやり取りは長く感じたのですが、東京アクアライン、蒲田、武蔵小杉、東京など、行った事のある場所でゴジラが進んでいくところは見入りました。私が働いている所のビルも燃えていました。映画で一番のお気に入りは、東京駅での新幹線、在来線の走行シーンです。ここだけでも、もう一度見たいです。小学生の時に見た映画「新幹線大爆破」のドキドキ感を思い出しました。映画を見た後、ゴジラの像があるところを見て回りました。写真を一部添付します。1)博多駅のシン・ゴジラ像。写真を撮っていると、知らない人に声を掛けられた。その人は、すでに3回映画を見て、今から4回目を見に行くと言ったので驚いた。2)新宿歌舞伎町の新宿東宝ビル。ビルの上に、ゴジラヘッドがある。昔ここはコマ劇場があり、建て替えられた。ビルには、東宝シネマやホテルがある。3)東宝スタジオ。 東京都世田谷区・小田急成城学園前駅から少し歩いた所にある。ゴジラや七人の侍の壁画があり、見るだけでも楽しい。入り口にゴジラ像があった。 4)日比谷シャンテそばのゴジラ像。ゴジラ生誕40年を記念して作られた。初代ゴジラは、日比谷、有楽町を越え、国会議事堂を破壊した。この広場の地面には、ハリウッドのように多くの東宝スターの手形が埋めてある。5)横浜ランドマークタワーの「大ゴジラ特撮王国」。過去ゴジラ映画にでてきた怪獣も沢山展示してあり、半日以上入り浸っていた。見終わると、横浜中華街で食事をした。6)日比谷シャンテ内のシン・ゴジラ像。 日比谷シャンテは、昔の日比谷劇場有楽座の跡地に東宝が作った。店に囲まれたゴジラは不思議な感じがした。また、別の機会に他の写真を紹介します。(1)博多駅・シン・ゴジラ像。↑ 博多駅。↑ 博多駅のゴジラ像。(2)新宿・東宝ビル屋上のゴジラ像。↑ 新宿・歌舞伎町のゴジラヘッド。(3)成城・東宝スタジオのゴジラ壁画、ゴジラ像。↑ 小田急・成城学園前駅。↑ 成城・東宝スタジオのゴジラ壁画。↑ 東宝スタジオ入り口のゴジラ像。↑ 七人の侍の壁画(4)日比谷のゴジラ像↑ 日比谷シャンテ前のゴジラ像。(5)横浜ランドマークタワーのシン・ゴジラ像。↑ 横浜ランドマークタワー。「大ゴジラ特撮王国」展。(6)日比谷シャンテ内のシン・ゴジラ像。↑ 日比谷シャンテ内のシン・ゴジラ像。
2017.07.01
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