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小学3~4年生の頃は、母方の祖父に買ってもらった顕微鏡に夢中で、植物、昆虫の標本をプレパラートに固定して、毎日のように覗いてはスケッチしていました。植物の茎や葉を薄く切って、染色液で染めて覗きます。昆虫の死体などをスンプ法で型を取って見たりしました。色々な花の花粉を見比べて、形が違う事を不思議に思いました。近所の池やドブで水を採取し、凹みのあるプレパラートにスポイドで水を垂らし、ミジンコやワムシなどの姿に驚いていました。当時、ブラインシュリンプを卵から孵化させて育てていましたが、少しずつ大きくなる姿を顕微鏡で観察していました。毎日、宇宙塵(うちゅうじん)が宇宙から地球に降ってきていると本に書いてあったので、プレパラートにワセリンを塗って、庭に置いて行くと、一ミリ程度の黒い球体の粒がいくつも付いています。これが日々、世界中に降り注いでいるというとは、中々信じられませんでした。ビーカーに水を入れて庭に出していたところ、水面に浮かんだ花粉が色々な方向に激しく動いたのでビックリした事があります。後から、それがブラウン運動だということを知り、理科がますます好きになりました。顕微鏡以外にも、この時期は簡単なラジオを造ることに夢中でした。「子供の科学」のラジオ作成記事を読んで、広島の第一産業に行き、パーツを購入しました。ハンダこてでハンダ付けをして簡易ラジオの完成です。イヤホンでラジオが聞こえた時はうれしかったです。その後、学研のマイキットを購入して、電子回路実験など色々行いました。長く顕微鏡を使っていたのですが、小学4年の頃から天体望遠鏡に興味が出てきました。小学5年生の時に、ビクセンのポラリス8Ⅼを買ってもらい、興味が天体に移りました。↓ 小学3年生の頃。私と弟。毎日、顕微鏡を覗いていた。
2023.11.12
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1986年8月9日から8月21日まで、自転車で北海度を旅行しました。広島、東京、上野、青森、函館、大沼、長万部、洞爺湖、オロフレ峠、登別、岩見沢、網走、能取湖、サロマ湖、小清水原生花園、斜里、宇登呂、カムイワッカの滝、知床峠、屈斜路湖、摩周湖、美幌峠、美幌、北見、上川、層雲峡、旭川、富良野、札幌、千歳、広島。当時はスマホなど便利なものが無く、持参した地図帳で自分の位置を確認し、旅先で出会った人たちと情報交換をするのが重要でした。サイクリスト達から、このルートは景色が良いとか、このルートはきついし危ないので避けた方が良いとか、生の情報を聞くと、参考になりました。旅で知り合った方々とは、住所・氏名情報を交換し、後日、手紙を書いて焼き増しした写真を付けて送ったりしました。先方から地場の名産品を頂くことがあり、私からは広島のもみじ饅頭を送っていました。北海道で知り合った人から、自転車旅行で広島に来たので、今日宿泊させてほしいと急に電話があったことがありました。夕方だったのですが、母親に話すと、料理と蒲団の用意をすると言ってくれたので、2人のサイクリストを迎えに行き、家で食事会をし、寝てもらいました。その後、東北で知り合った方も、うちの家に泊まられたことがあります。当時はフィルムカメラで撮影していましたが、フィルムがちゃんとセットされておらず、写真が撮られていなかったこともありました。北海道旅行で撮影されていなかった時期があり、本当に残念でした。今ならデジカメやアイフォンで簡単に写真が確認できるので、良い時代になりました。自転車がパンクしても緊急対応できるよう、旅行前に練習しました。修理用具も持参して旅をしました。旅行中は、広島の両親が心配するので、時々電話して、現在地や見た事をを手短に伝えました。電話料金が高く、電話ボックスがあれば、1分程度話しただけで電話を切りました。テレフォンカードを買って使用しました。今ならラインで簡単です。昔はコンビニなど便利な店は無かったので、大きな町で飲み物を買って自転車旅行をしていました。何十キロ走っても、店が全然ないという事は普通でした。函館駅の電話ボックスで電話をした後、長万部に向かいました。ところが途中の大沼で、函館駅の電話ボックスの棚に、ノートを置き忘れたのに気が付きました。ノートには、広島から函館までの記録と、観光地のスタンプを押していました。大沼駅の電話ボックスから函館駅に電話して、ノートについて相談しました。函館駅の駅員さんは、探してみると言われました。北海道旅行から帰り、数日後、私の家に郵便物が届き、中にはノートが入っていたのでビックリしました。函館駅の方に、お礼の手紙ともみじ饅頭を送りました。今回ブログをまとめるにあたり、函館までの記録と記念スタンプを紹介できたのは、そのノートがあったおかげです。函館駅の方に感謝します。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 北海道のお土産。ステッカー (PRODUCED BY MATSUHIRO CO.,LTD.)このデザインの旗も購入し、自転車に付けて北海道を走った。↓ カードケース(PRODUCED BY SAPPORO MATSUHIRO CO.,LTD.)↓ 愛国から幸福へ (釧路鉄道管理局)当時、愛国駅、幸福駅に行くと、幸せになれると言われていた。↓ 国鉄の「青春18きっぷ」 旅行中に参考にした本。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。北海道旅行の観光地情報は、この本と、地元のパンフレットを読んで知った。↓ コンパニオン 道路地図帖 北海道編 /ワラヂヤ。この青い地図帖を持って、北海道を旅した。見やすくて、とても重宝した。北海道編は青色、東北編は黄色で、表紙が目立った。↓ 北海道グーンとワイドカタログ/アウトドア研究会/大和出版ーーーーーーーーーーーーー↓ 私が学生時代に作っていた冊子。(6冊目:北海道旅行特集)WINDOW SHOPPING VOL.6 1986年8月9日~8月21日忙しくなり、残念ながらこの6号冊子だけが、未完となってしまった。↓ 表紙は、私と自転車の絵を描こうとしていた。下描きだけ。↓ 1986年8月9日、上野駅の改札で切符を切ってもらう姿のメモ。分解型自転車が入った袋を左肩に掛け、背中、右肩にも荷物を一杯掛けている。ーーーーーーーーーーーーー↓ 1986年8月9日~10日、上野駅から青森駅まで、深夜急行「八甲田号」に乗車した。満席で、仕方がないので通路や席の足元の空間に、新聞紙や雑誌を敷いて座った。周りの人と仲良くなり、飲み食いしながら色々な話をした。列車内は冷房が効きすぎ、お腹を壊して何度もトイレに行く人がいた。皆が身体を寄せて通路を空けた。(下書き)上野21時14分発、青森9時10分着 東北本線 深夜特急「八甲田」にて。↓ お腹を壊して、何度もトイレに行く人。ーーーーーーーーーー1986年8月12日、サイクリストの人と知り合い、洞爺湖で一緒に花火大会を見た。洞爺湖火山科学館で自転車を置いて、2人が寝る用意をしていたが、バイクで旅行中の3人が一緒に寝たいと言ってきた。夜に私達が話をしていると、バイクの人たちが「うるさいから眠れない」と言いだし、喧嘩になりそうになった。結局私達が外に出て、知り合った人が設置したテントの中で寝る事になった。(下書き)ーーーーーーーーーーーーーー1986年9月13日、登別でクマ牧場に行き、ユーカラの里を見学した。そこで大阪から遊びに来ていた3人の女性達と会い、色々な話をした。印象に残っていたので、マンガに描こうと思った。(下書き)ーーーーーーーーーーーーーー1986年8月13日、登別の地獄谷で知り合った2人と一緒に、登別・第一滝本館に行った。1500円で温泉に入った。中にはウォータースライダーもあり、皆で遊んだ。夜は登別駅で、サイクリストなど皆で集まって、パーティーをした。旅の話を色々聞くことができて、とても楽しかった。(下書き)ーーーーーーーーーーーーーーー1986年8月15日、網走駅で分解型自転車を組み立てていると、色々な人から声を掛けられた。北海度を電車とバスで旅しているという女性と話をした。とても笑顔の可愛らしい人だった。「またお会い出来たらいいですね」と言って別れた。北海道は広いので、もう会う事は無いと思った。自転車で能取湖、サロマ湖まで行き、再び網走駅に戻った後、斜里駅まで走った。途中の小清水原生花園に行ったとき、「こんにちは」と声を掛けられ、見ると網走で朝に会った女性だった。私の麦わら帽子を見て気が付いたとの事。原生花園とオホーツクの夕日を見ながら、色々な話をした。ここで別れたのが、本当の別れになったが、私の中ではとても印象深いエピソードだったので、描こうとした。(下書き)ーーーーーーーーーーーーー1986年8月17日、斜里駅から自転車で野上峠を越えて、川湯温泉に着いた。その後、自転車で「屈斜路湖」まで走った。上りはきつかったが、キラキラ輝く湖面が見えてきたときは感動した。この日夕方には、屈斜路湖から美幌峠まで自転車で進んだが、股ずれ、尻ずれで激痛が酷く、再び屈斜路湖に戻った。知り合った人と和琴温泉で温泉に入り、患部をマッサージした。二人ずつに分かれてコテージに入ることにした。私はすぐ寝たが、夜中に起きると、隣にいた人の姿が無かった。びっくりして隣のコテージに行くと、その人がいた。私のイビキがあまりにもうるさく、寝られないので移ったとの事であった。(下書き)ーーーーーーーーーーーーー下書きさえも描いていないページが沢山あった。下は、昭和新山やオロフレ峠の事を描こうとして、途中で止まっている。↓ 下は雑紙に速記したもの。網走駅にて。↓ 網走駅にて。↓ 年賀状の一部。摩周湖。 プリントゴッコで印刷。ーーーーーーーーーーーーーーー「ひろしまフラワーフェスティバル」(1986年5月3日~5日)ノート。このノートに広島から函館まで、メモや記念スタンプを押していた。函館駅の電話ボックスの棚に、ノートを置き忘れてしまった。大沼駅で気が付き、函館駅に電話して相談すると、探してみるとの返事を頂いた。旅から戻った後、ノートの入った袋が広島の実家に届いた。函館駅の方から送られたもので、本当に感謝した。これが無いと、最初の頃の事が想い出せなかった。↓ 広島平和大通りのパレード会場。↓ ノートに私の住所と氏名を書いていた。ーーーーーーーーーーーーー↓ ノートを函館駅で忘れたのに気が付いた後、広島銀行のメモ帳に、旅のメモを書いて記念スタンプを押した。広島銀行のメモ帳↓ 今は無き、広島市民球場が写っている。↓ 記念スタンプを押していった。
2023.08.22
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)13日目は札幌駅から千歳駅まで、青春18きっぷで移動し、全日空の飛行機で広島に帰りました。ーーーーーーーーーーーー【13日目 : 1986年8月21日(水)】最終日・前夜は札幌駅前で野宿した。朝起きて、Yさんと記念撮影をして別れた。袋に入れた分解自転車を札幌駅の貨物取扱所に持っていき、広島駅まで送付依頼をした。・5枚目の「青春18きっぷ」を使い、札幌駅から千歳駅まで移動した。千年では、千歳川に設置されたインディアン水車を見た。インディアンの捕獲方法を参考にして、千歳川を上ってくる鮭を捕まえる装置。・千歳空港で、全日空272便(札幌15:05→広島17:10)に搭乗した。機窓から日本アルプスが見えたが、どの山か分からなかった。・家に帰ると母親から、汚くて臭いので、服を全部脱いで、すぐに風呂に入れとの指示が出た。屈斜路湖のコテージに1泊した以外は、全て野宿だったので、久しぶりの蒲団が懐かしかった。・次の日から、アルバイトを再会した。ーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 北海道南部より↓ 1986年8月21日朝、札幌駅前でYさんと記念撮影。右側の青い袋は、分解型自転車の入った袋。↓ 北海度21世紀博覧会のポスター。私は1986年8月14日に、岩見沢の会場で見た。↓ 国鉄の青春18きっぷ。1986年8月13日に登別駅で、1万円で購入した。5枚綴り。↓ 青春18きっぷ。5枚つづりで、最後の5枚目を1986年8月21日に使用した。札幌駅→千歳駅。↓ 千歳川。↓ インディア水車。千歳川に設置して、上ってくる鮭を捕獲する水車。インディアンのやりかたをヒントに、明治29年から使用された。↓ 千歳駅。↓ 全日空時刻表。↓ 広島行きの便。↓ 札幌→広島 全日空272便(札幌15:05→広島17:10)に搭乗。↓ 搭乗券。↓ 空港で買い物をした。 全日空商事の袋。↓ 全日空スカイホリデーのパンフレット。旅重ねて15年 全日空スカイホリデー でっかいどお北海道 期間:昭和61年1986年)4月~11月。
2023.08.21
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)12日目は鉄道で、富良野駅から札幌駅に移動しました。札幌市内を観光し、夜はサッポロビール園でビールとジンギスカンを頂きました。夜は札幌駅前で野宿しました。ーーーーーーーーーーーーーーーーー【12日目 : 1986年8月20日(火)】・富良野駅近くで野宿をした後、輪行で札幌駅まで移動した。・札幌駅で、サイクリストのYさんと知り合った。一緒に道庁赤レンガ庁舎や時計台を見学した。夜にサッポロビール園で落ち合うことにし、いったん別れた。私は北海道大学構内や、札幌の街を散歩した。・夜にサッポロビール園でYさんと再び会い、一緒にビールとジンギスカンを腹いっぱい頂いた。・札幌駅構内は深夜になるとシャッターが閉まったので、札幌駅近くでYさんと一緒に寝袋で野宿した。二人で旅の楽しい話をして、とても楽しかった。ーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 北海道南部より富良野、札幌の位置。↓ 1986年8月20日。北海道庁旧本庁舎(赤レンガ庁舎)にて。サイクリストのYさんと知り合い、記念撮影。ーーーーーーーーーーーーー↓ 時計台 (旧札幌農学校演舞場:札幌歴史館)ーーーーーーーーーーーーー↓ 北海道大学構内にあるクラーク像。ーーーーーーーーーー↓ 夜にYさんと落ち合い、サッポロビール園で腹いっぱいビールを飲み、ジンギスカンを食べた。ーーーーーーーーーーーーー夜の札幌市内。 テレビ塔と噴水。自転車で札幌市内をゆっくり走った。↓ 観光案内所でいただいた、札幌タウンマップ。↓ さっぽろ東急のブックストーキューチラシ。
2023.08.20
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)11日目ですが、上川駅から層雲峡まで自転車で走りました。流星の滝、銀河の滝などを見た後、再び上川駅に戻り、自転車を分解して輪行しました。鉄道で旭川駅に移動し、駅前を散策した後、鉄道で富良野駅に行きました。ふらのワインハウス、北海道のへそ中心標、TVドラマ「北の国から」の舞台となった麓郷を散策し、富良野駅で野宿しました。ーーーーーーーーーーーーーーーーー【11日目 : 1986年8月19日(月)】・前夜、上川駅近くで野宿をした。8月19日朝、分解型自転車を組み立てて、状態をチェックした。前日、自転車のペダルとクランクが外れなくなってしまい、美幌駅近くの自転車屋に見ていただいた。店の方からは、再び自転車が壊れる可能性があるので、家に帰るまで乗らない方が良いと言われたが、上川駅から層雲峡の観光地まで片道20キロはあるので、だましだまし、自転車で走ることにした。・層雲峡温泉で旅行中の人と知り合い、流星の滝、銀河の滝を一緒に見た。自転車で再び上川駅に戻った。ここで自転車を分解し、輪行をした。・鉄道で上川駅から旭川駅に移動した。朝から何も食べていなかったので、駅弁を購入して食べた。旭川駅近くを散歩した。・旭川駅から鉄道で富良野駅に進んだ。富良野駅で自転車を組み立てた。「清水山グリーンランド」が富良野駅から3キロ先にあり、そこにある「ふらのワインハウス」に寄った。ガイドブックに「牛肉と名物のワインが味わえる」と書いてあったので、ぜひ食べてみたかった。とても美味しかった。・富良野小学校の校庭にある「北海道のへそ中心標」を見た。北海道のど真ん中に当たる場所。・テレビドラマ「北の国から」のロケ地である麓郷を少し見て、富良野駅近くで野宿した。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 (北海道北部)上川駅、層雲峡、旭川駅の位置。↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 (北海道東部)層雲峡、旭川駅、富良野駅の位置。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社 昭和61年(1986年)5月 第4刷発行 p79↓ 北川駅の記念スタンプ。↓ 自転車で上川駅から層雲峡まで走った。↓ 層雲峡温泉で記念撮影。↓ 流星の滝で、知り合った人と記念撮影。↓ 銀河の滝にて。私の自転車も一緒に。↓ 柱状節理の大絶壁が続く。↓ 自転車で層雲峡を走る。↓ 大雪山の山々が、手前の山稜の上に、頭の部分だけ少し見えた。ーーーーーーーーーーーーーー↓ マップルガイド17 北海道/昭文社 昭和61年(1986年)5月 第4刷発行 p73上川駅から旭川駅まで、輪行した。↓ 旭川駅前。↓ 旭川の標識。↓ 旭川駅で、朝食の駅弁を食べた。旭川駅立売株式会社の箸袋。ーーーーーーーーーーーーーー↓ マップルガイド17 北海道/昭文社 昭和61年(1986年)5月 第4刷発行 p80旭川駅から富良野駅まで、輪行した。↓ 「ふらのワインハウス」のホームページより。ガイドブックを見て、どうしても「ふらのワインハウス」で昼食をとりたかった。↓ 1986年8月19日に、私が「ふらのワインハウス」で食事をした時のレシート。↓ ふらのワインハウスで、肉とワインのランチを頂いた。ーーーーーーーーーーーー↓ 富良野小学校の校庭に建つ、北海道中心標。ここは、北海道のど真中で、へそにあたる。「へそ踊り」が有名。ーーーーーーーーーーーーーー富良野は、テレビドラマ「北の国から」の舞台。↓ 女優のいしだあゆみさんの写真。↓ 富良野 北時計 (「北の国から」のインフォメーションセンター兼喫茶店)↓ 倉本聰原作「北の国から」ロケ記念北の国から 第2集/発行 麓郷郵趣会/麓郷郵便局
2023.08.19
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)10日目ですが、屈斜路湖・和琴温泉から美幌峠を越え、美幌駅に行きました。自転車を点検すると、ペダルとクランクに問題あり、美幌の自転車屋で応急処置をしていただきました。この日は自転車移動を止め、鉄道で輪行することにし、美幌駅、北見市、そして層雲峡が近い上川駅で下車し、野宿しました。ーーーーーーーーーーー【10日目 : 1986年8月18日(月)】・前日の8月17日に、屈斜路湖から美幌峠に自転車で上がり、美幌駅まで行こうとした。しかし股ずれ、尻ずれがひどく、患部が腫れあがって激痛だったので、屈斜路湖に引き返し、和琴温泉の露天風呂で患部をマッサージした。・8月18日朝、再び屈斜路湖から美幌峠へ上り、美幌駅まで走った。美幌駅では2人組のサイクリストに会い、旅の情報交換をした。・美幌駅で自転車の点検を行っていたところ、異常が見つかった。分解型自転車だが、ペダル部分の先が雄ネジで、クランクの穴が雌ネジになっており、ペダルネジをクランク穴に入れて、時計回りに回すと固定され、反時計回りに回すと外れる仕組みになっている。通常ならばペダルを回すだけで簡単に外れるのだが、力を入れても全く外れなくなった。自分で頑張ったが駄目だったので、道行く人たちに、自転車屋の場所を聞いた。・美幌の自転車屋で、ペダルとクランクを見てもらった。店の方は「これは簡単には直せない。自転車が壊れる可能性があるが、それでも良ければ、無理やりなんとかしてみる」と言われた。買ったばっかりの自転車なのだが、分解して袋に入れて輪行するとき、ペダルが外れていないと問題だと考え、お願いすることにした。結局、30分以上かかって、やっとペダルがクランクから外れた。自転車屋の方は、「もう自転車は乗らずに、地元に帰ってから、自転車をメンテナンスに出すべき」とアドバイスを頂いた。・自転車に問題無ければ、本来なら美幌から北見、遠軽など自転車で走る予定だったが、止めた。美幌駅で自転車を分解して袋に入れ、鉄道で移動することにした。・北見駅で下車し、市内を散歩した。ハッカの生産地だということを知った。・夜に鉄道で、層雲峡の玄関口である上川駅に移動した。列車内では、車掌さんに青春18切符を見せて挨拶すると、北海道の旅の情報など色々と教えていただいた。車掌さんも学生時代に旅をしていたとの事であった。・上川駅に着き、駅近くで野宿をした。ーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 北海道北部屈斜路湖、美幌峠、上川の位置。↓ 屈斜路湖、美幌峠、美幌駅、北見駅、上川駅の位置。↓ 屈斜路湖、美幌峠、美幌駅、北見駅の位置。↓ 上川駅付近。近くに層雲峡がある。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 1986年8月17日午後に撮影した、美幌峠の写真。本当ならば、このまま美幌駅まで自転車で進む予定だったが、股ずれ、尻ずれがひどく、患部が赤くただれて激痛だったので、屈斜路湖の和琴温泉に戻り、風呂で患部をマッサージした。1986年8月18日朝、和琴温泉から再び自転車で美幌峠に上り、美幌駅へ進んだ。↓ 美幌峠の道路。 右は屈斜路湖。↓ 屈斜路湖。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 1986年8月18日。美幌峠から美幌駅に行く途中で撮影。↓ 美幌駅で出会ったサイクリストと記念撮影。*美幌駅で自転車を点検していると、ペダルとクランクが外れなくなったのに気が付いた。自分では直せなかったので、美幌にある自転車屋で見てもらった。「無理やり外そうとすると、壊れるかもしれないが、それでも良いか」と聞かれ、「お願いします」と答えた。30分以上かかり、やっとペダルが外れた。店の方から、「もう自転車には乗らず、地元に帰ってから、自転車のメンテナンスをした方が良い」と言われた。この日は、自転車を諦め、鉄道で移動することにした。↓ 「びほろ 阿寒国立公園の表玄関/北海度アート社/1986年3月」↓ 美幌から始まる東北海度の旅。ガイドマップ。↓ 美幌駅で押した記念スタンプ。ーーーーーーーーーーーー↓ 北見駅前。鉄道で美幌駅から北見駅に移動した。北見市内を散策した。↓ 北見駅の記念スタンプ。ーーーーーーーーーーーーーーーーー夜に石北本線で、北見駅から上川駅に移動した。車掌さんに青春18きっぷを提示した。車掌さんからは、北海道の旅の情報など色々と教えていただいた。上川駅で下車し、駅近くで野宿した。
2023.08.18
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)9日目ですが、斜里駅から野上峠を越えて屈斜路湖の川湯温泉に行き、「川湯相撲記念館」、硫黄山の噴煙を見ました。釧網線を越えて摩周湖に上り、展望台で記念撮影をしました。弟子屈から阿寒湖まで走っていたのですが、途中で弾き返し、屈斜路湖を通って美幌峠に行きました。しかし、美幌駅まで行くのは止めて引き返し、屈斜路湖の和琴温泉で入浴し、コテージに泊まりました。ーーーーーーーーーーーーーーーー【9日目 :1986年8月17日(日)】・知床で知り合った自転車旅行中のKさんと一緒に、斜里駅近くで野宿した。朝5時半に起き、kさんと別れて屈斜路湖に向かった。斜里岳を見ながら、どこまでもまっすぐな道を進む。野上峠を越えると、屈斜路湖畔の川湯温泉に着いた。・屈斜路湖というと、未確認生物「クッシー」が有名で、大きなクッシー像があった。川湯は「巨人、大鵬、卵焼き」で有名な、第48代横綱・大鵬(たいほう)の故郷ということで、「川湯相撲記念館」が建てられていた。大鵬の歴史を詳しく知った。・川湯温泉から少し自転車を走ると、硫黄山があり、白い蒸気が吹き出されていた。一面硫黄の臭いが立ち込めていた。・硫黄山から釧網本線を越えて、自転車で摩周湖まで上って行った。結構きつかったが、真っ青な水面の摩周湖が視界に入ってきたときは、とても感動した。第3展望台で早速記念撮影をした。その後、第1展望台に移動して撮影した後、坂を下って弟子屈(てしかが)駅に着いた。・弟子屈駅からマリモで有名な阿寒湖に行こうとした。ずっと阿寒横断道路241号線を自転車で進んで行くと、途中で阿寒湖側からやってくるチャリンコ族がいた。「今から阿寒湖に行き、日帰りで戻りたい」と言うと、「片道40キロで、往復なら距離もあるし、坂が長いので、止めた方が良い」とアドバイスをもらった。色々考えて、阿寒湖行きを止めて、屈斜路湖に戻った。・屈斜路湖から美幌峠を越えて、美幌駅まで移動しようと考えた。自転車をこいで美幌峠まで上がったが、股ずれや尻ずれがひどく、屈斜路湖に戻って、温泉で擦れた部分をマッサージした方が良いと考えた。・屈斜路湖の和琴温泉に行った。そこで野鳥の会の人たちと知り合い、一緒に温泉に入った。股や尻が赤く腫れており、温泉の中でずっと患部をもんでいた。・和琴温泉にコテージがあるので、二人ずつに分かれて泊まる事にした。私は北海道旅行をし始めて、野宿ばかりだったので、初めて部屋で寝る事になった。野鳥の会の人と相部屋だったが、その人は、本を読むと言って起きていた。私はすぐに寝てしまった。トイレに行きたくなって目が覚めた。横を見ると、野鳥の会の人の姿が無く、びっくりした。驚いて隣のコテージのメンバーに相談しに行くと、そこに私の横に寝る予定の人がいた。なぜ隣のコテージに移ったのか理由を聞くと、私のイビキがあまりにもひどく、寝られなかったのでコテージを移ったとの事だった。トホホ。ーーーーーーーーーーーー↓マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 道東 p102~103斜里町、屈斜路湖、摩周湖の位置。↓ 斜里駅、屈斜路湖、美幌峠、美幌駅、摩周湖、阿寒湖の位置。↓ 1986年8月17日朝、斜里駅近くにて、kさんと記念撮影。kさんは自転車旅行者で、前日に知床で知り合い、いっしょに野宿した。kさんとはここで別れ、屈斜路湖に向かった。↓ 斜里駅近く。↓ 斜里岳を見ながら自転車で走った。、↓ 野上峠を上る。↓ 野上峠で記念写真。 弟子屈町に入る。↓ 川湯へ進む。↓マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 道東 p121.屈斜路湖、川湯、硫黄山、摩周湖、阿寒湖の位置。↓ 川湯で、屈斜路湖の未確認生物「クッシー」の像を見た。↓ 川湯神社と、第48代横砂「大鵬(たいほう)」の像。↓ 「川湯相撲記念館」のチケット。川湯が故郷の第48代横綱「大鵬」が紹介されており、見学した。人気があったものとして、「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉が有名。↓「川湯相撲記念館」のパンフレット。第48代横綱 大鵬幸喜を称して、不世出の横綱と人は言う。力士の誰もがそうであるように、角界の頂点をめざして、しこを踏んだ入門時代。白星街道をひた走り、次々と記録を塗り替えた一人の天才力士の努力と栄光のドラマが、この記念館に収められている。↓ 川湯相撲記念館の記念スタンプ。↓マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 道東 p122.屈斜路湖、川湯温泉、硫黄山、摩周湖、弟子屈の位置。屈斜路湖の和琴温泉では、「ミンミンゼミは道南以北はここだけに生息する」と書いてある。↓ 釧網本線 川湯駅の記念スタンプ。硫黄山の噴煙が描かれている。↓ 川湯の硫黄山に進む。↓ 阿寒国立公園 川湯 硫黄山で記念撮影。↓ 白い噴煙が立ち昇り、硫黄の臭いが鼻をついた。↓ 黄色の硫黄が岩についている。ーーーーーーーーーーーーーーー↓ 釧網本線を越えて、自転車で摩周湖へ上っている途中の景色。奥に硫黄山が見える。↓ 摩周湖(第3展望台)で記念撮影。↓ 年賀状の一部。 摩周湖の絵をプリントゴッコで印刷した。↓ 年賀状の一部。河合奈保子さんと菊池桃子さん。プリントゴッコで印刷。↓ 第3展望台から見た「摩周湖」。↓ 摩周湖で記念撮影。↓ 摩周湖の湖面に、白い雲が映っている。ーーーーーーーーーー↓ 第1展望台に移動して撮影した「摩周湖」。摩周湖を下って、弟子屈駅に行った。ーーーーーーーーーーーーーー弟子屈駅から阿寒湖に向かい、阿寒横断道路241号線を自転車で走った。途中で阿寒湖方向から自転車で走ってくる旅行者がいたので、色々話を聞いた。私が「今から阿寒湖まで往復したい」というと、その人は、「阿寒湖まで40キロあるし、坂が長いので、今から日帰り往復は無理。止めた方が良い」と言った。結局、阿寒湖に向かうのを止めて、屈斜路湖に戻った。↓ 阿寒 パンフレット/企画制作・(株)日本交通事業社↓ 阿寒湖で有名な「マリモ」の伝説。↓ 阿寒湖のマリモ。↓ 阿寒湖のスタンプ。↓マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 道東 p123阿寒湖の図。.ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー屈斜路湖から美幌峠を越えて、美幌駅に行こうと思った。自転車で屈斜路湖の外輪山である美幌峠へ進んだ。↓ 屈斜路湖。↓ 美幌峠で記念撮影。 背景は屈斜路湖。↓ 屈斜路湖。↓ 美幌峠のルート。↓ 屈斜路湖(左半分)。↓ 屈斜路湖(右半分)。↓ 美幌峠で、バスの団体旅行者が屈斜路湖を背景に、記念撮影を録っていた。美幌峠まで自転車をこいだが、股ずれ、尻ずれがひどくて痛かった。このまま美幌駅に行くよりも、屈斜路湖の和琴温泉で、温泉につかってマッサージをした方が良いと思い、再び屈斜路湖に戻ることにした。↓ 戻る途中の屈斜路湖。↓ 屈斜路湖畔と夕陽。ーーーーーーーーーーーーー↓ 私が学生時代に作っていた冊子「WINDOW SHOPPING VOL.6 1986 8/9~8/21」北海道自転車旅行を、記事と写真、マンガでまとめようとして、下書きまで用意したが、未完で終わった。マンガの下書きの紹介。摩周湖と、和琴温泉、コテージでの出来事について描いた。↓ 自転車で摩周湖まで上って行った。キラキラ輝く湖面が見え、やっと摩周湖に着いた。↓ 自転車をこいできたので、股ずれ、尻ずれが酷く傷んだ。、夜、野鳥の会のグループと知り合いになり、屈斜路湖の和琴温泉で一緒に露天風呂に入った。↓ 股や尻が痛かったので、温泉の湯の中で患部をマッサージした。野鳥の会の人たちと食事をした。コテージを借りて、2人に分かれて寝る事になった。私は疲れていたので、コテージでは、すぐに寝てしまった。トイレに行きたくなって起きた時、隣にいるはずの人がおらず、行方不明なのでびっくりした。↓ 恐ろしくなり、隣のコテージに行き、人が消えてしまったと言うと、中からその人が出てきたので、驚いた。私のイビキがあまりにもひどかったので、寝ることができず、隣のコテージで寝たとの話であった。トホホ。
2023.08.17
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)8日目ですが、斜里駅をスタートし、自転車でウトロ港に行きました。そこで知床観光汽船の船で、カムイワッカの滝まで知床半島を観光しました。ウトロ港に戻ると、自転車で知床横断道路を上り、738mの知床峠に着きました。羅臼岳をバックに記念撮影し、その日は再び斜里駅まで戻りました。ーーーーーーーーーーーーーーーー【8日目 : 1986年8月16日(土)】・斜里駅近くで野宿した後、朝5時に起きて準備し、5時30分には知床半島のウトロへ出発した。途中で「オシンコシンの滝」、「三重の滝」を見て、ウトロ港に着いた。・ウトロ港で知床観光汽船の観光船に乗船して、知床半島を観光することにした。コースは2種類あり、ウトロから知床半島途中のカムイワッカの滝まで往復するコース(1時間30分)と、ウトロから知床半島先端の知床岬まで行くコース(3時間45分)だった。ぜひ知床岬を見たかったのだが、自転車で知床峠を上るのに時間がかかるので、カムイワッカまでのコースにした。・観光船はウトロ港を出港した。沢山のカモメが船の周りを飛んでいた。雄大な知床の姿を眺めていると、カムイワッカの滝が見えてきた。船は反転し、無事ウトロ港に戻った。・ウトロ港で、焼いた貝殻付きホタテを売っていた。1つ300円だった。美味しかったので、3つ食べた。キタキツネもいた。・ウトロ港から知床横断道路を上がっていき、知床峠(738m)に着いた。羅臼岳をバックに写真を撮った。標識には「斜里52㎞、ウトロ16㎞」とあった。森繁久彌さんが作詞作曲され、加藤登紀子さんが歌われた有名な「知床旅情」を、何度も繰り返して口ずさんだ。「知床の岬に はまなすの咲く頃 想い出しておくれ 俺たちのことを飲んでさわいで おかにのぼれば 遥か国後に白夜は明ける旅の情けか 酔うほどにさまよい 浜にでてみれば 月は照る波の上君を今宵こそ 抱きしめんと 岩陰に寄れば ピリカが笑う別れの日はきた 知床の村にも 君はでてゆく 峠を越えて忘れちゃいやだよ きまぐれ烏さん、わたしを泣かすな 白いかもめよ」・知床峠から知床横断道路を下って羅臼に行こうと思ったが、結構疲れていたので、斜里町まで戻ることを考えて羅臼は諦めた。知床峠を下り、プユニ岬を見て、斜里町まで自転車で戻った。途中でKさんと知り合い、急に雨が降り出した時は、二人で雨宿りをした。・夜は斜里駅近くで、Kさんと一緒に野宿をした。ーーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版 ①北海道北部より。斜里駅、ウトロ、知床峠、カムイワッカの滝の位置。↓ 斜里駅、ウトロ、知床峠、カムイワッカの滝の位置。↓ 国立公園 知床半島の記念スタンプ。↓ マップルガイド 17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)P110↓ 1986年8月16日朝、斜里駅を出発し、知床半島を自転車で走った。↓ オシンコシンの滝。↓ オシンコシンの滝で記念撮影。↓ 私の自転車。↓ 三重の滝。ーーーーーーーーーー↓ 知床半島汽船。↓ 知床観光汽船の乗船券。昭和61年(1986年)8月16日。ウトロ⇔硫黄山(カムイワッカ) 1,850円↓ 知床半島 船旅のご案内 知床観光汽船。↓ 2つのコース。カムイワッカで戻るコースと、知床岬で戻るコース。↓ 2コースの乗船時間。↓ オホーツクの旅情 秘境 知床航路/企画・発行 道東観光開発株式会社↓ 知床観光船のメープル号。↓ 知床観光船のライラック号。↓ 「知床旅情」 作詞作曲:森繁久彌。↓ ウトロ、カムイワッカの滝、知床峠の位置。↓ 斜里町、オシンコシンの滝、三重の滝、ウトロ、プユニ岬、知床峠、羅臼岳の位置。↓ 知床半島。 観光船でウトロ港からカムイワッカの滝へ向かう。↓ カモメの群れ。↓ 知床半島。↓ カムイワッカの滝。↓ カムイワッカの滝付近で、船は反転してウトロへ戻る。ーーーーーーーーーーーウトロ港に戻る。↓「知床旅情」の石碑。↓ 焼きホタテ。1つ300円。 3つ食べた。↓ キタキツネ。ーーーーーーーーーーーーー↓ 知床峠。ウトロ港から知床横断道路を上がっていき、知床峠(738m)に着いた。羅臼岳をバックに写真を撮った。標識には「斜里52㎞、ウトロ16㎞」とあった。このまま羅臼に行こうと思ったが、疲れていたので、ここで斜里に戻ることにした。↓ 羅臼岳は山頂付近が雲にかかっていた。↓ プユニ岬。 この日は再び斜里駅に自転車で戻った。ーーーーーーーーーーーーー↓ 北方領土 これだけは知っておきたい/総理府北方対策本部、特殊法人北方領土問題対策協会。
2023.08.16
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)7日目は、網走駅から自転車で、オホーツク流水館、博物館・網走監獄、オホーツク水族館、能取岬、能取湖、サロマ湖を見た後、網走に戻って、小清水原生花園、斜里駅まで行きました。*カメラのフィルムがちゃんと設定されておらず、残念ながら8月13日夜の登別駅から8月15日夜の斜里駅までの写真が撮れていませんでした。そのため写真紹介はありません。ーーーーーーーーーーーーー【7日目 : 1986年8月15日(金)】・朝、網走駅前で自転車を組み立てる。沢山の旅行者から声を掛けられた。その中で旅行中の女性と話した。とても明るくて可愛らしい人だった。「またどこかで会えたらいいですね」と言って別れたが、この日の夕方、斜里駅に行く途中、小清水原生花園に寄ると、その女性と再び会い、お互いにビックリした。その女性は、私が麦わら帽子を被っていたので気が付いたとのことだった。・網走市内を走って行くと、網走刑務所があった。向きを変えて坂を上っていくと、天都山の頂上に着いた。オホーツク流氷館では迫力ある流氷の映像がスクリーンに映し出された。建物の屋上からは知床半島が見えた。・天都山を下る途中に博物館・網走監獄があった。中では放射状の舎房などを見学した。・網走市内から少し自転車で走ると、二ッ岩近くにオホーツク水族館があった。オオカミウオや大海馬を初めて見た。・二ッ岩を過ぎて、能取(のとろ)岬灯台に着いた。アブが多かった。サンゴ草が赤く綺麗になるということで見に行ったが、まだサンゴ草は赤くなっていなかった。・能取湖(のとろこ)を巡る途中の食堂で、ホタテ定食を食べた。この頃はまだ湧網線(ゆうもうせん)があり、列車を見ることが出来た。(1988年に湧網線は廃線となった)能取湖の先にあるサロマ湖を少し見た後、急いで網走駅に戻った。・夕方、網走駅で準備を整えて、釧網本線と平行に自転車で斜里駅に向かった。途中で、「藻琴湖(もことこ)」、「濤沸湖(とうふつこ)」、オホーツクに一番近い駅として有名な「北浜駅」を見て、「原生花園駅」では「小清水原生花園」を散歩した。この原生花園駅付近で、朝に挨拶をした女性と再会して、お互いびっくりした。・夜に斜里駅に着いた、カメラで36枚撮影したと思い、フィルムを巻くのだが、巻いている感触がないのでカメラの裏ぶたを開けると、フィルムがうまくセットされていなかった事に気が付き、ショックで血の気が引いた。8月13日夜の登別駅から8月15日の斜里駅までの写真が撮影されていなかった。沢山の人たちと記念撮影をしたのにと思うと辛く、斜里駅のそばで寝袋に入って寝るしかなかった。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院北海道北部↓ 1986年8月15日、網走駅を起点として自転車で走ったエリア。↓ 具体的なポイント。網走、能取岬、能取湖、サロマ湖、原生花園、斜里。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。p108網走市内。↓ 私が学生時代、自分で作っていた冊子「WINDOW SHOPPING Vol.6 (1986年8月9日~8月21日)北海道特集の原稿表紙。この冊子には、自転車旅行の記録を文書とマンガで残す予定だったが、マンガは下書きの途中で止まり、完成しなかった。↓ 北海道を自転車旅行したときの自分の姿を描いた。↓ 「網走駅」の下書き部分。手前の像だが、ニポポ人形の形をした電話ボックスを描いた。私が網走駅に行った1986年8月15日には、駅前に2つの像の電話ボックスがあった。今はどうなっているだろう?↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。p108「網走駅前の電話ボックス。ニポポ人形には願い事がかなうという伝えがある」↓ マンガを描くために、雑紙に色々と速記で描きとめた。網走駅付近にて。↓ 網走駅で知り合った女性を描きとめた。↓ 「あばしり旅のノート」 (網走駅で入手した)発行:1986年6月 網走市・網走観光振興公社 企画・作成。↓ 右側に、網走駅、天都山展望台(オホーツク流氷館)、博物館・網走監獄がある。ーーーーーーーーーー↓ オホーツク流氷館(名勝 天都山)入場券。(昭和61年:1986年8月15日印あり)↓ オホーツク流氷館の記念スタンプ。ーーーーーーーーーーー↓ 博物館・網走監獄 大人入場券。 財団法人 網走監獄保存財団。↓ 博物館・網走監獄 パンフレット。↑ 【網走監獄の創設】北海道釧路集治監、網走囚徒外役所、このいかつく長い名が、明治23年に沿敷設された網走刑務所の最初の名称です。ここに外役所が設置されたのは、当時、南進の気配をみせていたソビエト・ロシアに対する国防上と、北海道内陸部開発のための札幌と網走を結ぶ中央縦貫道路の旭川、網走間の開削が直接の動機で、これが完了したのちは、自耕自食による永久的農業漢族の設置にありました。財団法人 網走監獄保存財団 網走市(網走番外地)↓ 明治の流刑地、網走に残された監獄のレ基礎を綴る博物館・網走監獄は網走の景勝地、天都山の中腹、緑の中にあって、ここから広々と広がる網走湖や刑務所農場を一望することができます。網走駅から5キロ、刑務所から2キロ、国道39号線、「博物館・網走監獄入口」バス停留所から歩いて約7分のところにあります。↓ 放射状 舎房。↓ 博物館・網走監獄の記念スタンプ。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ オホーツク水族館 記念入場券。オホーツク海の猛魚 オオカミウオ。↓ 入場券の裏面。↓ オホーツク水族館のパンフレット。↓ オオカミウオ。↓ 主な展示資料。↓ オホーツク水族館のご案内。ーーーーーーーーーーー↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。p107能取湖(のとろこ)とサロマ湖の位置。1986年には、まだ国鉄・湧網線が存在しており、車両が走るのを見た。1988年3月に廃線。↓ 網走、オホーツク水族館、ニッ岩、能取岬・灯台、能取湖の位置。↓ 能取岬灯台。↑ 自転車で能取岬灯台をまわるとき、小林美樹さんの「人魚の夏」を大声で歌った。「自転車を走らせて 灯台をまわり ギラギラの砂浜を 私は駆けてゆく」ーーーーーーーーーーー↓ 「藻琴湖(もことこ)」、、オホーツクに一番近い駅として有名な「北浜駅」、「濤沸湖(とうふつこ)」「原生花園駅」、「小清水駅」の位置。↓ 自分のマンガの下書き。原生花園駅付近で、朝に網走駅で話をした女性と再会し、お互いにビックリした。↓ 網走国定公園 小清水原生花園の記念スタンプ。↓ 斜里駅の記念スタンプ。ここで、フィルムのセット不備が発覚し、写真が撮影できていなかったことが分かり、ショックで寝込んだ。↓ 弘前ねぶたの斜里駅。
2023.08.15
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今から37年前ですが、自転車で北海道を旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)6日目は自転車ではなく、鉄道で登別から網走まで移動しました。*カメラのフィルムがちゃんと設定されておらず、残念ながら、8月13日夕方から8月15日までの写真が撮れていませんでした。ーーーーーーーーーーーー【6日目 : 1986年8月14日(木)】・今回の北海道旅行だが、広島スタートとは言え、道南を少し走っただけで、5日経ってしまった。最終日は飛行機を予約しているので、実質7日しか残っていなかったが、どこに行くかは決めていなかった。8月13日の夜に、登別駅でチャリンコ仲間が沢山集まった。私は皆さんに、登別の次の旅行先を決めていないのだが、アドバイスが欲しいと言うと、小樽が良いとか、釧路に行ったらとか、稚内を目指すべきとか、知床でしょうとか色々な意見が出た。いずれにせよ、自転車ではなく、鉄道で一挙に距離を稼がないといけないと考えた。・8月13日夜、登別駅で「青春18きっぷ」を1万円で購入した。時刻表を見ながら、メモ帳に14日の鉄道予定を書いてみた。室蘭本線 登別8:40 → 千歳9:59石勝線 千歳10:15 → 帯広13:04 帯広14:06 → 釧路 16:06念のため追加情報として、次の予定もメモした。室蘭本線 登別7:03 → 岩見沢9:35・8月14日朝、青春18きっぷで登別駅から乗車した。列車は苫小牧に進んだ。帯広経由で釧路に行こうと思っていたが、岩見沢から網走に行くルートも捨てがたく、迷っていた。結局、室蘭本線の終点である岩見沢に行く事に決めた。・岩見沢駅では雨が降っていた。駅で「北海道21世紀博」を開催していることを知り、早速直通バスに150円で乗車した。バスは広い野原を進み、会場に着いた。1000円で入場券を購入し、「北海道21世紀館」に入った。北海道の自然や歴史の展示やCG紹介を見た。バスで駅に戻り、岩見沢の三条郵便局で4万円を引き出した。駅横の食堂で昼食を食べた。・岩見沢から、46分遅れの「特急おおとり」に乗車して、網走に向かう。途中でカニ飯を食べた。22時を過ぎて、やっと網走駅に到着した。網走駅前は、バイク族、自転車族など多くの人たちが集まっており、びっくりした。網走駅の近くで、寝袋で野宿した。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行。登別、岩見沢、網走の位置。↓ 登別、岩見沢、網走の位置。↓ 昭和61年(1986年)8月13日夜、登別駅で購入した「国鉄 青春18きっぷ」10,000円。↓ 青春18きっぷパンフレット。 1986年国鉄北海道総局。↓ 1986年8月13日、広島銀行のメモ帳に書いた14日のルート案。最初は帯広・釧路に行く予定だった。その下には岩見沢の記載がある。↓ 結局、岩見沢に行った。岩見沢駅の記念スタンプ。↓ 岩見沢で開催されていた「北海道21世紀博覧会」のチケット。↓ チケットの裏側。(会場案内図)↓ 北海道21世紀館(テーマ館)パンフレット。↓ 三井遊トピア館のパンフレット。その後、特急おおとりに乗車して、岩見沢から網走に移動した。到着は22時を越えていた。
2023.08.14
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今から37年前に、北海道を自転車で旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)5日目は洞爺湖からオロフレ峠を通って登別まで行きました。当時はカメラに36枚フィルムをセットして写真を撮っていました。登別で新しいフィルムをセットしたのはずだったのですが、フィルムの端がカメラのスリット穴にちゃんと入っていなかったようで、13日の登別の夜から15日までの写真が撮影されていませんでした。カメラの裏ぶたを開けて、フィルムがそのままになっているのを見たとき、ものすごいショックで、斜里町で寝込みました。登別駅で多くの自転車旅行者と記念撮影をしたのに、それが残っておらず、残念です。ーーーーーーーーーーーーーー【5日目 : 1986年8月13日(水)】・洞爺湖の火山科学館近くで、知り合いになった人のテントの中で寝ていたが、6時に起きて出発した。・今回の旅で、絶対に見たかった昭和新山へ行く。そして有珠山ロープウェイで有珠山山頂に行き、火口を見た。・自転車でオロフレ峠を上った。結構きつかった。峠を下ると、登別の地獄谷に着いた。登別温泉ロープウェイでクマ牧場に行く。多くのクマがいて驚いた。餌を購入してクマに与えてみた。クマの体臭を初めて匂った。結構臭かった。・自転車旅行者と仲間になり、一緒に第一滝本館の温泉に入った。中にはスライダーがあり、何度も滑って遊んだ。・カメラのフィルムを新しく交換したが、セッティングが悪く、ここからフィルム1本分(36枚)の写真が撮れていなかった。15日に斜里町で気が付き、ショックで寝込んだ。・夜は登別駅で、10人以上のチャリンコ族が集まって、飲み会を開いた。旅の情報を交換できて、楽しいひと時だった。登別駅近くで野宿をした。ーーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院洞爺湖、有珠山、昭和新山、オロフレ峠、登別温泉、登別駅の位置。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)赤い矢印がオロフレ峠のルート。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)p65.↓ 1986年8月13日、朝6時。洞爺湖の火山科学館の前で記念撮影。自転車旅行で知り合った人のテントで寝かせていただいた。ここで別れた。↓ 自転車で昭和新山に進む。↓ 昭和新山で記念撮影。↓ 昭和新山。↓ 昭和新山と美化センター。↓ 昭和新山美化センターのスタンプ。↓ 有珠山ロープウェイの記念スタンプ。8時頃にロープウェイで有珠山に上った。↓ 有珠山の火口を見る。↓ 有珠山火口。↓ 1977年8月7日、有珠山は大噴火した。↓ 1918年~1920年の2年間に隆起して出来上がった昭和新山。↓ 昭和新山。↓ 有珠山ロープウェイから見る昭和新山。↓ 昭和新山。↓ 「ニュー羊蹄」で食事をした。↓ 「ニュー羊蹄」の割りばし袋。↓「自然の記録シリーズ 昭和新山物語/著者:三松正夫/誠文堂新光社/1977年6月30日 第3版発行」 私が小学6年生の時に購入して、読書感想文を書いた思い出の本。三松正夫さんが戦時中、隆起していく昭和新山を詳しく記録に残され、「ミマツダイヤグラム」という重要な観測資料をまとめられた。昭和新山の土地を購入して、山の保存にも尽力された。この本を読んでいたので、どうしても昭和新山をじっくり見たかった。* この三松正夫さんですが、洞爺湖温泉を発見された方です。(p24~25)大正6年(1917年)6月、トコタン(今の洞爺湖温泉)に行くと、湖の水面にチリやアワが流れているのに気が付きました。大きな石を転がすと、ボコボコと湧き出してきました。2年経っても三松さんが発見した温泉は、ますます湯の量が増え、大正10年(1921年)頃から賑わいを見せ、現在のような洞爺湖温泉に大発展したそうです。↓「自然の記録シリーズ 昭和新山物語/著者:三松正夫/誠文堂新光社/1977年6月30日 第3版発行」 p3 「現在の昭和新山」p4p5p6p78~79 この本は、本当に何度も繰り返して読んだ。↓ p233 観測資料として賞賛された、有名な「ミマツダイヤグラム」。この図を見ると、昭和新山の成長が一目で分かる。p269↓ 洞爺湖と有珠山(右)、昭和新山(左)。↓ オロフレ牧場。 オロフレ峠へと進む。↓ オロフレ峠のルート。 自転車で上っていくのがきつかった。画面右上の稜線部分に、クッタラ湖がうっすら見える。↓ オロフレ峠で記念写真。↓ オロフレ峠の記念スタンプ。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)p67 登別の紹介。↓ 登別の時刻谷、登別温泉ロープウェイ、温泉に入った第一滝本館の位置。↓ 登別の地獄谷。 自転車旅行の2人と知り合い、記念撮影をした。↓ 登別地獄谷。三途の川。↓ 登別の記念スタンプ。↓ 登別温泉ケーブルに乗った。温泉街からクマ牧場まで。↓ あひるの競走。↓ 久場牧場のパンフレット。↓ ヒグマ180余頭放牧中。↓ 登別クマ牧場の入場チケット。↓ クマ牧場で写真を撮った。餌を買って、金属の筒に餌を入れ、鉄砲のように餌をクマに送った。↓ ユーカラの里にて記念撮影。↓ 旅行中の3人組の女性と知り合い、旅の話を色々した。↓ 第一滝本館で、温泉に入った。* カメラに新しい36枚フィルムを入れて、登別駅で自転車旅行者達と沢山記念撮影をしたのだが、フィルムがちゃんとセットされておらず、撮影されていなかった。そのため、13日夜~15日までの写真が無く、大変残念。
2023.08.13
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今から37年前ですが、1986年8月に北海道を自転車で旅行しました。(1988年8月9日~8月21日)4日目は長万部から洞爺湖に移動しました。ーーーーーーーーーーーーーー【4日目 : 1986年8月12日(火)】・長万部駅近くで野宿をした。朝起きると雨だった。長万部駅近くの店でラーメンを食べた後、昨夜仲良くなった自転車仲間達と別れ、洞爺湖を目指した。途中の礼文崋山トンネルは、走るのが大変だった。・洞爺駅の店で絆創膏を購入し、洞爺湖まで自転車で走った。洞爺湖畔から遊覧船「羊蹄」に乗って、洞爺湖の中央にある弁天島や大島に行き、大島博物館を見た。・虻田町立火山科学館に行った。1977年8月7日、有珠山の大噴火が起こり、災害が起こった記録を見ることができた。・洞爺湖畔の光風園で風呂に入った。町は観光客が多かった。店でワンタンを食べた。自転車で旅行している人と知り合い、洞爺湖の花火大会を見た。湖上のボートから花火が打ちあがり、空と湖面に花火の光が見えて美しかった。当時、1986年3月に発売された松任谷由実さんの「ダ・ディ・ダ(DA・DI・DA)をテープに落とし、ウォークマンで聴いていた。「メトロポリスの片隅で」、「月夜のロケット花火」、「シンデレラ・エクスプレス」がお気に入りだったが、洞爺湖の花火を見ていると、自然に「月夜のロケット花火」を口ずさんでいた。「高く上がれ 今年最後のロケット弾白く照らせ 今夜最後のバケーション夜空に消える」・洞爺湖温泉の火山科学館の入り口で、自転車で旅行している人と野宿をすることにした。寝袋に入り、お互いに自転車旅の思い出を話していたところ、バイク旅行をしているという3人組がやってきた。一緒に寝ても良いかと言われたので、スペースを開けた。私と知り合いが話の続きをしていると、バイク旅行の人が、「うるさいので黙って欲しい。我々はバイク旅行で疲れている」と言ってきた。私は「バイクより自転車で走る方がもっと疲れる」と嫌味を言ったが、知り合いが「自分は簡易テントを持っているので、そちらで寝よう」と言ってくれた。結局、私たちが外に出て、テントで寝る事になった。ーーーーーーーーーーーーーー帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院。長万部→洞爺湖↓ 長万部→洞爺湖↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。p32~33。道央より。↓ マップルガイド17 北海道/昭文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行。p63。洞爺湖。↓ 1986年8月12日、長万部を出発して洞爺湖へ向かう。↑ 室蘭本線。↓ 洞爺駅に到着。↓ 洞爺湖畔で記念撮影。↓ 洞爺湖温泉街。↓ 洞爺湖と、中央にある大島、弁天島。↓ 洞爺湖汽船株式会社の遊覧船「羊蹄」チケット。↓ 洞爺湖汽船株式会社の冊子を購入した。「洞爺の旅 支笏洞爺国立公園・洞爺湖の自然」↓ 「羊蹄」乗船記念/洞爺湖汽船株式会社。↓ 「羊蹄」遊覧船に乗って、洞爺湖の島に行く。↓ 魚たちが集まる。↓ 洞爺湖の大島。↓ 熊の剥製。大島にある森林博物館。ーーーーーーーーーー↓ 洞爺湖温泉街にある「虻田町立火山科学館」に行った。↓ 1977年8月7日、有珠山が大噴火した。↓ 虻田町立火山科学館。↓ 火山科学館のチケット。↓ 火山科学館で撮影した写真。(有珠山大噴火 昭和52年:1977年8月7日の有珠山大噴火の写真)↓ 火山科学館入管記念スタンプ。↓ 岡田有希子さんのポスターを見かけた。↓ 洞爺湖畔にて。私と自転車。↓ 有珠山が噴火して泥流が流れた場合、それを流す水路ができていた。↓ 昭和新山と自転車。↓ 洞爺湖と観光船。↓ 洞爺湖の花火大会。私は花火を見ながら、ユーミンの「月夜のロケット花火」を歌っていた。↓ 1986年3月に発売された松任谷由実さんの「ダ・ディ・ダ(DA・DI・DA)」をテープに落とし、ウォークマンで聴いていた。「メトロポリスの片隅で」、「月夜のロケット花火」、「シンデレラ・エクスプレス」がお気に入りだったが、洞爺湖の花火を見ていると、自然に「月夜のロケット花火」を口ずさんでいた。「高く上がれ 今年最後のロケット弾白く照らせ 今夜最後のバケーション夜空に消える」ーーーーーーーーーーーーー↓ 火山科学館で、自転車で知り合った人と寝袋で寝る事にした。自転車旅行の話で盛り上がった。↓ バイク乗りの人たちが来たので、場所を詰めた。話をしていると、バイクの人達が「うるさくて寝られない」と言ってきた。結局、我々が外に出て、知り合いの簡易テントで寝る事になった。これは、朝になって記念撮影した写真、
2023.08.12
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今から37年前ですが、北海道を自転車で旅行しました。(1986年8月9日から8月21日まで)3日目は函館から大沼経由で長万部(おしゃまんべ)に移動しました。ーーーーーーーーーーーーー【3日目 : 1986年8月11日(月)】・函館の公園で野宿をして、朝5時頃に目が覚めた。新聞を買って読んで出発した。外人墓地などを回り、国道5号線を北上して大沼国定公園へ向かった。・途中で「峠下」という標識を見つけた。ここは函館戦争勃発の地として有名。明治元年(1868年)10月に、この峠下で大鳥圭介の舞台と政府軍が戦い、函館戦争が勃発した。峠下から峠を上り始め、汗びっしょりになった。トンネルを抜けると、大沼が見えてきた。・大沼では遊覧船に乗った。大沼の後方に、美しい駒ヶ岳(1,133m)が見えた。昼にイカ定食を食べた。・13時に大沼を出発し、国道5号をひたすら自転車で進んだ。どこまでもまっすぐな道で、海と空と草原の景色が続く。・八雲を越えて海岸沿いを走り続け、夕方に長万部(おしゃまんべ)駅に着いた。駅前では沢山のサイクリスト(チャリンコ族)に会った。皆で挨拶を交わした後、銭湯に行って風呂に入ったり、カニや鶏肉を買って皆で食事をしたりして、とても楽しかった。・夜はビールを飲みながら、皆が語る幽霊の話を聞いた。石北本線・常紋トンネルの幽霊の話、積丹半島・神威岬の念仏トンネルの幽霊の話、幸福駅の首吊り幽霊の話、登別の幽霊の話など、皆の話は尽きなかった。北海道の道路で「!」の標識があるが、あれは幽霊が出る場所なので気をつけろという意味だという人もいた。中には「?」の標識があり、そこは恐ろしい場所だと言う人がいたが、「?」の標識は本当にあるのだろうか?。・駅近くで、皆で寝袋を並べて野宿をした。ーーーーーーーーーーーーーー↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院函館→長万部。↓ 函館、大沼、長万部の位置。↓ マップルガイド 17 北海道/旺文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 P12~13函館、大沼、長万部。ーーーーーーーーーーーー1986年8月11日(月)。函館の公園で野宿をした後、起きて函館朝市に行った。↓ 函館朝市。↓ 函館港と倉庫群嘉永7年(1854年)4月、米国のペリー提督が5隻の艦船を率いてこの港に姿を現し、函館の住民を大いに驚かせたが、ペリー著「日本遠征記」に”世界の最良港の一つ”と記されているように、船が出入りしやすく、安全な港として国際的に名を知られた港。この赤レンガの金森倉庫は、明治40年(1907年)頃の建築で、レンガを2枚半の厚さに積み上げた外壁、木骨の柱、能登で焼いた瓦葺の屋根で、函館港の歴史を語り継ぐシンボル的存在であり、時折り、テレビ、映画のロケーションの場になっている。↓ 日本最初の気候測量所跡。この辺りは、新島襄の海外渡航を助けた福士成豊(日本で最初に西洋型の続豊治の次男)が、明治5年(1872年)英国から機械を買い入れて、日本で最初の気象観測をする「函館気候測量所」を開設したところである。↓ 北海道第一歩の地碑。明治維新後、函館は名実ともに北海道の門戸となり、この北海道の地を踏む者がその第一歩を印したのが東浜桟橋である。↓ 日本最古のコンクリート電柱。↓ 重要文化財 太刀川家住宅店舗。明治34年(1901年)、米穀商初代太刀川善吉が建築した土蔵造り2階建店舗。↓ ペリー会見所跡。嘉永6年(1853年)日本との貿易を求めて来航した米国のペリー提督は、幕府との間に日米和親条約を締結し、翌7年(1854年)4月、5隻の艦船を引き連れて函館に入港した。ペリーは、この地にあった場所請負人山田屋寿兵衛で松前藩家老松前勘解由らと会見し、市内の調査、家屋の借用、必需品の買いつけを申し入れたり、港内測量などを行って函館を去った。↓ 外人墓地と私の自転車。↓ 外人墓地(ロシア人墓地)。↓ 高龍寺。↓ 旧ロシア領事館(道南青年の家)↓重要文化財 旧函館区公会堂。↓ 元町公園。 霧が深く、海が見えない。↓ 聖ヨハネ教会。英国プロテスタントの教会。↓ 元町カトリック教会と自転車。ゴシック様式のローマカトリック教会。↓ ハリストス正教会。写真が見当たらなかったので、キヨスクのお土産袋にある「ハリストス正教会」の絵を紹介する。↓ 玉姫殿があった。↓ 函館→大沼。↓ マップルガイド 17 北海道/旺文社/昭和61年(1986年)5月第4刷発行 P21大沼。↓ 大沼と駒ヶ岳(1,133m)↓ 大沼国定公園の掲示板。 (左にユートピア大沼の案内あり)↓ 函館本線、大沼、駒ヶ岳。↓ 大沼と駒ヶ岳。↓ 大沼遊覧船に乗船して回る。↓ 記念撮影。(大沼、駒ケ岳)↓ 大沼駅の記念スタンプ。↓ 大沼郵便局の記念スタンプ。↓ 大沼、八雲、長万部。↓ キタキツネの旗を買って、自転車に付けた。↓ 函館本線の山越駅(八雲町)で記念スタンプを押した。「山越内関所之跡」:江戸時代に日本最北の関所。ーーーーーーーーーー↓ 長万部駅に到着。駅前に集まった自転車仲間で記念撮影。 中央で麦わら帽子を被っているのが私。↓ 黄色いタオルを首に巻いているのが私。↓ 皆で宴会をして、幽霊話を聞いた。↓ 長万部駅の記念スタンプ。
2023.08.11
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今から37年前の1986年8月に、北海道を自転車で旅行しました。(1986年8月9日~8月21日)2日目は青森から函館へ移動しました。【2日目 : 1986年8月10日(日)】・夜行特急「八甲田」に乗り、上野駅から青森駅まで移動した。列車内はギュウギュウ詰めの状態で、シートに座れなかったので、通路に新聞紙や雑誌を敷いて座った。上野駅で知り合ったSさん、列車内で知り合った人たちと話が盛り上がった。列車は白河、郡山、仙台と進んで行った。夜の11時頃に眠たくなり仮眠をするも、トイレに行きたくなった人が通路を通るたびに、スペースを開けなければならず、熟睡ができなかった。それでも少し寝て、目が覚めると一戸付近だった。列車は二戸、八戸、浅虫を通り、青森駅に到着した。・青森で青函連絡船「摩周丸」に乗船し、函館に向かった。200円でシャワーを浴びて、上野から一緒になったSさんと、甲板でビールを飲んだ。下北半島を越えて、函館山が見えて来た。Sさんは「函館山は東京タワーと同じくらいの高さですからね」と言った。・函館港でSさんと別れ、函館駅で分解型自転車を組み立てた。慣れていなかったので、組み立てに1時間以上かかった。ここで、日本を歩いて一周している男性に声を掛けられた。・自転車で五稜郭に行った。五稜郭タワーの上から五稜郭の五角形を確認し、景色を眺めた。・湯の川温泉街を抜けて、トラピスチヌ修道院を見学した。海側を走り、啄木記念碑を見た。そのまま西に進み、墓地を抜けて立待岬に着いた。沖の漁火が見えた。・函館山山頂までロープウェイで上がった。100万ドルの夜景を期待していたが、霧が立ち込め、何も見えなかった。夜景の写真が撮れず、残念だった。・麓に下り、街を自転車で巡るが、バイク族がいっぱいいた。店でラーメン、焼売を食べた。・市内の公園で野宿した。ーーーーーーーーーーーーーーーー↓ 1986年8月10日(日)朝、急行「八甲田」が青森駅に到着。↓ 青森駅から見た線路。ここで行き止まりになっている。↓ 帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー15訂版/帝国書院より。青森から函館へ、青函連絡船「摩周丸」に乗船。↓ 青函連絡船「摩周丸」乗車記念スタンプ。1986年(昭和61年)8月10日。↓ 函館市HPより。「摩周丸:青函連絡船記念館」の写真。摩周丸は、青函トンネル開通により、1988年3月に運行を終了した。今は、函館市の青函連絡船記念館として使用されている。↓ 摩周丸の船内にある「船の現在位置」。函館行き航路は青い線。青森行き航路は赤い線。函館行きの青い線の中に、位置を示す赤い光が見える。↓ 上野駅で知り合ったSさんと、摩周丸も一緒に乗船した。左がSさん、右が私。↓ 甲板でビールを飲みながら、記念写真。↓ 有料望遠鏡で下北半島を見るSさん。↓ 下北半島。↓ 函館山が見えてきた。Sさんと記念撮影。↓ マップルガイド17 北海道/旺文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)P12~13道南地図。↓ マップルガイド17 北海道/旺文社/昭和61年(1986年5月第4刷発行)P15函館地図。↓ 函館駅で記念撮影。↓ 組み立てた自転車に乗って、五稜郭へ移動した。↓ 五稜郭タワー。↓「函館と五稜郭 五稜郭タワー史跡館ガイド/五稜郭タワー株式会社」↓ 五稜郭タワーの概要。↓ 函館五稜郭祭。毎年5月中旬開催!!↓ 特別史跡 五稜郭。 函館戦争・己己の役。維新戦争末期の明治元年10月、幕府海軍副総裁、榎本武揚は開陽以下8隻に幕軍諸隊二千を乗せ、北風荒ぶ蝦夷地(森町)鷲の木に上陸。同、11月函館五稜郭を無血占拠し、榎本武揚はここに民主主義に根差した新政権を築く。激動する歴史の狭間で新天地を夢見た男達のたった7カ月で消える幻の共和国の誕生だった。↓ 五稜郭タワーの上から見た景色。五稜郭の五角形がよく分かる。↑ 函館戦争当時あった五稜郭内の函館奉行所庁舎。明治元年(1864年)、五稜郭が完成したとき、郭内に建築中であった函館奉行所庁舎も落成した。それから3年後の慶応3年(1867年)、徳川幕府の大政奉還によって幕府直轄の血であった函館は新政府に引き継がれた。しかし、翌明治元年、幕府海軍副総裁だった榎本武揚は、徳川旧幕に対する新政府の処遇を不服とし、品川沖から艦隊をもって北上し函館五稜郭を占拠し、函館戦争の拠点となった。明治2年、榎本軍の降伏により新政府の管轄にもどったが、その後、賊軍が使用していたという理由で郭内の建物(函館奉行所)を解体してしまった。↓ 函館奉行所跡発掘調査概要明治4年、札幌に開拓使本庁を設置するのに伴い解体された函館奉行所庁舎跡について、発掘作業を行っています。この発掘作業は市立函館図書館に残されている「五稜郭内庁舎平面図」をもとに進められています。尚調査期間中はグラウンドの使用が、昭和61年(1986年)6月2日~10月3日まで出来ませんので無断で立ち入らないように願います。函館市教育委員会。↓ ほっかいどう函館五稜郭 カラー記念スタンプ。↓宗教法人 天使の聖母トラビスチヌ修道院。明治31年(1898年)、フランスから派遣された8人のシスターが始めた修道院。↓ トラピスチヌ修道院で記念撮影。↓ 石川啄木の案内板。この辺りは、かつては砂丘が湯の川まで続き、ハマナスが咲き乱れ、啄木が好んで散歩した所であり、歌集「一握の砂」に「砂山の砂に蟹遊び初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」と歌われている。函館市。↓ 石川啄木像。↓ 石川啄木像と記念撮影。「潮かおる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ今年も咲けるや」と台座に記されている。↓ 北海道旅行のために購入した分解型自転車。この自転車は、北海道旅行の後、東北旅行、そして社会人になりオランダ赴任になった時も持参し、オランダ国内やドイツのライン川街道などを走った。↓ 立待岬近くの石川啄木一族の墓にて。石川啄木「東海の小島の磯の白浜にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」 ①「宮崎郁雨(みやざきいくう)の歌碑。郁雨は歌人で、家業の味噌製造業を行った。石川啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。②「砂山影二」の歌碑 (写真の下の歌碑)歌碑は影二の歌集「坊ちゃんの歌集」の冒頭の作品。大正10年5月、世をはかなんで青函連絡船から深夜の津軽海峡に身を投じ、弱冠20歳の生命を断った。↓ 立待岬(たちまちみさき)。↓ 沖に漁火が見えた。↓ 立待岬で記念撮影。↓ 墓地の奥は、函館山。↓ 函館山と高田屋嘉兵衛の像。高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)は、江戸時代後期の廻船業者で、淡路島出身。函館で商売を行い、函館の発展に貢献する。1811年、千島列島を測量中のロシア軍艦ディアナ号艦長のゴローニンなどが、国後島に上陸した時に松前奉行の役人に捕らえられ、約2年間、函館の松前に監禁されたというゴローニン事件が起こった。翌1812年に高田屋嘉兵衛の船が同船副艦長ピョートル・リゴルトに拿捕され、カムチャッカに連行されたが、高田屋嘉兵衛が仲介役となり、ロシア側から謝罪文を貰う事で、ゴローニンは釈放され、事件解決となった。↓ 函館山ロープウェイの搭乗券。↓ 函館山山頂。↓ 伊能忠敬 北海道最初の測量地 プレート。(函館山山頂)↓ ブラキストン(Blakiston)のプレート。(函館山山頂)イギリスの動物学者トーマス・ブラキストンは、津軽海峡の北と南で、動物の分布に相違があると考え、津軽海峡でブラキストン線という境界線を提唱した。例えばクマならば、この線を北限とするのはツキノワグマで、この線を南限とするのはヒグマ。↓ 函館山。↓ 明治館。ーーーーーーーーーーーー↓ 函館で押した記念スタンプ。1986年(昭和61年)8月10日。ーーーーーーーーーーーーー↓ NTTテレフォンカード (函館)を購入した。↓ きた北コール北海道のパンフレット。↓ テレフォンサービス :音楽で描く「函館の夜景」に電話を掛けて聞いた。↓ NTT観光テレフォンカードの案内。このころはテレフォンカードがブームだった。
2023.08.10
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今から37年前になりますが、1986年8月に北海道を自転車で旅行しました。アルバイト先に無理を言って、1986年8月9日(土)~1986年8月21日(木)の13日間を休んで、旅をしました。前年度(1985年8月)に、高校時代から通学用に使っていた自転車で四国一周旅行をしたのですが、これでは列車に乗せられないので、北海道旅行に合わせて分解型自転車を新規購入しました。自転車を分解して、袋に詰めて新幹線にも乗ることが出来ます。北海道旅行の写真が残っていたので、まずは1日目を紹介します。【1日目 : 1986年8月9日(土)】・朝6時に起きて、家から広島駅までバスで移動。広島駅から東京駅まで新幹線を利用した。・東京駅から上野駅まで歩くことにした。通りすがりの人に上野駅の方向を教えていただいたのだが、途中で間違えたようで、神田神保町から武道館、靖国神社まで行ってしまった。・再び歩くと、後楽園球場に着いた。人が集まっているので見に行くと、ドカベン(香川伸行)選手がいた。・結局、3時間も大回りをして上野に着いた。不忍池では夜店が並び、そばの会場で「第35回江戸趣味大会」が行われていた。歌手・「北泉舞子さん」のオンリーコンサートで、私は初めて北泉舞子さんの歌を聴いた。・コンサートの後に上野駅に行くと、青森行きの夜行急行「八甲田」に乗車しようとする人たちでプラットホームはギュウギュウ状態だった。「八甲田」には「MOTOトレイン」の車両があり、バイクも乗せることができた。・「八甲田」の車両だが、シートはすでにいっぱいで、私は床に新聞紙や雑誌を敷いて座った。結局、床も人だらけになり、身動きがとれなかった。若い人と知り合いになった。Sさんという人で、神奈川県横浜市戸塚で勤務しているが、お盆休暇で函館に帰省するとのことであった。車両の床で並んで座った。シートに座っている人たちの足の間に体を入れて、横になろうとするが、難しいので体育座りで寝る事にした。トイレに行きたい人が出ると、床に寝ている人が全員起きて、歩くスペースを作らなければならず、中々寝られなかった。車内は冷房が効きすぎで寒かった。列車は白河、郡山、仙台、平泉と進み、駅名を確認していたのだが、いつのまにかウトウトしてしまい、翌朝は一戸(いちのへ)付近で目が覚めた。ーーーーーーーーーーーーーー「北海道 マップルガイド17/旺文社/昭和61年(1986年)5月第4冊発行」ーーーーーーー1986年8月9日。 東京駅から上野駅まで歩く途中、道を間違えて遠回りをした。↓ 「寿人遊星」像。九段下にある像。1986年ハレー彗星の地球接近を記念して建てられたとのこと。↓ 東京都の紋章。 横には私の自転車に積むバッグなど。↓ 日本武道館。↓ 東京ドーム。まだ建設中だった。 (完成は1988年)人だかりがあり、見るとドカベン(香川伸行)選手だった。。↓ 後楽園遊園地。。↓ 東京駅から道を間違え、3時間歩いて、やっと上野駅に着いた。↓ パンダ像 (赤ちゃん誕生おめでとう 駅長)。↓ 右側に西郷隆盛像がある。↓ 上野・不忍池と夜店。↓ 樟脳(しょうのう)船(400円)。とても懐かしい。↓ 不忍池。↓ 北泉舞子 コンサート会場。↓ 第35回 江戸趣味納涼大会。↓ 北泉舞子さんが歌を歌う。↓ 1986年 夏の高校野球大会 カルピスCM。東東京代表:正則学園高校。 西東京代表:東亜学園高校。↓ 上野駅で記念ハンコを押した。↓ 夜行急行「八甲田」(上野→青森)。バイクを乗せる「MOTOトレイン」が連結していた。上野駅で知り合いになったSさんと記念撮影。函館まで一緒に行くことになった。(左:Sさん、右:私)↓ MOTOトレインの中。北海道をバイク旅行する人たち用。↓ シートに座れなかったので、通路や、シート客の足元に座って寝た。床は新聞紙や雑誌をちぎって敷いた。車両内は人がギュウギュウ詰めの状態だった。深夜にウトウトしていると、トイレに行きたいという人が通路を通るため、皆が起きて体を傾けて通してあげた。まったく熟睡できなかった。列車は東北本線を夜中進み、翌日午前中に青森駅に到着する。
2023.08.09
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