にっくの日記

にっくの日記

2010/12/13
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最近、リベラルと云う事に対して強い疑問を感じており、保守的である事を奉じると云う事の大切さを強く感じる様になって居る。だが、保守的である事を奉じる事をどの様に正当化するのかと云う事に就いての答えはすぐには出て来ない。先程ベッドの中寝ぼけ頭で思いついたのは、保守的である事を奉じる際に一番大事な根本事は「まごころ」と云う事ではないかと云う事だ。又、日本的な義理人情と云う美意識、そして責任感、又、ユングが言うところの「個性化」と云うものを、私が考える「保守的である事」の根本に加えてもよいのではないだろうか。

「保守的である事」と云うものは、基本的には思想や主義と云ったものではなく、もっと自然で肉体的なものとして考えたい。保守的であるためには、保守的である事を奉ずる者が皆押し並べて斯くあるべしと云った様なものではなく、人それぞれに自分にあったやり方、在り方があってよいものなのではないだろうか。

喩えて云うなれば、リベラルが「頭」とするならば保守は「体」である。そして、「体」と云うものは人それぞれに違うものであって、そう云ったそれぞれに違う「体」を持った各人には、各人それぞれに相応しい在り方があるはずである。

勿論、上述した様な私の「保守的である事」の定義も又、絶対的なものではなく、あくまでも私にとっての定義に過ぎないと考えるべきだろう。

次に具体例を以て考えてみよう。

例えば、保守主義を奉じる者の中には、旧字体や旧仮名遣いを用いる事を保守派の必要条件と考える者も居る様である。しかし、その様な書法を用いる事に違和感を覚える者は何も無理してそうする事はないのではないだろうか。

又、保守的である事には、自分自身にとっての「歴史」と云うものを重んじる事も必要だろう。例えば日本人であれば、日本の歴史、そして日本の文化と云うものに就いて造詣を深めると云う事だ。何故と云えば、各人は何も突発的に発生したものではなく、歴史と云うものの上に発生したものであるからである。

私たちが今在る様な形で在るのは、祖先の築き上げてきた歴史のお陰であり、これが我々の「体」の現実である。

保守的であると云う事は、この現実をきちんと認める事を必要とするだろう。更に加えて云うなれば、日本人の物の考え方、美意識と云ったものは、日本の歴史の中で築かれて行き固定化されて来たものである。それ故、日本人的物の考え方、美意識を有する者であって且つ保守的である事を奉じる者は、日本の歴史や文化に就いてより深く学ぶ必要があるわけである。



寝ぼけ頭の中私は上の様な事を考えた。





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Last updated  2010/12/13 02:52:33 PM
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