なせばなる、かも。

なせばなる、かも。

メッセンジャー 2


「俺達も、見たんだよ。バイトの帰りにばったり田島と会ってさ。学校の近くを歩いてたら、なんだか学校が騒がしいかったもんだから早速行ってみたんだ。坂井先生の頭を直撃したのは、あの白い粉の袋が埋め込まれた鉢だったんだ。鑑識の人もチェックしていたから、近々まるみの所にも警察の人が来るんじゃないか?」

 まるみは眉を寄せて、平井に取りすがった。

「どうしよう。私、なんて言えばいい?」
「見たままをいえばいいじゃん」
「でも!」

 つっかかるまるみに平井はついにためらっていた言葉を口にした。

「桜井を庇いたいのはわかるけど、別にアイツが犯人と決まったわけじゃないし、それに、もし奴がやったのなら、お前はそんなアイツが好きなのか?」

 一気に言い放ってから、平井はまるみの顔を見て後悔した。まるみの瞳には今にもこぼれそうな涙があふれていた。平井の脳裏に田島の言葉が浮かんでは消えた。

―いいのか? 桜井っていえば手当たり次第に女を落とすって、最近噂になってる奴だ-

 ざらついた気持ちのまま、平井はまるみの返答を待った。まるみはうつむいたまま、しばらくは動こうともしなかった。平井の正面に正座しているまるみのひざの上には、ちいさな台拭きが握り締められていた。

『覚悟しなくちゃ』

 平井は次にまるみの口から吐き出されるであろう、桜井への想いを聞く覚悟をきめた。

「そうじゃないの。桜井君があの植木鉢をかわいがってたってことは天使の羽根さんからも聞いてたんだけど、私があの鉢に関わる様になってからはまったく桜井君をみかけなくなってたから、逆にそれは違うと思うの。私が気にしてるのは桜井君なんかじゃなくて……」

 はぐらかされてきょとんとする平井をよそに、まるみの推理は平井のそれとは違う方向に動いていた。

「付け爪が入ってたの、植木鉢の土の中に」
「へっ?」

 女性のおしゃれにはとんと無頓着な平井は、間の抜けた返事をした。
「爪の上に貼り付ける奴よ。ラインストーンとかがついてて綺麗なやつ。私のパソコンをセッティングしてくれるとき、ヒカルの指先に光ってたヤツだった……」
「ヒカルが……?」

 平井は混乱寸前だった。まるみは桜井を庇っていたんじゃなかったのか。どうして植木鉢にそんなものがはいるというのか……。

「平井君、平井君ったら!」

 揺り動かされて平井ははっとした。考え込んでいるはずだったのに、いつのまにか眠ってしまっていたのだ。無理もない、今日はバイトのあとに坂井教授の事件に出くわし、まるみのマンションを探しにうろうろ歩き回ってくたくたになったところで暖かな部屋に通されたのだ。疲れが睡魔となって音もなく平井を襲っていた。

「あ、あのさ。お布団1つしかないけど、よかったら半分こしようか。やっぱり寒いし、このままだと風邪引いちゃうよ」

 まるみがぎこちなく言うと、平井もやっと自分の置かれている状況に気がついた。

「あ、いや! んなことしたら、悪いじゃねーか…」

 そう言いつつもすでにまぶたがおりかかっている。まるみはあきらめて敷布団を平井の座っているすぐ横まで引き寄せ、眠りの淵でふらふらしている平井の身体をその布団の上に倒してやった。そして、自分も残りのスペースに潜り込み、二人の体にかかるように上手に掛け布団を掛けた。

「もう、最後まで聞いてくれるって言ったのに……」

 まるみはそう言ってちらっと平井を見上げたが、すぐ目の前の平井はすでに健やかな寝息を立てていた。

「桜井君の事を知ってるなんて・・…。ひょっとして平井君って、天使の羽根さんだったの?」

 まるみは自分がヒカルの付け爪の件や桜井の事で悩んでいるはずなのに、平井と1つの布団に包まっているとどこか心が安らいでいくのを感じていた。


 翌朝、平井は聞き覚えのある甘い声に起された。

「ねえ起きてよ! 待ち合わせに遅れちゃうでしょ! ねえったら!」

 ゆっくりと焦点があって、目の前にまるみの顔が見えた。眠っている自分をまるみが揺り起こしている。

『ん?いつ結婚したんだっけ?』

 平井の脳裏に都合のいい空想が浮かんでいたが、部屋の様子に焦点があったと同時に昨夜のことが思い出された。平井は慌てて起き上がると、腕時計をみて声を上げた。

「やべ! 寝過ごす所だった! まるみ、準備はできてるのか?」

 平井の言葉に黙ってまるみがうなずいた。

「準備ができてないのは平井君の頭だけよ」

 淡々と言われて平井は慌てて洗面所を借りた。同じ玄関を出て、一緒に電車に乗り込むと、ほっとしたように顔を見合わせ、ふっとおかしくなって笑い出した。

「昨日はごめんな。うっかり眠ってしまったみたいだな」

 申し訳なさそうに頭を掻いている平井に、まるみはちょっと下をむいてうなずいた。なにもなかったのに、なんとなく後ろめたくてなんとなく気恥ずかしい。自分のことなのにうれしいのか、困っているのか、それさえもうまく把握できない。まるみはそんな自分に翻弄されていたのだ。

 いつものウイングスを目前にしたとき、二人は呆然と立ち尽くす田島と美咲を発見した。

「よう、お二人さん、早いねぇ」

 平井の軽口に田島はちょっと焦った顔をしたが、すぐに左の眉を上げて返した。

「君達だって、ずいぶんしっくり行ってるみたいだね」

 今度は平井が真っ赤になる番だった。そんな事よりっと、田島が顎でウイングスの入り口を示した。めずらしくウインドウがカーテンで閉ざされていると思っていた平井ははっとした。立ち入り禁止の札が細いロープにぶらさがっていたのだ。良く見ると、カーテンの向こうからかすかなシャッターの音が聞え、数人の男達の気配も伝わってきた。

「何か、あったのかしら。坂井先生が亡くなったばっかりなのに、今度は何?」

 美咲が不安げにつぶやいていた。そんな美咲の手を田島がしっかりと握り締め、無言で頷いている。物事がどちらかの方向にすすんだのだと実感しながらも、平井は田島がうまく事を運んだのだと安堵を覚えていた。

「まるみ、昨日は大丈夫だったの?だいぶ具合悪そうだったよ。電話してもちっとも出ないし、心配したんだから」

 美咲はいつもまるみを妹のように心配した。それがまるみにはうれしいようでもあり、くすぐったいようでもあり、しかしちょっと悔しかったりするのだ。

「大丈夫!ほらっ、ぴんぴんしてるでしょ?」
「はいはい」

 4人はいつものおだやかな話題に湧いた。
 しばらく待って、まるみがぽつりとつぶやいた。

「ヒカル、遅いねぇ」

 確かに遅かった。約束の時間はとっくに過ぎている。どんなにヒカルがいそがしい人間だと言っても、約束に遅れるのに携帯に連絡も入らないと言うのはおかしかった。
 まるみの言葉を受けるように、美咲がヒカルの携帯に連絡を試みた。

「おかしいなぁ。呼び出ししてるのに、出ないみたい」

 美咲が言い終わる前に、田島が声を上げた。

「聞えないか? あの曲、ヒカルの携帯の着メロだ。ウイングスの中で鳴ってるみたいだ」
 言われて3人は耳を澄ませた。確かに先ほどまでざわついていた店内もしんと静まって緊張しているようすがうかがえた。美咲は、電話をどうしたものかと戸惑っていたが、答えを出す前に誰かが電話口に出た。


「もしもし……」

 電話に出たのは無愛想な男の声だった。美咲は自分の名前を言って、どうしてヒカルが出ないのかを問いただしてみたが、逆に美咲とヒカルの間柄などを聞かれる羽目になってしまった。
美咲が今日の約束の事を話し、今店の前にいることを告げると、まもなくカーテンが開き、中から刑事が手まねきをしてきた。

 4人はみな一様に不安を隠せない顔つきで通されるまま店に入った。見なれたはずの店は誰かが暴れたようにめちゃめちゃになっていた。その上に金の粉が付着しているのはどうやら鑑識が入った後のようだった。

「貴方がさっき電話してきた人ですか?」

 呼び止められて、美咲はこっくりとうなずいた。刑事は美咲だけを呼び寄せ、厨房へと案内した。美咲の後姿を見送った3人は、すぐに美咲の横顔がこわばったことで事態のあらましを予測した。

「どうして……!いやぁー、ヒカルぅー!」

 ショックを隠しきれない美咲の声に耐えかねたまるみが、平井の上着のすそを握り締めてうつむいていた。その足元をまるみの涙が雨粒のようにぬらしている。
平井は昨日のまるみの台拭きを握った手を思い出し、じっとしていられずにまるみを引き寄せて自分の胸の中に抱きとめてやった。ヒカルが事件に関与していることは昨夜の時点でわかっていた。そして、それ以前にまるみはその事に気付き、気を揉んでいたのも事実だった。
なにもしてやれなかったと震える細い肩を、平井はただ抱きしめるしかなかった。

「君たちはこの女性の知り合いですか?」

 先ほど美咲を連れて行った刑事とは別の刑事が声を掛けてきた。平井がうなずくと、刑事はヒカルの名前や住所などを確認し、みんなを美咲のもとに行く事を許可してくれた。

 案の上、美咲が見たものはみんなの想像通りに変わり果てた姿のヒカルだった。いつもしゃれた装いのヒカルだったが、この時ばかりはそんな大人びた服装が幼い素顔のうえに貼りつけられただけのものに見えた。
随分争ったのだろう。あちらこちらに擦り傷や打ち身らしき跡があった。彼らの後ろではヒカルの家族に彼女の死を知らせる電話が淡々となされていた。

「警部」

 外から表れた刑事が鑑識と話し込んでいた初老の男に声をかけ、その耳元に何かを告げた。初老の男はわかったと頷くと、平井達のもとにゆっくりと歩み寄った。

「君達は被害者の友人ということだが、この店はよく使っていたのですか」
「ええ、僕達はすぐ隣にある専門学校の生徒です。僕らだけじゃなく、この辺りの学校の生徒なら、みんな何度かはこの店を利用していると思います」

 田島が率先して答えると、警部と呼ばれたその初老の男はゆっくりうなずいた。そして、質問を美咲に向けた。

「被害者の女性の交遊関係について、おしえてもらえないかな。つまり、ボーイフレンドはいたんでしょうか」
「そ、そういえば昨日、そんな話が出て…。彼女、ボーイフレンドはいるって言ってたけど、訳ありだからって、寂しそうにしてたんです」

 美咲はこの店でヒカルと談笑していたことを思い出しながら答えた。

「君は、何か気づいた事はありませんか?」

 警部は今度はまるみに声を掛けた。まるみは一瞬体を硬直させ、平井に視線を送った。

「ちゃんと、話した方がいいんじゃないか」

 平井はまるみを促したがまるみはなかなかうまく口を開けない状態だった。

「警部! 古井の居場所がわかりました!」
「そうか。じゃあ、佐々木、山岸、すぐ直行してくれ!」

 まるみが口篭もっている間も事態は進みつつあった。

「古井って、ウイングスの店長さんのことじゃない?」

 美咲がちいさく呟いた。それを機に、まるみはすっと顔を上げて、決意を固めた。


「昨日、学校の坂井教授が亡くなった時、現場に植木鉢が落ちてあったと聞いていますが、私、何日か前からその植木の世話をずっとしていたんです。
ひとつだけ元気のない木があって、鉢を変えてやろうと植え替えた時、土の中に白い粉の入った袋と彼女の、ヒカルの付けづめが混ざっているのをみつけてしまったんです」

 まるみは思いきって一気に話した。その後を冷静な警部が問いただす。

「で、君がそれを見つけたのは事件の起こる何日前だね?」
「教授が亡くなったのは夜間部の時間帯だと聞いています。でも、私はその日の4時ぐらいにそれを目撃してしまったんです」

 まるみは立っているのも辛くなったのか、その場にしゃがみこんでしまった。

「わかった。君達もショックを受けているんだろう。とりあえず、今日のところは家に帰りなさい」

 警部が促している時、ばたばたと身奇麗な婦人が走ってきた。ヒカルの母親だった。

「ヒカルは? ヒカルはどこなんですか!」
「落ち着いてください、奥さん」

 周りにいた刑事が引き止めるのも聞かず、ヒカルの母親はヒカルの変わり果てた姿を目撃して絶句した。

「ヒ…、ヒカルゥーーーー!!」

 それは余りにも哀れな姿だった。きれいにセットされた髪を振り乱し、ヒカルの母親はヒカルに取りすがっていた。

「行こう…。ここにいても、辛いだけだし」

 田島が皆を促す様に言った。それを機に4人は静かにその場を後にした。美咲はすっかり取り乱し、田島が支えていないと倒れてしまいそうな状態だった。何かを予感していたまるみと違い、突然ふって湧いたような出来事にすっかりまいってしまったようだ。

「悪いけど、先に美咲を連れて帰るよ。平井、まるみのこと頼むぜ」

 田島はそう言うと、美咲を抱える様にして駅へと向かった。

平井はどうしたものかと考えていた。このまままるみを部屋に送って行ったとしても、平気でいるとは思えない。しかし、当のまるみはしっかりとウイングスの方を見詰めて動く気配もなかった。

「なあ、まるみ。どうする?」

 躊躇いがちにかけた平井の言葉を、力強い声がかき消す様に通った。

「ねえ、平井君。私と一緒に考えてくれないかなぁ。私、どうしてもヒカルの爪のことが気になるの。もう1度私の部屋に戻って考えてみようよ」

 気がかりだったつけ爪のことを警察に話してしまったせいか、まるみは随分すっきりした顔になっていた。

「よし! それでこそ俺の弟子だ。付合ってやろう」


 1度入ったことがあるせいか、平井はすっかりまるみの部屋におちついてしまった。

「おーい、まるみ。コーヒー入れてくれ」
「なぁーにが、おーい、まるみよ!」

 仏頂面のまるみがコーヒーカップをトレイにのせてやってくるなり言った。

「ははは、悪い悪い。ところでさぁ。事件のことなんだけど、1度ノートか何かに書き出して見たらどうかと思うんだ」
「はいはい、書くものとノートね」

 まるみは先を見越して引き出しから12色入りのカラーペンとノートを取り出した。


「よい子のカラーペン? お前にぴったりだな」

 カラーペンのケースを振りまわして笑う平井からバシッとケースを奪い取って、まるみは膨れっ面になった。

「まったく…。よく膨らむもんだなぁ」

「もう!いい加減にしてよ、こんなときに。それよりも早くノートに整理しようよ。まず、ヒカルのことね。事件の現場はたぶんウイングスに間違いないよね」
「ああ、ずいぶん争った後があったから、他殺だな」
「じゃあ、誰に?」
「う~ん、店長か?」

 そこまで書き進んでまるみが顔をあげた。平井は腕組みしたまま考え込んでいる。

「そうかもしれないけど、違うかもしれないよねぇ」
「そうだよなぁ。たとえばウイングスに出入りのあった少林寺調理師学校の生徒とか」
「少林寺? なんか恨みでもあるの?」

 まるみは目を細めて睨んだ。

「このまえウイングスにいるとき、後ろからぶつかっても知らん振りで厨房に入っていった」

 納得できないといった風情で平井が言う。

「ぶつかられたぐらいで…。でもあそこの学校の生徒はウイングスのバイトに随分入ってるみたいよね。私も何度か柄の悪い人達が出入りしているのを見たわ」
「麻薬中毒になってるような連中もいるって噂だし、あるいは…」
「まあ、そこは推測になるよね。じゃあ、▽マークをつけておくね。店長と少林寺調理師学校生徒ね。じゃあ、動機は?」

 まるみはつぎつぎとペンを走らせた。

「動機かぁ…。わからんなぁ。だいたいどうしてヒカルの付けづめが鉢に入っていたんだろう。それだって随分謎めいてるよなぁ」
「う~~ん、その辺りになるとさっぱりわからないのよねぇ。ねえ。じゃあ、とりあえずヒカルのことはストップして、坂井教授のことをまとめてみようよ」

 まるみはノートをめくって坂井の名前を書き出した。

「俺、田島と一緒に現場を見てきたんだけど、あれはどうみても転んで頭を打ったんじゃなくて、3階にあった鉢で頭を直撃されて死んだんだと思うんだ」

 そう言いながら平井はまるみのカラーペンのケースからブルーのペンを取り出して「鉢」と書き込んだ。

「じゃあ、やっぱりワザと誰かが殺したってことね」
「うん、たぶんそうだと思うな。で、その時に使われた鉢に白い粉が入っていたってわけだ。」

 言われるままに書き込みながら、まるみはふと顔をあげた。

「じゃあ、その鉢にヒカルの付けづめが入っていたとしたら、どうなったかしら」
「そりゃあ…、白い粉との関係を疑われるだろうな。でも待てよ。わざわざ自分の付けづめをいれて殺人を犯すなんて考えられないから、ヒカルは坂井教授の犯人じゃないってことも言えるよな」
「当たり前よ! なんでヒカルが人を殺したりするのよ!それでも友達なの?」

 まるみはムキになってつっかかった。

「落ち着けって、だれもそんなこと言ってないじゃねぇか。はっきりしてることだけ言ってるんだ」

 憤慨やるかたないといった気分で、まるみは赤いペンを取りだし、『ヒカルは犯人じゃない!』と書き込んだ。

「あー!もう、平井君ったら。きちんとケースに入れてよ。ペンの向きが逆じゃない!」

 ペンをケースに戻そうとしてまるみが怒り出した。


「なんだよそんなことぐらい。お前が間違えていれたかもしれないじゃないか」
「間違えるわけないもん!大事にしてるからペンの向きはきちんと上向きにしてるんだもん! あっ……。」

 どんどん熱くなるまるみがふっと動きを止めた。

「なんだよ。急に黙ったりして」

 攻撃を避けようとノートを頭にかぶっていた平井は、急に静かになったまるみに戸惑った。

「こだわってるものに対しては、誰だって敏感だよねぇ。じゃあ、ヒカルが付けづめがはがれた事を気付かないでいたかしら…」
「えっ?どういうこと?」
「ヒカルが付けづめごと白い粉を埋めたんじゃなくて、誰かが意図的にヒカルのつけづめを埋めたとしたら…」
「じゃあ、ヒカルはどういうわけか誰かに恨まれて、落し入れられそうになっていたってことか」

 まるみは一気に不安がこみ上げて、すがる様に平井を見詰めた。

「まるみ、まだまだ俺達には推理のヒントが足りないようだな。明日、坂井教授の葬儀があるだろ。その時にちょっと聞き込みでもしてみるか」
「うん!」
「よし!そうと決まれば、昼飯だな。どうもお腹が空いたと思ってたら、もう2時じゃないか。まるみ、なんか作ってくれよ」

 平井が呑気にそう言いながらまるみを見ると、まるみは仁王立ちして平井に言った。

「どこまで甘えてるのよ!すぐそこにコンビニがあるでしょ。お弁当、買いに行こ。もちろん平井君のおごりだからね! 私、ステーキ弁当にしようっかなぁ」
「なんで弟子がステーキ弁当なんだ! …まるみ、随分強くなったな。」

 ふっとまじめな顔で平井が言ったので、まるみはすこし照れくさくなった

「だって、ヒカルは私達の大切な友達だもん。どうしてこんなことになったのか、きちんとはっきりさせてあげたいの。ヒカルの気持ちをわかってあげたいのよ。それがわかるまでは泣いてなんかいられないような気がするの」
「まるみ…」

 いい雰囲気の中、にぎやかに平井の腹の虫が騒いだ。ぎゅるるる。

「お弁当、買いに行こう」

 平井は妬けになってそう言って立ちあがった。


 夜になると、まるみは久しぶりにパソコンを立ち上げた。受信メールは一通だ。

-どうしてる? 君は元気? 僕はちょっとブルーになっているよ。事情があって友達の一人と会えなくなっちゃったんだ。あたりまえにそこにいる存在が突然いなくなると、なかなか現実を受け付けられないものなんだね。いつも「がんばれよ」って、背中を叩いてくれてた人だった。いなくなって初めて気が付いたんだ、いい奴だったんだなって。

 ところで、君の相談だけど。君の憧れは、もしかしたら恋に恋していただけだったのかもしれないよ。もう一度、よーく周りを見渡してごらんよ。僕の友達みたいに君がまだ気付いていない優しいまなざしに出会うかもしれないよ-

「天使の羽根さんも友達なくしたんだ。。。」

 まるみは今の心境を素直に書き出した。

―あのね。私も友達をなくしたばかりなの。-

 平井のことは書かずにいた。書いてしまうと、天使の羽根からのメールが来なくなってしまいそうな、そんな漠然とした心配がまるみを止めていたのだ。


 二日後、坂井教授の葬儀は学校葬ということで、校内のホールで執り行われた。いつもはラフな普段着の生徒達も、今日はみな制服姿で集まっていた。

 たくさんの生徒に混じって、刑事たちも聞き込みをしているようだった。それが坂井本人の事件に関することなのか、それともヒカルのことを聞き出しているのか、平井やまるみにはわからなかった。

「おいっ!こっちだ」

 突然平井が後頭部を突付かれて振り向くと、田島が生垣の裏から手招きしていた。

「よぉ。お二人さん」
「何を呑気なこと言ってるんだ。その体育館の裏で刑事が聞き取り調査してるんだ。この生垣の裏からならそれを拝聴できるってわけだが行ってみるか?」
「もちろん」

 4人はそそくさと校門をでると、なにくわぬ顔で商店街の路地を曲がり体育館の裏の生垣沿いに足音を偲ばせて歩いた。

「あなたはこの近くにあるウイングスってお店、ご存知ですか?」

 刑事の明るい問い掛けが聞えた。

「ああ、知ってますよ。でもなんだか変な連中が出入りしてるって噂だから僕は立ち入らないようにしていますけど」

 生真面目そうな生徒が答えた。

「変な連中と言いますと?」
「揉め事に巻き込まれるのは嫌だから、僕が言ったということは伏せてくださいよ。少林寺調理師学校の連中で、麻薬を売りさばいてる連中がいるそうなんですが、どうやらあの店がヤツらの溜まり場になってるって噂です。もういいでしょ。刑事さんに質問されてると、僕の内申に響きそうだ。じゃ、失礼します」
「ああ、どうもありがとう」

 生徒はすたすたと足早に走り去った。

「どうも近頃のガキは気にいらねぇな」

 年配の刑事がつぶやいた。相方の刑事は次の生徒に声を掛けている。どうやら女子生徒のようだ。

「先生の死に不審な点でもあるのですか? 私、坂井先生のファンだったんです。先生のことならたいていのことは知っていますわ」
「それはありがたい。まぁこれは、念の為の質問ですので、ご心配なく」

 刑事は軽く前置きをして話し出した。

「坂井先生は人に恨まれるようなことはなかったですかねぇ」
「あるわけがありませんわ! 頭が良くて、品もあって、身のこなしも優雅な方でした。そういえば、先生の奥さんはこの学校の学長の一人娘なんです。刑事さん、吉野山 桜子って作家さん、ご存知? その方が先生の奥さんです。とてもお忙しくて、ずっと海外にいらしたんです。印税も十分に入っていたでしょうし、そんなものあてにしなくても学長の資産があれば、少しぐらい贅沢しても十分に生きていけるご家庭ですわ。その辺りを考えると、そりゃあ妬まれていたかもしれないけれど…。それにしても、翌日には奥さんが帰ってこられるってときに、本当に先生はお気の毒だわ」

 刑事の聞き取りをけん制してか、事務局の本村が校舎の影から刑事たちの様子をうかがっていた。すかさず気づいた年配の刑事はちらっとその姿を見ると、ひとりつぶやいた。

「どっかでみた顔だな」
「あれはうちの学校の事務局の本村さんです。いつもむすっとしてて愛想のない人ですわ。坂井先生とは大違い」
「そ、そうですか。ところで、この近くにあるウイングスってお店、ご存知ですか?」

 女子生徒の迫力に押されながら、刑事が尋ねた。

「ええ、知っています。坂井先生も木曜日には必ずあのお店にいかれるのです。いつもなぜか生徒と会ってらっしゃるみたいで…。私、先生にお尋ねした事があったんです。そうしたら、あのお店は昔の教え子がやっているから心配で見に行くんだって。で、その時、生活態度の悪い生徒や家庭環境が良くない生徒を食事に誘って、いろいろ指導してらっしゃるって伺いました。そういえば、最近は森宮ヒカルって子が呼ばれてましたわ。いつも派手な服装でちょっときつい感じの子だったけれど、多分家庭環境がよろしくないんでしょうね」

 女子生徒は自分が食事に誘ってもらえない悔しさを微妙に込めて、ヒカルの名前を出した。刑事達の目つきが変わったのは気配だけでも十分に分かったが、もちろん刑事はそれを口には出さなかった。

「そうですか、先生はやさしい方だったのですねぇ」
「ええ、そうです。あんな立派な先生は他にはいらっしゃらないわ。ううっ…」

 女子生徒は思い出したように泣き出した。刑事は困ったように女子生徒の背中を押して、気をつけて帰る様にと促した。


 次から次から生徒たちはやってきたが、坂井のことを詳しく知る者は案外少なかった。

「ええ? 坂井教授のこと? 俺、あんまり学校に来てないしなぁ」
「じゃあ、普段は何を?」
「バイトだよ。あと夜間は調理師の学校に行ってる」
「調理師って、少林寺?」
「ああ、そうだよ」
「その学校に柄の悪い連中がいるってうわさを聞いたんだけど、知らないかい?」

 刑事はできるだけさりげなさを装っていたが、彼らが興奮してるのは生垣の裏の4人には痛いほどわかっていた。

「ああ、知ってるよ。ウイングスに出入りしてる連中だろ? 麻薬中毒になって時々暴力事件も起してるって聞いたよ。でも同じクラスにはそういうやつはいないからなぁ。そうそう、実習の時に突然包丁振りまわしたりしたって聞くから、早く取り締まってよね」

 刑事の肩を気安く叩いて、生徒はさっさと行ってしまった。

「君達はそこで何をしているんだ?」

 生徒を見送った刑事が突然4人に声を掛けてきた。

「あ、いえ。なんでもないです」
「君達は、先日の・・・?」

 刑事は生垣のすきまから4人の顔をうかがって言った。

「ちょっとこちらに来なさい」

 4人は仕方なく校門をくぐって再び校内に入ってきた。体育館の裏は湿った空気に満ちている。そんな中に昨日警部に指示されていた佐々木と山岸が佇んでいた。

「何を探っているんだ」
「探っているって…そういうつもりはありませんが、一応僕らにとっては仲間だったヒカルが殺されてしまった以上、どういう理由で誰に殺されてしまったのかぐらいは知りたいですから」

 田島が正面にいる佐々木を見据えて言った。佐々木はふむと困った様にため息をつき、ぼそりと言った。

「それは警察の仕事だろ。まだ犯人が誰か断定されていないんだ。勝手な行動は謹んでくれたまえ」
「え、だって、あの時は古井って人を捕まえに行ったじゃないですか。あれってウイングスの店長のことでしょ?違うんですか?」

 今度は平井が問いただした。佐々木はさらに困った様子で言った。

「ヤツは死んだ。我々の追跡中に道路に飛び出してトラックにはねられたんだ。だが、まだヤツが犯人だとは決まっていない。ましてや坂井の方も事故だかどうだか…君達はあの現場検証を詳細に見ていたようだから知っているだろ?」

 佐々木は平井と田島をじろりと睨んだ。横で山岸が佐々木の動向を心配そうに見ていた。

「わかったら余計なことに首を突っ込むんじゃねぇ!」

 佐々木はさっきとは声色をすっかり変えてしまってすごんで見せた。

「山岸、こいつらに飴玉でも持たせて帰ってもらえ。捜査の邪魔だ」

 山岸はほっとしたように4人を促すと、校門まで見送った。


「気にせんでくれ。佐々木さんは先月まで暴力団対策本部にいた人なんだ。どうもあの凄みが抜けなくてね。悪気があるわけじゃない。君達を心配しているんだよ」
「そうかなぁ…」

 なだめるように話す山岸に平井は遠慮なく突っ込んで、田島のエルボーを食らった。

「君達も、なにか気付いた事があったら教えてほしい。私の内線番号を渡しておこう」

 山岸は手帳に数字を書きつらね、田島にそれを渡して佐々木の元に帰って行った。

「さて、どうする?」

 田島が誰にともなく言った。いつもなら何もいわなくともウイングスに流れ込むのがお決まりの仲間だったが、今日はそのウイングスも閉店の文字が掛かっていた。ふらふらと行き場を決めないまま歩いていると、一軒のカフェレストランを見つけた。

「ここでいいか」

 平井が言うと、誰もが頷くばかりだった。ぞろぞろと入っていくと、見覚えのある学生が女性を連れてすれ違った。

「あっ…」

 まるみは思わず小さく叫んだ。桜井だったのだ。連れの女性と腕を絡めたまま通りすぎようとしていた桜井は、まるみの声にちょっと振りかえったが、すぐに店を後にした。

「知り合い?」

 店の外で女性の声がしていた。

「いや、知らない」

 桜井のしらけた答えが聞えていた。平井は黙ったまままるみを見ていた。美咲も田島も、ただ黙っていた。桜井の姿が見えなくなるまでぼんやりと目で追っていたまるみは、突然ん~っと大きく深呼吸して、ふっと吹っ切れたように息を吐き出すと、カラッと笑って言った。

「変なやつぅ~」
「まるみ、こっちに座ろ」

 美咲が気付かない振りで明るく声を掛けた。まるみもそれに従ってそそくさと席についた。

「らっしゃ~い」

 変なイントネーションの店員が乱暴に水を運んできた。それぞれが注文を終えると、店員はまた邪魔臭そうにカウンターに戻って行った。向かい側の席に数人の学生がわいわいと楽しそうに盛りあがっていた。それはつい先日までの自分たちのようで、4人は一様に懐かしさに見取れていた。


「龍二はうちの学校と少林寺と二股やってるんでしょ?大変じゃない?」
「べつにぃ。どっちも適当に遣ってるからね。それより美紀ってこのまえやばかったんだろ?噂になってるぜ」

 龍二は楽しげに身を乗り出し、向かいに座ったまるみたちなどお構いなしで、大きな声を響かせた。

「ええ?ウイングスのことぉ? やばいって言っても、薬売りつけられそうになっただけよ。私はそんなことしないもん。それより龍二君の通ってる少林寺の方がやばいって聞いてるけど?」

 メッシュの入った髪をいじりながら美紀は龍二を嘗め回す様に見た。


「僕は関係ないさ。あれは昼間の生徒だよ。麻薬中毒で時々暴力事件起してるってさ」
「でも、同じ学校にいると被害にあったりしないの?」

 美紀は尚も龍二ににじりよる。

「う~ん、被害ってほどじゃないけど…。そういえばこの前、親にちゃんと資格試験受けろって言われてさぁ。珍しく対策講習会に参加した時、うちの3階の休憩所でコーヒー飲んでたら、いきなり変なヤツが走り込んできて、僕にぶつかってきたんだ。
カップのコーヒーがまともに服に引っかかって熱いわシミがつくわで大変だったんだ。でもそいつ、僕の文句もぜんぜん聞かないでじーっと窓から下の様子を見てるかと思ったら、いきなり窓にあった鉢を突き落として、また気が狂ったみたいに出て行ったんだよなぁ。
調理師学校の方で見たことがある奴だったけど、こちらの学校では会った事なかったから変だなぁって思ったんだ。
お陰ですぐに家に帰る羽目になったよ。せっかくやる気になって後半の講習も受けようと思ってたのになぁ。僕の被害ってのは今のところそれくらいかなぁ。」
「えぇ~。やだぁ。それじゃあうちの学校のほうが危ないみたいじゃん。変なこといわないでよ」
「龍二が勉強なんてそりゃ天変地異の前触れだな。やべぇよ、それ。変な奴が出てくるのはお前のせいだなぁ」

 連れの学生たちもわいわいと笑っていた。

「でもそれって、麻薬中毒でそんなことしたのかしら」

 それまで黙って聴いていた洋子がぽつりと言った。

「さあねぇ。でもぶつぶつなにか言ってたよ。これをやったら貰えるとかなんとか…」
「やっぱりラリッてるじゃあん。やだぁ」

 美紀はべたべたと龍二に貼り付いて体をくねらせた。

「お前もラリッてるんじゃねえの? 昼間っからべたつくなよ」

 仲間にからかわれて美紀が膨れっ面になっていた。


「私、きちんと真相をつきとめたいの。 ヒカルがどうしてこんなことになっちゃったのか」

 ぼんやりと他の客の話を聞くともなく聞いていた平井は、ふと現実に戻ったように慌てて頷いた。

「そうそう、そうだったな」
「まあ、ちょっと待てよ。もうちょっと…」

 田島はさきの連中の話が気になるのか、言葉をとぎれさせながら制止した。まるみもその意図がわかったのか、すっと黙り込んだ。しかし、美紀達はさっさと席を立ち、じゃれあいながら店を出て行った。ふぅっとまるみが気の抜けた息をはいて、皆を笑わせた。

「なんだよ。お前、緊張してたのか? さっきのヤツら、俺達と同じ学校の後輩だったな。見たことのある顔もあった」

 平井はからかいながらもしっかりと観察していたようだ。

 店員がまただらだらと邪魔臭そうに飲み物を運んで来る。コーヒーや紅茶がテーブルに並んだ。美咲は静かに紅茶に砂糖をいれると、スプーンを回しながらぼんやりと考え事をしているようだった。

「どうかした?」

 田島が心配そうに気遣う。

「あ、ううん。さっきの話が気になって…。どうして鉢を突き落としたら何かを貰えることになるのかしらって」
「うん、さっきのは僕も引っかかってたんだ。さっきの龍二とかいうヤツが見た光景が、もしも3日前のことだったとしたら、それは坂井教授に当たった鉢のことかもしれないだろ?」
「だけど龍二ってヤツは坂井教授のことなんて何も言ってなかったじゃないか」

 平井が口を挟んだ。


「いや、そうとは言いきれないんじゃないか。僕達は実際に見たじゃないか。坂井教授が倒れたのは中庭の方で、生徒たちが登下校に使うのは正門の方だから、校舎を挟んで正反対だ。それに僕らが事件のことを知って現場に掛けつけるまでも、何も知らないで下校する生徒たちをたくさん見ただろ?」

 田島は銀ブチのメガネを人差し指できゅっとあげると、平井にずんと迫って答えた。

「確かに」

 平井はその迫力に少し首を引きながら頷く。

「ウイングスで麻薬の売買が行われていたって言うのは、なんとなく分かるような気がするの。私も、前にちょっと様子のおかしな子が厨房に飛び込んできて中で騒いでるのを見たことがあるから」

 美咲はさっきの学生達の言葉を思い出しながら記憶を辿って言った。

「そういえば、僕もウイングスで変なのにぶつかられたことはあったなぁ」

 平井はのんびりと答えた。

「まるみ。お前、この前刑事さんに言ってたよね。鉢の中に付けづめが入ってたって。あれ、どうしたの?」

 田島は手帳を取りだしながらまるみに尋ねた。

「まだ、持ってる。今となってはヒカルの肩身だもん」

 まるみはカバンの中からちいさな封筒を取り出した。そしてテーブルの上にそっとその中身を滑り出させた。中からは小さな脱脂綿につつまれたきれいな付けづめが出てきた。

「ヒカルのだわ。 前にネイルアートやってる友達に作ってもらったって、嬉しそうに話してた…」

 美咲は声を詰まらせてつぶやいた。まるみも黙って頷いていた。

「だけど、そんな大事なものが外れてしまってるのに、気付かないでいるかしら」

 おだやかなコーラルピンクの上に、ちいさなパールやラインストーンがならんだ付けづめを見詰めながら、まるみがぽつりと言った。

「そうよね。女の子なら、そんなこと絶対にないと思うわ。付けづめをしたまま土をいじるなんてこと、考えられない」

 美咲は必死でその意見にすがっているようだった。しかし田島の意見は冷徹だった。

「しかし、もしそんな付けづめのことすら忘れてしまうほど追い詰められていたとしたら?」

 田島の言葉に美咲とまるみの表情は曇ってしまった。

 しばらくの沈黙のあと、平井がその場の雰囲気を打破するように言った。

「じゃあさぁ。もし誰かがヒカルの付けづめをワザとその鉢に入れたんだとしたら、誰がどういう理由でやるんだよ」
「わからないけど…、例えばさっき刑事さんが話を聞いていた女の子は、坂井先生のファンだって言ってたじゃない? だからヒカルがもし先生になにか相談していたとしたら、それに妬いていじわるしたかもしれないじゃない」

 まるみはヒカルを庇いたい一心で口走っていた。

「じゃあ、その女子はどうして麻薬なんかをもってたんだよ。それにそんな大事な付けづめをはいどうぞってそんなヤツにヒカルが渡すかぁ??」

 平井はまるみをからかうように否定的に話を進めた。

「待てよ。その女子の話、確か、坂井教授とヒカルが一緒にウイングスで食事していたってこと言ってたよなぁ。坂井教授とヒカルって、どういう間柄なんだ?」

 田島は美咲に問い掛けるように顔を向けた。しかし美咲には答える術はなかった。彼女とて、ヒカルに彼氏がいることとそれが訳ありであるということぐらいしかわからなかったのだ。


「さぁ。でも、ヒカルの口から坂井先生の話なんて、1度も出てないよ」

 美咲が答えていると、店員がミルクを下げにやってきて、テーブルの付けづめに目を留めた。

「あっ…!」
「どうかしたの? この付けづめに見覚えでもある?」

 平井が探る様に店員を見据えた。店員はトレーに引き上げたミルクを転がしながら、あたふたしていた。

「いや、あの。その爪、友達のものなんだ。預かっていたのに失くしちゃって…。返してもらえないかなぁ」

 店員は他の店の者たちに気付かれたくないのか小さな声で頼んで来た。平井は店員がばつ悪そうにしているのを良いことに、声高に質問した。

「誰から預かったんだよ。誰から」

 他の店員がちらっとこちらの様子をうかがっていた。店員は慌ててテーブルを拭きはじめた。そうしながら泣きそうな顔でつぶやいた。

「その先の専門学校の坂井教授だよ。もういいだろ。謹慎が解けてやっとバイトできるようになったばっかりなんだよ。ここでクビになったりしたら、またヤバイことしなくちゃいけなくなるんだから、返してくれよ」
「坂井先生は亡くなったわ。それに、この爪は友達の肩身なの。あなたに渡すわけにはいかないわ」

 まるみの言葉に店員は驚いた。坂井の死を知らされていなかったのは明らかだった。

「もう、義理を立てる相手はいないんだろ。頼むからどうしてあんたの手元にこの爪が回ってきたのか教えてよ」

 田島も乗り出してきた。店員は他の店員の視線を気にしながら、あらぬ事を口にした。

「すみません、学生さんにビールは出せないもので…」
「いいよ。じゃあ、ここの店長さんに話してくるから」

 平井が立ちあがろうとすると、すぐに店員が叫んだ。

「わかりました。ケーキ4つですね。すぐにお持ちします」
「おごりだよね」
 平井がするどくつぶやいた。店員はそんな平井に反発する余裕もなく、固い表情のまま厨房に戻ると、震える手でケーキを準備して再び戻ってきた。
「ケーキ代はいいよ。俺が払う。だけど、俺の言ったことは絶対黙っててくれよ。前にウイングスに寄った時、学校の仲間にいいバイトあるよって、紹介されたのが坂井さんだったんだ。坂井さんが死んだんなら言うけど、その爪、学校の鉢に白い袋と一緒に埋めてくれって頼んで来たの坂井さんだったんだよ。たったそれだけで10000円くれるっていうから、俺、ラッキーだと思ったんだ。でも、坂井さんってウイングスじゃ別の顔も持ってる人だから失敗したらやばいって、学校の仲間に言われてたから焦ったんだよ。それだけだよ。だけど、どうして坂井さん死んじまったんだ?」

 店員はゆっくりとケーキを配りながら早口でしゃべった。

「事故だよ。学校で足を滑らせて頭を打ったんだって」

 平井がだるそうに言った。

「そうか。事故か…。怖い人でも死ぬときはあっけないな。じゃあ、くれぐれも俺の事は言うなよ。頼むぜ」

 店員は水を持って来た時とは別人のようにしっかりと頭を下げて厨房に下がって行った。

「なにが事故だよ。ずるがしこいヤツめ」

 田島は平井を睨みつけた。平井はぺろっと舌をだした。

「こちらの持ってる札を安々と見せるもんじゃないだろ? 推理好きさん」

 田島はふんっと鼻で笑うと何事もなかったようにケーキを口に運んだ。


「でも、坂井先生が怖い人だって言ってたね。別の顔を持ってる人だって。そんな人に何を相談してたんだろう、ヒカル」

 まるみが思案顔でつぶやくと、美咲が思いついたように言った。

「もしかして、ヒカルの彼のことでも相談してたのかなぁ。なんだかわけありなんだって、悩んでる風だったのよ。でも、自分でちゃんと責任取るから大丈夫だって言って、話してくれなかったの」
「あ~、ひょっとして。ヒカルは坂井教授とできてたんじゃないの? で、もうすぐ奥さんも帰ってくるってことで自分から身を引くってことを考えてたんだろうな。責任取るってことはそういうことなんじゃないの?」

 平井はワイドショーの司会者のように言い出した。すかさず美咲とまるみがにらみつけ、すぐに平井は冗談だと意見をしりぞけた。

「少なくとも、この店に来た収穫は大きかったね。ヒカルの付け爪がここの店員によって鉢に埋められたのは確定したんだし、それを指示したのが坂井教授だってことで、坂井教授がヒカルをなんらかの形で陥れようとしたか、あるいは脅しをかけるつもりだったのも事実だ。
それと、さっきの後輩たちの話が本当だったとして、龍二とかいう奴の言っていた窓から鉢を突き落とした奴ってのがここの店員でないことも間違いなさそうだね」

 田島が手帳にすばやくメモを書き入れていた。

「でも、それが坂井教授の亡くなった日のことかどうかは確定していないわよ」

 美咲がそばから心配げに口を挟んだ。

「う~ん、そうなんだが…。なにかぴんと来るものがあったんだけどなぁ。そうだ、これからちょっと学校に戻ってみないか? 現場に戻るのが一番いいっていうし」

 田島の提案で4人は席を立った。店員が慌ててレジに走った。

「さっきのこと、黙っててよ」

 小さな声ですばやくいうと、さっさとレジを済ませて別の客のテーブルに向かった。


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