なせばなる、かも。

なせばなる、かも。

CF 泉に輝く水は流れて


泉に輝く水は流れて

「私の存在に気がつくなんて、随分とお調べになったんですね。そう、貴方のおっしゃるとおり、私は美優さんの兄嫁の本能寺良恵です。」

 実家でひっそりと暮らしているところに電話が入ったのは、中東で起こった邦人数人を含む旅行者誘拐監禁事件での交渉が難航しているというニュースを聞いているときだった。
 かけてきたのは、まだ学生のような印象の佐伯という人だった。

 もう、あの事故のことは思い出したくないというのが本音だけど、それでもこのままあの子の死がうずもれてしまう事を思うと、胸の中につめたい塊がのしかかったような圧迫感を覚えてしまう。

「一度、会ってお話しを聞かせていただけませんか?」

 どうしよう。このまま断ってしまう方が楽かもしれない。だけど、真澄はそれをよしとするかしら。

「どうして、貴方はどうしてそんなことを聞きたいのですか?」
「・・・ わかりません。 ただ、僕はどうしても本当のことが知りたかった。いいことも悪いことも、彼女のために全てを知っておきたいと思ったのです」

 言葉に詰まるのは、きちんと考えて答えているから? 

「わかりました。では、場所をおっしゃってください」

 佐伯さんは副都心にある地下街を指定してきた。そこに、いったい何があるのか。行ってみない事には分からない。

 階下で父がなにやら騒いでいたが、私はとてもそんなことには耳を傾けられないでいた。その日の夜、父方の叔父が倒れたというので、父は大急ぎで叔父の病院に駆けつけた。子どもに恵まれなかった叔父夫婦は、養子縁組で男の子を一人育て上げた。その男の子もすでに成人して、今は少しはなれた町で一人暮らしをしている。
 元々病弱な叔母を一人に出来ないので、父はしばらく叔父の家と病院を行ったり来たりすることになるという。

 結局、叔父の養子に連絡がついたのは2日後の夜だった。叔父の容態は落ち着き、叔母も息子が帰ってくると聞いて元気を取り戻しつつあった。父は養子が帰ってきたのと入れ違いに、我が家に戻ってくることになった。


 駅に向かって早歩きをしていると、ちょうど父とであった。

「お前、どこに行くんだ? 空港か?」
「いいえ。 ちょっと人と会う約束があるの。父さん、お昼ご飯食べた?」
「ああ、まだだった。」
「困ったわねぇ。母さんはお茶会があるとかで、朝早くに着物着て出かけたのよ」
「ちっ、気楽なヤツだ。」

 父は怒ったようでいて、それでいてそんな母の様子がキライではないらしい、そんな顔をしていた。

「冷凍室にピザがあるから、焼いて食べてよ。じゃあ、急ぐから」

 私は父の生返事を背中に聞きながら駅に走った。副都心の地下街は、本当に久しぶりだ。あの地下街は本能寺グループの管理下にあったはず。社長の将さんがあんなことになってしまって、頼りの悟さんも行方不明。お義母様はご病気で入院なさったと聞いているし、美和さんも突然のご不幸に見舞われて・・。
 本能寺家はまるで呪われてしまったかのよう。先代も行方が分からないというけれど、どうなさったのかしら。

 暗い地下鉄に乗っていると、ついそんなことを考えてしまう。これでもやっと電車に乗れるようにまで回復したのだけれど。



 指定されたお店は、オープンカフェタイプのしゃれたカフェテリアだった。目の前にはクリスタル・ファウンテン。この地下街が出来た頃は、これを観るためにわざわざ足を運ぶ人もいたというぐらい話題になったのに。

 目の前のそれは水も止められて、すっかり干上がったまま人々の往来の真ん中に居座っている邪魔者になりつつあった。

 これが本能寺家の本当の姿なのかもしれない。私は思わず近づいて、きれいに輝いていたはずのクリスタルの上に積もった誇りを指で拭ってみた。クリスタルは、そんなかすかな指の跡でさえ光を取り入れ、かすかな光をその内側に注ぎ込む。

 このまま誇りに埋もれてしまうのかしら。そんなことを考えているとき、活発そうな足音が近づいてきた。

「お待たせしてすみません。佐伯です」

 電話をもらったときと同じ、若く明るい声で挨拶した。この店には慣れているらしく、マスターと笑顔で言葉を交わしている。
 私は、とりあえずコーヒーを注文して、佐伯さんの問いかけを待った。

「ここ、美優と初めてであった店なんです。彼女は、まだちょっとよくないお付き合いをしていて、僕は大学に入ったばかりの堅物なお子様でした。」

 ずっと本能寺の人々を見てきたせいか、それとも、荒れている彼女のことを知っているせいか、佐伯さんの話す内容はあまりにも清潔で純粋すぎる気がした。こんなボーイフレンドがいたのならどうして自殺なんか、そう思ったとき、お義母さまの顔がうかんだ。

「私が知ってるのは、あの列車事故の惨さだけです。本能寺の本家には足を踏み入れることすら許されていませんでしたから」
「それは、うかがっています。美優さんのお母さんは、随分と派手に活動なさっていたようですが、優しさをお持ちではなかったようですね。」

 随分とはっきりとものを言う人だと思う。でも、間違ってはいないとも思う。

「今回、僕はある人とコンタクトを取って一つの依頼を受けました。美優にも関係する事だったし僕も同じような事を調べ始めていたので、それを引き受ける事にしたのです。その中で、1つ貴方には辛いご報告をしなければならない事実に出会いました。」
「辛い報告?」
「はい。ご主人の悟さんのことです。実は、消息が分かったのです。」
「また、何処かの遊び仲間のお宅にでもころがりこんでいるのでしょう」
「いいえ。亡くなっていました。」

 それは、あまりにもきっぱりとした言葉だった。娘が生まれてからは、随分とひどい仕打ちをされてきたけれど、それでも一度はついていく決心をした人。真澄を亡くした今、あの子の成長を一緒に見てきたあの人までいなくなるなんて。

「あの、どうして主人が?」
「実は、本能寺家の執事をなさっていた沖さんから事情をうかがって、思い切って訪ねてみたんです。悟さんが住んでいたらしいという街を。
 各駅停車しか止まらない三本林という小さな町の外れのスナックに悟さんはよく顔を出していたようです。常連のお客さんが、一緒に悟さんの部屋まで行ってみようと言い出して、ついていったのです」

 ちらっと申し訳なさそうな瞳が私を見たのがわかった。でも、平静を装って私は静かに続きを待つ。


「変なにおいがすると誰かが言い出して、一緒に行ったほかの人がドアを叩いて声をかけたんです。ちゃんと生ゴミは出せよーとかなんとか。だけど、鍵が掛かってるのに、返事がなくて、ちょうど通りかかった隣の部屋の人に尋ねても最近しんとしてて気配がないっていうので、心配になって大家さんに頼んで鍵を開けてもらったら・・・」
「亡くなっていたのですか? ひとりぼっちで」

 頭の中がヒリヒリするような感覚が私を襲う。想像すらしなかったことだった。

「はい。 死後何日か経っていたようですが、パジャマ姿でテーブルに突っ伏していて、テーブルの上にはウイスキーかなにかのビンとグラスがあって、それと・・・」

 言いよどむ気配に顔を上げると、つらそうな顔と目が合った。

「奥さんとお子さんの写真が、ありました。」
「!!」

 こんな言葉を聞くとは思ってもみなかった。胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。

 どうして貴方はいつもいつも、そんなにひねくれているの? 帰りたかったら、いつでも帰ってくればよかったのに。電話をくれたら、すぐにでも迎えに行ったのに。何もかも自分ひとりで勝手に決め付けて、どこまでもつっぱしってしまうんだもの。

「やっぱり、大切に想っていたんですね。よかった。」
「え?」
「あ、ごめんなさい、こんなときに。でも、今まであまりに信じられないような話ばかりを聞いてきたもので、やっと人の温かみに触れた気がしたから。
 あ、それから」

 佐伯さんは私が泣き崩れそうなのを、なんとか違う方向に向けようとしているようだった。

「後でもうお一人、ここに来られる予定になっています。」
「ああ、ごめんなさい。取り乱してしまいました。でも、お話しをうかがえてよかったです。あの人の本当の気持ちが聞けた気がして、本当によかった」

 ほかに約束があるのならと、席を立とうと思った。見ず知らずの人に泣き顔を見られていい年齢でもないし。
 だけど、佐伯さんはそれを制した。

「いえ、もう少しだけ待ってください。先方も貴方に会いたがっていらっしゃったので」
「どなた、ですか?」

 私の言葉と重なるように快活な声が飛んできた。

「やあ、君が佐伯君だな。報告書は読ませてもらったよ。いや、実に的確なものだったよ。ありがとう。」

 振り向いた先にはお義父様がいた。


「お義父様! どうしてここに? ご無事だったんですか?」
「久しぶりだね、良恵さん。やっと日本に帰ってこられたよ。」

 驚くのも無理はないだろう。舅である本能寺総一郎は、休暇で中東を旅行中に同じツアーの旅行者とともに誘拐されてしまったとニュースで聞いていたのだから。
 そうしていると、ふとさっきここに来るときに父が言った一言を思い出した。そう、確か、空港に行くのかと聞いていた。あれは、舅たちが解放されたので、迎えに行くのかということだったのか。やっと理解できた。

「大変でしたね。ご無事で何よりです。だけど…」
「ああ、知っているよ。ここにいる佐伯君から連絡をもらってね、調べてもらったんだ。」
「そういうことだったんですか」

 隣で佐伯さんが申し訳なさそうにしていた。

「良恵さんにはとんでもない迷惑をかけていたようだねぇ。」
「迷惑だなんて…」
「いや、聞いているよ。絹代のこともね。本当にすまなかった」

 お義父様は深々と頭をさげた。どうにも居心地が悪くなる。ここにいる人は、私にとっては夫のお父さんだけど、世間では、「世界の本能寺グループ」のトップなのに。

「本当のことをいうとね、この旅行から帰ったら、絹代と別れるつもりだったんだよ。どうにも気持ちの通じないやつでね。計算高い割りに人の気持ちがわからないんだよ。自分以外の人間を自分の欲望を満たす駒のように思っているんだ。
 それを見ているのが嫌になってね。だけど、離婚したら莫大な財産を奪い取られると思った。それで逃げ出したんだよ、日本をね。向こうもそれが目当てだったようだしね。私が愚かだったんだ。妻に先立たれて、寂しかったんだよ」
「バカな人」

 思わず口をついて出てしまった。だけど、舅は怒るどころか寂しげに笑って頷いた。

「そうだね。バカだよね。しかしもう、離婚しそびれてしまったようだ。絹代はすっかり心を閉ざしてしまったよ。自分の部屋から出ることを極端に怖がって、毎日窓から庭の花を眺めながらブツブツと独り言をつぶやいているらしい」
「まぁ、お可哀想に…」
「可哀想じゃないよ。自業自得だ。それでも、このまま勘違いしたままで世間を騒がすよりは幸せな余生を暮らせるだろう。」

 お義父様は責任を取るおつもりなんだと思った。難しい問題から自分だけ逃げ出したことへの責任を。

「佐伯君、学生の君にここまでわがままなお願いして申し訳なかったね。これは少しだが依頼に対する報酬だ。受け取ってくれ」

 お義父様は内ポケットから小切手を取りだした。受け取った佐伯さんはぱっと顔色を変えてつき返す。

「いい加減にしてください! 僕が貴方の依頼を受けたのは、こんな莫大なお金がほしかったからじゃない! 
美優のことをもっと知りたくて調べだしたのに、貴方のことがちっとも見えてこなくて、実の父親なのにまるで他人のように自分だけ逃げ出してるように思えたから。だから!
美優の気持ちに気付いてやってほしかったんです。どんなに寂しかったか分かってやってほしかった!」

 お義父様はつき返された小切手をじっと見つめていたかと思うと、はぁっと力なくそばにあったイスに座り込んだ。


「私は、とことん馬鹿なヤツだね。そうか、そうだよね。佐伯君の言うとおりだ。じゃあ、これは納めておこう。
その代わり、君が就職活動をするときは必ず私を訪ねてきてくれ。できるだけのことはさせてもらうよ」
「考えておきます」

 佐伯さんはそういいながらも、きっとお義父様を頼るつもりはないだろうと思う。

「いらっしゃいませ。ご注文は?」

 その場が落ち着いたのを見計らっては、マスターがそっと声をかけてきた。

「ビールを。それと、彼らに何かうまいものを出してくれ。」
「まあ、昼間からビールですか?」
「あはは。今日は大目に見てくれ。やっと開放されたんだよ。本当は、今ごろ記者会見とかに立ち会わねばならなかったのだが、こっそり抜け出してきたんだ。体調不良ってことにしてもらってね。」

 お義父様はいたずらっこのように声を落としてそういうと、嬉しそうに笑った。

「困った人ですね。でも、そういうところはちょっと美優に似てる気がします。」

 佐伯さんは、ふっと優しい表情になっていた。彼女のことを思い出しているのかもしれない。お義父様はふいに上を向いたかと思うと、深い深いため息をついた。

「あの子は…。あの子には本当に悪いことをした。甘ったれてだらしなくなった悟と違って、あの子は母親のやっていることに懸命に反発していた。どう生きたらいいのか、知りたがっていた。躊躇わずに助け出してやるべきだったんだ。。。」
「お義父様、それは違うわ。悟さんにだって、お義父様の存在は必要だったんです。あの人は、どこかで自分のの甘えをストップしてくれる人を待っていたんだと思います。」

 お義父様はじっと私の顔を見つめて、そして深く頷いて言った。

「はぁ、そうだなぁ。私は何もわかってなかったんだな。
さ、食べよう!この無責任オヤジが今までのことを反省して一からやり直す決心をした記念の食事会だ」

 テーブルにはスパゲティやサンドウィッチが並び、和やかな時間は過ぎていった。まさか、こんな風にお義父様と食事をする時が来るなんて、想像もしていなかったのに。
 悟さんが聞いたら、どんな風に思ったかしら。ふわっと優しい風が流れてゆく。これは人工の風だけど、気持ちがふっと穏かになるのがわかった。

 目の前にはクリスタル・ファウンテンが見えている。ここが正常に動いていた頃は、このあたりももっと活気があったのかしら。

「噴水かい? 誰が止めたんだろうね。私はこれが町の人々の憩いの場所になるようにして欲しいと思ってSW社に直接依頼して作ってもらったんだが。
 人様を癒すためには、まず自分の足元を固めなければならなかったんだな。こんなに埃をかぶってしまうとは。。。こりゃあ、もう撤去せねばならんな」

 お義父様は寂しそうにつぶやいていた。

「そうなのかしら。。。本当にもうダメなんでしょうか」

 私は、ふと立ち上がって自分のハンカチで噴水に積もった誇りを払ってみた。ほこりまみれの噴水の土台にさっと光が差し込んでいるのが分かる。
 店の奥から、マスターが駆け寄ってきておしぼりを手渡してくれた。

「私も、このままにしておくのが辛かったんですよ。だけど、オーナーさんから触らないようにと通達が来たというので、がまんしていたんですよ。考えてみれば、ここのオーナーさんって言えば本能寺グループの会長でしょ?こんなところに来るはずがないんだよな。
 よし!私も手伝いますよ!」

 二人で始めた噴水の掃除は、気がつけば佐伯さんやお義父さん、それに周りのお店の方々までが手伝ってくださって、本格的なものになっていった。

 太陽光に出来るだけ近い光を研究された照明や天然の風に似た空調システムも手伝って、それはまるで青空の下に太陽の光を浴びて燦然と輝く宝の山のようにきらびやかな光を放っている。

 一人、また一人とその輝きに歓声をあげ、拍手が沸き起こる。また、やり直せるのかもしれない。ここも、本能寺家も。
 そう思っているところに、男達の足音が響いてきた。


「何をやっているんだ! それは触ってはいけないと言われているだろう!」

 気難しげにめがねを上げながら声を上げたのは、先頭を歩く青年だった。まだ学生かもしれない。でも、あの人、何処かで見たような。。。

「すみません。あまりに誇りをかぶっていて可哀想だったもので」
「貴方は?」
「そこにあるカフェテラスの店長です。そのクリスタル・ファウンテンは本当にすばらしいオブジェだったんです。ここを通る人々をどれだけ癒してきてくれたか分からない。」
「そんなこと聞いていません。ここはすでに新しいプロジェクトを計画しているのです。場合によってはお宅のお店も撤退してもらうことになりますよ」

 マスターが言い終わる前に畳み掛けるように遮るその言い方でやっと気がついた。秀人さんだ。

「随分と横暴なやり方をするんだな」

 重厚な声に、辺りはしんと静まった。秀人さんが声の主を見て驚いたのは言うまでもない。

「おじい様! どうしてこんなところにいらっしゃるのですか? 記者会見を取りやめるほど体調がよろしくないとうかがって、今からお見舞いに行くつもりでしたのに。」
「その必要はないよ。私は元気だ。それより秀人。お前さんはいつからこれの持ち主になったんだ?」

 さっきまでとはまったく違う声色で、お義父様はするどく言う。秀人さんの怯えたような目を見たのは初めてだ。

「これはね。この町を行き来する人々に安らぎを与えるためのものなんだよ。どんな計画を練っているかは知らないが、お前にそれをする権利を譲った覚えはないよ」
「申し訳ありません…」
「今からすぐ家に戻って荷物をまとめなさい。少し世間の風に当たった方がいい。お前さんには寄宿舎のある学校に転校してもらうよ。」

 どうやら全ては手配済みのようだった。秀人さんは何も反発できないまま、そっぽを向いてしまった。隣では秘書らしい人が困ったように二人を見比べている。

「君、名前は?」
「はい。田中です。社長の秘書をしておりましたが、この度秀人さまが次期社長になるんだとおっしゃって…」

 お義父様は大きなため息をついて答えていた。

「それで、理事会は承認したのか?こんな子供相手に!」
「いえ、まだ理事会は招集されていません。秀人さまは、その。。。そういうことはあまりご存じないご様子で…」
「田中君、きみは実家に戻ったという沖を知っているか?」
「はい。存じております。私の大学の大先輩でもあります。」

 沖さん、本能寺家にずっと仕えていらした穏かな人だったのに、どうなさったのかしら。

「では、今からすぐ沖を呼び出して、もう一度執事をしてもらいたいと私が頼んでいると伝えてはくれまいか?」
「はい!ありがとうございます!」

 ぱっと明るい表情になった田中さんを遮るように秀人さんが割って入った。

「いい加減なことするなよ。田中は今、僕の秘書なんだよ!ずっと日本を離れていたくせに、勝手に手を加えるのはやめてください!」

 その時、ぱーんと心地よいほどの音が響き渡った。周りにいた人々は何がどうなったのか、しばらくは理解できなかった。


 目の前の秀人さんははじかれるように通りに倒れこみ、振り向くと同時にぐっと何処かを睨みつけていて、その視線の先には、凍りつくような厳しい顔をしたお義父様が手を振り上げた状態で立っている。

「大人をなめるな! 田中くん、悪いがここにいる愚か者を自宅まで送り届けてくれ。そして沖にすぐさま来てくれるように連絡を。頼むよ。」

 田中さんが秀人さんに手を差し伸べても、プライドの高い秀人さんは素直には応じない。生まれたときから大金持ちの家庭に育っていると、あんなふうになってしまうのか。
 そっぽをむく秀人さんにお義父様の冷たい言葉が追い討ちをかける。

「秀人。私が何も知らないとでも思っているのか。」

 秀人さんは、何か都合の悪いことでもあるのか、さっと顔色を変えて田中さんに従って出て行った。

「さて、騒ぎを起こしてもうしわけなかったですな。マスター、孫の無礼を許してもらいたい。」
「いや、お気になさらずに。それより会長さんだったとは、失礼しました。失礼ついでにお願いがあります。この噴水、また動かしてもらえないでしょうか」

 お義父様はうれしそうに頷いて了解した。そして、改めて佐伯さんを振り返って言う。

「やはり君の力が必要になってきた。是非とも、わが社に力を貸してほしい。
将は、今の社長だが、実刑が出たのでしばらくは帰って来られないだろう。社長も副社長もいないあの会社を動かしていくには人手が足りないんだ。私ももちろん力を尽くすつもりだが、次の世代がいないんだ。」

 佐伯さんはお義父様の提案に驚き、何もいえない様子だった。

「ぜひとも考えておいてくれ。君だったんだろ?美優をまともな暮らしに引っ張ってくれていたのは。私にとっては、娘婿のようなもんだ。」
「本能寺さん…」
「お義父様、佐伯さんはまだ大学生さんですよ。卒業まで待ってあげないと。」

 思わず間に入った。

「ああ、そうか。そうだったな。いや、失礼。では、君の決断を待つとしよう。」

 お義父様はそっと携帯電話を取り出して、どちらかに連絡を入れた。そして、満足げに宣言した。

「皆さん、もうすぐここの噴水が動き出します。停止している間、寂しい思いをさせてしまいました。しかし私が日本に帰ってきたからには大丈夫。また今までどおりの憩いの場所になるよう、努力してまいります。」

 クリスタルファウンテンを囲んだ人々の拍手があたたかくその場を包んでいた。

 お義父様が席に戻った頃、噴水は動き始めた。キラキラと輝く水はクリスタルと照明に彩られ、たくさんの人々の視線を奪った。

「さて、良恵さん。我々は帰って悟の葬儀をせねばならんね。」
「はい。できることなら、本能寺家として改めて真澄の分も葬儀を行ってやっていただきたいです。」
「そうだな。では、失礼しよう」

 お義父様に従われて、私は席を立った。

「また来るよ。君はここによく来ているんだろ?」
「はい。大学の帰りはいつも。。。」

 満足げにうなづくと、佐伯さんと握手を交わしてお義父様は地上へのエレベーターに乗った。

「いい青年だったね。」
「そうですね。お義兄様の若い頃って、あんな感じだったんじゃないですか?」
「ん、そうだったかもしれんな。どうだ、これから将のところに寄って行こうか」
「はい!」

 タクシーに同席しながら、私はこの老人の横顔をみていた。このまま赤の他人になりきることは簡単だけど、もう少し、このおちゃめな老人のすることを見ていてやろうと思う。

 佐伯さんが自分の彼女の本当の姿を知りたいと言ったように、私も本当の悟さんを探してみたい。それには、この本能寺総一郎という少年のような老人のことをよく知ることが大事なんじゃないかと思った。
 沖さんが戻ってくる。そして、数年後には将さんも。そうなったとき、本能寺家がどんな風になっているのか、この目で確かめてやろう。

 その日、私はお義兄様の面会を終え、お義父様に続いてどうどうと正門から本能寺家の邸宅に足を踏み入れた。


 おしまい。



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