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なせばなる、かも。
ゴールデン テイル 1
Golden・Tail
『おまえという奴は、この私にそんなくだらない願いを請うと言うのか!』
男は声を抑えながらも、怒りを露わにした。きれいなシルクのブラウスの袖口のフリルも、腰まで伸ばした美しい栗色の巻き髪も小刻みに震えているので、その憤りが見て取れる。
『これまで名のある芸術家やアスリートたちの血のにじむような努力を見てきた。ストイックな彼らのさらなる高みへと向かおうとする意志に答えて、成功への道筋を照らしてきたのだ。それがアイオライターたる私の使命だというのに』
しかしジェシーは男の方に向き直ることもせず、だらけた姿でテーブルに突っ伏したまま答えた。
「アイオなんだってぇ? 聞いたこともないわ。とにかく、お腹が空いたんだもん。母さんは仕事だし、ジョージはクラブで帰ってこないし。はぁ、もうだめ。死んじゃうかも」
『その程度で命を落とすことはない。前にも話したが、アイオライターとは魔術師の中でも、目標に向かって突き進む者を正しく導く羅針盤のような役割を担っている者だ。おい、ちゃんと聞いているのかね』
男は怒りで我を忘れそうになるのをぐっと堪えてベストの襟を正すと、いつもの貴族然とした口調に戻した。
『それに、今回の君の空腹は、昼休みにほかの生徒と喧嘩していて昼食を食べ逃したのが原因だろう。まさに自業自得というものではないのかね。』
「うるさいなぁ! ミシェルだけはがまんならないんだよ。何が主役だ。性格ブスのくせに!! 見てくれだけで勝ったと思うなよ。口の悪さは宇宙一だ!」
『しかし君も随分なことを言ってなかったか? たしか、干からびたカエルとか、生きてるミイラとか…』
「だって本当じゃない!」
男は腕を組んで、じっとジェシーが向き直るのを待った。中世ヨーロッパの貴族を思わせるその姿、纏う雰囲気。だがそんな彼の怒りもジェシーの前には意味を持たない。
「はぁ。あんたって、使えない天使よね。もういいや。カバンの中にまだビスケットが残ってたはず」
そういうと、床に放り出してあったカバンを足先にひっかけて器用に引き寄せ、中身を物色しはじめた。
『何度言ったらわかるのだ。私は天使などではない! ああ、またそのような下品な!!もういい、分かった!食事を出してやるから、そのような下品な振る舞いはやめたまえ!』
ジェシーのあまりにもだらけた仕草に耐え切れず、その男・テイルはジェシーの欲望をかなえることになってしまう。
古い音楽のような呪文を唱えと、美しい栗色の巻き毛がふわりと舞い上がり、再び緩やかに彼の体に落ち着いたとき、ジェシーのテーブルに暖かい食事が現れた。
「やったぁーっ!!ビーフシチュー!」
ジェシーはすぐさま食事を始めた。すぐ目の前には、ふてくされたテイルが美しく足を組んだ姿で浮かんでいるが、ジェシーはお構いなしだ。
『こんなに美しく有能なアイオライターが目の前に現れてもちっとも驚きもしないで、くだらない日々の欲望ばかりをこの私に押し付けてくるとは。 だいたい、この私の姿が見えるのは、将来においてきわめて優れた才能を発揮する人間のはずなのだ。それなのに、君ときたらまったく、ブツブツ…』
テイルが怒るのも無理はなかった。長い間、テイルとその住処たるロケットペンダントは宝物として扱われてきた。あるときはクリスタルの宮殿のような器の中に飾られ、あるときは、金糸でできた毛氈を敷き詰めた金の宝石箱に入れられ、日々大切に磨き上げられて継承されてきたのだ。今のように人型になって姿を現した場合も、すぐにその真価に周りは畏怖を覚え、国賓のごとく丁重にもてなされてきた。
ところが、このジェシーという少女は、驚くどころかまるで興味を示さない。大好きだった祖母の形見として受け取ったペンダントは肌身離さず身に着けているのだが、中からテイルが出てきた途端、「だれ、あんた?」とのたまったのだ。
本来、大きな夢や才能を持ち合わせていない者には見ることの出来ないテイルという存在は、なぜかジェシーに見つかってしまう。そして魔力が使えるとわかったとたん、先ほどのような雑用に追われることとなってしまったのだ。
テイルの愚痴は続くがジェシーは素知らぬ振りだ。その時ジェシーのスマホが鳴り出した。
「もひもひ。あ、ビリー?」
『口の中のものを飲み込んでからにしないか! 見苦しい!』
眉間にしわの入ったテイルの注意など耳にはいらない。ジェシーは電話の主の話にケラケラと笑っている。
「じゃあ。すぐにそっちに向かうよ」
ジェシーはスマホをカバンに投げ込むと、すぐさま服を着替えはじめた。
『今出した食事ぐらいはきちんと食べるべきだろう。そんなことでは一流の人間にはなれないぞ』
「うるさいなぁ、一食抜いたって歌唱力に影響ないよ! っていうかぁ、いつまでそこにいるの! このスケベっ! 封印だよ!」
ジェシーがロケットを手にしたとたん、テイルは吸い込まれるようにロケットの中に封印されてしまった。ジェシーはその上にセロハンテープを張り、すぐには出られないようにして、出掛ける準備を再開した。
学校への道は広葉樹が並び、秋の深まる金色の日差しが赤みを帯びたその葉っぱに輝きを与えていた。青い空との対比が鮮やかで、ジェシーは大きく深呼吸した。
「おまたせ!」
学校に到着したジェシーはすぐに演劇部の部室を訪れ、声をかけた。すると、学生たちの塊りの中からするりと抜け出して、軽く手を上げる人物がいた。すらりとした長身に短めの金髪が額にこぼれる、理知的な顔立ちのビリーだ。
「悪いね。ちょっと打ち合わせたいことがあるんだよ。とりあえず、カフェにでも落ち着こうか」
ビリーが先にたって歩き出した。部屋を出るまでの数歩でも何度か声がかかり、その度てきぱきと指示を出していく。ビリーは演劇部の部長であり、今回の公演の総監督でもあるのだ。
一通り指示を済ませると、ビリーはジェシーを連れて部室を出た。とたんに待っていた女の子たちが駆け寄ってきた。
「ねえ、ビリー。今度の公演、絶対見に行くからね」
「ビリー、これ差し入れなの。後で食べてね」
ビリーは適当に相槌をうつと、ジェシーの手をとって逃げるようにその場を後にする。その後ろから黄色い悲鳴が響いていた。
学内のカフェは、客のピークを過ぎてゆったりとした時間帯に入っていた。ビリーはカフェの奥の席にジェシーを勧めると、周りにファンの子がいないか確かめてほっと息を漏らした。そして嬉しそうに報告した。
「ジェシー、聞いてくれ。僕がずっと待ち望んでいたチャンスが訪れたんだ。どうしても今回の話には乗ってほしい。頼むよ」
「今度の話って何。聞いてもないのに答えられないよ」
テンションの高いビリーにジェシーが呆れ顔で答えると、ビリーは待ってましたとばかりに手にしていた台本をテーブルに出してきた。
「今準備しているクリスマス公演は知ってるだろ?」
「ああ。ロミオとジュリエットでしょ? ミシェルが主役だって、随分自慢してたよ」
「そうそう。そのミシェルがね、昨日同じクラブの子とけんかして腕の骨を折っちゃったんだよ。そんなに長い入院にはならないだろうけど、今度の公演には間に合わない。そこで、君にどうしてもお願いしたいんだよ」
ジェシーは嫌悪感を露わにしていた。演劇部の看板女優と言われ、街のミスコンではいつも上位にいるミシェルは、その美しさから周りにはいつも彼女のファンが取り巻いているが、性格はわがままで負けず嫌い。同じクラスにいるジェシーは彼女のわがままに何度もひどい目に会ってきているのだ。
「やだよー。公演のときに歌でも歌えっていわれるのかと思ってきたのに、なんで私が演劇なの。しかもミシェルの代役?冗談じゃない。後でどんな嫌味を言われるかわかったもんじゃない」
「そこを頼む! ミシェルの毒舌は今に始まった事じゃないし、みんなそのことがいやで代役を引き受けてくれないんだよ。それに、ジュリエットは主役だからおいそれとは代役を選べないんだ。それなりに表現力があって、魅力のある女性でないと…」
「魅力のある女性?!」
ジェシーは困ったような表情で心臓が跳ね上がるのを隠した。しかし、女性の扱いに長けた監督は、それを見逃すことなく追い込んでいく。
「もちろんだよ。なんなら、君のためにこの公演中に2、3曲挿入歌を入れてもいい。元々、ミュージカル調でやる予定だったのが、ミシェルのおかげで音楽が削除されていたんだよ。ミシェルは自覚がないんだが、歌が今一つでね」
「歌を入れてくれるの?! やる!! 私、ジュリエット役をやらせてもらう!」
「そう来なくっちゃ!! じゃあ、この台本、渡しておくね」
ジェシーは台本も上の空で、チャンスを運んでくれた金髪の青年に抱きついた。
「ねえ、挿入歌はどんな曲にする? ちょっとは気合のはいった歌にしてよね!」
さらっと前髪を指でほぐし、頼めそうな友人にすでに依頼していることを伝えてると告白する。
「舞台稽古は明後日からだから、それまでにセリフは入れておいてね。じゃあ」
ビリーは嬉しそうに席を立つと、手を振りながら足早に演劇部の部室に戻っていった。
ジェシーは胸がごそごそするのでロケットをつまみあげた。ロケットはさっきジェシーがセロテープで封印してしまったままだった。そのセロテープを切ろうと、テイルが中でじたばたやっているところだった。ジェシーは面白そうにそのロケットを揺らせていたが、不意にふたが開いてテイルが飛び出した。
『やぁ、ジェシー。随分なことをやってくれるね』
髪を振り乱し息を切らしたテイルが、平静を装って言った。
「あ、開いちゃったんだ。随分息が上がってるね。もっとゆっくりしていてくれてもよかったのに」
不適なにらみ合いが続く。しかし、テイルの方がそれを退けた。
『ふん、しょうのない奴だ。しかし、今日はお前にとってすばらしいチャンスを手にする日になったな。ビリーはいずれすばらしい監督となるだろう。奴の背中にはオーラがあふれている。このチャンス、生かすも殺すもお前次第』
「もう。だれが占いをやれって言った? そんなこと、言われなくても分かってる。ビリーの才能は横にいるだけでも伝わってくる。彼の公演なら、いろんなお客さんが来ているはず。そこで歌えるんだもの。このチャンス、絶対ものにする!」
テイルはその言葉に驚いたようにそっとジェシーの表情を凝視した。ジェシーは客の入った場所で歌えることがうれしくてたまらない様子だ。
『お前は、まだ自分の才能に気づいてないようだな』
「は?」
ジェシーは思わずテイルに向き直った。だが、テイルは呆れたような顔つきを見せただけですぐにロケットの中に消えてしまった。
「もう!言いたいことがあるならはっきり言いなよ。感じ悪いなぁ」
ふてくされながら渡された台本を開いて、ジェシーは絶句した。セリフが異常に多いのだ。
「う、うそでしょ。明日はセイラと買い物にいくつもりだったのに、これじゃセリフを覚えるだけで精一杯じゃない。」
ジェシーはすぐさま席を立った。明後日までにセリフを覚えなければならないのだ。
ジェシーが学校の校門を出たところで、後ろから声がかかった。振り向くと、おどおどと落ち着かない様子の生徒が立っていた。まだ幼い感じが残っているので下級生だろうとジェシーが考えていると、思い切ったようにその生徒は話し出した。
「あの、私は演劇部に所属しているセシルといいます。今、部長からジュリエット役をジェシーさんが引き受けてくださったと聞いて、あの…」
「ああ、もう聞いたの? なんだかビリーにはめられちゃったみたいでさぁ。ま、がんばるよ。 よく遊びにいってるけど、いつ行ってもみんな真剣に取り組んでるもんね、演劇部は。 私もキチンとボイストレーニングに励まなきゃね」
「あの、その事で私謝らないと。 あの、ミシェルさんに怪我をさせてしまったのは、私なんです」
セシルはうつむき加減だった顔をぱっとあげて、一気に打ち明けた。
「だってミシェルさんったら、台本を無視してジュリエットだけが主役になるように脚本を変えてだとか、衣装はもっと派手で豪華なものにしてだとか、言いたい放題なんですもの。悔しくて、つい、口答えしてしまったんです。
そうしたら、ミシェルさんものすごい顔して怒りだして、舞台の上から私に向かって突進してきたんです。私は小道具と衣装担当なので舞台の下にいたものですから、当然まっすぐ進んできたミシェルさんは舞台から落ちてしまって。。。」
「なんだ。けんかって聞いたから誰があのうるさいのとやりあったのかと思ったら、やっぱりミシェルが一方的に怒鳴ってたんだ。あの子もドジだね。舞台の上をまっすぐ歩いていたら、落ちるに決まっているのに」
ジェシーは呆れたように言うと、セシルに向き直って笑顔で言い放った。
「私もチャンスをつかんだんだし、気にしなくていいよ。もし後でなにか言われても、周りの人はちゃんと分かってくれるよ。そんなことでしょげているより、すばらしい公演になるようにがんばろう」
セシルは救われた表情になって、こっくりとうなずいた。
「分かりました。私もがんばります。 ジェシーさん。明日、一度衣装をあわせてもらえますか。」
ジェシーは快諾してセシルと別れた。わだかまりが解けて足取りも軽くなった少女の肩越しに、傾きかけた日差しがまぶしかった。
帰り道、セイラに事情を話して約束を先に延ばしてもらうと、お気に入りの公園に寄ったジェシーは、早速台本を読み漁った。ビリーの脚本はすぐにジェシーをストーリーの中に引き込んでしまう。
あたりが冷え込んでくるまで、時間を忘れて没頭する。自分のくしゃみにやっと我に返ったジェシーは、周りが薄暗くなっているのに気づいて驚いたほどだった。
だが、その仕草は以前とすっかり変わっている。ジェシーの中にはすでにジュリエットが乗り移りつつあったのだ。
「お帰り~、い?」
先に帰宅していたジョージが出迎えたが、そのまま固まってしまった。ジェシーの表情がまるで違ってしまっていたのだ。
「姉さん、どうしたの?」
「ごめんなさい。今、役柄に集中しているの。邪魔しないでくださる。今度の演劇部の公演でゲスト出演が決まったのよ。そういうことだから、ジョージ。お食事の用意はあなたにお願いするしかなさそうなの。ごめんなさいね」
「ゲスト出演?すごいじゃん。」
「まあ、ジョージ、どうもありがとう。食事の用意をお願いするのですもの、紅茶ぐらい自分で入れますわ。 では、ごきげんよう」
ジェシーはティーセットをトレイに載せると、淑女の礼をして優雅に階段を上がっていった。
「え?姉さん、なんかいつもと違…。ってか、僕に晩御飯の支度を押し付けないでよ!」
ジョージはすぐさま姉に叫んだが、優雅な後姿はあっという間にドアの向こう側に消えた。彼はじゃじゃ馬娘の異変に一番に気づいた人物となった。
部屋にこもったジェシーが最初にしたことは、ロミオ役のジェフの写真を探し出し、じっと見つめること。
そして、まさに現実に恋に落ち、障害に苦しむがごとく焦がれるようにボルテージを上げていく。演劇初心者のはずなのに、セリフは不思議なぐらい自然に頭に入っていく。
こうなると、もう現実の生活はジュリエット色のジェシーが演じている状態だ。ゆっくりと香り良く入れた紅茶をウエッジウッドに注ぎ、ふうと甘い吐息を吹きかけてみたりしている。テイルはロケットの中でご機嫌だった。
『ん~すばらしい香りだ。この紅茶はレディグレイだな。あのじゃじゃ馬にも、そんなことが分かるようになったのか。 今日は私もあのお気に入りを淹れるとするか』
テイルは自分もお気に入りの紅茶を入れると、ロケットの中でこれからのことを考えていた。ジェシーはいよいよその才能に気づき始めている。ここからが自分の腕の見せ所だと。
「姉さん! 晩御飯出来てるよ」
窓辺にイスを置き、よりかかるようにして物思いにふけっていた恋する乙女は、ため息をひとつもらして立ち上がった。しかし、食卓のテーブルについてもなかなか食事に手を出すことはできなかった。
「姉さん、大丈夫? なんだか様子が変だよ」
「ごめんなさい。今は胸がいっぱいでお食事ができる気分ではないの」
彼女はまたしてもため息をついてそれだけ言うと、スープだけ飲み干して、そっと立ち上がった。普段、空腹になると機嫌を悪くして大騒ぎする姉だけに、哀れな弟はその変化についていけなかった。
「単身赴任の父さんは仕方ないけど、母さん、早く出張から帰ってきてよ」
翌日の放課後、演劇部の片隅で衣装をあわせたジェシーは、もうすっかり恋する令嬢になりきっていた。これには部員たちも驚きと期待の表情を見せた。そして誰よりその姿を喜んだのは他でもないビリーだった。
「ジェシー。いや、ジュリエット。君はなんて美しいんだ。今からでも僕はロミオになりたいぐらいだよ」
「ビリー、恥ずかしいわ。でも、恋をするとこんなに切なくて胸が苦しいなんて、知らなかったわ」
髪を結い上げ、中世風のロングドレスに身を包んで微笑む令嬢に、ビリーは本当にジェラシーすら感じていた。
その時、突然部室のドアが激しい音を立てて開いた。
「ちょっと待ちなさいよ!!」
ギブスをはめたままのミシェルが、金切り声をあげて立っていた。
「ミシェルさん、やめてください!」
ミシェルの前に立ちはだかったのはセシルだった。いつも内気な彼女はひざをガクガクさせながらも必死でその場所に踏みとどまる。
「怪我をしたままでは舞台に出られません。だから部長が変わりにジェシーさんに出演を依頼したんです。ジェシーさんを責めないでください!」
ミシェルはそんなセシルをギロリと睨みつけると、うなるようにいった。
「誰が私に怪我をさせたの? 誰のせいでこんながさつな女に主役の座を奪われたと思ってるの?!」
「そ、それは…」
セシルは消え入りそうな声で答えようとしていたが、それをさえぎったのはしなやかな衣擦れの音だった。
「ミシェルさん。お怪我の具合はいかがですの? そんなに大きな声を出してはお体に触りますわ。 それに、セシルさんを責めるのはどうかしら。 彼女が貴方を突き倒したり腕をねじったりなさったわけではないのでしょう?」
穏やかな品のある物言いにミシェルは言葉を失った。セシルをかばうようにミシェルとの間に入ったのは、令嬢さながらのジェシーだ。一瞬たじろいだもののミシェルはギリっと睨み返した。
「やあ、ミシェル。怪我の具合はどうだい? 今日の部活が終わったら、お見舞いに行こうと思ってたところだったんだ」
今にもとびかからんばかりのミシェルの腕をぐいっと引っ張って、部室の外に連れ出しながらビリーが割って入った。
「まだ治ったわけじゃないわ。でもね。私がいなくて貴方が困ってるんじゃないかと思って、様子を見に来ただけなの。だって、この公演には貴方も一生懸命だったから、どうしても成功させてあげたいのに、私はこんな状態だし。あんな子に頼んで大丈夫なの?」
高飛車な女優は人が変わったように甘えた声でビリーにしなだれかかった。
「大丈夫だよ。ジェシーには才能がある。僕は気づいてしまったんだ。もし、今回のアクシデントがなかったとしても、次回の公演には彼女を呼ぼうと思っていたんだ。君もぜひ見ておいたらいいよ。彼女には潜在的な才能があるみたいなんだ。さっきのしゃべり方でわかっただろ? 楽しみな役者が一人増えたんだ。わくわくするよ」
目を輝かせて力説する監督の卵の腕の中で、女優はむっとした表情になった。
「ビリー。私とあの子とどっちに才能があると思ってるの?! 冗談じゃないわ! 私が出ない公演に、いったい何人のお客が来ると思ってるの? 答えによっては私、演劇部やめるわよ」
「おいおい、そんなこと言うなよ」
監督は駄々っ子をあやすように女優の頭を撫でたり賞賛の言葉を撒き散らせて、黙らせることに成功した。
「じゃあ、私は帰るわ」
「うん、気をつけてね」
監督が笑顔で返しても、ミシェルの表情は浮かなかった。期待通りの言葉が返ってこなかったのだ。
その日を境に、クラブの雰囲気はすっかり変わってしまった。ロミオ役のジェフがすっかりジュリエットに夢中になってしまったのだ。勉強も手につかない様子で、クラスメートでいつもクラスのトップを争っているリチャードが心配になって演劇部を覗きにきたぐらいだった。
「あら、リチャード。ここにいらっしゃるなんてめずらしいわね」
「やあ、ジェシー。なんだか最近ジェフの様子がおかしいんだよね。だから、ちょっと心配になって見にきたんだ。クラブでなにか変わったことでもあったの?」
この秀才はジェシーのハイスクール時代からの友達で、彼女がどんなふうに変貌しても気後れしない数少ない友人の一人だ。今日もジュリエットに乗り移られたようなジェシーを見てもなんの影響も出ない。
「そうねぇ。恋をしているからじゃないかしら。ジェフがロミオで私がジュリエットなのよ。ぜひ見にいらしてね」
彼は恋という言葉にピンとこない顔をしていたが、公演は楽しみにしていると告げ、帰って行った。
それを見送るジェシーの腰を強引に引き寄せ、ジェフは責めるように告げる。
「ジェシー!そんなところにいたのか! もう通し稽古は始まっているんだよ。早く来いよ」
必要以上に体を引き寄せられ、ジェシーはちょっと困った顔をしたまま頷くと、急いでしかしエレガントに舞台に上がった。目の前には少しイラついた様子でジュリエットを見つめるジェフ。そして、舞台の袖ではそんな二人をむっとした表情で見つめるビリーの姿があった。
「ねぇ。最近の部長って変じゃない?怖いっていうか、いらだっているっていうか」
衣装担当のマージーがセシルの袖を引っ張って囁いた。セシルはあいまいに答えたが、確かに最近のビリーは誰の目にも雰囲気が変わっている。
稽古が終わって帰り支度を終えたジェシーが部室から出てくると、ビリーが出口で待っていた。
「ジェシー、話がある。ちょっと来てくれ」
この公演に誘った時と同じカフェにジェシーを呼んで、もどかしい表情で言う。
「ジェシー。別に役どころが恋人だからって、ジェフとつきあう必要はないんじゃないか。なんだか最近のジェシーはちっとも君らしくない」
彼女はそんなビリーの表情を静かな視線で眺めていたが、ほんの少し寂しげな顔をして、それからまたすぐにエレガントな笑顔をたたえて答えた。
「ビリー、貴方はどうして私を演劇の世界に引き込んだの? 私は歌うことさえできればいいと思っていたのに。でも、もう始まってしまったの。私、台本を読み出したとたん、自分の役柄が乗り移ったように自分の体に重なって感じるようになったわ。でも、私はその現象に身を任せてみようと思うの。それは、貴方が望んでいたことでもあるんだと思ってたんだけど」
「そう、なんだけど…」
ビリーの言葉は途切れ、困惑が眉間に浮かぶ。視線を落とすと二人の間にある2つの紅茶が穏かな香りを立ち上らせる。しかし、それには手をつけず、ジェシーは静かに立ち上がった。
しなやかな白い指が、思いのほか強い力で立ち去ろうとするジェシーの肩をつかむ。
「離して」
「いや、離さない」
真剣な眼差しが絡み合う。時が止まったように二人は動かない。
「ごめんなさい。私、少し疲れているみたい・・・」
ビリーはそれでもその場所を譲ろうとはしなかった。もどかしいその口元が、何かを告げたいと動き出していた。
「ジェシー…」
「ビリー、公演まであと3日よ。これ以上疲れを溜めると自分のやりたかった歌にまで影響してしまいそうなの。お願い、このまま返して」
彼女はまっすぐに彼を見つめる。凛とした視線に彼は苦しげな表情を浮かべる。そしてジェシーの肩を掴んでいた手を緩めた。
「ありがとう」
ジェシーは静かにそう言うと、監督の横をすり抜けて校門へと向かった。校門の前ではジェフがバイクにもたれてジュリエットの帰りを待っていた。ビリーはなにもいえないまま、二人が仲良く帰っていく姿を見送り、姿が見えなくなったとたん、膝から崩れるように座り込んだ。
「どうして…、どうしてこんなことになってしまったんだろう」
彼は頭をたらして後悔していた。じゃじゃ馬の中に見え隠れする何かを見たとき感じていた、ときめくような高揚感。それは彼女の溢れる才能から感じているものだと思っていた。そして、それを自分がステップアップするときに使いこなしてやると、そんな風にすら思っていた。しかしそれは、あまりにもおろかな考えだった。
しばらくその場に佇んでいた監督がゆっくりと身を起こしたのは、空がすっかり暗くなってからだった。冷たい三日月の光りを浴びた中庭を、一人でふらふらと校門に向かう。
抜け殻のような体が、どんっと何かとぶつかったのはそのすぐ後だった。
「ああ、ビリーじゃないか。ちょうどよかった。あのさ、僕、ちょっと考えたんだけど、今度の舞台の背景、もうちょっと変えてみたらどうだろう。第2幕の背景なんかは特にね。ねぇ。僕も参加していいかなぁ。美術部員として、どうしても協力したいんだよ」
いつになく弾んだ秀才の声が薄暗い中庭に響いていた。しかし、今の抜け殻には、それに共鳴できるほどの力も無かった。
「あ、ああ。好きにすればいいよ。君の腕なら信用できる。まかせるよ」
「いいの? まだ大道具のみんなはいるかな」
「あいつらならまだがんばってると思うよ」
秀才はその言葉にぱっと表情を明るくして、演劇部の部室へと駆け出していった。抜け殻はそんな秀才を見送ると、背中を丸めたまま校門を出て、宵闇の街に消えていった。
それから2日間、だれもビリーの姿をみることはなかった。演劇部員たちは部活が終わると血眼になって監督の行方を捜していたが、誰も手ごたえを得る事ができない。
そんな中でもリチャードだけは黙々と大道具係りと打ち合わせをやり直し、うつろだった洋館の内装をきらびやかで高貴なものに作り変えていった。初めはうろたえていた部員たちも、リチャードの指導の下、次第に集中力を取り戻していく。
学校から10分ほど歩いたあたりに、庭中をきれいな花で満たした家があった。その家の二階南側の部屋に、部員たちの捜し求めていた姿があった。ビリーは自分の部屋に閉じこもったまま食事も取らず、ベッドに横になったままじっと天井の一点を見つめていた。
今まで、なにもかもうまくいっていた。何の不自由もなく生活していた。成績も学校での人間関係も申し分なかった。それなのに、たった一つの感情にこれほど自分を見失ってしまうとは。ビリーは打ちひしがれていた。
「ありがとう」
日焼けなどしたことがない白い耳に、あの日のジェシーの静かな声がよみがえった。
ありきたりな言葉だが、静かで重みがあって感情の抑制の効いた大人の言葉だった。あれはジュリエットの言葉ではない、ジェシーが普段隠している本当の彼女の言葉なのだ。ビリーはそれに気付きはじめていた。
「明日か。。。」
ビリーはようやく体を起こす気になった。今までみんなで準備してきた公演を、自分ひとりの感情で放り出す事はできない。窓の外は日が翳り始めていたが、急いで服を着替え、部屋を飛び出して行った。
公演を予定している講堂の前に立つ。辺りはすっかり薄暗くなってきた。客席後部のドアをそっと開けると、リハーサルが始まったところだった。ドアのすぐそばにいたリチャードがビリーに気づいてニヤっと笑ってきた。
監督はその笑みのわけを、ステージを見たとたん理解した。すばらしい背景が目の前に広がっていたのだ。監督はそっと右手を差し出して、このすばらしい美術監督と強く握手を交わした。
「舞台の方に行ってやれよ。みんな必死でがんばってたんだよ」
初めのうち、ためらっていた監督だったが、美術監督に背中を押されてゆっくりと舞台へ向かって歩き出す。うっとりと舞台に目を奪われていた部員たちが、一人、二人、監督の存在に気づき、笑顔になっていく。監督は部員たちの深い信頼に心から感動していた。
劇が終わりジュリエットが姿を現すと、監督はいつもの自分を取り戻した様子でエレガントなジュリエットに惜しみない拍手を送った。ジェシーはそんなビリーに気づいて、小さなガッツポーズを見せた。そんなジェシーらしい様子に白い耳がほんのりと赤みをさしていた。
そしてついに訪れた公演当日、舞台は大盛況に終わり、たくさんの男子生徒がエレガントなジュリエットを演じたジェシーを取り囲んでいた。しかしじゃじゃ馬は迷惑そうな顔つきでその輪の中から抜け出すと、ビリーのそばに駆け寄り、カフェに逃げ込む手助けを頼んできた。
「まったく、ジェシーは変わった奴だな。一番華やかで皆があこがれる場面なのに、自分から逃げ出すんだもんなぁ。」
ビリーは呆れたように笑った。
「やめてよ。うるさいんだよ、あいつら。公演が終わったらそんなお嬢様ごっこなんておさらばよ」
「役作りは完璧なようだね。その才能、気に入ったよ。しかし、もう少し普段の自分との区切りをはっきりした方がいいようだな。役に飲まれていては、いずれ自分を見失うことになる。」
「うるさいわね。体が勝手に反応するだけよ。」
じゃじゃ馬はすっかり元通りになって、ケラケラと笑った。しかし、ロケットの中のテイルの表情は固くなるばかりだった。
季節が変わって、春の公演の準備が始まった。前回の公演が大好評だったのを受けて、女性の主役はすぐにジェシーで決まってしまった。もちろん監督はビリー、美術担当はリチャードだ。今回は、マージーの作ったオリジナルのストーリーが採用された。貴族の令嬢だった主人公が、家の没落により不遇な人生を歩む話だ。以前から監督に自作の小説を提出していたマージーは、それこそ空を飛び回りそうなほど喜んだ。
ジェシーの役柄はアンという主人公。母親が死に際に言い残した教えを懸命に守ろうとする少女の役だ。
だが今回も、台本を受け取ったジェシーは公園でその中身を読み出し、自宅に帰る頃にはすっかりアンに乗り移られてしまった。
アンの特徴は「どんな状況に置かれても、人には優しく、自分を律して生きなさい」という教えを背負っていること。
その数時間後、遅れて帰ってきた家族が驚くほど部屋中を磨き上げ、料理を作り、じゃじゃ馬と言われていた彼女は慈悲の眼差しで微笑んでいた。食事が終わるとせっせと後片付けを始め、それが終わると今度は自室で静かに勉強を始める。言葉は穏かになり、家族は過ごしやすい環境に大喜びだ。
学校に行けば、休み時間に中庭の草引きや本棚の整理をこなした。クラスの仲間は、嫌がる風でもなく、その変化を楽しんでさえいた。
だが、一番仲のいいはずのセイラの表情は複雑だった。
「ねえ、ジェシー。貴方の才能は認めるけど、ちょっと役にはまりすぎじゃない?」
「セイラ…。私、今やっと役づくりが面白くなってきたところなのよ。心配しないで。でも、ありがとう」
「ジェシー…」
アンは家に帰っても、休むまもなく働いた。大方の家事を終えて、一人自分の部屋に戻ってきたジェシーは、その日もやはり自分の机に向かって自習を始めた。
そんな変貌を静かに眺めていた精霊が、久しぶりに姿を表した。
「ジェシー。だいぶ自分のするべきことが分かってきたようだな。しかし、そのままではまた前のように役に食われてしまうのではないかな。本当の一流なら、自分を見失うことなく、冷静な自分を保ったまま演じきれるはずだ」
「うるさいわねぇ!」っと返ってくるはずだった。事実テイルは怒鳴り声を跳ね返すべく、盾を用意していたほどだ。
しかし、そんな強い言葉が返ってくることはなかった。躊躇う唇がかすかに震えている。そんな姿に痛々しさを覚えたのか、深いため息をこぼして栗色の巻き毛は 静かにペンダントの中に帰ってしまった。
一人残された少女は、真っ白のノートを見つめたまま心の中にある何かを探っていた。アンやジュリエットが自分の性格でないことは、分かっている。そして、実は普段のじゃじゃ馬ですら、本当の自分でないことも。。。
歌う事で自分を表現する事に夢中だったジェシーは、どこに行ってしまったのだろう。気がつくと、次回の台本に歌は1曲も入っていなかった。
ふと見上げると、鋭い輝きを放つ三日月がじっと哀れな迷い子を見つめていた。
春の公演には、ミシェルも競演することになった。皮肉なことに、彼女に渡された台本にはアンをいじめる女の子の役と記されていた。
「ビリー、話があるの。ちょっといいかしら?」
「ああ、何の用? 今、背景の打ち合わせ中なんだ。急ぎなら今聞くけど?」
監督は部員たちが用意したラフ絵から目を離さないまま答えた。他の部員たちも背景をどうするか、夢中で話し合っている。
「ビリー? 私が、話があるって言ったら、今すぐなのよ。早く来なさいよ!」
「リチャード、さっきの学園内の背景はやはりさっきのパターンで行こうか」
夢中で作業する彼らに、雑音の入る隙はなかった。
「うん、そうだね。マージー、悪いけどこれコピーして大道具の人たちに配ってくれる?」
「ええ、わかったわ。 あ、ミシェル。悪いけどどいてくれる。急いでるのよ」
かつての看板女優は、すっかり古くなった看板のように見向きもされない。マージーは大張り切りでミシェルの脇をすり抜けていった。
「何言ってるのよ! なんで大道具のアンタなんかに呼び捨てされなきゃいけないの?」
「ミシェル。静かにしてくれないか!今、忙しいんだよ。マージーは君の先輩なんだぞ。当たり前だろ」
相変わらず、振り向こうともせずに台本とラフ絵を照らし合わせているその目には、何の迷いもなかった。華奢な腕が、肩が、わなわなと震えている。しかし誰一人、そんな時代遅れな女優を振り向くものはいなかった。
「ビリー…。貴方の考えはよくわかったわ。でも、このまま私が引き下がると思ってたら、大間違いよ」
ミシェルははき捨てるように言うと、背中から怒りの陽炎を立ち上らせてその場を後にした。
回りの部員たちは、どれだけの逆襲があるかと随分心配していたが、気持ち悪いほどにミシェルは役柄に集中していった。
公演を翌日に控えたリハーサルを終え、部室には心地よい緊張感が満ちていた。部室を出ようとしたジェシーに声がかかる。
「ちょっと待って! 今日は、送っていくよ。」
「悪いわ。貴方は監督なんだもの。いろんなことに気を配らなくちゃならないでしょ?」
労わるような瞳に、白い耳がぱっと赤くなる。
「いや、送りたいんだ」
「ビリー…」
アンを演じるようになったジェシーは、ビリーが監督という殻を脱ぎ捨てるのに充分な優しさを持っていた。
部室を出ると、すでに月が煌々と輝いて、いつもの中庭をステージのように照らしていた。
「ジェシー、前回もそうだったけど、すごい才能だね」
ざくざくと砂利を蹴る二人の足音が響く中、ビリーはもどかしい気持ちをもてあますようにそんな言葉をつむいだ。
「才能?」
テイルの言葉が甦った。アンでもジュリエットでも、じゃじゃ馬でもない自分。そして周りが羨む得体の知れぬ才能。ジェシーは言い知れぬ不安に陥った。
「どうしたんだい?」
熱っぽい息がかかって、はっと我に返った。
「え? なにが?」
「何が?って…。 その。 涙が…。」
切なげな熱い息が再び頬を打ち、いつの間にか肩に回された腕に力がこもる。
「ごめん。私、どうかしてる。」
ジェシーは急いで乱暴に涙を拭って、優しい腕をすり抜けた。
「明日、がんばろうね!じゃあ!」
ガッツポーズを決めると、元気な振りで駆け出していった。
「ジェシー!!」
追いかけようとしたビリーを止めたのは、校門の向こう側からジェシーに飛びついたセイラの後姿だった。彼女もまた、元気の無いじゃじゃ馬を心配する一人だ。
彼女たちが話しながら帰っていくのを見送ると、大きなため息が中庭いっぱいにこぼれた。
きれいな月明かりの下、少女たちは仲良く並んで歩いていた。
「よかったの? こんなに遅い時間になっちゃって」
「うん、いいの。私、どうしてもジェシーに伝えておきたい事があったから。」
「伝えておきたい事?」
不安を押し隠すような白い顔が、ちらっと隣を歩く少女を見た。まっすぐな髪、きちんと結ばれた口元、聡明そうな額、そして自分にだけ向けられる温かいまなざし。この眼差しの前では、どんな言い訳も通用しない。視線はすぐさま自分の足元に移された。
「うん。ジェシーが迷子になってるから、出口を教えてあげたかったの」
言われた瞬間、ジェシーは自身の頬がぱっと赤くなったのがわかった。
「覚えてる? まだ小さい頃、私が飼ってた子犬が事故で死んでしまって…。ジェシー、ずっとそばにいてくれたわ。私がボーイフレンドに振られたときも、笑顔になれるまでそばにいてくれた。相手をボコボコにしちゃったけどね。ふふ、あの時は止めたけど、ホントは私もすっきりしたぁって思ってたの。」
「ふふふ。そうだったね。あの頃、楽しかった」
「アレからよね。ジェシーが男の子みたいに振舞うようになったのは。」
「えっ? …」
まっすぐな髪が、さらっと風になびいた。
「もう、じゃじゃ馬を演じなくてもいいのよ。私だって強くなったわ。今度は私が守ってあげる!」
「セイラ…」
気がつくと、ジェシーは家の前まで帰っていた。
「じゃあ、明日はがんばってね! 一番前で応援するわ!」
手を振って駆け出すセイラを見送るジェシーの肩ごしに、テイルが微笑んでいた。
『君はすばらしい財産を持っているんだな」
「セイラのこと? うん、最高の親友よ。明日はがんばらなくっちゃ!」
白く色を失くしていたジェシーの頬に、明るい輝きが戻ってきた。
『では、そろそろお手並み拝見といこうか?」
ロケットの住人は、そっとその扉を閉めながらつぶやいた。
公演当日、ジェシーは朝早く起きだし、家事を手伝って出かけた。だが、アンのように働くその背中に悲壮感はなかった。
会場に到着した彼女を待ち受けていたのは、宿敵だった。
「貴方!昨日部室に準備しておいた私の衣装を破いたでしょ!いくら負けたくないからって、それはフェアじゃないわね!」
聞こえよがしなそのセリフは劇中のセリフと絡み合い、ジェシーをアンへと引きずり込んでいく。
「私… 私はそんなことしていないわ!」
「悪いけど、目撃者もいるのよ。公演まであと2時間あるわ。さっさと代わりの衣装を用意して頂戴!」
「そんな…」
戸惑うその表情はアンそのものだ。慌てて校門を飛び出すアンをまっすぐな長い髪が遮った。
「ジェシー、どこに行くの?」
「だって、だって…あの子に迷惑をかけてしまったみたいだから…」
「あの子って?」
「ソフィアよ。舞台の衣装が破かれて、とても困っていたわ」
聡明なセイラには、何が起こったのかすぐに理解でした。きちんと結んだ口元により一層力をこめてビリーのいる部室に駆け込むと、忙しそうに部員に指示を出している監督を捕まえて、事の次第を伝えた。
公演の準備に追われていたマージーがその話を聞きつけ、すぐさまセシルに代替の衣装を依頼すると、あっという間に事態は収拾された。ビリーが自信に満ちた顔でセイラに微笑む。その笑みを受け取って、セイラはうなずいた。
「さすがね。じゃあ、かわいそうなアンを励ましてくるわ」
まっすぐな髪が、軽やかに揺れながら部室を出ていく。
「よろしく頼むよ。大人しくしていると思っていたけど、やっぱり悪い癖が出たみたいだな」
ビリーは主演女優の頼もしい親友に一礼すると、誰に言うともなくつぶやいた。
時間がきた。前回の評判を聞きつけた学生がどっと押し寄せ、会場は立ち見の出る賑わいだ。舞台の袖にはすっかり準備の整ったアンと、その華奢な肩をしっかりと支える監督の姿があった。
一方ミシェルはまだ控え室に篭っていた。ジェシーを混乱させるつもりで破いた衣装が本番用のものだと気付いたのは、セシルが安っぽい衣装をもってきたときだった。
「冗談でしょ? 私にそんなものを着て舞台に立てというの?」
しかしセシルは冷静だった。
「誰も見ていないとでも思ってるんですか? 貴方のやったことは部内では周知の事実です。もう、あまり時間がありません。急いでください。じゃあ、私は他の仕事がありますので」
バタンとドアの閉まる音を聞きながら、かつての看板女優は膝を折って悔ししがった。
演劇と言うものは、舞台の上で起こることが全て。観客はそのすばらしさに魅了され、公演は再びの大成功を収めた。
観客動員数が記録的に伸びた事を祝して、部内でパーティーが開かれることになった。今回もアンの面影があっさりなくなったジェシーだったが、ほんの少しの変化は見られた。騒がなくなった。ただそれだけのことなのだが、これは大きな変化だ。
今回、目覚ましく貢献したマージーと新しく看板女優の地位を確固たるものにしたジェシーが監督と席を並べて座った。
リチャードの頼りない司会が、ざわめく会場を静め、皆にグラスを勧めている中、派手なドレスの女がけたたましくドアを開けて入ってきた。
ひじまであるサテンの手袋を連れの男の腕に絡め、会場に敷かれたレッドカーペットを我が物顔でまっすぐに監督に向かってすすんでゆく。乾杯することも忘れて、部員たちは息を呑んだ。
「ビリー。ビッグニュースよ。次の公演のために、スティーブンがオリジナル小説を脚本化してくれるっていうの。いつまでも童話みたいな世界に漬かっていてもしょうがないわ。もっと私たちに合うお話をやってみましょうよ。今の演劇部なら、きっと何をやってもお客は来るはずよ」
「スティーブン・フォードです。よろしく」
長身のスティーブンがすかさず右手を差し出した。ビリーも自然にそれに応じる。
「部長のビリー・マクレガーだ。こちらこそよろしく。もし、脚本が出来上がっているのなら、一度見せてもらってもいいかな。採用するかどうかは、それからだ」
「ええ、いいですよ。そのつもりで今日、ここにお持ちしました」
スティーブンの長い腕が、スマートに出来上がった脚本を差し出した。
「じゃあ、よく考えておいてね。私たちこれからクルージングの予約が入ってるから、失礼するわ。」
高笑いをしながら会場を後にするミシェルに、だれも愛想を振る者などいなかったが、嵐が去ったような会場には、後味の悪い空気が残った。
「それにしてもさぁ…」
マージーのひじをひっぱって、大道具仲間のひとりがこっそりと声をかけた。その視線を辿ると、そこには何もなかったかのように笑顔で談笑するジェシーの姿があった。
「大丈夫なのか? 1つ間違えたら危ないヤツってことになりかねないぜ」
マージーは不躾な言葉に眉をひそめながらも、同意する自分がいることを知っていた。周りを見渡しても、何気に遠巻きにされている主演女優の存在を認めざるを得ないのだ。
「最初は、あの憎たらしいミシェルをやっつけてくれて嬉しかったんだけど。なんていうか…、ちょっとクレイジーな感じがしないでもないのよね。部活どころか私生活の全てが役にのめり込むっていうのはちょっとね。すごいといえばすごいけど、そこまでやる必要あるのかしら。」
マージーは、楽しげなジェシーを心配そうに眺めていた。
和やかなパーティー会場の片隅で、窓際にもたれたジェフが外を眺めている。
「やあ、ジェフ。どうしたんだよ。飲み物でももらってこようか?」
「ああ、リチャードか。いや、いいよ。それより驚いたよ。お前が演劇部を助けに来てくれるとはね」
「まあね。ホントは君があの公演の頃あんまり元気がなくてさ。気になってたんだ。前期の試験のリベンジを企てていたのに、なんだか君が自分を見失ってる気がしてさ。このまま勝ってもすっきりしないって思ったから」
ジェフは窓の外からリチャードに視線を移して、明るく笑った。
「お前って、結構いい奴なんだな」
「よせよ。でも、君のおかげで逆に僕にも活躍の場所ができた。これでおあいこさ」
二人はお互いのひじをあわせてにやっと笑いあった。
「でもさぁ、どうしてジェシーは急に態度をかえちゃうんだろう。まさか、幽霊が取り付いてる?」
「あははは。らしくないぜ。だけど、ちょっと最近のジェシーにはついていけない。付き合ってるって思ってたのに、ただの役作りだったなんて…。」
「もう、うんざりってとこか?」
「ん。いや。そうじゃないから、困ってるんだ」
ジェフはまた窓の外に目をやって、ちょっと寂しげに言った。
ジェフの肩越しに、浮かない顔をしている監督が見えた。リチャードは、じゃあとジェフの肩を軽く叩くと、さりげなくビリーに近づいた。
「どうしたのさ。せっかくの成功祝いのパーティーだっていうのに」
「ああ、リチャード。前回に続いて今回も、すばらしい背景をありがとう」
「そんなことはどうでもいいさ。好きでやってるんだから。それより、どうしたのさ。浮かない顔して」
「ん…。実は、さっきミシェルの紹介でスティーブンの脚本をもらったんだが、ちょっと見てくれないか…」
差し出された脚本にざっと目を通したリチャードは、なるほど、と独り言のようにつぶやいた。
「主人公の女性に自殺願望がある想定なんだ。これをジェシーにやらせろと、ミシェルは突きつけてきたんだよ。これはジェシーに対する復讐だな。ミシェルは、ジェシーが役にのめり込んでいるのを自己アピールだと思ってるようだ。だけど。。。」
「そうだよなぁ。大丈夫かなぁ。今のジェシーにはちょっと危険すぎないかい?」
いぶかる視線を払いのけるように、監督が顔を上げた。
「いや! ここがジェシーにとっても正念場なんだと思うんだ。ミシェルにいつまでも勝手ばかりされていてはたまらないからね。僕はこの脚本で絶対に次の公演を成功させるさ」
「わかったよ。じゃあ、みんなで手分けしてジェシーを守っていこう」
「いや、その仕事は僕に任せてほしいんだ。どうしても、この手でジェシーを本物の女優にしてやりたいんだよ」
熱のこもった言葉に微かな違和感を覚えたが、そっとその場を離れ、リチャードは再びジェフのそばに戻った。外は輝かんばかりの若葉がキラキラと春の日差しを跳ね返している。
だけど…っと美術監督は振り返る。部内に描かれたそれぞれの思惑は、複雑に折り重なって、シュールな背景を描き出していた。
翌日、台本を渡されたジェシーはやはり役にのめりこみ、過去のあやまちに苦しむビアンカに体を奪われそうになる。時折頭を振って自分を取り戻そうともがく姿が返って痛々しく周りの心配を誘った。
ビリーから事情を聞かされたセイラが、前日からジェシーの家に泊まりこんで付き添うが、ビアンカの強い後悔の念にジェシーは翻弄された。
『ジェシー。今回はお前にとって正念場になるだろう。』
「そうみたいね。 私も、できるだけ自分を失わないようにしようと思ってるわ。役にはまって自殺なんてしたくないしね」
セイラがシャワーを浴びている間に、テイルがロケットから抜け出し、ジェシーと向き合っている。話しながらも時折襲ってくるビアンカの自責の念に歯を食いしばって耐えるジェシーに銀のピアスが差し出された。
『これを渡しておく。その昔、ある魔法使いが作ったピアスだ。本来の姿を呼び戻す効果があるとされている。何かの時に役立ってくれるだろう』
「ありがとう。」ジェシーが受け取った途端、窓も空いていないのにずんっと風が通り抜けジェシーの髪を巻き上げた。そして、再びその髪が落ち着いたとき、物怖じしないまっすぐな眼差し、神々しいばかりの輝きに包まれた若き女優の姿に精霊は少したじろいだ。小さく咳払いをして、『自分を見失うんじゃないぞ』とそれだけ言うと、そそくさとロケットに戻っていった。
「はぁ。だけど、すごく苦しいのよ。ミシェルったら、いやな奴。どこまで意地悪なのかしら」
「ジェシー、交代よ。シャワーを」
セイラが戻ってきて声をかけた。
「サンキュ。 ね!明日はウインドウショッピングに行かない?少し、気分転換したいのよ」
いいよと言いながらも明るくふるまうジェシーを気遣うセイラは落ち着かなかった。また、ロケットの中でもその動向をじっと見守る姿があった。
「ねえ、ジェシー! このジーンズかっこいいと思わない?」
「う~ん、セイラにはこっちのグリーンの方が似合うんじゃないの?」
翌日、早速買い物に出かけた二人は、せっせと服選びに専念している。セイラが試着室からで出てきたとき、ジェシーはワイルドなアーミースタイルのつなぎを取り出していた。
「それは私じゃなくて、あなたの方が似合うんじゃない?」
呆れたように言うと、まっすぐな髪をなびかせて、試着室を譲ってやった。彼女がジェシーに付き添って数日。ジェシーはうまくビアンカを抑えているように見えていた。そんな親友に、セイラは人知れずそっと胸をなでおろしていた。
「カッコイイのにぃ」
「ほらほら、だから自分で着てみれば?こっちの帽子とセットにするとかっこいいかも!あ、そのピアス、雰囲気が違うから外してみて。」
親友に促され、迷彩色のパンツにそっと足を入れたジェシー。帽子を受け取り、銀のピアスをセイラに渡してポーズを決める。目の前の鏡には、ワイルドな女兵士が立っている。
「決まったね」
満足げに言ったその瞬間、ジェシーを魔の時間が襲ってきた。それは、今度の公演の劇中の登場人物のセリフそのものだった。
『あの子は昔、戦場に出て男たちにまぎれて戦っていたような子よ。平和な田舎で生まれ育ったあなたと釣り合いがとれるもんですか!』
フィアンセの母親が放つセリフは、ビアンカも、そしてジェシーをも絶望の中に突き落としてしまう。
ジェシーから全身の力が抜けてゆく。そして、気がつけば、試着室に座り込んでさめざめと涙するのだった。
「ジェシー!大丈夫?」
セイラが異変に気付いて試着室をのぞくと、ジェシーの顔はすっかりビアンカのものになってしまっていた。
「過ぎてしまった時間を変えることはできないわ…。私は、戦いの場とはいえ人を殺めてしまった女。恋をすることなんて、許されるはずもなかったのよ!!」
「ジェシー! しっかりしてよ! ジェシー!」
セイラは自分も試着室に飛び込んで、急いでジェシーからアーミースタイルのつなぎを剥ぎ取った。
テイルはその頃ロケットの中で紅茶を楽しんでいた。ふくよかで品のよいその香りに混じって、なにやら危なげな香りが混ざり、すぐさまジェシーの異変に気付いた。
「ダメだ!飲み込まれるんじゃない!早くピアスを!」
テイルが呪文を唱えるのとセイラの平手が飛ぶのが同時だった。
「ビアンカやミシェルに負けてどうするのよ!」
その言葉はジェシーの心に渦巻くビアンカの絶望を打ち砕いた。
悲しみの鐘が鳴り響く。もう自分には生きる権利すら残されていない。このまま暗闇の中へと落ちていこう。
ぼんやりとその身を任せていたジェシーは、頬に当たった大きな衝撃でハタと気がついた。そして、今まさに回りに聞こえる店内放送の音楽や買い物客の賑わいに、自分だけが異空間からやってきたような後味のわるい錯覚だけが心に残った。
「セイラ、ありがとう。危なかったよね。」
苦い表情で笑ってピアスを受け取ったのを見て、セイラは胸を痛めた。そしてテイルも呪文を消し、静かにロケットに戻った。
翌朝、事の次第を聞きつけたビリーがジェシーの家に駆け込んできた。そして、ジェシーに今回の公演を中止しようと持ちかけた。無論、驚いたのはジェシーの方だ。
「せっかく波に乗ってきたのに、ここで中止したらミシェルが正しかったことになってしまうじゃない!ビリーだって、いい笑いものになるんだよ!」
「ジェシーが昨日のように役に溺れてしまうのなら、やめるしかないじゃないか!」
お互いの強い思いがぶつかって、そばにいる全てのものを緊張させた。
二人はしばらくにらみ合っていたが、お茶を入れてきたセイラに阻まれて落ち着きを取り戻した。
「とにかく、私は絶対にこの役から降りないからね」
ビリーはため息をついてソファに腰を下ろし、しばらく腕を組んで考え込んだ。時計の音だけが、妙に大きく耳に残る。いつの間にかジェシーのすぐ後ろに、背中合わせのテイルがいた。
『いいのか? そんな無謀なことをして。あのピアスも手を離れたら効力がなくなるぞ』
『いいの。絶対にやり遂げて見せるわ!ピアスのことは、私が手放したのが間違いだった。でも、私にはまだアンタが見えるもの。アンタが見えるってことは、私に才能があるってことなんでしょ? じゃあ、その才能とやらが本物かどうか、この手で確かめてみようじゃない』
ジェシーの闘志がテイルの背中にも伝わってきた。
『では覚えておくがいい。今の私はお前の元にいるのだから、お前の望みであれば叶えてやれる。しかし、もしも突発的な事故に巻き込まれて意識を失ってしまったら、どうしてやることもできないのだ』
『わかったわ。気をつけるから』
テイルがそっとその場を離れた。頑張らなければ、ここは、なんとしても。幼子が親の手を離して歩きだすように、ジェシーは決意を新たにした。
「分かった。絶対にセイラから離れるなよ。」
ビリーの言葉ではっと我に返った。監督の悲壮感ただよう瞳に、女優はゆっくりと頷いた。
「分かったよ。セイラ、悪いけど、頼むね」
「わかったわ。後2週間だもんね。がんばりましょう」
仲のいい二人はしっかりと頷きあった。
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