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**NHKさん、ごめんなさい。あの番組好きなんです。だからまねっこしてしまいました。**俳優ハワード・スミスの流儀僕の名前はパトリック・コールマン。ハイスクールに通いながら俳優をやっている。今日はCMの撮影があって、なじみの監督のいるこのスタジオに来ている。 「パット、今日は炭酸飲料だけど問題ないね?」「ああ、大丈夫だよ。朝から水気を減らしてるから、早く飲みたいよ」そういうと、マネージャーのトムが「この暑いのに?ひぇ~」と驚いていた。5月だというのに、急に気温が上がっているからね。準備が整うと、スタジオ入りしてカメラリハをやる。ここではあえて飲まないようにしているんだ。だって、飲みたいって気持ちで飲んだ方が絶対おいしそうに見えるだろ? 霧吹きで額に汗もどきを吹きかけると声がかかった。「じゃあ、本番行きます!」「はい」 まぶしいライトを浴びて、一気に炭酸飲料を飲む。ぷはぁ!うまい! 「カット!」「いいねぇ。こっちまで飲みたくなったよ」「あはは。これ、ほんとにおいしいですよ。全部飲んじゃっていいですか?」 クライアントが笑顔でどうぞと進めてくれる。朝から我慢しておいてよかった。炭酸一発撮り成功だ。これ、いまいちって言われると何度も飲むことになるから、ほんとキツイんだよ。「お疲れ様。今からセットを変えるから、次は1時間後に再開だそうだよ」「そうなの?じゃあ、ちょっとだけ出かけててもいいかな」 トムは時間厳守でっとだけ言ってOKをくれた。このスタジオには知る人ぞ知る秘密の場所があるんだ。僕はさっそく建物の裏側に回って非常階段を駆け上がり、スタジオの屋上に出た。「よかった、まだ置いてあった」 この場所からは海がきれいに見えるんだ。折り畳みのイスが二つ、隅に片付けられている。それを引っ張り出して座ると、海を眺めながら炭酸飲料を楽しんだ。強い日差しとさらっとした風が気持ちいい。 ここは思い出の場所。僕が最も尊敬する人と初めて話をした場所なんだ。 僕がスカウトマンに声を掛けられたのは8歳の時だった。テレビに出られるって聞いて、なんだかワクワクしていたっけ。このスタジオに連れてこられて、初めての仕事はチョコレートのCMだった。一緒に出演してくれたのが、僕の尊敬する人、ハワード・スミスさんだった。最初のテイクでは、緊張でガチガチになってNG連発だった僕を、ハワードさんがここに連れ出してくれたんだ。 小さかった僕にも、大人たちの顔色がよくないのは分かっていた。きっと僕のせいだ。思ったようにできていないって思われてるんだ。そう思うと、余計体が固まって、自然に動くことが出来なくなってた。 屋上に連れ出したハワードさんは、いきなり影ふみしようと言い出して、10分ぐらい二人で走り回ったんだ。もう息切れしてはあはあ言いながらスタジオに下りた時は、すっかり肩の力も抜けていて、水を飲んで汗を拭いてもらって、落ち着いたところで撮影に入ると、チョコがおいしかったんだ。「わ、このチョコおいしい!!」「…うん、そうだね」 セリフのはずが、自然に口をついて出てきた。だけど、それよりも、ハワードさんの声のトーンが切なげで驚いた。「カット!!」「あはは。一時はどうなるかと思ったが、良い笑顔だったよ、パット。そのチョコ、おやつに持って帰りな。ハワード、さすがだな。いい表情だった。俺まで胸がキューンとしちゃったよ」 監督が頭を撫でまわしてくれた。その後ろでハワードさんが親指を上げていた。僕も負けずに親指を上げて見せた。家に帰ってからお母さんに聞いたら、このCMはシリーズ物で、前の作品で、引っ越しで離れちゃう彼女から渡されたチョコっていう設定だったそうだ。弟とチョコを食べながら彼女を思い出すシーンだったとか。 そのCMがきっかけで、二人を組ませて映画を撮ろうという話が持ち上がった。「紅の騎士」という小説を映画化するものだった。セリフが長くて苦戦していた僕を助けてくれたのもハワードさんだった。「撮影に入ったら、君はもうパトリックじゃない。 マイケルだ。天使が君の力を待っている。 オレ(・・)と一緒に悪魔族と戦ってくれるんだろ?」「ハワードさん…」「ハワード?そんな奴は知らないな。この国の民はこのオレ(‥)、アーノルドとお前で守るんじゃなかったのか?」 僕はあの時、ハワードさんの目を見てゾクっとしたんだ。圧倒的な存在感と猛者だけが持つオーラ。この人は、俳優ではなく、王でありながら前線で戦い続けた騎士なんだと。「ほら、これを持て。今から剣の特訓だ!立て!」「分かったよ」 アーノルドは練習でも容赦しない。僕は必死でアーノルドの剣を防いだ。そして、隙をついて「えい」と横っ腹に振り込んだ。おもちゃの剣はカシャンと軽い音を立てて降り飛ばされた。アーノルドは飛んでいった剣を拾うと、すぐに僕に手渡して、再び剣を構えた。そんな繰り返しを撮影の合間に何度もやっていた。 そして、気が付いたことがあった。セリフを覚えるのが気にならなくなったんだ。 何作目かに入ってくると、アーノルドのアドリブが飛んできたりする。だけど、自然に受け答えができた。当然だ。だって僕らは力を合わせて悪魔族から皆を守るために戦ってきた戦友なんだから。 撮影が終わると、いつも天使役のイザベラがハワードさんにまとわる付いていた。裏ではハワードさんを落とすんだと息巻いていた。4作目では、アーノルドが政略結婚することになった。結婚相手の貴族令嬢役は、テレビでも売れっ子のアイドルだった。イザベラとは顔を合わすたびにいがみ合いをしていて、僕は女性って怖いんだなぁと痛感した。 ハワードさん本人はそんな二人から逃げるように、いつも僕を誘って一緒にスタジオをでた。 初めの頃はファンは一人もいなかったのに、2作目以降は、出待ちのファンがあふれていた。握手して、サインして、笑顔を振りまいて、ハワードさんはいつも知的で落ち着きがあって、ちょっとだけウィットに富んでいる。そこがまたファンにはたまらないんだろうな。あまりにもファンが増えてくると、仕方がないから、窓からちょっとだけ手を振ってファンサービスして、囮の黒塗りのマーキュリーを表から出して、その隙に裏口から古びたバンに乗り込んで帰っていた。トレーナーのフードをかぶって分厚い黒ぶちめがね、フードの先には黒髪のウィッグが縫い付けられている。「パットにもそろそろ、このウィッグ付きのやつが必要になってきたんじゃない?」「違うよ。あれはみんなハワードさんのファンだよ。僕はまだ学校に普通に通えるもん」「謙遜しなくていいんだよ。もっと自信持ってもいいんじゃないかな?」 あんな風に笑い合えたのに、あの人はいったいどこに行ってしまったんだろう。「紅の騎士」は6作目までクランクアップしていたけど、テレビドラマの「戦う執事様」はすごい視聴率をたたき出していたし、次回作の「恋する執事様」も撮影はまだ中盤だった。ファンも多かったから、とんでもないさわぎになっていた。 違約金騒動も起こっていたけど、ハワードさんの特集番組であっさり解消されていたっけ。 さて、そろそろ時間だ。次の撮影に備えておかなくちゃ。僕はさっさと階段を降りてスタジオに入った。すると、監督から声がかかった。「なんだよ、パット。ここにいたのか? さっきまでハワードが来ていたんだぞ。会わせてやりたかったのに」「ええ?ハワードさんが?!」 急いでスタジオの外に飛び出したけど、そこには誰もいなかった。カリフォルニアの強い日差しとさらっとした風があの日と変わらずそこにあった。おしまい
May 27, 2022
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ハーフムーン(彼らが去った後) コロンと穏やかなベルが鳴ると、「いらっしゃいませ」と店主が微笑むこの店は、「Half Moon」という。真新しい店とは到底言えないが、きれいに磨き上げられたテーブルはしっくりとした飴色に輝いている。「ねえ塔子さん、聞いてよ。うちの旦那、昨日も午前様だったのよ。ホントに仕事してるのかしら」「まあまあ、ご主人もお仕事がんばってらっしゃるんだから、そんな風に言わないで。ご注文は?いつものエスプレッソですか?」「もう、塔子さんは優しいわね。ん、あなたにお任せするわ」 5席ほど並んだスツールの真ん中にとんと座って、近くに住む雅美は機関銃のように言い放つ。それを楽し気に聞いているのは30半ばの女性、この店の店長、有村塔子だ。もともとこの店はコーヒー専門店で、薄茶の髪のイケメン店長が娘と一緒に切り盛りしていた。塔子もその頃の常連客だ。そんな親子が突然行方不明になって5年。裁判所から格安で売り出されたものをタイミングよく買い取ることが出来たのだ。 コロン、またしても来客の音だ。「いらっしゃいませ」と穏やかな声が響く。窓側のテーブル席にゆっくりと進んでいく客は、店内を堪能するようにじっくりとながめ、目的の席に落ち着くと、そっとテーブルを指先でなぞった。「ご注文はお決まりですか?」 グラスに入った水をテーブルに置くと、客の様子をうかがった。「この店は、オーナーが変わったのですか?」 50を過ぎたばかりのその男性客は、山高帽をそっと隣の席において穏やかに問いかけた。頭には白いものが混じり始めている。塔子はふっと笑みを浮かべた。「お客様もハーフムーンの常連さんだったのですか? 私も、実はよく利用しておりました。今の店はそろそろ8年になるところです。以前の店長さんたちが行方不明になって、いろいろあって、結局競売にかけられることになったのです。だけど、この店をどうしても失くしたくなくて、思い切って買い取ったのです」 男性は眉をひそめ、そのまま遠くを見るようにカウンターの向こうになる食器棚を見つめると、はぁっと大きなため息をついた。「そうですか。そんなことがあったんですか。私は、仰る通りハーフムーンの常連でした。あの頃、まだ小さかった娘さんがマスターを手伝っている姿が頼もしくて、なんだかこちらまで元気をもらえるような気がして、何かある度に立ち寄っていました。ところが、妻が認知症になって、介護が必要になったので、異動願を出してリモートで仕事をしていたのです。そのせいでお店から遠のいてしまったのです。そんな妻が先日亡くなって、無事見送ることが出来ました。介護生活が長かったせいか、自分は今までどんな暮らしをしていたのか、何をしたらいいのか分からなくなって、その時、この店を思い出したんですよ」 はっと思い立った男性は、余計な話を…とブラジルコーヒーを注文した。 誰にでも、それぞれ事情はあるものだ。塔子は雅美には特濃ミルクを聞かせたカフェオレを、男性には苦みの利いた深入りのブラジルコーヒーを差し出した。「ふふ、なぁに。カフェオレなんて久しぶりだわ」 そういいながらカフェオレを楽しむ雅美の表情は、ゆっくりと解かれ優しい色にそまっている。そんな様子を目の端に捉えながら、塔子は軽食の仕込みを始める。 道路に面した大きな窓から、小学生たちがわいわい話しながら下校していくのが見えた。そうだ、さっきのお客さんも言ってた通り、この店のオーナーには小学生のお子さんがいたわね。子供たちが通り過ぎた後にも、あの頃の記憶が塔子の脳裏に降り積もっていく。「いらっしゃいませ」と、子どもながらに明るく声を掛けていたあの子、何て名前だったっけ。ひかり…、いや、ヒカルだったような。あの日、大学のサークル仲間だった萌絵が半年付き合った彼に振られて大荒れで大変だった。あの時、初めて講義を休んでこの店で彼女を宥めていたんだ。 店に入って彼女を座らせていたら、ランドセル姿の女の子が「ただいまー」と店内に入って来て、しばらくしたらすぐエプロンをつけて仕事を始めてた。マスターがほかの客に矢継ぎ早に話しかけられてる間に、あの子、萌絵の様子に気づいてそっとおしぼりを余分に持ってきてくれてた。よく気が付くいい子だったなぁ。「さて、買い物にでも行こうかしら」 不意に声がかかって、塔子は現実に引き戻された。雅美はちょっと照れ臭そうに言う。「ミルクなんて、ありきたりって思ってたけど、こんなにコクがあっておいしいものだったのね。なんでも当たり前だと思っていたら、ダメなのかもしれないわね。おいしかったわ。ありがとう。今日はお疲れ気味の旦那に美味しい晩御飯でも作ってあげるわ」「お疲れ気味なら、消化のいいものをね」 OKと指で合図して、雅美はいそいそと帰っていった。 コロン、今度は真新しい制服を着た学生とその母親がやってきた。手にはたくさんの書類を持っている。そういえば、近くの高校の入学式だったはず。塔子はちらっとカレンダーを確かめた。「いらっしゃいませ」「あの、お店のオーナーさんが変わったのですか?」 おとなしそうな母親が遠慮がちに尋ねてきた。「そうなんです。以前、このお店に来られていたのですか?」「はい。何度か足を運んでいました。若い頃、その、いろいろと相談に乗ってもらったのに、結婚したらそのままこちらには来られなくなって。今年、息子がこの近くの高校に入学したので、つい懐かしくなってきてしまいました。」「母さん、注文しなくちゃ。」 息子に言われて「あら、やだ」と母親は笑いながらコーヒーとサンドウィッチを注文した。塔子が厨房に戻っていると、後ろからまたコロンとカウベルの音がした。「あら、山下さんもここに来ていたのですね」「まあ、坂田さん。お久しぶりです。主人の会社のお祭り以来でしょうか」 二人は楽し気に話し出した。隣でもじもじする少女はどうやらこの山下さんの息子と同じ学校に入学するようだ。「ほら、美晴、ご挨拶しなさい」「あの、坂田美晴です。今日、桜が丘高校に入学しました」「まぁ、じゃあ、うちの息子と同じね。」「あ、僕、山下徹です。まえに父さんの会社のイベントで会いましたよね」 二組の親子の会話はどんどん弾んでいく。ここで何かに悩みながらマスターに相談に乗ってもらっていた母親のように、彼らもまた、ここでいろんな気持ちを解きほぐすのかもしれないと、塔子は静かにほほ笑むのだった。おしまい
May 26, 2022
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「あれぇ~そうだったっけ?」「君は自分のしたことに責任が持てないのか? ミスは誰にでも起こりえる。だけど、大事なのはミスに気付いたら、すぐさまそれに対応することだ。誠意をもって対応するか、放置するかで、結果は大きく変わってくる。」「ええ~、じゃあ田代係長が上司なんだから、代わりに謝りに行くべきでしょう。俺、昨日は腹痛で早退でしたし。」こんなことを言われたら、今までの僕だったら下を向いてしまっただろう。だけど、今日は違う。「会社を早退したのだから、当然病院には行ったんだろうな。領収書のコピーを提出しておくように。社会人として、責任のある行動を取りなさい。腹痛で早退した人間が飲みに行くなんて、おかしいだろ。僕は君の上司だから、君の勤務態度に問題があれば、自分の上司に報告する。それが仕事だ。管理職だからね」「昨日は栗林課長が早退していいって言いました」「栗林課長は君の伯父にあたるそうだね。課長の判断が間違っていたなら、課長も罰せられるかもしれないね。少なくとも、まだこの会社で仕事をしようと思うなら、ミスが起こらないようやり方を考えるべきだ。これからの君の頑張りを見させてもらうよ」不思議なぐらい、すらすらと言葉が出来てきた。自分が常日頃思っていることをこんな風に言ってしまえることなんて、今までなかったのに。僕は、佐伯を残して先に会議室を出た。すると、他の部下から声がかかった。「係長、隣の課の課長から佐伯に呼び出しがかかってるんですが…」僕は、会議室にいることを伝えて静観することにした。どうやら昨日階段の踊り場で騒いでいた新人たちは隣の課の連中だったらしい。午後には栗林課長まで呼び出された。何があったんだろう。隣の課の木村にラインを送る。木村は僕と同期で隣の課では、係長をしている。すると、驚くような話が舞い込んできた。 昨日、あの後、栗林課長が佐伯達と合流して飲み会に興じ、他の客といざこざを起こしていたという。その中心にいたのが佐伯だった。しかもケンカを止めることもせず、課長はさっさと引き上げていたそうだ。ああ、それなら今朝の佐伯の態度も納得できる。いつかこうなるような気はしていたけど、なんともお粗末な話だ。退社時間になり、席を立つと、佐伯が戻って来て僕のところにやってきた。「係長、昨日は申し訳ございませんでした。係長の言う様に、今後は自分の行動に責任を持てるように努力します」「そうか、がんばれよ。 あ、いや。僕もまだまだだから、お互いに頑張ろう」社屋を出て、真っ先に思った。今日はHalf Moonに立ち寄ろう。歩いていると、後ろから木村が追いかけてきた。「田代、今帰り?今日は大変だったな。」「ああ、びっくりだよ。そっちは落ち着いたか?」木村は楽し気にふふっと笑った。「毎年、学生気分が抜けない新人には手を焼くけど、今年は手ごわくて困っていたんだ。なぁ、どこかでお茶でも飲んでいくか」「そうだな。じゃあ、Half Moonでよろしく」カランとカウベルの音とともにいい香りに包み込まれる。「いらっしゃいませ」 いつものマスターの声に重なって、元気な女の子の声も響いた。木村としゃべりながらも、女の子がちらっと視線をよこすのを感じて、会釈で返す。「それにしても驚いたよ。うちの課の新人たち、田代のことをすごい人だって口をそろえて言ってたんだ。」「ええ?」 根耳に水で声がひっくり返った。「あの佐伯が仮病で逃げたのに、無理をさせないようにって、労わるような言葉を掛けたって。個人の感情に流されずに部下の体調管理までしているんだなぁって、田代係長は神だ!とか言ってたよ」「ぶはっ」僕は思わず吹き出して笑った。「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」「じゃあ、俺はアイスコーヒーね」「僕はブラジルコーヒーをホットで」 今日もメモ帳にひらがなでオーダーを書き留める。今日はブラジルの文字も間違わずに書けている。それを指摘すると、彼女はにんまりと笑った。「はい、ちょっとだけ賢くなりました」「この前はヒントをありがとう。とっても役に立ちました」 僕がそういうと、彼女は文字通りぱっと明るい表情になっていた。「こら、またお客様のお邪魔をして。すみません。」マスターが彼女を回収しようとするので、今日は思い切って声を掛けた。「あの、昨日彼女にヒントをもらったおかげで、頑張れたんです。ありがとうございました」マスターはちょっと驚いた表情になったが、それならよかったですといいつつ、彼女をつれてカウンターに戻っていった。「おい、ヒントってなんだよ。」木村が興味深々で尋ねてくる。「ふふ、仕事に必要な心得をね、彼女に教えてもらったんだ。」「はあ? おい、田代。大丈夫か? 係長の仕事はきついけど、無理するなよ。もうすぐ子供も生まれるんだろ?」木村は本当にいいやつだ。また、一緒にここに来よう。そのうちに、こいつにも、僕の言っている意味が分かるだろう。マスターがコーヒーを運んでくる。木村はさっそくアイスコーヒーを一口飲んで、驚いていた。「うまい!」「ありがとうございます。うちのアイスコーヒーは水出しコーヒーなので、後口も爽やかですよ」「へぇ」木村は実はコーヒー通なので、喫茶店はどこでもいいというわけではなかったのだ。でも、ここなら大丈夫だと思っていた。「さて、帰ろうか。明日も仕事だ。がんばろー!」「おー!って、ホント無理すんなよ。また、なんかあったら話ぐらい聞くからな。その時は、Half Moonでよろしく!」やっぱり木村もこの店が気に入ったようだ。駅で別れてそれぞれの電車に乗る。今日は笑顔で帰れそうだ。おしまい
May 24, 2022
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Half Moon でよろしく 3 電話の音が鳴り響く、キーボードをたたく音、何かの書類がプリントアウトされていく音、社員同士の談笑。会社にはいろんな音が響き渡っている。そんな中、割って入るように大きな声が響いてくる。「田代! おまえ、またやりやがったな!」「え?な、なんでしょう」 背筋がぐっと伸びる。頭の中で、思い当たる案件を探すが、さすがに今日はミスなどしていないはずだ。ところが上司の栗林課長はご立腹だ。「なんでしょうじゃないだろう? お前んとこの新人だよ。佐山産業に送るはずの見積もり、佐川工業に送ってやがる!どんな教育してんだよ!!」「ええ! ちょっと待ってください。それはまずい…。 佐伯君!」 課長はため息をついて言う。「佐伯はとっくに帰ったよ。腹痛だとか言ってたから、俺が許可した。だから、お前がちゃんと謝ってこい」「え、あの。どんな内容の物を送ったんでしょう」「んなことは後だ。まずは謝ってこい!」 課長に追い立てられて佐山産業に向かうと、案の定佐山の課長はカンカンに怒っていた。しかも、内容をよく見もしないで謝りに来た僕を不誠実だとなじった。 ああ、だから先に内容を確かめたかったのに。頭を下げながら、思わず唇をかむ。 ひたすら謝って、なんとか機嫌を直してもらって帰社すると、事務所には誰も残っていなかった。しんと静まった事務所内では、掛け時計の秒針の音だけが絶え間なく聞こえていた。 「悲しき中間管理職か」 書類を整えると、帰り支度をして部屋を出た。階段の踊り場で他の課の若い連中がわいわい騒いでいる。今年の新人だろうか。「あははは、マジか?おまえ、それってやばい奴じゃん。明日係長に叱られるぞ。」「え、佐伯も飲み会来いよ」「おお、駅前の居酒屋ぽん、俺らも今から向かうわ。じゃあ、後でな」 どうやら電話でしゃべっているようだ。スピーカーになっているので、佐伯の声もかすかに聞こえている。階段を降りるのを少しためらったが、うちのビルはあいにくエレベータがない。仕方なく降りていくと、びっくりしたような新人たちが数人、ぴたりと口を閉ざして僕を注視していた。「君たち、今から飲み会にいくの?」「あ、はい」「うちの課の佐伯も行くのかな?」「…ええ、まあ」 こちらがどう出てくるかと様子を見ているようだ。「佐伯は今日、腹痛で早退しているんだ。無理な飲み方をしないように、気を付けてやってくれ」 僕にはここまで言うのがやっとだった。昔から、気が弱くて、彼らのような勢いのいい連中は苦手だった。なんともやるせない気持ちで駅に向かっていたが、こんな顔のまま家に帰ったら紗江に心配をかけてしまう。妊娠中の彼女には、不安要素を見せたくない。どこか一息入れられる場所はないだろうか。 駅が見えてきたところで、珈琲専門店があるのを思い出した。 カランとカウベルがなって、穏やかそうなマスターが笑顔で向かえてくれる。 あ、なんだかほっとする。カウンターのスツールに腰かけて、一息ついていると、小さな女の子がやってきた。「ご注文はなんですか?」「えっと、ブラジルコーヒーをホットで」 それを聞いて、きゅっと真剣な眼になった女の子は、メモ帳にひらがなでオーダーを書き留めた。ブラジルの「じ」が鏡文字になっている。それでも、すぐさまカウンターまで戻って、ハキハキとオーダーを通す姿は一人前だ。 あんなに小さいのにと思ったのは一瞬だった。レジにお客が向かうと、「ありがとうございました!」と笑顔で声を出し、マスターがレジを打っている間に、さっさとテーブルの上を片付ける。その無駄のない動きには感服する。 こんなに幼い子が上手に立ち回っているのに、僕はいったい何をやってるんだ。「えーっとね。慣れです。」「え?」 ぼんやり考えているうちに、どうやら口をついて考えが出てしまっていたようだ。そんな僕ににこっと笑って、女の子が答えてくれたのだ。「そっか、慣れか。」「一つヒントを教えてあげる。あのね、自分は何をしなくちゃいけないのかってことを、ちゃんと分からなくちゃいけないのです。私は子供だから、お金を触らせてもらえないのです。暑いコーヒーも危ないからって、持たせてもらえないのです。だけど、お父さんが倒れちゃったら嫌だから、私に出来ることを手伝うことにしたのです」「こら、光! お客様に失礼なことを言わないように!」 すみません。と頭を下げながら、マスターが女の子を回収していく。女の子はちょっと不満げに口をとがらせていた。カランっとまた来客の音がした。 「いらっしゃいませ」とマスターの穏やかな声。コップに水を汲みながら、やってきた客の様子を見ていた女の子は、そろそろとテーブルに運んでいった。「八百菱のおばちゃん、お疲れ様~」「あら、光ちゃん。元気してた?」「うん! でもおばちゃん最近来ないから寂しかったよ」「ふふふ。嬉しいこと言ってくれるじゃない? アイスコーヒーをお願いね」「はい、かしこまりました」もくもくとメモ帳に注文を書く。それを八百菱のおばちゃんが楽し気に見つめている。注文を書き終わると、顔を上げておばちゃんと頷き合った。そして、カウンターに戻っていく。今度はちゃんと書けただろうか。そんなことを考えていたら、気持ちがちょっとだけ楽になっていた。翌日、出社すると、新人の佐伯が何食わぬ顔で仕事をしていた。僕を見ても「おはようございまーッス」というだけで、謝罪の一つもない。悔しくて、だけど、気が弱くて挨拶すら言えない。その時、あの女の子の言葉がふいに頭をかすめた。そうだ。「自分がなにをしなくちゃいけないのかってことを、ちゃんと分からなくちゃいけない」のだった。昨日の帰り、佐伯の同期達に早退したのに飲み会などに出るのはおかしいだろうと注意するべきだったんだ。そして、今は佐伯の上司として、注意することは仕事なんだ。「佐伯君、ちょっと会議室に来てくれ」「え?あ、はい」ダルそうなしぐさだったが、佐伯は反抗するわけでもなく会議室についてきた。僕は、勇気をだして、昨日の見積書について確認した。つづく
May 23, 2022
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「Half Moon」でよろしく 2 その日は朝から本降りの雨だった。店の入り口前に置いてある傘立ての底にも雨水がたまり始めている。客足も少ないこんな天気の時は、絶好のチャンスとばかり、マスターは新しいデザートのメニューを考えていた。 コロンっとやや湿ったカウベルの音が響き、マスターは反射的に顔を上げて「いらっしゃいませ」とほほ笑んだ。「すみません。すごい雨でぬれてしまって…」 入ってきたのは20代半ばの女性で、店に入るなり、カバンからハンカチを取り出して、急いで服についている水滴を抑えていた。マスターはタオルを差し出し、「どうぞ」と手渡した。「随分降りますね。」「そうですね」 注文のホットコーヒーをテーブルに置くと、マスターは再び厨房に入ってデザートのメニューを考え始めた。ケーキとパフェはすでに置いているが、これから暑くなる季節なので、涼やかなデザートも考えたい。 考えあぐねているマスターの耳に、はぁとか細いため息が聞こえた。店内には先ほどの女性客が一人だけ。「どうかされましたか?」 柔和にほほ笑むマスターに、ちょっと恥ずかしそうにしていた彼女は「実は…」と話し出す。 彼女、橘さつきには、好きな人がいるという。「その人、隣の課の人で、おしゃれでかっこいいと多くの女性からモテているんです。だけど、私がその人を好きになったのは、通勤途中の駅でおろおろする彼を見かけたときなんです。腰の曲がったおばあさんの背中をさするようにして、駅員さんを探していました。いつもはそんなことをするように見えないんですよ。朝のラッシュ時ですから、たくさんの人が駅構内を行き来している中で、ビジネス街には不似合いなそのおばあさんに目を向ける人なんて、なかなかいないのに。大きな声で駅員さんを呼んでいて、ああ、この人は本当の優しさを知っているんだろうなって、思ったんです」 ためらいがちに話し出した彼女の表情が、ふっと和らいだ。「そうなんですか。なかなか勇気がいるでしょうのに。素晴らしい人ですね」 さつきは自分が褒められたように、少しはにかんだ。そして、目の前のコーヒーを一口飲むと、だけど、と続けた。「先ほども言いましたが、彼はとてもモテるので、私なんかに気づいてもらえないだろうと思っていて、そっと見ているだけでいいと思っていたのです。それが、最近、他の男の人から、よく声を掛けていただくようになって、同僚はきっとあなたに気があるのよ、なんてはやし立てるのです。」 そういいながら、少し頬が赤くなっているのをマスターは見逃さなかった。「その方はどんな方なんですか?」「そうですね。さっきお話した人とはまるで反対で、あまりおしゃれには興味がないみたいです。がははっと豪快に笑う人で、女子社員の間ではおじさん扱いなんです。でも、後輩の面倒見がよくて、私はいい人だなあと思っています。私の好きな人が入社したとき、新人教育の担当として彼についてくれた人なので、もしかしたら彼のあの優しさは、先輩から受け継がれたのかもしれないと思うのです。」「しかしそれは悩ましいですね。かっこいい彼にするか、優しい先輩にするか」 からかうような声に視線を上げると、にやっと笑うマスターがいて、彼女があたふたした。「や、やめてください!」 さつきは焦って思わず声が大きくなって、はっとした。「すみません。そんな、どちらにも何を言われたわけでもないのに、恥ずかしいです。だけど、自分がずっと大事にしてきた気持ちをそのまま手放すことができなくて」「そうですねぇ。僕は、ご覧の通り、見眼麗しいとよく言われています。ああ、厚かましいのを承知で言いますよ。あは。」 マスターの思い切ったいいように、さつきは思わず声を出した笑った。「でもね。どんなにたくさんの人にモテても、自分が好きな人に好かれていないと意味がないと思うのです。正直に言うと、見ず知らずの人にいきなり好きですって言われても、困惑します。」「あ…」 飲みかけのコーヒーを口に運ぼうとした手が止まってしまう。「ただ、ご自分の気持ちを誠実に相手に伝えなければ、相手に自分の気持ちはやっぱり伝わらないのですよ。」 コーヒーカップをソーサーにそっと乗せて、さつきは褐色の液体の水面が揺れるさまを見つめていた。「恋とは、ほろ苦いものですね。だけど、とても深い。マスター、今日はありがとうございました。」「いえ、拙いアドバイスでお恥ずかしい。ぜひまた、お話の続きを聞かせてください。おまちしております」 店を出ると、ひどかった雨が上がっていた。 雨上がりのしとやかな空気を胸いっぱいに吸い込んで、さつきは顔を上げて歩き出す。その様子を、店内でそっと見守るマスターだった。「ほろ苦くて深いか…。よし、新メニューはコーヒーゼリーにしよう。お好みでホイップクリームを乗せるのもいいな」 手元のスケッチにデザートのイラストを書き込み、窓の外を確かめると、雨上がりの街に夕陽が差し込んでキラキラと光が飛び跳ねていた。おしまい
May 22, 2022
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「Half Moonでよろしく」 定時が過ぎて、ぞろぞろとビルから多くの人が出てくる時間。仕事を終えた達成感と心地よい疲労感を感じながら、駅に向かって歩く。「よぉ、坂田。今帰り?」「あれ? 山下先輩、出張から帰ってたんですか?」「おうよ。これでやっと一息だよ。なあ、ちょっと寄ってかないか?」 山下が目で合図したのは駅から近い場所にあるコーヒー専門店「Half Moon」だ。いつもこの前を通るとき、香ばしいいい香りがしてるのを坂田も気づいていた。 カランと明るいカウベルの音が響いて、珈琲の濃い香りが一気に体を包む。カウンターに空席を見つけて二人で座り込む。「いらっしゃいませ」 薄茶の髪の美形なマスターが笑顔でメニューを置いていく。それを開いて山下がはぁとため息をついた。「腹減った。俺、今日は昼めし抜きだったんだよ。ちょっと食べてもいいか?」「ああ、どうぞ。」 山下はさっさと注文を済ませて、ちょっとためらった様子で水を飲む。「坂田はさぁ、彼女とかいるの?」「えっ?彼女ですか? あぁ、いや。いませんね」 山下はふ~んと気のない返事をしながら、ちらっと坂田の顔を見る。背中に嫌な汗が流れるのを感じながら、見られていることには気づかないふりをしている。坂田には今触れてほしくない質問だった。つい昨日、隣の課の女子に告白されたばかりだ。その前は出入り業者の営業の子にも手紙をもらっている。つまりモテるのだ。「お待たせしました。ミックスサンドとホットコーヒーです」「ああ、ありがとう。」「トマトジュースです」「ああ、どうも」 人当たりの良いマスターがにこやかに去っていくと、すぐさま山下から突っ込みが入る。「お前、せっかくのコーヒー専門店でトマトジュースはないだろう?」「あは、すみません。ちょっと胃の調子が…」「ストレスかよ」 苦笑いする坂田を、山下は片眉を上げて見返す。そう、胃が痛いのだ。昨日告白してきた女子は山下の想い人なのだから。わざわざ声を掛けてきて、何を言うつもりなのかと、内心ひやひやなのだ。「おまえさぁ、モテるよなぁ」ああ、ついに来たか。「はぁ、俺もモテたいなぁ。お前の行ってる美容室ってどこ?服はどこで買ってる?」え? そこ?「先輩、モテることが良いことだと思ってます?」「当たり前だろう!モテる男にモテない男の気持ちは分からないだろうなぁ。くそぉ」「…」 サンドウィッチを完食した山下は、つまようじで歯の間の食べかすをほじる。坂田は思わず止めた。「先輩、そういうのはちょっと…」「なんだよ。口の中、気持ち悪いだろ」「いや、だから。せめてトイレに行くとかしましょうよ」 山下は一瞬意味が分からないような顔をして、ハッとした。「そうか、これか!よし、分かった!」 山下は意気揚々とトイレに向かっていった。 はぁ、悪い人じゃないんだけどなぁ。おおざっぱというか、デリカシーがないというか。山下の後ろ姿を見送りながら、小さなため息をつく。 坂田が入社したての頃、面倒を見てくれたのが山下だった。説明は理路整然とはいかず、困惑することも多かったが、付き合っているうちに、人柄の良さが分かってくるタイプの人間だ。長く付き合えば、いい人だって分かるんだけどなぁ。最近の女子に伝わらないのだろうか。後輩として、ちょっと悔しくも歯がゆい気分だった。「いらっしゃいませ」「マスター、こんばんは~。今日は友達と来たの。」「やぁ、佐伯さん。いつもありがとうございます。奥にお席が空いております。どうぞ」 にぎやかな女性客が数人でやってきた。「かっこいい」、「すてき」、「やっぱりハンサムねぇ」などと、言いたいことを言いながら奥の座席へと流れて行った。女性客を案内したマスターはカウンダ―へと戻りながらささやかにため息をつく。そうか、マスターだって仕事でやってるんだよな。坂田は妙に納得して、マスターの動きを見ていた。 マスターはカウンターに戻りながらちらっと坂田の視線に答え、ちょっとだけ眉を下げて笑って見せた。「またせたな。どうだ?」 山下はニカッと少年のような笑顔を見せた。「ぶはっ」 坂田は思わず噴き出した。そして、心底思うのだ。この人の想い人に、どうか先輩の良さが伝わってくれと。おわり
May 21, 2022
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