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意外と思われるかもしれませんが、ぼくは案外、気取った店も嫌いではないのです。いや、なかったというのが正しいかも。近頃は気取って呑んだり、食べたりすることに余り意義を見出せなくなったみたいです。じゃあ、かつてはどの辺に意義を見出していたのかと問われるとハタと困ってしまうのだ。そうなんだよね、確かに旨いんだけれど、高いお金を払ってまで気疲れしに行くってどうなんだろうね。ぼくの場合、高級な料理を食べる事になると、最初こそ畏まって借りてきた猫のように落ち着きのない態度を晒すけれど、呑み始めるとすぐにそこが格式が高い店なんてことは忘れてしまって、普段呑んでる立ち?み屋と変わらぬ気持ちに陥ってしまうのです。前後不覚になることはまずない(ということはなったことはあるということです)けれど、少なくともマナーを弁えた紳士淑女からは蔑みの視線を浴びせられていたことがあるんじゃないかと思うのです。それで歳を取って世間の大人並の態度を身に付ける方向に向かうという生き方もあったはずなのですが、ぼくは格式を捨てて店選びの段階で身の丈に合わせるという道を選びました。今でも未知の食べ物や驚くべき味覚に遭遇することは愉しみなことであることは変わりありませんが、大枚を叩いて手に入れずとも、様々な食材が入手できる現在では、ある程度まで食材を買い求めて自分で作ることも可能になっています。ものさえ揃いさえすれば自作できる程度のもの、つまりは、家庭料理レベルでかなり満足できる位の食道楽で十分と割り切ったのです。そりゃまあご馳走になれるんだったら喜んでご馳走になりますが、身銭を切るなら財布にもそこそこ優しくてリラックスできる店にしようってことになります。だから呑みと同程度のプライオリティを食に据える場合の条件は、食材が入手困難で家ではまず食べる事ができないもしくは非常に手間が掛かる料理を食べる場合が大方ということになります。 とまあこういった言い訳でもしないとおちおちビストロで呑むのも気が引けてしまいます。もう何度も登場している「ル・マルカッサン(Le Marcassin)」は、もしかすると何とか食材を手配し、ものすごく丁寧に一つ一つの作業を積み重ねたらかなり近しい仕上がりに迫れるかもしれません。しかし、個人でこちらの料理で使われる食材を買い求めるとすると例えば2人分だったとすれば店で食べるのと変わらない程度の費用が掛かってしまうような気がします。また、マンガなんかでお隣の親切なおばさんが1人分も2人分も一緒だと言って弁当を作ってくれたりもするけれど、それは絶対違っていて10名分も12名分も大して変わらないってのなら何とか納得いけるといった具合です。少量をそれなりの段階を踏んで調理するってのはなかなかに骨の折れるものなんじゃないか。こちらのプレフィックスの一皿一皿が、家庭料理で出すのが困難なのです。アミューズのリエットならいけそうですが、お肉のテリーヌとスナギモのコンフィー、鴨のコンフィー・こんがりオーヴン焼き、ガトーショコラという大定番も皿の主役ばかりでなく脇役たちの準備を想像すると気が遠くなるのです。仕事だからできるのだといえばそれまでですが、それが例え仕事でも毎日毎日繰り返し調理し続ける労力は計り知れません。しかもこちらは全てをお一人で賄っているのだから驚くべきことです。ぼくはもとより飲食業の仕事は無理と思っているけれど、手を抜けばとことん手を抜けるという一面もあるから、もし仮にぼくが飲食業をやるならきっと居酒屋を選ぶことになりそうです。ぼくがここを訪れるのは家では食べられないものを食べるという楽しみもあるけれど、それと同じ位、こちらのシェフとお会いするのが楽しみであることをもう何度も書いたけれど改めて書き留めておきます。
2024/09/09
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今は歩くのがだるいなあと思うようになったけれど、歩くのがさして苦にならない時代がありました。そりゃまあ好んで30km歩いたりはしないけれど、30kmまでなら週に一回程度であれば苦もなく歩けていたと思うのです(つまり30kmを越えると一挙にハードになるのだ)。別にここで健脚自慢をするつもりなどなくて、ひと頃、池袋の自宅と御茶ノ水の職場を歩いて往復していた時期がありました。Googl Mapで調べると駅間は6.3kmが最短なので往復で12.6km通っていたことになります。改めて調べるとさほど大した距離ではなかったのだなあ。思えばちっちゃな頃から歩いてばかりでした。最初の小学校は片道2kmの山道だったし、次が700mと近かったものの、その次はまたも1.5km、中学校は400mと近くなったと思ったら、次が1km、そして高校が3.4kmあったけれどこれは自転車。大学も同様。就職後は自宅から最寄り駅まで1.2kmあったけれど、あとは基本は電車通勤。ひと頃、電車通勤にうんざりして職場まで5.2kmもしくは6.3kmを歩いていたこともあるけれど、これはまあ趣味みたいなものだし、帰りに呑んだら電車に乗っちゃう場合も少なくなかった。でも今は自宅から最寄り駅は600m程度ですが、職場までは2kmあります(バスがあるけど本数が少ないし、待たされたり時間が読めないのが嫌でほとんど利用していません)。案外歩いている方かと思うのですがいかがでしょう。ここまでが酔っ払いながらもわざわざGoogle Mapで距離を計測して書いたようだけれど、何を語りたかったのか。 実は、自宅と職場の6.3kmを歩いていた頃にたまに「遠州屋」の前を通り過ぎていました。当時はまだドハマりするほどには居酒屋巡りもしておらず、むしろお値頃感をメインテーマに酒場巡りをしていました。だからここもちょっと良さそうだなあとは思いはしたけれど、大して気に留めるといったこともなかったのです。というか古い酒場はまだ結構な数が存在していたからここが特段目立っていたということもなかったのです。そのうち古酒場が日を追うごとに数を減らしていって初めてそうした酒場で呑むことが貴重な記憶となることを認識できたのです。失ってみて初めてそのかけがいのなさに気付かされるのはありふれた経験でしかありませんが、好んで経験したいものではありません。と何やらもっともらしいことを書こうとしていたようですが、実はこんな事を書きたいと思っていたわけではないのです。「遠州屋」には酒場巡りを初めてすぐの時期にお邪魔しました。通り過ぎていた頃にはちょっと良さそうって思うだけだったのが、いざお邪魔しようとなった際にはとても魅力的といった具合で、つまりは興味の対象となった時点でかつてとは別物として意識されるというごく平凡な感慨に浸ったのであります。店内もいい加減に枯れていて実に心地良かったのです。ところが今回、外観はかねてと変わらぬ風情を漂わせていたのに、内装はといえば大胆過ぎる程の大幅なリニューアルが施されていたのです。古い店を改修しながら延命することは共感できるし、仕方ないことでもありますが、もう少しだけでもかつての風情を留めるよう気を配ってくれるとありがたいのです。それって予算が嵩みそうだから無理を言ってるのは重々承知しているんですけど。でも今、改めて写真を張り付けてながら眺めてみると案外悪くないなあ。若い人たちも清潔でありながら酒場らしい風景を楽しんでいたことを思い出しました。風情があっても汚いんじゃ仕方ないからなあ。また、この界隈に来ることがあったらやはりまた立ち寄るんだろうなあ。
2024/07/29
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近頃、めっきり呑みながらの飲食量が落ちています。と言いながら、不思議なことに宴会なんかでコース料理が出されるときっちりと食べ切ることができてしまうのです。酒量は普段と変わらないのに。普段呑むのがチューハイ、もしくはビールというのが定番であるから、炭酸で腹が膨れるのが原因ではないかと思ったりもするけれど、どうやら違うようです。というのが自宅では、主に焼酎やウイスキー(いずれもロックか水割りが多い)、ワインがメインとなるけれど、この場合も同様で、すぐに満腹状態に陥ってしまうのです。そこから推し量るにどうやら飲食に費やす時間の長短が理由のように思えてきました。宴会の場合は、一定時間の拘束を余儀なくされるのに対して、普段の呑みは時間の縛りもないからどうしても短時間で済ませる場合が多くなりがちです。大体においてぼくは呑みのペースが他の人に比べてかなり速め(吸い口が速いと評される)なので、そう時間を要することもなくそこそこ満足して席を立つということになります。それもあって尿意も催さぬうちに呑み終える場合が多いのです。なので、中華屋さんで呑むのは日に日に厳しくなっているのを感じています。餃子の一皿もあればビールなら2本、チューハイなら3杯はイケてしまうので、どうしてもシケた客となってしまうのが否めないのです。と書けば書くだけ実態とはかけ離れていく気もしますが、近頃、中華屋に行く際は大概二人で訪れて3品程度は頼むように配慮しています。そんな気遣いはもしかすると無用かもしれないが、客として店で過ごす際にケチ臭いと思われながら呑むのはなんとも居たたまれない気分になるからです。 さて、この夜は、「中華料理 ふくや 後楽園店」にお邪魔しました。先般後楽園を訪れた際に見掛けていたお店です。にしても先般夜間に通っていなかったら気付くことのできなかったような著しく目立たないお店であります。そもそも余り馴染みのない壱岐坂通りの裏通りになりますし、しかもそこがわざわざ抜けて通ったからといってもどこかに通じるような場所ではないから夜道の店の灯りを目に留めない限りは気付けっこないのです。さらには店舗の構えも飲食店と認知ができるかどうかの瀬戸際のような非常に控え目なものであったのです。さて、店に入ります。ご夫婦2人でやっておられるようです。町の中華屋さんは夫婦二人三脚というのが非常に多いですね。居酒屋を夫婦でやってる店は少ないように思えるからこの点が、中華屋さんで呑むのと居酒屋で呑むのとの違いとなって感じられるポイントなのかもしれません。旦那は寡黙にもくもくと調理、細君は元気ハツラツに応接対応。で、サービスの冷奴を摘まみながらのんびりと料理を待ちます。ドリンクと料理1品のほろ酔いセット風のメニューもあるとのことなので、ニラ玉と豚肉のなんかを頼んだのでありますが、これがすっごいボリュームなのです。特に後者は食べど減らないって感じでありまして、しかもいずれも正直驚く位にちゃんとした料理に仕上がっていて、ここはきっとなんだって美味しいんだろうなあと思わされるのでした。にしてもこのハーフサイズがあればいいのになあと思わされるのです。
2024/07/07
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これまでも繰り返し書いていることですが、東京ばかりではなくそこそこに大きいと言われるような町でも賑わうエリアには偏りが生じているものです。エントロピーの増大の法則がこの場合は必ずしも働いていないようです。特に集客力のある大型施設のある地域の場合はそれが顕著です。都心部の昼夜の人口推移に極端な偏差があるといった報道を目にすることがありますが、都心部のオフィス街もそうですが、それを遥かに凌駕する落差が大型施設周辺の町では認められるのです。こうした施設では施設それ自体がひとつの町として機能していると考えることもできそうです。こういうイベント施設のテナント物件で飲食するのもたまには楽しいと思えることもあるのですが、でもそれを楽しく感じるのはイベントそのものがもたらす高揚感に躍らされているだけなんじゃないだろうか。にしてもイベント後、そうした施設を訪れた多くの客たちは、高揚感を抱いたままで家路を急ぐものなのだろうか。ぼくだったらそうはいかないけどなあ。せっかく沸騰した高揚感を昇華させるためにもさらなる高揚を求めて呑みに行きたくなるのです。ひと昔の例えば公営ギャンブル場なんかの周辺には、開催に合わせて多くの酒場が店を開けたはずだけれど、近頃はそうした呑み屋も過去の遺物となりつつあるようです。こうした施設はもともと多くの敷地面積を要する以上、広い空き地に設けられるものなのでしょう。実際に施設が稼働するとここでひと儲けしてやろうという有象無象が屋台などをゲリラ的に設置したりもしたのでしょうが、やがてはかつての周辺の空き地も宅地へと侵食され、後からやって来た人たちに近所迷惑なんて言われて町を追われたんじゃないかなどと想像してしまうのです。仕方がない側面もあるけれどまったくつまんないものです。 さて、後楽園も実は施設周辺はかなり退屈な場所で、巨大ビルヂングの1階にテナントとして入っている「阿字観」なる密教用語を店名に掲げた居酒屋は、ここが例えば新橋だったりしたら確実に見逃していただろうなといった地味な風情のお店でありました。しかし、呑み屋どころか飲食店すら希少なこのエリアでは存分にその存在をアピールしているように思われたのです。好んでこの辺を訪れる機会はそうなさそうであるからには、ここをみすみす通過する訳には参らぬのでした。てなわけで早速入店するのですが、先客はなくそれなのに店内は相当な客席があるのであって、これはこれで悪くない雰囲気なのです。いやまあ、混み合う酒場を礼賛する人が多い中にあって、閑散静寂たる酒場を愛する身としてみたらむしろ大いに歓迎するべき状況なのでした。品書きを見るとこれがなかなか気の利いた肴がズラリとラインナップされているのであって、しかも値段こそ失念しましたが、頼んだホッピーのナカの量が立派でかつ格安であったのには大いに嬉しくなったのです。万が一、ぼくがこの界隈の勤め人であったなら間違いなく通っちゃいそうです。でもあまりにも静かであったためか、泥酔した訳でもないのにうっかり眠り込んでしまったのでした。この夜一緒だったS氏には申し訳ないことをしたなあ。と思いつつも、眠りに落ちたのはきっと束の間であったのでしょうが、目が覚めるとS氏と目が合ったのですが、もしかして彼はぼくが眠っている姿を見つめ続けていたなんてことはないだろうなあ。
2024/05/12
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都心部には、案外暗いエリアが存在していますが、護国寺界隈は都心の暗部エリアでも相当にハイレベルな場所と思われます。特に夜になると街灯も少なく、小篠坂ないしは日出通り(夜中にこの通りを歩いて日出というネーミングに思い至る人など皆無ではないだろうか)と呼ばれる通りは自動車の往来は激しいけれど、人の姿を目にすることはほとんどなかったりします。そりゃまあ護国寺と雑司が谷霊園という都内でも有数の墓地に挟まれた通りなのだから寂しいのは当然のことかもしれません。寂しいにもかかわらず、雑司が谷霊園を暗闇にジョギングする人や通り抜けする人がかっぱらいに遭ったといういう話は余り聞いたこともないから、これは日本の治安の良さというよりは、余りにも人気がないからかっぱらいが狙い目とすることもないというのが正しそうに思えるのです。でもこういう暗部にも酒場が存在するのです。住宅がそれなりにあるから住民もそこそこ存在するのでしょうが、住民だけで酒場が成立するのはなかなか困難に思えます。それこそスナックなんかだと辛うじてやっていけそうにも思えますが、純粋な居酒屋ではかなり商売として厳しいのではないだろうか。そういう謎めいたところがあるから、こうした場所にある酒場がぼくの好奇心をくすぐってやまないのであります。 ということで今回訪れたのは、「居酒屋 六角牛」です。以前、すぐそばの「焼鳥屋 いいね」というテイクアウトメインで店舗の一画が立ち呑みになっているお店にお邪魔したことがあります。その脇の細い路地の蕎麦屋「松栄庵」にもお邪魔しています。でも「居酒屋 六角牛」のことはずっと気になりながらもなかなかお邪魔する機会がなかったのです。というのもこの辺を歩くのは大概そこそこ酔っ払っている時が多くて(こんな暗く寂しい通りを酔っ払って千鳥足で歩くのもどうかと思うけど)、なんとか池袋駅まで辿り着こうと思っているから、さすがにこんな半端な場所でゆっくりと寄り道している暇などなかなかお膳立てできぬのでした。この日はどうにも気力が湧かない割に未知の酒場に行きたい気分が高じていたことから、近頃10数年のブランクを置いて仲良くしているK氏と一緒になったので、伴って出向くことに決めたのです。家の方向が同じということもここを訪れるきっかけではあったのです。ということで見慣れてはいるこの酒場の戸をいよいよ開く時が訪れました。ガラリ、と開いた先に待ち受けていたのは、まるで家じゃん、だったのです。いやいや、内装はごちゃついてはいるけれど居酒屋の体裁を一応は保っているのです。普通の居酒屋と比較して"家じゃん"ってなったのは、客たちのそのリラックスぶりにあったのです。だって、ちょっと若い人はカウンターと一体になった小上がりで横たわってテレビを見ているんだからね。初老の方は座ってはいるけれど、明らかにくつろぎ切っているし、店の女将さんは一応カウンターの中にいるけれど、やはり少しも商売っ気がないのです。ここが居酒屋でなければ、このお三方、両親とその息子にしか見えないんです。そんななのに未知なる客のわれわれもあっさりと受け入れてくれるのが面白い。品書きはなくて、女将さんがお通しにポテサラを出してくれました。あるものなら適当に調理して出してくれるようではありますが、まあ酒が呑めれば文句はないのです。で、かなり独特なこの雰囲気でありますが、すぐにわれわれも馴染んでしまって、案外心地良く思ったよりも長く過ごさせてもらったのでした。まあ、こういう商売っ気なしの酒場ってたまにあるんですよね。そしてこれはこれで悪くなかったりするんですね。
2024/04/28
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所用があって立て続けに本郷三丁目にやって参りました。都心部では呑み屋はあってもぼくが呑みに行きたいと思えるような酒場はますます減っているようです。でもせっかく本郷三丁目にいるのだから是非ともこの界隈で呑みたいものです。以前都心で仕事していた頃にはちょくちょくこの界隈で呑んだものですが、情けないことに当時呑みに来ていた酒場のことなど記憶から消え失せていたからとにかく歩き回るしかないのです。スマホで店探しするのが一般的かもしれませんが、何かと選り好みするぼくの場合は、ネットの情報ではなかなか目当ての酒場を見つけるのが難儀なのです。というか、そもそも本郷三丁目などかつて散々歩き回ってもいるし、ネットでリサーチもしているのだから、ここぞという酒場が突如出没することなどあろうはずもないのです。 そんなこともあって界隈をほぼ虱潰しするように歩いていると、ノーマークだったと思われる酒場に遭遇する者です。まずは「春木町 おかづ」なるお店が目に留まったので早速入るのですが、夜の支度をしていないのでと断られてしまいます。食事されているお客さんがいるってのにねえ。建物は新しそうに思えましたが,店内はなかなか渋好みな造りだったのでいつか呑みに来たいと思うのです。続いて見つかったのが「諏訪」です。これはなかなか古風な構えの酒場ではないかと早速店に入るのですが、今日は団体さんの予約が入っていて仕込み中であるとのこと。これだと仕込みが終われば呑ましてもらえるってことかな。しつこくお尋ねすると今晩はごめんなさいとのことです。何だ残念だなあ。改めて食べログを見ると掲載保留マークが付いていますが、もしかすると常連から連絡があった時だけしか店を開けないってことなのかな。「酒処 さいとう」では、どういう理由だったか忘れましたが入れませんでした。これは困った。 すぐに思い付いた、いや本郷三丁目に来ることが決まったた時点で久し振りにお邪魔するか迷っていた「加賀屋 本郷店」があるのです。こんなことなら迷わず最初からここに来ればよかったです。相変わらずのオオバコで8割程の入りと繁盛ぶりも相変わらずのようです。ご存じでしょうが、こちらの「加賀屋」が本店。板橋で1965年に産声を上げた一号店が移転して本郷店となったそうです。久しぶり過ぎて思い出せませんが、こちらでカウンター席で呑むのはもしかすると初めてかも。店の従業員は以前と比べると外国人が随分多くなったように思われます。これはこれで悪くないなあ。難があるとすれば黒板メニューが見にくいってことですかね。それとオオバコならではのさんざめきを存分に堪能することができない、つまり賑わう店内の様子を眺めるのが不自然な姿勢を取らねば享受できないのです。とはいえ系列の本店であるのにここは他の系列店とは明らかに一線を画しています。店の希望もそうですが、何より魚介への力の入れようが明らかに充実しているのです。随分食べていない気がしたのでハマチ刺しを頼みましたが実に充実した盛り付けで嬉しくなってしまいます。ホッピーじゃなく日本酒が正解だったかなあ、まあいいか。もつ焼きも黒板メニューから数串注文してるしね。それにしても東大も程近く高級住宅地を間近に控えるこの土地に斯様に大衆的かつ活気のある酒場があるのはまっこと素晴らしいことだと思うのです。
2023/12/29
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ほとんど本題とは関係のないことをまずは書かせていただきたい。というのが、Google Mapで起点と終点をチェックすることで経路検索ができて最短ルートを表示できます。これは皆さんよくご承知ね。でもこの検索結果が時折とんでもなく出鱈目だったりすることに憤った経験がある方はどの程度おられるだろうか。そりゃまあ見た目には明らかに最短距離でも坂道のアップダウンを無視したルートなど教えられてもちっともありがたくない。また、起点を駅にした場合、駅舎の出口が目的地とは線路をまたいだ反対側からルートが伸びていたりすることがあるのだ。そんな結果を見てしまうとその駅舎には出口が一方にしかないものと思い込んでしまい逆側の出口があることを見落としてしまうのだ。駅舎に近接して踏切があるようであればまあさしたる被害が及ぶわけでもないけれど、時としてこれが理由で店が閉店してしまったり、満席となって入れずじまいとなったりすることを案外たびたび経験しているのだから何とも腹立たしい。先般、それなりに地の利はあるものの、駅から10分程度の場所にある酒場に同伴者とともに向かうということがありました。一人なら記憶を頼りに向かうところですが、それなりに気を遣う(奢ってくれる)人が一緒となると道に迷ってはならないという気にもなります。さてそこを目指して地図に従って歩いたのですが、普段使うルートと明らかに違っているのです。最初こそ、へえ、こんなルートがあるんだと感心しながら向かうのですが、どう考えても遠回りな気がする。最終的には何とか記憶を頼りに辿り着けたけれど、全くAIがどうのって騒がれてるけど、実際にはまだまだ満足に足るものではないなあ。なんて思ったものですが、改めて検索してみると明らかにぼくの地図の読み方に誤りがあったのでしたというこれまでの長文を裏切る結論に至ったのでした。ぼくの人生には地図だけでなく羅針盤も必要なんだなあ。 と無理矢理今回お邪魔した本郷三丁目の「羅針盤」について書く準備が整いました。店名こそ所謂方位磁針でありますが、店そのものの場所は春日通と中山道の交錯する本郷三丁目の交差点の交番裏手だから分かり易いことこの上ないのです。まあ羅針盤が目立たぬというのは使い勝手が悪いから便利な場所にあって当然なんだろうなあ。でもそんな場所にありながら見逃す人は見逃しちゃいそうな地下のお店なのです。前々から気になっていましたが、どうも後回しにしてしまいようやくの入店となります。洋風居酒屋って雰囲気がまあ本郷っぽい気はしますが、独りで呑みに来るにはちょっと違和感があります。広いスペースに終始ぼく独りだったのもそんな気分を高めます。結局店にいる間中、聞こえてくるのはここのママさんが入ったばかりのアルバイトの留学生にちゃんとノート取りなさいあなどと厳しく指導している声ばかりだったのです。さて、とりあえずホッピーを注文して品書きを眺めます。お通しの枝豆を摘みつつなおも眺めると、牧場などという謎のメニューがあって当店のお勧めとあります。気になったので店の方に尋ねるとハンバーグ見たいなって何だか言葉を濁すのです。面倒だから頼むことにしました。しばらくして登場したのは、まあハンバーグ状ではあるけれど、ちょっと不可思議な食感がありそうな物体でした。早速いただいてみます。コンビーフが練り込まれているのは確認できますが、不可思議なふわふわ食感なのです。コンビーフ以外の食材はなんなんだろうってじっくり味わって食べつつ呑むと結構これだけでお腹が溜まります。勘定する際にママさんにあれは一体どういう材料で作っておるのだ、じゃがいも、チーズ、豆腐なんかを挙げて見せるが違うという。牧場の材料についてはこれまで多くの東大関係者がその謎に迫ったけれど目の前で作ってみせても当てられた人はいないとのことです。俄然当ててみたくなった。で今思い付いたのがハンペンが使われてるんじゃないかって推理だけど違ってるかなあ。
2023/12/20
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随分昔のことで記憶も曖昧でありますが、千石に三百人劇場という映画も上映する施設があって、そこでとあるお人と映画を見たのです。その後ぼくは仕事があってとある場所に直行する予定であり、そのお人を千石駅までお見送り差し上げたのです。ぼくは現場まではのんびり1時間も歩けば着けるという算段だったので、独りそこに向かって歩き出したのです。ところで当時のぼくは方向音痴であったにも拘わらず本能で出張先に向かうといった無謀さを持ち合わせていたのです。似たような行動原理としては昼までにどこそこに出張するっていう話が合ったとしたら通常は新幹線で向かうところを普通列車で向かうといったことをやっちゃってたんですね。なんというか仕事よりも趣味を優先するというような幼さが著しかったわけで、それは今でもぼくの精神の幼児性としてしぶとく息づいているのかもしれないのです。それはともかくとして千石駅を後にしたはいいけれど、そこで早くも道に迷ってしまった訳です。当時はスマホでちょいちょいと行き先を検索するという訳にもいかなかったから非常に焦ったのです。当時のぼくは恐らくは東京生まれの大概の人よりは東京の町を歩いているという自負がありました。実際、都内各地の映画館(二番館、三番館に限りますが)は当然股にかけていたから確かにまあそれなりに都内近郊の各地には行っていました。が、実際のところはそれは点のみ知っているだけで線として結び付けることはあまりなかったのです。今と同様に金欠状態が常態としてあったので、映画と映画の合い間に歩くことはあったのだけれど、思い起こせばそれで上映時間に間に合わないこともたまにあった気がします。って長くなり過ぎました。つまり当時のぼくは千石を出て結果小石川植物園近辺で迷っていたのですが、それから随分経った先般もまた同じことを繰り返してしまったのでした。まあ、今回は幸いにも休みの日だったからさして支障はなかったのですが。 帰宅してから調べてみると「居酒屋 ごらく」は、茗荷谷駅もしくは白山駅が最寄りだったようです。この界隈は以前迷子になって以来、それなりに歩いていたはずですが、それでも未だに迷ってしまうのだなあ。やはり人間の認識力というのは極めて限定的で、例えば三次元の情報を地図などの二次元に落とし込んでようやく実用的な理解をもたらすものなのかもしれません。とまあ迷子にでもならぬ限り、ある地点からある地点へと移動する場合どうしても効率を重視してしまいがちだからたまには迷子になることも有益な場合があります。この住宅街の居酒屋の存在を知れたのもそれがあったからころなのです。それもまあ実際に店に入ってみないとこの迷子がもたらした結果の是非は確かめようがありません。ということでまだ昼下がりではありますが、入ってみることにします。なんとかランチタイムに間に合ったようです。カウンター10席ほどに2人掛けの卓席のみと非常にコンパクトなお店です。この都心の閑静な一等住宅街にあってはこの広さが適当に思えます。数種ある定食からサバの塩焼きの定食を注文。瓶ビールを頼もうとしたらありませんと無体なお答え。サワーもないというし、せっかくの休みなのに酒と無縁と思うと悔しいのでしぶとくお聞きすると生ビールは出せるとのこと。他にお客さんも少ないから時間を区切って呑ませてもいいと思うんだけどなあ。まあ、性質の悪い客だと店を閉めようとしても居座ってしまうかもしれないからなあ。とまあ何とかビールにはありつけました。民家を改築したような飾り気がないけれどどこか古臭い内装なので案外ここで長く店をやっておられるのかもしれません。鯖のフィレの塩焼きは誰が焼いてもこうなるって味だけど安心確実な肴となります。せめて大根おろし位添えられていたらなあ。でも近頃は大根がお高いから仕方ないかねえと思ったら味噌汁から大根が顔を覗かせています。小鉢には2種ほど盛り付けられていますが、前夜のお通しの残りかもしれないなあ。ちょっと手間を掛けているけれどまあどうというものでもありません。でもまあこんな住宅ばかりの場所にこうしたごく普通の居酒屋があるというのは実はとても幸運なことかもしれません。ぼくの当てにならない予想ではそう遠くない将来には駅前なんかを除いて居酒屋は失われると思うのです。せめて自分の生きている間は残って欲しいものです。ってまだまだ当分死ぬつもりはないんですけど。
2023/10/25
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先日、久し振りに全く目星を付けることもなく、足の向くままに散歩を堪能しました。都心の某施設で人間ドックを終えたのが午前10時30分。初めて受けた内視鏡検査の結果も良好だったので、気分よく呑み歩きしたかというとそうもいかなかったのです。とある懸案事項があったので余り呑んだくれるという状況ではなかったのです。それでもまあ昼飯を兼ねて多少の寄り道はしたい訳であります。がそれにしてもまだ時間が早過ぎる。ならば大雑把に自宅方面に向かって人混みのない道をのんべんだらりと歩いてみようと思ったのです。真っ直ぐ歩けば1時間ちょっとの道中でありますが、極力歩いたことのないもしくは通った覚えのない道を進むつもりだったのでその倍程度の時間を要するかなあなんて見立てました。まあ、ようやく陽気も良くなってきて気持ちよく歩けそうですし、慌てて帰る必要もないというのが気分を軽くしてくれます。ってまあそれで懸案事項がなくなる訳ではないのですけど。やがて小石川植物園の案内が見えてきました。すると道路の先の方に見覚えのある看板が見えてきました。へえ、こんな閑静な住宅地に「肉のハナマサ」なんてあるんだなあ。いや、そういえばかつても同じことを思ったことがあったような気がするなあなどと至って能天気な散歩を続けていたのでした。そんなタイミングでふと路地に視線を送るとおや、こんなところにそば屋がありますね。遠目にも古びた感じがします。ランチタイムにはまだ少し時間がありますが、まだ空いていて一杯呑んでも迷惑になるまいと思い、立ち寄ってみることにしました。 お店の名は、「そば処 斉藤庵」でした。店先はちょっとごちゃついていて現役感は希薄です。恐る恐る戸を開けます。おっ、工事現場の作業員風の人たちが早くも勘定を済ますところです。混み合う前に食事を済ませようってことなんでしょうかね。それにしてもこの内観の素敵さは抜群でありました。うっかり見惚れてしまいましたが、すぐに注文を取りに来られたので咄嗟にビールとかけそばとミニカレーのセットを頼んでしまいました。まあ、ぼくはいつだってクヨクヨと迷う性質なので瞬発的に頼んだ品で正解なんだと思います。とかいいながらお次のお客さんの頼むカツ丼に気持ちが揺さぶられたりもするのです。ビールをチビリチビリとやりながらまったりとした時間を過ごします。ここで気の置けない相手とゆったりと酒を酌み交わせたら実にいい時間が過ごせそうだなあなんて想像を膨らませます。ほどなくしてセットが届けられます。ミニカレーは思ったよりもミニだなあ。そばは実にきれいな更科風だなあ。なんて思いつつ、迷いなく七味を振るのでした。近頃家で乾麺のそばばかり食べていましたが、やはりちゃんとしたお店で食べるそばは格別であるなあ。カレーもそば屋のカレーというよりはきっちりと辛味のあるルーでこれまた非常によろしいのでした。店内を隈なく見渡すと夜の一品料理の品書きがあったり、お勧めの清酒の品書きがあったりと夜も良さそうです。でもさすがにちょっとここまでやって来るのは大変だなあ。 ちなみにハナマサを過ぎると「福井屋」なるそば屋もあって店内がちらりと覗けましたがこちらも良さそうだなあ。
2023/10/18
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昔からぼくは料理を作っていました。親が共稼ぎだったので好むと好まざるに関わらず作らざるを得なかったのです。いや、実はそういう共働き世帯であっても親が食事の支度を済ませるのが一般的なのかもしれませんが、我が家はそうではなかったのです。小学生になってすぐの頃こそ夏休みには冷蔵庫に昼食用のそうめんが用意されていたりもしましたが、それもすぐになくなって冷蔵庫から食材を見繕って自分で作ることになるのでした。高学年になる頃にはすっかりそれが常態化して、食材宅配のヨシケイの結構面倒な料理を平日の夜用として作ることも少なくなかったのです。そのうち母親の単身赴任などもあり、食事の支度は子供がするのが当然といった雰囲気になりました。そんな状態を甘んじて受け入れていたのだから自分でいうのもおかしいけれど、なかなか良い子ではなかったかという自負があります。これって満更悪い事ばかりではなくて、好きな料理を自由に作ることができたから当時の食生活は結構恵まれていました(ただし、夜にドカ食いする分、朝はたまにしか食べないし、昼食代は着服して抜くことが多くなりました)。だからテレビなどでは料理番組を見る機会も多く、たまにはそれを実際に作ってみたりもしたものです。その逆にプロの料理人の丁寧で手間の掛かる調理を目にすると、これはとても自分には真似できんことだと諦めることも多かったのです。そんな諦め料理の典型がフレンチでありまして、それがビストロクラスの料理であってもその手間暇をかける余裕はないと諦めるしかなかったのです。やがてフランスの家庭料理のレシピを知ってフランス料理の気分を多少は自宅でも楽しめるようになりましたが、今でもビストロ料理であっても自分で作るのは困難と感じています。 なので、時には手の込んだ料理が食べたくなります。そんな時にはついつい馴染みの「ル・マルカッサン(Le Marcassin)」にお邪魔します。今では馴染みというよりは古馴染みといっていい位のお付き合いをさせてもらっていますが、どうしても以前ほどのペースでは通えず恐縮しています。さて、この夜は先客は2組だけと珍しくそれ程立て込んでいないようです。コロナのせいもあってかここのところ訪れると7時に予約しても一番最後の客になることが多かったのですが、この日は後から2組が入ってこられたから徐々に遅い時間帯にお客さんの足もシフトしつつあるのかもしれません。初めてここを訪れた前の店名の時代にはかなり遅い時間帯にもお客さんがいてプレフィックスのコースメニューを終えても追加でチーズなんかを注文して延々と呑むこともありましたが、そんな頃に戻りつつあるようでちょっと嬉しいのです。無論当時のように健啖ではないから、ここの料理を食べてからズルズルと吞むだけの胆力はとうに失っています。いつもの豚のリエットに続いて、豚ほほ肉のゼリー寄せ、仔羊と夏野菜のトマト煮、ヌガー・グラッセというオーダー。いずれもある程度のレベルまでは作れなくはなさそうですが、食材の入手も含めて相当に大変な手間が掛かりそうだし、無論ここまでの出来栄えはとても難しそうです。なので、ここはもう無駄な努力をすることはすっぱりと諦めて存分にシェフに全てをお任せするのが正解なのです。ちなみにこちらの料理、全般に量が徐々に少なくなっているように思われますが、ぼくの年齢的にはちょうどよい按配であるらしく以前のように満腹で呻き苦しむことも少なくなったのは歓迎すべきなのでしょう。
2023/08/28
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今年度(これがアップされる頃には昨年度かな)を振り返ってみると、呑み歩きの勢いがガクンと落ちています。むしろコロナ初期の頃の方がよほど呑み歩いていたように思えます。近頃すっかり馴染みのある酒場で呑むのが楽なばかりでなく楽しく思えるようになったものですが、今でも未知の酒場に訪れるのはやはり楽しい事だから、ネットなんかで例えば日帰りで充分に行ける場所にある渋い酒場が紹介されていたりすると居ても立っても居られない気分にはなるのでありますが、すぐさまに行動に移せるかというとなかなかそうもいかない理由があるのでした。その理由を語ってみたところで事態が好転するとは思えないから端的にいうとやたらめったら慌ただしくてとにかく時間が足りていないのです。じゃあ時間をもっと効率よく使い回せばいいんじゃないかとも思うのですが、その場その場で色んな理由でバタバタしてしまいまとめて読書する時間はおろか、呑む時間すら削らねばならないという有り様なのです。仕事が忙しくなったわけでもないし、家事などを処理する速度が落ちた訳でもないと思うからますます不可解であるし、不可解であるから打開する術も見出せないのです。いや、分からないと書いたけれど、実のところは分からないフリをしているだけのような気がします。知らず知らずのうちに日々のノルマが増えてしまっているに違いないし、そのノルマの正体も察しが付いてはいるのです。でもそれがきっと削ぎ落としたところで支障がないものと分かっていてもなかなかのことで生活から切り捨てられないところがノルマというものの厄介さというものなのではないか。仮にノルマを剥ぎ取ることに成功した際の一時的な喪失感を恐れているだけではないだろうか。ノルマを捨て去るのは難しいとしても、ほんの一時しのぎでしかないけれどそんな場合の手っ取り早い解決策には多少の金額を支払うという方法があります。時間を金で買うということですね。となんかごちゃごちゃ語っていますが、馴染みのお店で呑むのは贅沢なことなのですよね。ってのは馴染みになるにはそれだけの訪問数を重ねる必要があるってことになるのであって、長期に亘って通い続けるもしくは足繁く通う、乃至はその両方を行うことで初めて馴染み客となれるのです。そんな馴染みの一軒に行ってきました。 前に訪れたのはつい先ごろのことのように思っていましたが、早くも半年が経過していたようです。護国寺ある「ル・マルカッサン(Le Marcassin)」にやって来ました。こちらには前身の「ル・モガドー」時代から通っているから20年以上のお付き合いということになるはずです。さすがに20年通ったら馴染みを自認しても罪はないと思うのですがいかがでしょう。ともあれここに来ることの愉しみは飲食だけに限った話ではないのです。いつものようにここでは7時過ぎで予約を入れます。大概の客は前菜を済ませている時間帯で人によってはすでにメインを済ませてデザート待ちといった頃合いです。辛うじて空きのあった店の真ん中の席に通されました。ここはどこも席間に余裕があるからどの席だってリラックスして過ごせるのです。この日はプレフィックスのメニューから白レバーのムース、鴨のコンフィ、いちごソースのパンナコッタをオーダー。もはや味がどうこうの話は不要でしょう。やはり一人でやってると忙し過ぎるのか、ここ数年はメニューの変化がやや少なめなのが残念でしたが、今回は以前と違った品の記載もあってちょっと嬉しくなりました。って大定番をオーダーしておきながらそんな感想を述べても嘘っぽいですかね。前夜呑み過ぎで酒のペースはややゆっくりになりましたが、こちらの料理は食べてる時点はいくらでも食べられそうですが、店を出て30分もすると強烈な満腹感に見舞われるから食べ過ぎ呑み過ぎには注意が必要です。もっと高級なフレンチなんていくらだってあるんでしょうが、ここでの食事は高級店とは全く別の喜びがあります。やがてぼくのとこだけになり、そうすると忙しそうに立ち働いていたシェフ(って呼んだ方がいいのかな?)もリラックスした表情を浮かべて近況を語り合ったりするのですが、この時間が至福なのですね。本当ならもう一歩踏み込んで一緒に一杯呑みたいと思ってしまうのですが、許されることなのかなあ。一時体調を崩されて断酒生活を送っていたそうですが、今はすっかり元気に呑んでいると窺っているのでいつか一緒に呑めたらいいんだけどなあ。
2023/04/05
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うかうかしているうちにも日々は着実に過ぎ去っているし、若い頃からずっと聞かされてきたように確かに年齢が増すにつれて着実に過ぎ去るスピードは加速しているようです。間もなく新型コロナが中国の武漢で確認されて3年が経とうとしていますが、グローバル化した世界で恐らく人類が初めて直面した災禍がもたらした時間の経過の有り様は多くの人々に深い喪失感や虚脱感を残しているように思われます。かく言うぼく自身も本来の出不精な本性が露わとなってしまったようで、それはそれでそれなりに充実した日々であったともいえなくはないのでありますが、やはりインドアで過ごしていることが多くなると日々にメリハリが希薄となってしまい総括してみると食っちゃ練をひたすらに繰り返しているように思い出されるのであります。まだまだ思い出に浸って生きていくことなど想定していないけれど、こうしたある意味で穏やかな日常を過ごしていると本に栞を挟んだり付箋を貼ったりといったインデックス化が不調となってしまい、後で過去のことを思い出すことを迫られてもそれを呼び出すための手掛かりすらないといった状況に追い込まれかねぬ気がするのです。だからこの夜、護国寺のビストロに向かったのだけれど、気付かぬうちに1年弱が経過していることを知って驚かされ、さらにはその前後に自分がどう過ごしていたかも全く思い出せぬことに愕然とするのでありました。 思い起こせば「ル・マルカッサン(Le Marcassin)」にお邪魔してすでに少なくとも20年以上経過しているのだから1年前のことは定かに記憶していないのに、20何年か前に初めて店の前を通り過ぎたことは明瞭に記憶しているのでした。まあ、過去をここで振り返るつもりはないけれど、ずっと何事があってもなくっても通い続けていたのが、ここ数年で変わってしまったのです。でも見慣れた外観を眺めて店内に入るとそこには微妙な変化を被りつつも基調となるムードは少しも変わらぬ我が家のような場所なのでした。そこで店を守るのはかつてよりむしろ若返ったように見えさえする主人のM氏であり、酒場がいい酒、いい肴といい人とで成り立つものであるならばここは紛れのないいい酒場なのであります。つねに変化を止めぬ店と変化を拒み変わらぬことを良しとする店があるとすればここは後者のタイプの店です。それでも時代に応じて日々微調整を加えられているように感じられるのです。とまあクドクドしく書いてみたけれど、このお店は少しも堅苦しさはなくって、心地良いように振舞うことができます。好きな料理を食べてぼくの好みを知ってくれているM氏のお勧めのワインを楽しみ、同行者や時にはM氏と楽しく会話を交わすのが幸福なのです。この夜はいささか姦し過ぎる客たちが居座ってしまったためゆっくり語る時間は取れなかったけれど、今度は互いの近況を確認し合えればいいなあなんて思うので、次は半年、いや3か月、できれば来月にでもお邪魔できればいいなあなんて思うのです。
2022/09/26
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東京メトロの護国寺駅界隈は、鳩山会館があったりの高級住宅街という一面に加えて、駅名ともなっている護国寺は大隈重信、山縣有朋、梶原一騎、大山倍達らの墓所であり、皇族専用墓地の豊島岡墓地、夏目漱石、泉鏡花、永井荷風、東條英機が眠る雑司ヶ谷霊園といった墓所としての印象がぼくには強いのでした。さらにさらに山縣有朋の屋敷であった椿山荘には三重塔をはじめ長松亭といった古い建築物が現存するし、丹下健三の設計による東京カテドラル聖マリア大聖堂、高松政雄を中心とした曾禰中條建築事務所の設計による講談社旧本館、岡田信一郎の設計による鳩山会館などの名建築群も見ものであります。あと忘れてはならないのが、お茶の水女子大学、日本女子大学といった日本最高峰の女子大があったり、筑波大学附属中学校・高等学校などの一流二流の中高も多い文教地区としての側面も兼ね備えていて、実に多様性を帯びた地域となっています。唯一足りていないのが酒場でありまして、かつてこの界隈を頻繁に歩いていたこともありますが、とても困ったという記憶があります。講談社の連中は呑みにいかぬのだろうか、いやいやそんなはずもなかろうから格上の人を相手にする場合は有楽町、銀座一丁目、格下の人相手には池袋なんかをもっぱら利用しているのだと思われます。池袋ならタクシーであっという間ですからね。まあぼくなんかは池袋駅に向かうなら有楽町線すら使わずに歩いてしまいますけどね。でもこれがまあ夜だとすごく暗いんですね。音羽通りならともかく不忍通りなど人通りもほぼないことが多いのです。そんな寂しい通りだから酒場も数える程度しかないのは当然のことなのです。 でもいつの間にやら「焼鳥屋 いいね」というテイクアウト営業がメインらしきお店が開店していたのでした。不忍通りと首都高の池袋線が交錯するこの地点は暗い護国寺でもとりわけ人通りの少ない箇所でありまして、この店のある文京区民はこういう店で飲食しようと思う人は少ないように思うのです。少し坂を上った豊島区民ばかりが足を運んでいると考えるのは偏見に過ぎないのでありました。まあテイクアウトということなら文京区民も使うこともありそうでありますが、ほとんど両区の境界線付近にあってしかも大きな通りで隔てられているという偏見抜きの事実関係から考慮してみてもやはりここのお客さんの大部分は豊島区民と考えるのが妥当に思えます。というかそれ以前にお客さんがもともと少ないということも考えられます。しかし、ぼくがこの店の存在を認知してからすでに2年以上は経過しているだろうことを加味してみるとこの小さな焼鳥店はそれなり(店を維持・継続できる程度)の売り上げを上げていることは間違いない事実なのです。さて、立ち呑みエリアに足を踏み入れることにします。良かった。男女のカップルと男性一人客がおります。ここで一人っきりとなるのはあまりゾッとしません。おっかないっていうことはないけれど、さすがに寂し過ぎるでしょう。チューハイと同時に焼鳥を注文しますが、めでたいことに大部分の焼鳥は品切れとなっていて選択肢は極めて少なかったけれど,それはそれで構わないのでありました。なんとなればすぐ目と鼻の先にもう一軒、こちらも気付かぬうちに開店していた不可思議な店名の居酒屋がこの夜の本命だったからです。酒も焼鳥も値段は立ち呑みの標準的なお値段だったし、酒の混さや焼鳥の味もごく平均的で問題はないけれど、このために再訪というのはご近所さんにしかあり得ないかなあ。あとテレビもなかったみたいだったし、見知らぬ客同士でコミュニケートできる雰囲気でもなかったから一人で呑むにはちょっと寂し過ぎるかなあ。でもまた何かも折にこの辺を歩いて通り掛かったら休憩がてらに夜には良いお店かも。だって他に店はほとんどない土地柄ですから。あとそうそうそばにある居酒屋は「居酒屋 六角牛」という名ですが、この夜は残念ながら営業していませんでした。
2022/05/11
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湯島って湯島聖堂、湯島天満宮、麟祥院といった歴史のある神社仏閣があったり、東京医科歯科大学などの高等教育機関があるなど文化的な地域である一方で、かつての花街の名残りで多くのラブホテル―今はファッションホテルなんてよんだりするのかな―もあったりして、ひとつの町に聖俗入り混じるのは世の常ではあるものですが、地元住民-湯島は住宅街としての需要も高そうです-にとっては、俗の方は極力控えてもらいたいというのが本音でしょうか。ホテルだってそうで、ラブホテルよりはシティホテル、そこまで格式が高くなくともせめてビジネスホテルの方が具合がよろしいと感じておられると思うのですが,案外違ったりするのかなあ。そんなシティホテルとビジネスホテルとも異なる、中間位のクラスのホテルがあります。これらの中途半端なクラスの宿泊施設って大概の場合が公共の宿が該当すると思うのですが、いかがでしょう。具体的には、公営国民宿舎や日本郵政不動産が保有するメルパルクやかんぽの宿なんかが浮かんでくるのですが、しがくのやどを標榜するガーデンパレスは、札幌、仙台、名古屋、京都、大阪、広島、福岡とそして東京は湯島と全国の主要都市に効率よく拠点を構えるホテルチェーンであります。「しがくのやど」とは何ぞやってことになりますが、同ホテルの経営母体である日本私立学校振興・共済事業団の掲げる経営理念には、加入者及びその家族のための福利厚生施設であると同時に公共的施設として、地域活性の場として、地域社会に貢献するともありまして、湯島一帯の地域活性にも一役買っているってことだそうです。ぼくが思うところのこうした公共の宿とビジネスホテルとの差異は自前のレストランを有するという点にあります。メルパルクというかかつての郵便貯金会館などもそうで、かつて新潟在住時には新潟の貯金会館にあったレストランでビーフシチューを食べるのが楽しみだったことを記憶します。 東京ガーデンパレスには、「レストラン・オーロラ」「ラウンジ・オリオン」「つきじ植むら 梅里」があって、最後のは創業昭和3年の全国に12の店舗を構えるその一店であるから直営のレストランとは異なりますが、今回お邪魔した「レストラン・オーロラ」はまぎれもない直営店であります(って違ってたりして)。こちらで最近提供されている少し軽めのディナーコースってのがちょっと気になって出掛けてみました。高級ホテルとはまた違った普段使いのホテルのディナーってのが気になったのです。オーダーしたのは【ガーデンコース】洋食メニューとここの最安値の赤ワイン1本であります。メニューの詳細は以下であります。米粉パンとミルクパンオードブル 森林風サラダオードブル パスタ ベーコンクリーム ヒィットチーネメインディッシュ 豚肉のサルティンボッカデザート タルトタタンコーヒー オードブルは上品(つまりすごい控えめな量)に盛り付けられていてまあ悪くないけれど野菜がちょいくたびれていました。2品目はパスタってのがどこか庶民的で悪くないですね。ヒィットチーネってのも味わいがある。これまた控えめな量ですがまずまず美味しい。自宅では恐れてしまって使えない量の生クリームにパルメジャーノが使われているようです。メインのサルティンボッカはずっと気になっていた料理でここで食べることができたのはちょっと嬉しい。豚肉の薄切りと生ハム、セージを重ねて焼いたイタリア料理で無茶苦茶簡単なので自宅で作ってもいいのですが、生ハムに火を通して食べるというのは貧乏性のぼくにはいかにももったいなく感じられるのです。でも生ハムの塩気を豚肉と共有しており、嵩増しのアイデアとして自宅でも援用できそうです。タルトタタンは可もなく不可もなし。とあれ、ここってフランス料理屋のはずですが、いかにもイタリア料理店ですね。まあ構いはしませんけど。店内の様子はそれこそファミレスチックでこれはこれでカジュアルというか楽な気分で頂けて案外悪くなかったです。にしてもお客さんの入りがちょっとアレでしたねえ。
2022/04/04
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田端駅にて下車。日頃通い詰める立ち飲み屋さんは休業しているけれど、目当てのお店があったから橋を渡って急ぎ足で開店したての焼鳥店を目指したのでした。実のところ前夜にもその店の前まで行ったのでしたが、その夜の同行者のお気には召さなかったようで入りそびれていたのです。そのリベンジということでもないけれど、気になる懸案はなるべく早いうちに解消したほうがいいということで再び足を向けたのであります。が、なんということでしょう。この日は休みだったようです。開店したばかりですぐさま休みなんてやる気があるのかなどと八つ当たりしたくなるけれどぶつける相手もいないのでした。さて、困った。この界隈はもともとが呑める店が少ないのに加えて、マンボウ下で休業としている店も多いからこの辺を未練たらしく散策したところで得るところはないのであります。すぐに決断を下して駅方面に引き返す決断をしだけれど、だからといってこの先向かう先が決まってはいなかったのです。断るまでもないけれど、真っ直ぐに帰宅するという考えはハナからありはしないのです。ということで、駅前を通過して緩い坂道を直進するのです。動坂下の交差点に差し掛かってこれはもう駒込駅方面に向かうしかなかろうと腹を括ります。いつしか田端銀座に足を踏み入れていました。ここらに来るのも久し振りだなあなんて思ってはみたもののここじゃあ呑める店もなかろうと足早に立ち去ろうと思ったら、遠くに焼鳥の暖簾が下がっているのが目に留まりました。ここに呑み屋はなかったと思うから、きっと持ち帰りのお店なんだろうなと諦め半分で確認しに向かうと、おや嬉しいことに呑める店のようです。「炭火やきとり ケムリ 参」っていうお店でしたがここって以前からあったかなあ。まあ、そんなことはどうでもいい。普段はケチ臭い計算をしてばかりだけど、もう結構歩いているからとにかく一杯呑みたいのだ。普段ケチ臭くやっているのに追い詰められるとすぐにこれまでの節約を無にしてしまうことがぼくには少なからずあるのです。店が閉まり始めて暗くなってきた表の商店街よりさらに位店内にはカウンター席が5席ほどと卓席が二つばかりあるだけです。カウンター席の隅には予約の札が置かれていて、卓席に通されます。すぐに肉じゃがのお通しが出されます。これだけでここはなかなか旨い肴を出してもらえるという予感がします。珍しくメニューも見ずに頼んだ瓶ビールが届くとすぐさまグイっと呑み干します。お勧めのレバーペーストを注文します。トーストされたバゲットが添えられていて食べ応えもありそうです。うん、ねっとりと濃厚な味わいに仕上げられていて美味しいです。レバーペーストって簡単な料理ではありますが、加えるスパイスだったり生クリームでコクを出す出さないなどで仕上がりがかなり幅広いのですが、ここのはしっかりとした仕上がりでこの夜のぼくにはちょうどいい塩梅でした。しばらくして出てきた焼鳥も肉の旨味がちゃんと感じられて酒が進みます。いい店なんだけどなあ、ちょっと駅からも遠くて不便なせいか客の入りが悪いのが心配です。まあ、独りで盛り上がりまくっているこの店を愛してやまないといった感じの常連がおられるし、予約席にもそのうちにお客さんが来られるようだからぼくの心配など杞憂なのかもしれません。
2022/03/25
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もう何度もこのブログに登場している目白台のお店に宣言解除後2日目の夜にお邪魔しました。こちらのお店は酒場と呼ぶのはちょっと違うかなって感じの外観、内装ですが、初めてお邪魔した当時、まだ店名も「ル・モガドー(LE MOGADOR)」だった頃は、装飾も少なくてパリの場末のいかにもブラッスリーといった風情のお店でした。というかここを初めて意識した時、今以上に暗い通りを歩いていると薄暗い店内にちょっとやさぐれた面構えの西洋人2人が酒を酌み交わしているのを目撃して、これはちょっとヤバそうな店かもしれないなどと思ったものです。以下のページに幾分か当時の印象が汲んでいただける写真がアップされていました。Today recently 「「え゛っ!?モガドー 閉店??」(護国寺)ビストロ」http://hugh.seesaa.net/article/23265910.html 目撃後すぐに予約もなしに訪れてあっさり入れてもらうと、実用的な飾り気のない店内は思っていた通りでしたが、主人も雰囲気も暖かくすぐにこの店のファンになったのでした。その後は毎月とまではいかぬまでも数カ月置きに訪れるようになり、こちらも気持ちとしては主人とは旧友と会うような気持であり、定期的に行くのが生活のルーティンとなったのです。 「ル・マルカッサン(Le Marcassin)」を夜の7時に訪れると、先客3組のうち2組はすでにデザートに突入、もう1組も前妻を召し上がっていました。前回、主人が仰っていたけど、亥歳の彼には独りで2回転はかなりキツくなっているようで、遅く参上して申し訳ないような気持になりますが、分散してお邪魔してもらった方が負担が少ないと言ってくれました。さて、2年前にはご主人、腰を悪くされて1年以上だったかなあ酒断ちもして養生に励み、すっかりスリムになられましたし、めでたいことに今では週に一度はワイン1本を空けるようになったものだ。めでたしめでたし、なのか!? アミューズのリエットの塗られたバゲットも久し振りだなあ。ワインはケチなぼくはいつもハウスワインであります。ここは手頃なワインでもテイスティングという儀式の手間を惜しまぬのです。しかも2種から選ばせてくれて、テイスティンググラスにどちらも並々と注いでくれます。1本は空けたばかりのフランス南部の通常はブレンドして用いるグルナッシュ(だったかなあ)だけで醸造したという面白いものだそうです。根っからのケチであればすでに空いていた方が新しいボトルを空けることになるのでお得ですが、ここは己の味覚を信じて珍しいのをいってみました。濃厚な果実味と舌に心地よく刺さる刺激的な風味でこれはいいなあ。 それはともかくとして今晩は何をいただこうがなあ。迷った挙句にオードブルは白レバーのムース。そうだった、久々で忘れていたけれど、こちらのパテなどには大量のトーストされたバケットが添えられているのだった。これを食べきってはメインで息切れしてしまうと自重しようと思うのだけれど、レバーが以前以上に洗練されているようでどんどん進んでしまうのでした。ところで、こちらが紹介される際によく言われるのが付け合わせのサラダのボリュームがあります。ぼくは自宅でもサラダはよく食べるのでそれほどすごい量とは思わないけれど、それより面白いのがこちらで用いるレタス、数年前からサニーレタスやグリーンカールなどのヒラヒラなものからいわゆる玉レタス(クリスプヘッドレタス)になったんですね。で、これに合せるドレッシングが美味しくて、控えめな酸味に出汁のような旨味があってどうやって味付けしてるんだろうと食後に伺ったら、普通のヴィネグレットソースに少しバルサミコを加えているとのこと。主人曰く、最近の玉レタスはそのままで味がいいから軽めの味付けで充分、食感も楽しいから気に入って使っているとのこと。真似しても同じようにはならないんだろうなあ。 さて、メインです。こちらは迷わず仔羊のローストをオーダーしました。近頃はラムチョップも比較的容易に入手できますが、いざ買うとなると躊躇するお値段でありましてこれまで一度として購入したことがないのでした。レシピも色々控えてはいるけれど、こういうのは外食でいただくのが気兼ねなくていいのだと割り切りつつあります。懸念されるのは羊の脂に胃腸が負けてしまうことです。羊の脂は消化吸収されにくいとかいうけれど、胸焼けとかとは別問題です。なので、今夜は丁寧に脂を除いていただくことにします。焼き目の付いたサクサクした表面だけはきっちりと楽しみます。うん、自宅ではこういう焼き上がりにはなかなかいきませんねえ。しみじみと旨いなあ。プレフィックスのお値段、少し上がったのですが、その分、おまけということではないんでしょうが、牛肉の赤ワイン煮も少なくはない量が添えられていて、一皿で二度美味しくて、これはいいなあ。 デザートは、いつも迷った挙句にヌガーグラッセを頼んでしまいます。これ、自宅で作ろうと常々思っているのですが、なかなか機会がありません。それほど難しいものではなさそうですが、各種ドライフルーツをリキュールに漬けたり、こまごまとした作業があるし、何よりそれなりの食材を用意しないといけなくてそれを揃えるだけで面倒になるのです。ひんやり濃厚なのがたっぷりで食べ応えがあって、やっぱり美味しいなあ。適当に頼んだカルヴァドスとも相性がいい感じです。 といった訳でいつものことながら満足巻に浸りつつ食事を終えたのでした。久し振りにちゃんとした外食をすると酒もより一層旨くなります。それはそうといつか主人と店を閉めた後に一緒に呑めたらいいのになあ。立たせっ放しにしたりせず、椅子に着いて腰を据えてじっくり呑むなんてことが果たしてできるんだろうか。
2021/10/20
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駒込という町は、都民も含めて認知度の低い町のようだし、実際に閑静で地味だけれど、ぼくなんかからしてみると住むにはとても良い町と思っています。駒込の範囲を本駒込まで拡張すればそりゃまあ事情は少しばかり違ってくるけれど、地下鉄の本駒込駅などは山手線の隣駅である巣鴨や田端などよりも遠そうだから、別な町と考えるのが現実的な解釈に思えます。駒込駅やその周辺地域の印象を希薄にしているのはひとつには文京区、豊島区、北区に跨っている点にも見て取れるかもしれません。例えば駒込のランドマークのひとつである六義園は文京区に立地しており、旧古河庭園は北区、染井霊園は豊島区だったりして、都内でも屈指の散策コースが設定できる環境にありながら、区割りとなりがちな広報戦略の弊害によりその魅力は損なわれているように思うのです。まあ、将来チャンスがあれば駒込駅界隈で住めたらいいなあなんていう野望を胸に抱いているぼくにとっては、下手に人気の町となるよりはずっと有難いんですけど。 さて、駒込と本駒込を別物扱いしながら「珍華」のあるのは不忍通り沿いの文京区本駒込なのです。本駒込は駒込駅の南側の大部分を占める大きな地名でもあるのですね。まあ、この際地名も同だって構うまい。駒込駅で下車して懸案の酒場をチェック、あわよくば立ち寄ろうという魂胆敵わず店舗自体を見つけ損ねて、やむなく田端の立呑みに向かうことにしたのですが、通り掛かりにこぢんまりとした、でも町中華的な風情には幾分欠けたとても平凡で真新しくそしてやや地味な構えのお店がありました。くさしながらもせっかくだから立ち寄ってみることにします。品書きを見るともやしそばがあるから、久し振りに食べたくなってアン仕立てになっているかをお尋ねすると、もやし炒めを乗せたものだと仰るから、ならばここはシンプルに単なるラーメンをもらうことにします。ごてごてとしたラーメンもフォトジェニックだったりして楽しいけれど、ぼくはこういう普通なのが一番安心します。ビールなどの酒類は欠かせないけれど、この記事がアップされる頃はまだ提供が禁止されているんだろうなあ。薄目でわずかに白濁しているすっきりとしたスープが身体にやさしい感じで美味しいなあ。他にお客さんはご老体お独りだけ。ぼくのとは異なるちょっと大きめの丼から麺をゆっくりと啜っているけれど、あれは何なんだろうなあ。結局、ぼくが店に入ってから食べ始めていたのに、ぼくがビールを呑みラーメンを食べ終えて勘定を済ませてもまだ召し上がっていたのでした。
2021/05/26
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もしかすると目白台のビストロは、このブログでも登場回数のかなり多い一軒ではないでしょうか。酒場巡りのブログでビストロをそんなに登場させてしまうのも気が引けるのであります。でもこちらのお店、すごい好きなんですねえ。だからまた書いてしまうのです。って以前と内容はほとんど変わらないだろうけど。初めてこちらにお邪魔したのは10年、いやさらにもっと前のことだったと思います。こじゃれた感じでどうにも腰の引けて訪れたいなどと思ってもいなかったビストロでしたが、当時、案外気楽で楽しいものと遅まきながら知り、都内の有名どころを時折訪れるようになりました。その一軒が目白台の「パ・マル レストラン(Pas Mal RESTAURANT)」でした。護国寺の坂を目白台に向かって登り切ると日本女子大学がありますが、坂の途中、道の左右に数軒の飲食店があります。坂の下には講談社があったり、坂を登り切ると椿山荘もあるなどおハイソなイメージがどうも馴染めないと思っていましたが、ちゃんと眺めてみるとどのお店も高級感漂うといった印象でなく、町の裏通りのような気取らぬ程度に洒落ていてだけど庶民的なお店であることが分かるのです。さて、今はなき「パ・マル レストラン」を後にして雑司が谷を抜けて池袋方面に向かおうと歩き出すと、すぐに「ル・モガドー」なるお店があったのです。ビストロというよりアメリカのダイナーっていうか食堂風の薄暗い店内で米兵風のいかつい白人男性2名が実に愉快そうに呑み食いしていたのです。すっごい気になるけど、ビストロを称してもちっともフランス料理っぽくない洋食のお店に過ぎぬのではないかと懸念しつつも、どうにも気になるのでそう日を置かずに訪れてみると、高級フレンチのそれとは当然違うけれど、お手頃でボリュームたっぷりのビストロ料理が頂けることを知りそれ以来、思い出したように訪れるようになったのでした。 いつの間にか店名と内装を刷新した「ル・マルカッサン(Le Marcassin)」との付き合いはそういう訳で案外長いのですが、こちらのなんでもこなすシェフとはすっかり顔馴染みになっておりまして、予約する時には必ずその夜の〆の客となるよう調整し、食後のお喋りを待望するようになったのです。この夜は、しばらく体調不良でやめていた酒も再開したことなどとともにコロナ渦のご苦労などもお聞きして楽しいということだけで済ませることはできなかったのですが、これからも細々とながら末永くお付き合いしたいと思うのです。ってこの夜のメニュー位は記載しておいた方がよいかなあ。アミューズはバゲットにリエット、前菜は牡蠣とキノコの香草バター焼、メインは牛ほほ肉の赤ワイン煮、デザートはヌガーグラッセといった具合でいつもながらに美味しく頂きました。でもいやしくきっちり食べきるせいか、食後に胸やけしてしまったことは正直に記しておくことにします。まあ、その原因の大部分は自身の加齢のためであると思われます。あと、以前よりお値段が上がったように思えますが、それでもお手頃感があると強硬に主張するのは、やはりぼくはここが好きで好きで仕方がないからなんです。
2021/05/24
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最近になってまた酒場放浪記をそれなりに楽しんで見るようになりました。近頃はそうそう遠方に出掛けるという気分にもなれないもんで、この番組で少しでも気分を晴らそうという深層心理の顕れでしょうか。若い頃は惰性で旅することもそれなりに楽しかったように記憶するのですが、その楽しさというのは専ら現実から逃避を図るため、厭世的な気持ちを落ち着かせる作用があることを楽しいと勘違いしていたのかもしれません。勘違いがどうとかはともかくとして、近頃になってぼくは旅に目的だったり理由があって初めて楽しいと感じられるようになってしまったようです。人間が全く目的もなく行動するというのはあり得ないことのように思われますが、限りなく希薄な目的、例えば列車に揺られて車窓を眺めるだけの旅がこの上ない至福の時間に感じられたのは、己にはまだいくらだって浪費するべき時間があると思っていたからなんでしょうが、そんな余裕などもはや無縁な年齢になりました。いやまあ現在の日本人男性の寿命も年々伸びているようだからまだ半分にも達していないのかもと考えてみたり、定年までの歳月も永遠の未来のように思えて、暗澹たる気分に陥るのですが、こういう考え方をする時点で老いることに対する意識が脳裏から離れることのない証左に思えるのです。って割には呑気に酒場番組を追っ掛けたりしているのでありますが、本駒込にはそれ以上に気になっていたお店があるので、真っ先にその蕎麦屋「藪蔦」に向かったのですが、おやおやお休みのようです。 となると愚図愚図残念がっても仕方がないので、すぐさま「居酒屋 こもり亭」に舵を切ったのです。店の戸はコロナ対策課開け放たれていますね。そこから店内の様子が見えたのですが、奥の小上がりも手前の椅子席も埋まってますね。カウンター席に辛うじて空きがあるけれど、果たして入れるのだろうか。書きそびれていましたがこの夜はA氏が同行しました。誰かを伴うことで、あまり利便ではない土地、今夜の本駒込のような場所を訪れるための推進力になるのです。しかし誘って置いて惨い話ですが、独りだったらスッと入れた/入れるのになんて考えが脳裏を過るのでありました。何という身勝手な考え方であろう。すぐさまに自分一人だけでも入る算段をしているのであります。ひとしきり楽しんだらバトンタッチしようという言い訳で納得してもらうことも忘れてはならないでしょう。しかし、分かり切っていることですが、じっと表で独り待つのは敵わないはずでしかし他所に行ってる隙に別な客が列をなすという可能性もないわけではないのです。まあ、逆に後から来てみたらお客も引いてゆったりと密にならずに呑めるかもしれませんが、その可能性を期待するのはいかにも危険なのです。と下らぬ妄想に耽りましたが、実際には無事席を確保できたのです。ちょっぴり窮屈な気がしますが、贅沢は言ってられません。さて、お値段はそこそこいい値段なので、肴はごく抑えめにしました。舞茸の天麩羅とあら煮だったでしょうか、これが正解、いや何を頼んでも間違いはないような気もしますが、とにかく食いでのあるしっかりとした量で、いきなり数品を頼む常連さんもいましたが、そんなに頼んで食いきれるのか。舞い込んで三和土に散る桜の花びらが風流に思えるのは、いいお店だからでしょう。こういうちょっと気の利いたいい店で月に1度でも通えるようになりたいものです。
2021/04/26
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夜の根津は寂しい。人混みは嫌いな癖にあんまり人気がないと寂しいというのは、手前勝手な虫の良い言いざまではありますが、根津界隈の夜の暗さは都心とは思えぬ深さがあるように思うのです。千本鳥居で知られる根津神社などの神社仏閣と東大が取り囲む町だから夜になって静かであっても少しも不思議ではありません。広い東大の敷地内でどんな奇怪な研究が行われていたとしてもそれを窺い知ることは困難なのです。今の時期はもしかすると在宅授業を学生たちは受講しているかもしれぬから町にはほとんど人は存在しないかもしれないのです。住宅もあるにはあるけれど、住民はご高齢者が多いだろうし夜が更けてから出歩く人もそう多くないと思われるのです。それでもこのような通な土地、というよりは物好きな場所に店を構えようなんて方がいたりするのです。 今年、「五十蔵」は2回目です。一応お断わりしておくけれど、ぼくも財布ではこんなお店に年2回も来れるはずがないのです。特段の祝い事があるわけでもありませんし、目立った恩義を作ったりもしていないけれど、とにかくお礼の意味でご馳走してくれると誘われたら行かぬわけにはいかぬ、というより喜び勇んで出向いたのです。人通りのない暗い夜道を歩くけれどお仲間もいるし、これから旨い肴と酒が待っていると思うと足取りも大いに軽くなるのでした。さて、今晩は本来はお休みだったところに頼み込んでお邪魔させて頂いたようです。そんな実は先般お邪魔したばかりだったから別な店にするという提案も隠し持ってはいたのですが、誘ってくれた方がこちらを大いに気に入っている以上、余計な発言で機運を損なってはならぬという大人の判断を下したのでありました。テレビCMに出てきそうな端正なカウンター席は、大人になった気分を盛り立ててはくれるけれど、必ずしも大人になりたいと思っておらぬぼくにはさしたる感慨が惹起することはないのでした。さて、今回の肴のメインとなるのは〆の松茸ご飯に間違いないのですが、クジラのステーキもとても素敵だったし、実はもっとも感心したのは目の前で捌かれたばかりの合鴨の叩きとセリをポン酢で合えた一品です。鴨もセリも大好物だからということもあるけれど、これだけ旨いなら仙台のせり鍋の豚肉を鴨肉にしてみてもきっと当たりに違いないと思うのでした。今度試してみようかなあ。
2021/01/15
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根津駅と東大医学部を結ぶ閑静ではあるけれど、暗くなった時分に歩くには少しばかり寂し過ぎる通りの名が忍小通りということは、この夜初めて知りました。並行して伸びる通りがズバリ不忍通りという持って回った言い回しの表通りであることを思うと、なかなかに含蓄のありそうな趣深い通名なのであります。しかしまあ通りの名称に風情があるにしろ実際の通りがちっとも味わいがないとなると話はまた別であります。都心部に少なからず存在するその地の住民以外にとってはエアポケットのような何もない場所なのでありました。過去形で書いたのはそんな何もない場所に不意に新しいお店ができていたからです。一応、周辺の閑静さに気遣いつつそんな静けさを乱さぬようひそやかな雰囲気で店はやってなさそうにふるまいつつ営業をしていたのでありました。 静かな通りの細い脇道に「五十蔵」はありました。この夜はちょいとした接待を受けての訪問でしたので、到着するまでは店名すら知らなかったのですが、独りならば、いや知人と一緒でも尻込みしてしまうような知る人ぞ知る的なお店だったのであります。店内はカウンター席と奥に個室もあるようですが、いずれにせよカウンター割烹のような高級感がそこはかとなく感じられたのです。だって調理人や女将はともかくとして、ソムリエはもちろん利き酒師のじょせいもおるようだからちょっとぼくの小遣いでは無理のあるお店のようです。スパークリングではないちゃんとしたシャンパンにて乾杯とは贅沢極まりないけれど、ぼくの舌では効き分けできぬのが誠にもって面目なのだ。面目ないけれど旨いからすいすいと呑み進みすぐにボトルは空いてしまい、日本酒の銘柄を遠慮がちに安いほうから順に呑み進めることになったのであります。料理は丁寧でどれも美味しかったのだけれど、どれが図抜けて美味しいとかいうこともなく、インパクトには欠けているように思えてしまいました。まあ遠慮会釈もなくパラパラと酒を口中に放り込んでいて味も何もあったものではないけれど。和食っていうのは味わって食べるのが困難な気がします。酒を嗜みつつ繊細な料理を味わうことができるようになるには、もう少し枯淡の域に達しないとぼくには無理そうです。ところで、後になって気付いたのですが、この「五十蔵」は最近になって谷中からここ池之端に移転してこられたようで、谷中時代のお店に一度お邪魔していたようです。たまたまその頃、酒場放浪記で放映されていたからで、いつものメンバーで訪れて恐る恐るでごくケチ臭い注文にて退散する羽目になったことを思い出したのでした。
2020/11/27
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先日もそうだったけれど、根津の町では酒場探しに苦労するのです。やってなかったり入れてくれなかったり、それは店の方が高齢化しつつあることも無縁ではないように思われ、必然、常に突然の閉業も視野に入れて商売を続けておられるわけだから店舗が多少古びてこようと、あえて手を入れることもせずに野放しにしてしまっても何ら不思議ではないのであります。だからこそ骨董的な酒場の存在をつい期待して界隈を散策するのでありますが、そんなある意味でいい加減に商売しているお店だから結構平気でやってなかったりすることがあるのです。いやまあ、毎晩見て回っているわけじゃないからたまたまぼくが通過した際にはやっていないということなのかもしれぬけれど、それにしては外れ的中率が高すぎるように思うのだ。しかも新型コロナへの感染を恐れてか、見知らぬ客は門前払いをくらわせられることが多いように感じられるのであります。見知らぬ者より見知った者の方が安全だと考えるのには、その見知った者が人混みに接触する機会が少ないという見当からそう判断しているのであろうけれど、この町では一日在宅していながら呑みにだけ外出する人が確かに存在しそうなので文句も言いにくいのであります。 そんな中で、安定して営業しているのが、「民謡の店 おばこ」です。この夜も何軒か振られた後にたまたま通り掛って、おやこれはなかなか良さそうじゃないかいと入ってしまいました。カウンターだけなのかなあ、店の方との距離感があってそれはそれでしんみりやれて悪くないなあ。といかにも初めてのように堪能してしまいましたが、すっかり失念していましたが、何年か前にも訪れていたようです。ということはここは安定して営業しているようですね。って、毎晩見て回っているわけじゃないからたまたまぼくが通過した際にはやっているというだけだったのかもしれません。それはさておき、こういう独酌向きの孤独気分に浸りたくなるような酒場では肴はこまいにお新香だけあれば十分だと感じる感性が発露してしまうのです。実際には一人でなく連れがいたわけなので、気分だけでも独り酒の雰囲気を盛り立てたくなるのです。店の夫婦は一言も発せずいい感じだったのですが、勘定の際に急に堰を切ったようにお喋りを始めてくれまして、ローリングストーンズだったか、いや違うなあ、とにかく外国人音楽グループのギタリストだかベーシストのサインなどを示しつつ、大いに語ってくれるのでした。客の様子を見ながら気分を上げてくれたりそっとしておいてくれたりとそうした気遣いが愛される由縁なのでしょうね。
2020/11/06
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根津には気になる酒場が少なくないけれど、どこかに狙いを定めて訪れると大概の場合、肩透かしを食らわされることになります。この夜は、以前から目を付けていた「やきとり 丸井」、「ちくま川」と立て続けに振られてしまいました。前者は予め貼り紙で休みが告知されていたから仕方ないけれど、後者に関しては店は開いていて何名かお客さんがいるにも関わらず、女将さんらしき方からごにょごにょといった感じで、今晩はちょっととあっさりと断られてしまうのでありました。根津ではそれ以外でも狭い店が多いからしょうがないけれど、満席で入れなかったりすることもよくあって、どうも相性が良くないと思ってしまうのです。でも思い返してみるとぼくのホントに若い頃は、個人店、チェーン店に関わりなくどこもかしこも満席ばかりで、空き席を求めて夜の町を彷徨うなんてことが少なくなかったようにも思えるのです。特に都心部の盛り場は混み合っていたような気もするし、逆に酒場の過疎地にある店なども酒場難民である客たちで賑わったものであります。 とまあ話が脱線してしまいましたが、ならばちょいと敷居は高いお店らしいけれど、いかにも根津らしい住宅が大半を占める路地裏のしっとりとしたお店「おお多」にお邪魔してみることにしたのでありました。根津にはちょっとだけ気になるけれど、財布のことを心配してしまいついつい敬遠してしまうお店が少なくないのですが、近頃は無暗矢鱈にハシゴし歩くことも自粛気味であるからたまにはこういう店を選択するという余裕もあるのでした。小ぢんまりした外観のお店ですが、店内はその想像よりもさらに狭い造りでした。久々のO氏との呑みなので卓席に腰を下ろそうとしましたが、空調の効き目を考慮してカウンター席に通していただきました。初老というにはやや早いご夫婦でやっておられるようで、お二方とも柔和で特に旦那さんはお喋りもお好きなようです。さてと品書きを眺めるとなるほど確かになかなか強気の値段であります。ならば質素に肴は焼売とゴボウ唐揚とし、酒もグラスの生ビールと芋焼酎をロックで2杯でお終いとすることにしたのであります。O氏とはその辺に関してはツーカーなので瞬時に戦略は決するのです。そんなにも質素に構えてですよ、お勘定は想定の2倍弱というのはいかにもおかしくはないかい。さすがにこれしか頼まないとなれば十円単位まで勘定の計算ができてしまうのに、あえてこの強気の勘定書きを出すというのは料理にそれだけの自信をお持ちなのだろうが、いやいや実に普通なのだ。旨からず不味からずだからまあ値段を無視すれば文句はないけれど、値段が値段だから愚痴りたくもなるのだ。っていくら小遣いに余裕が出たってケチ臭さは少しも変わらぬのでありました。
2020/09/28
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ここもまた自粛生活の解禁後に訪れてみようと、店の再開を心待ちにしていた一軒であります。僅かに3ヶ月程度、人生にとってはほんのひと時のことと仰る方もいるけれど、本当にそれ程に短い期間だったろうか。人生が長くなってとりあえず80歳まで生きられたとして、そしてその間ずっと心身健康、食欲旺盛だったと仮定してみて、人生において3ヶ月を80年?(12ヶ月÷3ヶ月)=320となり、320回生きる事ができるのであります。この一回を失ったのは何という損失か。っていざ計算してみると案外大した事はないなあ。日曜日以外毎日呑み歩いていたとして、その一日だけは呑みに行けなかった位のものなのだなあ、と考えてみると長かったように思えた3ヶ月も何ほどのものでもなかったかのように思えるけれど、実感としては休肝日として年に何度か酒を抜くのとまとめて3ケ月禁酒するのとでは大きな差異があるのです。 それはともかくとして、久々に訪れた「ル・マルカッサン(Le Marcassin)」は少しも変わっていないのです。あっ、いや店内は多少パテーションで仕切られて若干の席数減少はあったけれど、さしたる差異とは感じられずむしろ程よい席間がむしろ居心地よく感じられるのです。シェフは一人ですべてをこなしているのだからせいぜい予約できっちり管理しても2回転がやっとだというし、かつてはフルで2回転をやっていたというけれど、今ではとても無理とのこと。彼は昨年頃からちょっと体を壊したようで、禁酒を含めたダイエットを継続中とのことでありまして見習うべき根性ですが、ぼくにはまあ無理だろうなあ。緊急事態宣言発令中は、テイクアウトで料理を提供していたようですが、特にネットでの告知もせずに店頭の張り紙を見た近所の方たちが訪れてくれて、口コミで徐々に浸透していたといいます。よそのビストロでもテイクアウトが評判よかったようなので、続けてくれればいいと思います。予約が取れないことも多いしね。何よりワインなどの好みの酒が安く呑めるのはとてもポイントが高いのです。でもでもですね、ケチなぼくでも言わせてもらいますが、やはり外食というのはとても楽しいものなのです。自宅で美味しいものを作って呑むのもいいけれど、外食にはそれとは違ったワクワク感があることを改めて得心するに至ったのでした。アミューズはいつもと変わらぬリエットを塗ったバゲット、オードブルには白身魚のカルパッチョ、メインは鴨のコンフィ、そしてデゼールがヌガーグラッセという定番ですが、これがまあ楽しくてペロリと平らげてしまいました。欲をいうと以前のようにメニューの選択肢の幅をもう少しだけ広げてもらえると嬉しいのだけれど、余り贅沢はいいますまい。
2020/07/20
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江戸川橋駅の南東に地蔵通り商店街という下町っぽい商店街があって、入口のところに通りの名にするにしては、少し物足りないサイズのお地蔵さんが祀られています。この商店街は商店よりも飲食店が幅を利かせていて、その点でまずはぼく好みといえるだろう。そんな商店街のほぼ真ん中でありながら、そうは思えぬようなしょんぼりと寂しい様子で健気さすら感じさせる佇まいで、その筋に興味を抱く者は無視などできぬ古い中華飯店が存在するのです。そんなだから当然のことにぼくも以前から注目しておったわけです。注目していたならとっとと行っておくべきと思うのだけれど、今時350円のラーメンを食べさせてくれる、地方都市では稀にこの値段は見掛けるけれど、都心でもかなり中心に近いこの場所でこの価格はやはり驚愕なのであります。会津方面のチェーン店などまあ実はもっと安く食べられたりもするのだけれど、それを言ってしまってはお話として面白くならぬのです。「善の家」は、その筋の方にとってはきっと定番のお店のはずです。で町中華としての魅力に加えて、あると同時に価格面での魅力も備えているから、中休みを挟んでの夕方の部の開始と同時に駆け付けるべきと思っていたのです。だからそう思い込んでいたから仕事を終えると一目散に駆け付けるはずだったのだけれど、諸々の事由によりそうもいかなくなったのでした。それでも可能な限り急いで辿り着くと、通りからいかにも町中華然とした佇まいを愛でる暇ももどかしく店内に飛び込むのです。何度か店の前まで来ては営業時間を外していたのか、その度に未練たらしく店内を覗き込んだ印象では、カウンターだけの奥に深い造りと思い込んでいたのだけれど、実態はカウンター席が10席に満たぬ代わりに卓席が2つの極めてオーソドックスな構えでありまして、でもこれはこれで大好きなのでした。そして意表を突かれたけれど、先客はお一人だけです。安心して卓席を使わせて頂くことにしました。おお、確かに通常の品書き以外にサービス品としてのラーメン価格の記載もあります。でもそちらも気になるけれど、ここの素敵なのは酒の肴により相応しい品も充実していることです。町中華で呑むのは当然好きだし、どうも世間的にも流行りつつあるようだけれど、一つ難を挙げると単品の料理が餃子などの定番以外は概して高額である事です。餃子すら500円とかする場合もあるので、そうなるといわゆるセンベロなどはかなり至難という事になります。でもここの単品の値段ならセンベロも出来なくはなさそうです。まあ、そうはせぬのだけれどね。だってここは値段もそうだけれど何より居心地がいいのだ。先入観で混雑していて落ち着けぬと思い込んでいたものだから、こんなにゆったりできるとは大いにくつろがせて貰いました。それでも一つ難を挙げると、空調が効き過ぎでちょっとばかり暑かった事ですが、そんな事はさしたる瑕疵ではないのです。あゝ、近所にあれば良かったのになあ。
2020/04/02
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護国寺は、何もない町だなどと断言するのは、また余計な誤解を流布するようなもので、自重せねばならないなんて事は分かっているのです。でも穏便な表現っていうのは読み返すまでもなく弱々しすぎて、それで多少なりとも読んでもらえるような文章に仕立て上げるには相当な熟練の芸が求められるのだろうと思うのだ。と己の凡夫ブリを理由に何をか語らんやとなるのだけれど、護国寺を知ってる方ならぼくか語り出すのを待つまでもなく、護国寺の酒場過疎の現況に不満を並び立てようとしているとお考えになるかもしれません。それは当たってはいるけれど、反面としてそんな過疎地にあくまで酒場を求める事に楽しみを感じてもいるのです。そして実はまだ足を踏み入れておらぬ酒場が2軒、護国寺でもかなり侘しいと思われる場所に見出しておる訳で、訪れる機会を虎視眈々と狙っているのです。 とうい事で、護国寺を訪れることにしたのですが、この日の目当ては呑みではないのでした。いやまあ、ここで報告しているからには当然呑みはしますが、むしろランチついでに立ち寄ったのでありました。界隈には目を付けている蕎麦屋も2軒あるからどちらかに入れるだろうと高を括っていたのですが、ところが最初に立ち寄った「藪久」がお休みなのを知ると途端に不安になるのです。ここは日本女子大に至る坂道の途中の脇道にあってその孤立した雰囲気が以前から気になっていたのです。 さて、次がやってないとなると池袋もしくは江戸川橋方面に向かうしかないかと弱気心を出したもう一軒はさらに目立たぬ路地で目立たぬように営業している「松栄庵」だったのです。いやあ、助かるなあやっていてくれました。このそばに2軒の酒場もありますが、うち一軒、テイクアウトメインの焼鳥屋では仕込みの最中で、男性二人が串打ちに精を出しているのが見えました。で、まあそんな様子を眺めてやはり近いうちに来ることにしようなんて思いながら先述のとおり営業していることを確認したのでありました。こういう場所にあるお店で休日の日中ってお客はいるのだろうか、出前を主力としているんじゃないかなどと思って暖簾をくぐったのでした。表の枯れた感じから想像したのと違って店内は改装したのかすっきりと新しい雰囲気です。案外、店は奥に深くて汗ばむほどに温かかったから暖房代だけでも大変だろうなあなんて余計な心配をしてしまいます。案の定というのは失礼ですが、他にお客はいないようです。店のご夫婦が全戦力とお見受けするから出前に出ているということもなさそうです。席に着くと早速、熱燗を頼みます。カレーを見るとついつい頼みたくなるのですが、セットもあるのでたぬきそばをお願いします。しばらくすると工事現場の作業員たちが訪れました。なるほど確かに休みの日の町外れのお店ではそういう方たちを多く見掛けますね。休みだからと独りのんびり昼酒なんかしていて後ろめたい気分になります。カレーは普通においしく、そばはちょっと緩いけど出汁が辛目で好みでした。来るまではどんな店かとヒヤヒヤしもしたのですが、実際にはごく普通の蕎麦屋さんでした。
2020/03/14
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どうしたものかたまにビストロで美味しいものを食べながらゆっくりと過ごしたいなんて思うことがあるのです。別にどうしたものかなどともったいぶるようなことではないのですが、ここでフランス料理などという俗物的な食嗜好を公にするには毎度それなりの勇気ある決断を強いられているのです。いやなら黙って胸に仕舞っておけと言われればそれまでだけれど、まあ、日頃の酒場の肴が茶系統で華やぎに欠けることを思うと、たまにはカラフルな写真で彩りあるブログとしてみたくもなるのでした。ところで、標題に書きましたがこの夜はけっこう酷い雨が都内に潤いを与えていたわけですが、別に護国寺のこれからお邪魔するビストロに限ったことではなく、ビストロに行こうとする夜は大概雨が降っていたという記憶があります。きっちり調べてみたわけじゃないから単なる思い込みにすぎぬかもしれないけれど、どうもそんな気がします。雨による湿り気は下手な写真にも煌めきをもたらし美しく見せてくれるからそれはそれで構わぬのですが、外観写真は1枚のみだからさほど劇的な影響をもたらしてはくれぬのであります。ともあれぼくの大好きなビストロにお邪魔することにします。 お邪魔したのは、「ル・マルカッサン(Le Marcassin)」であります。もう何度かここでも報告しているので書き足すようなことはもはや何もないのでありますが、だからといって何も書かずに終えるのもあまりにも手抜きめいているから思いつくまま思い出すままに感想というか良き思い出となるよう書き残しておくことにします。食前酒にキールを頂きました。甘いお酒は余り好まぬぼくですが、たまには彩りの美しいお酒で気分を盛り上げるのも良いものです。先日の板橋のビストロとここを並べましたが、改めて内装を眺めてみるとちっとも赤を基調としてはおらず、木材の茶と漆喰の白をベースにしていましたね。ちょっと山小屋風の風趣を感じます。この雰囲気がぼくにはとても身体と精神に馴染むというか心地よく感じられるのです。この夜はクリスマスメニューを頂いたので隠しようもないのですが、正式なクリスマス前のとある夜だったわけです。なのにどうしたことでしょう、これまで経験したことがない位に空いていて貸し切りとまでは言わぬまでもいつも以上にリラックスして過ごすことができました。もちろん、ここは混雑していてもちゃんと寛げるようにゆったりとしたスペースとなっています。むしろほとんどのビストロでは空き過ぎていると、却って気を使って緊張してしまうものですが、こちらは長年お付き合いさせていただいているからそんな気遣いも無用なのです。オードブルの盛合わせは、いちいち書くのが面倒なのではしょらせていただきますが、店名にもなっている猪の肉のゼリー寄せがおいしかったなあ。メインでワインに移行。肉料理はどれも美味しいけれど、特にココットで供された鹿肉のポテトグラタンが楽しかったです。で、デザートのピスタチオクリームがたっぷり包み込まれたチョコレート風味のブッシュ ド ノエルがこのメニューの最高のお楽しみなのです。これを心行くまで堪能したいがために辛く苦しい大掃除を終えることができるのです。帰りに年男のシェフとお喋りしたのですが、最近腰の調子が良くないそうでダイエットに励んでみたり、1か月近く禁酒していたりと身につまされるようなことを仰ってました。気の毒だなあと他人事のように語ってはおられぬから、ぼくも今年は多少なりとも自重しないといかんなあ。って思ったその時に始められぬとは全く困ったものであります。
2020/01/24
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千石に町場の中華飯店があって、何度も振られてきました。何度も空振りするのに疲弊してもしや営業時間などの追加情報がありはしないかとチェックしてみると、うれしいことに日曜日にも営業していることが確認できたのです。まあ、情報なんていうのは生き物のようなものでありますから、その情報がぴちぴちの生きた情報である保障などどこにもないのですが、それでも徒手空拳にて現場に臨むよりはよほど頼りになって行動の後ろ盾ともなるものです。その中華飯店のあるのは、喫茶好きなら剽軽な絵柄のおっさんが大口開けたキャラクターがトレードマークとなっていることで馴染みのある「フェニックス」のすぐそばになります。中華飯店とは相いれぬ印象の青のテント看板が見えてくると動悸が高鳴るのを覚えます。果たしてやっているだろうか。遠目には営業しているかどうかを判別することは困難な程度に静まり返っているのでした。 しかし、ぼくの前方を歩く若い男女3名が「新華櫻」のガラス引き戸を開けて店内へと吸い込まれていくのを目にしてようやく一安心するに至るのでした。見方によっては味気ないことこの上ない無骨な位の外観を裏切るように、店内は控えめな照明の下に清潔に保たれつつも年期漂う枯れた空間が広がっていたのでした。中華飯店のギトギトした下品さすれすれのケバケバしさとは程遠い、静謐な寒色を基調とした内装には、空振りしても諦めずに訪れ続けて良かったと心底思うのでした。先に入ったお兄さんは古くから通い詰めているらしく、勝手知ったるように、一人ですべてをこなす店のオヤジさんをフォローしてあげているのです。何とも微笑ましい風景です。ついこの間も登場しましたが、またもワンタンメンを注文しました。オヤジさんが調理に入った頃に次々とお客さんが入店してこられました。お兄さんがお冷をサービスしてあげています。すると立て続けにワンタンメンの注文が入りました。なかなかの人気商品を引き当てたようです。出てきたそれは、ごくごくオーソドックスな安心のお味。こういうお店で奇を衒った料理を注文するのは通い詰めてからでいいのです。食後にはぼくも食器を片付けさせていただきました。こうした人のやさしさを感じられると自分まで優しい気持ちになれるものです。すがすがしく店を後にすることができました。
2019/12/11
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残りわずかとなったお楽しみの梵寿綱氏の建築作品巡りでありますが、それはともかくとして、その残滓を眺めに巣鴨を訪れたことはすでに報告させていただきました。あれだけの痕跡を眺めるためにわざわざ巣鴨までご苦労なことだと労われてしまうと少しばかり恐縮してしまうのであります。つまりは巣鴨はぼくの日ごろの行動範囲でありまして、そんなことはあえて断らずとも日頃このブログをご覧いただいてくださる方々にとっては自明なのであります。でもまあ少し寄り道したのは事実なのでありまして、石ころ一つ見ただけで満足するにはさすがに至らぬのでありました。でも、そうした回り道で拾い物をすることもあるのだから、何某かに突き動かされて行動するとたまには余禄がついてくることもあるということでしょうか。 その余禄とは、「ちくま軒」という中華飯店と遭遇したということで、声高にどうだ羨ましいだろうとまで言えるような御大層なことではないのかもしれないけれど、もはや新店の登場くらいしか楽しみは残されていないであろうと思っていた巣鴨で、このところ立て続けに当たりくじを引いているぼくとしては嬉々としてしまうのでありました。その割には出足が悪く、梵氏の石ころを眺めてから日が経ってから訪れたものだなと仰られると返す言葉がないのでありました。二の足を踏んだ理由ははっきりしていて、近頃、中華飯店や蕎麦屋で軽く呑むことがが多いことはお気づきでしょうが、こうした店で食事系の品を頼まぬのはやはり気が引けるのであります。つまりは炭水化物の摂取による肉体の肥大化に対してどうしても抗いたいという本能が働くのでありました。という割にはまだまだ中華飯店や蕎麦屋の登場が多いのは、確実に居酒屋よりもこれらの店舗の方にぼく好みの風雅なところが残存しているということに他ならないのです。さて、お店の造りはカウンター席のみのいたってシンプルなものです。両親に息子さんという面々に迎えられて、まずはお酒を頼むことにします。サワーを頼むとお茶割りはできるというので、お願いしました。炭酸入りより炭水化物をいただく際には負担が軽減できるんだよね。なんて思っていたら、お兄さんからお茶がなくって、レモンサワーならいけるんですがのお言葉が返ってきました。まあ、全然いいんだけどね。6Pチーズがサービスされました。こんななんてことないちょっとしたもので酒は十分おいしく呑めるんですよね。さて、近頃食べる機会が少なくなっていたワンタンメンを注文しました。ごくごくさっぱりとした普通の品です。こういうのが飽きなくていいんですね。勘定を済ませるとお兄さんからは「旦那さん、またいらしてください」だってさ。旦那さんなんて呼び掛けられたのは初めてのことで照れ臭くなるのです。ご両親からも丁寧な礼を言われて、とてもいい気分で店を後にするのでした。
2019/12/07
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駒込にはビストロを標榜する多くのお店があって、日頃はそうした店を通り過ぎても滅多に視線を送ることはありません。興味がないという訳ではありません。ご存知のようにフランス料理というかビストロ料理、本格的なフランス料理程の複雑な手順や規範に縛られてはおらぬし、あとはぼくのような素人料理人でもその気になればどうということも作れるフランス家庭料理でもないけれど、ビストロ料理はその中間のような位置にあるのです。だけれど、すっげー洗練されたプロ中のプロが拵える逸品ととファミリーシェフの作る料理の折衷かというと全く違っているわけでありまして、もはやビストロ料理はフランス料理とは別個もしくは派生した何物かのような料理なのではなかろうかと思うのです。とまあ、たまにはお手軽にビストロ気分を味わいたいということで、夜の駒込にやって来たのでした。夜の駒込にはしょっちゅう呑みに来ているし、駒込に多くのフレンチ系の料理屋があることも知ってはいたけれど、それを目的に足を向けたのは初めてかも。 しかもそのお店のシェフが女性と聞いていたから、興味はぐっと増すのであります。駒込のビストロも女性シェフのお店に来るのも初めてです。何事にも始めてはついて回ることだし、殊更に女性とか語っているとフェミニストたちにお叱りを受けそうだからその点にはあまり頓着せぬことにします。「ビストロ オララ(BISTRO O LALA!)」は、駒込駅を出て本郷通りを白山方面にずっと進んだところにあります。ちょうど六義園にへばりつくようにして立地しています。見た目にはビストロ的な要素は希薄で、むしろカジュアルなワインバーという雰囲気です。プレフィックスのメニューもあるけれど、アラカルトも豊富で他の2グループの方たちはアラカルトでよりカジュアルに利用されていました。が、せっかくなので気分を高めるためにわれわれはプレフィックスメニューで前菜、メイン等をセレクトすることになります。ここでわれわれと書いたけれどさしたる意味を持たぬので、ぼくと読み替えていただいて何ら支障はありません。さて、ぼくのような慎ましい人生を送る者にとっては、アラカルトであれこれ食べるのは居酒屋気分に陥りがちでちょっとした特別感、祝祭感を求めるならやはりプレフィックスのメニューが嬉しいと思えるのだから、これはぜひ他店もアラカルトメニューを用意すべきだと思うのです。きっとぼく以外にもプレフィックスとかをキーワードにしてググっている方も少なくなかろうと思うのです。単品だと一皿がこんなお値段なのかと引いてしまいそうになるところが、コースメニューになると財布のひもが緩む気がするからこれはぜひとも参考にしていただきたいのであります。さて、肝心の料理でありますが、うむむ悪くないのだけれど、風味がいささかに軽い気がする。軽い料理を求めての女性シェフではあったけれど―再度使用して済まぬことです―、いかにも軽すぎる気がするのです。それなりに美味しいし食後感もきつくなくてそれはいいのですが、フレンチ系料理の満足感というのが適当だろうか、それが希薄に過ぎるのです。アラカルトで頼むのにちょうど塩梅がいいというのが分かる気がするのです。それで何が困るかというと。。。 東池袋に移動して「BAR Too」に立ち寄ってしまうのですね。満足度が足りぬディナーを取った後には、ついいつもバーで杯を重ねてしまうのです。ここに通って10数年以上になるけれど、魔性のバーテンダーさん、ああここでも女性バーテンダーと紹介してしまうのだけれど、彼女の魅惑のカクテルについもう一杯となってしまうのです。彼女の味見の際のペロリがまたいいのですね。そんな感想を直接述べたとしても、クールな視線であっさりと交わされてしまうのがまたいいのです。近頃またぐんと毒舌の度合いが増しているのがまた楽しい。軽めのフレンチ後はここに来れると思うとそれもまた良しかな。
2019/04/19
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浅草の「アンヂェラス」が建物の老朽により3月17日に閉店なさると耳にしました。先日、駒込のアザレア通りの外れの酒場で呑んでいたら駒込在住のご常連たちが「アルプス洋菓子店」が今月10日をもって喫茶室の営業を終了したということを耳にしました。いつでも行ける場所でもあるし、六義園のそばで行楽客の休息場所としての地位も確立しているから安心と高をくくっていたのがまずかった。しかし、時すでに遅しということで、いかにも嘆いてばかりの無様な生き様そのままであります。生菓子の販売も同じ15日まで、つまりはこの報告が掲載されるまさに当日であり、この文章も急遽アップロードすることにしたのであります。というのが幸いにも3月14日、ホワイトデーの日に休暇をとっていたので勇んで出かけることにしたのでした。前日の夕方取り置きをお願いしようと電話したところ生菓子は午前中には売り切れてしまい、また予約も受け付けられぬとのことであります。 翌朝は開店30分前の9時30分を目標に家を出るつもりが少しもたついてしまい駒込駅の改札を抜けたのが9時40分でありました。目の前の本郷通りを渡ればすぐに「アルプス洋菓子店」であります。しかし、やはりというべきかそれでも予想をはるかに上回る行列をなしています。ざっと見積もって40~50名は並んでいるようです。この後は、ただひたすらに待つばかり。こういう風に行列に並ぶのなんて、かつて映画を見るために竹橋やら京橋のフィルムセンターばかりでなく都内各所で散々経験していますが、洋菓子のために列をなすとは思ってもいませんでした。ようやく店内に達すると、東郷青児の巨大な美少女像が迎えてくれます。喫茶室に伸びる瀟洒な階段もそのままでこれで本当に最後の訪問となるのが信じられぬ思いです。涙を流すほどには思い入れがありはしないものの胸を締め付けられるような気分に浸りながらも、生菓子が目の前で次々と売り切れになるのを平静を装いつつもそわそわして待つことになります。辛うじて、ラスト2個目の紅茶のケーキにラストのショートケーキ、そしてシュークリームを2個購入できました。目の前で最後のサバランを奪われたのには膝が崩れ落ちそうになります。ショーケースに残されたのはプリンにババロア位になっています。大好きなモカロールは成城の暖簾分け店舗で手に入るので、これからもその味は保たれていくのだと思いますが、今ではまったく縁を切ったとも聞きますので、その差異を確認しておくべきだったか。ともあれ、今日をもって1959年創業の老舗洋菓子店の生菓子は二度と食べられなくなるのはやはり寂しいことです。この報告がアップロードされるのが8時30分、最終日だからやはり混みあうのでしょうか。9時過ぎに辿り着ければギリギリ、老舗の最後の味に間に合うかもしれません。ぼくの後に並ばれた多くのお客さんたち、恨みっこなしでお願いします。 ここでの最後の買い物を終えたのは、11時40分でした。ここまで時間が掛かるとは思ってなかったなあ。腹も減ったし、長年おいしい洋菓子を提供してくれた老舗洋菓子店への感謝と自分への慰労もあったので、かねてから気になっていた寿司屋に足を伸ばすことにしました。六義園をわき目に本郷通りを都心に向かってしばらく行くと渋好みの佇まいの「櫻寿司」があります。数年越しで気になっていたのですが、ケチ臭い根性の持ち主たるぼくには寿司屋呑みは贅沢にすぎます。ここではランチサービスにちらし寿司800円があることを知っていたので―そして何度が土曜日の昼下がりに訪れていますが、何度か空振りしています―、この時間なら大丈夫と思いやってきました。おお、幸いにも暖簾が下がっています。何度も訪れて空振りしたのでネットで店内の写真など見ており、それが思ったよりずっとまともなので、徐々に興味が薄れていましたが、実際にそこに腰を下ろすといやいやかなりの老朽した様が実にいいのです。カウンターなどは傾いており、コップ酒は湯飲みなどで抑えぬと滑り落ちていきそうです。その湯飲みも橋縦で抑えたりしてとにかくこの安定感のなさが実に楽しい。ちらし寿司は安価ながら実に盛りだくさんの具材で賑やかしくて、そして、これがどれも魚介の味わいが強く実にうまい。シャリは酢がちょっと強く効いていて好みの分かれるところだけれどぼくは大いに満足しました。海藻が贅沢に入った味噌汁もこれだけで酒の肴になります。すっかり満足して、先ほどまでのしんみりとした気分も晴れやかになりました。 さて、浅草には足を伸ばせるかなあ。店名と同じ名を持つミニノエルのアンヂェラスの黒と白は必須だし、やはりここでもサバランならぬサバリンも食べておきたいなあ。
2019/03/15
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千石駅には何度となく映画を見に通ったものです。今は既に閉館した三百人劇場はレアなフィルムをどこからか調達して来て大体的な映画祭を幾度となく催したものです。巣鴨駅からの道中をせっせと歩いて、いつも遠いなあと溜息ついたものです。それが今では酒場を探訪して歩くのだから、当時のぼくが現在のぼくを見たらどう思っただろうか。この夜は以前千石の住宅街深く、もう少し行くと小石川後楽園に至る辺りなあった実に良い雰囲気の中華飯店の向かいにあった焼鳥店のことを不意に思い出して訪れるに至ったのでありますが、散々歩き回ったけれどどないしたことか一向に見当たらぬのであります。ドツボにハマらぬうちにこの状況からは抜け出さねばならぬと目抜き通りに出るのですがここらは劇場はなくなってもそれ以外はあまり変わらぬままであります。 ということでもう呑みたい気分は最高潮な達していたので、マンションのテナントのような無機質で味気のない印象のお店ですが入る事にしたのです。ここはきっとぼくなら選ばぬであろうというのが根拠というのはお店の方には失礼な言い様であります。しかし、これは後になって知る事でありますが、実は以前お邪魔していたようなのです。今となってはどうしてお邪魔したかは推測の域をでぬのでありますが、きっと今回と同じ理由だったのだろうと愚考するのです。「味道」はそんな印象の薄いお店だから、逆説的に覚えていても不思議ではなかろうと思うのですが、もっと存在感の希薄な店だって幾らもあるからいちいち覚えてはいられぬのです。こういう店ですがメインに扱うのは中華料理です。店内が脂っこいのも悩ましいものですが、余りにも清潔なのもお客さんがいるのかと不安になるものです。いたのは高齢のご夫婦のみ。彼らも今しも帰らんとしている風に見えるのです。しかし、それでもなかなか帰らぬのが老人というもの。迷った挙げ句に残りを土産にしたいと店の方に頼んでいます。翌朝のおかずにするのかなあ。こういうの食中毒がどうのと厳しい事を言う風潮もありますが、それ位は自己責任という事で認めても構わぬのではないか。ぼくは餃子とヨダレ鶏で良かったかな、前者は普通だけど後者は味もボリュームも申し分ない。申し分ないってぼくでもこの位なら再現は可能でありますが、この頃に高値だったキュウリもそれなりに贅沢に使っているのは天晴なのです。しかし、独りになると途端に店の空気が重くなります。やがていたたまれなくり席を立つに至ったのであります。 さて、いかにも呑み足りぬから「はち八 千石店」に立ち寄ることにしました。見た目はどうでもない居酒屋であります。屋号に見覚えがあるからきっと何回かどこかしらで呑んでいるはずです。と手元にメモがないことをいいことに適当に誤魔化そうと思ったけれど、それじゃ余りにも誠意にもとる。というわけでわざわざネットで再確認こそせぬけれど、メモがある店舗を列挙します。大塚本店、駒込店、巣鴨店、川崎モアーズ店にここ千石店の計5店舗があるようです。前の2軒にはすでにお邪魔しているようです。巣鴨店もあったんですね。そっちの方が便利だから今度行ってみようかな。さて、カウンター席に腰を落ち着けお手頃なハイボールを頂くことにしました。おでんなどたこ焼以外の肴もなかなかの品揃えで気になるところですが、やはりここではたこ焼は外せないでしょう。ここのたこ焼は熟し過ぎた柿のようなぐちょぐちょタイプで、これは好みというのがかなり分かれるところでありましょうが、ぼくは大いに好みとするところです。でろんとだらしなく流れ出るどろどろを箸でなめていればそれで肴になるのです。さっくりとしたのはどうも駄菓子っぽく思えてあんまり好まぬところです。お通しに粉吹き芋とキャベツの塩昆布をまぶしたものも手軽だけど美味しいし、この日はたこの唐揚げもあってこれもいい。やはりこうした店だからか保護者付の子供たちのグループなんてのもいたりして、奴らのコメントがいちいち小憎らしくて微笑ましいのです。店の主人も物静かでいいなあ。どうにも行き場に迷う町にこういう酒場があるのはホントに助かります。
2019/02/08
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せっかく書き上げていたのにうっかりとすべて消去してしまったようです。改めて文章を書きなおすというのはとんでもなく虚しいものです。よく小説家や漫画家なんかの自伝的なものを読むと、こういう逸話がたびたび登場するものですが、いやはや彼らは実に性根が座っています。性根が腐っているぼくのようなだらしない人間にはとてつもない苦行としか思えない。しかも珍しいことにシェフの手書きメニューをせっせと下記写し、メモまでしていたのだからその喪失感は計り知れぬものがあるのです。この日は、年末のやるべきことをやえてホッとひと安心した開放感に満たされたうきうきした気分で目白台の退屈な夜道を歩いて店に向かったのでした。これから向かうお店のシェフは店名からも察せられるように亥年生まれで、タイトルは年男としたけれどそれは今現在の話であって、ここを訪れた時はまだ世の中は申年でありました。ここの年末恒例のクリスマスメニューを食するためにありとあらゆる雑事に始末をつけての食事であったため、気分爽快、呑む気まんまんという浮かれムードであったのです。その浮かれ過ぎがこうした結果を招いたとすると己の不覚に嘆きは昂じるばかりでありますが、やってしまったことは致し方ない。「ル・マルカッサン(Le Marcassin)」のシェフはいつものようににこやかな笑顔でお迎えくださった。と書きたいところだが、どうも体調が思わしくないようです。というかあれだけ激しくせき込んでいるところを見ると、このクリスマス期間を乗り切れるか心配になるほどであります。それでもシャンパンをちびちびやりながら声を掛けると、笑顔を浮かべて今年は辛いですよ、若い頃は2回転をフルでこなせたもんだけど今じゃあ空席のある程度で目一杯ですよ。われわれは客の入替えの合間に旨く当て込んでもらえたようです。お陰様でこのお店ではついぞ目にしたことのない自分たち以外に誰もいない状況を享受できたのであります。これは極めて稀有な事態でありこれだけとってみても希少価値の高い経験をしたと思えます。料理は普段のプレフィックスメニューの盛合せと思えばそれまでだけれど、あれこれ迷わず目移りせずににいただけるのは非常にありがたいことです。 さて、この期間限定のお愉しみがもう一つあります。クリスマスらしくブッシュ ド ノエルが供されるのでありますが、これでもかとふんだんかつ贅沢にピスタチオクリームが使われていて、もう匙を振るう手の休まらぬ程の旨さなのであります。昔であれば〆にフロマージュ(チーズのことでありますね)などを盛合せてもらって、しつこく呑み続けたものですが今ではそんなことをすると胃がもたれて大変です。シェフと変わんないなあ。大人しく程よく寒い夜道を腹ごなしで歩いてから、自宅でのんびり呑むというのもオツなものです。来年もまた訪れることができるだろうか。ぜひ、そうしたいものです。
2019/02/06
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新大塚駅の周辺はおハイソな人たちの住まう文京区のお屋敷街というのが専らのイメージで、その点を鑑みてもJRの大塚駅界隈よりずっと品がいいのであります。いくら利便性が良くても23区という各区のもたらすイメージには厳然たるヒエラルキーが存在するのだ。それを即時にいい町であるかつまらん町であるかの判断基準にしてしまうのは早計であるとの誹りを免れるはずもないのであるけれど、わが人生もとうに折返し地点に立っていることを認識せぬ身としては、老い先短い余生をどうしても有効に活用せねばならぬという思いに捕らわれるのであります。わざわざ新大塚まで出向いて後に空振りというのは極力避けねばならないのです。そんな無駄打ちを排するためにはどう振る舞うべきであろうか。言うまでもなく事前の調査を止むことなく継続し、いつ如何なる状況下に置かれようとも対応可能という体制を確保すればいいのであります。だけど言うは易しの言葉を持ち出すまでもないけれどこれがなかなかに大変なのであります。信用が置けるブログ書きの方がいればそれに追従するのが最も手っ取り早い訳なのですが、彼らの行動範囲はぼくのような横着な人間から見るとアグレッシブに過ぎるのです。仕事を片付けた後にヤレヤレと職場を出てわざわざ回り道をして呑みに行く気概などとうに失ってしまって久しいのです。いやまあ、翌日が休みだったりすればそれなりに遠出することもあったりするけれど、それじゃあ翌日が休みでない大部分の夜はいかに過ごすべきか。しかも調べを付けた駅ですんなり下車するかというとそれむしろ稀なことで、電車に乗ると気が大きくなるのかそれとも混雑にウンザリしてということもあったりして、想定外の駅にて下車することしばしなのであります。それじゃあ事前の調べも無意味であります。この夜も不意に大塚駅で下車したはいいけれど、あてどなく夜道を歩くうちに新大塚駅さえ通過してこのまま行くと護国寺駅か江戸川橋駅に行き着くことになりそうです。それではいつまで経っても埒があかぬとさすがに思い始めたところに何だかとてもいい感じの蕎麦屋があったので、迷わず飛び込むことにしました。「浅野屋」には、大正8年創業との看板があります。これはなかなかの老舗だのおと早くも名店の予感がします。古けりゃ良いってもんではないし、歴史があってもその痕跡すら微塵も感じられぬ事がままありますが、そんな実体の伴わぬ年季など高邁を喧伝しているようにしか思えません。ともかく店内へと足を踏み入れます。いやあ、いいですねえ、老舗という気負いもなく町場の蕎麦屋らしい少しも気取ったところのないところがしみじみ落ち着きます。おお、ビール中瓶が400円とは手頃であることよ。酒肴も手頃な価格帯に揃っているしこれは言う事がないですねえ。よく見るともりが380円とやはり安いけれど、ひとくちそばやうどんが100円なんてのもありますね。でもこの夜の気分はカレーライスでありました。オヤジさんが手早くちゃちゃっと仕上げられるそれはいかにもな蕎麦屋のカレーであります。例の黄色いカレーの可憐さとはまた違ったカレーフレークのそれではなかろうか。ぼくもカレーフレークを愛用し始めて久しいけれど、これがしみじみと美味いのであります。でも、この手軽な家庭の味がいかに旨いといえど、熟練の技によるこの黄色いS&Bのカレー粉によると思われる黄色いカレーの味わいには遠く及ばぬのであります。どこぞやのHPで黄色いカレーの秘密に迫るという記事があって、それを眺めるとカレー粉をラードにて炒める加減次第であの鮮やかな色彩が出現するということで、なかなか家庭で真似ることは難しそうであります。だからぼくはこうしたカレーの自作は諦めています。いや、やればやれるけれど、自宅の冷凍庫にラードを保存するゆとりはないのです。しかも自宅からそう遠くない場所にこうしたお店があって、しかも酒場利用も可能であることを知ってしまった以上はわざわざ自ら模倣することもなくなったのであります。でも次行った時には、う~ん、食べたい品が多くて再びカレーライスを注文するのは随分先のことになりそうです。 勢いに乗じて、以前から目を付けていた「居酒屋 でんでん太鼓」に立ち寄ることにしました。こちらは何が気になるかって表通りから奥まった路地にひっそりとあるのがとても気になります。ぼくのように落ち着きなくきょろきょろと視線を巡らしていれば見出すこともさほど難しくはありませんが、背筋をしゃんと伸ばして颯爽と町を闊歩するような方の視界に収まることはなさそうです。そんな裏通りのしかも背後には護国寺が控えているという少しミステリアスな立地。切り立った崖地と書くと大袈裟に過ぎるけれど、店の裏手は急な坂が忍んでいるのです。ここは今は墓地になっているようだけれど、かつては沼地だったのかしら。落ち込んだら抜けられぬような深みを感じる場所であります。と不気味なイメージを喚起しておいてなんですが、店は至って明朗なお店でありました。お客さんたちも顔見知りばかりで和気藹々。そんなところに一見のぼくがお邪魔して、店の片隅の席に着いてしまうと必然彼らの会話などを聞くともなしに聞く羽目になる。すると和気藹々と思えた彼らにもそう一筋縄ではいかぬ事情が隠されていることを知ることになるのです。この地のようにまさに天国と地獄の落差を知るにつけ、人生ままならぬものだともっともらしく聞き入るのだけれど、酒の肴に甘い物はありとしても甘い話、特にのろけたお話はごめんです。肴は独りにはちょっと多いけれど、なかなかに手が込んでいます。気になったのはお勘定に手心が加わっていたこと。ぼくのようなケチな人間に不信を残さぬように会計も明朗であってほしいものであります。
2019/01/17
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江戸川橋は昔通勤でしょっちゅう歩いた町ですが、呑みに通いだしたのはそう以前の事ではありません。しかしそんな昔から時折通りがかってはここは一体どういう店なのだろうと遠目に眺めては遣り過ごしていた酒場があります。江戸川橋駅を出て、どこか懐かしさを感じさせる商店街には背を向けて、神田川を渡り、まっすぐ進むと鳩山会館、左方向の目白通りに進めば田中角栄私邸があるというそんなおハイソなお屋敷街のお膝元、いや橋を渡ってすぐの江戸川公園の公衆便所の向こう側にその酒場はひっそりとたたずんでいるのでありました。ひっそりというのは文章的な比喩ということでもなく実際に静まり返った暗がりの中に、まるで見てはならないものを目にしてしまったような衝撃を何度受けたことでしょう。そして、そこは決まって閉まっている。ここを知って以来、どうしたものか一度たりとて営業しているのを目撃したことがないのでありました。そのやってなさそうなのに、一向に取り壊されもせずに残し置かれていることに驚かされるのです。 しかしもうやってないものと諦念すら失いながら店の前を通ってみると、何たることか店のサッシ戸からは灯りが漏れており、客らしき人影がしっかりと映し出されているではないか。その薄っぺらいトーチカのような不躾な構えに、知り合いの娘は便所みたいと語ったものですが、そんな失礼なことを言うな、江戸川公園の公衆便所の方がずっと装飾的であるぞと叱責してしまった。この潔いまでに装飾を排した建屋だからこそ「酒処 良太郎」の文字が強烈な印象で視界を奪うのでありましょう。無論吸い寄せられるように、そしてこれが夢ではなかろうかという朦朧たる気分のままに戸をあっけなく開け放ってしまったのでした。そこはちょうど公園にある公衆便所位の狭いお店で、当然カウンター席のみで8脚位丸椅子が置かれていただろうか。決まってメニューは特になくて、驚いたことに案外若々しい店主は、しっかり召し上がるかいとお尋ねになるけれど、胸が一杯なので、肴は少しでいいとお答えするのでした。ドア窓から黒い影をのぞかせていた先客はパイプをくゆらせ何やら講談社当たりの文化人などが集いそうな雰囲気であります。酒は店主がその日その日で見繕っているらしく何が呑めるかはその日のお愉しみということでありました。営業時間が少し遅めの19時からであるとのことで仕舞いはお客さん次第で遅くなることもしばしばだけれど、大体0時位までということでした。この微妙に遅めの開店時間帯もこれまでフラれ続けた要因らしい。さらには営業日が週3日だけだという。やってる曜日は敢えて記さぬこととします。だってこれまで何度となく訪れて泣く泣く退散しなくてはならなかった自分が余りに気の毒だから、多少これから訪れようとする人にも苦労してもらわねばという意地悪な気持ちを抱いたって無理はないと思うのですが、いかがでしょう。ここでこの店を始めて20年ということですが、それ以上の歴史の重みを感じるこれぞ酒場というお店でした。
2018/12/28
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いつもはケチな事ばかり言っていて、大人とも思えぬようないじましき姿を恥ずかしげもなく晒していますが、それを少しも恥じておらぬと思われるのはいかにも口惜しい事に思われるのです。ぼくがちょっとだけ背伸びして気の利いた良い酒場で呑もうということになると、まず念頭に浮かぶのが湯島なのであります。都内には他に良い呑み屋街はあるけれど、どうも勝手を弁えた町ということでは湯島を選択してしまいます。銀座でも麻布なんかでもいいのでしょうが、行くのも帰りもちょっとばかり面倒で躊躇してしまうし、どうも勝手が分からず気遅れしてしまうのです。それはともかくとしてこの夜は豪勢に夜の湯島を流離う呑兵衛となったのであります。 普段のぼくなら見向きもしないどころか、存在そのものが視界に入り込む余地はなかったであろうと思うのです。なんてことのない店構えではありますが、改めて眺めるとさすがに品が良さそうに思えるのです。いや、それはすでにこの店のあれやこれやを知ってしまったからそう思ったに違いなさそうだから、当時の記憶などもはや取り戻しようがないのです。店の戸に手を掛けた瞬間のトキメキは今ではもう大分枯れ果ててしまったけれど、今でもそれこそが酒場巡りの最大のヤマ場であることは代わりありません。「割烹 三福」なる敷居の高さと気楽さを兼ね備えた店名を脳裏に浮かべつつ戸を開けたはずです。その時点でぼくのこの酒場に対する愉しみの半分近くは消し飛んだのであります。いや、大変に綺麗ですっきりと落ち着いた仕上がりの内装は、大恩のある方だったり賓客をもてなすに充分なお店であると思うのだ。しかし、基本的にここはぼくにとっては酒場というよりは接待の場という印象が強いのであります。しかし、それも酒が入れば自然とない混ぜになるものです。ぼくがこうした上等のお店でいつも気づまりしてしまうのは、ひとえに支払いに対する緊張感と吝嗇故にリラックスして呑めぬと同時に酒の量もつい控え目になるからなのです。だかこういう店には太っ腹な大物と同行するのが大正解なのであります。人の金で呑む酒は旨くないと語る方がいて、それはそれで大変ご立派であると思うが、小心なのに図々しいぼくは仮に奢られたとしても酒はあくまでま酒と割り切れるのです。この夜もまさにそうなのでした。いきなりの清酒はぼくにはかなり奇特なパターンで、選択の幅がなくそして値段も最も安い場合の多い大衆食堂での呑みなどが例外としてある程度であります。日本酒というものは、時と状況次第でいくらでも値幅が変動するらしい。まあ、そこには質とか味わいやら香りなどの要素も作用するのは勿論だけれど、酒呑みにとって酒の貴賓などあってはならぬのだ。盛り合わせてもらった定番の大皿料理の数々が良いのですよ。旨い以外の言葉は無用でしょう。見た目は大分違うけれどお節を頂いている気分になります。主人も良くできた方だし、それをフォローする女性もとても気配りができる。何だ、やっぱりいいんじゃないか。たまには自腹でこうした居酒屋でゆっくりと呑みたいなあ。
2018/10/02
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知らぬ間に駒込に新たな酒場がオープンしていたようだから、久しぶりに行ってみることにしました。この日は、仲良しのオッチャンと一緒です。この方はそれなりに呑むけれど余り摘まぬタイプの呑兵衛であります。ある年齢になると食が落ちる、というよりも食べようと思えばまだ食えるけど、溜まった胃がプクリと膨れてズボンが苦しくなるのです。若い頃はこの膨れ上がった胃を筋力で抑え込めていたということだろうか。いい加減になって立ち上がると、ベルトで堰き止めていた酒や肴が一挙に腸へと移動して急速にアルコールが血管を巡り酔いが回り、水分は尿意を催させ、空になった胃は食事を求める。実際にそんなことになっているかどうかは知らぬけれど、そう体感されるのです。って話が脱線するにも程がある。とまあ、食の細い二人で呑みに行ったということを言いたいだけで、それなのにもつ焼屋から寿司屋にハシゴするというのは、かなりの無茶振りな気もするけれど、それが意に反してなかなか好首尾な結果となったのでした。「もつ焼 でんじろう」には数年ぶりのお邪魔です。本当は、新店舗にお邪魔するつもりだったのが、この日は定休だったようです。「多満×猟師工房」という不可思議な店名のお店だったはずです。それにしても予定が狂ってしまったなあということで、同行者がいるものだから余り引っ張り回すわけにもいかず、仕方なしにお邪魔することにしたのでありました。こちらのお店、けして悪くないという印象なのですが、いつも空席が目立つのでつい素通りしてしまいます。カウンター席に通されました。老人グループが目につきます。その後も訪れるのは老人たちばかりです。どういうことなのだろう。その理由は、最後まで合点のいく回答を得ることはなかったのですが、仮説を立てることはできました。その仮説については、証明困難であることと場合によっては店の方を傷付けかねぬことから沈黙を守ることにします。さて、フロアー担当のお姉さんに生ホッピーを注文します。こちらにも生ホッピーがあったんですねえ。生ホッピーだからと興奮する程初心ではないけれど、まああったら一応頼んでみたくなるのです。こちらのは冷えてないジョッキに冷えてなさそうな焼酎を注いだものにサーバからホッピー液を注ぐ式ですね。まあ、三冷だからってそうなんだと思う程度の思い入れなので、そういうことだと報告したまでです。定番のもつ焼と初めてのにんにくすじ煮込を注文。少しばかり塩辛いけれどやはりなかなかのお味であります。しかし、厨房の若い方が少しばかり無礼ではないか。どこがどう無礼とは詳らかにせぬつもりですが、温厚なぼくでも少なからずむっとしたのです。その言い種がぼくをして怒らしむのであります。これがなければもう少しマメに通うのだけれどなあ。 かねてより手頃で安心して居酒屋使いも可能であると聞いてはいたけれど、目の当たりにすると途端に怯むのが寿司屋であります。ぼくだってウニだってホヤだって大好きな寿司っ喰いではあるのだけれど、量はいらんのだ。魚介の油は身体にいいとか言うけれど、その油がぼくのひ弱な身体に及ぼす影響は肉よりずっと強烈なのです。「魚がし寿司」にお邪魔しました。気軽そうな店内が噂に聞く通りでこれなら安心安全と思うのだけれど、でもそれでも一人じゃ来ないだろうなあ。持論は急転してしまうのであるけれど、これは金のあるなしではなさそうだ。ここはやはり飯を喰らう場所なのであって酒を飲む場所ではないのだろうなあ。玉子焼に鉄火巻、それにぼくのリクエストのかんぴょう巻、これでいいのだ。いやこれがいいのだ、と泉昌之ごっこをしてみるのだが、実際、甘じょっぱい干瓢の旨さにハマっているのだ。何なら干瓢ときゅうりの巻物があればずっと呑めてしまうに違いない。生臭物がなくても酒は呑めるし、もしかすると日本酒は、植物性の肴とこそ相性がいいんじゃないのか。山菜とかで呑む日本酒の旨さは格別に思えるのです。などと日頃もつ焼ばかりを食らっておきながら、草食系を装ってみても嘘臭いしちゃんちゃらおかしいのです。で、折衷案は海苔巻にするのだ。海苔の風味で赤身鮪のツンとした臭気を鎮めるのはとても凄いアイデアではなかろうか。ともかく巻物は貧乏臭いイメージがありますが、酒の肴として立派な一品となり得る事を強く訴えたいのです。しかし、ここのフロアー担当のお姉さん達は貧乏客には容赦ないねえ。ぼくは平気だったけど同行者は怯えてました。
2018/09/27
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田端駅の西口改札を抜けて、たまには坂の上に行ってみようという気紛れをしてしまうのは、坂の向こうには何か素敵な何かが待ち受けていてはくれはしまいかという淡い期待を性懲りもなく捨て去れずにいるからなのであります。淡い期待などという半端な思い入れでは、坂道のもたらすかったるさにすぐに呑み込まれるのがオチなのであります。淡い期待は時に坂道を行く意思を鞭打ってくれはするし、そこが絶望的に退屈だったとしてもそんな期待なんてしていたことなどは忘れてしまっているから、さしたるダメージは残らぬのであります。まあ田端だからね、過度な期待はハナから抱いてなどいなかったと早々に気持ちを切り替えられるというものです。だからとにかく見知らぬ店に焦がれるぼくの感情さえ鎮められれば御の字なのだから、まずは坂を上るというのも時間のない時の酒場巡りには有効かもしれません。 上段の文章は、ぼくの分身が書いたものであろうから、全くの責任がないとは言い切れぬのですが、やはり酔っ払いのやらかした事に素直に向き合っていては身が持ちません。気になる中華飯店があります。この通りは何度も通っているのに何故見逃していたかなどという野暮な疑問は抱かぬに限ります。得てして人の視界に映り込むのは世界のほんの一部に過ぎぬ、そんなものなのです。しかしそちらは店主の体調不良とかでしばし休業とのこと。通りの向こうに「四川料理 中華美食府」という中国料理店があるので、そちらに立ち寄ることにしました。入ってすぐに失敗したなあと思うのは、十名ほどの団体二組が大いに盛り上がっていたからです。中国料理店ってこういう団体客で呑み会が行われている事って多いから、要注意なのですよね。しかも表からはそれに気付きにくくて、店に入ってもパーティションの死角に阻まれて、席に着いてようやく状況を把握するという事があります。まさにこの夜がそうした状況下でありました。初めは奇異な視線をチラチラ感じるけれど、これが鬱陶しい。しかし考えようによっては、団体客というのは、自分達のことにしか興味がないから、すぐにも独りきりのオッサンになど興味を失うのであります。さて、メニューを眺めるけれどホッピーは決まっても肴はピンと来ない。単品の品は独りでは持て余しそうです。近頃は小皿料理を揃える店の増えたけれど、このお店は場所柄もあってか団体客が多くて、大皿の提供をメインにするのが理に適っているのでしょう。酒を呑んで気も声も大きくなった連中の会話につい耳を傾けます。話題は退屈だけれど、時にはクスリとさせられたりもして、この環境に馴染むと案外に楽しめるものです。 見慣れぬこぢんまりした酒場があるので寄ってみました。「らきいたろう」という欠体な店名のお店です。ラッキーな太郎さんのお店なのだろうか。店内はカジュアルなバーみたいな雰囲気で、ぼくの好みではないけれど、田端では店の雰囲気を選り好みなどする余地はないのです。四十歳前後と思しき男前が出迎えてくれました。毎日のように買い物帰りに立ち寄る若い男性は一杯だけを二、三度繰り返して名残惜しそうに帰っていきました。太田和彦氏の記すところの大阪の老舗バーのような呑み方で、ちょっと粋なものだと思って眺めました。いずれぼくにはそんな半端な呑み方では、自宅で呑み過ぎる羽目に陥るのがオチです。一人サイズの軽い刺身があるのはイイなあ。刺身は嫌いじゃないけど、そうたくさんあっても持て余すばかりです。乾き物だけというのは角打ちでもなければ安直過ぎるけれど、もともとが酒場というくらいだから店に入ってお新香とかカマボコ程度しかないからと目くじら立てるのは、元来みっともない話なのであります。時折、肴がなかったり、売り切れていたりして激怒する御仁を見掛けたりするけれど、それは見苦しい振舞いなのではないだろうか。無論、ぼくは冷奴しかないからといって、そんなことで店の方を責めたりはしない紳士なのであります。というか、ハシゴの過程だとむしろ有難いとすら感じる場合もあるのです。ともあれ、カジュアルなムードなので若い店主がタメ口を叩くようなウザったい店かと、気持ちがささくれ立つのでありますが、そんな心配など無用で帰りには丁寧な口調でよろしければまたお越しくださいと見送ってくれて、当り前っていえばその通りだけれど妙に馴れ馴れしい店主の多い昨今ではとても良い印象を抱かせてくれました。
2018/09/18
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酒場放浪記が先般湯島の酒場を取り上げてしまった。しまったとは、なにやら不穏な物言いであるが、実はその通りなのであります。湯島が代表的な町とは言わぬけれど、下町にありそうな安酒場を目下の主戦場とするぼくのような生き方を選択せざるを得ない者にとってみれば、湯島はやはり敷居の高い町なのであります。町に個性があるのは構わないけれど、呑み食いが中心の町で敷居が高いのは適わぬのであります。麻布とか青山とか銀座なんかもそうだろうけど、飲食店が町の主力商品でない町であれば、ハナから近付かなければ良いだけの話なのです。仮に訪れるとしてもここぞと決めた店めがけて一目散に駆け寄って、できれば早々に身を引きたいものであります。ヒットアンドアウェイの精神を保てさえすれば、そうした町であれば稀に立ち向かうことも厭わぬのであります。ところが、湯島というのは大歓楽街の上野と地続きの癖に、そしてその境界は不分明である癖に唐突に湯島であることを主張し始める酒場があったりするのが性質が悪い。湯島を名乗りさえすれば途端に店の格を挙げてもいいと思っている節すら感じてしまうのだ。 そんなのは先入観に過ぎぬのかもしれぬ。改めて歩いてみると「珈琲のお店 サンクレスト」や「Build Port」なんていう気軽そうな喫茶店もあったりするじゃないか。それにしても毎度毎度迂闊なことにこれらを見逃していたのだから、もしかすると東京にはまだまだ見逃した酒場があるのではなかろうかと思ってしまうのであるけれど、取り急ぎ酒場放浪記で放映されたらしいお店へと向かうことにします。 ほらみたことか、湯島にこんな路地があったなんて気付いてもいなかったじゃないか。いや、気付いていたかもしれぬけれど、湯島のような艶っぽい町で路地裏になど踏み入ろうものなら身ぐるみ剥され、素裸で町に放り出されるかもしれぬ。などということは思っていないけれど、他の町なら必ずや確認せずにはおかれぬ、ビルとビルの谷間の路地の一軒や酒場であるけれど、湯島の場合は小粋な料亭や己の価値を実際よりずっと高く評価しているような花柳界上りの元芸者がやっているようなお店とかが咄嗟に想起されるのであります。決まって飾られるプロマイド写真などをあからさまに晒しながら、あらこれ私の若い頃なのよとさも自慢げに語られたことが何度もあったけれど、現在の審美基準から計るとけして美しくもないことがほとんどなのであります。「ふくろう亭」もそんな酒場と覚悟して訪れて、その予想は半分当たっていて、半分は予期せぬものだったのでした。主人らは腕に覚え有という風の気取った寡黙さが逆に鼻につく印象でありましたが(ここまでは予想通り)、女将さんらしき方は少しとぼけたユーモラスな方で、少しも気取ったところがなく大らかな方でありました。店は小料理屋とか呼ぶにはちょっとばかり雑然としていて、それは必ずしも店名となっているふくろうの置物や絵、書籍がもたらしているのではなく、空間の設計自体が窮屈さの要因となっているようです。だけどまあ、狭小な町屋を飲食店にする店でもセンスさえ良ければそれなりの風情を放てる訳だし、狭さを理由にしてはならぬはずであります。さて、料理、酒はというとさすがに安くないことはあり、どれもちゃんとしていたけれど、それは専ら、専らは言い過ぎかもしれぬけれど、とにかく素材の良さにかなりの理由があって、それこそ高くて旨いは当たり前の理屈になりそうです。なにせ一番旨かったのがトマトだったのだからこの理屈に大きな間違いはなさそうです。お替りまでしてしまったほどであります。そんなこともあって、湯島のこうした路地裏の店はやはりぼくのようなとっちゃんぼうやが行くような店ではなく、もうちょいちゃんとした大手企業の部長さんとかが部下を連れて行くような店のようであります。
2018/08/11
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余り憎まれ口ばかり叩くのもどうかと思うのですが、どうもぼくは谷根千と呼ばれるエリアが好きになれぬのです。その所以は、このブログをお読みになって頂いている方には自明なことに思えるし、言葉を重ねることで不快さを助長することは本意ではないので手短に述べるに留めさせていただきます。誤解を覚悟して書くと、地元の商店街と住民の思いが乖離しているように思えるのです。一方は観光地化を推進することで地元経済の活況を求めるのに対し、他方は静かな生活をただ望むというように感じられるのです。無論、そこには斯様に単純極まりない図式に還元できぬ諸々の事情なりがあるのかとは思いますが、凡そそんな状況にあるのではないか。それはぼくの杞憂というか誤解に過ぎなければいいし、もしかすると両者は相当程度に緊密に連携し良好な関係の構築に成功しているとしたら、素直に頭を下げることにしたいのです。しかし、そのような事情を知る立場にないぼくはどうしてろそうしたことを勘繰ってしまうのです。しかしまあ谷中、根津、千駄木では根津の町がぼくには比較的しっくりとくるようです。好みの酒場があるのもそうですが、路地裏にわざとらしくなく、ごく自然に昔からやっている店がやっていたりして、それも変に気取ったりしないところが好ましいのです。 谷根千のことを書くのに嫌気がさして来たので、そろそろ本題に移ります。そうそう、まず存在すら見逃していた「コーヒー&スナック ル.プリーベ」なんてお店がありましたね。この界隈が好きになれぬ理由に観光地化したばかりのせいか、気取ったカフェは多いけれど古い喫茶店はあまりないところもあるのですが、ここはその点ではそれなりの歴史もありそうでほっとします。 さて、先の喫茶は何ら変哲もないお店だったし、ぼくの心を揺さぶる要素には事欠いたのですが、「中国料理 オトメ」には、少なからずキュンとさせられました。店の内装は昔からそうは変わっていないと思うのだけれど、なんでここまで可憐な内装にしたのだろう。中華飯店の内装というのは、とにかくふり幅が広くて豪奢な店は徹底的に絢爛たるものがある一方で、質素極まりない場合もあって、そのどちらもが愛さずにはおられぬのです。そんな多様な表情を持っている中華飯店なのに、多くの初訪の客がなんの違和感も感じずにさも当然のようにそれを受入れてしまうのがぼくには不思議で仕方がないのです。それを予め弁えていて見慣れてしまった常連でもなければ、今夜のこのお店のような豪奢寄りではあるけれどキュートな印象を放つこのお店に何ら抵抗なく寛いで食事したり呑んだりしていられるのはかなり不感症ではないかと思うのです。ぼくなどはビールで気を落ち着かせつつ酒だけではどうもこのソワソワした気分は収まらず、あんかけ焼そばなどで腹を膨らませつつ、次なる酒へと移行するしかなかったのでした。こういう個性的な店名と内装を持つお店であれば、毎晩餃子だって構わない気がします。 とか言っておきながら暗い夜道を歩いていると「坂」なんていう隠れ家風の酒場を見てしまうと、どうにも和のテイストが恋しくなるのでありましたが、ここはぐっと我慢して次なる機会へと先送りするのでありました。
2018/08/09
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のっぴきならぬ理由で護国寺に、私は独り時間を調整せねばならなくなったのであります。これは困る。非常に困るのであります。なぜなら、いや護国寺をご存知の方であれば語らずともお察しいただけはと思うけれど、この界隈で普通に時間を潰すという目的に適った酒場などほぼないのであります。まだしも江戸川橋駅寄りであれば何とかなると思うけれど、今回はそうしたくはない。何故なら待ち合わせるのは目白台だからなのですよ。つまりは目白台方面には私のような孤独な酔客がほんのひと時時間を潰す場所などないのであります。いやまあ、護国寺駅の最寄りの護国寺の並びにはかつてここで報告したこともある酒場の何軒かはあるからそこで時間を調整するということもできぬではない。だけれどもぼくをして再訪に気持ちを傾けられるほどに魅力的だったかといえばそこまでではなかったと言わざるを得ないのです。そこで念頭に浮かぶのは護国寺から急な方の坂を坂をゆるゆると上る途中にある居酒屋であります。しかし、かここには難点があります。この坂は何度も歩いたけれど、たまたまなのか営業しているのを見た事のない酒場があるのです。思い出すといても立ってもいられなくなるという性癖は、これはもう修復は不能なのであろうなあ。 途中「藪久」というちょっといい感じの蕎麦屋があったけれど、ここでそばなど手繰ってみたらもう次は厳しいのであります。だから、仮にそばの居酒屋がやっていたとしても肴を下手に注文するわけにはいかぬのであります。なんて、そこがあたかも離れた場所にありそうだけれど、目と鼻の先なのでありまして、そこはありがたくも営業しているのでした。 ようやく店の明かりを目にすることが叶った「居酒屋 とうせんぼう」は、テント看板の主人らしき人を模したキャラクターにかねてから抵抗があったのだけれど、こここそがこの界隈の憩いの場と思うと避けて通るわけにはいくまいて。酒場でも喫茶店でもどちらでも構わぬけれど、その町に唯一の酒場なり喫茶店という存在があるとして、そこと出会えるならぜひとも積極的に訪れてみたいなどと思うに至ったのであります。別に心変わりとかではなくて、もともと辺境の地を求めるような暗い好奇心がぼくの心中には常に渦巻いているのです。ネットに全国四万件の喫茶店情報を公開しているサイトがあって、なんとなくそのデータを集計してみたら市町村単位で最も多いのが名古屋市であるとか、まあ納得の結果が確認できたのでありますが、何より気になるのが一市町村に一軒しか喫茶店を有さぬ自治体が少なからずあるという事でした。それを知ると途端に見てみたくなるという欲求が噴出するのです。もとよりそのデータの信憑性には、色々と疑義がある。それは恐らくはイエローページ辺りを情報源としておるのだろうけれど、いつ時点のものか不明であるのか分からぬのが一番困る。実際そのデータを頼りにストリートビューで見てみたりしても存在すらせぬ事が少なくないのであります。それはともかく、普段の生活では護国寺だって紛う事のない酒場過疎地帯なのであります。なのでテントの絵を除くとこれ程に酒場らしい酒場はそうはないのであって、まさに都会の砂漠のオアシスのような存在であります。まあ、酒場は少ないけれどビストロやらイタリアンのお店はポツポツあるので、呑みたければいかようにもなるのでありますが。さて、店内はテーブルが一卓ありましたか。そこにはおばちゃまが陣取っていて、次々とおばちゃまが増加してそれに比例以上の勢いでかしましくなるのです。話題は保険とか病気の事が多いのもいかにもで、ぼくには酒を呑みながらそんな会話を楽しめる感性は持ち合わせておらぬけれど、とにかくまあ楽しそうではありました。カウンターには二人の隠居老人、夜な夜な訪れているのだろうな。独り客も二人いるのが頼もしい。ここの特筆すべきはそれなりに種類の豊富な肴がすごい量と味で独りで消費するのは難儀なほどでありました。ワンタンなど頂いてみたのですが、手作りでいくらか具が多いところもサービス精神の顕れか。一つ気になったのは、これは気のせいか、いや、恐らくそうではないはずですが、主人が奥さんに客を批評するような発言を囁くのである。違っていたら誠にすまんけれど、あれは如何なものだろうか。当人でなくとも不快になるのであります。
2018/07/05
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駒込駅の改札を通り抜けて、本郷通りを南に向かうとそうもせぬうちに六義園があります。脇目も振らずさらに進むと「松月庵」や「櫻寿司」とベタ過ぎるくらいに定番屋号の蕎麦屋と寿司屋があります。どちらもとても渋くて味のある店構えで、寿司は今の懐具合ではちょっと厳しいけれど蕎麦なら何とかなるだろうと思案しつつも余り店の前で銭勘定するのもみっとも良いものではなかろうと振り返って信号待ちの振りなどわざとらしい演技をしてみると、通りの向こうに何やらこちらの2軒に劣らぬなかなか味のある構えの食堂があるではないか。どこに入るかはともかくとして念の為に観察しておいて損はなかろう。 渋く風格すら漂わすその構えに似合わぬ「たぬき食堂」というとぼけた店名を見て今回はここにしておこうと瞬時に決断。見ると昭和26年創業という文字が至るところに記されていて、その事実は大変貴重で有益ではあるけれど、いかにも古さの押し売りめいていていささかゲンナリとさせられもするのだけれど、それでも入店の決意は揺るがぬのでありました。店内も木造建築の風合いが色濃くて、本物のクラシックにも関わらず似非レトロを被せてくるあたりが何とも虚しくもユーモラスです。カウンター席などはなく、広いテーブルが計算された無造作に配置されていて、一番見晴らしの良い席を確保させて頂いたのでした。年の頃、50代になるかならぬかの主人がこの夜初めてらしい客を出迎えてくれました。肴は意外にも肉料理がメインで色んなそそられる品があるけれど、品書きを眺めたぼくの味覚に浮上した上位の2品が昼で切れてしまったと聞いて、気分は一挙に肉から遠ざかったのでありました。頼むのはホッピーにたこ焼でありました。なんだかどこで呑んでも似たようなものばかり頼んでいるなあ。それはともかくとして、内装は出鱈目で眺めがいがあってそれだけで酒が進みます。さらにたこ焼きは鉄板でジュージューと焼き音を立てていて、ただでさえアツアツらしいそれをハフハフしながら頬張ると、うん、これはなかなか良い。ホッピーは正解であったようです。それにしても場所がいささか半端なためかお客がいないのは寂しいなあ。 さて、「松月庵」や「櫻寿司」には実はまだ行けていないのだ。今晩にでもと言いたいところだけれど今月は金欠なのでまたいずれですね。
2018/06/28
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江戸川橋は近頃お気に入りのエリアです。まあそれも大体一段落着いたから次に訪れるのはしばらく先の事になるかもしれぬけれど、まだいくらかの未練を残しているので前言を翻して今晩にでも行ってしまうかもしれぬ。とまあそんな具合に一度やってきた程度では回り切れぬ程度には魅力のあるお店があるのです。その何軒かについてはすでに酒場報告でもその片鱗を明らかにしてきましたが、実は喫茶にも打ち捨てる訳には置かれぬユニークな店舗にようやく入店できたりできなかったりしたので忘れぬうちに記録に留めることにします。 この「珈琲専門 JOY」の存在は、随分以前から認識していたしのだけれど、なぜだか知らぬけれど見て見ぬふりしてやり過ごしてきたのは、大いなる判断の誤りだった事を知ることになったのですが、損判断ミスをもたらすのがこのお店の外観に原因の一端があったように思うのです。何と言ってもこの愛想の欠片すらない素っ気なさは喫茶巡りをする者の気持ちを萎えさせるに十分に思えるのです。しかしまあ都内近郊にはもはやそれほどに未踏の喫茶が残されていない以上は行っておいても損はなさそうです。そして改めて店に向かって路地の奥に踏み入って行くとそのアプローチ感が都会的な無機質なムードで悪くないように思えるのです。そして店の扉を開けると、外観を裏切る思わず溜息すら漏らしたくもなる橙色の暖色に包まれながらもモダンでクールな空間が潜んでいたのでした。どこかしら北欧家具のモデルルームのような印象を覚えました。奥は団体様向けにも使えるよう仕切られているけれど、これがさり気ない仕切り加減で却って空間に広がりを持たせているようです。一転カウンターの構えは正統的で実に見応えがあります。そこで珈琲を淹れてくれるマダムはなかなかに癖のある方で、ぼくなどは好意的に迎えてもらえましたが、次のに訪れたサラリーマン二人組には冷淡さをあからさまにするのでした。どうやら値段の事をとやかくいう客はお嫌いらしいのですが、まあサービスの珈琲が600円となるといくらか怯むのも分からぬではない。第一、壁には片手に余る程度のアレンジコーヒーの品書きが出されていて、これが千数百円となるとやはり怯えてしまうのです。しかし、マダムが自ら泡立てた生クリームを頼めばサービスしたくれたり、さすがの風格を感じるのでした。 飯田橋方面にしばらく歩いていくと商店街と呼ぶには余りにも貧弱な感じの通りがあります。そこに「COFFEE 未知」はありますが、ここは何度訪れてもやってなかったのです。もう入店は諦めてしまおうと放棄しかかっていましたが、先日今しがたまで営業をしていた状況下に訪れる事ができ、扉の向こうを記憶に刻み付けることができました。内装はいささかくたびれて映りましたが、鉄製アームのモダンなチェアが整然と並べられており、都会の喫茶店らしさを束の間感じられました。初老というのも失礼なくらいのお年頃のご夫婦がおられたので、まだまだ現役かと思われますので、気になる方はぜひ。ぼくはもう満足ですけど。 またも折り返して、今度は護国寺方面に歩いていくと大きな通りに面してひっそりと「とちの木」がありました。スナック風の出で立ちでちょっと入りがたいムードがムンムンとしていますが、殊更気にしないようにリラックスした気分で入店することにしました。入ってみるとカウンターコーナーと談話室風のスペースが仕切られていて案外寛げそうなムードです。先の店にもどこかしら似たようなクールで実用的な雰囲気ですが、こちらは店の形状に合わせて複雑に席を配置しているためか変化があって飽きさせません。どうということもないと言えばそれまでですが、ぼくはこうした何気ない内装のお店に愛着があります。ほとんど経験したことのない都心のサラリーマンたちの溜まり場という感じが新鮮に感じられるのです。好みの差は当然あるでしょうが、ぼくにはこういう喫茶こそ、東京の喫茶らしいと思えるのです。
2018/05/06
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練馬車庫と新宿駅を結ぶ都営バスの路線は、近頃しばしば利用していますが、かゆいところに手が届くなかなかに好路線であると思うのですが、目白台の椿山荘を過ぎて、もうすぐ東京メトロ有楽町線の江戸川橋駅に至ろうかという辺りに馴染みのあるもつ焼の屋号を掲げるお店を見掛けたのはつい最近になってのことでした。見かけた時にもすぐにもお邪魔したかったのですが、たまたま江戸川橋の商店街の中にある同じ屋号のお店に寄ったばかりてした。両者を知った今となっては、その時にハシゴしていても一向に構わなかったことは知っているけれど、さすがに2軒続けてスタミナ焼を食べるのもどうかなあと思ったのでした。 そのお店は、「加賀廣 早稲田店」です。早稲田店とは称しているけれど地下鉄どころか都電の早稲田からも随分と距離があるから、江戸川橋店との混同を避けるために便宜的に早稲田店としているのかもしれません。それにしても外観を見るだけでもこの多くの暖簾分け店舗を擁するどの「加賀屋」とも似ていない独特の風貌を呈しています。雑居ビルの一階にあるというのも珍しい気がします。独立した建物を持つ店舗やビルの地下や2階にあるのがこのもつ焼き店には似つかわしく思われるのです。あと、無論例外も少なくないけれど「加賀屋」って繁華街からは一歩身を引いた場末とは言わぬけれど人通りの少ない暗がりの中に身を置くという事がありますが、ここはそれともやや違っていて、町外れなのはその通りであるけれど、少しばかり外れすぎているのです。そしてし暗がりに存在を潜めているかというとむしろ拡幅のある車道路に面しているのだから、むしろ目立つ場所にあると言ってもおかしくないはずです。なのにまるでカメレオンのようにビルに溶け込んでからも少しもやっているようには見えぬのです。カメレオンというよりは捕食動物のようにして、我らのような愚かな夜の冒険者を待ち受けているかのようでもあります。見事捕食された我々はそれでも嬉々として店の奥に進むのですが、入口付近に不可思議な席があります。聞くとそこにはコタツが用意されています。その誘惑に抗えなかったら、ゆっくりゆっくりと時間を掛けて溶かされてしまうかもしれません。さて、ここは例の系列とは思えぬくらいにもつ焼をやっているという気配が希薄です。ラビオリがあるので貰うことにしましたが、ここでは何より店の独特な雰囲気を味わうべきなのであって、それ以上でもそれ以下でもないのです。結局、最小限の肴で相当な量を呑んでしまう事になりましたが、その魔性の魅力はどうやら一般的ではなさそうで、店を出るまで新たに来店する方がいないとなると、やはりこのお店は一歩足を踏み入れると二度とは出てこれぬのではないかと思ってみるとそれはそれでなかなか愉快なのです。
2018/04/16
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千駄木を最寄りとするエリアは谷根千などとさほど気が利いているとも思えぬ呼ばれ方で近頃人気の町でありますが、夜のこの辺りを楽しもうという方は少ないようです。いや、この界隈の民泊宿などに宿泊する外国人の姿を見かけることは多くなった気がします。下手をすると日本人よりも多く姿を見ることもあるのです。夜店通りの立ち呑み店などはそこだけを見ればまるで六本木かという位に外国人客で埋め尽くされていたりもします。しかし、道灌山に近いすずらん通りはいつもと変わらず寂しくて、外国人すら見掛けぬほどです。だからというわけではないけれど、この夜の写真もどこぞへ消え去ってしまったので、真っ黒な記事になることをお断りしておきます。せっかく久しぶりにT氏と一緒だったのだけれど、彼の御尊顔を披露できぬのが残念です。 最初に訪れたのは「たまゆら亭」です。店の張り紙によると静岡おでんがお勧めらしいのが決定打になりました。この通りの酒場は結構回っていますが、見覚えのない酒場を見るとつい立ち寄りたくなるのがぼくの性癖であります。と書きましたが、改めて調べてみますとすでにここには来たことがあるようです。まあ、それはそれで構わぬというのは結局は強がりでしかないのでありますけれど、もう行ってしまった後のことなのだからどうにも取り返しがつかぬのであります。カウンター席に腰を下ろししばらく店内の様子を眺めます。眺めても思い出せなかったのだから始末に終えぬ。というか酔っ払うということは、記憶するという脳の働きを放棄する行為であり、それどころか場合によってはすでに脳にインプットされていたはずの情報をも排除する機能すらあるような気がします。しかしこの夜のことは少しだけは記憶しています。お客さんはご近所さんらしき常連が多く、店主は三々五々に集まる客たちに親しげに声を掛けて店ぐるみで楽しまれている様子です。肝心の静岡おでんは現地で食べるものとはやはり―このやはりは先般の亀有のそれと比してかなり食べやすかったということです―どこか違ってはいたけれど、それなりに美味しくいただけました。どうもこの店の雰囲気を楽しむには足繁く通う必要がありそうです。 すぐそばの「小料理 紫穂」にお邪魔しました。こちらは初めてのお店で間違いないようです。女性の名を持つ酒場というのは少なからずありますが、どうも警戒してしまう。特に深い理由をもって名づけたわけではなかろうかと思うのですが、少し穿った見方をすると女性のやってる店であることで客たちの関心と安心を植え付けるのが目的であろうと思われるのです。それは女性という性を活かした少しばかりズルい経営戦略と思えなくもありません。カウンターに5席程、奥には土間から続くような懐かしい気持ちを惹起する茶の間風の座敷席があります。人も良く感じも良い女将さんが出迎えてくれて一安心。お話によるとこの界隈ではかなり古参のお店とのことです。常連さんがカラオケをしきりに勧めるのであるが、丁重にお断り。それなのになぜかわれわれのことをお気に召したらしく何杯もビールを振舞ってくれたのでした。それにしてもお勘定を済ませた後にビール大瓶を3本も追加するとは、確かに一番好きな酒はビールと語っていたけれど、あの小さい身体のどこに収まるのか不思議でなりません。特に旨いものを食わせるとか手頃であるとかいうこともないけれど、こうした田舎っぽさを感じさせるお店というのはそこがあると思い描くだけでほんわかとした気持ちにさせてくれます。そして心がギスギスした時には、実際に赴いて心を穏やかにしてくれるのだから嬉しいことです。ただし、ついつい長居してしまうのがこうした店の持ち味なので、その点は留意が必要です。
2018/03/01
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暫定的な定義によって中国料理店は中国人の経営により中国人の料理人が料理を提供するお店ということにしました。いやこれはあくまでも暫定的な定義でありますし、実際に経営者や料理人に対して、あなたは中国人であるかという問いをぶつけた訳じゃないのであって、極めて出鱈目な印象によってジャンル分けしているに過ぎぬのでもあります。実際昔気に入って通っていた中国料理店の料理人兼オーナーはベトナムの方でありましたし、極めて曖昧で主観的な区分でしかないのだけれど、あくまでも目安程度に思っていただければよろしいのかと思うのであります。で、西日暮里駅を出て道灌山に続く道を開成高校などを横目に通り過ぎると、その交差点の手前にあまり中国料理店に相応しいとも思われぬ、でもまあ見た目にはその名を冠するに相応しいと思われる喫茶店とは似ても似つかぬ、やはりあからさまに中国料理店があったのでした。 そのお店は、「田園」と言ったでしょうか。実はこの数日間で各所で撮影した写真がなんたることか消えてしまっていて、まあ個人的に写真に対しては大した思い入れもないのでありますが、ブログとしてご覧いただいている皆様には大変恐縮ですが、ご勘弁願いたいのでした。それはともかくとして、このお店テーブル席が狭い店内に窮屈そうに詰め込まれていて、しかしいずれの席も一人客が多いせいかさほど窮屈な印象がないのは助かります。メニューを見ると750円のセットメニューがあって、これがなんとも無茶な価格設定なのです。なんと86種類の料理から好きな一品を選ぶことができて、しかも酒類についてはサワーなんかはもちろんだけれど、瓶ビールでも構わぬというのだ。セットメニューでは瓶ビール―ホッピーなんかもそうだったりするけれど―は除外されることが多いのであります。それはまあ稀に見かけるのだけれど、なんと料理の86種の料理の価格帯が出鱈目と言ってもいい位に幅広くて300円台から880円まであったりする。無論880円の黒酢酢豚とエビチリを注文するのでありますが、若干豚肉とかえびといったメインとなるべき食材のボリュームは少ない気もするけれど、普通に880円と言われたらまあそんなもんかと納得してしまう程度にはちゃんとしているのだ。2人では少しばかり飽きてしまうほどなのです。だから780円の品も充実しているのでそこら辺のお値段の品を4人で4種類とか頼んでみるとなかなか豪勢な食卓にすることも可能に思われるのです。といったわけで、その異常な価格設定以外には特筆すべきことはないので、これでお終いなのであります。
2018/02/23
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湯島で呑む事になりました。ぼくは湯島の町が好きだけれど嫌いなのです。またコイツは訳の分からぬことを呟いていやがるなと片付けることなかれ。いや、毎日お付き合いくださっているこのブログの読者の方でもその殆どの方が一段落目は決まってモノの役にも立たぬボヤキであると見切ってそのまま読み飛ばすというか、サッとスクロールさせて視界から素早く排除しているんだろうなあ。極少数であるだろう一段目にもお付き合い頂けている方でも今回についてはあゝコイツは湯島の店は旨かったり雰囲気が良いのは好きだけれど、値段がお高いのは嫌いだなんて詰まらぬ事を吐かすに違いないだろうと思っておられるでしょう。で、それはまあ大方当たっているのですが、今回語りたい好きだけど嫌いは何かというと、それとは全く別なのです。端的に結論から述べると上野駅方面から向かう湯島は嫌いだけれど、本郷側から歩み寄る湯島の町は好きであるという事です。地下鉄の湯島駅からいきなり呑み屋街に飛び込むのも何だか味気がない。いやいや何も太田和彦のように湯島天神でお参りしてから町に繰り出すのが粋だとか述べようなんてつもりはサラサラないのであります。闇の多い本郷からの道中を越えて徐々に酒場の灯が滲むように視界に映り込み、やがて闇の黒は色とりどりのネオンで埋め尽くされる、この過程が愉快なのです。 さて、そうして訪れた湯島の呑み屋街に「とりつね」がある事を不覚にもこれまで見逃していました。いや、実は目にしていたのかもしれないのだけれど、あえて視界から排除していたのかもしれない。なにせ湯島という盛り場の店では感情書きひとつで何度か驚愕させられたという苦い経験があるからであります。しかし、この夜は一人じゃない。なのでいつもとは視界に映り込む光景が違って見えたのだと思われます。いつもの道をいつもとは違うシチュエーションを導入して歩いてみる、そうすると思いがけぬ町の表情が発見できたりもするのです。という訳で木造一軒家の渋い焼鳥屋に入る事にします。カウンターのみの席に腰を下ろし品書きを見ると、やはり一人じゃないって素敵だなあなんてカッコ悪い事を思ってみたりもしますが、今後滅多なことでは再訪の機会をえられぬだろうとあっては、無心に店の情緒を堪能すべきです。カウンターを始め内装はオーソドックスながらも丁寧な仕事が施されていて、何より手入れが行き届いていて店のご夫婦の愛着を見て取れます。鶏刺しと焼鳥を適当に見繕って貰うことにします。こうした店では、定価なんてあってなきが如しということも多い。しかもオヤジが厳つい顔に関わらずま如才なく勧め上手なのです。この先に会合があるのだという我々のエクスキューズなど聞かぬふりなのであります。しばらくすると一人客が姿を見せ、店主も心得たものでサッと焼酎ボトルを差し出すのです。このような店を日常から使えるとはどういうお殿様なのだろう。刺しや焼きはさすがになかなかのものでありますが、正直的確に感想を述べる言葉がないし、舌の記憶も無きに等しいのです。大体ぼくには開き直ってしまう悪い癖があって高いのは一緒だからもう構わずキッチリ呑んでしまおうという事になり、次があるのにお銚子を何本空けたことか。でもまあいいか、堪能したという記憶は残っているから。
2018/02/20
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知性とは無縁なぼくですが、たまには東大に行くこともあるのです。いや短縮で東大と書くとばったもんの東大との誤解を招きかねぬから、ここは正確に東京大学、その前に国立大学法人を冠させればより間違いがないだろう。ぼく位の年頃になると東大に引け目とか嫉妬とかいうものなどはとうの昔に失っているのであって、むしろそれなりに知り合った東大出身者のうち、本当に驚愕させられたのはたった一人いるだけという事実に悄然とするしかないのであります。かといって己の学歴やら職歴を衆目に晒すのには未だに抵抗があるのであって、その意味では東大出身といえば現状が仮にいかに落ち目であろうとそれなりの矜持を持って来歴を語ってみせることができるのだろうなあ。まあ、そんな過去の栄光を堂々と語るのは一部の愚劣な政治家や官僚がいるばかりで、あとはせいぜい酒場で仲間内で語ってえばってみせる程度のものなのじゃなかろうか、と長々書くとますます僻んでいそうだからここらにしておくのです。 さて、本郷三丁目駅を出て東大の赤門を少し越えた脇道に「そば処 あかしや」がありました。この界隈は何軒かの有名喫茶店でぼくなどもたまに訪れるのであるけれど、酒場目当てで来る事はまず滅多なことではないのである。かつてさらに白山方面に進んだ先に夏季休業の素晴らしいおでん屋があったものですが、今では残念な事に店を畳んでしまわれました。なのでそば屋呑みに憧れはあってもまだ年齢不相応、分不相応を考えているぼくには生意気な行為なのですが、味のある店があったら入っておくにしくはないのです。というのもここには魅力的な一杯呑みのセットがあるからです。酒と肴一品と盛りで千円だったっけ。2杯、3杯になっても手頃に呑めるらしいことは店内で知ることになります。体調というか状況によっては〆の盛りで、先が続かないということにもなるのでありますが、この日は昼も食いっぱぐれているのでこれは嬉しい。酒の肴も気が利いている。板わさなとの定番から親子煮などの卵とじ系もいいなあ。けれど頼んだのはニシンの煮付けです、これ歳を取るにつれますます好きになりました。そういや、自宅にもパックが眠っていたなあ、ボチボチ食べてあげないとなあ。小鉢としてオリーブが添えられました。これはちっとばかり変化球ですが、悪くないなあ。といった訳でこうした機転の効いたそして手頃なそば屋が今後増える事を期待したいのです。 そんな期待はありますが、そば屋で長居は不粋との思い込みもあります。本郷三丁目駅から程近い場所に「立ち呑み処 つまみ屋 本郷赤門店」があるのを来掛けに確認してあります。話には聞いていましたが、確かに「近江屋洋菓子店」の本郷店が見当たりません。やはり店を閉められたようです。確かにいつ来ても余りお客さんいなかったしなあ。ここの雰囲気はもちろん素晴らしいけれどそれに負けぬくらいにクラシカルな洋菓子が美味しいのです。若い頃はパティシエ系のものを猟色したものだし確かにその当時は興奮して味わったものですが、今になるとあの手の菓子は華美になりすぎているし、ゴテゴテし過ぎて重ったるく感じられるのです。その点老舗店はやはり手堅いけれどいつも清新な印象を与えてくれるのです。なんてどんどん酒から離れていますが、ビルの細い階段を登った先にある立ち呑み屋にお邪魔します。まだ開店したばかりのようでその準備に店の方はお忙しそうです。店内はとても広くてお二人だけで回るのだろうか、もう少ししたら援軍が来るのだろうかなどと余計な心配を。特にこれといった変わったところはありませんが、とにかく値段が良心的なのです。それだけあれば十分な特徴でありますね。肴もただでさえ種類が多いのに日替わりの品もあるから、さり気ない店ですが大変な努力をされているのでしょう。本郷赤門店とあるから系列店もあるんでしようけど、余りチェーンぽくなくて良いなあ。あれれ、注文した品の写真が見当たらないなあ。グラタンっぽいのをいただいたのはぼんやり記憶にあるんだけど。ポテサラをグラタン仕立てにした品だったと思います。150円位でしたか、値段に見合わず美味しい一品でした。
2017/12/23
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江戸川橋界隈は出版や印刷業を中心とした企業や倉庫などが立ち並び、夜がふけるとウロチョロしたらちょっとばかりおっかないというか逆にその気はなくともおっかながられてしまいそうな閑静というよりは不安すら感じさせるような寂しい町です。しかし実は丹念に歩いてみるとそこかしこに飲食店が点在していたりして、呑むにも不自由のないことがお分かりになると思います。それも何十年と続けてこられたような古いお店が脈々とやっているのだから、ひどく久し振りになってしまったけれど、時折訪れたい町なのです。 江戸川橋の酒場は時として酒場らしからぬ外観をまとっていて、これからお邪魔しようとする「三昇」は、あからさまに中華料理屋にしか思えぬのでありますが、一歩店内に足を踏み入れるとそこは紛うことのない酒場そのものなのです。思った以上に多様な品書の短冊を眺めただけで、この狭い店のどこにこれだけの品を生み出す食材をストックして置けるのかが気になってしまうのですが、取り急ぎイカの生姜焼きをいただきます。狭い店で店のご夫婦と差し向かいになり気づまりかというとそんな事はなくカウンターが高いので調理担当のご主人と視線が交錯することもありませんし、奥さんは身を隠すように死角になる店の片隅にちょこんと腰を下ろされるので、コチラはのんびりとテレビでも眺めればいいのです。肴はご飯が進みそうな濃いめの味付けなので当然に酒も進まぬはずがありません。やがてジイサンが一人で来店、どうやら常連らしくテレビに正対する特等席にさも自分のために空けてもらっていたかのようにゆったりとした動作で腰を下ろします。このジイサンにとっては第二の我が家みたいなものなのでしょうね。女将さんがお刺身でよろしかったかしら、ご主人が今日はマグロがあるよと品書きには記載のない肴も取り揃えているようで、なかなかに懐が深くていらっしゃる。これなら毎晩通っても飽きるということはないでしょうね。 続いては、「加賀廣 江戸川橋店」にお邪魔しました。「加賀屋」系列は、いい店ダメな店の落差がけっこうありますが、ここはいいお店の部類かと思いました。まあぼくにとってのいい/悪いは古い/新しいとも置換え可能で、この系列に関しては都心部に感じのいい店舗が多く見られるように思います。さて、ここではまあとりあえずのホッピーが定番です。バイスなんかもいいけれど、ついついお得な気がしちゃうのですね。胃腸が重いので、もつ焼はやめておこうって、マカロニグラタンを頼んじゃうのがいい加減です。でもこの系列のグラタンやらラビオリってたまに無性に食べたくなるのですよね。胃腸が調子悪いにも関わらず、タバスコをドバドバ投下していただきました。なんかホッとする味ですね。案外空いているので、ゆったり寛げるのも良いです。また好きな「加賀廣」店舗としてリストに加えられるのはうれしいです。 帰路は、高田馬場駅まで新目白通りをぶらりぶらりと歩いたのですが、そう歩かぬうちにまたもやいい雰囲気の「加賀廣」がありました。こんな場所にあったっけなあ、古びた雰囲気だからあったに違いないけれど、さすがに満腹だったのでいずれ訪れたいと思います。それ以外にも今回散策した間にもどうしても行っておきたいと思わせられた店を二軒ばかり目にしましたので、次回江戸川橋に来るのはそう先の事ではなさそうです。
2017/11/24
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白山の周辺は都内でも有数の閑静な住宅街なのですが、駅の側には東洋大学のキャンパスがあるためか、その周囲には居酒屋を始めとした飲食店、喫茶店や食堂を中心にした商店街が小規模ながらも広がっています。一方でこの界隈は起伏に富んだ土地柄で大小入り混じって道路網が交錯しており、その変化に富んだ混沌とした町並みが意外と楽しい一角なのです。地獄谷なんて呼ばれる谷底の呑み屋街―大森や鶯谷など―は時折見掛けますが、丘の上の呑み屋街はじっくり考えてみた訳じゃないけれど思い当たらない。しかしまあ、それ程多くの酒場がある訳でもなし、そうは足を運ばことはありません。そんな町の端に古びた中華料理店があります。以前通った時に見掛けていて、その構えの渋さにグッと来たのですがそのときは生憎にもお休みでした。この夜目当てもなく彷徨っていると突然思い出されたので、早速向かうことにしたのです。 目の前でサラリーマンのオヤジさんが吸い込まれていきます。急に不安になり慌てて店に入ると、目の前のカウンター席に辛うじて一席だけ空きがありました。そう広い店ではありませんが、繁盛店である事は間違いない。隣席のオヤジさんが駆け付けすぐにビールと餃子、炒飯を注文するので、ぼくも便乗する事にしました。勿論、炒飯はやめておきます。もし後で追加するにしてもラーメンとかワンタンがいいかな。厨房では三人の料理人が休む間もなく黙々とそして手際よく料理を次々と出していきますが、それでもわれわれの―とお隣のオヤジとこの場限りの束の間の連帯感―手元に届いたのは十分程掛かったでしょうか。すでに手元のビールは二本目です。別にそれは一向に構わぬのでありますが、酒の種類が少ないのが残念、ビールを追加します。大瓶二本を呑むなんて何年振りだろう。さて、肝心の餃子は至ってオーソドックスなのですが、身づまりよくびっしりとしていて、なるほどこれなら他の品も期待できそうです。実際皆さん満足そうな表情を浮かべていらっしゃる。客層も老若男女が万遍なく入っていて、日本の中華好きが好むどこか懐かしい味なのです。そういえばぼくもこういう居酒屋使いのできる店で昔はよく呑んだものです。そういえば店名すら確認していませんでした。「兆徳」というのですね。少しばかり珍しいオリジナリティのある命名で、少しもキラキラしていないのが好ましい。そう、店の外にはいつの間にやら10人程の人垣が出来ていたのでした。
2017/10/26
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