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我らニッポン人を米国植民地に生息する黄色い猿ぐらいにしか思ってない米軍はアフガンでもやってくれた。以前から文字情報としては度々アップロードされてきた米軍得意の誤射事件ではあるが、今回のはチョーリアルな動画まで公開されたから生々しいことこのうえない。Collateral Murder - Wikileaks - Iraq 動画の頭のほうはテロップばかりで少々じれったいが本編はかなりリアルだ。機銃掃射で大人が薙ぎ倒され、子供にさえ容赦ない銃撃を加える。そういうの弱いってかたは見ないほうがいいかも知れない。射殺後のヘリ側と司令側の会話も刺激的だ。「なんでこんな危険な戦地に子供が居るんだよ。誰が連れてきたんだよ。どう考えたって連れてきたやつが悪いだろ」「いやホントホント。ホントだよね」なんて具合の、丸腰の民間人を一杯殺しておいてその理屈はねぇだろってガイキチ度満点の会話まで収録されてるスペシャル特典付き。米軍ゆるすまじ
2010.04.07
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ふわらいどう【付和雷同・附和雷同】自分にしっかりした考えがなく、他人の意見にすぐ同調すること。【大辞泉】ニッポンは二大政党制になる筈だったのに国会でも真っ当なディベートなどただの一度も聞いたこともなく、日夜繰り返されるのは無期限開催中のネガティブキャンペーン。足の引っ張り合いどころか泥の掛け合い。中傷合戦。って言うか今や自民党の一人芝居状態。邦夫ばかりが劇団ひとりと思ったら大間違い。自民党は肉弾戦よろしく民主党の懐深く攻め込み、ばっさばっさと斬り捨てて敵の武将の首取る(取りかけた)大手柄かと思いきや、手足も頭もばらばらで誰に足をひっ掛けられたわけでもないのにあっちへよろよろ。こっちへよろよろ。もはや同類なんだし民主党に肩貸してもらうしかないな。そこへ持ってきての大不況。いやいや誰も大不況だなんて言わないか。景気は持ち直してる。回復傾向にあるんだから。いやいや、産業界が持ち直してるなんて出鱈目も甚だしい。人件費ばっさばっさ切っといて回復傾向も糞もあるかってんだ。肝心の病巣には目を背け、上っ面でしか見ないからもはや末期癌。リンパや骨に転移が見つかるのは時間の問題さ。病身じゃ誰も預貯金使えないね。せめて死ぬまでの諸経費あれこれ確保してなきゃおちおち生きちゃいられないってのは道理ってもんだし、先進国でも指折りの預貯金がさっぱり回らないんだから景気なんて回復するわけがない。嗚呼絶望だ。大手が傾く。銀行が倒れる。そして圧倒的勢いでもって動き出すだろう付和雷同。わけわかんないから誰も自分の頭で考えない。面倒だし、うざいし、お先真っ暗だから考えたくない。カタルシスが得られるならこの際なんでもいいさ。右も左も関係ねぇよ。前も後もね。そう。ビジョンがあれば簡単だ。わかり易い!サイコー!付和雷同が悪いなんて誰が言いやがった。見てみろ、ジジぃもババぁも同じだろ。かわらねぇよ。どいつこいつも付和雷同だろ。誰かが『悪だ!』と叫んだらみんなで寄ってたかって石を投げろって教えたんじゃねぇか。ま、いいか。2012年にみんな滅亡するらしいしw
2010.03.18
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社会は厳しいもの。会社は厳格に運営される組織。みたいなデフォルトがニッポン人の多くには設定されている。ほぼ確実に。間違いなく。ゆえにそのデフォルトが昔から随分と足枷になった。どのように足枷になったかと言うと、例えばイベント等の企画なり起業なりアイディアなりの表明・発表・主張などを始めた最初の段階で良識あるニッポン人を自覚する多くの方から横槍が入るのである。正直に言うと横槍が入るのではなくて年端も行かない若造の戯言と遥か大上段から叩き潰しに掛かられるのである。我こそは社会規範。大ニッポン人の鑑。社会正義にして悪と甘ちゃんと生意気の性根を叩き直す良識派ま、そのような方々に年代別の多寡があるかと言えば偏りと言うべきほどのものはないのであるが、個人的な印象としては二十代後半から四十代に掛かる所謂中堅と称される立場の人たちにありがちな性向であるかも知れない。社会は厳しく、けっして甘いものではない。ろくに世の中も知らぬ若造に何が出来るか。どうせ失敗するのがおちだ。もっと勉強してから出直してこい。何かと言うとそのような言説を振り回す方の多いことよ。そこで八重山。私がこの地を面白いと感じるのは、上記の如き『社会厳格論』に対するアンチテーゼが八重山社会には脈々と受け継がれているからである。そう。この地が日本ではないと感じる材料の一つは紛れもない社会に対する甘さ、組織に対するゆるさなのだ。社会や会社組織が厳しいものなら二日酔いで遅刻したり無断欠勤は出来ない。不可である。しかしここらで生きている人は誰一人「社会って厳しいもの」とか「会社経営をするのは大ごとだ』なんて思っちゃいない。みんな「たいへんだけどなんとかなるさ」とか「失敗したらもう一回やり直せばいいだろ、別にそれだけのことだろ」なんて思っているのである。そして私はそれが正解だと思っている。社会は厳しいなんていう面倒くさい共同幻想をどうしてわざわざ持たねばならぬのか私は理解に苦しむし、数年前に起業して経営者連中と付き合うようになったから余計に感じるのだが会社経営してる連中なんてのはその規模の大小に関わらずどいつもこいつも出鱈目だ。ま、出鱈目まで言うと語弊があるかも知れないが、それほど深くも先までも考えちゃいないし、体系的に物事を捉えてもいないのは確かだ。わりと直感的に動いたり考えたりする人のほうが多いと思うし、そりゃ中には切れ者みたいな人もいるだろうがそんなのは極少数の経営者に過ぎないのである。つまり、社会は甘いと思えば甘くもなるし、会社組織は厳格に運営されているわけでもないし、起業や経営は大ごとでもない。もし厳格に運営されているなら経営が傾くこともないだろうし、社内や業務に重大な問題が起きることもないだろうが、一部上場から零細町工場にいたるまでどこもそこも問題だらけでもなんとかかんとかやっているってのが実情だろう。だからこれからの若い人はもっと自由に発想して、自由に動いていいと思う。失敗したらやり直せばいいだろうし、あなたが一生懸命やっているなら幸運が味方してくれることもあれば助けてくれる人が現れることだってあるのだから。そうそう。八重山の人は社会は厳しいとは思ってないが、本土はキビシイと感じてるのは確か。社会は厳しく会社組織は厳格なんて妄想をみんなで持ってる空間に暮らすのはキビシイもの。ゆるく暮らすならやっぱり八重山ってことで、ひとつ。
2010.03.14
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日夜 各種掲示板やらコメント欄に書き連ねられる不毛極まりない誹謗中傷悪口雑言。今や日本のネット世界は市中引き回しのうえ磔獄門(ハリツケゴクモン)のごとき様相を呈すって有様。ブログなどが炎上するにも様々なケースがあるから一括りには出来ないけれども一人のブロガーに対して数十名・数百名の連中が寄って集ってやりこめている絵面は如何にも醜い。なにが醜いって、他人のブログに誹謗中傷罵詈雑言を書き込む方々の多くが我こそは社会正義ってな自認をしているあたりがひどく醜い。一面識もない閼伽の他人に対してヘンだとか甘いとか職を失って困っている人がたくさんいるのにアナタは…みたいなコメントを吐けるセンスが私には理解できない。そのような批判を載せる方々は相手の一体何を知っているというのだろうか?ブログ記事にある言葉尻を捉え、訳知り顔で無意味な批判や非生産的な誹謗を繰り返す粘着質で傲慢な態度は何に由来するものなのだろうか。更に醜いのが掲示板。例えば爆サイって掲示板サイトにある沖縄版・石垣島雑談なんか見てみるに多くのスレッドでシマンチュ(地元)とナイチャー(本土出身者)の二派に分かれて『内地へ帰れ』『島から出て行け』だの『島は低脳』『サル並みの連中』だのと互いに著しく低いレベルでやりあっている。ネットが持つ匿名性が社会的な不満や制度的な軋轢に対して一定のガス抜きを持つのは確かであるが、そのガスを噴射する先が間違っているのだ。匿名の多数が不満と批判を向けるべきは今ある歪んだ社会の礎を築き、偏向した制度を構築してきた連中なのではなかろうか。ましてや寄って集ってやるのならば尚更だ。うってつけだ。寄って集ってやらないと効果がないのだから。匿名という武器の使い方を間違えるべきではない。これまで我々小市民がなかなか持てなかった匿名という武器を行使すべき相手は微罪や軽犯罪を犯した者でもなければ少々世間を甘く見ている女の子でもなく口が達者な生意気なアスリートでもない。匿名を得た我々が寄って集ってやっつけるべき相手は、忘れるなかれ、権力と金を持った連中である。
2010.03.08
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普天間の基地移設であれこれもめていて、何をもめているかは皆さんのほうがよくご存知だろうから一々ここには書かないが、なんだか腹が立って仕方ないのは『沖縄から基地がなくなったら地元は経済的に雇用的に立ち行かなくなるんじゃないの~それって困るんじゃないの~痛し痒しだよね~』みたいな意見をしたり顔で述べる人たちだ。その多くは言うまでもなく本土の方々だ。沖縄に住んでいるか本土に暮らしているかはともかく本土の人間がそのような高みからものを言う裏腹には間違いなく差別根性が働いている。ここ数年何かと注目が集まる沖縄だから沖縄差別が薄まったのは確かだろうけど、米軍基地を抱えていない他府県の人間が『米軍基地と沖縄経済』について論じるのは完全に余計なお節介だろうし、余計なお節介を焼くのなら最後(問題の解決)まで面倒を見るべきで、そんな覚悟の一つもないくせに海の向こうからネット越しにしたり顔をされるのは実に腹立たしいのである。右も左も平和ボケらしく、自衛隊にせよ米軍にせよ大きな軍事施設があることの意味を理解していないようだ。闘う意思があるのでなければ基地など置くべきではない。なぜなら仮想敵国から見れば敵軍の兵士が出撃してくる基地が置いてある土地とはつまり自分たちと闘う意思を持った者たちであると見做されて然るべきであるからだ。有事が起こり、領土境界あたりで一戦交えるのは軍隊だが、軍隊はやばくなれば撤退すればいいだけだ。前線を下げるなり、基地を放棄するなり本国へ戻るなりして軍を立て直すのだろうが、基地がある沖縄はどこにも逃げられない。米軍や自衛隊が退いたあとに攻めかかるであろう仮想敵国の軍隊からに蹂躙されるがままなのか。沖縄にはそのようなデジャブがあるからこそ65年前から生きてきた爺さん婆さんは今も本土の連中が好き勝手やろうとしてる基地問題に訝るし怒るし憤るのである。銃口のひとつも向けられたことの奴が基地移設で偉そうなことを言うべきではないだろう。基地経済がどうとか沖縄の雇用がどうとか偉そうな意見を述べる本土の方々はほぼ間違いなく沖縄差別をその心のうちに縫い込んでいる方々である。
2010.02.28
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国粋主義に拠ってるわけでもなんでもないけれど、ここんところのマスメディアがしきりと連呼する『米国が激怒してる』って報道のありかたには無性に腹が立つ。アメリカの連中が激怒してるからなんだって言うんだ。普天間基地の取り扱いが連中の意にそぐわないから怒るのであって、日米同盟を結んでいるからと言って私たち日本人が選挙で選んだ政府がどういう調整の仕方をしようと米国の連中の顔色をいちいち窺わなきゃならないなんて馬鹿げてる。私たちは米国の犬なのか。所詮は敗戦国、基地移転の事でものを言っちゃダメなのだろうか。いやいや、こちとら米国の植民地でも属国でもなくて立派な主権国家なのだから自分たちの論理でものを考えたり主張したりする権利は建前であろうとなんであろうと保証されているのである。なのに日本のマスコミは『民主党政権が米国を怒らせちゃった怒らせちゃった。どうしようどうしよう』なんて具合に一々米国側に立ったような報道をやらかしてくれるのだから呆れるばかりだ。米国の顔色を窺うかたわらでは安売りを煽ってデフレを煽り、キチガイの連中を集めたバラエティ番組を各局横並びでこれでもか、これでもかと垂れ流す。湯水のように経費使って番組使ってそんな低レベルで低調で能天気なものしか公共の電波に乗せられないんだから呆れるってよりも叶うものなら各局どこもご退場願いたいぐらいだ。テレビも新聞も大口の広告契約もらってる大企業のヒモ付きだから真っ当なものなんて作れないのは最初からわかっちゃいるけど昨今の各種マスコミはあまりに酷い。醜い。不様。百歩譲って同盟はOKとしよう。しかし顔色窺うのはNGだ。米国は怒りたきゃ怒ればいい。しかし決めるのは私たち有権者だ。米国でもマスコミでもないのである。
2009.12.13
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ユニバーサルだとか世界がつながったとか双方向だとかそんなことは二の次で、アホがアホをさらけ出し、粘着質がねばっこいところを如何なく曝け出してくれるのがウェブ発達の最大の特徴と功績だと疑わない私は、市橋容疑者の整形写真が世に出た時点で彼のファンサイトが登場もしくは興隆することを予想していた。だから言って『予想が当たった当たった。俺ってスゲー』なんて主張するつもりは寸毫ないし、市橋ファンサイトのメンバーをアホ扱いする気もない。なんなれば私たちは全員アホであるからだ。勿論わたしもアホの一人であるし。全員アホという表現に御幣があるならば誰しもアホな部分を抱えているものと換言するが、ともあれファンサイトの乱立をもって市橋容疑者も世間の慰みものとなってしまったわけで、今後は彼の詳細な生い立ちから同級生のコメントから彼とセックスをしたという女性のコメントから、性癖、身体的特徴、趣味趣向、好きなアニメや好きな歌手に至るまで虚実入り混ぜてテキトーにいじられまくられ、皆が飽きるまで弄られ続けられる運命となったその悲哀を思うと少々可哀相な気もするのである。ご愁傷様である。御幣を承知で言うと、たかだか英国人女性一人を殺して逃げ回ったオトコなんぞを語り尽くせるほどに世の中の皆さんは暇なのか。ま、世の中不景気で仕事もなかったり少なかったりするので暇を持て余しているのだろうか。まったく羨ましい限りである。もっと他に語り尽くさにゃならないことが一杯あると思うのだが、そこんところがイマイチ盛り上がらないのもウェブがアホさを曝け出すに向いているメディアの所以なのか。
2009.11.17
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石垣島はここ数年カフェと居酒屋の乱立状態である。似たような建物とほぼ同じメニューによって営まれるカフェが島の北側 山原地区に立ち並び、新規開業の居酒屋は島の繁華街・美崎町はもとより市街地全体に広がる勢いだ。離島という地域性を鑑みればあまりに特殊化・専門化するのが難しいのは間違いないのであるが、これら乱立状態のカフェや居酒屋の営業スタイルにはほとんど差異がなく、どう贔屓目に見ても横へ倣え式の発想が起点にあることは否めないと思う。カフェを始める大半は本土出身者であり、居酒屋起業の多くはシマンチュ(地元)であるわけだが、これら同一スタイルの店舗が乱立するのは観光都市として非常にうまくないように思うのである。つまり利用者側の視点から見るに『何処でメシを食っても同じだろ。出してるもん一緒なんだからさ。じゃ、何処でもいいよ』となるのは必至であれば評価寸評の行き着く先は魅力のない店。面白みのない島。つまんない石垣島観光なのである。そこんところを現在先駆的に体現しているのが島のTシャツ業界だ。どう体現しているかと言うと業界の方々が言うに『今はTシャツが売れなくなった』らしい。で、業界の方々がその原因を何処に求めているのかと言うと昨今の世の中の底なしの不景気のせいとなるのであるが、本当だろうか?勿論そういう社会的経済的な理由もあるにはあるのだろうが、そればかりではない筈だ。上記カフェや居酒屋の横並びの営業スタイルに先駆けること数年、島のTシャツ業界は似たような絵柄と似たような文字を書き連ねた横並びのTシャツの製造販売を拡大してきたのである。曰く。イチャリバチョーデーだのオーリトーリだのオジーオバー、アンガマー、泡盛、ゴーヤチャンプル、水牛、マンタ、エメラルドブルーの海みたいなキーワードをもとに出来損ないの習字を背中に入れ、かわいい系のイラストをそこにちりばめるだけのアイディアもなければデザインもしてるとは言い難いお手軽で安直なプリントをやり続けてきた結果としての『今はTシャツが売れなくなった』となるわけだ。商売だからという利いた風な大義名分を掲げ、一円でも安くプリントする業者を探すことには相当な時間と労力を掛けるくせにデザインや営業販売コンセプトを煮詰めたりはしないのだから世の中の人たちが欲しがるTシャツなど用意できるはずがない。島っぽいイラストか言葉なんかいれておけば観光客は喜んで買っていくだろうとあまりに観光客をなめすぎなのである。要するに。乱立するカフェや居酒屋の中にも真っ当なアイディアとスタイルを貫いているところも少ないながらもあるにはあるし、先駆けてダメになったTシャツ業界を横目に見つつ真っ当なカフェや居酒屋には是非頑張ってもらいたいのであるが、足を引っ張るどうでもいい店が多すぎるのが先行きチョット気になるところである。
2009.10.21
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どうして人は自分のことしか考えないのだろう。他人の気持ちを考えず、他人の立場を尊重せず、自分が一番大人物であるかのように振舞う人が世の中には多過ぎはしまいか。それに男女の別はない。最初から自分のことしか考えない奴、自分についてしか喋れない奴が半分。残りの半分は最初こそ他人を思いやる素振りを随分と上手にやってくれるけれど、しばらくすればやっぱり自分のことばかりだ。自分が一番きつい。自分が一番偉い。自分が一番わかっている。自分が一番苦労してる。自分が一番大変な思いをしてる。自分が一番考えている。自分が自分が自分が自分が―もうたくさんだ。世の中は阿呆ばかりだと中学生の頃に感じたのはやっぱり間違った感覚じゃなかったのだと最近つくづく思う。そんな他人同士の関係を見ているだけで胸が締め付けられるし、ましてや私自身の目の前にいる人からそれをやられると本当に呆れてものが言えなくなる。言いたくなくなる。『頼むから俺の目の前から消えてくれ。消えてくれないのなら俺が消える』日本人だけがそうなんだろうか。それとも異国でも同様なのだろうか。もしそうなら私は独りきりで生きるほうがいっそましだと思うのである。どうしてこんな世の中に…なんてフレーズはなんの役にも立たないけれど、せめてそう言うしか慰めはないみたいだ。それとも私が人間を買いかぶりすぎなのか。人と人はこうあるべきだ。社会は斯くあるべしだとか決め付けているわけじゃないけれどやはり期待や信用やマナーに重きを置き過ぎなのかも知れない。いっそのこと自分以外の人間は皆阿呆で馬鹿で卑劣で我侭だと思っていれば気楽なのか。でもそれじゃ自分もやっぱり同等同様の奴に思えて自己嫌悪に塗れなきゃならない。自己嫌悪にはこれまでも散々塗れてきたのに、まだこれからも続くのは御免こうむりたい。ま、しかし中学生の頃から連綿と続くこの違和感は死ぬまで抱え込む羽目になるのだろう。とても嫌なことではあるが、回避不可能ならぶつかるより他ないわけで
2009.10.18
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音楽が私の心を打たなくなって久しく、はて?これは一体何故なのだろうかと考えてみた。ま、考えるもへったくれもなくて、心が打たれるっちゅうくらいだからこちらはあくまで受身であれば打つ打たないは楽曲提供者側の問題だと思うのである。要するに現在の市場に並べられたどの音楽も人の心も打つ力のない腑抜けた楽曲ばかりが居並んでいるってことである。故忌野清志郎の言葉(歌詞)を引用させてもらえば差し障りのない歌詞。右の右から左の耳へ抜けていくような歌ばっかりなのである。アルバム一枚作るにも当世名の売れたプロデューサーなんかが一様に作るので演奏者が変わっても一様な調子だったりするし、株主だのスポンサーだの大企業の顔色を伺いながらの楽曲となるので歌詞の内容などもその振幅はひどく狭くなり、唄われる事柄と言えば必然的に企業側に差し障りのない愛だの恋だの一辺倒となる。これをもって業界ではマーケティングなどと呼び慣わしているようで情けない事この上ない。音楽に携わる人間が、それが例え演奏者であれ企画者であれ広報担当であれマーケティングなんて小賢しき振る舞いをするようになったらお終いである。誰が聞いてくれるからとか誰が買ってくれるからとか誰を怒らせないようにみたいな配慮で作られた音楽なんぞ音楽ではない。そんなもんライン生産に乗せられた工業製品となんらかわらないではないか。ま、音楽をご商売にするってのもありだろうからセールス成績のみを最重要項目として活動される方がいてもそれはそれでOKだ。例えば実際は男気なんてこれっぽっちも持ち合わせていない長淵某が男気を前面に打ち出して楽曲をセールスするなんてのがその好例だろう。こんなことを言うと巷の長渕某のファンはたいそうご立腹されるだろうが、もし本当に彼が立派な男気の持ち主なら男気のないことをやり続ける大企業や政治家や役人どもに対して当の昔に反歌のひとつも叩きつけている筈だが、その素振りは彼のどこにも見当たらないし、まず第一に男気のある奴がてめえのカミさんやブレーンたちに殊更に暴力を振るったりはしないわけで、以前彼に近い筋から聞いたところによれば彼がもっているのは立派な男気ではなくて強烈な幼児性だそうである。ちなみにこの手合いはどの業界でもセールス成績がいいようである。ま、そういう人がいてもOKなのだからそれ以上噛み付くつもりはないが、とりあえずこうも一様な楽曲が並び、似たような歌詞が並び、カラオケで歌われることを前提とした曲作りが通例になったりしているニッポンの音楽業界は一度瓦解するのが真っ当な道なのではなかろうか。CDが売れなくなったと言われる昨今、業界やマスコミは訳知り顔でその原因をネット配信に求めてひたすらに嘆いているようだが、音楽が売れなくなったのはやっぱり魅力のない音楽ばかりだからではないのか。我々リスナーはそう馬鹿ではないとの証ではないだろうか。心に響き、魂を打つ音楽が演奏されるのなら止められても聴きに行くし、そんな音楽をきちんとパッケージにしてくれるならちゃんと買いに行くのである。少なくとも私は。
2009.10.15
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台風のおかげで久方ぶりの無為な時間を持つに至る。北海道より石垣島へと住みつき十余年の月日を経るも我が心のうちに一向に郷里に向かう気配なく、何故にこれほどに彼の地にこだわるのか思惟を巡らせたのである。ブルーセイジの香など焚きながら。で、わかった。彼の地 沖縄県八重山には影が、大小無数の影が、もうそれこそそこら中が影だらけであり、若年の時分より世間の隅々まで広く蔓延るキレイごとやら偽善的言動やらポジティビティの賛美一辺倒が気に入らなくてしょうがなかった私にとって彼の地に差す影こそはまさしく捜し求めていたものであるのだ。何故に捜し求めていたかと言えば我が郷里に住む人々や都会に生く者の大半は影を否定し、否定まで出来ぬものは隠蔽し、否定と隠蔽のあとにくるのは忘却であれば、影の存在をまったく真っ当なものとして取り扱う若年の私はあらぬ批判に晒され、危うくそれら批判を甘んじて受け入れようとさえした事もあったが、やはり理を求めれば分があるのは当然こちらであれば本土都心部にて虚しき我が闘争を繰り広げる代わりに私は私の理を信じて疑わず、我が主張の正当性を立証したかったのである。とは言っても誰に対して立証したいわけではなく自分自身に対して裏づけを与えたかっただけであり、昨今わけのわからん凶暴な殺傷事件を起して嬉々としているどこぞの偽悪少年らと一緒にしてもらっては心外だ。私はただ「美味しいものを食えば臭いウンチが出るよ」と言ってるに過ぎないのだから。美味しい食事ばかりをファイルして喜ぶ趣味は持ち合わせていないし、ウンチを誰彼構わずに投げつけて喜ぶ性癖もない。あくまでそれら両方の意味と意義と存在を真っ当に取り扱おうではないかと言ってるに過ぎない。で、昨今の世の中はどちらかに偏った人ばかりがものを言うが、皆さん御自身の危うさに気づいてないのが私は怖かったりする。人を殺した奴は悪い奴だ。殺せ。死刑にしろと大合唱したり、覚醒剤をやった芸能人はその芸歴や人格まで否定し非難し尽くし、その一方で人を殺して何が悪いと概念ばかりをいじくり回して得意げになってるような阿呆ばかりが目に付きはしまいか。影を否定して影なきものの正しさを妄信するから一方で影ばかりを見せ付けて喜ぶ軽薄漢が現れるのであり、それこそが現代ニッポンの危うさの基幹部分だろう。私はそうじゃないと思っている。どちらも在るのだ。どちらもOKだ。どちらもあるから私たちは精神のバランスを整えられるのであり、どちらしか在ってはいけないとなるから精神のバランスも肉体のバランスも崩すのだろう。私はそう思っている。そして彼の地 八重山はどうだ。影だらけだ。ぶっきらぼうな顔で乱暴狼藉をはたらき、優しい言葉をささやきながら平然とひどいことをやり、それを責めると本人は全然悪びれていないし、本当に悪いとも思っていないようなのである。悪いってことばかりではなく、だらしないのも、いい加減なのも、約束を守らないのも、言葉に責任を持たないのも、変な言い逃ればかりするのもまた然りだろう。で、そういう連中ほど善き行いや楽しき語らいに腐心する感性をちゃんと持ち合わせていたりするし、それはまた同時にたいへん魅力的な人物であるよう私には感じられるし、そんな連中に囲まれて右往左往したり泣き笑いしている今の暮らし方が私はわりと気に入ってるようだ。ブルーセイジの薄い煙を吸いながら斯くのごとき自己分析をした次第。
2009.08.07
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清志郎の訃報に各方面ご冥福を祈るで一色だし、彼の遺志とか姿勢を継がねばだの、反骨精神を忘れないだのと体裁のイイこと言っちゃってくれてる著名人が多いけど(特に音楽関係者)、言葉にしたこと絶対守れよな。なんでって、どいつもこいつも大麻好きなくせに基本的には口を噤(つぐ)んでやがるだろ。だいたいが普段ろくに筋も通せない連中が反骨精神なんか実践できんのかね。放送禁止用語に汲々となってて真っ当な曲が書けんのか?中身や内容より体裁ばかり繕ってる連中に心が歌えるのか?愛だの恋だのばっか歌ってんじゃねぇぞ。そんなもん政治家だって兵隊だって誰だって歌えるんだ。くそっ。ホント忘れんなよ。清志郎の意思や姿勢を継がなきゃって言った奴らは絶対にやれよ。ちゃんと継げよ。なんでって、これまでそいつらの大半は全然そんなことやって来なかったんだから。愛と平和はスルーして、ひたすらに可もなく不可もない表現ばかりに長けてきた連中の言葉なんか信じられかって。これまで連中が上げるべき声をちゃんと上げてりゃ清志郎ばかりが反骨反骨って目立つこともなかっただろうよ。マジだぜ。ま、そんな方々にいきなり反骨の実践なんか期待してねぇから、せめて筋だけはちゃんと通してくれよ。バラエティ番組に出てもいいからヘラヘラばっかするのは止めてくれ。公共の電波使って内輪ネタで盛り上がってて何がエンターテイメントだよ。そんなもんそこら小中学生でも出来らぁ。アホ。テレビに出たり、雑誌に出たり、コンサートに客を集められる連中は社会的に影響力ある立場に居るんだから政治家だの大企業だの官僚だの頭の腐った連中に言うべき文句はちゃんと言ってくれ。頼むぜ、ほんと。もし言葉に出来ないなら本業でちゃんと、きちんと、当たり前に表現しな。ホントだぜ。清志郎の死に際して言ったこと絶対に忘れんじゃねぇぞ。ま、どうせ半分もやんねぇんだろうけど…
2009.05.04
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一昨日からよくよく考えたし、今更カミングアウトするまでもないし、私の書いてるものを読解している方々には明々白々なことなのだけれど八重山見聞録の作者もまた忌野清志郎の大ファンだ。ファンとかファンじゃないとかってよりボクらの十代二十代の頃は清志郎なしには死んでも語れないのさ。ありきたりな言いまわしを使うならNO KIYOSHIRO,NO LIFEってことかな。『トランジスタラジオ』や『夜の散歩をしないかね』を聴いてはカノジョに愛を語りまくり『雨上がりの夜空に』や『気持ちE』から夜通し遊び続けるエネルギーをもらったんだもの。そこまで聴き込めばポリティカルな部分なんかは勝手に同期同調しちゃって、原発もFM東京も政府の犬またはomanko野郎(←日本語では禁止ワードに設定してあるので書き込めない)としか断ぜられず、以後の人生を偽善者たちと果てしなく闘う羽目になった。ま、迷惑な話っちゃあ迷惑な話だ。清志郎の歌や曲に出逢わなければ波風立たぬ穏便な人生を過ごせたのかも知れないのだから。そう。例えばうちの親戚がちょっとお偉方の椅子に座っていた役所にでも引っ張ってもらって、選挙になれば自民党候補へ no thinking で投票し、三十路も半ばあたりで職場結婚、一男一女をもうけるものの四十を回ってから水商売のオンナに入れあげた挙句にあえなく離縁。で、ありがちな展開よろしくそのオンナにも捨てられるし、少々自暴自棄になるもあと15年ばかり養育費を支払わねばならないので簡単に公務員をやめるわけにもいかないって始末。あれ?あんまし迷惑でもないかも知れない(笑)そう。あの頃に清志郎の歌と出逢わなければ私は上のような人生を送っていたのかも知れないのだ。清志郎の歌があればこそ色々と痛い目にもあった甘い甘い恋愛の数々があり、人生も仕事も教わりっぱなしの諸先輩との出逢いがあり、ユーラシア大陸を周遊し、日本を縦断し、此処八重山に移り住むに至ったのだ。彼の歌はクソガキどもの魂を揺さぶったし、目を覚まさせたし、行くべき道を照らしてさえくれた。そう。まさにsoul musicだ。ザ・ジャパニーズソウル。それが彼に相応しい称号のように思う。ロックの神様はちょっと変かな。だって、彼はソウルが大好きだったんだぜ。ま、彼は称号なんか欲しがる人じゃないけどね。
2009.05.04
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島へなんか来るんじゃなかった。嗚呼、阿呆か俺は。それが最初に親方の家に連れて行かれて最初に思ったことだけれど、後悔が先に立つならば世の中の誰も苦労はしないし、後悔から学ぶべきものが幾多とあるのは人類の歴史を振り返ればわかるのか否かもよくわからないが、とにかく俺は開き直るより他に術がなかった。だってポケットの中には20円しか入ってないのだから逃げようもない。此処は島なのだ。離島だ。どこでもいいから隣の島まで逃げようにも数キロメートルは隔てられている。遠泳よろしく島から島へと波掻き分けて泳ぐなんざ俺には叶わぬ芸当であるし、船で逃げるには船賃が掛かるとなれば、当世、20円なんかじゃ親戚のおじさんに肩車すらしてもらえないである。否々、親戚のおじさんは肩車に乗車賃など求めぬだろうが、此処は八重山、泣く子も黙る日本列島の南の果てなのだから親戚のおじさんなど影も形も見えないじゃないか。ちくしょう。どうしてくれる。責任者出てこいよ。なんで俺がこんなところまで来なくちゃいけないんだ。一体全体どういう流れなんだよ。自分のことを親方と呼べなんぞと俺にぬかす島のオヤジはどう見てもヤバイ奴じゃねぇか。こいつが寝泊りしろとぬかす小屋はどう見ても倉庫か物置だ。いやいや、この相当の悪臭からして家畜でも飼っていやがったのかも知れない。ま、物置でも家畜小屋でもまだしも片付いているなら話もわかるが、どの角度から見ようとも、100歩は譲ろうとも、これまでの人生で他人にしたとのないくらいのbiggestな譲歩をしようともゴミとしか断じられぬ正体不明・用途不肖の物品の断片破片が堆(うずたか)くも散乱放置されていて寝床はおろか立つ場所すらない有様である。よく見りゃ鳥の羽なんかも宙を舞っていて俺はここが鶏小屋だったことを確信し、親方に尋ねてみたのである。「ここ、ブロイラー飼っていたでしょ。ね。そうですよね」親方は無言の上にこちらを振り返ろうともしないから俺は激しかける。ちくしょうめっ。まったくツイてないったらありゃしない。まじで鶏小屋で寝泊りかよ。いくら丁稚まがいとは言え21世紀の世の中に、それも日本国の領土内において鶏小屋に寝泊りしなけりゃならない境遇にあるのは田舎暮らしのうえに親から虐待受けてる子供か俺ぐらいのものだろう。まったくもって不遇である。南の島々の貧乏神も悪鬼悪霊も全部この身に引き受けてしまったかの如き苛烈なまでの落胆が去来し、俺は今にも崩れ落ちんばかりの態となる。
2009.04.29
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島には地元のご老人が多いのはもとより、本土から移住してきたリタイヤ組や定年退職組などのご老人が大挙して住んでいらっしゃいます。言うなれば此処石垣島は老人の島なのかも知れません。否、石垣島ドライビングガイド2009的には【老人の島である】とはっきり定義したほうがむしろ好都合です。なぜかって?そのほうが島を訪れる方々に必要なだけの注意を喚起できるからなのです。つまり、相当の注意がドライバー側に必要なほど地元・島ナイチャーを問わず島のご老人たちはアブナイってことです。なにがアブナイかは言うまでもないでしょう。左右の確認などこれっぽっちも出来ないし、道を渡る自分を優先していかなる車もバイクも自転車も停まってくれるもんだと傲慢にも思ってるのです。注意確認する能力もないし、注意確認する気もないのですから島のご老人たちはまさに道を渡る凶器です。過失のほとんどないドライバーたちに多額の医療費や慰謝料を請求し、ドライバーやライダーたちの家計と人生に多大なダメージを負わせる人間凶器なのです。つい先日のことです。島では石垣島トライアスロンなる競技が挙行されました。市街地の幹線道路は仕切られ、バイク競技やラン競技のコースとなります。当然それらコースの横断や通過は人も車も規制されます。コースの警備や整理に当たるボランティアスタッフも大勢います。でも老人たちはそんなものお構いなしに自分が渡りたい時にコースを渡るのでございます。当然、バイクやランの選手と交錯しそうになることもあります。選手はタイムトライアル競技をしているのですからコースに障害物はないことを前提に自分が出せるだけの速度で走っています。コースに老人が飛び出してくるのを前提とはしていないスポーツ競技ですし、飛び出してきた老人を避けようと無駄なブレーキを掛けるだけでそのたびに成績が下がるし、もし実際にぶつかった日には選手も老人も双方が大破すること請け合いですから堪ったものではありません。これは偏に大会運営側の管理能力が著しく低いせいで大会スタッフが地元在の爺さんがたの傲慢で不注意な道路横断一つ注意できないことに原因を求めることも出来ますが、やっぱり最終的には爺さんたちの不用意で自己チューな人間性に問題があるのだと思います。かくいう私もバイクに乗り始めた過去五年のあいだに二度ほど爺様と婆様をそれぞれ轢きそうになったことがあります。でもホント轢かなくてよかったですよ。あそこで轢いていたら今頃交通刑務所で毎日交通事故のビデオを見せられて嫌な気分で毎日を過ごさなければなりませんでしたからね。島を訪れ、車両を運転される方は是非ともご注意ください。
2009.04.28
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石垣島ドライビングガイド2009もまだ総括(完結)してないのにもうカーボンオフセットツアー2009かよ!って感じなのだが最近は島の交通事情の只中にあまり刺激がなくてドライビングガイドを書くモチベーションが維持できないのだから仕方がない。これが例えば飼い犬に軽トラの運転をさせてる島のオヤジを見掛けたり、カブ号の荷台に山羊を乗せて走ってる奴なんかが周囲にいると【書かねばならぬ!】ぐらいの激しいやる気・使命感・魂の慟哭みたいなものも湧き上がるのに誰もいないのである。ここんところの石垣島ときたら誰も彼もおとなしく常識的な運転になっちゃって、なおかつ小市民的な態度で以ってハンドルを握るていたらくであるからなかなかこちらの書く気にも火がつかないのである。ってわけで本日はこのようなタイトルを付けたのはいいのだけれど、カーボンオフセットツアーって意味がイマイチわからないwww意味がわからないってより本来言葉から紡ぎ出される筈のイマジネーションが一向に伴わないのである。ま、断片的イメージならなんとか。そう。カーボンと来ればカーボン紙。オフセットならCMYKの4版とゴムブランケットを使った印刷方法。ってことはカーボンオフセットツアーってのは『カーボン紙を印刷する旅』なのか。ってな事にはならない。残念ながらwwカーボンは炭素。オフセットは相殺。だからカーボンオフセットツアーを直訳するに炭素相殺行(タンソソウサイコウ)となるわけだが、相殺ってからには排出した炭素をなんらかの形で消費するか他のものに置き換えないといけないわけで、二酸化炭素排出規制やらなにやらで揉めている現状から言えば、多すぎる二酸化炭素を埋め合わせるための行動を伴わないと言葉の意味に沿わないのである。それで皆して木を植えたりして二酸化炭素を相殺しているつもりになっているわけだけど、やっぱりそれは極一部の方々の行動に過ぎなくて、そんなんじゃ出したぶんの炭素の相殺にはほど遠いのであり、相殺するに値するには植樹もそれ相応の数量が必要だ。つまりカーボンオフセットツアーを世の中に広く広くどこまでも広く敷衍しなけりゃならない。じゃ、どうやって広く敷衍するかって言うとそれこそポスターだのパンフだの広告印刷各種を大量に作って、テレビコマーシャルなんかもガンガン打って、あの手この手でタイアップして、キャンペーン張りまくって、カーボンオフセットと絡めたイベントだのライブだのに大勢を動員して一大ムーブメントにしなければいけないのである。しかしである。そのムーブメントを立ち上げるまでの多大な努力・多数の工業製品の生産・大量動員を掛けることによる消費行為の拡大は更なるカーボン排出量の増大をまねき、ぜんぜん、一向に、まるで相殺のめどが立たないではないか!どうなってんだ一体!責任者でてこい。ちくしょうめ。なんてシニカルなのはどうなんだろう。
2009.04.25
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夢など百害あって一利なし。やや極論であるが、現実というものをきちんと見据えた言葉であると自負している。だいたい誰が最初に夢なんちゅうあやふやで、一面的で、視野狭窄に陥るような概念を肯定し始めたのだろうか。で、世間一般じゃ誰も彼もが「夢だ夢だ。夢の実現だ。夢を追いかけるんだ」なんて妙に堂々と胸張りまくり気味に騙ってくれるが、よくよく聞いてみりゃほとんどの『夢』ってのはプロ野球選手になりたいだのハリウッドで映画を撮りたいだのパティシエになりたいだの一億円稼ぐだの成功報酬満額型とも言えるような極めて尻の穴の小さな、まさに自分さえ良ければOK!自分のことしか見えない的な夢や希望ばかりなのである。なんじゃそりゃ。と私は思う。妙に威張りくさって夢だ希望だと語ってくれるなら戦争紛争のない平和を世界をつくってみせる!ぐらいのことは最低限言って欲しいのであるが、ま、300歩から500歩ぐらい譲って、せめては「外国に武器や兵器を輸出するような企業を叩き潰してやるよ」とか「労働基準法を遵守する真っ当な会社を作りたい」ぐらいの夢や希望を大見得切って提示してくれたらこっちもまだ納得できるのであるが、なぜか今までただの一度もそのような夢や希望を私に語ってくれた人はいないのである。夢や希望を持ち、それを語ることをポジティビティの証しのように思ってる人は巷にそれこそ腐るほどいるのに、ジョンレノン程度の世界平和を夢や希望として語ってくれる人はまずお目にかからない。がっかりである。だから、人から夢や希望を聞かされた後にいつも聞かなきゃよかったと、そう思うのである。翻って島を見てみよ。夢だ希望だなんて安直でゆるゆるで視野狭窄的なことを言う奴はほとんどいない。ほとんどいないが皆無ではない。若造は夢や希望を語ることを100%全面的に肯定した学校教育を受けている現状であるからやっぱり若年者は夢を語り東京だ大阪だのの学校に言って夢の実現に一歩踏み出したつもりにもなる。しかし島の先輩方は大したもんだ。夢なんて眠ってみる夢だってろくに語らない。先輩がたの頭の大半を占めているのは手を掛けてるキビ畑のことだったり、釣ってきた魚を誰と誰に配るのかだったり、今年の豊年祭の企画立案準備などの各段取りや所属する野球チームが当たる対戦相手の戦力分析なのである。はっきり言おう。夢は人を駄目にする。夢だ希望だと耳障りのいい言葉で自己満足に浸りきっている輩に真っ当な大人はいない。自己満足に浸るのは勝手だが、それを夢だ希望だと大見得切られるのは他人の迷惑だ。若者よ。今こそ夢を捨て、自分の足をじっと見つめ、それから顔を上げて目の前の仕事をきっちりこなそう。浮かれず騒がず腐らずただ淡々と生く。それが島の諸先輩が実践する人としての生き方・考え方ってもんだ。浮かれ浮ついた世の中にどんどんなって行くのでここらでちょっと耳障りの悪いネタを挟んでおいた次第。
2009.04.08
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さて交通弱者編の第二回で採り上げるは石垣島の歩行者の方々でございます。自転車編でも申し上げたように石垣島の歩行者の特性が不注意にある事は鉄板(=堅く動かしようのない事実)であり、更に言うと不注意なばかりでなく精神的にも肉体的にも弛緩しておりますのでセイフティドライブの大いなる脅威となることは必至でございます。島外より訪れた皆様がいくら時速30km/hでゆるゆるとレンタカーをドライブさせようとも歩行者を轢いてしまえば元も子もございません。島の爺さまの一人も轢いてしまえば観光気分は何処へやら。ついでに認知症の入った婆さまなんかまでその手で逝かしちゃうとあなたはもう立派な犯罪者です。二度と再び安穏とした本土の暮らしには後戻りのできない立場へと追い込まれること必至です。そんなネガティブな近未来像を打ち消すためにもあたなは石垣島の歩行者の特性を頭に叩き込んでおかねばなりません。ちょっと国内に観光に行くだけで何故にそこまで覚悟し、準備し、この期に及んで現地歩行者の情勢の予習までせにゃならないのか疑問を覚えることでしょう。その決して小さくないストレス、お察し申上げます。しかし、石垣島観光に行ってまで犯罪者のレッテル貼られたくなければ、まず、あなたは石垣島の歩行者の生態や特徴をしっかりと頭に入れ、その特性に応じた対策を講じなければなりません。ではその特性の最たるものは何か?それは彼らの『轢かれる事を恐れない』という姿勢です。彼らの言動を詳細に分析にするにどうやら彼らは『車に轢かれても自分は死なない。死ぬ筈がない』と思い込んでるふしがあるのです。この優越的とも思える自己特別視が何処に由来する感覚なのか私にはわかりませんし、身につけるのはあまりに危険なのでわかりたくもありませんが、間違いなく島の歩行者各位には染み付いている感覚です。これは私の推測ですが、自己と車両を相対化して考える訓練が為されていないのでしょう。エンジンがついた金属の塊と骨と筋肉で成形された自分を同一の次元に置換することができないのです。彼ら島の歩行者にとって両者はパラレルワールドに分けて存在す……って話が面倒な方向へ行ってしまいそうなので元に戻しましょう。だからともかく彼ら島の歩行者はブラインドコーナー(見通しの悪い曲り角)だろうと一時停止だろうと優先道路が何処だろうと軽やかに飛び出します。轢かれた後のことを想像できないのだからそりゃあ楽に飛び出せるんです。そして痛みというものはあらかじめ脳に痛みの大きさや種類、持続時間などが登録・インプットされていないと意外に知覚するのが難しいものですから未経験の痛みに対して無知なる人は鈍感を通します。『あれあれ?今オレ轢かれたよな?両脚の上を車が通っていたよな?なんだよ、全然痛くないじゃん。平気じゃん。あ、これなら病院なんか必要ないわ!大丈夫大丈夫』ってな次第で多くの島の歩行者は車に多少轢かれようとも車体をぶつけられようとも平然と立ち上がり何食わぬ顔でその場から歩き去ったりするのです。まったく…。こっちほうが呆気に取られますが、轢いた人にとってはラッキーでしょう。ラッキー以外の何物でもないですね。人一人轢いてもお咎めも罰金も示談も免許の減点も求められないのですから。でもだからと言ってレンタカーをドライブするあなたが弛緩しちゃダメですよwww
2009.03.17
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さて自転車・歩行者編ですが、本題に入る前にひとつだけ確認しておきましょう。本来、道交法的には自転車とは車両扱いとなり車道を走るべきものなのですが、ここでは交通弱者との視点から歩行者と同じくくりで取り扱うものとさせていただきます。そして本項でまず最初に覚えておくべきは石垣島の交通弱者を言い表す言葉でございます。ひとことです。不注意これ以上でもこれ以下でもございません。不注意なんです。不注意の塊です。私は石垣島ドライビング協会会長を拝命いたしますその以前、ユーラシア大陸を陸路一周し、帰国した足で日本各地を自転車で走破してまいり、それ相応の数の街々で交通弱者を見てきたつもりですが、私は石垣島の人ほど『不注意』な人たちを存じ上げませんwwwそうなんです。とにかく不注意です。生きる不注意と言っても良いかも知れません。しかしながら不注意不注意不注意とただ繰り返すだけでは当ドライビングガイドをお読みになる方々も不注意の実態が把握できないばかりでなくその対策も困難となるでしょうからこれより石垣島における交通弱者の不注意の実態とその対策をレクチャーさせていただきましょう。まず自転車。これが最悪の不注意です。歩行者に比べかなり速く動くので自動車運転側の対策も難しく、私個人の意見としましては『石垣島における自転車禁止条例の策定』が火急の課題かと存じますが、ま、個人的意見はさておきまして先んじてその実態を申し上げますにやっぱり不注意なんです。年齢は無関係です。とにかく幼児だろうと中年だろうと老人だろうと自転車に乗ってる方は全員不注意だと、そう思ってください。だって彼らはトラクターと軽トラぐらいしか走らない農道だろうと交通量の多い幹線道路だろうと無関係に飛び出します。左右の確認ぐらいするだろうって? バカ言っちゃいけません。誰が確認なんかするもんですか。特に小中学生なんかは自転車立ち漕ぎで勢いつけたまま飛び出してくる事だって決して珍しくありませんから仮に彼らが左右の確認していたところで如意に停まれるはずもなく不幸にも飛び出し現場に丁度走ってきた自動車に轢かれるか、もしくはぶつかって初めて停まるのです。そして彼らは横列を組みます。つまり自転車が横に並んだまま車道を走るので三列も組まれると車線片側の半分まではみ出しますし、四列五列ともなると完全にセンターラインにかかります。彼らによって車線は完全にふさがれてしまうのでございますから安全なるレンタカーライフの障害になることこの上ございません。飛び出されようと車線をふさがれようと彼らを轢いたり接触したりすれば罪を問われるのは車の運転者なのですからね。ではどうしたらいいのか。そうです。彼ら不注意なる島の自転車軍団に対してあなたが取れる対策はひとつです。ひとつしかありません。それは…あなたが注意してください!。注意の塊になってください!!幹線道路だろうと農道だろうと常に時速30キロ程度で走り、左右に、交差点に、支線に注意を凝らしてセイフティドライブを命がけで行ってください。それしかありません、残念ながらwww
2009.03.09
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IDG2009も【総括編】を迎えまして、これにて一巻のおしまい。「皆さん、さよならサヨナラさよなら」と終わる筈だったのですが、ここはひとつワルノリさせていただき…じゃなくて、石垣島ドライビング協会会長を勝手に拝命いたしましたからには、より詳細なるIDG2009を作るべく石垣島のドライビング事情の端から端までレポートする所存にございますので皆様おつきあいのほどよろしくお願いいたします。では当初の予定でした総括編は先送りとし、本項は石垣島の暴走族についてお話させていただきます。まず、人口5万人に満たない石垣島に暴走族なんかがいるのか否か疑問を覚える向きもございましょうが、これがなんと暴走族はいらっしゃいます。ただし、ニッポン本土の地方都市近郊で確認できるような暴走族とは規模も質も異なります。本土の場合、彼らが駆る主要マシーンは大排気量の車両だったりスポーツタイプだったりしますし、二輪車なら250ccもしくは400ccとなりますが、これが石垣島だと車両タイプは皆無(※)であり、皆無とまで言わなくとも軽自動車(改)が数台あるばかり。バイクなら一部125ccが確認できるものの主流はあくまで原動機付自転車、通称原付となるのでございます。(※それらしき車両は島内を走っているものの彼ら自身は自らを暴走族とは定義せず、あくまでドリフト族を名乗っています。)で、夜のとばりが石垣島に下りますと原付五台くらいが並んでやかましげに走ってきます。中に一台くらい90ccもあったりします。それが二人乗りなんかで、マフラーに穴あけてブリブリブリブリ言わせながら、アクセルでブンブン、ブブブン、ブブブン、ブブブンと調子をとりながら街の端から端まで走っていくのでございます。でも、端から端までと言っても石垣島で市街地と呼べる区域のサイズは精々が2km×5kmなので彼らもすぐに走り終えてしまいます。往路片道10分ってところでしょうか。なので一往復するくらいで暴走行為が終わってしまうと彼らもたいへん暇を持て余すことになりますので仕方なく何往復かするわけです。ま、単純に折り返すわけでもないので市街地を何周かすると言ったほうが適切かもしれませんが、とにかく彼らはそうして島の長い夜をやり過ごすのでございます。もうこれは暴走行為というよりは石垣島の暇くさい夜を過ごすための若者の知恵なのかも知れませんね。それに彼らはちゃんと信号も守りますので島外からいらっしゃる方々のレンタカーライフに多大なるプレッシャーや実害を与えるものではございません。かかるにIDG2009読者各位が殊更に注目すべきものではございませんのでどうぞご安心ください。それよりはレンタカーライフにとって脅威となりますのは次項で採り上げます【自転車・歩行者編】であるのは議論の余地なきところでございましょう。どうぞ次号もお楽しみに。
2009.03.08
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ニュース番組で見た夜の大阪あたりの繁華街では三車線路のうちの二車線にタクシーがびっしりと縦列で停車して他の一般車両の往来を激しく妨げているようですが、当のタクシー運ちゃんたちは全然に意に介すところなく「邪魔?アホか。これが大阪や」言うてました。そんな極めて破廉恥な交通事情に慣れ親しんでいる大阪の方々をも唸らせるのが御当地・石垣島の駐停車事情でございます。どのように唸らせるかと言いますと、例えば車線を逆走してくる一台の車両を前方に発見したとします。やばい。どうしよう。こっちが反対車線へ逃げるべきだろうか!と焦った次の瞬間です。逆送してきたかに思えた車両は路肩へと寄せて停車いたします。そうです。島のドライバーの方々は反対車線側にある友人の家の前あたりに駐停車しようという場合にはわざわざ回り込んだりはせず、そのまま真っ直ぐに反対車線へ侵入し、反対方向を向いたまま車を停めてしまうわけです。もしかしたらこの程度はどこの地方都市でも散見できる状況なのかも知れませんが、やはり観光地石垣島でレンタカーを走らせている際に正面から逆送してくる車を見つけると一瞬焦ると存じますのでご注意申し上げる次第です。しかししかし、逆走駐停車など石垣島ドライビングガイド【駐停車編】では序の口に過ぎません。では幕内クラスあたりではどうなるかと言いますと、幕内レベルのドライバーともなりますと路肩へと車両を寄せることなく駐停車いたします。そうです。車道を走っている状態のままハンドルをほとんど左へ切ることなくブレーキを踏み、車両を停めるのです。だから確かに邪魔で仕方ありません。後から追い越そうという場合には完全に反対車線へと逃げないと交わせないので交通量の多い時間帯にそれをやられると、みるみる間に辺りは渋滞車列が出来上がるわけですが、渋滞の元凶となった当のドライバーはまったく意に介するところなく、路肩へ車を寄せるでもなく、運転席に座ったまま携帯電話片手におしゃべりに興じるばかりです…………いやいや、こんなことで唖然となっては石垣島でドライビングは出来ませんね。で、大関横綱クラスでございますが、これは凄いです。どう凄いって、交通的に破廉恥な大阪あたりでもちょっと見れないくらい凄いかと存じます。勿論大関横綱クラスなので数量的に多いわけではなくレアケースであることは確かですが、石垣島でレンタカーを運転される場合にはやはり留意すべき注意事項のひとつでしょう。ひとつ確認しておきますが、信号のある交差点とはつまり、ある程度の交通量があるから信号が設置されているわけですよね。そうですよね。って勘のよろしい方はもうわかったかと存知ますが、そんな交差点の角、もしくは交差点の横断歩道の上あたりに駐停車してしまうのが石垣島のドライバーの横綱クラスでございます。これは正直危ないです。危険です。本土から訪れる観光客の多くは、まさか交差点上に駐停車している車なんてあるわけがないと思っているでしょうから余計に危ないのです。それで私は一度、交差点の角に車を停めた島のドライバーに尋ねたことがありました。私がその車両を眼前に発見したとき丁度ドライバーが降りてきたのです。「きみ、待ちたまえ。そう。あなたですよ。いいですか、このような場所への駐車は非常に危ないと思うし、完全に道交法違反だと思うのですが、何故にあなたは交差点に車を駐車させるのでしょうか?危ないとは思いませんか?」と私は詰問いたしました。ドライバーはそう言い放った私の顔を不思議そうに見ながら次のようにおっしゃるのでした。「はぁ?だってここに用事があるのにな」と怪訝な抑揚を隠すことなく私へ向けつつ交差点の角にあるお店を指差したのです………。「いや、あの、私が尋ねているのはそういう事ではなくて…………おっと!気を取り直しましょう!そうです。ことほど左様に石垣島のドライビングには難しい側面もございますが、安全運転に心掛け、島のドライビング事情を常に頭に入れておけば快適なレンタカーライフを楽しめるはずです。みなさまの健闘を祈ります…※次回は最終回【総括編】です。
2009.03.06
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なかなか一時停止してくれない車列に業を煮やして強引に鼻先を突っ込み、どうにか幹線道路へと出たあなたは島のガイドマップとカーナビを頼りに目的地へ向かいます。あなたの前を走っているのは国産高級車を駆る地元男性です。たまたまあなたと行く先が同じらしく、交差点であなたが曲がりたいほうへと先に曲がって行きます。しかしあなたはちょっとコワくなります。と言うのも、もうかれこれ五回は曲がっているのですが前を走る国産高級車の方向指示器が一度たりとも使われる事がないからです。交差点に差し掛かると国産高級車は減速するのでどちらかに曲がるであろう事は予想できるのですが、方向指示器が出ないのでどちらに曲がるかわからないし、指示器が出ないばかりではなく、国産高級車のドライバーは元レーサーなのか曲がるときにカウンターを当てる癖があるらしく、例えば右折時には交差点直前で一度ハンドルを左へと切り、車体を左に向けたまま交差点に進入し、そこから右へハンドルを切り返すので彼の後方を走るあなたにとっては危なっかしくてしょうがないわけです。左折時には勿論その逆をやります。しかしながら国産高級車の運転手が必ずカウンターを当てて交差点を曲がるのか、それともすんなり曲がる事もあるのか予想もつかないあなたは交差点でひどく減速する国産高級車を追い越すことも叶いません。難しい場面とお察しいたしますが、ここは堪えてください。方向指示器を出さないのは確かに危険だし道路交通法違反でもあります。しかしあなたの前を走る地元男性は石垣島全体をご自分の庭と認定しており『自分の庭を走るときになんでわざわざウインカーを何度も何度も出さにゃいかんのか!アホか!ふざけんな』と思っているので道路交通法違反だとか危険運転だとかいくら言って聞かせても無駄なのでございます。だから堪えて下さい。ぐっと堪えて下さい。警察に言っても無駄です。だって警察車両を駆るおまわりさんでもウインカー出さない人がしばしばおりますのでwww石垣島では。そうこうしているうちあなたは無事に国産高級車の後方から脱し、静寂の海辺を目指して車を走らせます。整備の行き届いたレンタカーはエンジン音も軽やかです。まもなくしてあなたは同じ車線の遥か前方に一台の軽トラックを発見します。あなたの目には一瞬その軽トラが道路上に駐停車しているかのように映ったのですが、そうではないことにあなたはすぐに気がつきます。そうです。なんと軽トラは時速20km/hで走っているではありませんか。追い越そうにも道はカーブの連続で対向車の有無が確認できないし、そのうちに時速20km/hの軽トラの前に更にもう一台同じ速度で走る別の軽トラが現れて、その二台の軽トラが適当な車間距離をとって走るものだから二台まとめて追い越すにはそれなりの距離を一気に加速しなければなりません。しかし対向車も多く、なかなか追い越すポイントが見つけられないのです。答えはひとつです。あなたも時速20km/hで走って下さい。あなたの後方にはまもなく時速20km/hで走る車列が出来てしまうかも知れませんが、そんなことには構わなくていいのです。だってそれが島の日常ですからね。というわけで次回は【駐停車編】でございます。お楽しみに。
2009.03.01
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はじめまして。石垣島ドライビング協会 会長の仁科たかしと申します。2009年春を迎え、石垣島観光もこれから最盛期に入ろうとしています。つきましては石垣島を初めて訪れる方々に向けて当地でのドライビングを安全に楽しんでいただくための石垣島式ドライビング心得についてガイドさせていただきましょう。本土でドライビングする方々におきましては、これからお話する石垣島式ドライビング心得のなかにはあまり馴染みのない状況や規則が幾つか出てくるかも知れませんが、いかなる場合であっても現実は現実として受け止める度量がなければいけません。よろしゅうございますね。さあ、それでは石垣島全島ドライビングに出発する事といたしましょう。『出発』レンタカーに乗り込んだあなたは、まずレンタカー屋の敷地から道路に出なくてはなりませんが、レンタカー屋の多くは幹線道路沿いに位置しておりますので深夜早朝でない限り当然交通量はそれなりに多いわけです。島の道路は基本片道一車線ですし、離島とは言え経済成長ってなものも多少なりともございますので車の台数は増加の一途をたどっております。つまり、ちょっとタイミングが悪いと一車線の道路に延々と数十台の車両が連なっている場合もございます。そうです。レンタカーに乗り込んだはいいもののあなたはなかなか幹線道路に出る事が出来ないのです。さあ、こまりました。車列がなかなか切れません。ふと見ると車線の先30メートルほどにある信号が赤に変わりました。車列が速度を落とします。信号でどの車も停まるわけですから本土式交通マナーであればあなたの車はこのタイミングで幹線道路に出られる筈です。そう。レンタカー屋にさしかかった車のドライバーがパッシングしたり目配せしたりしてあなたを先に行かせる筈ですよね。どうせ数メートル先で停まるのですから。しかし石垣島は違うのです。そう。幹線道路に走るどの車もあなたを道路に出すことなく詰め詰めで信号に停まるのです。あたなの目の前は停車した車列でブロックされるのです。この時、もしかしたらあなたは島のドライバーたちに意地悪をされているように感じるかも知れませんが、それは違います。下種の勘繰りです。これは意地悪ではなく、あくまで石垣島ドライビングマナーなのです。心得て下さい。車列が切れるまで待つ。待たせる。これが島での基本マナーです。もしあなたが約束の時間に遅れそうなので急いでいる等の事情があった場合は仕方がありません。車列に多少無理矢理にでも車の鼻先を突っ込み、こちらへ走ってくる誰かに急ブレーキを踏ませなければなりません。急ブレーキを踏ませることは本土式では悪いマナーとされていますが、島では違います。急ブレーキ踏ませることに悪びれるドライバーなんて石垣島には存在しないのです。例えば時速50km/hで走る車列の中に無理矢理出てきてこちらに急ブレーキを踏ませ、そのまま時速25km/hで走行するドライバーの後方に付かねばならないのは石垣島では決してレアケースではなくて言うなればモデルケースです。私、仁科たかしなどはわりと短腹なので「おい!25km/hで走るんなら飛び出てくるんじゃねぇよ!」といつも激したりするのでいつも後から自分を戒めることになります。『これが普通なの。ね、これが島のドライビングマナーなんだから、怒っちゃダメダメ』って。さあ、ナントカ道路に出たあなたは又しても島のドライビングマナーに翻弄される事となりますが、それは又明日(かな?)※走行編につづく
2009.02.23
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街場の評論。酒場に巣食う批評家たち。古今東西 洋の別なく本土と離島の別もなく一億評論家と言われるようになって久しいニッポン国にはこれらの人たちが巷に溢れている。勿論石垣島にも大勢いて、彼らは相手構わず批評を浴びせかけ、偏狭なる評論の俎上にあらゆるものを乗せてしまう。で、これが【誰彼構わず】【あらゆるもの】の批評・評論の図だけならばその舌鋒の矛先がぼやけるぶんこちらもまだ安心して聞いていられるのだが、しばしばその道のプロを正面にして一説ぶちかましてしまうから、外野で見ているこちらとしても非常にハラハラしたりするのである。で、タイトルにあるようにプロ野球選手相手にバッティング理論の自説を開陳せしめる。例えば石垣島には千葉ロッテが春季キャンプにやってきて、来島時やオフ日なんかには接待やら慰労やら色々と行われるわけで、豪を自覚する選手は各々酒席を設けるわけで、そこらでしばしば接待側にいる島の関係者が自説開陳に走ってしまうのである。まぁそれでも偏狭であれ誰かの受け売りであれ自説開陳だけで留まっておけばいいのであるが、人生50年以上も生きてしまうとクソ度胸がつくのか自分の立場や相手との力関係が量れなくなるのか不明であるが開陳だけで済ますことが出来ずに暴走を始めてしまうことがある。プロ野球選手(野手)相手にバッティング指導を始めだすのである。いわく。「きみね、去年の夏場の打撃不振はそこんところが出来てなかったんだよ。身体の開きですよ開き。でしょう?自分でもわかるでしょう。ねぇ。開いていたんですよ。球を呼び込むときに身体が開いてちゃ軸が回転できないの。軸の回転。ね、さっき言ったでしょう。だからあの開きを直すには踏み込みをまず修正しなさい。ホームベース寄りに踏み込めば大丈夫ですよ。そうすれば軸がバチッと決まって身体が開かずに球を強く叩けますから。僕もね、若い頃はそれで随分打ちましたよ。打率5割以上の年もあったからねぇ。うん。あった、あった。やっぱりね、5割を打つってことは身体が開いてちゃ―――」(筆者注:打率5割を打ったのはもちろん草野球での話。指導をぶちかます相手はプロ野球選手)ま、選手側も呆れてそれを聞いてることは推察するに難くないわけで、KYどころか話す相手の心情を読めないと斯くも馬鹿馬鹿しいことになるし、自分と相手との力量差を正確に推し量れなければ力説すればするほどにかなり寒いギャグとなってしまうことを肝に銘じて欲しいのであるが、彼らは他人からの進言や注意や叱責なんかを一向受け付けない性質なので言うだけ無駄ってもんであり、私はただ面白がってみているだけである。街場の評論とは得てしてこのようなものであるし、それが辺境の地に行けば行くほどに自説を練る機会が少なく、又幾多の他説に耳を傾ける機会も数量的に限られてくるのでどうしても独善的になりがちである。自戒を込めて記しておく。
2009.02.05
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昔から繰り返し使われてきたモチーフであるが、ヒトってのがどうにも猿っぽく見えて仕方ない昨今である。我と我が身を振り返ってもそうであるし、他人や周囲の動向なんぞを窺ってみてもヒト=猿説に確信を抱くばかりだ。まず何よりヒトは集団を成さねば生きていけないってところが猿っぽい。家族だ親族だ一族郎党だ友達だ同窓生だ会社だクラブだ政党だと所属組織を求め、そこで規範に倣い、規約に従い、社会性などいう共同幻想を身にまといつつ肉体的にも精神的にも物理的にも所属集団への依存によって生きるのである。現行、その極めつけは国家と言う集団となるのは言うまでもない。で、子殺しが出来るってのも猿の様式だ。一般にはあまり知られてないかも知れないが猿ってのは子殺しをやる。小集団を成す種類の猿なのであるが、政権交代でその小集団のボスが入れ替わると前ボスの血縁を引く子供は全員ニューリーダーの手で殺されるのである。じゃ、母猿がそれに抗議したり抵抗したりしないのかと言うと母は我が子を殺されると逆に発情するらしく、すぐに新しいボスの子を身篭ることになるのである。発情ってのものの仕組みが垣間見えるチョット怖い話であるが、発情システムがゆるくなってるヒトの世界では皆さんおなじみの話であると存ずる。他にも猿様式はたくさんあれど私が感ずる猿っぽさナンバーワンは「強い指導者を求める」ってヒトの姿勢態度心根ではなかろうか。大きな集団を一個体(大将)が仕切る君臨する威張るって構造は数多い生き物の中でも猿に特有の性質であり、社会性を持つ生き物は他にもあれど一個体が統治する形態ではないのである。特に我々ニッポン人は強い指導者大好きだ。やってることや言うことの中身や結果なんかどうでもよくて指導力が第一なのである。明けて平成21年となった今も前々総理の小泉某が根強い人気を持ってることがその証左である。中身はどうあれ彼が強い指導力を持っていたことだけは間違いない。しかし、この強い指導力を求めるって姿勢にこそがヒトの最大の弱点であるように思えてならない昨今なのである。我々が猿世界から脱却することは無理なのだろうか…
2009.02.05
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イスラム原理主義とかキリスト教原理主義なんて言葉はたいていの人が聞いたことがあるだろうし、そのうちの何割かの人は原理主義の意味も知っていることと存ずる。しかし先輩原理主義はほとんどの人が知らない筈である。何故なら私が今これを書きながら捻り出した言葉であるのだから。誰が考えたかは別にして先輩原理主義とは実に面倒である。例えば、お世話になった先輩を慰労するって名目なんかで後輩が酒席を用意する。焼肉屋である。支払いは勿論全額後輩である。上等な霜降りの部位が盛られた大皿を何皿も喰らい、石垣牛の刺身だ寿司だステーキだ生(ビール)おかわりね、と飽食を尽くすまでは慰労だからOKだと思う。おそらく支払額は四名で四万円を軽く超えてるだろうが、ま、OKだ。慰労だから。後輩も最初からそれぐらいの散財は覚悟の上の慰労会仕切りの筈である。しかし、いただけないのは支払いではなくて『喋り』である。先輩は馬鹿でも先輩だから、先輩の全然大したことない経験をさもたいそうな事のように長々と語り、その半端な経験から導き出した軽佻浮薄な思想哲学を更に長い時間をかけてくどくどと喋り続ける。最悪なのは、その喋りの長さやくどさではなくて先輩ご本人が自分の喋りのイケてなさにこれっぽっちも気付いていらっしゃらないと言うことに尽きるだろう。たとえば先輩は中学高校では蹴球で大した選手だったらしく、中年を迎えられた昨今では小学生チームのコーチ・指導・育成なども手掛けていらっしゃるからなのか人生の訓辞をすべてサッカーに結び付けて説明しようと試みるのであるが、これがさっぱりわからない話だったりする。例えばこんな具合である。「いいか。まだ若いおまえ(後輩)が自分の夢を追い求めたいって気持ちはよくわかる。ん!わかるよ!だがな、よく聞けよ。いいか、夢を追い求めるって事は一見格好よくみえるがな、追うって事は実はたいへんなことなんだよ。サッカーと一緒さ。ボールを追いかけようすると相手ディフェンダーが俺を止めようとしてスライディングするわけよ。わかるだろ、スライディング。で、俺は常にボールを視界の隅に置いたまま相手ディフェンダーのスライディングを交わしながらボールに向かって更にギアをあげる。すると、もう誰も俺について来られないんだ。わかるか?スライディングを交わしながらトップギアへ上げる。ぶっちぎる。人生もそう。な、わかるだろ?」この手の物言い、どこにテーマがあって、何を言いたいのか微妙に判らない感じが私には無性に嫌なのである。いっそ全然意味不明なほうがアバンギャルドな感じがしてまだマシってもんであるが、先輩原理主義の夜はこんな話を聞かされることに延々と何時間も費やさねばならない。正味、時間の無駄だと思うのである。それに後輩は更に最悪だ。四万円も使ってこんなミもフタもない話に深く深く頷き続けねばならいないのだから。
2009.02.03
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マブイを落とす。なんて言い回しが島にはあって、マブイとは魂に相当する言葉であるから、つまるところ「魂を失くす」ぐらいの意味に思ってもらって差し支えないと思うのであるが、島の霊能者各位が語るところに拠ればマブイを落とすのは意外なまでに簡単至極であり、魂を失くすに至るが相当と断ぜられる悲劇とか悲惨な思いなんぞは必要ないとのこと。では、なんとすればマブイが落ちるかと言うと、例えば滑って転ぶとか何かにぶつかるなどの物理的衝撃によるらしいのである。この物理的衝撃説を拝聴させていただいた当初は「ハあ~?(笑」って、ぐらいなもんで物衝説を完全に舐めて掛かった私である正直なところ。でもよくよく考えてみるに物理的衝撃による魂落下説には思い当たる節があれこれあるのである実のところ。例えば冬の北海道は札幌市街地。終日の寒暖差が大きくなると路面はアイスバーンとなり、歩道と言わず車道といわず駐車場と言わず天然のスケートリンクが街中に張り巡らされるので歩くのにもそれ相応の集中力と一定レベルの習熟度が欠くべからざる条件となる。なれば束の間 すれ違ったモデル体型の婦女子に気を取られたりするやいなや私たち男性はコンクリートまがいの凶悪なアイスバーンに嫌というほど激しく尾てい骨を打ち付けること必定であり、そしてその痛みは物理的痛みだけに留まらず精神的にもまた激しく消耗したりすることも稀ではない。その精神的消耗とは恥ずかしさに起因するエネルギー消費に他ならない。例えば転んだ場所が札幌のど真ん中、地下鉄・大通公園駅から地上へと通ずる8番出口のすぐ先だとする。そう。それまで地下にいたので雪も氷も踏んでもいなかったので歩き方が少々弛緩気味だったのだ。だから見事にスっ転んだ。なりゆきに任せてナチュラルに転べばまだしも目立たなかったのに堪えようとしたばかりに無駄に足掻いてしまったので余計に無様なる格好で転んだのである。あまりに無様で眼前にいた若年の女性などはプッと吹き出す始末だし、背後から現場を目撃した老女は思わず駆け寄りつつ「きゅ、きゅ、救急車、お呼びしますか?!」みたいな同情を掛けるほどに私の転び方は無様極まりなかったのである。ま、あくまでこれは例えの話であるが…ま、それが幼稚園生や小学校低学年ぐらいなら可愛げもあるってもんだが、三十半ば四十半ばの見栄も体裁も外聞もあり、地位も名誉も欲しているような脂ぎった野郎がすってんコロコロ、尾てい骨を激しく打って思わずも出そうになる呻き声さえ噛み殺して半泣きか、もしくは腰と同時に後頭部をしたたか路面に打ち付けて視界さえ歪んでるパンチドランカー状態の時だってあるのである。そこでプっと吹き出されたり老女から同情されたりしたらそれこそI have to go any holeってなもんである。そう。歪む視界の中で必死に入る穴を探すのであるが、受信状態の悪いテレビ画像のごとき霞んだ視界に映るのは入ってはならぬ穴ばかりで行き場 隠れ場は何処にもなく、最後の気力を振り絞って何気なさを装いつつ軽やかに立ち上がり苦笑を浮かべて老女に言うわけだ。「いえいえお構いなく。大丈夫ですよ。ほら、全然大丈夫です。アハハ」そうして痛みと恥ずかしさを必死に堪えてその場から歩き去り、半丁と行かぬうちにどこぞのオフィスビルディングの只中へと闖入し、物陰に隠れてからそこで初めて患部を押さえて独り痛がるのである。しかしその時すでにマブイは落下していて我が胸の中には無いって寸法だ。どこに在るかと言うと、8番出口の先に我がマブイは落ちているのである。転び、痛打し、恥をかき、我がマブイは転がり落ちてしまったわけだが、なにも悲観することはない。マブイは何年経ってもその場に落ちているそうだ。心当たりのある方はすぐに拾いに行ってほしい。私の場合、それに気付いたところで石垣島から北海道までいちいち拾いに行くわけにもいかなかったので落ちたマブイは素直にあきらめて、新たな八重山型のマブイを育成および醸成して我が身体に入れ直し、調整まで込みで昨年の夏にやっとその一連の作業を終えたわけだがこれがなかなか具合がいいのである。十余年とたいそう時間が掛かってしまったが、なんせ積み替えるのがマブイなだけに時間を要するのは致し方ないのである。ま、これはあくまで例え話なのだけれども。
2009.02.01
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石垣島は日進月歩である。新造の港には新造船がずらりと居並び、ボコボコだったつぎはぎだらけの舗装路はサーキットばりの滑らかなアスファルトに張り替り、築数十年クラスの赤瓦屋やトタン屋を崩した跡地には本土の新興住宅地あたりでよく見掛けるお洒落なのかチープなのかよくわからない鉄筋コンクリートのアパートメントが月毎何軒も完成するのである。町にも郊外にも新しきカフェスタイルの店が次々に開店営業し、ここは代官山かと見紛うばかりである。とは少々言いすぎだと思うが(笑)、ま、島の人々の生活はひとしきり新しい変化を遂げているのは確かである。町場の弱小商店は次々と倒れ、人々が買物に行くのは大きなショッピングセンターである。本土の巨大ショッピングモールなんかとは比べくもないがとにかくショッピングセンターには間違いない。島の人々の暮らしは便利になり、豊かになり、次第に都会的になっていく。だがしかし。暮らしぶりが如何に都会的になろうとも言葉に方言が失われようとも現代も変わることなくトラディショナルなまでに人から人へと受け継がれるものがある。立小便である。これはもう石垣島では未来永劫変わらないのではないかと私は思うのである。新空港が出来てジャンボジェットが一日幾便も飛び交い、島の人口が倍になって十万人を超え、史上初の本土出身者の市長が誕生するような未来になっても島の男どもは立小便をやめない筈である。だって目の前に空いてる便所があっても彼らはわざわざ路上にまろび出て通行人の有無や昼夜の別を問うことなくシャーとやるのだ。そう。ところ構わずと言い換えてもいい。そして私が観察するところではナニのサイズにも関係はないようだ。大小問わずシャーとやるのである。向こうから歩いてきたご婦人が覗き込もうものなら我が意を得たりと言ったところなのだろうか。いや。それじゃただの露出狂か(笑
2009.01.28
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世の中オバマブームなのか、オバマが旬なのか、オバマを避けて通ると虐められるのかわからないのだが、ネットでどこの誰のサイトを覗いても、雑誌を開いても、人と喋っていても【オバマ】の三文字が目に耳に入ってくる。って私もこうしてオバマを採り上げているわけだが私は彼の大統領としての資質や仕事ぶりや就任式の様子や暗殺の可能性を云々するつもりは一向なくて、ただただ日本の植民地っぷりに呆れるばかりだ。あの国の大統領に誰がなろうと私としては全然知ったこっちゃない。黒人だろうとモンゴロイドだろうとなんの興味もないし、もし彼が国家元首として暗殺されようともそんなありきたりな展開には世間知らずの中高生じゃあるまいし驚きもしない。いくら概観外見がクリーンに見えようと変革を声高に叫ぼうと所詮権力中枢の座を欲した男であれば権力闘争の渦中にあるのは紛れもない事実。闘えば闘うほど殺される可能性も又あがるのも当然である。おそらくは彼、当代きっての策士であり、合衆国の半植民地であるニッポンにとってブッシュなんかより数段厄介な相手となるのも間違いないと私は読んでいるし、そんな男のネタを何も好意的に採り上げる義理はこれっぽっちもないではないか。ってな具合に天邪鬼の虫が騒ぐのだ。
2009.01.24
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この冬 島の商売はどこもハードインパクトを受けている。どのへんがハードなインパクトなのかって前年度対比の落ち込み方である。景気が悪いとかなんとか言ってもこれまでは前年度対比で70%とか65%という数字であったものがこの冬はあろうことか20%や15%なんて数字を叩き出している業種や店舗が存在するのである。ありていに言ってこの数字は休業してるほうがまだましって数字である。なぜなら利益が出せる売り上げに対して営業経費全般で普通は30%や40%は見込むのであるし、これに人件費が掛かってくると前年度対比20%の売り上げはただただ瀕死の赤字を垂れ流しているだけの悲惨な状態とは言わざるを得ないのだ。ま、そのような数字の捉え方に関しては私などより詳しい方は死ぬほど居るのだろうから島の経済に分析や展望などを加えるつもりは寸毫なくて私は嘆くばかりである。どうしてこれまでもっと真っ当な商いをしてこなかったのかと。島ではこれまで、肉の下処理もできない人が食堂の厨房に立ち、時給600円のアルバイトのネエちゃんが観光客用のTシャツのデザインをし、のこぎりも満足に引けない人が家を作り、人材など代わりなどいくらでもいるさと嘯く(うそぶく)ような経営者が有能との評価を受けてきたのである。島の土産屋で売ってる商品の多くは台湾やフィリピンで作らせたものである。基幹産業なんて呼ばれるさとうきびやパイナップル、マンゴー、島唐辛子なんかの栽培には多種の農薬が無配慮無制限に使われ、観光資源であるはずの海には家庭排水がそのまま流れ込み(もちろん浄化槽は通してあるが)、そこを走る何百隻ものの船舶の船底に塗ってある塗料は劇薬に等しい成分のものである。はっきり言うがこんなものは真っ当な商いではない。ただ金の計算だけが先行優先しているだけの金儲けに過ぎない。金儲けなら誰でも出来るのだ。金儲けには素人も玄人もない。金を払う人を騙したって誤魔化したっていいのであるから。真っ当とは堂々と胸を張れるってことであり、真っ当な商いとはその商行為が世間につまびらかになったとて誰に恥じることもなくて、世間を広く納得させられる行為でなくてはならないのは今更私がここで言うべき事でもないだろう。粉飾だとか偽装だとかやらせだとか残業代を払わない確信犯的経営者や会社が糾弾されるようになって久しいが、ニュースになるようなものは所詮氷山の一角でしかなく、この島ばかりではなくニッポン津々浦々あらゆる業種業態には膨大な数の破廉恥野郎どもが蔓延り、社長!なんて呼ばれてふんぞり返っているのである。ま、しかし島に住む私には島以外のニッポンでどんな商行為が行われているのかそれほど興味はないし、あったところで興味を向けている暇も余裕もない。まずは自分の足元である。立ち位置が具合悪いのに他の場所のことなど気にしていられないではないか。真っ当な商い。そんなに難しいのだろうか。偽装や粉飾や詐欺まがいや誇大表現や残業代不払いをやらなければ会社経営をしていけないのだろうか。しかしそんなやり方しか出来ないならそれはやっぱり経営者としての能力が著しく低いって事であり、経営者に不適格という事に他ならず、かかるに真っ当な商いがもしそんなに難しいニッポンは経済大国なんて看板はこの際素直に下ろして、世界的認識としてはアジアの第三国扱いとしてもらい、さしずめ石垣島はその弱小国の中でも最も貧弱な経済区として戦後復興よろしく今一度ゼロからやり直そうではないか。しかしそれだと汚くても姑息でも恫喝まがいもなんでもありで、それってやっぱり今と変わんないじゃんって事になるのだろうか?(笑ニッポンの経済、やれやれどうにも難しいみたいだ。
2009.01.19
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解体。戦後我が国の政治経済のコアを担う連中が成し遂げたニッポンのひとつの形である。第一次産業を解体し、地方都市を解体し、地域社会を解体し、大家族を解体することで一般大衆の政治力の結集を未然に防ぐのと同時に消費単位を分割拡散することで末端からの搾取を強化してきたのである。勿論コアに巣食う連中の既得権益を守るために。そのためにはより効率のいい搾取のシステムを構築せぬばならない。各人がばらばらになって自室で過ごせば間違っても反権力的な政治力とはなり得ず、解体された皆がそれぞれの自室に冷蔵庫やテレビやPCを持ちたがるから無駄に無用にモノが売れるし、電気も水道もガスも余計に消費してくれるのである。政財界にとってまさに理想的搾取形態だろう。しかし解体の力の慣性モーメンは相当に大きく、バブルがはじけようと中東界隈やアフリカ各国で戦争紛争が頻発しようと、同時テロが世界中で頻発しようと我々は解体モーメントの只中で、まるでこれから先も停滞期はあれど絶え間なくずうっと経済成長を続けられるなどという(どんな馬鹿でも少し考えればあり得ないと理解可能である著しく低レベルな)幻想を個人所有のブルーレイDVDで見せつけられ、私たちは顔を真っ赤して液晶画面にかじりついている。そして発狂する。うぅ…なんてシニカルな言い草だろうと我ながら思うのだが、これもまた無理のない現実認識なのだから仕方がない。ま、そうは思わぬ人も世の中にはいるだろう。例えば小泉某とか竹中某あたりか。そして世の中の人たちの大半はそのお二人に靡き(なびき)、縋り(すがり)、死ぬまで同調するのだろうからその人たちにとってこの世界の認識は私がここで示している世界観とは又別物だろう。どちらが正しいかなんて私は問わない。どちらが正しくとも関係ない。おそらくニッポン以外の人たちから見ればどちらの認識もお笑い種でしかないかも知れないし。アホかって日本人。おまえら百年も持たずに全滅するワ(笑)。なんて一部外国では思われるようであるし。ま、それはそれでいいとして、仁科たかしと言う日本人によるニッポンの認識は『結構やばいところにいるんじゃないの俺ら』ってことに尽きるのだ。俺らは今もまだ解体モーメントの中で身動きのとれぬままに、身体も仕事も生活も結婚も生きるための何から何までばらばらにされ続けているのに、ばらばら具合が進行するほどに自虐的に笑っているおぞましき民族なのだ。今、私たちの周りに散らばっているのはばらばらに解体された自我であり、勝ち組だ負け組みだセレブだ派遣ぎりだイジメだひきこもりだお受験だ俺様だと他者も他人もほとんど目に入らずに極小サイズのちっぽけな自我しか注意を払えぬような連中が社会的上位者の大半を占めており、そればかりか圧倒的多数派である筈の社会の底辺で暮し生きている人たちまでが同様の病態を示しているのだから救いがないではないか。ひどいもので、上から下までこれじゃ革命も変革も起こりようがない。だから日本じゃ海外のあちらこちらで散見できるような社会的問題による暴動が絶対に起き得ないだろう。誰も彼もがばらばらで、人と人とがばらばらなだけでなく各人もまた微細なまでにばらされた自我のケアとメンテナンスに精一杯であるからその大変さに比べたら社会的問題なんか注意を払うような大して重要なことでもないのである。って言うかそこに目を向けるためには自我にもう少しまとまりがなくてはならないし、そのサイズアップもしなければならないが現状を見る限りは微細サイズが集合およびそれに伴う拡大を為しえるまでには今しばらく時間が掛かるようだ。それに、次に集合拡大のタイミングを得るのは真の動乱期であり、それ以外にニッポン人のこの病態を快方に向かわせる手立てはないだろうから私はそれまで八重山でのほほんと過ごしたい。なぜならば八重山の社会は本土ほどの解体には程遠く、本土ほどに解体されるまでに本土の政財界が関与してくるとは到底思えないのである。此処八重山はマーケットとしては小さすぎるし、本土から遠すぎるから。ま、生きているうちにその機を迎えるか否かは全くわからぬが、思うに今世紀半ば私たちは次の時代ってやつに片足を突っ込む気がしてならない。それはおそらく合衆国の解体から始まるってのが私の精一杯皮肉な予期である。合衆国にシンパシーを抱いている若いニッポン人たちが認めようと認めまいと合衆国政府にとって我々はあくまで前世界大戦の敗戦国であり、彼らの半植民地であり、彼らのマーケットとして、基地として社会基盤を整えられた我々の現状は宗主国としての合衆国なしには語り論じ得ないのであり、我々が真に日本人としての誇りと社会制度を持ちえるためには合衆国の著しい干渉を解くしかなく、それには今一度戦争をやって勝つのが手っ取り早いが選択肢としては手っ取り早くても現状勝てる見込みはないし、国内にこれだけ米国シンパを持ってしまうとその選択肢はなかなか選べない。ってことはやっぱり合衆国の自壊を待つしかない。自壊してくれて呪縛を解いてくれるのを我々はじいっと待つしかないのである。しかしそれまで生きていられるのだろうか。
2009.01.10
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ひさしぶりの時事ネタだが、時事ってよりは世相とでも言うべきか。テレビやインターネット、雑誌などの各種マスメディアはこの年末年始も白痴化に拍車を掛け続けているようだ。かつて大宅壮一はテレビというメディアを語るのに一億総白痴化のフレーズを使ったが、いまや白痴化してるのはテレビに限らずネットも雑誌も同列と思しき観が在る。民法などのテレビ番組のひどさは今更私が語るまでもないだろうし、ネットで語られることの大半もそのテレビ番組の延長でしかなく、碌な芸もないタレントが起こしたり巻き込まれたりした事件やスキャンダルについて己がどれだけ阿呆面しているのかさえ気づかないままに凄まじいばかりの数の人たちが論じ続けたり、首を突っ込む意義も必要もない事件事象について中学生並みの持論を振り回すかと思えば真に言論を戦わせるべき話題などは簡単にスルーである。雑誌や書籍などの分野も業界を問わずして新規に打ち出してくるのは著しく質が低いといわざるを得ない提灯記事まがいのものばかりだ。一見、ちゃんとした取材記事やルポルタージュに見えるが本筋はコマーシャルだったり、タイアップがあったり、厚顔無恥なまでのやらせが平然と横行していたりとこの国のメディアに関わっている人たちは矜持とかプライドとか持ち合わせていないのだろうかと疑わざるを得ないし、もっとレベルを下げて『真っ当さ』ぐらい示して欲しいのだが現状の各種マスメディアを見ている限りそれはとても困難なことと思えるのである。一方その情報を受け取る側もそれら低脳情報をさほどの吟味咀嚼もせずに又鵜呑みにする体たらくであるし、発信側と受信側、斯くもこう白痴化の度合いを深めると救いなど地球上の何処にもないようにさえ思えるのである。ゆえに私は自由主義経済などを信じていないし、大して良いもんだとも思っていない。自由競争や言論の自由みたいな権利を与えてもそれら崇高な理念概念を使いこなせるほどに我々の多くは利口でも思慮深くもないのである。ならば金や自由なんてものを信じてそれに振り回されるよりは信頼すべき誰かを信じたり神に祈るほうがまだ真っ当だと私には思えるのだ。それが世界各地の戦争や紛争を正当化させるものになっているんじゃないかと批判されることを承知で申し上げている。しかしである。争いを正当化させる最たるものは今や信頼すべき誰かでも神でもなくて『金』や『自由の権利』なんて記号や概念であることを我々はもっと知るべきである。特定の誰かを意味しているわけではないが、金や自由のために生きたり死んだりするより私は信頼すべき人たちのために生きたり死んだりしたいとそう思うのである。
2009.01.08
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さて新しい年が明け八重山の地を踏んでから14年目を迎えた。移住とか引越しとか転職とかそんなことは考えもせず、ただ旅の延長としてこの地に留まっているつもりであったが、子供が二名も生まれると容易く居住地を移すにも色々と面倒が伴うし、おそらくはあと10~15年は八重山に居るものと思われる。ま、10年とか言っても死ぬまでずうっと居るかも知れないし、性分的に能力的に2年より先の事は考えられないので実際どうなるのかは又別の話だ。浮かれる気も貶めるつもりもないがこれより先、世の中は動乱基調で推移する筈である。然るに楽観できるものなど何もないのであるが、仁科たかしが唯一楽観できるものを揚げるとするならそれはやっぱり八重山なのである。移住組や移住からのリターン組の話のネタにされるものの代表的なものとして『島では働くところがない』みたいな言い回しがあって、ある意味それは事実を反映していると思うし、現在の脆弱な各種産業基盤で養える島の人口に限りがあるのは確かである。しかしである。この地は最初から本土都心部のような経済基盤や各種産業の成り立ちがないわけで、昔から八重山界隈では貧弱な第一次産業を核にしてどうにかこうにか数万の人口を維持してきたし、もっと言えば第一次産業だけでそんなに島に食い扶持をもたらせる事は不可能であるから誰しもシノギを考える。それはある時は詐欺的だったり、多角的だったり、やくざな風情を帯びていたり、華僑ばりのコミュニティやシンジケートを構築したりしながら、組織単位はあくまで小さく、フレキシブルに世情に対応しつつフットワークのよさを最大限に生かしたシノギである。そのシノギこそがこの糞不況な世の中で、強さ、しぶとさを発揮するのではないかと私は見ているのだ。他の地方や離島の状況をあまり知らないので確定的には言えないが、日本に在って最もイタリア的な経済で社会が回っているのが此処八重山なのである。つまりブラックマネーでありスモールマネーだ。国民総生産も所得も低いし、名だたる大企業もそう多くはないが、わりとみんな美味いもん食って楽しくやってる国。そこからスケールダウンするのは免れないが、八重山もまたそんな風情と実質的経済状況なのである。これから始まる(否、もう既に始まっているのであるが)動乱の時と波を一番うまく乗りこなせるのは東京でも大阪でもなくて、多分八重山だ。期待していただきたい(笑
2009.01.01
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陽気もいいし、特段やることもなくて知らぬ間に居間で午睡。ごろ寝。半時ほどして目が覚めたとき部屋の中に猛然たる黒煙が立ち込めていたらあなたならどうするだろうか?つまり火事である。睡魔に手を引かれるその手前。昼飯のおかずにしようとあなたは煮物の鍋を火にかけていたのである。鍋は昨晩の残りだからたいして中身は入っていない。加熱後15分も経てば一切の水分は蒸発し、20分の後には鍋の底には黒墨が生成され、30分で激しい燃焼臭と共に轟然たる煙が鍋から吹き上がる。いったいどれくらいの間眠っていたのか定かではないが、感覚的に小一時間が経っており、下手をすれば鍋自体が燃え上がり、コンロ周りの壁や天井だって発火延焼しているかも知れない。あたなはそこで目が覚めたのだ。さあどうしようか。この問い掛けは勿論架空のものであり、こんな事態は出来れば起きないに越したことはないが、人生一寸先は漆黒の闇である。転ばぬ先の杖的な意味でも、今後もしあなたが斯様な事態に巻き込まれたときに一つの示唆としてもらうべくある実例をご紹介しておこう。八重山の離島に住む平田念庄(ひらたねんしょう(仮名))の場合である。念庄さんの隣家に住む私の友人が異臭に気づいたのは午後二時のことだった。何かが焼け焦げる香ばしい匂いがどこからともなく流れてきて、最初は食欲を誘う良い香りであるよなぁ。おでんかなぁ。なんてのんびりと考えていた友人であったが、いつまで経っても匂いが止まず、いつしかそれに薫煙臭が混ざり始め、食材以外の何か、例えばプラスチック樹脂か何かが燃焼延焼している刺激臭を嗅ぎ分けられるに至って友人は近隣での火事、もしくはそれに類する異常事態が起きていることを確信し庭に飛び出したのである。町営団地、棟つながりの隣家の窓から吹き出る黒煙をみつけるのに時間は掛からなかった。友人はすぐさま隣家の玄関に駆け寄り、ドアノブを引っ張りながら大声を張り上げた。『念庄っさん!念庄さん、念、ねん、だ大丈夫大丈夫ですかあっ!!』玄関ドアを引き開けたのと同時にバックドラフトみたいな熱気と黒煙が噴き出して、友人は一瞬ひるみかけたが、隣人を火事で死なすのは寝覚めが悪いし、縁起でもないし、それよりも何よりも棟つながりの隣家が燃えれば自宅焼失の危機である。ま、仮に半焼程度で済み焼失まで至らぬも消防の放水によって家財道具一式が使用不能になるのは想像するに難くなく、なんとしても大火災を未遂と封じ込めるべく鬼の形相で玄関前に立ちはだかり友人は大声を張り上げ続けた。開け放ったドアから吐き出される煙の向こうに人影が見え、目を凝らすに影のぬしは念庄さんに間違いなく、座してなにやら蠢いている。よかった!生きているのだ!煙の向こうに念庄さんの影を発見して友人は狂喜した。しかし何度呼び掛けようとも座した人影は家の外へ出来こない。出てこないだけではなく、どうやら何かを探して自分の周りを手でまさぐっている様子が見て取れるから友人は訝ったのである。『火事だってのに念庄さんはいったい何をしているのだ。火事の家から逃げ出す前に財布でも捜しているのか。なんなんだ?メガネでもさがしているのか?それとも入れ歯か?』しかし念庄さんが探しているのは財布でも入れ歯でもなかった。ライターである。まさかと思うかもしれない。煙たちこめる中でライターを探すとはどういうことかと誰しも訝るだろうが、事実であるのだから仕方ない。次第に薄くなる煙の向こうにはっきりと見えてきた念庄さんは居間に置いた扇風機の前であぐらをかいてでんと座って寝起きの顔に火のつかぬタバコをくわえ、両手を伸ばして一生懸命に周囲の何処かにある筈の百円ライターを探していたのだ。そんな念庄さんの姿を見た時、友人は正味こけそうになったそうである。『おいっ!なんで逃げ出さずに一服なのかっ~!煙に巻かれているときに煙を吸うんじゃない!アホか、おやじ!』心の中でそう叫んだそうであるが、黒煙に巻かれた念庄さんの耳にも心にも届く筈がなかった。念庄さん、そんじゃそこらの駆け出し喫煙者とはわけが違うし、ものが違うのである。煙に巻かれて吸うタバコはどんな味なのだろうか。きっと午睡の夢見が悪くて吸わずにはいられなかったのだろう。念庄さんのちょっと意味不明な行動を私はそのように考えるのである。って言うかそうとしか考えようがないのである。
2008.12.22
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大方の予想通り、此処数年来の移住者がリターンし始めている。どこへリターンするって勿論『本土へ』である。安全と人情と自然と顧客本位のサービスが無条件に、無尽蔵に、向こうから勝手にやってくる思い信じ切っている方から順にリターンしてゆく。残念ながら島にそんなものはないのだ。特に顧客本位のサービスが当然と思っている信じている方の多さには呆れ返るばかりだ。仕事はお客様の為のもの。何があっても優先すべきは顧客の都合。顧客優先。顧客第一。顧客は神様です。ぐらいのもんだが、島にそんなものがあるならまず私が見たい。でもないものは見れない。じゃ、何があるかと言えばそれはリアリティだけである。悪い奴が悪いことをしているのを目撃し、人が人を殴るのを目撃し、足を引っ張り、足を引っ掛け、倒れたところに馬乗りになって得意になってる光景を誰もが目の当たりに出来るのである。実はこれは貴重な体験だ。なぜならば良い事というのは誰しもわざわざ隠さないし、自分が行った善行や殊勲や努力誠心誠意は出来るものなら表沙汰になってくれたなら他人に対して優越も覚えるし、周囲からの賞賛なんぞ受けてたいへん気分が良いのである。だから良いことは都会地方離島を問わず何処でも頻繁に目に出来るものだ。だが、悪いことは確信犯的犯罪者でない限りひたすらに隠蔽するものである。他人に悪い評価を付けれらることは決して好結果を生まないし、責められたり詰られたりすれば気分も悪くなる。なのに島ではここんところが丸見えで、良いことも「俺がやった俺がやった。どうだすごいだろう」と自慢もするが、多少の悪行狡猾乱暴狼藉は屁でもないのか随分と明け透けにやってくれるのでみんな丸出し丸見えなのだ。もしかしたら悪いことをやってる側は自分では大変手際よく物陰に隠れたり、上手に嘘をついているつもりでいるのかも知れないが、そんな方は仮にいたとしてもひどいマイノリティでしかないし、マイノリティの反対側にいるほぼ九割五分ぐらいの方々は明け透けに悪いことをやる。本人は隠蔽したり首尾よくやっているつもりかも知れないが、演技や段取りが下手すぎ悪すぎで何をやってもばればれになる。で、そこんところがリアリティなのだ。都会にはない。もしあってもひどく希薄なリアリティしか都会ではお目にかかれないが、島じゃ良くも悪くもダイレクトなリアリティがごろごろしているのである。それを以って善い悪いの評価を持ち出すのは適当ではないと私は思うのである。好き嫌いならまだしも解るが、リアリティに良いも悪いもない。リアリティのないことこそが実は気持ち悪いのである。都会の人はそれがないことが当たり前らしく、鼻先にリアリティを突きつけられると不安で仕方ないらしく、明け透けでダイレクトなリアリティに眉をしかめる方が非常に多い。都心へリターンしくいく方々も然り、彼らが欲するのはリアリティなんぞではなく、顧客第一主義のサービスや、合理的なシステムや、華燭で飽食な文化や、一切の悪を封じ込めんとする強大な警察力だ。そんなものが欲しい人は都会へ帰るべきだろう。この島をいくら探してもそんなものは見つからないし、この先10年経っても20年経っても八重山の地にそんなものは育たないだろう。此処にあるのはいつだって厄介で面倒で泥くさいリアリティだけなのである。
2008.12.19
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例えば経理担当者による会社の金の使い込みなんて巷よくある悪徳話だが、此処八重山の場合はちょっと違う。なにが違うって、差し障りがあったりするので全て仮称フィクションで説明申し上げるが、つまり悪徳のレベルが違うのである。例えばこんな具合である。市行政から各公民館に割り当てられた地域振興目的の補助金を公民館長が私的に流用してるなんて場合があったりする。ま、ここまでは普通に散見できる悪徳レベルである。でもって、その私的流用のやり方も目茶目茶杜撰で、友人知人に頼んでテキトーに集めた領収書の束を全て地域行事の経費として処理しようとするわけだが、領収書の中には那覇市内の風俗店のものが混ざっていたり、コンビニで買った歯磨き粉やエロ本系の雑誌に支払ったものまであるので公民館の会計担当者は唖然となる。「おい…、こんなものまで経費で処理させんのかよ。あり得ねぇだろ。ふざけんなよコノヤロー」ってわけで、会計担当者は市行政の担当者へ密告抗議するわけだが、この密告抗議した会計担当者の自宅が公民館と隣接していて、彼は公民館の倉庫へと電気の延長コードを伸ばし、そこから10年以上に渡って盗電を続けている。しかしその盗電もつい先日発覚してしまった。公民館の役員の中に電気工事屋がいて、接続先がカモフラージュされてる倉庫内の延長コードを不審に思った彼が探り当てたのである。正義感の強い電気工事屋は激怒した。ふざけなテメー、何様だコラっ!電気盗んでいいと思ってんのか。誰が赦しても俺は赦さんからな。告発だ告発。臭い飯食わせてやるから覚悟しな!と電気屋は日毎に会計担当者の庭先を訪れては怒りに任せて誹謗中傷罵詈雑言をなげつけた。そんな正義感の塊みたいな電気屋には妻がいて、妻は地域の小学校の事務員をやっているのであるが、あろうことか給食費を使い込んでいた。正義漢の妻としては失格も失格、犯罪がバレれば間違いなく旦那から離縁を宣告されると周囲の誰もが思ったのであるが、これが何故だか給食費の使い込みがバレても離縁されなかった。何故離縁されなかったのかと言うと給食費使込み妻の父親は地元の名士中の名士であり、何代にも渡って公民館長を務める名家であり、妻の兄は市議会員だし、弟はローカル局のテレビラジオなどにも出演する芸能人であった。故に電気屋は計算高くも考えたのである。大失態犯罪をやらかした妻を離縁することはかんたんであるが、ここはひとつ妻を赦し、名家と、その兄弟に恩を売っておこうではないかと。なれば末は俺も市議会に打って出れるな、と。そんなふうに見込まれた市議の兄は好人物ともっぱら評判で、地元紙が取材にやってくると必ずや近所の子供たちを抱き上げ、頭を撫でてながら「子供は地域の宝!」とやるのがキャッチフレーズなのであるが、これは実は取材を受けてる場合のみのパフォーマンス以外の何物でもなく、普段は子供らが騒いでいると怒鳴り散らし、威嚇し、たいそう怖がられていて、界隈の子供らからはいつも不機嫌なオッサンぐらいにしか思われていないのであるが、普段威嚇しているのが利いているらしく、取材を受けようという場合に近隣の子供らを呼び止めたり集合をかけたりするとバラバラとではあるが適当な人数が集まってくるので、取材する側はその光景を以って「子供は地域の宝を実践する者」というレッテルを勝手に貼る。それは使込み妻の弟も然りである。テレビやラジオではたいそう優しいキャラで、おばあちゃんを語り、老人と子供を何より大切に思っている僕、というのがその芸風なのであるが、これもあくまでメディア向けのパフォーマンスでしかなく、普段は老人のことを言うのにフツーにクソじじい、クソばばあとやっちゃうし、子供は大嫌いとオフレコでは放言もする。もちろんファンの女の子を妊娠させちゃうなんて日常茶飯事であるが、子供嫌いな彼は妊娠のフォローなど死んでもやらない。嗚呼、八重山の悪徳の輪はどこまで広がるか判らないので書くのはここらで止めにしておこう。
2008.12.02
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などと随分不遜なタイトルであるが、これは過日発せられた友人の言葉である。私も思うところあり激しく同意する始末であったわけだが、類は友を呼ぶらしく、ここ最近のこと他数名の方からも同様の話を聞かされ、これはもう動かしがたい世の真実となのではないかと思うに至ったのである。と言うか石垣島には斯くの如く島民から疎まれてるセレブが多数生息しているのだろうか。無辜の民が忌み嫌うイケスカネェのがごろごろいるって事に他ならないのだろうか。答は『是』である。生息しているのだ。もちろん多数、である。さすがにここで実名を挙げるわけにはいかぬが、彼らも何も最初から忌み嫌われていたわけではなくて、例えば会社社長ならば開業黎明期は誰からも好かれ、周囲の者たちも協力やバックアップを惜しまない人柄であった(あったように思われた)のに業績が上がりだし、年収が国民平均所得を超えるあたりからなんだかおかしくなり始める。急に狂いだすわけではない。外見上はあくまで徐々にくるのである。まずは自分の意見が絶対になる。それまでは他人の意見に耳を傾けたり、協力を仰いだりしていたのに全てが独断によって為され始め、他人が意見など言おうものなら裏切り者呼ばわりするようになり、「おまえに何が解るのか」みたいな何処かで聞いたような台詞を持ち回るようになる。そこまで行けばまもなくして我こそはオンリーワンとの揺るぎない自信を振り回すようになり、その裏返しで他人は、特に従業員などは幾らでも取替え・チェンジの利く消耗品扱いに走るのである。私のなんぞが思うに、他者を貶めることで自分を高みに置く手法と言うのは実に心貧しき弱き者の行いとしか思えず、その昔は斯くの如き者たちにある種の憐憫同情すら覚えたものであるが、遂に私自身が貶められるに至ってはもう同情とか憐憫とか甘っちょろいことを言ってられなくなったのである。しかし、ま、世の中栄枯盛衰だ。彼らの狂った調子は一朝一夕に是正復調できるものではない。何故なら彼らは自分を誉めそやし、同意しまくり、賞賛の嵐を贈ってくれる者の姿と言葉しか見えず聞こえず、省みるように促す者たちや、ましてや批判を口にする者などは自分の財産や収入や業績好調をやっかむ者としか断じられないほどに思考硬直することになるのである。しかし、ま、栄枯盛衰だ。太古の昔よりそうして人の世は連綿と続いてきたのである。あのイケスカネェ奴のところに枯と衰がいつ来るのか。友よ、それを楽しみに見守ろうではないか。
2008.11.04
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世の中全体、小ざかしいのがトレンドなのか誰も彼もが数字や結果成果ありきで理論理屈を展開しやがるのである。で、結果、顧客消費者を欺いてもなんら恥じるところのない傲慢な経営者と化し、そいつがまた不動産を買いあさったり高級車に乗り換えたり邸宅のお庭が立派になっていく様を見て次々とそれに続く者たちが現れるって図式である。で続く連中もわかったような顔で数字を語り、訳知りに経営を語り、そして語るに落ちるが如く彼らは内部告発と言う形で世間に恥を晒す。偽装してました。水増ししてました。二重帳簿でした。手抜きでした。利益を上げるためにはそれしかありませんでした。なんて残念なせりふ何台ものをテレビカメラの前で吐かねばならぬのは一体どんな気分だろう。数字を追うなんて誰にでも出来るのに、まるで自分しかそれが出来ないように思い込んでしまうのはつまり無能さの裏返しであろう。もうちょっと哲学持てばいいんですよ。それが肝要。俺には金こそが哲学なんだ、みたいな知恵の足りない台詞吐いてないで、ちゃんと哲学持ってくださいよ。おねがいしますよ。ほんと。ね、経営者の皆さん。
2008.10.27
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人間、金を持つと頭を使わなくなるらしい。とは言っても金儲けのための計算や計画や企画や予定なんかは立てられるところを見るに全然頭を使ってないわけではなくて想像する能力を失くすか、完全に失くさぬまでも著しく矮小化してしまうのである。地元石垣島の人、島ナイチャーを問わず此処で経営者と呼ばれる人たちの多くが語るところによると従業員スタッフ社員バイト君パートさんなんかの代わりはいくらでもいるとの事。逆は真なりであるから、つまりその言葉をひっくり返すと経営者の方々は自分こそオンリーワンである。俺様の代わりはどこにもいない。この会社を切り盛りできるのは俺様をおいて他にないのだ。と、そう思っていると言うことだ。正味、幸せな方々である。幸せな気分に浸れるなら私も斯くなる経営者の方々に倣ってみたいが、なにせ想像力があるのでそうも思えないのである。じゃ、私が不幸せな気分かと言うとそんなことはない。オンリーワンなスタッフや仲間たちと仕事ができることは、それだけで充分に満たされた気分であるから。
2008.10.26
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この夏、島の観光が好調である。昨年後半からの冷え込みが嘘のように春すぎから観光客が島へと流れ込み、経営的に一息つけた業者も多いようだ。で、観光客各位、島のあちこちで列を成し群れを作りレンタカーを飛ばし島中を駆け巡っていくわけだが、何故だか彼らの多くはこちらと視線を合わさないのである。例えばどこぞの飲食店で私が店の主なんかと話をしているときに二人連れの観光客が入ってきて近くに座るとしよう。で、こちらの話が台風ネタだったりすると観光客二名にも話を振ってあげるわけだが、これが何故だが視線すら合わせようとはしない風情の方が少なくなかったりする。「このあいだの台風はこちら(石垣島)でも大した被害がなかったけど本土のほうはどうだったんですか。お住まいになってる地域でも何事もなく通り過ぎていきましたか?」なんて具合に至極常識的に軽いタッチの問いかけをしてみるに、大抵彼らはチラっとこちらを一瞥した後にあらぬほうを向きつつ、「いや別に…」なんて返事をしてくれちゃったりするのである。私も別に友達になろうとかナンパしてやろうとか思って問いかけている訳じゃないのでどうだっていいのだが、観光で島に来て、たまたま入った島の店にて軽やかな会話のひとつもあったなら、キミらの旅もまたイイ感じになるんじゃないかと思ってフツーに軽い話題振っただけなのに明後日のほう向いて視線も合わさず気のない返事するってどーゆー事よ。で、やっぱり観光客の多くはどこで会っても視線を合わさない。私の前を歩くババァ二人連れの観光客がどう見てもうろうろと道に迷ってる風情だから「どこかの店でもお探しですか」とやっても、ろくに振り向きもせずに「いえいえ、大丈夫です。おかまいなく」なんて具合だし、カップルや夫婦もんに至っては男のほうが【俺に任せろ】的に振舞っているから、女性側が私に道や店を尋ねてきても男のほうがその問いを遮ったりするし、渋々ながら道や店を自分の連れが私に尋ねるのを容認しても、男のほうはやっぱり明後日のほうを向いたまま私から道順を聞くだけ聞いたら視線も合わせず立ち去るのである。「ほら、早く行くぞ。予約に遅れちゃうよ」なんて連れの女を急かしつつ。実に気分の悪い方々である。ガイドブックとナビだけ見つめて勝手にレンタカー走らせてな。ってとこかな(笑
2008.10.23
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自分が社長になったつもりで働け。考えろ。なんて事を使用人に対しておっしゃる社長さんってのが巷間どれほどいるのかわからないが、少なくとも八重山・石垣島には結構いたりするのである。私が直接知ってるだけでも三名。友人知人の話に登場する同様の社長さんまで合わせれば軽く十名を超えるのであって、狭い島の中の、私個人のさして広くない社交状況にて二桁を数えるのだからこれはもうある種の流行の経営スタイルと言ってもいいかも知れない。しかしである。社長になったつもりで働け考えろなんて社長は言うが、こちらの給料と社長の報酬とは桁も違うし根本的に算出方法が違うのだからなかなか社長の気分にはなれるものではない。あんたが月に200万円取っている時こっちは月給16万5千円・残業代20時間でカット・1回遅刻したから皆勤手当もカットなんて具合の実にせせこましい計算のうえに成り立っている給料を強いられているのである。そんなんで社長になったつもりになんてなれるわけがないのである。どだい。ま、それでも不貞腐れてばかりいても薄給はいつまでも薄給のままであるから私は一念発起。今日からは心を入れ替え、社長になったつもりで頑張ろうと相当意気込んで出社出勤したならば折りしも社長は急の東京出張とのこと。社長の目の前で『社長なったつもりで働く宣言』をやらかし社長さんを喜ばせてやろうとの心積もりだったのに残念!やっぱり使用人は使用人らしく如何に上手にさぼるかに腐心すべきなのかと心が折れかけるもそれじゃ逆戻りじゃないかと自らを叱咤激励!よしわかった!社長がいなくても社長になったつもりで頑張ろうと心に決め、何はともあれ私は社長なったつもりで考えたのである。どうすれば利益が出るのか。どうすればお客さんが喜んでくれるのか。どうしたら従業員の皆が活き活きと働けるのか。私は社長なったつもりで必死で考えた。考えて考えて考え抜いて、午前中一杯を考える時間に当てていたら同僚からはさぼりだと糾弾されるも社長になったつもりで考えているのだから仕方ない。さぼっているように見えるのも又社長であるが故なのだ。そうして夕闇が秋の空に下りてきた時分になってようやく答が出た。そうだ。まずは取扱商品を入れ替えよう。我が社の商品には色々と能書きが付いていて『体にやさしい』だの『自然の力』だの『島の恵み』だの『有機栽培』だの謳っているがそんなものは嘘八百とは言わぬまでも単なるお題目である。何の意味もない、単なるイメージ向上のためにくっつけているばかりのナンセンスなコピーなのである。商品の中には昨今問題となってる中国からの原材料を主としているものも多数あるし、工場でライン生産されたものをひとつひとつ手作りですよと偽っているものもあるし、こんなんじゃダメだ。いかん。間違ってる。客を欺くとはまさに天に唾するようなものであるとの認識の下、私は大幅な商品の入れ替えに着手断行。これまでよりも仕入れ価格はかなり高いものの真に安全で安心な商品を取り寄せたのである。加えて従業員が快活に働いてもらうために現行の30分単位での勤務時間計算を撤廃。1分単位で出勤退勤残業時間を管理することにした。もちろん残業を20時間でカットするのも併せて廃止したし、パートさんも社員も合わせて全従業員の給与のベースアップもした。我が社は業界1位の売り上げを誇っているしパートさんばかりで構成された我が社の人件費は対収益で見た場合に業界最低であるから、社長が日ごろ言うほどに経営状態は苦しくなんかないし、時給650円のまま長いこと働いてもらっているパートさんが相当数いるなんて状況は業界1位の会社として対外的に恥ずかしいのである。更には、社長に特別に可愛がられている従業員には辞めてもらった。可愛がられている理由に正当なものがあれば別に問題とはならないが、単に社長の親戚であるとか、従業員同士の愚痴やさぼり具合を裏で社長にチクっているから可愛がられているような社長のスパイみたいな従業員は社内の士気を著しく低下させるのでやめてもらうしかなかったのである。くだらぬ商品と社長の犬は一掃して社内の雰囲気は随分と良くなった。皆が笑みを取り戻し、自社の商品に自信と誇りを得て接客もおのずと変わった。おっつけ業績は上がってくる筈である。と思ったところに社長が一週間の出張から戻ってきたので私は一連の業務改革を報告。社長がいないあいだ社長になったつもりで頑張ったと胸を張ったのだが何故だか社長は激怒。私は即日解雇の憂き目に遭ったのである。社長になったつもりで頑張れと社長が言うからそうしたのに。まったく解せない。社長とは斯くも支離滅裂な人格であると思い知らされた八重山の秋である。いと寂し。
2008.10.14
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島は、基本、身内贔屓きである。身内贔屓。知らない方のために説明しておこう。例えば島の製麺所なんかにイレギュラーの(急の)注文が二件あったとして、でも製麺所の在庫量は一件分の注文にしか応じられないとしよう。一件は麺一玉40円で卸している従兄弟経営の食堂からの注文であり、もう一件は麺一玉65円で卸している島ナイチャー経営の『カフェ居酒BAR』みたいなカテゴリーのはっきりしない店からの注文である。利益を優先するなら当然後者・島ナイチャー経営のカフェ居酒BARの注文に応じるべきであるが、島の製麺所はノーチョイスで、微塵の迷いもなく前者・従兄弟経営の食堂へ在庫麺のありったけを配達するのである。25円も高く卸している店を優先すべきであると誰しも思うかも知れない。なんとも愚かな身内贔屓であるとナイチャー誰しも憤慨するかも知れない。しかし違うのである。島の身内贔屓は決して愚かなる行いであるどころか完全に正しい行いであり、先々を見据えたかなり計算高い選択なのである。シマンチュに阿るがために言っているのではない。フツーに現実を認識し、展開予測を為すならば身内贔屓しか選択肢がないのだ。仮に一玉65円で卸してるナイチャー経営のカフェ居酒BARを従兄弟の食堂よりも優先したとしよう。で、優先的に卸すからには卸価格も下げて、一玉38円にしよう。かかるにナイチャーのカフェ居酒BARは儲かり、更に繁盛する。一方、従兄弟の食堂はジリ貧となり、開業から二年と持たず店じまいの破目に。じゃナイチャーがその儲けた金をどうするかと言うと通販で一杯買い物をして、そこんちの嫁さんと子供なんかが年に何度も本土へ帰っては東京や大阪あたりの夜の街で派手に散財するばかりで、居住地である八重山は石垣島へ落とす金額なんか精々が微増程度だ。加えて、親の具合が悪くなったとか子供の進学を考えてとか島には碌な仕事がないとか色々と理由をつけてはすぐに本土へと戻ってしまうのだから始末が悪い。仮に大勢のシマンチュがナイチャー盛業の為の道案内となり、彼らの事業や企画に賛同協力し、サポートし、盛り立ててやっても結局はなんら島の為にならなかったするわけだ。得てしてそうなんである。だから島に三年や五年住んだくらいじゃシマンチュはナイチャーを信用し切ってなんかくれない。半分様子見である。でも島で商売を始めようなんてナイチャーの居住年数は大半がそこらへんであるし、そのような時期にシマンチュや島の業者や行政などから非優先的に扱われて憤慨するケースが多いのだ。更に言うと、商売を始めようとするナイチャーの多くは「自分は切れ者である。非常にクレバーな人間である。私を尊べば、それがすなわち島の活性化につながるのである。田舎者のキミたちに商売のノウハウを、真髄を、極意を特別にレクチャーしてやるんだからありがたいと思いなさい」ぐらいに思っているからシマンチュからちょっとでも軽んじられると余計に憤慨する。激怒する。逆ギレする。いやはや、あまりにdokuzenに過ぎて、扱いがたいへん面倒な方たちである。
2008.10.13
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島へ流れ着いてから十三年あまりの時間が経過し、最近は人との出逢いも多くて、何故に島へ移り住んだのかを問われることがしばしばある。で、何が良くてこの島へ腰を落ち着けたのかを改めてもつらつら考え、あれこれ考え、色々と思い返し、上空十万メートルあたりまで上昇して思索の宇宙を飛び回ったのであるが、要は肌に合ったってことに尽きるのである。つまりフィットしたのである。分刻みで時計を確認するでもなく、義務だ責任だと騒ぎ立てるでもなく、遅れようとも失敗しようとも阿るでなく媚びへつらうでなく気に病むでなく、ビーサン引きずりTシャツ姿でたらたらやってるシマンチュの、その生きていく形が不思議なほどバシッと我が心の内の理想系と噛み合ってしまったのである。これぞ積年追い求めたる究極の生き方ぞ、ぐらいにあたしゃ思ったんだけどさ、思い同じくする本土の方もいりゃあ、逆に「いやいや、そうじゃないだろ。どう考えたってシマンチュの考え方は今後深く改めてもらわんといかんだろ。出鱈目、遅刻、失敗、欠勤、二日酔い、親族優先。そんなもの、現代では常識では許されないんだよ。タイムイズマネーなんだよ。島は生まれ変わらなきゃダメなんだよ!わかるかね仁科くん!」なんて具合に激昂する輩もいるわけよ。ま、斯くなる連中も大概は数ヶ月とか、精々が数年のうちに帰っちまうんだけど、なかには変に粘り強いっつうか『島は変わらにゃいかん!』みたいな使命感でも帯びちゃってんのか本土に帰らず島ン中で不平不満たらたら言い続けてんのがまた妙に可笑しかったりして、俺なんかはこんなブログ書いたりして外野から連中を煽るわけ。ま、違うって事を認められない了解できないのは、それはそれで辛いことなのだろうと存ずるが、辛い生き方を理想としてる本土の方に何を言っても馬耳東風…じゃなかった、端っから聞く耳持たないようであるから斯くなるせめぎ合いは今しばらく続くのである。to be continue.
2008.10.08
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例えば私が本を出したとする。例え話であるから内容はどうでもいいのであるが、ま、どうして北海道から石垣島までわざわざ自転車こいでやってきたのかみたいな独白本だとしよう。出版の名義はあくまで仁科たかし個人だ。なれば本文には旅の理由やら旅のエピソードやら北海道での暮らしやら東京時代の思い出やらが長々と書き連なり、親兄弟や友人たちなんかにも触れることになる筈である。で、色々と思いの丈を披瀝開陳せしめる中で、我が主張・我が人格・徳の有無・才能や能力・思想性などなどを補強もしくは裏付けるべく北海道の友人やら石垣島でお世話になってる人たちやら学生時代の恩師なんかに証言者として登場願うとしよう。【高校のときの仁科くんは既に窃盗放浪記という題名の長編小説を書いてました。話の中にはツバメ返しなんて万引き技が出てきたりして、ホントかよ!みたいに思いましたが、窃盗技の真偽のほどはともかく(笑)やはり当時から文筆の才能あふれるやつでしたよ。窃盗放浪記、すげぇ面白かったですね。それに彼はパンクバンドのボーカリストとしても特異な才能を披瀝してました。一度こんなことがあったんです。高3の夏休みに俺たちが企画したライブで彼は~】と、ま、そんな具合である。無論、そこは仁科名義で出してる仁科の独白本であるから仁科に都合の悪いネタなんか載せはしない。高校時代の友達が私の人格を貶めるに相応しい実話を書いてきても、そんな原稿、速攻ボツである。であるから仮に10名の証言者がいたとして10名とも仁科絶賛、仁科肯定、仁科万歳、仁科サイコー、ブラボー、LOVE YOU!ってな事になるのであろうが、果たしてそのような提灯記事をそのまま、まっすぐに、疑念を挟むことなく読む方はいるのだろうか。いるのである。これが。世間の方々はどうやら『本を出すような人は作り話なんか書かない。仮に著者が作り話を載せようとしても出版社側がそれを了承する筈がない』ぐらいに思っているのである。どうやら。でも了承するのである。出版社は。無論、場合にも程度にも担当者にもよるだろう。でも基本了承である。それに、自叙伝を出すような人ほど話の三つや四つ五つ簡単に作ったり誇張したりチョー余裕でやらかすのである。とは言え、それをデマとか作り話とか自作自演とか言ってしまうと聞こえも悪いし、書くほうも載せるほうもある種の罪悪感を覚えてしまうのでストレートな呼称は用いずに『演出』と言い慣わすことになる。演出、OKである。いまどきはセルフプロデュースなどと欧米風に呼びならわすようだが、要は自分に都合の悪いことは伏せ、隠し、見なかったことにしたり気付かなかったことにしたりして、反対意見や敵対する者や批判者の声は徹底的に排除し、てめぇの主張を裏付けることと補強してくれる情報ばかりを取捨選択して取り繕うわけだ。この手法を用いれば不肖仁科たかしも聖人君子になったり素朴なナチュラリストに変貌を遂げたり、才気あふれるカリスマと化したり自由自在である。すごいことである。凄いし、ましてや私に多少の地位や名誉や財産、現金があれば尚更に演出は大掛かりとなり、著者サイドに都合よいセルフプロデュースに難色を示すような出版社は切り捨て、ひたすらなびき、擦り寄ってくる出版社や各種メディア、業界人著名人文化人なんかを重用すれば完璧だ。そう容易く自作自演と一般にバレはしない。でも、もし仮に本を出すようなことがあっても私はそんなやりかたは絶対用いない。なぜならば、読む人が読めばそのような体裁は演出みえみえで、それだけでこちらの徳の低さを喝破されてしまうだろう。徳の低さをそのまま売りにするのはありだが、低い徳をさも高そうに見せるのは駄目である。ダメダメである。まだしも文章のテクニックで高そうに見せるならともかく、自分で選んだ友人知人に都合のよい証言をさせて徳を高くみせるなんて手法はやっぱり恥ずかしい。少々格好も悪い。でもって、そのようにしてセルフプロデュースされた虚像の上っ面が剥がれる時は呆気ないほど一瞬である、たいていの場合。どうせセルフプロデュースするなら容易くは壊れない虚像にしておかないと枕を高くして眠ることも出来ない。とは言え、間違って私が本業で有名になることがあろうとも自叙伝など間違っても出さないわけだが。自叙伝を出すってことは自分自身を売り物にすることに他ならず、つまりそれはタレント志望の強烈なる発露である。タレント志望が悪いなんて言うつもりは寸毫なくも、我が心の内にタレント志望の一片たりとも持ち合わせてなくば肯定も叶わないのである。私的には。で、なんでこんな事を書くのかって?昨今こんな手合いの駄本が多いよなぁと少々辟易し、それを読んだ方々が又喜んで他人に薦めているのを見るにつけ、程度こそ低いが、虚像を世に広めるとはある種の社会的害悪であるよなぁと軽く憤慨もするからである。
2008.10.05
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「ぼくは小学校しか出てないよ。ぼくらウミンチュに学歴は要らないさ」と語る島の男性。島の男性って一人か二人じゃなくて一般名詞としての島の男性。で、ウミンチュとは日本語でいうところの漁師であるから、言葉足らずが八重山のコモンスタイルにつき冒頭の言葉を勝手に日本語に意訳させてもらえば「漁師になるのに高校や大学までいく必要はないし、高校や大学になんて行ったら漁師になんかなれないのよ。わかる?」となるのである。高校ぐらい行っとけ。なんてことを世間一般の親や教師は言う。高校までの学歴を得ておけばあとは色々と道が拓ける。一応の学歴さえ修めておけばあとは努力次第でどんな職業にも就ける。仮に成りたいものに成れない場合でも最低限の学歴があれば生活するに困らないから。なんてことを滔滔と述べるのが日本国本土のコモンセンスであるわけだが、正味これは嘘である。これって、つまり高校まで行っときゃなんとかなる的人生訓。そんなもんは嘘ってことである。高校や大学までの学歴を得ておけばあとは小市民的努力が伴えばなりたいものになれるなんて信じていたら思いっ切り足をすくわれるのがオチなのだ。例えば冒頭のウミンチュ。彼らの多くは中卒なんて学歴で、なかには小卒なんて場合も少なくなくて、その卒業したはずの小学校も半分も通っていなかったりする(本人談ww)。しかるに彼らは無学無教養であり、漢字も碌に書けなかったり、足し算引き算にも困る場合だってある。じゃあ、そんな彼らが生きては行けないのかと言うと勿論そんなことは全然ない。ウミンチュとして漁師として立派に人生を送っているのである。更に言えば、高校や大学の学歴がないからこそ彼らは立派な漁師にウミンチュになれたのである。私が何を言わんとしているのか頭の良い方々は気付かれたことと思う。成りたいもの。やりたい事。得たい感覚や手業。それ如何によっては学歴なんざ無用の極み、無用どころか逆に余計な学歴を得たがために失ってしまう才能や感覚があるってことを知っておくべきだろう。荒れた海や高い波もものともせず、我々一般人には測り様もない潮の流れなんぞを読みつつ日々の獲物を手に入れるウミンチュをもし仮にどこぞの四年制大学にでも通わせて卒業させてみよう。おそらくは二度と再び彼はウミンチュに戻らないだろうし、仮に海の漁場に戻ったところで彼はもはや潮も読めず、高精度の魚探も顔負けだった第六感も失い、なによりも荒れた海に漕ぎ出す勇気を失っている筈である。ま、これは例え話に過ぎないのであるが、高校までは出とけなんて言葉に大した意味がないのは確かである。我が身をもって経験しているので間違いない。高校、専門学校まで通って無用に失ってきた感覚。学歴を得るまでにごてごてと塗りつけられた体裁やジョーシキを削ぎ落とすのにもがいてもがいて気付いたらもう四十の坂を登っている。くだらない学校や授業に時間を割いたおかげで人生半分無駄にしたような気さえする。ウミンチュに倣う学歴無用の生き方。それが本来あるべき姿や感覚に立ち返れる唯一の方法なのだろう。学歴なんて言葉や体裁やジョーシキが幅を利かせるようになって百年足らずである。学歴が下らぬとは言わない。それが必要な人、必要な職業も世にあって然るべきだろう。でもやはり万人に必要なものでないのもまた然るべきなのである。
2008.10.02
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シマンチュはゴーヤチャンプルが好きである。例えば本土出身者である私らが何がしかの好物に掛ける情熱なんぞ足元に及ばないほど彼らはゴーヤチャンプルが好きだ。大好きだ。いや。もはやそれは『好き』とか言うレベルの話ではなくて、シマンチュは自律神経系の働きによって空気を肺臓に吸い込むのと同じレベルでゴーヤチャンプルを召し上がるのである。つまり『好き』とか『美味しい』とか『何処のチャンプルが一番!』とかじゃなくして、登山家風情が目の前に山があるから山に登るのと同じ神経回路がシマンチュをチャンプルへと駆り立てるのである。はっきり言えばゴーヤチャンプルなしでは生きられないと言い切っても差し支えない。ま、人によってはそれがゴーヤチャンプルじゃなくして、ソーメンチャンプルだったり豆腐チャンプルだったりはするが、要はそういうことである。No Chample No Life.つまりそういう次第なのであるが、そんなゴーヤチャンプルよりもシマンチュが好きで好きで堪らないもの、愛してやまないものが実はあるのである。シモネタである。そんなアホな。と思われる向きもあるやも知れぬが本当である。誰と誰が姦りやがったとか、誰々は実はホモセクシャルであるとか、あれは中学のとき誰の女で、高校では一個上の先輩と二個上の先輩と二股かけたのがばれて、先輩本人じゃなくて先輩の父親からボコボコにされて、あの時たぶん父親にも姦られた筈で、高校中退して働き出すとすぐに勤務先の社長の愛人になって、まもなく一人目の子供産んだけどあれは社長の子供か先輩の父親の子供か判らない、みたいな話が三度の飯よりも好きである。きっと放っておけば終日そんなネタで盛り上がっている筈であるが、残念ながら人口五万に満たぬ島の中では尽きぬほどにその手のシモネタがあるわけでもない。だから同じネタを繰り返し持ち出して、同じ切り口で批評し、同じところで笑うのである。それゆえにシマンチュ、特に婦女子はシモネタを仕入れるのに日々血眼である。どこぞに二人きりで居てはいけない男女がいないか。亭主の居ない家に間男が上がり込んでは居ないか。同級生の旦那が助手席に乗せていた見知らぬ女は誰か。あの女はきっとナイチャーの筈。間違いない!よ~し、喋り捲ってやる~!!と言うわけで二日ほどお時間をいただれば誰と誰が姦淫を働いたなんて話は島じゅうで知らない人が居ないってくらいに広く知れ渡り、以後二年間~三年間ほどはリピート激しく巷間にのぼり、五年も経った頃には誰も覚えていないネタとなるのである。それくらい島は平和だ。めでたしめでたし。
2008.09.25
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石垣島やその周辺の離島。時間にでたらめな土地柄だなんて巷じゃ言われていて、シマンチュ・ナイチャーを問わずそれに異を唱えるものは皆無である。じゃ、時間にだけ特化して出鱈目かというと勿論そんなわけはなくて、時間に出鱈目であるとそれに付随して様々なことが出鱈目になるのである。例えば会合酒席に集まる時間が出鱈目だと集合時間から一時間が過ぎても半分にも満たないメンバーしか揃っていないってのが普通の状態であり、その半揃いのメンバーがどうするかと言うと、腹も減ってるし既に遅れが出ている会の進行を円滑にするために勝手ながら酒肴一式をオーダーしてしまう。例えば10名が揃うとして、半揃いの3名が10名分のオーダーをかける。然るに3名でぜんぜん食い切れないほどの料理が半時間ほどでテーブルにずらり並ぶわけであるが、更に1時間たってもメンバーが一向に増える気配がなかったりする。あれぇ?どうなってるわけ?みんな何してるばぁ。おっそい(遅い)だろ、いくらなんでも。ってことで当夜集まる筈のメンバーに片端から電話してみるに残りの7名全員が「いやぁゴメンだけど、今日は都合悪いさ。どうしても親戚のオジーのところ行かんといけんさ。急に電話してきて、急に来いとか言うからよ。ホントまいるさ。あのオジー、いっつもそうだからよ。まいるさオレも。だから今日はオレのぶんまでみんなで一杯飲んで。じゃ、そういうわけだから」みたいな言い訳がましいことを平然と、一方的に、問答無用に言い募ったあげく本当に来なかったりするのである。って事は10名分の酒肴一式を3名で食える筈もなく、揚げられて2時間、衣がだらしなく垂れ下がった山盛りの天ぷらや刺身盛合わせや唐揚げや各種チャンプル類を眼前にして半揃いのメンバーはやる気もなく酒を飲み、屁をこき、そうしてだらだらと居酒屋をあとにするのである。で、勿論ただで居酒屋をあとに出来るはずもなくて、お会計はしっかり10名分の料理と酒代である。ま、一人頭7180円ってところだろうか。居酒屋なのに1人七千円以上も取られて無性にむかつくし、やり場のない怒りがこみ上げるし、腹の虫が収まらないのは当然であり、来る筈だったのに来なかった七名のメンバーにちゃんと割り勘かけようぜ。払ってもらわんといかんだろ。な、そうだろ。そうだそうだ割り勘だ割り勘だと二万円あまりの支払いを被った三名で意気投合するも実際に酒席に居なかった連中から酒代を徴収できるはずもなく、泣き寝入りは必至である。当夜話し合われるはずだった議題は言うまでもなく手付かずのままに保留、次回持ち越しだ。話し合うべき議題があったのに何一つ決められないし、無駄金まで払わされた挙句に帰りのタクシーでゲロを吐いてタクシーの運ちゃんにしこたま怒られ、珍しく早めに帰宅したのに妻は間男を自宅に引き込んで浮気中だったみたいな出鱈目な展開って、島らしいよなぁ。好きだな、こういうの。でも、こんな出鱈目な展開も島じゃまだまだ序の口である。
2008.09.19
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八重山に観光客が戻ってきた。いつもの夏とそう変わらない密度で観光客がぞろぞろと、がやがやと、へらへらと往来を我がもの顔でほっつき歩き、そのうえ徒党を組んでいるからなんだか威圧的だったりする。たいていは三名から六名ぐらいのあいだであるが、中には八名以上の団体がぞろりぞろりと参勤交代の行列よろしく島の細い路地を練り歩き、話題の飲食店へと闖入してゆくのである。例えば何処とは言わない。言わないがだいたい決まっている。店の前の駐車場を見れば「わ」ナンバーばかりが停まっている。店内に入りきれなくて、都心部の駅前のラーメン屋よろしく店の外に列を成して待っているの場合だってある。店に入ると水着まがいのいでたちの男女で席は埋め尽くされ、彼らはひどく暑いのか疲れているのか、それともただ単に怠惰なだけなのか妙にだらだらとした調子でテーブルやカウンターの上にだらしなく突っ伏したり寝転んだりしてなんだかすっかり脱力モードである。ま、観光地だから観光客が脱力モードであるのは仕方ないが、一方店員のほうを見てみるに客の脱力モードとは打って変わってこちらはぴりぴりモードだ。こっちが余計なことなんざ一言でも喋った日にゃ足元にコップかトレーでも叩きつけられそうな勢いだ。成り行きお愛想のひとつもない。顔見知りだからと挨拶しても『なに!なんなの!あいさつくれてんじゃねぇよ。こちとらぁ、めっちゃ忙しいんだよ。見てわかんねぇのかよ。へらへら笑い掛けてくんじゃねぇぞ、こらぁt!!』みたいなもんである。これ、男性ならまだしもスルーするのであるが、女性にやられるととても気分が悪い。ま、そうは言っても向こうも客商売であるからストレートに斯くの如き乱暴狼藉を言葉にするわけではない。うわべはあくまで冷静な調子だ。「あら、どうも。いらっしゃいませ。はいメニューです』ぐらいのもんであるが、目が最悪なのだ。つまり目つき。もはや客商売のそれではない。観光客なんか金づるぐらいにしか思っていない目だ。『けっ、てめぇらピヨピヨピヨピヨいつまでもくっちゃべってねぇで早く帰んな!食い終わった奴はさっさと次の連中と交代だよ!いつまでも席に座られてちゃ、こっちの商売あがったりだよ。さあさあさあさあ帰った帰った』ってなもんである。忙しいくらいでなければ商売にならないだろう。それを承知で商売を始めたはずである。好き好んで観光客を客層に狙った筈である。店のつくりも、メニュー構成もそのようになっている。なのに、その嫌悪が混ざったまなざしを観光客に向けるのは反則ではないのか。それもかなり汚い手口の反則だと私は思うし、ただひたすら自動的にイラッシャイマセとアリガトウゴザイマシタの台詞をリピートするばかりの飲食店従業員型ロボットを置くのは本土都心部だけにして欲しく思うのである。もうちょっとマシな商売しませんか。ね、本土から来た商売上手の皆さん。
2008.09.14
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サザンオールスターズ風に言えば『牛も啼く夜』。はたまた一句いかば『牛啼かば夜が更けゆく石垣島』あえて前衛調にチャレンジするなら『牛が啼く夜。いや!牛は啼いているのではない。泣いているのだ。おいおいと泣いている。オレを食うなと泣いている。どうか食わないで欲しいと懇願の声を張り上げる。夜が明ければ絶たれる命を惜しんでいる。嗚呼うしよ。食われる牛よ。どうかオレの胃袋では啼いてくれるな』ま、へたくそはともかく、島も市街地から外れると牛が一杯いるのであるが、こいつら時々夜が更けると声を張り上げ啼き通したりする。牛飼いでもないし、調べたこともないのでなんで啼くのか知らないが、とにかく一晩中ずうっと啼いていたりするのである。でも全然啼かない夜だってある。だから意味がよくわからない。一度、その理由を解明せんと漆黒の闇の中を突き進み、すぐ間近でそれを聞いたのであるが、それはそれはたいそう悲痛なる叫びだった。こちらの耳も内臓も震わせる野太くも搾り出すが如き声なのだ。それはまるで蛇かスッポンにでも腹あたりを喰らいつかれ、振り払うにも振り払えず、スッポンだからいつまでも喰らいつきやがって断続的に襲ってくる激痛に堪えかねてグェエエゴギャゲゲグオオオとでもやってるようにも私の耳には聞こえたから、こんな闇の中で不用意にも牛さんに近づき過ぎ、こっちが正体不明の動物に喰らい付かれては堪らんと慌てて逃げ帰ったことがあった。あれはやっぱり猫みたいに繁殖の声なんだろうか。猫もふけるとたいそう悲痛な感じの声を出す。牛ももしそうだとしたら、やりたい気持ちとは斯くも悲哀に満ち、痛みにも近い表現を伴うものなのだろうか。本来は。などと更けゆく島の夜につらつらと考えたのである。
2008.09.07
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南国という地域柄なのか島には昼夜を問わない徘徊者をしばしば見掛けたりする。ま、徘徊といってもこちらが勝手にそう見ているだけで、もしかしたら御本人には一本の路地を何度も行ったり来たり、行きつ戻りつ、立ち止まっては又数歩進んで又立ち止まったりする並々ならぬなんらかの事情があるのかも知れないが、ご本人の心のうちはどうあれ他人にそうとは知れぬ行動を徘徊と呼ぶことに差し障りはないものと思うので話を進めよう。で、これ年齢年代的には結構まんべんなく分布しており、下は中学生くらいから上は八十に余る方々である。更に南国石垣島であるから昼暑く、夜は毎晩熱帯夜。夏は言うまでもなく暑く、冬の最低気温だって15度を下回ることは数回程度であるから徘徊しようと言う者にとってこの島は最適最良サイコーの環境だ。365日、24時間、思い立ったらいつだってサンダル履きでぺたぺたと徘徊出来るのである。ま、台風時の徘徊はちょっと難しくて、風速60m下での徘徊は命懸けとなるからあまりやる者はいない。って言うか、さすがに居ないと思うのであるが、どうなんだろう?こちらが雨戸を閉め切った家屋内で台風をやり過ごしているから気付かぬだけで実は徘徊する方々は台風なんぞものともせずに実践徘徊を遂行している剛の者もいるのかも知れないし、石垣島ではそういう人が居てもなんら不思議でないことは確かである。そういう島なのである。想像力の貧弱な本土の方々には及びつかぬ世界(島)であることは私が保証する。で、今も私がこれを書いている窓の外を徘徊している女性がいる。私と同年代か、少し若いくらいだと察するのであるが、黒いサンバイザーを目深に被っているので実際のところはよくわらない。彼女、10m進んではターンし、10m戻っては又再びターンし、12m行ったところで立ち止まって往来を左右に見回す。もしかして誰かと待ち合わせ?とか思っていると再びこちら戻ってきて今度は7mでターンする。で又15mほど進んでそこで立ち止まって左右を見渡してまたまた引き返してくるのであるが今度は一気に20mほど戻ったところで機敏な動作で何度目かのターンを決める。読んでいる人には彼女がどんな軌跡で動いているか判別不能だろうが、書いている私にもよくわからなくなってきているからここらで終わりである。また来週。
2008.09.06
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