存生記

存生記

2010年07月09日
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「ハングオーバー」を渋谷で見る。ラスベガスの独身パーティで浮かれ騒いだ男たち。結婚式を控えた男が仲間たちと独身最後の夜を満喫したのはいいが、気が付くととんでもないことになっている。部屋には結婚式に出席すべき新郎の姿はなく、かわりに虎や赤ん坊がいる。マイク・タイソンがやってきてぶん殴られたりする。ストリッパーと婚約したことになっている男もいる。赤ん坊はストリッパーの子供のようだ。とにかく酒とドラッグで記憶が飛んで何がなんだかわからない。

 そういう設定のコメディである。それなりに楽しく見られるが、笑いは文化によってかなり違うということを改めて感じる。それもまた映画を見るおもしろさではある。例えば、二日酔いの男たちが警官に連行され、犯人役に仕立てられ、子供たちにスタンガンで撃たせる場面は日本人には嗜虐的すぎる。実際には警察というのはそれくらい暴力的な存在なわけだが。また赤ん坊にオ○ニーの真似をさせるようなシーンというのも、日本では笑いの壺にはなりえないだろう。ちょっとやりすぎじゃないの?とひいてしまう。見方を変えれば、アメリカには悪趣味なコメディというジャンルのもとに自由奔放な映像表現ができる土壌があるともいえる。それにありえないくらいハメをはずすなら、それくらい常識や既成概念からかけ離れていなければおかしい。

男同士のハチャメチャで子供じみた空騒ぎは、日本でも工藤官九郎のドラマでもお馴染みだ。だが「木更津キャッツアイ」や「池袋ウエストゲートパーク」は若者たちの話である。通過儀礼のような青春の輝きである。「ハングオーバー」の男たちはもっと年齢が高い。だからよけいにバカバカしくておもしろい。悲哀も感じさせる。社会的には成功した歯科医の夫婦も徹底的にコケにされている。ジャック・ブラックに似た太っちょの彼にコケにされるシーンは秀逸だ。裏を返せば、これだけハメをはずさないとやってられないくらいアメリカ社会が窮屈だということだ。

日本でも節約や仕分けといった言葉に象徴されるようにますます経済的合理性によって人が動くようになっている。酔狂の二文字は何処に行ってしまったのか。駅のホームで酔いつぶれているくたびれたサラリーマンには、酔狂の自由を満喫したようにはみえない。かけ声にあわせて一気飲みを強制する学生のコンパもしかり。たしかにワールドカップは熱狂させた。世界の何処でも共通の現象だ。だがそれ以外の方法でこの熱狂を味わうのは、個人や仲間の想像力や才覚が要求される。これはけっこう面倒くさいし、生活に余裕がないとそこまで遊びに情熱的にはなれない。

まあそれだけ貧しくなったのかもしれない。賭博だ大麻だ淫行だ何かと糾弾されるようになった。その結果、酒も飲まないのに二日酔いのような気分で労働にいそしみ倹約に励まなければならなくなった。将来的にはこの種の映画はまったく笑えず理解できない人が増えていくのだろうか。それとも不可欠な娯楽になるのか。わからない。





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最終更新日  2010年07月10日 01時15分52秒


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