キリコ祭り
菜の花
そうだった。高校の3年間を毎朝この能登線に乗って藤波駅まで通った。普通科高校と水産高校の2校があり、時には座ることも出来ないほど満員の状態だった。
この駅で下車し高校までの道のり15分、2つの高校の生徒達は長蛇の列となり歩いていった。
そして、母校は水産高校と統合されて無くなり、能登線、のと鉄道も無くなった。
写真を撮り始めたころ「能登線」の赤字や存続が問題視され始めていた。
良い写真が撮れたら「能登線の写真集でも出そうか」と写真仲間の先輩と話していた。そして、「動くギャラリーとして列車内で写真や絵の展示すればどうだろう?」と「のと鉄道」に打診したが実現しなかった。
昨年、私のCG「鉄路」から話が進み、現在の「のと鉄道七尾線」の列車内に「動くギャラリー」をすることになった。・・・だが、その後、妻の父親が亡くなり私は新たなCGを描くことができず辞退し、知人の企画による作品が車内展示された。「動くギャラリー」は実現したが、これも時の巡り会わせだろうか、と思わざるを得なかった。
そして、草に覆われた廃線の絵を描こうとしたとき・・・
どうしても、この鉄路の向こうに眠る記憶へと辿り着いてしまうのだった。
1985年7月11日午後2時21分。
古君駅~鵜川駅間の盛土の崩落によって金沢発蛸島行きの急行「能登路5号」は全4車両が脱線、前の3両が水田に転落し7人が死亡、32人が怪我をした。
けたたましく鳴り響くサイレンの音に飛び出して事故の現場に向かった。
カメラを持ち出し転覆車両の写真を撮ったが負傷した人を写す気になれなくて、何もできずに、ただ現場の推移を見ていただけだったように覚えている。
6月末から降り始めた雨は7月11日までの12日間で540ミリになっていた。
あれから20年以上の歳月が流れた。
レールが撤去される日々。軌道の上に枕木が山積みされた光景が目に付く。もう2度と、この軌道の上を列車が走ることはない。
人口が減り、鉄道がなくなり、学校がなくなり、更に過疎は進む。
追記
立山連峰を望む 「人と鉄道のスナップ」
廃止になって、もう二度と写せなくなった今、振り返ると沿線の人の暮らしにとって能登線(のと鉄道)が如何に重要だったかを思い知らされている。朝の通学、夜の子供達の迎え、路線バスと鉄道の移動距離の違いは、子供達への負担も大きいが親の負担がずいぶん大きくなった。
46年間、家から見える小学校の校庭の向こうに能登線を走る車両があった。
奥能登の人々の暮らしを支える大動脈だった。
鉄道と共に暮らした人の姿が感じられる写真を、もっともっと撮っておけばよかったと今更ながら思う。