能登の手染め日記

能登の手染め日記

能登線の記憶(写真集)

能登線の記憶

古いアルバムの中から
廃線となった能登線の記憶 写真は1984~86年


霧の駅

霧の駅



駅の夜

駅の夜



汽車を待つ

汽車を待つ



秋の陽

秋の陽




能登に帰ってきたのは25年前。写真を見るとあの頃の記憶が甦ってくる。

仕事をしながら能登に暮らすことに漠然とした気持ちの私にできることは、身の周りのことを記録しておくこと。その一つが能登線の写真だった。

キリコ祭り

キリコ祭り


菜の花

菜の花


霧

5月の帰省



川面-02

川を渡る

通学

通学路



写真は1985年前後に撮影したもの。


そうだった。高校の3年間を毎朝この能登線に乗って藤波駅まで通った。普通科高校と水産高校の2校があり、時には座ることも出来ないほど満員の状態だった。
この駅で下車し高校までの道のり15分、2つの高校の生徒達は長蛇の列となり歩いていった。
そして、母校は水産高校と統合されて無くなり、能登線、のと鉄道も無くなった。


それが、この20年の歴史。そして、能登の過疎化の歴史。


能登線・のと鉄道能登線の歴史

1959年6月15日 国鉄 能登線 穴水~鵜川間(22.9km)が開業
1960年4月17日 鵜川~宇出津間(9.9km)が開業
1963年10月1日 宇出津~松波間(13.8km)が開業
1964年9月21日 松波~蛸島間(14.5km)が開業(全線開通)
1985年7月11日 古君~鵜川間で豪雨のため盛土が崩壊、急行「能登路5号」の脱線転覆で7人死亡
1988年3月25日 JR能登線廃止、のと鉄道能登線 『のと穴水~蛸島間(61.0km)開業』
2005年4月 1日 のと穴水~蛸島間(61.0km)廃止
2006年11月……線路の撤去作業開始~2007年8月まで続く予定







緑の中.jpg

緑の中を行く



祭りへ行く

祭へ



紅い傘

虹と紅い傘



雪の駅

雪の無人駅



終点-02.jpg

終点

終着駅は蛸島。桜が満開の頃、逆光がまぶしかった。


写真を撮り始めたころ「能登線」の赤字や存続が問題視され始めていた。
良い写真が撮れたら「能登線の写真集でも出そうか」と写真仲間の先輩と話していた。そして、「動くギャラリーとして列車内で写真や絵の展示すればどうだろう?」と「のと鉄道」に打診したが実現しなかった。

昨年、私のCG「鉄路」から話が進み、現在の「のと鉄道七尾線」の列車内に「動くギャラリー」をすることになった。・・・だが、その後、妻の父親が亡くなり私は新たなCGを描くことができず辞退し、知人の企画による作品が車内展示された。「動くギャラリー」は実現したが、これも時の巡り会わせだろうか、と思わざるを得なかった。



2006年5月、トンネルや橋などは板によって囲われていた。

立入禁止.jpg

立入禁止


そして、草に覆われた廃線の絵を描こうとしたとき・・・
どうしても、この鉄路の向こうに眠る記憶へと辿り着いてしまうのだった。






写真を撮ることによって色々な出会いと発見があった。

空の色や空気に反応し、霧や虹がかかるとカメラを持って出かけていた。


夏の駅

夏の駅



タブレットを渡す

タブレットを渡す



二人

二人



立山連峰

立山連峰


奥能登の内浦地域では、気象条件が良いと富山湾を越えて海の上に立山連峰が見える。
写真は穴水町古君駅付近。南向きで緩やかな地形の田園地帯を列車が走っていた。



1985年7月11日午後2時21分。
古君駅~鵜川駅間の盛土の崩落によって金沢発蛸島行きの急行「能登路5号」は全4車両が脱線、前の3両が水田に転落し7人が死亡、32人が怪我をした。

けたたましく鳴り響くサイレンの音に飛び出して事故の現場に向かった。
カメラを持ち出し転覆車両の写真を撮ったが負傷した人を写す気になれなくて、何もできずに、ただ現場の推移を見ていただけだったように覚えている。
6月末から降り始めた雨は7月11日までの12日間で540ミリになっていた。



1985年7月11日

1985年7月11日


一周忌

1986年7月11日


あれから20年以上の歳月が流れた。

レールが撤去される日々。軌道の上に枕木が山積みされた光景が目に付く。もう2度と、この軌道の上を列車が走ることはない。

人口が減り、鉄道がなくなり、学校がなくなり、更に過疎は進む。

だが、それでも私たちは、この土地に暮らしている。


若葉

1986年4月 正院駅





追記

立山連峰を望む


立山前波駅

立山連邦と能登線前波駅。

そして「間島の橋梁」という鉄道マニアに人気があった撮影ポイント。

間島の鉄橋

写真好きな友人を連れてきたら嬉々として撮り続け、その場を離れないのを見て初めて自覚した屋根の上の海。橋の上を走る列車。そのまた上の立山連峰。この組み合わせ、何度も挑戦したけれど上手く撮れなかったことが今でも悔しい(^^;



「人と鉄道のスナップ」


能登線の写真を撮ったのは実質2~3年、ただやみくもに撮っていた感じだった。

線路工事-02

線路の入れ替え



線路工事-01

列車が通る



雪の中

雪の中



恋路海岸

恋路海岸



中学生.jpg

中学生と黄色い車両



少年と列車

夏の校庭



子供相撲

子供相撲




廃止になって、もう二度と写せなくなった今、振り返ると沿線の人の暮らしにとって能登線(のと鉄道)が如何に重要だったかを思い知らされている。朝の通学、夜の子供達の迎え、路線バスと鉄道の移動距離の違いは、子供達への負担も大きいが親の負担がずいぶん大きくなった。

46年間、家から見える小学校の校庭の向こうに能登線を走る車両があった。
奥能登の人々の暮らしを支える大動脈だった。

鉄道と共に暮らした人の姿が感じられる写真を、もっともっと撮っておけばよかったと今更ながら思う。






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