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週末、ボルチモアに一泊旅行に行ってきました。前回と違って「住んでも良いかも・・」なんて最後は思うくらい、とても雰囲気の良い街でした。晴れていたことと、人が多かったことが理由かな。カレッジの卒業式と、オリオールズ戦が近郊のワシントンナショナルズとあったので、人がかなりたくさんいました。今回の旅行のメインは > > > 。予定では4回に分けて旅行記を書こうと思っていますので、お付き合いください。 今回はできるだけ公共機関で動きたいなぁ・・と思っていたので、駅からInner Harborまでいきなりバスに乗りました。少し躊躇気味の旦那さんの前でズンズン車内に乗り込みました。が、本音は怖くて後部座席を向けない。以前、バスを待つ人や車内を外から見て「これで移動する街なら・・住めない」と思ってしまうほど、微妙な緊張感があったんです。が、実は良い人ばかり。降りる場所がわからないと後ろから教えてくれたり。 公共機関といえばLight Rail(ライトレール)も乗りました。10分程待てばすぐに来るので、慣れれば便利です。無人の路面電車で、乗る前に切符を買います。ちょっとした観光バス気分で窓の外を見ていても楽しかったです。 インナーハーバーに着いて、まずは高いところから眺めよう・・とTop of the Worldという大げさな名前の展望台へ。27階というからそんなに高くないですが、五角形の建物としては世界最高の高さなんだとか。ここはグルッとボルチモアを見渡れるので、街を知るには絶好の場所です。2月に行ったフォートマクヘンリーも遠くに見えました。 上からの次は下から(?)ということで、水陸両用のダックツアー($25)に参加しました。フィラデルフィアでも乗ったのですが、好きです・・ガーガーするの。ボルチモアが好きになった大きな理由にはこのツアーに参加したからかも。80分間、運転手兼ガイドの兄さんが喋り捲ります。 街の真ん中マウントバーノン地区も初めて通るので楽しみです。ここは19世紀後半から20世紀初頭の建物が残っていて、とても雰囲気があります。中心にはワシントンモニュメントが聳え、そのまわりには図書館や美術館があります。今回行けませんでしたが、美術館は無料。アムトラックの方にあるボルチモア美術館も無料です。図書館フェチとしては、映画にも登場するこの図書館(The George Peabody Library)はいつかは訪れてみたいです。 お兄さんの説明を聞きながら、ガーガーしていると、マチビトたちが陽気に手を振ってくれます。NYと違って数無くないラテン系の人たちはみんな恥ずかしがって照れているのも面白い。なんかみんな明るいんですよねぇ。Top of the Worldに上った世界貿易センタービル $5 だんだんハーバーの陽も暮れて(暮れていなさそうに見えて、写真は7時まわっています)、ボルチモアに夜がやってきます。5/17~18のボルチモア旅行記を書いています。Madama Butterfly Camden Yards 陽気なボルチモア(ボルチモア探索) カニッ、カニッ、....≧[^ ^]≦ 他。(ボルチモアの美味しいモノ)
2008.05.17
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Fort McHenry 先日、3時間の特訓の成果空しく覚え切れなかったアメリカ国歌。その誕生の地を訪れました。Harbor Placeから水上タクシーでも行けるそうですが、私たちはタクシーで行きました。30分後に戻るから・・という私たちを、メーターを倒さずに迎えに来てくれたタクシーのお兄ちゃん、ありがとう。 星型の砦には武器庫やジョージ・アーミステッド少佐の住居、衛兵所があります。南北戦争時は南軍や政治犯を収監した留置所があり、そこに入ったときは真っ暗でゾッとしました。Baltimore & Ohaio Railrord Museum ボルチモアはアメリカ鉄道発祥の地。1830年に旅客・貨物を運ぶBaltimore & Ohaio Railrordが開通しました。歴史的な鉄道が200台は並んでいるというこの博物館にNYに戻る直前に寄ることにしました。が、到着したときは閉館5分前。入館料を払って何とか少しでも長く見ようと交渉するも閉館時間は変えられず・・。と、「良いよ、5分だけね」と手でGoの合図を。10分間という時間を無料で私たちに開放してくれました。戻って知ったことですが、2003年に鉄道を展示しているドーム型の建物の屋根が木造だったため、積雪に耐えられず落ちたそうです。建物や歴史的な鉄道も被害が及んだものの、入館料を値上げ今では復旧したそうです。 電車好きとはいえ詳しくない私には何がどう凄いかわかりませんが、"Tom Thumb" (トムサム)や"Lafayette"(ラファイエット)と呼ばれる鉄道発祥時のSL(Steam Locomotive;蒸気機関車)が展示されているそうです。(アメリカ版鉄吉のサイト参照) ここの駐車場はレプリカかもしれないけど、歴代の鉄道に挟まれて車を停めるようになっています。ボルチモアのペンステーションまで地下鉄で戻ろうと探したところ、道に迷いおまわりさんに道を尋ねました。近付くなり「道に迷っているんだろう」と言われ、とても親切に教えてくれました。 今回はLRT(ライト・レール・トランジット)や地下鉄を使わず、タクシーでの移動でした。インナーハーバー以外は人も疎らでしたが、こうして日記を書きながら思い起こすと、触れ合ったボルチモアの人たちはとても温かかったです。
2008.02.19
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日帰りでBaltimore(ボルチモア)に行ってきました。NYのペンステーションから3時間程、フィラデルフィアとワシントンDCの間にあります。1日曇り、夜から雨という天気にもメゲズ6:45発のアムトラックで行って参りました! 10:00前にボルチモア駅に到着。駅→(車中からLyric Opera House確認)→Camden Yard(オリオールズの野球場)…Sports Legends(ボルチモアのスポーツが詰まっている)…Babe Ruth Birthplace(ペーブ・ルースの生まれた家)…Edgar Allan Poe Grave(エドガー・アラン・ポーのお墓)…Lexington Market(1782年から続いているマーケット。定休日日曜日)…HarborPlace→Fort McHenry(マクヘンリー要塞)→B&O Railroad Museum(交通博物館)…車上の優しいポリスのお兄ちゃんに道を聞く→駅 (→車、…徒歩) ボルチモアというと"Hairspray"のイメージが強いです。ところが、クルクルまわるトレーシーちゃんはおろか迫力あるママなど・・いませんでした。それ以前に、人が歩いていない!60万人以上の人口を抱える大都市のはずですが・・・不思議なボルチモア。一体住民はどこにいるのでしょう。ちなみに人をたくさん見かけた場所は2ヵ所、観光地インナーハーバー(Harbor Place)とマクドナルド。しかも、日曜日休みの店が多く、ボルチモアで1番美味しいと大絶賛されているクラブケーキを食べにレキシントンマーケットに行ったら定休日でした。人がいない・・・ トレーシーちゃんがいないなら・・とまずはベーブ君に会いに行きました。ボルチモアといえば・・ベーブ・ルースの出身地です。オリオールズのホーム、カムデンヤードの横に銅像がたっております。球場内のツアーも無いため、柵から眺めてまいりました。Sports Legends/Babe Ruth Birthplace & Museum ボルチモアはアメリカの鉄道発祥の地。NYに戻る直前に駆け込みで行った鉄道博物館もなかなか面白く、SLや馬車、ターンテーブル、模型、駅舎にあった時計・・などが並んでいました。この博物館もボルチモア最古の駅舎を改良していました。ベーブ・ルースを始め、地元オリオールズの誇るカル・リプケンの思い出の品なども並んでいました。カル・リプケンは2632試合連続出場で知られる鉄人ですが、若い頃はなかなかハンサムで最初わかりませんでしたよ。ベーブ・ルースがバスローブとして愛用していた帝国ホテルのハッピ その後、ベーブ・ルースの生家へ。ドイツ移民の一家は球場からすぐそばに住んでいたんですね。数々のユニフォームや、彼を演じた男優さんの付けた『つけ鼻』なども展示してありました。必見という必触はバット。向かって左の短い方がベーブ・ルース、右の細長い方がカル・リプケン 実際に2人が使っていたバットを触り比べできます。カル・リプケンのバットは打ち辛そう・・というのが感想。生涯本塁打数は714本(王貞治868本、バリー・ボンズ762本、ハンク・アーロン755本)、長打率.690(王貞治.634)。 それからエドガー・アラン・ポーのお墓をお参りし、美味しいと評判のクラブケーキを食べにレキシントンマーケットに行くも日曜定休。日曜日がお休みという感覚が久しぶり。それならば・・と観光地インナーハーバーに向けて散歩をしました。実はこの辺りはガイドブックよにっては「歩くべからず」と書かれているところ。男性も一緒だったので安心して歩いていたものの、確かに女性だけでは心もとない街でした。人がいない上に、いてもバスを待つ黒人が多かった。地元の人でアジア人はおろか白人もそんなに見かけなかったです。 インナーハーバーに近付くと潮の香りがしてきました。
2008.02.17
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この週末、日帰りでアメリカ建国の地-フィラデルフィアに友達に誘われて行って来ました。フィラデルフィアには2年前に先輩・同僚と珍道中で行き、お天気にも恵まれて本当に楽しかった思い出があります。今でも2年前のNYの旅・・というと真っ先にこのフィラデルフィアが思い出されます。この日も8時過ぎのアムトラックで向かい、本当にお天気の良いフィラデルフィア散歩になりました。 まずは国立独立記念公園に。今回は『自由の鐘』にまつわるスライドをちゃんと見てから現物を見たので重みが違いました。独立直後はこの鐘を鳴らして会議を招集していたというから、当時の街のなんと静かだったことか。ポーンという音で議員は手を止めて議事堂に向かったというのですから、なんとも長閑です。イギリスからの独立に向けて大陸会議が開かれたインディペンデンス・ホールやカーペンターズ・ホール。独立宣言にサインした地、トマス・ジェファーソンが宣言した地。アメリカ建国当時をしのぷ建造物がたくさんあります。 前回はダックツアーでチラッとしか見れなかった『ベッツイ・ロスの家』。当時の家がそのまま残っており、家にはベッツイが縫いものをして出迎えてくれます。それまでいろんな国旗があり、統一しようと国旗のデザインを考え(当時は13州)、独立宣言の翌年にベッツイに最初の星条旗を縫うように依頼がきたそうです。もともと彼女は縫い物が得意で椅子やベットなどのファブリック系を縫っていたそうです・・とお庭にいた案内の男性が親切に説明してくれました。が、彼女は伝説の人でどこまでが本当かわからないそうです。お家の中はとても可愛くてベッツイの部屋の様子が見れます。お腹がすいてきたのでお店に向かいながら街探索。色がとても可愛く、いろんなところに自由の鐘がデザインされていました。 お昼はSouth. St.まで降りて、前回と同じくJim's Steaksに。人が吸い込まれるようにどんどんお店の中に入っていきます。私はあっさりしているかなぁ・・とProvoloneのチーズステーキを。少し食べさせてもらったwhizの方が濃厚でした。忙しい店内では注文するときに声が小さかったり、ちゃんと言わないとオジサン不機嫌に何度も聞き返してきます。食べ物をゲットするために躊躇してはいけません・・。 歴史に触れ、お腹いっぱいになったところで、午後からは美術鑑賞に行きました。
2007.12.08
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友達のRちゃんからクリスマスプレゼントをもらいました。「はい」と鞄から出してくれたのはINCA KOLA(インカコーラ)。あぁ・・懐かしのペルーの日々・・。楽しかったなぁ、美味しかったなぁ。今思っても対山(?)から古代マチュピチュの遺跡を見たときは、時が止まっていたなぁ。 Rちゃんとは一緒にペルーを旅行したので、このプレゼントはかなり私のツボにはまりました。今は冷蔵庫の中に眠っていますが、ザムザムの聖水のようにとって置こうかなぁ・・。黄色だからお部屋のインテリアにもなるし・・。Rちゃんに早く飲みなよと言われそうですが・・。メリークリスマス。ザムザムの聖水 私も詳しくは知らないのですが、イスラム信者がメッカに巡礼したときに必ず持ち帰る井戸水があるそうです。ザムザムの聖水といわれ、メッカのカーバ神殿のそばの井戸水らしい。巡礼者はもちろんのこと、持ち帰って病気の人に飲ませたり・・というご利益のある聖水なんだそうな。友人がイスラム圏に留学したとき台所にクリープの瓶がいくつもあり、中には水が入っていたそうです。時に断水が続き、彼女は喉が渇いて聖水とは知らずにガブ飲みしたそうです。ご利益のあるお水ですから何世代前から祀っているお水かわかりません・・・。聖水を見るたびにその友達を思い出す私です。
2007.12.04
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いろいろと謎の多いインカ文明です。今回の旅でもこれほど高度な技術を持っていたにも関わらず、文字が無かったばかりにこうも謎を残したまま無くなるものかと不思議に思いました。ガイドさんの説明を備忘録のように書いてみようと思います。『3』 インカ文明を通して鍵になる数字が『3』でした。サクサイワマンなどの石でできた要塞は3層だったり、インカの教えとして"learn""teach""love"、「盗まない」「だまさない」「怠けない」と3つあったり・・。インカの思想として"past""present""future"とあり、それぞれを象徴する動物が『へび』『ピューマ』『コンドル』でした。コンドルは1番神聖な象徴でした。マチュピチュの神殿も3つの窓がありました。精巧な石組み 言わずと知れたインカの石組み。本当に精巧でピッチリと組まれています。数年前にアグアス・カリエンテスの石屋さんが当時の技術で石を割り、組もうとしたそうですが、無理だったそうです。マチュピチャやコリカンチャで当時の石組みを見ると、角の部分が一枚石になっていることに気付きます。高貴な人の住居になるほど、組み方も精巧になっています。反対にマチュピチュでも、技術者や庶民の住居跡になると崩れているところもありましたその他の高度な技術 インカ文明には『文字』と『車』がありませんでした。そのかわり、人口・石高・収穫の時期・・などは「キープ」と呼ばれる紐で管理していたそうです。一本ずつに意味があり、結び目の間隔や個数で管理していたそうです。インカの石組みも「キーストーン」を中心に組まれており、「キーストーン」を探し当てれば石組みも崩れるそうです。どれがその石に当たるのか謎ですが、その在りかも当時の人は「キープ」で知らせていたそうです。 また、インカ文明には高度な医療技術もあり、死体を調べると脳外科手術の跡があるそうです。その一方で薬草やマッサージで高山病を治す自然治癒的な技術もあります。ケチュア vs アイマラ クスコ一帯を拠点に発展したインカの中心はケチュア族でした。今でもクスコにはケチュア語を話す人が多く、ケチュア族の血を引いたメスチゾが多いです。マチュピチュを誇りに思い、観光を業いとして生活しています。 一方、チチカカ湖一帯のプーノはアイマラ族が多く生活しており、チチカカ湖を誇りに思っています。フリアカは『小さな中国』という意味があるように、コピー製品のメッカで(!)、工場もたくさんあります。フリアカを代表するようにこの地方は、産業と観光で生活をしています。 このご時世でも、ケチュア族とアイマラ族はライバル視しており、バスなどに同乗するとお互い意識するそうです。民族同士で結婚すると、子どもをどちらの子孫とみなすかで揉めるそうです。 そもそもインカの初代皇帝の誕生(伝承)がクスコとチチカカ湖にあり、ライバル視するきっかけになっているそうです。初代皇帝は妹と共にチチカカ湖に降臨した・・という言い伝えと、マチュピチュの聖なる神殿の3つの窓から8人の兄弟姉妹が湧き出し、その中の1人が初代皇帝だった・・という説があります。 ・・・元凶(?)の初代皇帝の名前が、不謹慎ですが微妙な名前なんです。日本人ツアーのガイドさんはやり辛いだろうなぁ・・と余計なことを心配していまいました。その名前を冠した空港の入り口でパチリ。これを最後にデジカメちゃんが高山病になったので、皇帝の怒りをかってしまったのかしら・・※4/15~4/23のペルー旅行の日記です。
2007.05.03
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先週の日曜日(15日)からペルーに友達と行ってまいりました。標高3000だ~4000Mだ~という高地に行ったにも関わらず、私は大丈夫でした。きくところによると80~90%の人になんらかの高山病の症状があらわれるようです。かわりに、3種の神器デジカメちゃんが高山病(?)を発症。プーノに着くなり息が荒くなり、フリアカの空港で反応がなくなりました・・。 着いてすぐに長崎市長とバージニア工科大学の事件、リマに到着した日には『日本大使公邸占拠事件』解決から10年目・・と悠久のアンデスの古代文明と現代を行き来する10日間でした。 お天気にも人にも恵まれ、最高のペルー旅行でした(旦那さん、ありがとう)。唯一、今朝ヒューストンからNYの便を乗り遅れたことくらいかな・・。高地トレーニングの賜物で、搭乗口まで全力疾走したのですが・・既に機体はありませんでした。 NYにいるときに中南米の人とたまに間違えられるのですが、陽に焼けた私はペルーでもしっかり土着しておりました。ついに日本人観光客に「日本語習ってはるの?」と言われました(NZに行ったときにも、日本人観光客にマオリ族と間違えられ、一緒に記念写真に収まった経験アリ) NYに着いたら、もう春!梨の花もきれいで、デジカメが病んでいることが残念です・・。【追記】スマートメディアを持ってカメラ屋さんに走り、CD-ROMに画像を落としてきました!少しずつ旅行記を書いていきますので、お付き合いよろしくお願いします。ペルーの空は本当に青い!広い!
2007.04.24
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前日、初代皇帝の名前を冠したフリアカの空港を撮影してから、病んでしまった私のデジカメちゃん。ここからは友達のカメラをお借りしてお届けいたします。 1週間ぶりのリマは・・空気が濃かった。高地にいたんだなぁ・・と実感。ホテルにチェックインしてからミラフローレスにできた24時間オープンのスーパーまで買出し。ナスカの地上絵はセスナに乗るため、できるだけ胃の中は空にしておかないと辛いらしい。お洒落なスーパーをぶらぶらして(ここでもポーランドからの旅行者に地元に間違えられて、パンの買い方を聞かれる)、パンとフルーツを購入。 今朝は4時過ぎに起きて6時前にはセスナの飛ぶイカ空港まで車で向かいました。すごい霧で、これは地上絵は見れないかなぁ・・なんて、ションボリしながら車内で熟睡。 着くととっても良いお天気。オフロードコースター用のジープがあり、誘惑にかられるものの、セスナに酔ったらどうしよう・・と思い断念。2時間ほど待って搭乗。入れ違いに降りる日本の団体さんたちがフラフラ~・・とした足取りで降りてくる人多し。中にはセスナに酔って真っ青な人も。ちょっと緊張。 セスナは12人乗り。前には体の大きなアメリカからの家族が体を押し込むように座っていました。いざride on ナスカはインカよりずっと前、100~800年に栄えた文化です。雨がほとんど降らない砂漠地帯で、そのため地上絵も残っていたそう。絵は地面に彫るのではなく、石をどけて模様を描いているそう。砂場に棒で絵を描くようなもので・・そりゃ風化してしまいます。いつかは消えて無くなってしまうんだろうなぁ・・。一文字で描ける図が多いのは、儀式のときにそこを人が歩いたからとか・・。 最初にでてきたのは図形。これがはっきりしていて美しかった。砂漠の中にあるので、どれが地上絵なのか正直分かるか不安でしたが、これで少し安心。その後、宇宙人に接近。わかります?岩肌に斜めにいます。こんな風に「ドコ?ドコ?」が連呼されると、セスナがGをかけて地上絵に寄っていきます。Gが結構かかって面白かった。 往復1時間のセスナ遊覧終了。全てが謎に包まれており、1200年以上、このままでいたと思うとすごいモノを見たと実感。最初はわからず、道路が作られた・・と聞いていましたが、パンアメリカン・ハイウェイがくっきり地上絵を分断しているのも、現代人の愚かさを象徴しているよう。ガイドブックに載っている絵以外にも、地上絵っぽいものがたくさんありました。 一旦ホテルに戻って、ミラフローレス地区のお洒落スポット、ラルコ・マルにお散歩。海沿いにあるショッピングモールでデートしているペルービアンが多かった・・。最後のお買い物をしてホテルに戻り、シャワーを浴びて、フライトの時間までのんびりしました。 今回の旅行は西河トラベルさんにお願いしました。全てに細かく気を配ってくださって本当に楽しい旅行ができました。ホテルや乗り物の座席もベストな場所を選んでくださり、最終日にはフライト時間までホテルをとっておいてくれました。ナスカは砂漠なので、長いフライト前にはシャワーを浴びてさっぱりできることが、本当に嬉しかったです。お薦めです! 長い旅行記もあと少し。不思議なインカの技術と美味しいペルーの食事編です。お付き合い、本当にありがとうございます。
2007.04.23
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朝はチチカカ湖からの日の出を見たく、5時起床。ホテルの最上階に行くと、真正面にチチカカ湖が見えました。まだ辺りは暗く、朝ごはんの準備をする従業員の音がするくらい。ペルーのホテルはどこも朝が早い。クスコではマチュピチュのために4時から朝食の準備ができています。待つこと1時間。まぶしい陽の光を浴びながら、今日のウロス島観光を楽しみに部屋に戻りました。ウロス島の浮島 今日のガイドはウロス島の浮島出身のペペさん。浮島の学校に幼稚園・小学校と通い、中・高・大はプーノの学校に通ったそうです。このウロス島はトトラという葦が湖に浮かんでできた島です。水中の葦が腐れば、新しいトトラを積んで・・を繰り返して、島は浮き続けています。チチカカ湖内、好きなところに浮島を移動できるそうです。気になって聞いたら、ペルーには住民票みたいなモノは無いそうなのでその都度申請しなくても大丈夫そうです。 アイマラ語で「カミセラキ」("How are you?")「ワリキ」("I'm fine.")と会話しながらジャンプして島に降りました。けっこう安定感がありました。島民は裸足で歩き回っていました。島には電気があってビックリ。太陽ソーラーの装備されている島もあるそうです。島には歯医者さんが無いので、子どもたちにお菓子の代わりに果物を持っていきました。お礼に日本の童謡を歌ってくれました。シユスタニ 不思議な浮島からプーノに戻って、空港に向かう間にシユスタニ遺跡へ。ここはインカ時代とプレインカの陵墓が混合して建っている遺跡です。しかも、インカ時代に、プレインカのお墓を囲むように作っているんです。 広大なお墓を散策・・といっても、標高4000mの地。途中で息が荒くなると、代々伝わる療法を伝授してくれました。1つは手のひらをゆっくりと指でこするやり方。友達の息も少し楽になったそう。もう1つはムニョというハーブの一種をかぐ方法。本当にスーッとして、息が楽になりました。インカの時代、このムニョを死体のお腹に詰めていたそうです。そのため、異臭は少しも無かったそう。お墓にある金銀を狙う泥棒もこのムニョの香りをかいでは死体を判断したそうです。 さて旅行もあと1日。フリアカの空港からリマに戻り、明日はナスカの地上絵です。※4/15~4/23のペルー旅行の日記です。
2007.04.22
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この日はクスコからプーノまでバス(インカ・エクスプレス)で横断。朝7時半に出発し、ランチを含め5ケ所に停泊しながら9時間半後には、高度3827mのプーノに到着します。つ・・ついに富士山より高いところに行くのです!富士山の上でトイレ入ったり、シャワー浴びたり、テレビを見るなんて・・考えられない!アンダワイリーヤス 運転席の真後ろの席を陣取り、車窓を眺めて小1時間で最初の地点アンダワイリーヤスに到着。ここには17世紀にスペインの修道士によって建てられた礼拝堂があり、中はとっても豪華。当時の宗教的な美術品があり、足場を作って修復中でした。クスコの美術学校の方が直しているらしい・・。説教をしたであろう精巧な木造の台や祭壇、アラビックっぽい梁に描かれた模様、天国と地獄を表した入り口付近の絵画・・と、外からは想像できないくらい立派でした。ラクチ 次に訪れたのはラクチ。15mほどの高さの壁は神殿の柱だったそう。元はガイドさんの持っている絵のような神殿(お寺でいうと総本山のような中心的な神殿だったそう)で、石組みにアドベという泥を焼いたモノが使われていました。そう、この技術は石に泥を塗って、大きな釜で焼かないとできないものだそうで、どういう技術でこのアドベを作ったかは謎のままのようです。ただ、マチュピチュにある遺跡と同じようなインカの思想を意味する組み方をしており、インカ時代の建物であろう・・と推測されているようです。 ここはマチュピチュよりも高い標高のため、穀物の保存にも適していたそう。貯蔵庫の窓も小さく、高地仕様の穀物が栽培されていたそうです。稜線には石の壁が見られ、高地・風・ジャングル・・という環境が外敵からこの地を守ったそうです。インカ時代は宗教と太陽を支配した者こそ力(王)をもて、そうするよう高度な技術を生み出してきたそうです。ラ・ラヤ峠 ランチを挟んで、標高4335m・・本日最高地点のラ・ラヤ峠に到着。ここはクスコとプーノの境界でもあります。かなり空気が薄かった。プカラ 最後の地点プカラ。ここはプレ・インカの遺跡がありました。真ん丸い顔の像が胸にこれまた可愛い顔を持っている。最初、赤ちゃんを抱っこしているのかと思ったら・・敵の首を戦いで刎ねて持っている図のようでした・・・。インカ時代のように何百種類という芋や穀物を栽培するのではなく、あくまで狩り(しかも他村を襲う・・)を生活の糧にしていたそうです。広場には未完成の教会がありました。 長いバスツアーもいよいよ終点。プーノに到着。明日は早起きしてチチカカ湖の日の出を拝む予定です。※4/15~4/23のペルー旅行の日記です。
2007.04.21
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マチュピチュには豪華なホテルが一軒しかありません。麓のアグアス・カリエンテスまで降りるよりは、このゴージャスホテルのビュッフェをランチに利用する人も多いです。私たちはアグアス・カリエンテスの線路沿いのホテルに2泊しました。 町はクスコ同様、アルマス広場があります。線路や路上沿いにはレストランやお土産屋さんが並んでおり、見ているだけで楽しいです。世界遺産の麓で潤っているせいか、「お姉さん買って~」光線はクスコより緩かったです。初日にマチュピチュの入場券を買おうと迷ったときに知り合ったオノリオさん。独学で日本語を勉強したという彼は、カタカナも書けました。彼は忙しかったようで、隣のレストランのお姉さんが観光案内所まで連れて行ってくれました。この旅行で知り合ったペルーの人は本当に皆、温かい人ばかりでした アグアス・カリエンテスはマチュピチュ以外でも温泉の町でもあります。マチュピチュ、ワイナピチュを歩いて足が張ってきたので、この日は温泉に浸かり、マッサージを受けることにしました。 アルマス広場から東に向かって坂を上ると、温泉はあります。川といい、林といい、ペルーの鬼怒川のようでした。水着を借りて、小1時間程楽しみました。更衣室で着替えたら、1ソルで荷物をフロントに預けます。温泉といっても、濁ったお湯の入ったプールが何個かあります。足元は砂利で、立って入る感じです。ちとショッパカッタ・・ その後、アルマス広場にあるスウェーデン式のスパでマッサージを受け、極楽、極楽。こんなに幸せで良いのだろうか・・。温泉の前に、ランドリーに預けた友達の衣類を受け取り、駅に向かいました。 クスコからアグアス・カリエンテスへはインカ道を歩くか、電車で行くかの2通りです。私たちはビスタドームで行きました。クスコに戻る電車の中では、車掌さんたちによる、ファッションショーがあります。写真の女性は勤務中はメガネをかけ、髪は後ろに縛っていました。 クスコに着くともう19時。楽しいクスコの最後の夜もふけていました。ビスタドームの中でベビーアルパカのセーターなどを触り、急に製品が欲しくなり、友達とアルパカ屋さんにゆっくりと急ぎました・・本8合目ですから。
2007.04.20
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前日、目の前に広がったインカの遺跡(マチュピチュ)に圧倒された私たち。昨晩、寝る前に「ワイナピチュは登らないよねぇ・・」と友達に聞くと「体力次第で登ろうよ」と。 実は登山に消極的だった私。下からワイナピチュを見上げると高くて、坂が急なんですもの・・。ワイナピチュとは、遺跡の後ろにそびえ立つ「若い山」。マチュピチュの写真を見ると、ほとんどの遺跡の後ろに写っています。 翌朝、体調もお天気もよく、10時30分には遺跡の入り口に到着。ワイナピチュは遺跡の中にあるので入場券が必要です。券は前日に購入しておきました(アグアス・カリエンテスの観光案内所にて120.50ソル)。 今日も遺跡は美しく、広場を通ってワイナピチュの入山口に向かいました。 ワイナピチュには1日400名、13:00までの入山規制があります。10:55で268番目。人気ありますなぁ・・。入山口で名前・国籍・入山時間を記入し、いざ山頂へ!坂というより、石の階段がず~っと続いており、なかなかキツイ!途中で何度か休憩を入れながら、1時間かかって山頂へ。細い洞窟を抜けて上に出ると、岩場の頂上に到着。なかなか怖い。岩なので、ツルッと滑らないように気をつけながら下を覗くと・・・遺跡が見えた!!バス道路もはっきり見えました。マチュピチュ側から見る風景とはまた違います。 夕方前にはマチュピチュ側に腰をおろし、遺跡をゆっくり見ました。アグアス・カリエンテスに戻るバスをグッバイ・ボーイが見送ってくれました。ヘアピンカーブを曲がるたびに、秘密の(?)階段で駆け下りた少年が、独特の高い声で”グッッブァ~イ!”と叫んでおります。最後のカーブが終わるまで顔を真っ赤にして続ける少年。一時期、チップ欲しさに学校を休む子どもが増え禁止になったと聞きましたが、もう学校の終わった時間なのかな。かなり高地トレーニングを積んでいると見たので、駅伝のランナーにどうでしょ? 次はいつ見ることができるかなぁ。Adios, Machu Picchu※4/15~4/23のペルー旅行の日記です。
2007.04.19
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クスコから電車でマチュピチュの麓の町、アグアス・カリエンテスに向かう。朝、6時にクスコを発ち、10時前にはアグアス・カリエンテス駅に着きます。マチュピチュはジャングルですよ~ときき、日焼け止めだけでは不安で、駅前の市場で虫除けを購入。 駅前にはバスが数台停まっており、遺跡の入り口まで30分ほどで私たちを運んでくれます。遺跡を発見したアメリカ人にちなんで、このバス道を『ハイラム・ビンガム・ロード』と呼ぶそうです。 いよいよ待ちにまったマチュピチュ!下からいくら山を見上げても、そこにインカの遺跡が広がっているとは想像できません。バスを降り、入り口に立ってもまだ遺跡は見えません。少しずつ坂を上っていくと野生のリャマが迎えてくれました。さらに上り、右手が開けたと思うと・・ でた!紫禁城と並び、一度はこの目で見たかったマチュピチュが現れました。しばらくボーッと佇んでしまいました。遺跡は逃げていかない・・とわかっていても、少しでも全貌が観たくて、より高いところにある見張り台まであがります。その眺めは本当に素晴らしい・・。そこだけ時が止まっているかのよう。旧インカの町並みを見ても凄いけど、周りの山々に視線を送りながら眺めると、どうしてここに、どうやってここに・・と不思議に思います。 しばらく眺めてから、遺跡の中を歩きました。広場を挟んで向かって左側が貴族の生活圏、右側が庶民(農民や技術者)の生活圏でした。貴族の家は精巧なインカの石組みでできています。屋根を支える杭やドアを支える丸い輪なども石で精巧にできていました。 この一帯で人々が生活をするため、水を高地まで汲み上げる技術や用水路なども発達していたそうです。 この遺跡を発見したハイラム・ビンガムは、インカの民がスペインの征服者たちから身を潜め、財宝を隠した・・といわれる『ビルカバンバ』を探していました。そのような伝承を聞いたことがないか・・と村の人に尋ねたとき、「マチュピチュになら・・」と聞き、村の子どもと一緒に遺跡の広がる山の斜面を這い上がってきたそうです。『ビルカバンバ』ではないと今はわかっているそうですが、数年前にこの段々畑の地下を探索したところ金製品が出てきたそうです。しかし、世界遺産でもあるため、それ以上手をつけることはできないそうです。※4/15~4/23のペルー旅行の日記です。
2007.04.18
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クスコ2日目。この日はクスコ郊外の昔と変わらぬ生活を続けている、アンデスの村々を訪ねました。アンデスの高山とウルバンバ川が流れるこの地をValle Sagrado de Los Incas (聖なる谷)と呼んでいるそうです。 今日のガイドさんは女性。「『パチャママ』と呼んでね・・あなたたちは『パチャママ・チルドレン』ね」と。『パチャママ』とはケチュア語で「大地の女神」をあらわし、旅行中もよく耳にする言葉でした。 アンデスの山々に囲まれたこの地では米、芋、とうもろこしなどの穀物が栽培され、キノアなどとよばれる赤い実が実っていました。そう・・ここは南半球なので丁度刈り入れ前の季節なんです。フジモリさんが大統領時代(日系人以外はフヒモリさんと呼ぶそうです)、このアンデスの村に太陽ソーラーや設備投資をしてくれ、かなり生活の水準も上がったそうです。その一方で、結婚前に4~5年同棲し、結婚後は離婚を認めない・・という昔からのしきたりも慣行され続けているそうです。ピサック市場 アンデスの人々にとって物資の供給場所として市場はとても大切です。ピサックの市場は火・木・日の週三回たち、私たちは平日の市場狙いで旅行も組みました。日曜日は観光客も多く、値段も倍するそう。ここでお土産をまず物色。コカのキャンディーや陶器、ニットや刺繍の手作り製品、銀製品のアクセサリーなど所狭しと並んでいます。ペルーでのショッピングはここが始めてで、かなり鍛えられました。なんとなく相場を知ったり、お店の人と値段交渉の駆け引きを1時間ほど楽しみました。オリャンタイタンボ 聖なる谷の中心にあるのがオリャンタイタンボ。段々畑が連なる風景はマチュピチュを彷彿させます。アドバイスとしては先にオリャンタイタンボを見てからマチュピチュを観た方が感動が違います。先にマチュピチュに行った人は「マチュピチュの凄さを観ちゃうと小さく見える・・」と。話をききながらこの遺跡で満足していた私は、マチュピチュを観る楽しみが一気に加速しました。 ここはマチュピチュへと続くインカ道の途中にあり、旅籠でもあったそうです。スペインの征服者たちがきたときには、ここで彼らを撃退したそうです。近年、段によって年代の違う穀物が発見され、プレインカ時代から使われていたとわかっているそうです。 正面の山にわざと凹凸をつけ、陽の上り方の位置によって夏至や冬至、穀物の収穫の時期などを知ったそうです。チンチェーロ オリャンタイタンボからもマチュピチュ(アグアス・カリエンテス)行きの電車に乗れるため、ここでバスを降りる人も結構いました。残った人たちで最後の観光場所チンチェーロに向かいました。チンチェーロにも小規模ながら市がたち、小銭入れを購入。こちらにもインカの石組みの上にスペイン風の教会が建てられています。入り口には清水があり、今でも村の中心のようでした。 教会に行く前に寄らせてもらった地元の工房。地域によって民族衣装が違うのですが、この村では原色に近い色の繊維製品を着ていました。綿を洗剤でよく粗い、天然素材で煮込むことによって色を付け、糸にし、柱にセットして機を織ってゆくそうです。 クスコでは立派な教会を何箇所か見ましたが、絶対に教会内のモノを人々は盗まないそうです。アンデスの民にとって労働と信仰は生活の根本なんですね。 パチャママが「この聖なる谷に空港を作る話があります・・」と言っていました。確かにマチュピチュ目当てでこの地を訪れる人が多く、リマよりもクスコに空港があった方が便利かもしれません。が、この風景が消えていくことはとても悲しいことです。高度がリマと違うので話が頓挫するかもしれませんが・・とも言っていました。※4/15~4/23のペルー旅行の日記です。
2007.04.17
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日曜日の15時頃にニューヨークを発ち、ペルーの首都リマにはその日の夜に着きました。リマは東南アジアチックな活気と熱気があって、すぐ溶け込みそうな自分が怖かった・・。そのままホテルに泊まり、翌朝にはインカの都CUZCO(クスコ)に飛びました。『クスコ』とはケチュア語で「へそ」という意味で、その名の通り今回の旅を通して、今でも観光都市のインカの街でした。12角の石~アルマス広場 クスコは標高3399m(参考 富士山8合目にある富士山ホテルが3400m)。この標高に人によってはクスコの空港に着くなり呼吸ができなくなる人もいるようです。あまり無理しないよう、午後の市内観光までの時間は、ゆっくりと散歩しました。 まずはホテル近くにある12角の石。このインカの石組みは目にすると本当にすごい。一角だけ石組みがあるのかと思っていたら、街全体にこの石組みが残っています。石のそばには自称ガイドさんぽい人が多く、12角の由来がインカカレンダーの12ヶ月を表しているとか、王の一族を表している・・とか言っていました。他にもピューマ(インカの時代にとって3大シンボルの動物の1つ)の形が見える石組みなどもありました。 それにしても坂が多い・・。ゆっくりと歩きながら、街の中心でもあるアルマス広場に向かう。広場を中心に街が構成させており、周りには教会や両替屋さんレストランなどがひしめき合っています。しつこい売り子さんやガイドさんには観光ポリスが注意をしていました。カテドラル 14時頃よりツアー開始。英語ガイドのホルへーさん。ケチュア語も話せる地元の人でした。まずはアルマス広場に面するカテドラル観光。 クスコがインカ帝国の首都として機能したのは16世紀前半。そもそもインカ帝国自体起源は確実でないものの(伝承されている初代皇帝は実在しないらしい・・)1430年代には確実に世界に登場し、その後100年でエクアドルからチリまで統治したそうです。思ったより新しい文化である。その後1532年にスペイン人に征服されインカ帝国は滅亡し、翌年クスコに征服者たちはやってきます。彼らは神殿にある金・銀を奪い、やがてインカの神殿を壊し、その上にスペイン風の教会を建てていきました。 このカテドラルもインカ時代のビラコチャ(インカの王が崇拝した創造神)神殿の跡に100年かけて建てられたものです。中はとても広く、褐色のキリストや銀の祭壇、細かいレリーフの調度品、そして宗教画がありました。聖母像や絵には安定を表すようにマントが全てシンメトリーの山の形をしていました。 この教会内には画家マルコス・サパタが『最後の晩餐』を模倣した絵があります(注写真はさらにサパタの絵を模倣したレストランにあった絵です)。ご馳走はクスコ名物のクイ(モルモット)や芋、パンが並び、キリストは平和を象徴するようピースサインをしていました。コリカンチャ~サクサイワマン こちらも土台はインカの石でその上にスペイン風の教会が建ったサント・ドミンゴ教会です。もとはコリカンチャとよばれる太陽の神殿が建っていました。スペインからの征服者はこの神殿にあった金は全てとり、延べ棒にして本国に送り、やがて神殿も壊したそうです。インカの人々にとって金とは財宝・・というよりは、神への信仰のために用いられたそうです。クスコには大きな地震が2回ほどあったようですが、上の教会は倒れても石組みはびくともしなかったそうです。 その後、実際にインカ兵とスペイン兵が戦った要塞サクサイワマンへ。ここは平原の中に3層の石組みがジグザグして360mも連なっているそうです。一番大きな石は360トンくらいあるそうです。どうやってこの石を加工し、運んだのか・・。 石に亀裂を入れ、そこに水を流し、自然に割れることを待ったそうです。石の辺はヤスリのようなもので擦り滑らかにしたそうです。そして石を傾け、頂点を下にして運んだそうです。・・・説明を受けるとそういうものかと納得しますが、どれだけの歳月と人員がかかったのでしょう。インカの時代はそんなことは気にしなかったといいます。それよりもいかに完璧に精巧に石を組むか・・が重要だったそうです。せっかちな人には向かないインカ時代。 アメリカ人が発音すると"Sexy Woman"に聞こえるサクサイワマン。今でこそ遺跡ですが、ほんの数十年前まではこの広場でサッカーとかやっていたそうです・・恐るべしペルー人。ケンコー~タンボマチャイ Qenqo(ケンコー)とはケチュア語でジグザグを意味するそう。祭礼場でもあったらしく、当時は動物の生贄の捧げたり、占ったりしたという・・薄暗い洞窟でした。道がジグザグ、石の亀裂がジグザグ・・と言われているそうです。写真はピューマをかたどった巨石だそうですが、上から見ないとわからない。残念ながら落ちた観光客が近年いたらしく、今は下から石を拝むのみ。 最後はコンコンと水が湧くタンボ・マチャイ。クスコに着いてすぐ高地を歩き回ると高山病気味の人続出。ここは元気な人だけの観光でしたが、さすがに遺跡にたどり着くまでには息があがった。地元の人やツワモノ観光客は水を飲んでいました。当時は体をこの水で清めて、裏の祭壇に上がっていたそうです。収穫の時期など。日本とは地球の反対側だけど、似た思想があるんだなぁ・・と感心していたら、私以外のアメリカ人は"OH~"とかなり驚いていました。 ※4/15~4/23のペルー旅行の日記です。
2007.04.16
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丁度1週間前(10/27)・・ボストンに日帰りで行ってから2日後、アムトラックが有効期限内ということでフィラデルフィアに行くことにしました。 日本から先輩と友達がNYにいらして6日目、実質NY滞在最終日に世界の車窓からフィラデルフィア編を決行しました。前日にPenn駅で往復のチケットを発券してもらい、当日は時間通りにアムトラックは出発しました。車窓からは眩しい太陽が顔を覗かせ、初めてのフィラデルフィアにワクワクしていました。 夜はジャズを聴きに行く予定だったので、フィラデルフィアには実質5時間のみの滞在。電車の中で回るところを決め、30th St.駅に着いてから地下鉄で8th 駅まで移動。正直乗り方がわからず、窓口で袋入りのトークンを買って改札を通ったものの、どのホームに行って良いのだか・・(笑)。と、おじさんがどこまで行くのか尋ねてくれて、乗り場も教えてくれました。階段を降りると連携プレーさながら、会話を聞いていたオバちゃんが『こっちのホームよ』と。なんて温かいんだ~!ビバフィラデルフィア!無事8th St.駅に着くと、先ほどのおじちゃんが後ろから見守っていてくれた・・。 まずはビジターセンターに行き、お土産屋さんを覗く。先輩がトイレに行っている間、Mっちゃんは日本語のガイドブック(売り物!)を熟読し、私は駅でもらった案内を熟読。そしてダックツアー(@$23)発見!ボストンで楽天仲間の方たちが乗って楽しそうだったので乗りたいなぁ・・と思っていました。早速10:30の回を申し込み、その後Liberty Bell(自由の鐘)を見に行きました。 自由の鐘は、かなり厳重なチェックを受けてからパビリオンの中に。お土産の鐘にもヒビが入っているので、何か曰くがあるのかなぁ・・と思っていましたが、1752年のテスト段階から入っていたようです。。外に出て、インディペンデンス・ホールを見学。 正面にはワシントンの像があり、この建物の中で独立に向けての会議が開かれ、トマス・ジェファーソンによって独立宣言文が読まれ、国旗のデザインが決定し、合衆国憲法が起草されました。。 そして10:30!ダックツアー出航の時間です!!アヒルの嘴の笛をもらって、みんなでガーガー鳴らしながら回りました。一部、鳴らしてはいけない所もありましたが、旧市庁舎/ワシントン広場/South St./クライスト教会/ベッツィ・ロス(アメリカ国旗を作った)の家/フランクリン広場・・そしてダックツアーの本領発揮・・デラウェア川を周遊してまいりました。規則により、川を周遊するときは2名以上の乗務員がいないと駄目らしく、川に入る瞬間に無口な青年スタッフが後ろから乗ってきました・・。 ガイドさんがボートのスピードを緩めて通った"Elfreth's Ally"(エルフレスの小路)は可愛らしくて、時間があったら歩きたかったです。アメリカ最古といわれる住宅が並んでいるそうです。 ツアーを終えてから、ノーマン・ロックウェル博物館を探しましたが、見つかりませんでした。やっと見つけた移転先の教会も閉まっていて・・。またおいで・・ということかなぁ。。 アムトラックの時間まで、South St.を練り歩きました。ダック・ツアーのガイドさんが薦めていたチーズステーキのお店Jim's steaksで3人分のステーキサンドを購入。かなり混んでいましたが、お肉も薄味で美味しそう。。 急いで5th St.駅まで戻り、そこから地下鉄でアムトラックの駅に向かいました。本当に紅葉がきれいで、独立の礎の地であるフィラデルフィアは全体的にのんびりした雰囲気。色も茶や赤で、暖かい雰囲気がありました。「坂の無いボストンみたいだね・・」なんて話しながら小走りでホームに行くと、逆方面の改札でした。すると、素敵な(!)ビジネスマンが付いておいで・・とばかりに、正しいホームの場所まで案内してくれました。しかも急ぎ足で・・。おかげさまで、アムトラックに間に合いました・・! Penn駅に向かう電車では食堂車に乗りました。そこで、まだ温かいチーズステーキをいただきました。チーズステーキも温かかったですが、フィラデルフィアの人も温かくて・・。3人とも見えてくる摩天楼を見つめながら、フィラデルフィアの温かさを懐かしんでいました。
2005.11.03
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●茶会事件の船→クインシーマーケット→ボストン・コモン→ビーコン・ヒル→MIT→ハーバード大学→コプリー・スクエア→コプリー・プレイス アムトラック"South Station"駅で降りてから、旅行会社の車で移動。この日のボストンは風雨で、車での移動が助かりました~。お昼に寄ったクインシーマーケットではボストンチャウダーでコーンチャウダーを。友達はクラムチャウダーをクラムサンドウィッチと共にいただきました。本当に美味しかったです。一緒に回ったツアーの方たちは別のお店のクーポンで食事をしていました。フッフッ・・このチャウダーは最高よ♪とちと自慢気に食べてしまいました。。。 お腹も満たされた後、ボストン・コモンを車窓から。向かいにはマサチューセッツ州州庁舎が金色の玉ねぎ背負っていました。どうしても錆びてしまうので、庁舎の上のドーム部分を金で覆ったそうな・・。ワシントンの国会議事堂と同じ人による設計らしいです。 その後、雨の中ビーコン・ヒル(写真下)へ。ビーコン・ヒルは初めての私は、お家や小路が可愛くて・・。ここではハロウィンのカボチャには顔を描かないようです。 MITとハーバード大学は昨年も行きましたが、やはりアカデミックな香りが・・。MITの大学名"MASSATUSETTS"が"MASSATVSETTS"にわざと彫ってある様子などを見て、そそくさと車に戻りました。 晴れていたらゆっくりとトリニティー教会や図書館の前をお散歩したかったのですが、あまりの寒さにコプリー・プレイスに逃げました。。 残念ながらお天気の良くなかったボストン・・。そして、その後の2時間半のアムトラック騒動があまりにも強烈だったボストン・・。次行くときはお天気にも恵まれ、個人で回りたいなぁ・・と思っています。LILYさんよろしくね~♪
2005.10.30
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カナディアン・ロッキーのツアーの最終目的地は、コロンビア大氷原でした。この大氷原は総面積325平方キロメートルあり、北極圏についで北半球では最大規模のだそうです。 私たちが雪上車に乗って歩いた大氷原は、"アサバスカ氷河"と呼ばれる、コロンビア大氷原の一角でした。写真で見ると雪の上を歩いているようですが、氷の厚さは厚いところで350Mもあるそうです。実際に降り立つと、氷河の表面は凸凹、ザラザラしていました。 雪上車から降りると、青いポールが立てられた中だけ歩くように言われました。それより先に行くと、クレバスがあるからです。私たちは安全な氷河観光でしたが、次回は(そういう機会はあるのだろうか・・)、"アイスウォーキング"といって、氷河の上を歩くツアーに参加したいです。 地球温暖化の影響で、氷河は年々減っているそうです。一時、カルガリーまで続いていたそうですが、2~3年後に再訪すると、目で見てわかるほど後退しているそうです。。 グルッと天然の力に圧倒されて見回していると、氷河の溶け水を飲んでいる人、タイヤの大きさにびっくりして写真に撮っている人、青いポールより先に進む人、それを観て「日本のガイドはなっていない・・」とブツブツつぶやく外国人のお爺ちゃん・・と様々な人たちが楽しんでいました。 『氷河』とは、雪の堆積力によって押し出された雪の塊です。12m積雪すると、1cmの氷河が精製されるそうです。・・ということは、人工的に氷河は作れるのではないか・・としばらく考えてしまいました・・。今度冷凍庫でチャレンジしてみようかなぁ。12m:1cm の比を守ればできそう・・。★この日記は6/1~6/9のニューヨーク・カナダ旅行中の出来事を書いております。
2005.06.22
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カナダの最終地、カナディアン・ロッキーは、良くいえば霧がかかって幻想的、普通にいえば曇りでした。 私はどちらかというと『海』派なので、義母に"行きたい~"と言われなければ一生行かなかった地かもしれません。。自分で運転していても酔うほど、車酔いが激しいひまわりは、カナディアン・ロッキーのポスターを見ても「何時間バスに揺られるんだろう・・」と実は恐怖にかられていました。 が、バス酔いの方にもカナディアン・ロッキーはお薦めです!山と並行して走るのですが、道はそんなに起伏にとんでいません。もともと鉄道会社の社長さんが、鉄道に乗ってもらうために観光施設として開発した地域だそうです。 カナディアン・ロッキーはバンフのあるアルバータ州と隣のブリティッシュ・コロンビア州の州境に南北に伸びる山脈がメインです。実はカナダでも西のカルガリー、バンフではメイプルシロップはとれず、サーモンもとれず(山ですから・・)、"ならでは"のものは州の名前のついた"アルバータ牛"だそうです。しっかりフランス料理屋さんでワインと一緒にいただきました・・。 このエリアにはバンフ・ジャスパー・ヨーホーといった国立公園があり、バンフという街は国立公園の中にあるそうです。そのため、建物の規制や私有地が許されない中で、確実に日本人の観光産業に従事する住人は増えているそうです。実際に国立公園の職員として働くためには、専門的な知識プラス英語とフランス語が堪能でないとだめなんだそうです。 山といえばスイスも有名ですが、印象が違いました。スイスの山は尖がっていますが、カナディアン・ロッキーの山の稜線は平ら・・。お天気も関係していたかもしれませんが、山の表面もスイスに比べてグレーっぽい・・。そしてなによりも、寒い地域なので、針葉樹のモミの緑が濃く、なんかとても男性的なイメージがありました。。(参考まで写真を並べてみました・・) J○Bのツアーに参加して、レイク・ルイーズ(写真;左上)を通り、クロウフット氷河を通り、コロンビア大氷原と行ってきました。。カナダの湖はどれもエメラルドグリーンでした。氷河がとけて湖に流れるため、その沈殿物等がきれいな色に変化するそうです。この湖を発見した探検家は、ここまで深い森を歩いてきたそうです。森を抜けて目の前に湖が広がった時、本当にきれいだっただろうなぁ・・と思いました。★この日記は6/1~6/9のニューヨーク・カナダ旅行中の出来事を書いております。
2005.06.21
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・・というわけで、ナイアガラ川の真ん中にかかっている、橋(レインボーブリッジ)を渡って朝までいたアメリカに再入国しました。ここで入国審査があるため、またまたお時間がかかってしまいましたが、橋の上からはカナダ滝とアメリカ滝の両方がはっきりと見えます。 入国審査を終えて、アメリカに入るとなんとなくせわしない・・(笑)。そのくらい、カナダというところはのんびりしている気が私にはしました。そして、カナダ側の滝の男性担当者(?)は皆さん格好よい。若くて、スラッとしていて、素直そうで、そして顔が良い・・(笑)。女性は結構マッチョ系が多かったです。学校が休みの期間、住み込みのバイトなのかしら・・と思ってしまいました。 ナイアガラの由来は、先住民が"ニアガラ"と畏敬を込めて呼んでいたことから"ナイアガラ"となったそうです。"ニアガラ"とは、雷鳴の轟く水という意味だそうです。ちなみにカナダ滝の寸前まで行った『霧の乙女号』は、滝の水しぶきの中に乙女の姿を見ることができる・・という伝説が由来になっています。。 アメリカ滝の落ちるところを間近で見たあとは、『風の洞穴』に行ってきました。これは『花嫁のベール滝』のふもとの木製の階段を歩くという企画です。行くと黄色の合羽とサンダルをくれるので、思いっきり滝を楽しめます。私はナイアガラ全工程の中で、これが一番面白かったです。頭の上から落ちる滝のしぶきを浴びるのは、まるで『禊』のようでした。これで今までの心の垢は落ちた事でしょう。。ちなみにこのベールのようにまっすぐに落ちる滝を夫婦の間に入れて写真をカナダ側から撮ると、夫婦円満と言われているとかいないとか・・。さすがにベール滝を見た時は、母たちがこの逸話を忘れていることをひたすら祈りました。。。写真、撮るのは好きですが、撮られるのは苦手です・・。★この日記は6/1~6/9のニューヨーク・カナダ旅行中の出来事を書いております。
2005.06.16
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ニューヨークからナイアガラは近いので、私の周りでは足を運んでいる人が多いです。ナイアガラの滝は世界三大瀑布(あとは南米のイグアスの滝、アフリカのビクトリアの滝)の一つとしても有名です。ごぉ~っという爆音、スケールの大きさ・・全てが楽しみでした。綱渡りに試みた人の写真も見たことがあります。 ナイアガラに着くと待ちきれず滝を見に行くことにしました。高い所から乗り物に乗ると徐々に滝の姿が見えてきました。それまで雄大な水をたたえて流れていた川が、水しぶきとともにストンと落ちています。日本の滝に比べると確かに雄大です。 ナイアガラ川はアメリカとカナダの国境でもあります。カナダ側にある滝をカナダ滝、アメリカ側にある滝をアメリカ滝、花嫁のベール滝というそうです。 カナダ滝は馬蹄形に抉り取られており、高さが52m、幅が675mあります。以前は1年に100mずつ侵食されていたほど、すごい水の勢いです。ナイアガラ観光に携わるホテルやお店が、ベストポジションに位置していても、1年に100mずつ滝から離れていては儲からない・・と、今では水門等を作り、侵食を少しでも止めようとしているそうです。それでも、1年に10cm近くは後退しているようです。もちろん、この水勢を利用して電力を供給しているようです。 カナダ滝には滝の真横から見下ろす『テーブル・ロック』、滝を真下から見上げる『霧の乙女号;The Maid of the Mist』があります。 『テーブル・ロック』から滝をのぞくと、吸い込まれそうに感じます。「マイナスイオン全開!」とばかりに、水しぶきを浴びてビチャビチャになりました。この『テーブル・ロック』・・なんでか草津の湯畑をイメージしてしまいました。 『霧の乙女号』乗船は楽しかったです。生活用水なので、水はあまりきれいではありませんでしたが、青い雨合羽をかぶりながら、全身に滝のシャワーを浴びてきました。私の隣の人はそのような中でも、たくましくビデオカメラを回していました。故障した気がします。。この乗り物はエンジンフル回転で、滝壷ギリギリまで進ませ、抵抗できなったら引き返すそうですが、最初に(150年以上前)観光産業として目をつけた人はすごいなぁ・・と感心してしまいました。 この日はとても暑かったので、さっぱりした気持ちでランチに向かいました。宿泊したホテルのレストランで滝を見ながら食べていると、母が「あっち行きたい・・」と出てきたばかりのアメリカ側を指差していました。また入国書類を書くかぁ・・と覚悟を決めて、レストランをあとにしました。 ★この日記は6/1~6/9のニューヨーク・カナダ旅行中の出来事を書いております。
2005.06.15
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今日(日曜日)も素敵なお天気のニューヨーク。ヒスパニックの子どもたちが元気に朝から走り回っています。昨日、生涯ベスト1!くらいの勢いの素敵な桜をワシントンまで観に行ったことは、真上の太陽くらいしか知らないんだろうなぁ・・と思いながら、起きました。 昨日のワシントンは良いお天気で、桜も満開でした。ポトマック河畔の桜を堪能したあとは、ホワイトハウス、国会議事堂、桜まつり・・と探索してきました。 ワシントンD.C.は建物の規制があるそうで、空間が広いと感じました。国会議事堂より高い建物は建ててはいけないそうです。ニューヨークストリートさんが教えてくれました。 ホワイトハウスは言わずと知れた大統領官邸。アイルランド人の設計によるもので、イギリス風の邸宅です。バージニア産のライムストーンを使っているそうで、真っ白な邸宅です。ワシントンが場所を決め、第二代のアダムスの時代から住み始めているそうです。増改築が行われ、現在は3階建てで、132室あるそうです。大統領執務室は一階西翼(だからドラマは"West Wing"というのね・・)、大統領の居住スペースは二階だそうです。 外から柵越しに見ていると、警備の人が犬を連れてお庭を巡回していました。友達も「見過ごした!」というくらい、えっ・・と思う小ささでした。 その後、「さくら祭り」を実施しているペンシルバニア通りのテントを冷やかしながら国会議事堂に向かいました。 さくらの開花時期に合わせて、毎年3月末から4月初めに「さくら祭り」が実施されるそうです。舞台では、琉球舞踊や太鼓の演奏がされていました。テント内では、日本の畳や着物、100円ショップのシャモジや簀巻きなども売られていました。書道や折り紙のコーナーもあり、ここはアメリカ人でいっぱいになっていました。「へのへのもへじ」を書いて、アメリカ人にプレゼントしていたっけ・・ニューヨークストリートさん。他にもアメ細工や柔道のデモンストレーションなどを行っていました。な・ぜ・か・・・売り子さんは日本人より韓国人が多かったです。。桜祭りは日本人のお祭り・・というよりも、"Asian Festival"として位置づけされているのかなぁ。。 フェスティバル会場の前には国会議事堂がありました。見学できるところは少しのようですが、議会を傍聴することは可能なんだそうです。ワシントンD.C.に入った時から、この建物は見え続けていました。あまりにもよく見えるので・・私は黙っていましたが・・・『ホワイトハウス』だと思っていました・・。 アメリカは二院制ですが、上院は各州2名ずつ選出され定員100人以上、任期は6年。下院は人口約50万人に1人の割合で選出される選挙区ごとに選ばれ、定数435人ね任期は2年だそうです。それぞれの議員によって連邦議会が行われるのは国会議事堂です。 他にも大使館や省庁、最高裁判所、博物館、美術館・・とたくさんあり、改めて泊りがけで来たいなぁ・・と思いました。ワシントンは博物館、美術館などの入館料は無料のようです。 その後、ニューヨークストリートさんが美味しい創作日本料理のお店に連れて行ってくれました。彼はそこかしこに知り合いがおり、ここでもオーナーの方とはジッコンの間柄。とても美味しくてすっかり寛いでしまいました。私たちの座った席には、数日前にメッツの松井選手と石井選手が座っていたとか・・。 10:30頃ワシントンを出発して一路ニューヨークに向かいました。ジョージワシントンブリッジを通過してマンハッタンに入った時は、既に明け方の4時。 オフだというのに、私たちを楽しませようとガイド魂が燃えたのか、車中でもいろいろ案内してくれたニューヨークストリートさん。行き帰りもずっと運転してくださっていて、彼なしでは、この素敵な桜はお目にかかれませんでした。しかも、私たちを送ってくださった後、午前5時にはお客さんを空港まで迎えに行き、夕方にも仕事が入っているという。。。若い、元気・・とはいえ、本当にありがとうございます。本当に本当に楽しかった一日でした。あの桜は、生涯ベスト3に入る絶景でした。それもニューヨークストリートさんが頑張ってくれたからですね。今回ばかりは、仕事がある・・という旦那さんも誘えばよかったなぁ・・と思ってしまいました。
2005.04.10
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ニューヨークも暖かくなり、春の訪れを感じ始めますが、まだまだ桜の開花には時間があります。そこで、楽天で知り合えたニューヨークストリートさんがワシントンへの日帰りお花見ツアーを企画してくれました。初ワシントン、初桜!!心ときめかせて朝から行って参りました! 朝8:30にマンハッタンを出発し、一路ワシントンへ。途中tax freeのデラウェア州でお水などを「安い!」と連発しながら買物しました。デラウェア州は小さいのですが(車でも20分ほどで通過)、デュポン社の売り上げで成り立っている州らしく、一般市民は税金が免除されているそうです。その分、会社が払っているのかしら・・。 今回はニューヨークストリートさん、彼のお友達、koyuki koyukiさん夫婦、そして私の合計5名でのお花見でした。 お昼過ぎにワシントンに着き、ユニオン駅の地下のモールでお昼をとりました。「グランドセントラルより充実しているね・・」というように、広い空間にいろんな国の料理がずら~っと並んでいました。 その後、ポトマックリバーまで車で移動し、いざ花見開始!桜が見えた時点で、車内では歓声があがりました。枝垂桜から、ソメイヨシノ・・と薄紅色のかわいい桜が川岸に並んでいました。車を停めて、ポトマック川に流れるタイダル池の周りをぐるっと散策。千鳥が淵や井の頭公園さながらの桜の木の数に、もう興奮しまくりでした。木の枝を揺らして桜吹雪を楽しんだり、ワシントン記念塔やトマス・ジェファーソン記念館をバックに記念撮影をしました。お花に鼻を近づけると、微かに甘い香りも・・。 ワシントンの桜は、タフト大統領夫人から希望された、尾崎行雄(この人、『憲政の神様』とか言われた人でなかったかなぁ・・)東京市長が友好の証に桜の苗木を贈り、1912年3月27日に植樹式が行われました。実は、1909年に2000本の苗木を送っているのですが、苗木に害虫が付着していることがわかり、全て焼却したそうです。その後、アメリカ側から1915年にお礼としてハナミズキが日本に40本贈られたそうです。ハナミズキの花言葉は『返礼』だとか。。(以上『米国ワシントンDCの桜物語』参照)桜のそばにハナミズキの木もありました。 今日、ワシントンに桜を観に行く・・と母に知らせたら、母もポトマックリバー沿いの桜並木は知っていました。私は知らなかった・・。でも、ワシントン記念塔は写真で見たことがありました。なんでこの塔が有名なんだ・・と思っていましたが、いざ見るとなかなか立派です。高さ169.3mで石造建造物としては世界一とか。形が、実家そばにある清掃局の煙突に似ているなぁ・・。koyoki koyukiさんの旦那さんが記念塔の色が途中から違うことを教えてくれました。このオベリスクは一般公募から選ばれ、R.ミルによって設計されたのですが、建て始めてから南北戦争から起こり、25年間工事が中断されたそうです。その後、世界中から寄贈された石で1884年に完成されました。なので、途中から白い石でも、微妙に違います。 記念塔をバックに何枚も写真を撮りましたが、それはアメリカ人も同じ。どうせなら、"cherry blossom"ではなく、"sakura"という名前のままでいて欲しかったかなぁ。子どもたちが木を揺らしたり、写生したり、犬が木の根元でゆったりしていたり・・。本当に思い思いに桜を楽しんでいました。 「お花見の時期が終ると、一本ずつ木の根元に穴を掘るんだよ。皆が踏んで固くなった土を柔らかくして、空気を入れるんだよ」とニューヨークストリートさんが教えてくれました。 私はその昔、桜は夜になると一旦つぼみが閉じるものだと思っていました。ある日、夜でも咲いている桜を見て、本当にびっくりしたものです。たった1週間ほど美しい姿を見せて散る姿に健気さを感じたものです。1週間とわかっているから、綺麗に見えるのかもしれませんし、だからこそ、その1週間を1年待ち続けるのかもしれませんね。 ワシントンD.C.のプチ観光、ニューヨークストリートさんの大活躍は明日の日記に続きます・・。おっ・・今、朝の6:30・・お休みなさいませ。
2005.04.09
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以前、ニューヨークにいて恋しくなる日本食を書きましたが、夏といって恋しくなるのは『麦茶』。麦の茶なんですけど、飲むとホッとします。ボストンのお土産で麦茶入れを購入したので、今日、学校帰りに早速麦茶を買って来ました。 今回のボストン旅行は、一箇所でなかなかゆっくりできず、買って来たお土産はこの"ハーバードボトル"だけでした。見た瞬間麦茶入れに上出来だわ・・と思いました。 アメリカを歩いていると、大学名の入ったトレーナーやシャツを着ている人をよく見かけます。大学のものに限らず、野球チームやバスケのユニフォームなども見かけます。ちなみにボストン行くと、ヤンキースのシャツ・帽子は見事に見かけませんでした。レッドソックス一色ですね。。ニューヨークでは、コロンビアのシャツや傘を見かけます。何かに帰属していたい・・という意識の現われなのでしょうか。それよりも、その街のものを大切にしたい・・という思いを感じます。 私の実家の近くには立教がありますが、大学野球の頃と卒業・入学の頃に、商店街に立教の名前の入った旗が申し訳程度に飾られるくらいです。街に馴染んでいるというわけでもなく、地元の人で立教に行く人も昔ほどはいない気がします。 ハーバードとMITはボストンではなく、お隣のケンブリッジにあります。その一帯はアカデミックオーラがすごくあり、落ち着いた雰囲気でした。街もきれいで、自転車で安心して通学できそうです。エンターティナーも学生さんが多くて、ニューヨークとは違いました。バケツを叩いていても知性が匂ってきます・・。 ハーバードはアメリカ最古の大学でケネディなどを輩出しています。校舎は塀で囲まれていて、閉鎖的なイメージがありました。一度しか行ったことが無いのですが、北大のイメージがありました。右端が寄付や協力を創立時にしたJ.ハーバードの像です。彼は牧師さんで、自分の資産の半分と蔵書を寄付したのですが、創立者ではないそうです。ちなみに彼の顔は像の顔とは違うそうです。説明によると、当時、学内で一番人気があってハンサムだった生徒をモデルにしたそうです。西郷隆盛の肖像画のような話です・・。tonko9987さんが教えてくださったのですが、J.ハーバードの左の靴が光っているのわかりますか?靴を触るとまたハーバードに来れるという言い伝えがあるようで、みんな擦っているから、そこだけぴかぴかになるようです。 Zionさんより情報で、"LEON"に出ていたナタリーポートマンはハーバードです。ちなみに彼女はイスラエル出身とか。才色兼備でうらやましいです。。 MITはハーバードに比べると開放的な気がしました。この大学は"GOOD WILL HUNTING"の舞台になったところです。途中まで学内に入れました。工業大といった感じで、無駄なものはあまり無い雰囲気でした。なぜか、日本語で漫画研究会の入部案内が張られていました。 私はこの"GOOD WILL HUNTING"が結構好きです。マット・ディモンとベン・アフレックで脚本を書いた作品です。この映画のマット・ディモンの素朴な感じが好きです。帰りのバスの中でベン・アフレックの映画を見ましたが、個人的にはあの口元があまり好きになれません。。※パラダイスバスでもビデオを上映していました。日本だとドラえもんか寅さんを流しそうですが・・。 ボストンに向かう前に、イェール大にも寄りました。ここはジョディ・フォスターを輩出しています。コロンビアも含め見た中では一番のどかな雰囲気がありました。聞くところよると全寮制とか・・。確かに周りには何も無い、勉強する場所という感じでした。時計塔の時間が正確で感動しました・・。・・と大学紀行を書いてきましたが、日本と大きく違うのは、頭が良いだけでは大学に入れないということです。知力と財力がないとアメリカでは入学が認められないそうです。学生の多くはスカラーシップの一環として、授業料をローンを組んで払うようです。もう数ヶ月前ですが、NYU(ニューヨーク大学)の学生が、寮費を払えない・・と図書館に寝泊りしていて補導された事件がありました。 お金持ちであり、スマートな人だけが、入学を認められる・・という現実があります。我家のそばにコロンビア大があるのですが、ヒスパニックの学生は見かけないそうです。 私のいつもいくスーパーのレジ打ちの人はヒスパニックですが、スペイン語と英語を操ります。日本だとバイリンガルということで、仕事をする上でもチャンスはかなり広がります。しかし、ここニューヨークでは、言葉をただ話すだけではなく、バックグランド(財力と教養)も必要になってくるのです。だからこそ、アメリカンドリームというものが今でも語り続けられているのだと思います。
2004.08.12
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今晩はボストンマグロを使ったカルパッチョにしようと用意をしております。ニューヨークにいるとなかなか魚を食べる機会が無く、意識して買うようにしています。でも、魚屋さんに行くと、マグロかサーモン以外は熱帯魚のような怪しい魚君たちが「オレを買ってくれ~」と並んでいるのも事実です。 昨日からお伝えしているボストンシリーズ。今日は豪華マンションの紹介です。よく聞く話ですが、日本でいうマンションはこちらで言うアパートです。アメリカのマンション・・というと本当にすさまじいものがあります。 ボストンに向かう途中、Newport(ニューポート)に寄りました。ここは知る人ぞ知る高級別荘地。夏場は賑やかですが、冬になるとひっそりとするそうです。ひと夏を過ごすために家が存在しているのです。 ニューヨーカーというとニューヨークに住む人をさしますが、ボストニアンというと、WASP(White,Angro-Saxon,Protestant)をさすそうです。 ケネディは典型的なボスト二アンです。裕福な家庭、高学歴・・・。 そんなボストンに近いニューポートはまさにWASPの街でした。青い空、青い海、白いヨット・・・そんなお金持ちのための街は、少し前までは公に公開していない、本当に避暑地だったそうです。 今回立ち寄ったのは"The Breakers"という公開用のマンションでした。Vanderbilt 2世のために1895年に建てられた、全70部屋の・・マンションです。お城みたいでした。末裔(家系図を見ると息子の気もしますが・・)に初代大統領のワシントンがいました。 実際は入館料の32ドルだか23ドルをケチったたために館内には入らず、1時間半、外観とお庭を探索していました。中に入ると案内の人が付いて一部屋ずつ周るようです。それにしても広いです。庭の前は海でした・・。映画『華麗なるギャッツビー』を思い出しました。 手入れも大変だなぁ・・と思ってみているとパティオにテントが張られていて、今でもパーティーなどに使用するようです。 同伴の人とお土産屋さんに寄っていると"Exit"というサインを見つけました。なんだろう・・と、店員さんの目を盗んで行くと、案の定コースの出口でした。つまり、私たちは無料で館内を逆走していきました・・。 すごい高級な階段を上ると、そこはキッチンになっていました。キッチンもレストラン並みの広さで、しかも目の前には海が広がっています!あぁ・・こんなキッチンなら料理の腕も磨くのに・・と思っていると、係りの人に見つかり、外に出されました・・(笑)。 マンハッタンでは感じませんが、ここボストンでは確かに私はマイノリティー。これは事実なわけです。だからって卑屈になりたくないし、反対にアメリカナイズもされたくないです。「そうよ、私は日本人」と堂々としていたいです。人種や皮膚の色は、生まれるときは選べないんですよね。私の知り合いに白人とだけ写真を撮りたがる子がいます。一方で、アジア人としか付き合わない韓国人の子もいます。差別を感じたことない?と時々聞かれます。聞いてくる友達は、アメリカで感じたことがある子です。 ありますよ。列の前にいた白人には笑顔で答えていたのに、私にはムスッとして、おつりや商品も投げてよこす店員さんいます。心の狭いやっちゃ・・と思っています。反対に道を尋ねられても、誰にきかれようが同じ対応しています。 英語の発音を正確に見につけたい・・という意図があるなら別として、ある程度になったらいろんな英語に接するべきだと思っています。中国人、フランス人、日本人・・それぞれに独特のアクセントで英語を話します。実際、聞きづらいアクセントもあります。先日、『ラストエンペラー』を久し振りに見たのですが、当時見たときはジョンローン格好よい!英語ペラペラ・・と思って見ていました。今、見ると彼も中国人のアクセントなんですね。でも、良いんです。言葉はあくまで記号です。自分の意見を相手に伝えることが大切なんです。「私は白人の発音でしかわからない・・」というのは良くないです。どの分野でも最先端を行く人は英語を共通道具として使用します。英語が話せるというのは、自分の意見を伝えることができる・・ということだと思います。中身がないと話していてつまらないです。 ニューヨークにいると、語学留学を目的にきて3年目とか言う人をよく見かけます。授業もギリギリの出席日数だけ出て、後は家で寝ていたり、アルバイトしたり・・。私はそんな彼らを見て、「がんばれっ」と思います。何してんの・・とは思いません。きっと、最初にイメージしていた様子と違っているのかもしれません。どんどん現実にぶつかって、自分の意見をきちっと言える若者になって欲しいと思って見ています。わからないのに、ただニコニコしているだけの日本人にはなって欲しくありません。白人とだけ友達になろうとする日本人にはなって欲しくありません。それはそのままそっくり私にも向かう言葉であり、エールです。
2004.08.11
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こちら時間で9日月曜から1泊2日でボストンに行ってまいりました。旅行記風にするよりはニューヨークとの比較など少しずつテーマにしてお伝えしていこうかな・・と思っています。私の散歩もスケールが広がってきました。 ボストンといえば、アメリカで古い都市であり、WASPの街でもあります。ほとんど白人です。思わず親近感を寄せてしまうヒスパニックはあまり見かけませんでした。名門ケネディ家を輩出した街であり、ハーバードやMITのあるアカデミックな街。その点についてはゆっくりと別の日記で書いていこうと思います。 ニューヨークからボストンへのアクセスは電車、飛行機、バスがあります。今回はチャイナタウン発のバスで行ってきました。このバス、無茶無茶安いです。ちなみにボストンやフィラデルフィアまでは往復で20ドル。その名もPARADISE VACATIONS(パラダイスバケーションズ)。ね、怪しさがにじみ出ていますね・・。このパラダイスバスは前にも使っています。"Six Flags"という遊園地に日帰りで行ったときは一人55ドル。その中に遊園地のチケットやバス代が入っています。 今回のボストン2日間はバス代、宿代、観光案内代込みで95ドル。安い!!他に一日10ドルのチップが発生しますが、安いです。ボストン市内とイェール・ハーバード・MIT見学、ニューポートのマンション見学、ホエールウォッチングも行きました!! 朝、8:45発に間に合うようにチャイナタウンに行くと、私たちともう一組以外は全て中国人。ガイドさんも中国人。・・このガイドさん、なかなかツワモノで、話している英語がよくわからず、説明も中国語の1/4位に特別ダイジェスト版に即座に編集して案内してくれます。おかけで、私が聞き取った中国語を同行者(ブルックリンブリッジを一緒に渡ったフィリピン人)に伝える・・という頼りないものになってしまいました。 乗って3時間くらいすると、いきなりバスの運転手さんがおどおどし始めました。一番前に座っていたので、会話が丸聞こえ。「俺、道わからない・・」えっ?!と思っているとボストンは行ったことがないらしい。ちょっと道がわからなくなると、道路の真ん中を車線越えて走り、ガイドさんの右、左という指示通りに運転していた・・。一方通行逆走するわ、右折で花壇を乗り越えてショートカットするわ・・。お~い・・無事に着くのかい?と何度も頭を見つめていました。 二日目がボストン市内の観光だったのですが、どう見ても「バス停止禁止」というサインの目の前に指示通り停めていました。絶対ヤバイよ・・ここは・・という所にもガイドさんは止めるよう指示。さすがに運転手さんも心配になって「ヤバイよ・・」と言うと、「30分間旋回していて」と指示。見ていたら本当にぐるぐる周っていました。イェール大の周りを・・。 この右に写っていらっしゃる方がツワモノガイドさんです。 が、夜の8時にチャイナタウンに着いたのですが、戻る最中に会社から電話があって、彼は、別のボストン行きに今晩同乗するよう指令が出たようです。落ち込んでいました。 安く、速く、そしてエキゾチックな雰囲気を味わいたい方はぜひ、チャイナタウン発にパラダイスバスをおすすめします。
2004.08.10
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