おのづの介護奮戦記

おのづの介護奮戦記

母の介護の経過


母は父が入院しているのにも関わらず見舞いに積極的ではない それどころか父の幻覚を家でよく見ていて惑わされている様子
父が危篤状態に陥ったとき 医者も看護婦も婦長も全員病室にいて父を見守っていたのに母は「早く家に帰りましょう 暗くなっちゃうわ」とその場の正常判断ができなくなり周りをびっくりさせる
父が危篤状態から脱し完全に栄養不足から(食事を二ヶ月も全く摂らなかったので)脳に栄養がいかなくなり痴呆患者の末期のようになってしまった 空に手を伸ばし何かをつかもうと一日中しているのだ その様子を見た母は大変ショックを受け「あんなお父さんもういらない」と言った この頃から母の異常を感じていたので私は聞き流した
骨と皮だけになった父は体力の限界が来てとうとう心臓が停止した 病院から連絡を受けたが母は行かなかった

平成13年11月以降
父の葬儀が終わり手続きに翻弄される私 ようやく父が亡くなったことを理解しよく母は泣いていた

平成14年以降
父の幻覚が24時間出没 母は信仰があったため父の霊が迷って出てきているのではと怖がった 私はお祓いをしたがもちろん効果なし
常に父と一緒に生活していた母はいくら三階に娘がいるとしても二階で一人で生活をしていた 故に私が頻繁に二階に下りて母と接触をするようになる 一人でほっとくと一日中テレビをぼーっと見るようなので痴呆を心配した私は週に何度か母と外出する日を決めて実行する 
デイサービスも導入して週に一度行ってもらうようになる
段々理由が分からない行動が多発
お風呂のお湯を出しっぱなしにする(幻覚のため)
夜中にトイレに起きて電気をつけっぱなしにする そして次の日私のせいにして怒る
夜間せん妄という症状がひどくなり 夜中に起き出して朝の準備をするとか冷蔵庫のわきにしゃがみこんでいるなどの症状も出始める
そのせいで私は朝方の3時まで起きて見張っている毎日となる
トイレで用を足せなくなりあちこちで失禁するようになる
又 私がわからなくなり「お父さん」とか「お母さん」とか呼ばれる
冷蔵庫に色々なものがしまわれる
料理は全くできなくなり したとしても鍋やフライパンをこがすなど火をつけていることを忘れる
空焚きが多くなる
一人で着替えができなくなる
食事がお箸を使って食べれなくなりとうとう介助が必要になった
失語症になり単語が出なかったり今話そうとしたことがでない
全く歩行ができなくなりどこへ行くにも手引き歩行となる 座らせても上体がすぐ倒れてしまう 倒れたら倒れたきりで私をずっと叫んで呼んで待っている 来ないとすぐ怒る
とにかく一日24時間全介助上体に突入する
私の生活は一日2時間睡眠の一日一食だけ
それ以外は全て母の傍についていないと大声で叫ばれる
壁に向かって独り言を何時間も叫んでいる
ついに私の体はぼろぼろになりパーキンソンの専門病院へ外来受診をし入院することになる
検査の結果パーキンソン症候群レヴイ小体型痴呆ではないかと言われ治療のために世田谷の都立の病院へ転院される

平成15年以降
転院後しばらく錯乱していたが先生の治療の甲斐あって3ヶ月の入院後初めて精神的に正常に戻る
しかし体の動きは全くだめで一人で立つことも歩くこともできない
母の場合精神異常を引き起こしやすいので先生が苦労しながら徐々にL-ドーパの薬を増やしていき半年後とうとう適量にたどり着いた その間さまざまな体の異常がありそのつど先生と話し合いをしながら何とかここまできた
適量がわかってから一週間後半年という入院の限度日数を超えてしまったため先生の勧める逗子の専門病院へ転院することになった

逗子の病院ではパーキンソンの専門病院ということもあり医師も看護婦もスタッフも全てプロで環境はすばらしい 薬の適量が守られているので母は日に日に心の健康と体の健康を取り戻していった 逗子に来てようやく母と娘の関係が戻ったように思えた 又同じ病気の患者が多く入院していることも母の気持ちを安らげることにつながった 手が震えていても体が思うように動かなくても皆同じ症状を持っているので気兼ねしなくて済むのだ 
今後逗子に半年入院してその後又世田谷に戻る予定でいる


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