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May 18, 2010
May 16, 2010
May 5, 2010
May 5, 2010
December 31, 2009
日常の空気を展示する。瓶の中に詰まった、日常の空気。日常の中で、日常を切りとった言語スケッチ。日常の中で、日常を切りとったスチールしゃしん。日常の中で、日常を切りとった動くしゃしん。非日常も、日常の中に含まれている。逆をいえば、日常も非日常の中に含まれている。戦争の中にも、戦争の日常があり、日常の中にも、日常の戦争があり、世界は、日常に溢れている。
August 8, 2009
別にこれといって、どこかへいったわけではなかったけれど、最初と最後は、寝て過ごしてしまったけれど、いろいろな人の話を聞ける機会があって、面白かった。映画監督の作品を見た後、映画監督に、お話しを聞ける機会があって、基本的に、余裕があるときは、芝居を『寝かす』、発酵するものがあって、よりよくなる、時間がなければ、1時間待ってくれ、といって、うーん、どうだったかな、と考える、おれは、芝居を見るのが、好きだ、とのこと。演劇の場合は、稽古に時間がかかるため、自然と寝かしてしまうことになると、思うけど、映画でも、あえて、発酵を、考慮に入れようとされているところが、すごいと思ったし、芝居を大切に、扱っておられるのだ、と感じた。メインストリームの方は、やはり、ひと味ちがう。
May 7, 2009
パクリは、素敵だ。冒頭、殺人を犯した体操着姿の女子高生が、ハゲデブ自主映画監督にビデオカメラを回されながら、無銭飲食を飛び越え、ファミレスをギャングする。出だしは、パルプフィクションで行きたいんですよね。フィクションとリアルの間には、深い溝がある。もちろん、この映画も映画である時点で、フィクションだ。しかし、フィクション内リアルは、視聴者の頭の中の、リアル内リアルに、地続きのリアリティを与え、フィクションをリアルで生きようとする、狂暴な力を噴出させている。
May 5, 2009
1980年代に流行っていた、少年ジャンプ系の、地面割り、によって、地底旅行へ出かけていたパスタ氏が、地表へ、東京へ、いや、川崎へ帰ってきた。
May 5, 2009
スラム街、ゴミの山、浮浪者、瓦礫、生き生きとした生活、金、雨、子供、大人、ヤクザ、クイズ、瞬間と季節、屋根屋根屋根、低層と、高層と、世界の中心が移動、少女と女、少年と男、銃に、メクラ、コジキにカラオケ、高度成長と古代、したたかな犬と、スーツを着た白人、無表情な、インド人、日本人、似てる、ロンドンとジャンキーが、腐った死体とバイオレンスで、現在が、未来を、そして、現在な、世界の底が割れて、実体と交渉し、瓶が、割れ、破片が、きらめいた。
April 27, 2009
ちょんまげな、だけなのに、存在してるだけ、爆笑いを、挑発する映画『鴨川ホルモー』すげ。
April 27, 2009
株、急上昇。
April 27, 2009
じゅく、を歩いていると、やくざのおじさんが、若者にからまれていた。とても、かわいそうだった。いきりたつ、若者の二人。しかも、女性連れ&更に、朋ひとり。やめなよ、といわれつつ、やくざに、つっかかる、若者。余裕をかましつつも、傍目からみると、劣勢な年配のヤクザ。ヤクザといっても、街まわりの、ガードマンなのかもしれない。新宿ヤクザも、愚連野郎らの、勢いに、押されている。しかし、じじいヤクザは、反撃に出た。殴ったのではない。お互い、一切、身体は、接触していない。じじいヤクザは、携帯片手に、応援を呼んだのであった。その携帯が、本当に、応援隊に、かけていたとは、限らない。なのに、本物のヤクザが、出てきたら怖い。突如、空気が変わる。あせる若者たち。罵声を浴びせて、遠ざかる若者たち。じじい言 「あ、逃げていっちゃった」過剰反応する若者、「誰が、逃げただと!」折角、逃げれたのに、また、戻ってくる若者たち。「いま、どこどこにいるんで、きてみてわぁ」余裕をかまして、応援を呼ぶ、じじいやくざ。ひるむ若者たち。「やめなよ!」必死に止める、連れの女性たち。じゃ、帰るわ、とばかりに、きびすを返す若者たち。「あ、また、逃げちゃったんで」過剰反応して、また、戻ってくる若者。じじいやくざと、若者のヒートアップ。「あ、戻ってきたんで」応援を呼ぶ、じじいやくざ。見た目は、よわものだが、じゅく、という、得たいの知れぬ街の闇が、若者たちの、想像を刺激する。明らかに、一瞬、躊躇が走る。以降、それの繰り返し。本当は、じじやくざも、早いとこ、野獣のような若者に、帰って欲しかったはずなのだ。しかし、彼の職掌ガラ、彼らが、びびって逃げた、という形式を、1%でも、つくらねばならない。わたしは、いつ、やくざの攻撃部隊が出てきて若者が、ぼこられるのかと思い、ひやひやし、それでいながら、いくら、ヤクザといえども、その何倍も、怖ろしい、愚連な若者からの、怒涛な攻めをみると、かわいそうだと思い、お互い、はったりのかましあいだな、と思いつつも、そのやりとりには、緊迫感があり、ほぼ、脇役にしか見えなかった脇役朋までもが、ぶちきれて、若者を止めに入り、わたしは、「どらまだな」と思った。ぽんこつ拳銃の流れ弾にあたったら、ばかだと、思いつつ、結局、2、30分立っても、じじいヤクザの応援はこず、それでも、寄せては返す波のような、駆け引きを見て、きっと、じじいヤクザに、応援はない。しかし、肉体的に圧倒して優勢な若者愚連組は、1%の想像力で、じゅく、の怖さが、身体に沁みている。お互いに、がんばってるよな、感心した。
April 9, 2009
さくらが、ゆきみたいに、ふってくる。
April 8, 2009
雨が降っていた。砂肝を買った。しとしと、雨粒が、落ちてくる。白い直線を垂直に何本も、無数に引いたような雨。これから、砂肝を、食う。家の扉を、空け、傘の雨粒を払い、中に、干し、砂肝をフライパンに、投げ込み、上から、油をかけ、韓国バサミで、じょきじょき、斬りながら、ガスの炎で加熱し、砂肝の、クダ、みたいなのに、一瞬、恐怖し、しかし、手を休めずに、細切れにし、赤、白、黒の、調味料を振りかけ、炒め、炒め、炒めて、火を止めて、皿に盛り、飯にかけて、これを、喰らう。
April 1, 2009
鳥を買った。フライパンに、油を敷いた。ガスに火をつけた。鳥をぶちんこんだ。韓国バサミで、じょくじょき、斬った。赤い調味料と、ごりごり蓋の部分を回すと、塩コショウが、粉砕されて出てくる容器で、白と黒を振りかけた。焼いた。炒めた。じゅじゅっと。蓋も閉めてみた。湯気で、蒸されて、肉は、白くなった。米を盛った椀に、肉をかけ、肉汁も滴り落ち、ポン酢を垂らして、喰らった。
April 1, 2009
俵屋宗達、風神雷神図屏風を見た。 その画題で、宗達、光琳、抱一、基一の4世代が一同に会していた。 (宗達が開祖なのに、何故、琳派なのだろう、 彼が組織化=お家化したということなのだろうか) 正直、小・中・高の美術や、 歴史の教科書でしか、見たことのなかった絵画。 なんの価値があるのか、さっぱり、わからない自分ではあったが、 雨曇りである、とういうのに、 上野の美術館は長蛇の列。 日本人って、意外に真面目なのね。 前、来たときも、この美術館に賑わってたし。 同伴者、ヒキダシ氏は、顔に似合わず日本美術が好きで、 時折、わたしは、上野に随行するのだが、 俵屋、どうやら、一流らしい。 画面から、風神雷神が、はみだしている宗達。 風神雷神に、エフェクトの掛かった、洗練した光琳。 焼酎の入った現在は、違いの思い出せない抱一。 水墨画的、幽玄を取り入れ、上三代より、スペクタクルな襖使いで、 ハイビジョンを思わせる基一。 ううん、これが、琳派、というものなのか。 知らなかった。 教科書で、見てるだけでは、 ただの辛気臭い、土俗宗教的、神話図絵の、 雷様イラストとしか、思えていなかったが、 太平の江戸時代、同じ画題で、四代に渡って、 同じ画題で、頂点を極めた、師弟関係が存続していた。 それが、現物として、21世紀東京・上野に、光臨している。 それは、単純な驚きだった。 だが、本当に、驚いたのは、 起承転結の承で、突然、やってきたクライマックス、 風神雷神図屏風にではなく、 宗達の、「白象図杉戸」の「象」や、光琳の竹梅図屏風や、 乾山の様々なプロダクトデザイン作品群だ。 宗達の「象」は、「目が狂っている」。 白い象なんて、わたしは、見たことがないのに、 図画として描かれている。 図画ではあるが、 近くから見ると、木目に刻まれた、彫刻に、 見えたりもしたが、この「象が、醸し出す仮定世界」へ 移行してしまうと、かわいらしさと残虐さが同居した、 「狂った目」と「狂暴な牙」によって、 襖に閉じ込められた人間がいた場合、 これ以上ない残虐な暴力によって、殺戮されたしまうことが、 約束されたがごとき、恐怖と恍惚が、存在する。 まんが「ねこじる」の世界が体現されている。 光琳の描いた、「竹梅図屏風」には、 簡素な竹、それ以外は、捨象したGOLDENな余白、 何がいいんだか、わからないけど、見てるうちに、 その何もない余白から、彼岸もしくは、仏教土もしくは、 非現実もしくは、俳諧的世界もしくは、 いとをかしもしくは、 凝縮した異次元を、体感させてくれる。 抱一の、花の屏風絵、花がマル、茎が垂線となり、 五線譜のさざ波のごとき、意匠的屏風絵画、 乾山の、箱物プロダクトデザイン、 順々と見ていくうちに、 こいつらは、埃に黴れた日本という名のローカル巨匠ではなく、 江戸幕府という、侍的王権文化の生み出した、 超VIPデザイナーであることに、結論が達した。 ルイヴィトンが、数十万円で、手に入る庶民のブランドなら、 琳派は、江戸時代、庶民が見ることを許されなかった王族=将軍家のブランドだ。 徳川ブランド。 ヒキダシ氏は、琳派展示を見ながら、盛んに、 ROCKだ、ROCKだ、 と興奮している。 戦国時代に端を発した狩野派の、 殺意逡巡たる3DCGな躍動的虎絵画に比べると、 琳派は、解説文のキーワード「意匠化」すなわち、 デザインと化した、記号化、抽象化、具象にマンガ性を混入するダリ化、 まとまっててクールならいいじゃん的力技による多次元混入型の、 ポップアート。 しかも、余白が、 俳句や、彼岸を感じさせる日本型「いとをかし」系。 絵画的伝統芸能、絵画の歌舞伎、いや、それ以上に、 複雑に見せかけたシンプルな力、 意匠という名のブランド力を、 琳派の展示から、受けたのだった。 そして、隣で、やたらと、 ROCKだ、シュールレアリズムだと呟くヒキダシ氏に、 「ロックの定義ってなんすか」と訊いてみると、 「FREE YOUR MIND」だった。 自由につくるには、それなりの、フォーマットの身体化や、 その乗り越えが、必要だとは思うが、 音楽だと思っていたロックが、 「FREEDOM」というコンセプトによって、 音楽だけでなく、別ジャンルをも、包摂しうることに、 面白さを感じるとともに、御徒町の安酒で、 境界を危うくする水墨的世界へと、渡航するも、 幾何学的に、普通に、おうちへ帰った。
November 16, 2008
一番、面白かったのは、巨大金魚の映像だった。金魚が、巨大なのではなく、正方形に近い、壁面をスクリーンにして、映し出された、漆黒の中に浮かび上がる、赤い金魚の群れが、どアップが、良かった。そういえば、映画「さくらん」も、一番良かったのは、吉原の門の上にあった、水槽の中の金魚たちだった。お話しは、いまいちぴんとこなかったが、やはり、意味から切断された、生き生きとした断片が、具象と抽象の間を、ゆきつもどりつして面白いのだった。蜷川実花の撮る、一連の、有名女性ポートレート軍は、横尾忠則イラストの、実写版みたいなものだったのだな、と感じた。室内と室内の間が、カーテンで仕切ってあって、その膜を通り抜けるまで、次に何があるか、わからないのだが、急に、真っ暗闇に、巨大金魚が、浮かび上がったり、急に、近距離に、壁を設置して、巨大な写真が貼ってあり、どきっと圧迫されたり、感覚としては、お化け屋敷のサプライズと、緩急のつけ方が、迫力となり、面白かった。写真集や、雑誌でだと、派手派手で、ある意味、かっちょえええなぁと、ゆう感じだけど、実際の空間へ、足を踏み入れてみると、隙を見て、後頭部をバットで殴られ、衝撃で、コロコロと前方に転がった、ビー玉のような、目玉が、突如として、写真の中に取り囲まれ、それは、写真というより、リアルや、世界な感じで、内容物は、フィクショナルだけど、あるプログラムに則って、自然構築されたもの、とゆう気もして、ビー玉は、自転しつつ、宇宙の中を、ちりあくたを中心として、公転しはじめてしまいました感があって、良かった。
November 6, 2008
TOTOの「間」というギャラリーで、安藤忠雄展を見てきた。模型と図面と、映像と写真が、その建築を語っている。実際に、建築空間に、身をおいてみないと、わからないことが、多いのだろうけれど、壁に十字の採光が空いている教会の模型に驚いた。頭上から眺める、その模型は、木製で精密に作られているのだが、脇の壁を、斜めにぶち抜いて、一枚の板=壁が貫通している。そこに隙間も、空いている。唐突に、見えない巨大なシャベルで、さくっとシャーベットのように、頭蓋と脳みそを、すくわれ、涼しいそよ風が、舞い込んできた感じのする、大胆な空間設計だ。言葉はよくないかもしれないけど、祝福された神聖な事故みたい。透明で巨大な襖が、音もなく、壁に滑り込んでくるようだ。天使の囁き。目の前に、自然光の十字架。脇に、自然光の天使。独学の建築家なのに、アーティストなんだな、と改めて、感じた。写真などでは、きっと凄い人なんだろうと、思っても、実際、記憶に残っていたのは、凄い、という語感らしきものだけだったような気もする。などと思うのは、わざわざ、足を運んだことからくる、肯定力なのか。だけど、いい、気がした。そして、mageさんが、ネット記事に書いていた「住吉の長屋」が、実寸モデルで、作られているらしい。どこにあるんだろう。せまい板張りの空間を抜け、室外にある鉄製の骨組み階段で、上の階へ昇っていくと、ビルの谷間が広がってくる。しかも、3階から、裸の空間を、船のデッキにあるような剥き出しの階段で、通路は4階への接続へと続き、逆側には、通路のドン詰まりもあり、そこからは、ビルの崖が、覗けて、足がすーすーする。書き割りのように、展示場を隔てる壁の裏には、板や長い棒など、階段の横にある板の面を制作した名残が見える。唐突に、ビルの壁面を巨大なショベルカーで、すくい取り、神経が風に晒される爽快感がある。この場に、展示を行うこと自体が面白い。4階へ入ると、線と長い長い長方形が、位置を変えることで、ゆるやかに空間をねじり、滑らかなカーブを描く天井をもつ門の模型と、設計図があり、実際の建築写真には、虹の下を歩いている感じの人々が写っていた。たしか、創造の門と、銘を打っていた。さらに、別室移ると、どうやら、展示の終了らしい。行き止まりへ出た。あ、終わりか。意外と、省スペースだったな。と、思いきや、ひとつの模型が、目に入った。長方形の中で、2階建ての立方体が2つ、宙空の廊下で、結ばれている。廊下の下は、テラスになっている。憩いの場だ。そして、部屋の立方体は、両側の1階、2階ともに、全面ガラスばりで向かい合っている。青天井を中心に抱えることで、どっと、外気が流れ込んでくる。内向きの開放性。小粋な建築だな。と、隣の写真を見ると、コンクリ打ち放し、カロリーメイトのチーズ味のような、そっけない、ある意味、無愛想な壁面を持った顔面。「住吉の長屋」その人の模型だった。目を転じると、どこかで見た宙空の廊下がある。つまり、鈍感なわたしは、「住吉の長屋」の実寸モデルは、どこにあるのかなぁと、思いながら、順路していたのだが、実は、その内部に、すでに、取り込まれていたのだった。宙空廊下は、渡ることができず、その青天井の吹き抜けを体感できなかったためか、観覧者が、多かったためか、少し、息苦しいかな、なども思ったが、それを突き破る開放感は、3階から、4階へ上がるための階段で、すでに、体感していたのだった。あ、きっと、あんな感じのある、素敵な空間なのだ。江戸だか、明治だか、大正、昭和の大衆感が漂う、大阪の長屋地帯に、突如として現れた、コンクリのブロック。異物でありながら、内部が、外部と通じる、いわば「祈り」の形を持った建築。内部が外部に通じたときの爽快感。建築とは、空間感覚を更新するアートなのだった。
November 5, 2008
帰国子女の友人オヤジから、電話があった。「オバマを祝して、酒飲もうよ」国際的金融危機の影響を、友人オヤジの職域がモロ喰らった時に、電話したら、これから、分析しないと、と泡が火を噴いていたのに、今日は、祝賀ムードだ。テレビをつけると、全米が、湧いている。演説が、かっこいい。言葉に、力がある。「アメリカでは、すべてが可能であることを疑い、 民主主義の力に疑問を呈する人がまだいるなら、 今夜がその答えだ。 今度の選挙は違うと信じて、投票所に並んだ人々の列が答えだ。 老いも若きも、共和党支持者も民主党支持者も、 黒人も白人も、同性愛者もそうでない人も、 健常者も障害者も、すべてが出した答えだ」ゲイorストレートまで、入っているところが、かっこいい。人間の属性に関した、囲いを、浸透膜として、機能させる。黒人初の大統領、その身体性自体で、すでに、ひとつの文化的障壁を、乗り越えている。友人オヤジとは、今回、飲めなかったが、祭りを、点火できる出来事は、素敵だ、と思った。
November 5, 2008
NHKで見て、インパクトを受けた。アメリカでは、教育のIT化が、ここまで進んでいたのか、と驚く。電子黒板で、100年まえの産業について、教師が授業をしている。その電子黒板は、ネットに接続していて、1900年代初頭の、車の写真から、今度は、動画へと飛ぶ。子供たちも、ただの、文字や話しだけの、授業とは違い、楽しそうに、参加している。そこでの教師の役割は、教えることであるのと、同時に、メディアやコンテンツに、関しての、水先案内人、コーディネーター、編集者だった。プリント代わりに、ノートパソコンが配られ、クイズに、答えると、全員の回答が集約されて、全員の答えが、電子黒板で、見れるようになる。従来の舞台型空間と違い、WEB型の、ネットワーク空間へと、教室の軸がシフトしている。従来は、答える生徒の数は、物理的に、限定されていたが、その状況でなら、一斉に、生徒全員の考え方、考え方の違いが、わかる。高校では、コピペが、問題になっていた。「スパークノーツ(SPARKNOTES)」という学習あんちょこサイトに、教材になるであろう、小説の要点、あらすじが、フル装備されているので、宿題も、おちゃのこさいさいなのだ。コピペ、盗用は、身に付かないので、いけないことだ、となっていたが、たとえ、コピペでも、その部分を取捨選択するだけで、十分、編集になるので、別にいいのではないか、と思ったりもした。たいてい、宿題なんてものは、いやな場合は、教科書の虎の巻参考書から、丸写しするだけで、そもそも、手書きする労力が無駄だった気もする。教員の方も、教育カリキュラム、授業内容の共有サイト「カリキ(Curriki)」というものがり、国境を越えて、TV電話で、お話ししていたりもする。教師は、孤独だ、そうだ。一日中、子供と接していて、大人と接する機会が、あまりないという。そこで、新しい関係性を、補完する代替物としても利用されているようだ。そして、驚いたことに、先生を評価する基準に、WEBに動画を貼り付けることができるか、FLASHを操れるか、デジタルでデザインができるか、などの、項目があったことだ。デジタルコミュニケーション能力は、今や、教育業界にも、押し寄せている。というか、海の向こうはそうなっているところもある。日本は、まだまだ、そこまでいってないアナログ教育なんだろうけど、海の向こうにあるものは、そのうち、日本にも、伝わるのだろう。そんな教育ドキュメントを見ながら、コメントしていたのが、ピーター・バラカン、斎藤孝、赤堀侃司の3人。端末を使って、発言することで、発言することに関しての、摩擦抵抗がなくなり、自分や、他人の考えを深めたり、表現することに関して、ストレスがなくなっていくので、自信ももてるし、良いことだ。だけど、リアルに、差し向かいで、喋ること、その不自由さ、生の人間で、向き合って、直接、話し合うべきことを、話し合える、ある意味、身体的な強さも、必要だ、という話になっていた。なにはともあれ、時代の軸は、あたらしく、シフトしはじめているようだ。
November 1, 2008
ヘッジファンド。トレーダー。ポジション。マネー。ウォール街。カオス理論。11次元方程式。外部入力。ジョージ・ソロス。投資家。市場。円・ドル・ユーロ。FRB。変動率。金が金を計り、モノサシがモノサシを計り、価値が価値を計り、金兌換から、浮遊し、貨幣=信用を、変動相場制によって、回遊巨大マグロへと、進化させた、グローバル経済。ガツガツ食い散らかされ、キンのウンコに雀躍し、右往左往する、マーケット。そんな中、投機バトルに勝利し、巨額の富を得た、主軸人は、計られないことは、自由だ。に達する。触れる。それでも、そのまま、投機しつづける。
October 29, 2008
古典が、わかると、どう面白いのか。きれい、がわかる。日本語の原型が、わかる。など、橋本は、いろいろ、くねくね、いってる。正しい日本語がわかる、ともいってるが、とどのつまり、言葉は、変わるものだ、ということが、この言説から伝わってくる。変わるけど、変わらないもの、変わらないけど、変わるもの。言葉は、肌で感じるもの。とうことで、余分な知識や、註などに、惑わされず、原典に触れて、とのことで、早速、帰りに、本屋で、一瞬、平家と、源氏に触れてみたが、触れた!との充実感以外は、記録せず、その階にあった、背表紙を、眺めまわり、眺めると、眺めるだけ、眺めれば、文字の振り幅に、目を洗われ、言葉の変動率を感じた。
October 28, 2008
ARE YOU GOLDEN DESK?BOOK IS OVERHE EATS EARTHTHE WALL IS GOLD MOUNTAINSTRONG CAFE IS MONSTER ICEDO YOU REMEMBER HER?SEA SEE SHITSHE HAS MEGALOPOLISMAN BECOME JOKEYOU READ REVERJUST JUST JUST
October 27, 2008
あ、について、あ、は、やはり、亜だろうと、思う、何故なら、あ、は、亜細亜の、あ、だから、なんて、ことは、全然、思っていない、なのに、何故、あ=亜なのか、あ、というのは、漢字で、思い浮かぶのは、亜しかないから、しかし、あ、で、わざわざ、漢字を、想い浮かべる必要などなにもなく、a、でも、A、嗚呼でも、構わないはずだ、というより、あ=あ、でなんの、過不足もないはずだ、そんな中、あ、について、おもいをめぐらすのは、やはり、いま、あ、というまに、すろーもーしょんで、いかふらいが、ゆかに、らっかしていったからに、ほかならない、あ、
October 26, 2008
空き地に咲いた一輪の豚、カラスがポリバケツ蹴飛ばしてる、勤め人は、早足で、アスファルトを急ぐ、赤い靴はいた少女が、やきそばを食べてる、やぐらと組まれた電信柱、ららら、電線に少年が絡まってる、少年は、携帯で叫んでいる、原子力の歌、赤い靴の少女は、さお竹で、少年を助けようとする、少年は、やめろやめろと叫ぶ、少女がつまづいて接続、電線と地面に咲いた豚、ららら、こんなのは、歌じゃない、こんなのは、歌じゃない、豚は電線で伝送される、こんなのは、豚じゃない、こんなのは、豚じゃない、少年と少女は、電線で伝送される、電線豚が咲いているららら、
October 26, 2008
海外旅行が、こんなに、ハードボイルドでいいのか。探偵旅行小説、ベトナムのブラックマーケットの内奥へと、肉親探しのために、分け入っていく。
October 26, 2008
監督、原田眞人。カミカゼタクシーのバイオレンス、バウンスコギャルスの女子高生、イヌガミの土俗宗教、随所随所に、得意技が、顔を出し、題名だけだと、B級、感じまくりなところを、大きく裏切ってくれた、私的には、名作だった。ひとつ気になるロジックがった。クライマックス手前に、歌うと呪いが伝染してしまう歌を、歌ってしまった女子高生たちが、土俗的霊能力者のおばさんに、ご託宣をもらうところ、「前の扉から出れば、何事もなく、無事、東京に帰れる、後ろの扉から出ると、廃駅を通り抜けて、長いトンネルの中で、真実に遭える、これだけ!」その他大勢は、何事もなく、東京に帰れる扉を選び、主人公的女子高生は、後ろの扉を選んで、恐怖の中核へと、潜水しに行く。普通に帰れるんだから、わざわざ、そんな物、見に行かなくてもいいじゃないか、と思うが、東京へ無事帰る組と、トンネル組が、交互に映され、両方とも全然無事じゃないことが、知らされている。結局、トンネル組の方で、真実を解くことで、東京組も、生へと引き戻されるのだが、その前と後ろの扉に分かれたときの、呪術的ロジックが、面白かった。ボタンを掛け違えた論理で、ある時点を境に、言葉の次元が、二つに分かれるのだ。そして、すーっと、音も立てずに、スムーズに、日常から非日常への、分岐が行われる。その掛け違え感が、秀逸だった。
October 26, 2008
マクルーハンに関する近隣の論評を、集めた書物の中で、まだ、TVが、ぽっとでの、メディアだった頃の話なのだが、旧メディアVS新メディアの、論考が行われていて、今では、WEBが、すでに、土着化し、映像も、ゲームも、買い物も、金融も、サービスとして、水道ガス電気くらいに、生活に根ざした状況では、書物しかなかった時代と、新聞との比較など、古くて、何の、感興も示さない気がするが、この書物=リニアVS新聞=ノンリニアとおう図式の提出が、今、現在でも、新しく、感じられる。それと、比較される前時代、話し言葉=肉声VS書き言葉=印刷言語、話し言葉は、無志向性のマイク書き言葉は、志向性のマイク、というような対照があり、現代は、再度、TVにより、映画=リニアVSTV=ランダムな情報=ノンリニアな、対比があり、そのとき指し示す、現代とは、おそらく80年代なのだが、TV=ランダムな情報の渦=ノンリニアによって、話し言葉の、聴覚的=前方位感覚が、主流になるなどいっているが、現21世紀初頭は、WEBによる、情報のシャッフルによって、さらに、聴覚性=全方位感覚性が増している。しかし、その球体な感覚世界の中でも、視覚性=リニアな世界を、人は個人で、紡ぎださなれれば、支離滅裂で、曖昧な、万華鏡的分裂状況が、到来してしまいこそするが、そんなこと、保留して、雲の上の、カラスとして、無視して、生活してしまうことも可能になるけれども、それなり、視点=リニア=物語を、紡ぎたくなったりしてしまうことあったりする。
October 12, 2008
きりふき、ふいたみたく、微塵にふっていて、くるまのヘッドライトの前で、銀色のしぶきが、旋盤と鉄のこすれる、銀色の火花で、きれいだった。パリには、犬の糞と、人の糞が、いっぱい落ちていると、ドリアン助川が、いっていたが、100えんで買った中古本、『湾岸線に陽が昇る』は、読んでみると、10年前くらいに、1回読んだ気がしたのだが、2,3行しか記憶になく、ただしかし、「東京湾、13号地」という、お台場が、お台場になるまえの、ざらんざらん、なコンクリだか、くさはらだかの、巨大な空き地をうたう、うたが、かっこうよくって、やはり、全部、読んでしまい、「叫ぶ詩人の会」って、バンド名が、ださかっこええなぁと、感じ、その骨太で、明晰で、笑いの疾走した、死と隣あわせの詩が、こころをうち、いいわぁと、思っていたら、ヘッドライトに、てりかえされる、雨飛沫が、助川的に、目に迫ってきたが、もしかして、車が動き出すと、そこには、インドで行き倒れた、灼熱の死体や、ばっくぱかーの、うんこなどが、だだもれで、出現したりするのではないだろうか、と思いきや、やはり、なにもなく、しかし、熱いことばの、かたまりだった。
September 30, 2008
「ふつうにいきてることは、すばらしい」普通じゃない、大河まんが、によって、感じさせられてしまった。小学生少年、古き良き昭和文化の終焉1970年代と、中年少年、社会の垢にまみれつつ安い脂の浮いてきたバブル崩壊後の1990年代と、世紀少年、21世紀との皮膜、世界の終わりと始まりが、デジタルに混在する世紀末と、未来少年、2010年代、ゾンビ系+アキラ系+ロック系な、しょぼくて、スペクタクルな、近未来社会が、渾然一体となって、迫ってくる。いや、迫りつつ、逃げられてしまうので、こちらが、追いかけてしまう。ずいしょ、ずいしょの、きめどころで、なみだが、たれそうになってしまう。しかも、その決め所が、ランダムに、へんしゅうされ、時空が、一様ではないので、単純な、ネタバラシ、いや、というか、ただ、単純に読んだとしても、推理したとしても、意表をつかれたり、当たったりしたとしても、ネタが、わかったから、いいやではなく、単なるストリーテリングの妙ではなく、現実の多層性を感じさせてくれるところが、素敵だ。一番、好きなところは、「ともだち」が、ローマ教皇を、自作自演で、ドームの中の数十万人、いや、全世界の人々が見守る中で、暗殺ORテロから、身を呈して守ってしまうシーンなのだが、悪で、自分で書いたシナリオなのに、神々しくて、素敵だ。これは、痛烈な、ギガトンだ。全体主義、とは、何だったのだろうコンテンツなのだ。20世紀の総括および、21世紀への架け橋となるコンテンツなのだ。このまんがを読んで、はじめて、一瞬だけでも、22世紀や、未来なるものを、想起しえた。気がした。未来を想起しえていた1970年代から、世紀の終わる1990年代を経て、未来だったはずなのに、ただただ、生活くさい21世紀初頭、しかも、デジタルには、スマートに発達している、そんな中で、わたしにとって、2010年代は、圧倒的な未来、というか、想像すら、ゆとりをもってしたことのない、遠い場所だった。いや、生活的には、想像可能だったが、年代的イメージとしては、不可能だった。わたしにとって。ここにあるのは、日常は、続くということだ。どんな、非現実的、もしくは、もろ現実的なことがあったとしても。そんなこんなで、このまんがの、この思考実験で、怖ろしく、成功しているのは、世界の虚構性だ。このまんがの中心軸である「ともだち」は、西暦を排して、「ともだち暦」をつくってしまう。イエスの作った「西暦」を上書きしてしまうのだ。世界大統領になってしまうのだ。つまり、この『20世紀少年』という、フィクションは、縄文、弥生時代を経て、貴族、武士の切り替わりを通じ、幕末開国、だつあにゅうおう、敗戦、日米和親条約を経て、完膚なきまでに、西暦組み込まれた、現代日本人にとって、その世界的枠組み自体がフィクション=虚構である、という加工可能性を示すことによって、未来なる、ひだひだな尻の穴を示すことに成功している。
September 29, 2008
サル語で、喋っていている。いや、サルじゃいないかもしれない。そもそも、喋っていないのかもしれない。何故なら、これは、歌だから。喋ってるんではなく、歌っているんだろう。町田町蔵のCDを2枚、借りてみた。なぜなら、わたしは、町田康の、小説が好きだったので。デッサンの狂った、小説が、面白かったので。そして、わたしの、友人である、ヒキダシ氏と、ほわいとじゃくそん氏と、飲んでいたときに、この顔で、こういう歌、うとうたら、普通、かっこよさげ方向なんではないか、それなのに、ドブ河で、ラッコになって浮いている。こりゃ売れんわな。そして、腐って、町田康に、発酵した。いや、ぴたっとくる歌と、トマトジュースみたいに、女男みたいな、耳障りに感じるサウンドが、入り混じっているのだ。このアルバム『腹ふり』には。小説系から、入ったこともあるのだろう。町田の、シャウトになじめない。しかし、声を押し殺して、つぶやくように、歌うところは、なんかが、こちんと、はまって、わかる。その、こちんな感じが、宇宙系サル語で、語る『言うてるやんか』と、『すっぽん○』の「しりのあなのなかへ♪」という、絶叫フレーズだった。
September 29, 2008
タイで行われる幼児売春と幼児の臓器売買。地面が抜け落ちていく気分だ。暗い地下にうずくまって、上を見ていたら、地面が崩れてきた。てことは、今いる地面は、地下という名の地面。地面は、地面なのに、地面にもいろいろある。梁石日は、ハードボイルド。、乾いた現実を乾いた目で、ただ描写する。なんの救いもない状況を、善悪を越えた次元で、提出する手つきは、見えない腕で、読む者に、強烈なボディブローを喰らわせる。階層的な地面が巨大な井戸のように繋がっている。何もしようとしないことで、関わっている。阪本順治は、ドラマチック。乾いた現実を潤んだ目で、瞬間の邂逅を希求する。抜け落ちた地面を、下から見ていた地面が、やはり、上の地面だったという無限の地盤沈下で、ループを描いている。何かしようとしても、何もできないことによって、関われないでいる。宙吊り。地面が崩落した、宙吊りの中で、その宙吊りを、どのように、捉えるのか。宙吊りも地面なのか。地面も宙吊りなのか。そんな、小説と映画だった。
September 28, 2008
写真作家が、若者から質問を受けて、それに答える形の講演録。この人は、言葉の先に行こうとしている写真家だった。コンセプトよりも、皮膚感覚で、路上をサーチしていく。こんなのを撮ろう、と考えるよりも先に、街に紛れ込み、シャッターを切っていく。断片を目指す。断片でも、見る人によって、なんらかの、叙情がはいりこんでしまう。それでも、断片を目指す。しかし、その断片を目指そうする意思は、考えや、言葉の先に行こうとするためのものなので、その断片化という考えさえ、膨大な写真の量で、洗い流していく。言葉と像の間を、揺れ動きながら、撮り続ける。この人にとっての写真とは、撮るという行為の中にしかないのかもしれない。
September 28, 2008
June 16, 2008
やべ、時間ねぇ。急いで、朝、電車に乗った。駆け込んで、乗り込む。ぎりぎり、間に合ったようだ。しかし、微妙にトイレに行きたいような、そんな気がして、時計を見る。ぱつぱつで、そんな時間はない。先ほどから、携帯のアラームがしきりに、鳴りすぎる。なんども止める。いつも、ラストのスヌーズを止めれば、それで、終了なのに、おかしい。よく見ると、1時間前だった。途中下車して、トイレに行き、会社付近を悠然と歩く。少し、余裕があるだけで、何故か、夏休みな時間が流れ出し、目の前を行過ぎる、勤め人たちが、書き割りのように感じられる。そんなぽかぽかした五月の晴れ渡った午前中に、とある広場で、単行本を読んでいたら、その話しは、公衆便所で始まり、公衆便所で終わっていて、内容的にも、具体的なのに、つかみ所がわからない、しかし、脳幹の拡がっていく気がする、阿部和重『ABC戦争』だったのだが、そういえば、さっき、おれがした便所、事が終わった後に気づくと、後ろの壁に、うんこついてて怖かったなぁ、と背筋が寒くなり、必ずといっていいほど、男便所(大系)壁面の、目の前に落書きされているホモ系落書き、あれも気持ち悪かったなぁと思い、しかし、その読んでいた小説は、別に、うんことは、関係なく、だが、どこかに、ウンコと書いてあったような気もするのだが、そんな、公衆便所に、こびりついた、うんこのようなビビッドさがあり、ほぅっと、ため息が出そうだったが、あまりにも、空がすっきりと青く、気分がよかったため、そんな、うんこには、とらわれずに、また、歩き出した。
May 21, 2008
「もっと潜るんだよココに この9×9 81マスに潜るんだよ どこまでも どこまでも 深く深く この盤に潜るのが将棋指しだ」 ―柴田ヨクサル『ハチワンダイバー』 五月の屋外プールは、冷たかった。 潜るのは苦しい。 しかし、ある臨界点を超えると、 すっと、楽になる。 高校生のころ、水泳部を一年間だけやった。 それなのに、ここでは、このマンガでは、 将棋の盤の中に潜ってしまう。 技術を超えた、たましいの世界へとダイブ。 深く潜って、水と一体化して、 流れを持って帰ってきた方が勝つ。 だけど、この潜水の、達する深度は、 勝ち負け、善悪を超えた、たましいの領域だ。 しかも、人間、日常が慣れで進行すると、 この潜ることさえ、忘れがちになってしまう。 いや、潜ろうとして、潜るというより、 気がついたら、潜ってしまっていた。 そんな感じで、いわば、他動的に、 潜水は、やってくるのかしれないが、 そこには、やはり、芯の部分に、 潜水への志向がなくては、移動は起こらない。 そこで、試しに、風呂で潜ってみたのだが、 ごぼごぼと、音が歪曲し、きゅっきゅっなどと、 脚や肘が風呂桶と擦れあう音がして、 鼻もツンとしてくるし、がばっと浮上したら、 空気がビールより美味くて、水面に、鼻水が浮いていたら、 怒られるんじゃないかと、どきどきしたが、 たまには、潜ってみるのも、一興だ。
May 16, 2008
『ああ、切り口に砂糖が来る、血の上を白い粒が走る。 砂糖のじゃりじゃりが削ったばっかりの歯の上で結晶のまま、 四五日ここにいてやろうかというように、 舌で触ると、舌に向かって、「光る」。 ふうん触感で光るということがこの世にはあるんだね、ふうん』 ―笙野頼子しょうのよりこ、読んでると頭が痛くなるような、境界超えまくりの、ごった煮文学。しかし、強力な牽引力がある。この文章は、その、ごった煮コトバの中から、わりと、わかりやすく、輪郭を伴って、こちら側に、飛び込んできた。口の中に、異物がいると、触覚が視覚になる。ここに、驚いた。そこで、よくよく考えると、視覚が触覚になることもあれば、聴覚が痛覚になることもある、感覚というのは、つまるところ、身体が感じる何らかのトーンや、質感、音符のようなものかもしれない。文字も、写真も、音楽も、映像も、0と1のデジタルに変換できるけど、触った感じや、匂いは変換できない。しかし、文字によって、触感や、見えない映像や、血の味や、砂糖の味、舌が口腔を感じや、血に混じった砂糖の不穏さが伝わってくる。「それそのもの」がなくても、「それそのもの」の関係を捉えられれば、「それそのもの」を召還、喚起できるのかもしれない。『砂糖のじゃりじゃりが、舌で触ると、舌に向かって、「光る」』これ、すごい、好きなのでした。
May 15, 2008
「物語の卵、物語の予感、物語のキザハシ、 それをなんかワケがワカラナイならワカラナイなりに 描きとどめたかったのです」 ―しりあがり寿まんが、ヤジキタのぐるぐる感、うじゃうじゃ感、狂ってる感、DEEPだなぁと、昔、思っていたが、なんて、明晰な人なんだ、さすが、キリンの宣伝部員、ブランドマネージャーは、違う、と思わせる広告論的まんが論を提示していたと思いきや、中盤、やはり、エッジな部分に、肉薄していく。「この全体感、つまり作品の世界が持っている時間の感覚と なんともいえない空気感というのが、実はけっこう大切ではないか」 ―しりあがり寿それと、話しは、月と土星くらいかけ離れるが、先日、大学の頃の友人が、自称「地の果て」から、東京にやってきた、しりあがりまんがの登場人物のようなシュールなトーンを持つ、井戸彦は、東京を散歩するのが趣味の、地方人になっている。酒でも、飲もうと、上野は、御徒町を散策するのだが、天候は折からの雨、人もまばらだ。混雑しているときは、歩けども、歩けども、一向に、終わりのない、安物天国の街も、あっというまに、歩き切ってしまう。しかも、3回も、4回も、歩いてしまった。おそらく、二人とも、腹が減っていなかったのだ。ようやく、雨で体力を奪われ、腹も空いてきて、街の居酒屋に、昼と夕方のあいだくらいに、入ると、出てくるサラ、出てくるサラ、全て、彼は、名前や由来を言い当てるのだった。なぜなら、彼が、扱っている商品が、巡り巡って、全国の居酒屋などに、ばら撒かれているから。「地の果て」は、焼き物の名産地で、電化製品のアキハバラのように、焼き物の工場が集中しているそうだ。「おお!」と、いちいち、歓喜する井戸彦氏から、地の果てと、地の果てが繋がる、時空のねじれ、というか、「地の果て」の山郷と、オカチをカチあるいたあとの居酒屋を繋ぐ、流通を、まじかに感じた。流通は、時空のねじれでも、なんでもないが、井戸彦氏の反応を見るたびに、それは、不思議なことであってもいい気がしてくるのだった。「結局のところマンガ家に必要なのは、 馬が走るように、犬が吠えるように、人が祈るように、 ひとコマひとコマ、1ページ1ページ、 まるで息をするようにマンガを描き続けること。 ただ、それだけかもしれません」 ―しりあがり寿ただ、狂ったまんがをかいてるだけの人じゃなかったんだ、と、あらためて、心動かされた。マーケティング的な分析を、前半でしっかり、こなしながらも、最後は、全てに通じる、核心をついてきた。それと、話しは、月と土星くらいかけ離れるが、結局、居酒屋を二軒ハシゴし、最後に、地下の珈琲屋で、剥き出しの配管が白く塗られた天井を見上げながら、珈琲を飲んでいると、配管に混じって、銀色のマグロが、群れをなして、延々と、通過していくのだった。
May 14, 2008
「人間は常識外れのことさえ、 あっという間に受け入れてしまうものなのだ」 リチャード・マシスンゾンビが常識になったときの、主人公ネビルのコトバ吸血鬼≒ゾンビが、リアルになってしまった世界を、皮膚感覚、生活感覚全開に描くゾンビ文学の金字塔小説の設定は、ブットンダ大嘘でしかないが、あまりにも、リアルに描かれると、その小説世界に引きずり込まれ、「常識外れのことさえ、あっという間に受け入れてしまう」だからといって、夜、コンビニに行くとき、ゴミ箱漁ってる、おばさんや、おじさんがいるなぁと思いきや、実は、ゾンビだった、などということを、夢想して、恐怖に駆られたわけではない。読んでいるうちに、いつの間にか、その小説内ゾンビ世界に、リアリティを感じてしまっていたことに気づかされ、そのことに、驚かされたここに、「リアル」が発生する源の鍵がありそう主人公は、ゾンビ世界を成立させるためのゾンビルールに従って生きているたとえば、日没までに家に帰らないと、ゾンビがやってくる流通が断絶し、死んだ街に商品は、豊富に残留している主人公はひとりで、ロビンソン・クルーソー状態で、暮らしているそんな環境に、生身の人間の欲求を、包み隠さず、小指の痛みに関してまで、生理的かつ、論理的に語ってくれるすると、読み手の頭には、リアルが伝わってくるということは、リアルを成立させる元は、「従わざるをえないルールの設定」ということが、一端をになっているのかもしれない
May 13, 2008
そんなお店に行ってきたしかし、そこでは、展示が行われていた、風景が縦感覚で、整然と断片化され、視界が伸ばされる写真区画巨大なフォークが、微分化された宇宙図旅の紙袋に隠された、謎のデザインメッセージ人物の輪郭が、滑らかな空間に、発色する瞬間スケッチ群香草がたっぷり盛られて、緑で肉な料理鳥が鳴く、移民系な音楽ライブしかも、禁煙だからこそ、まったり空気が澄んでいる日本人だけど、国籍を越境した人々わたしは、汗だくになりながら、もさもさ、食べ続けた
May 12, 2008
ある日、いちにちで、売れたポストカードが、3枚だった、ポストカードだから、やはり、コマワリなしの一枚ものが、よいらしいただし、コママンガも一枚出た、色合いが、よかったとのことだったらしいその一枚は、自販機GALという名で、わたしの周りからは、なんか怖いとゆうことで、評判が芳しくなかったのだが、もしかして、この怖さも、よかったりして…などと、勝手に勇気を得てしまったのだが、そもそも、出た数が少ないだけに、何の分析もならないが…そんな折、ブックオフヘ行ったら、しりあがり寿の「マンガ入門」という本があり、思わず、買ってしまったのだが、5ページ読んで、なんか、知ってるなぁと思ったら、3、4年前に、読んだことのある本だったしかし、わたしは、別段、まんがを描きたいわけでなく、そもそもが、まんがになっているわけでもなく、なんらかの伝わる表現物を、構築したいだけなのだったその「伝わる」が曲者なのだが、そういえば、この本には、この「伝わる」が、しりあがり寿さんの平易かつ、宙返りな文章で綴られており、読んでると、ぴくぴく心臓が震える箇所があるのでした
May 10, 2008
ヒキダシ氏が 2時に上野だとのことで いくとめずらしく 早くついたていたヒキダシ氏から電話があり「ここはどこだ!」と叫んでいる上野は意外と複雑だなんとか合流し昼間から酒を飲む予定だったのだが急遽予定が変更され薬師寺の2大仏を見てきた大量の人間が 若い人まで見にきているので 驚いた国宝とはいえなにゆえ ゴールデンウィークを使って仏像などという辛気くさいものを見にくるのだろうかしかし 実物を見るとその意味がわかった身の丈4mほどの巨大な金属が黒々と輝いている今にも動きだしそうだ1200年前とは思えない精巧なつくりでいや昔だからこそ 逆に精巧なのか薬師寺の大将を残して2TOPが東京に降臨していたこのとき わたしは ガンダムを理解したこのとき わたしは ウルトラマンを理解したガンダムもウルトラマンもいずれの巨大駆動物体も仏像が源流にあったことを…うしろのほうから 若い女性から仏像に向けて「素敵」と声がこぼれる21世紀初頭 極東アジア日本において果たして 仏像が 素敵であってよいのだろうか「なんだ、ありゃ!?」ヒキダシ氏が声を荒げる仏像が 指で丸を作っている「全てはALL OKってことか!善悪無差別テロでALL OKってことか!」と危険なことを口走っているホトケの世界観は でかい…でかすぎる見物している人間たちとの対比でその重量感は 否応にも増す二体のホトケは 中肉中背で過敏に動ける中年オヤジのようだ「こいつら いいもんくってますね」いきなり動き出して 殴られたたら人間の顔面など粉砕されること この上ないそんな危ないホトケじゃないと思うけど続いて 玄奘の木造リアルな日本人顔が時間で煤けて 希薄になっているが手には Vサイン今では はずかしいこのポーズも1200年前から 先取りしていたことを考えると早すぎる 新しすぎる「なんでピースしてんだよ!」どう考えても カメラ目線な三蔵法師像に向かってヒキダシ氏が叫ぶこの展示会のテーマは「全てはALL OK!で VICTORY!」80年代後半 ジャンキーバイオレントロッカーとして生きたヒキダシ氏は 人生の引っ掛かりをこの展示によって 全て許されたらしい「おれは 間違ってなかった」そういうことでいいのだと思うその後 上野と 御徒町の間の路上中華店で飲んだ頭上には 轟音で JRが通り過ぎていく話す声も 時折 轟音に紛れて聞こえない「ここはどこだ!」ヒキダシ氏が叫ぶ「御徒町です」酒が入ると 短期記憶に支障が出て時には 80年代と接続してしまうらしいしかし 彼は過去には生きていない雑多な人ごみの中二線のレールの下昼からビールをたしなんでみた
May 6, 2008
休みの日なのに めずらしく 早く目が覚めた夢もみたフィンランドの天然風呂に入る夢だその天然風呂は ぬるい泥水で 緑がかっている周りは極寒なのに 極寒だからこそ ぬるくてもあたたまるという思想らしいやぐらが 地中に向けて 張られておりアスレチックの遊具のような階段で泥湯へと至る材木で組まれた階段をぎしぎし鳴らして泥湯につかると最初感じた気持ち悪さや寒さで逆に凍え死ぬ怖さがどこかへ飛んでいきわりと心地が良い東京の都内 飯田橋あたりを流れる神田川のような色なので正直入るのが嫌だったのだ材木は 荒く組まれており ところどころひかりが差し込んでくる泥湯は 茶と緑が入り混じった複雑な光で底を照らす深さは80cmくらいだ腹が減って 目を醒ますと そんな変な 温泉いくらフィンランドだからってあるわけないよなとおもい 携帯のネットで 寝床で調べたらやはり そんなものはなかったフィンランドに温泉はあったがそんな怪しいものではなかっただからなんなのかというと なんでもないのだがなんでもないというのはなんらかの すでにある物語の枠に準拠しているわけではない ということでお話以前のお話だ ということになるしかし わたしは いまおはなし以前の おはなしに興味がある『象との接続』半年前くらい やたらと 象の中に 皮膚を抜きにしてむき出しの内臓のまま 取り込まれている「おれ」という意識を 書いていたことがあった身体の中に 根付いていた なんらかの感覚が象の内側と人間の混色風景をひり出し続けていたしかし 唐突に接続は 解除されたある程度 筋が見えて その筋に沿って論理的なるものに 囚われて 感覚が消えたからか仕事が忙しくなったからか 酒の量を減らしたからかある意味 健康だったからか別の意味 不健康だったからか理由なんてないのだがなんらかの 感覚が 流れたことは確かできっと飽きたのだろう身体性が 疲弊していたのかもしれないクラッチが入らない「標準物語や理想物語の呪縛から離れて自分の物語をつくる」そんな言葉を立ち読みしていたら拾ってしまったのだが最初に おままごとありきな子供の泥遊び的感覚も大切だろうその泥遊びの中から なんらかのものに接続された光る筋が見えたりまた見えなかったりするのだろうけどその道筋が目的なることよりもぐちゃぐちゃとこねまわす試行錯誤の感触を感じつづけることが 空気の循環を良くしていく感じがするきっと その フリーハンドな手仕事感覚をうしなってはいけないのだ
May 6, 2008
まえのいえで とってたびでおてーぷをようふくだんすのすみから ひっぱりだしてさいせいしたら いえになついてた ねこのどうががあっただからどうしたわたしはへんしゅうしようとおもいこじんものとしてはひさしぶりにきゃぷちゃーしてみたねこが えさをくいれるのかとおもってかれんずに ちかいづいてくるえさをくれるわけではないことをびんかんにさっした ねこがあきて へいのうえに じゃんぷするなおも おうと うじゃいのよというかんじで れんずにむかってねこぱんちをくりひろげるそれでも おうとへいのうえをはしりだしへいのきれめで じゃんぷするもちゃくちで ばらんすをくずしていたのかにさんぽいくと へいからずりおちるいや すぐにたいせいをたてなおしこけただけですまして そのまま へいのうえをはしるへいのはじっこで とほうにくれたねこにかめらをちかづけると おとなしくしているえんんけいまえのいえの きんりんふうけいにねこがへいのうえで たたずんでいるあっぷするとかぶきのかおに ぼうはんのひょうごがかかれたぽすたーがへいにはられてねこが ここはどこ わたしはだれみたいなかおでしゅういをみわたしているざっと そざいをかくにんしてちょっときったらあふろざむらいを みはじめてちゅうだんしてしまったえこねこまんがをそのままびでおでとってあいまに りあるねこえいぞうを いれようかとおもったひさしぶりに ぶろぐにじをうちこんでいるときせんたくものをかわすため へやのまどをぜんかいにしていたらあめのためか ごがつなのにさむくてからだがひえこんでしまいきづくと からだが とうみんじょうたいになっていたからだが あまりうごこうとしないせかいがとおくかんじられるさっきまで あんなに ちょうしがよかったのにむらかみはるきの しょうせつばりにわたしは いかいへと いそうがずれてしまったのだろうかそんなはずもなくいちじかん ねころがったらすぐになおったこれからの せいかつではおてせいに すこしずつこだわってみようとおもう
May 5, 2008
ある きょだいひろばで なぐりがきまんがの ぽすとかーどを うってみたさいしょの ひは ぜろまいだったがこんかいは けい4まい 3にんのかたにかっていただけたしかも じぶんでは いちまいもうっていないるすのときに あいぼうやとなりの おにいさんにうってもらえたのだもしかして はなれてたほうがいいのかいや しかし それは おむしの よろしすぎることはなはだしすぎるので じぶんなりにも どりょくしてみようと おもうのでしたおきゃくさまの めが さくひんに とまっているのは5びょうくらいふと あしを とめてくださるかたもよほどのことが ないかぎり5びょうから 8びょうたいくうじかんを のばすにはなんらかの ひっかかりやこみゅにけーしょんが ひつようになるあいぼうのさくひんにはかっぷるや こどもがくぎづけになること おびただしくわーるどの つよさをかんじぼくも じぶんのせかいに もぐってさくひんを つくらねばと はんせいしたのだったそれでも おうじょうぎわの わるいわたしはなんとか ひとの めを とめようと はりがみをしまくるそれが 『あいと ちきうの えこまんが』 であり『えこえこ あざらし』 であり『ちきうに やさしい えこまんが』であり『うりあげの いちぶは ぢめんに かんげされます』であり『ちきうに きびしい えこまんが』であったのだがしゃりんのついた ばっくをたててそこに はりがみをしていけばいくほど なぜかふろうどが ましていくなにやら きたならしいこれでいいのか じぶんだけどいいのだ じぶんと じぶんとの もんどうをくりかえしながらえこまんがでーす などとおじさんや おばさんや かっぷるにいってみたがあいぼうが かたるには いいかたが こわくて きもかったそうだおじさんに えこが てーまですかと きかれ はい えころじーと おんみょうごぎょうを てーまにせいさくしております とこたえたがやはり それは そのばの いいのがれでそもそも わたしは えころじーしそうがきらいなのに なにをおもって えこまんがなどと そのばで なづけるのかどちらかというと えごを こうていしたうえでの えころじーだろう しかも その えころじーは なんらかの かいてんや るてんまわっていることを とらえるてんについてだけを とりだした ほねぬきの いや ほねだけの えころじーでありわたしは かんきょうも ちきうも べつだん きにしていないたんなる やさしさや あいだけでない えごも ふくめたうえでのかんきょうや ちきうや せかいとの かんけいつまり しゃーまにずむのば としての じんかくてきな ば くうかんとのかかわり ということにきょうみがあるえこは えごと そうごりかいしたときにのみりある たりうるそんな おもいに つきあたってきょだいひろばでの まんがうりから えたことはぼうっと するうちに だんだん あがきがじょうかされてゆき ばしょのなかにとうめいに とりこまれてゆく かんかくそして しゅつりょくされた じぶんのさくひんとこぴーをつなぐ くうてんしたかんじじぶんと がいかいが だっきゅうしたかんじきっと たがやすべきは じぶんのこころの かく となるものとつながること そのつうろ だろうという あたりまえだけどながれのなかで ながれていると わすれてしまう だいじなことはちわんだいばー のようにじぶんのなかに もぐる しゅんかんをもつそんなことが だいじなきがした
May 5, 2008
ブログを放置していたら、エロサイトからのコメントとトラックバックが、60件くらい入っており、壮観だった。まるで雑草に覆われているようだ。雑草が、それでも美しすぎる言い方なら、湾の岸辺に淀んで浮いているゴミたち。漂流物。そいうのが絡まるということは、いわば、放置ブログというものは、波間に漂うブイなのだろう。古川日出男『ゴッド★スター』には、港湾に住まうジプシーたちが、バーベキューをして暮らしている傍らで、江戸前の魚たちも焼いて食べている。つまり、江戸前の魚たちが、何かを濃縮しつつも、棲息している。巡回機械という名の魚たちかもしれないが、情報が泳いでいる。たまに、ブログを書いてみるのもいいのかもしれない。
April 12, 2008
http://hikiko-san.cocolog-nifty.com/blog/
April 12, 2008
ひさびさの休みに、近所のまっくで、本を読んでいたら、おとうさん、おかあさん、むすめが、むすめのことで、もりあがっていた。最初は、土地が変わると、街の客層も、FAMILYになるんだな、なんだか、平和だ、とか、思ってたけど、何やら、中学生初学年のむすめに、どんな彼氏が最適かを、おかあさんが、積極的にリードしながら、家族談義をしている。先輩か、同学年か、年下か。むすめは、このあいだ、出くわしたハーフが、いけめんだったとか、語っている。聴こえてくる声は、小学生に近い。現在、私が、読んでいるのは、『下流少年サクタロウ』数ページしか読んでないが、まっすぐに歩けない小学生が多数いたり、地域がスラム化の一歩手前だったり、学級崩壊が普通だったり、教師も衆人環視の中、教壇で引きこもっていたり、キャバクラ嬢化した女子小学生がいたり、現代の教育環境を徹底的にデフォルメしてるっぽいが、そこが案外リアル。そして、わたしのいる、まっくでは、おとうさんは、なんとか、話題に参加しているものの、近いうち、はは=むすめラインに、話題のセンターラインを、ぶち割られるであろうことは、必死。前の地域は、水商売最近系から、うらぶれ系までが、集積していた感があっって、近くで、展開される、話題が、ときたま、AMらじおてきな、求心力をかんじたものの、現在の、へいわな地域で、今日、きづいたのは、現代のFAMILYは、過激な気がする、ということだった。さいしょ、ふりむいた、おとうさんの、ようぼうからして、こりあんかんこうぐるーぷかと、おもいきや、ふつうの、どちゃくみんだった。そして、わたしが、がきだったころの、せいにたいするレンジが、圧倒的な、変遷をうけている。わたしの、かんかくからすると、その、おとうさんのいる、わだいちいきは、F1レース的な速度で、いまにも、ふりおとされそうな、ちかすいみゃくが、ごうごうとながれていたのだが、現段階では、おとうさんにも、参政権が認められていた。おとうさんには、なんとか、はは=むすめらいんへの、こみゅにけーしょん線を、たもっていってもらいたいものである。
March 23, 2008
あたしのお尻の穴から、魚が出はじめて、数ヶ月が経つ。都心の大学に進学した、あたしのアパートは、ターミナル駅から電車で10分の、都会でもなく、田舎でもない、変哲のない住宅地にあった。今時、めずらしい非水洗便所。だけど、汲み取りっていうわけじゃない。風呂なし、便所付き、4畳半の古びた部屋の、小さな玄関の脇についた落下式便所。小や大にかかわらず、排出された便は、下水溝へと直に落ちていく。地下の河の真上に板を渡して、用事を済ませている感じだ。こんな怖ろしい部屋に、棲むことを決めたのは、もちろん家賃が安かったからだ。交通の便が悪いわけでもなく、一ヶ月、8千円は、今時ない。最初のうちは、便所なんて、近くのコンビニや、大学で済ませてしまえばいいやと、高をくくっていた。だけど、この世でもっともなくてはならいもの、それは、便所だった。ご飯は、どんなに、お腹が空いても、なければないで、数時間から数日、餓死しないかぎりは、我慢というか、なしでも致し方ない状況を受け入れ可能になる。それに比べて、おなかに抱えた爆弾は、一刻の猶予もない。ある日、大学での飲み会から帰ると、突如、訪れた便意に、あたしは負けてしまった。便所の穴から、ざざざと、地下河川の流れる音に、気をとられることもなく、瞬時に、あたしは、発射していた。ぴちゃん。あたしの便が、河の濁流に呑まれる。ばしゃばしゃ。あたしの背筋が凍る。地下河川で何かが跳ねている。水飛沫を上げて、エサの替わりに、あたしの便を食べている。暗闇の底に目を凝らすと、遥か彼方に、水面が光を反射している。便所の裸電球が映りこんでいるのかしれない。きっと、魚が食べてるんだ。しかも、群れで。お尻の穴に、冷たい風が吹き抜けたようで、めまいがし、あたしは、すぐに出て、布団をかぶって寝た。早く、あの部屋を出よう。あたしは、大学の講義中も、気がそぞろで、バイトのことを考えた。あたしの家は、サルが棲息する北限の地で、小さな寺を営んでおり、卒業したら、親の決めた許婚と、跡を継ぐことになっている。その人もまだ学生で、あたしと同い年だ。西の方で、本場の伝統を学んでくるらしい。だけど、あたしは、そんな古臭いものと、ガチで取り組む気は、毛頭ないので、宗教政治学という、ぽっと出の学問を学んでいた。正直、つまらない。反吐が出る。何かと、挿入される写真たちに、ハゲのオヤジが多いことが気が障る。そもそも、あたしは、ハゲが嫌いなのだ。そのハゲが、自然発生であろうと、人工であろうと、テカテカした余分な皮膚を、必要以上に人前に晒すのは、パンツが見えそうなミニスカートをはくくらい、ふしだらなことだと思う。家の職業柄、ハゲに囲まれることが多かった、あたしは、中学生のときに、拒食症になり、リストカッターになったのだが、裏山で、野生サルに噛まれて、病院に入院し、ワクチンを打たれてからは、ハゲを見ても、大丈夫になった。だけど、ハゲが嫌いなことには変わりがない。だから、教授陣に、自然ハゲや、人工ハゲの多い、あたしの大学が、あたしは、大嫌いだった。そんな、あたしの取り得は、目の前に、与えられたことを、まずはこなす、真面目な性格だけだったので、あたしは、あたしから、未だに逃げられず、ハゲの棲息圏内から、逃げ出すことができない。そして、幼馴染の許婚も、職業上の理由から、若いうちから、制度的に、人工ハゲを強制されるのだろう。講義が終わり、街を歩いていると、街角の壁面に設置された巨大スクリーンで、ボクシングが中継されていた。信号が赤なので、何気なく目をやっていたら、世界ヘビー級チャンピオンと、イスラム原理主義者の少年が、異種格闘技戦を行っていた。テレビを部屋に置いていないあたしは、ここまで、世界が狂っていることを初めて知らされた。順番に名前をコールされて、ゴングが鳴る。分厚い筋肉に包まれた黒人チャンピオンの目には、不気味な微笑が浮かんでいる。対する少年は、全身を布で覆われ、目だけが露出している。微動だにしない真剣な視線が、何かを思いつめているようだ。これでは、大人と子供の闘いじゃないか。何なんなのよ、このエキジビションは。不穏なカードに、世の注目も集まっていたらしく、信号が青に変わっても、横断歩道を渡らずに、街頭TVを眺めている歩行者も多い。黒人チャンピオンが、シャドーボクシングのように、少年の頭上で、拳を振っている。表情は、ニヤついていた。イスラム少年が、チャンピオンの腰に、転んだように、抱きつくと、二人は爆発した。リング上は、爆音と白煙に混じった赤い色に包まれ、肉片が、飛散していた。大混乱が伝わってくる。画像をのいずが走る。頭の中に空白できて、周りでどよめく群集を掻き分けて、あたしは、駅に向かった。その日は、何の食欲もなかったけど、夜中にお腹が空いて、買出しに出るのも面倒なので、家の近くのラーメン屋で、餃子定食を食べた。その夜からだ。あたしのお尻から、魚が出はじめたのは。便器をまたいで、お尻の異変に気づく。お尻を覗き込むと、サバが銀色の顔を出して、元気に跳ねている。目は、きれいな黒で、表情は読み取れない。力むと、つるりと滑って、銀色の魚は、地下河川へと落ちて行った。講義をズル休みして、バイトの面接を受けてきた帰り道、いつもの商店街が露天で賑わっている。駅の南側に面した台形の区画は、飲み屋をはじめとする飲食店が軒を連ね、普段も、人通りは少ないわけでもないが、多いわけでもなかった。それなのに、どこから人が湧いてきたのか、首を傾げたくなるくらいの人込みなのだ。店の前にも所狭しと、永遠に続くかと思われる、屋台群が、小路に沿って縦横無尽にひしめきあう。あたしは、鯛焼きと大判焼きをかじりながら、夜店を眺めて廻った。途中、生ビールも購入して、プラスティック容器から、ガブ飲みしながらの女のひとり歩きになった。雨が降ってきた。しかし、人の流れは、絶えず、ビルの軒下で、雨宿りをはじめるカップルや、家族連れ、高校生から小学生、ジャンパー姿の地元のおじさん、種々雑多な、この国の人たちが、ジョーロで、蟻の巣を洪水にした時みたいに、うごめいている。空はすでに闇で、水滴を通して、屋台たちのオレンジ色の光が、乱反射しながら、浮き上がっている。この祭りの中心となっているらしい、小さな神社の脇の小道を歩いていくと、そこだけ、人だかりのない、トタン板でできた屋台があった。薄汚いがアジアンなムードも漂う、あやしい店構えが、頭上にも続く、小さな立体神社の、赤い鳥居の乱立と、絶妙な匙加減で混じりあい、心惹かれて、扉をくぐって、中を覗いてみた。『腑祓い』と毛筆で書かれた、古びた板が置いてあり、その下に貼られた白い紙切れに、「1回500円」と殴り書きされている。奥には、ひしゃげた顔の、しかし、上品な感じのする、インド的衣装に身を包んだおばさんが座っている。あたしが、その立て札をまじまじと眺めていると、小さい紙切れに書かれた説明書きを見せてくれた。「腑についた不を祓うおまじない」どうやら、この土地に昔から伝わる民間伝承らしい。しかし、大学の講義ではそんなこと聞いたこともない。あたしの実家の寺でも、仏教のくせに、あやしい土俗信仰が混入し、昔から伝わるトランス系の巫女のような人たちを、お祭りのときは、バイトで雇っていた。あたしは、そういう精神の隙間のようなものが、あまり好きでなく、なるべく、膜を張るようにしていたのだが、なんといったて、最近、あたしは、お尻から、魚を出しているのだ。何か土地の磁場と、あたしの磁場が不釣合いなことになって、魚を産んでいるのかもしれない。禅寺の娘が、ずいぶんと弱気になったものだ。銀色の魚が、肛門から顔を出して、ぴちぴちと跳ねる感触を思い出して、息が止まり、あたしは、おばさんに一回、お願いしてみることにした。500円玉を、おばさんに渡すと、あたしは、狭い屋台の裏にある小さな扉から、木造アパートの一室に通された。おばさんが先導してくれた部屋の中は祠のように、岩が伝える冷気が満ちている。エアコンで冷やしているのだろう。自家製の祠を取り囲むようにロウソクが置いてあり、窓のあるべき場所に、観音扉の祭壇があった。おばさんが、その扉をあけると、灰色の粘土のような壁が盛り上がっている。おばさんが、頭を下げて、手を合わせながら、あたしには聞き取れない言葉で、何やら、ブツブツと呟き、あたしに、その壁を触るように促した。得たいの知れない壁。埃で手が汚れたりしなだろうかと、心配しながら、おそるおそる手で触れてみた。ひんやりと冷たいのだが、その奥には、体温が潜んでいると感じられる。微かに鼓動が伝わってくる気がする。気持ち悪くて、反射的に手を離そうとしたのに、焼けた鉄に肉が張り付いてしまったかのように、手が離れない。指の先から、別の視覚が流入してくる。ここよりも小さな、古ぼけた木造アパートの一室。あたしの部屋に、似てるが違う。蛇のような肉製の棒が、あたしの前方に伸びると、その棒が水を汲んだガラスコップを顔の前に持ってきて、ゴクゴクと飲み干した。あたしは見逃さなかった。ガラスコップには、象の顔が映っていた。
November 11, 2007
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