ダイアモンド・ダスト

ダイアモンド・ダスト

Jun 21, 2015
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ポリシーのためには死ねる覚悟-1


昨年、精神的にとても苦しいことが延々と続いていた中で
ひとつの希望ともいえる出来事が発生した。

が、喜びも束の間、
その希望を他者のために諦めなくてはならない事象を告げられ
『それまで続いていた苦しみから解放される喜びや、
解放後に訪れるであろう明るい未来』と
『「自分が苦しみから解放されたいがために、
苦しんでいる他者を見捨てる冷酷さ」を

希望を手に入れることを断念し
他者に希望の光を譲ることを選択した。

一度は、別の人にお願いしてもらいたいと
お断りしたのだけど
私でなければ出来ないという事象だったから
理性と本能の葛藤の末
理性を選択したわけだが、

それが、その後半年もの間
自分に「絶望」という大きなお土産を置いていくことになろうとは
そのとき思いもしなかった。


それだけ、その当時の私には苦しみが大きく

未来の扉を開く鍵のように
魂の奥に射す一筋の光だったのだと思う。

一度はそれを断ったくらいだから
他者に融通したといっても
不本意であったのは言うまでも無い。



理性の判断に従い
自分の楽より
他人の不幸回避を選択した結果
延々と続く果てしない苦しみに悩まされていた。

そんな中で見つけた
たった一つの希望を
他人に譲るのは
最初の苦しみを招いたときの判断よりも
もっと苦渋の選択だったといえるだろう。

だからこそやってきた
絶大なる絶望感。

「消えて無くなりたい病」は
それから半年の間、
事あるごとに襲ってきた。


「やりたいこと」より「やるべきこと」を選択すべきという
子供のころより漠然と抱えていたポリシー。

それは「好き・嫌い」の感情や
「やりたいこと・やりたくないこと」で選択する周りの大人たちを見ている中で
物心付いた就学年齢時には
すでにそうした思考を嫌悪していた自分が居た。

だから、やるべきことよりやりたいことを優先する大人に対し
冷ややかな目でものを見る「可愛げのない子供」だった私に
周りの大人は
「理屈っぽい」「強情っぱり」という評価を下し
姉妹中で一番幼いながら、
私は周りからどこかで一線遠ざけられていた。

遠ざけられていただけでなく、
本能優先で行動する周りの大人に対し
嫌悪感を持っていたから
自分が周りを遠ざけていた部分もあったのかもしれないと
今振り返り思ったりもする。

昨年末、やっとそこから抜け出すことが出来たのには
「一つの悟り」と
悟りが降りてくるための
「大いなる助け」があったからだ。



「消えて無くなりたい」と思うときというのは
自分の中で処理しきれない苦しみが訪れたときに湧き上がる。

それは自分を消滅したいというよりも
それ以上の重圧に耐えられないための
自分を守るすべとして湧き上がってくる
自己保存の思いだと思う。


次から次へとやってくる苦しみの元は
「消えて無くなりたい」という負の念であり
それがある限り苦しみをエンドレスに引き寄せるのだと言うが
それでは、やるべきことよりやりたいことを優先すべきだったということなのだろうか?


自分の楽のために
他者の苦を見捨てて良いという事なのだろうか?


どこかでやれば出来る可能性が見えているのに
やらないという選択をするのが嫌なのだと思う。

最初から自分には無理、という内容であれば
何も葛藤することも無く断るのだと思う。
あえてそれを選ばなかったとしても
自分なりの納得が出来るのだと思う。

しかし、やれる可能性が見え隠れしているからこそ
そこで葛藤が生じるのだと思う。

だから葛藤するのは
相手のためを思って。。。というのではなく
自分がそれをやらなかったことへの嫌悪感を
どう処理するかという問題によるのだと思う。


しかし、やることを選択した後
半年もの間絶望感にさいなまれるというのは
やりたくなかった気持ちを押しやって
ポリシーを優先した際に

「覚悟」を決めていないまま結論を出したからだ!と思う。

覚悟を決める時間的猶予を与えられず
回答を急かされた中で結論を出したという自分の落ち度が
後々まで尾を引いたのだ。


しかし、では、結論を出すにあたり
時間的猶予が与えられていたとしたら
どうなっただろうか?と振り返ると
結局は、与えられた時間いっぱい
堂々巡りを繰り返していたに過ぎなかろうと
どちらの答えも同じだけの重さであることは
解りやすい。


重みが違ったなら
葛藤など生じなかったはずなのだから。。。

これらを総合的に考えれば
時間が無かろうが
時間的猶予が与えられていようが
葛藤が生じることというのは
同じ重みの内容だということ、
だから、葛藤の末どちらに転ぼうが
結局は選択しなかったほうについて
あれこれ後になって悔やむことになるのは
必至であるということが解る。


ならば、選ばなかったほうを未練がましく考えないことが
自分を苦しめないことにつながり
今後の選択時には、
時間的猶予が無い選択であっても
結果に対し、後悔しないことを自分に約束することが重要なのだと学んだ。




ただ、
他者の幸福を優先すべくポリシーを選択するよりも
感覚という漠然としたものや
好き嫌いと言った「自我」を優先する選び方でよいのか?
というのが疑問だったりした。

直感で選びなさいと言われることが多くなった最近思うことに
直感というのは
自分の経験や
もてる情報の総合的判断という風に考えていた
これまで抱いていた自分の認識は誤りで
自分の潜在意識や目に見えないものたちが
より良い人生を送れるようにとの配慮の元で
顕在意識に働きかけてくれているということなのだと解り
「自我」と思って否定してきたものというのが
実は「大我」であったと解ってきた。






























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Last updated  Jun 21, 2015 08:10:28 AM
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