メキシカン・アメリカンな暮らし

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愚痴歓迎




『愚痴言ってごめんね。』という言葉を日本に居る友人達や母とのメールの遣り取りの中で聞いたりするのだが、アメリカに来てから余り聞いたことがない所為だろうか、妙に新鮮な印象を受ける。

愚痴を聞いただけなのに謝られると、聞くことしか出来ない私はついつい恐縮してしまうのだが、同時に愚痴はそんなに悪いものだったのかと考える機会をもらったような気がする。
勿論、日本の「謝る文化」を批判・否定している訳ではない。


愚痴について少し友人(Kちゃん)と話するきっかけがあったのだが、『口にしたら駄目なんだという絶対的な思い込みがあったのだけれど、理由を考えてみると、小さい頃に道徳として教えられた「人の悪口は言ってはいけません」
という教え以外に無い気もする。』
というkちゃんの言葉を聞いて、それもそうだと納得した。

そもそも愚痴の語源は仏教用語で、『愚かに思い迷うこと(引用*)』なのだそうだが、意味が少しずつ変化し、今では『言ってもしかたがないことを言って嘆くこと(「大辞林 第二版」より)』という意味があるのだそうだ。

また、愚痴はお釈迦様が説かれた三毒煩悩の一つに含まれているらしく、貪欲と瞋恚(しんい:怒り・憎しみ・怨みなどの憎悪の感情。~「大辞林 第二版」より)と共に名を連ねているくらいだから、相当悪いものなのだろう。

何だか愚痴をこぼす私が卑しくとても罪深く感じてしまうのだが、私が愛読している『常識として知っておきたい日本語』の中で、柴田武 氏はこう書いている、、。

『仏教では愚痴を三毒煩悩の一つに数えているくらいだから、かえって人間的ともいえる。』

この文を読んで私なりに、人間的でいいのだ、愚痴をこぼしてもいいのだと
勝手ながら解釈させて頂いたが、愚痴を吐ける環境があるということや誰かに愚痴を聞いてもらえるということは、私にとっては有難いことそのものである。

確かに、愚痴をいうということは言ってもしかたがないことを言って
嘆いているだけなのかもしれない。
けれど、愚かに思い迷うことって誰にだってあるものだ。
お姑ごんのことをとやかく言う私も、実は色々思い迷っている。

誰かに対する不満や不平を直接本人に言って円満に解決出来るのならいいが、
そういう時って意外と少ないものだし、かといって、自分の中に我慢を溜め込むのはかなりのストレスになる。

愚痴を言っても何事も解決しないだろうが、思っていることをどこかで口に出すことで鮮明に見えてくるものもあるし、それよりも何よりも、誰かが聞いてくれるという安心感は特に迷いがある時には救いにさえなるのだ。

私が思うに、誰かの愚痴をいう行為は、『無理かもしれないけど、この人との関係を修復出来たら、、、。』、『この人との関係はこれからも続いていくから、いい関係を作り上げていきたい。』などという思いがまだあるからこそ
出来ることではないかと思ったりする。

どうでもいい問題や、どうでもいい人のことに関してなら、きっと無視するだろうし、本当にどうでも良くなったらそんなに気にならず愚痴さえ出てこないのではないだろうか。
そういう意味でも、愚痴は心のSOSだと思うし、それが完全に悪いものだとは私には思えないのである。


私の場合、愚痴の聞き手はお釈迦様やキリスト様ではなく、このHPでお姑ごんシリーズを読んで下さる方々や、家族そして友人達で、この上なく最高の聞き役となってくれているのはとても有難い。

そんな方々に『愚痴言ってごめんなさい』を少しと、『愚痴を聞いてくれて、
そして人間・お嫁1号を受け止めてくれて有難う』と言いたい。


、、、追伸:愚痴大歓迎。





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