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ケリー・チャンさんは香港の女優さんである。「世界の涯てに」とか、「アンナ・マデリーナ」など、金城武さんとの競演が多い。化粧品のCMでも痛快な印象を残し、神戸で学生時代と送っていたりして、日本にもなじみが深い。ただまあ、「鬼の住処」とかいうドラマに出演していたが、発言を控えさせていただく。抜群のスタイルに、大陸系の涼やかな目。一時期、めちゃくちゃ好きだった。5~6年前だったと思う。何しろ、東欧を大学卒業一人旅をしていると、かなりの高い割合でケリー・チャンさん好きの男に遭遇したのだ。つまり、当時の洋画が好きな若者(旅行者は映画好きが多い)のココロを掴んで離さなかったのだ。すました顔はツンケンとしていてめっちゃワガママそうだ。一方、たまの崩れた笑顔の隙間の瞬間も大人のカワイゲがあって美しかった。いわば、現在の売れっ子、チャン・ツィイーさんとは逆の魅力といっていいだろう。忘れられないシーンがある。「アンナ・マデリーナ」での金城武さんとのキスシーンだ。緑の田んぼの真ん中におんぼろバスが止まっている。風が吹いて、稲が波打つように葉裏をのぞかせる。バス屋根の座り込む金城武とケリー・チャン。そこはかとなく、見つめあい何気なく、キスを交わす。カメラが引き、その風景とお話は終わる。本当に美しかった。ストーリーとかは捻りはあるけど、サスペンスの謎解きなど毛頭ない。ただ、このシーンだけのために、私は映画館に4回以上通った。インタビューで金城武さんがこのようなことを言っていた。「勿論、恋愛感情があるわけではない。でも、そこには役者のある本当の感情の流れがあった」納得できる。あのキスシーンの2人の目は形はワイルドであっても、かもしだしていたのは僕らのノスタルジーに触れる、ナイーブさだ。なんでも、9月に、「アンナ・マデリーナ」のDVDが廉価版で発売されるとのこと。私は、即、購入する。ただ、しばらく私が「ケリー・チャンっていいよね」と言うと怪訝な顔をされたものだ。姉も怪訝な顔をしていた。問いただしてみると「ケリー・チャン」が名前ではなく「ケリーという人にわざわざ、『ちゃん』をつけて」呼んでいると勘違いしていたようだ。それは、ちょっと、怪訝な顔をするかもしれないなぁ、ふむふむ。ちなみに、杏さゆりさんと違って、近くにそっくりな人がいたことは、ない。きっと、いても接点がないだけなんだろうけどねぇ…
2004年08月22日
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「だから、日本文学ってダメなんだよ」大学生だった僕はそんな風に吉行淳之介さんが芥川賞を受賞した「驟雨」(新潮文庫「原色の街・驟雨」に収録)を読んだ。それは、十年ほど前のことで、ともかく偉そうな年代だった。そもそも、何が日本文学か、何をもってしてダメというのかってわかってなかったのに。最近、フト、読み返した。びっくりした。こんなに面白い、というのか、ドキドキするなんて思わなかった。あらすじは、というと、ものすごく単純。山村英夫という主人公が娼婦の道子に通っているだけの話。通ってるだけじゃないな。店外デートもしてるわ(苦笑)。じゃあ、山村の心情の変化が込み入っていて流れがあるのかというと、そーでもない。これも、シンプル。「俺は道子をあくまで娼婦として気に入ってるだけだ」から始まって、「どうして他の客に嫉妬するのだ。愛してしまったのか、なんとも苦しい」に至るまでの話。なかなか、愛しているかもしれないって認めない男の心が逃げようとするからこそ絡め取られるサマの描写がすごく面白いんだろう。10年前は心情のフレが湿っぽかったし、同時に物語の展開の遅さが嫌だったのだろう。登場人物も少ないしさ。ヘーボンで、小さなこと書いて、小説家として問題意識がないって僕は指摘したんじゃないかな。ただね、ヨワイを重ねてきて思うんだ。こういう何気ないことを、ドキドキさせる領域まで掘り起こして書くほうが実は難しいんじゃないかって。だから、そーゆー小説のほうが、残っていくんじゃないか。普遍的っていうのかな。大体、街に生まれて、育つっていうのは平凡な道具立ての繰り返しの中で生き続ける、あるいは逃げ続けるってことじゃないかな。だって、街はお金があれば、逃げ場所なんてなんぼでもある。「驟雨」っていう優れた小説が僕に教えてくれるのは、ヨシユキさんの本質は、逃げられる場所としての街と、どーしても逃げられない人間が抱えているサガのズレなんじゃないかな。そしてね、娼婦っていうのは、街と人間のどっちも抱えているように思うんだ。うーん。ややこしくなっちゃったね。なんていうんだろう。娼婦を買うことってね、お金と、キモチと、道徳とが交じり合ったコミチを全速力で走ることじゃないのかな。そーゆー、三つがドロドロってしてるのを、無茶して冷静に捕らえようとして、最後は微妙に破綻して苦しむ、山村の姿って、なんかドキドキしたんだろう。ただ、もしかして、君はそんな山村を笑い飛ばしたかもしれない。でも、本当に笑い飛ばせるのかな。僕たちが、高度資本主義社会で生きているのって、お金と、キモチと、道徳にどう折り合いをつけていくかっていうのが大きい課題だよね。娼婦ってモチーフを通すと、その折り合いをつけてるフリをしている僕たちが浮かんできちゃうんじゃないかな。ただ、一つ僕は思う。ヨシユキさんの娼婦って美しくって、だけど、宿命に対して諦めてる。もし、2007年の日本で娼婦を、都市に生きる人として書くのなら、もっと、フツーのオンナノコとしてスパスパ書いたほうがいいんじゃないかって。娼婦を書いた作家はゴマンといるけど、あくまで、アウトサイダーとして書いているのが多い。だけど、僕は娼婦をアウトサイダーじゃなくって、この時代の、同じ場所に生きる友人として書けたら、なんか、イイモノが出来そうな気がするんだ。出来たとしても、この「驟雨」にかなうドキドキを書くの、難しいかもしれないけど、やってみる価値はある。※もっと、「なんだかなー」なら『目次・◎ものがたり』まで
2007年01月30日
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ノルウェイの森 勝手に配役も、今回で9回目。緑の父親です。登場シーンといえるシーンは一つしかなくって、病室です。講談社文庫 下巻だと65頁くらいから。すでに、脳腫瘍の末期で、台詞も「ああ」「うん」「キウリ」「ウマイ」「スコシ」「アタマ」「キップ」「ウエノ」「ミドリ」「タノム」しかない。そして、その横でワタナベは上手そうにキウリを食いながら、演劇の説明をしています。考えようによっちゃ、すげえシュールなシーンですよね。1週間後にミドリの父親は脳腫瘍でなくなっています。病室意外では、緑が昔の語っているとこでも登場するくらい。上野駅から福島のおばさんの実家に家出して、父が連れ帰るときに関東大震災に気がつかなかった話とかがあるくらい。「お父さんの思い出話ってみんなそんな風なの。全然ドラマティックじゃないのね。…ここ五十年か六十年くらい日本には大した事件なんか何ひとつ起こらなかったような気になってくるの…」(講談社文庫 下巻 89頁)だから、いなきゃいないで映画化はできなくもないと思う。ただ、僕がもし脚本家だったら、ミドリの父親は迷った末に登場させるだろう。必要な気が、する。なぜかというと、まず、この父親やその看病の大変さから、ミドリという人間に凄く深みが出てくること。ミドリがそもそも、ワガママではなくって、ワタナベにだけワガママになれる厳しい状況っていうのがわかる。ああ、ミドリって大変なんだって。次に、彼がシンプルな人生を提示していること。彼の人生があたかも何もなかったかのように過ぎていて、平凡に亡くなる。この視点はこの小説でとても重要だと思う。政治がどうなっているのであれ、淡々と生きて、そして亡くなった人物が一人、登場することで、作品にも深みが出るように思うのだ。なにより、この死者の多い小説で生きることを全うしたのは、実は緑の父親だけである。もし、ミドリの父親がいなければ生きることは難しいってだけの結論だけになる。彼がいることで生きることは難しくとも、実は平凡なことなんだってことがわかって、小説のバランスを辛うじて保っているからです。最後になったけど、「タノム」という台詞でミドリがすでにワタナベに託された存在であるってことを示していること。直子とミドリの間で揺れるワタナベのいい加減さが目立つ所で、小説の流れを引き締めていること。ワタナベが誰を積極的に愛し始めてるのかっていうのが、におってきますよね。それで、演じる役者さんだけど…誰でもいい(苦笑)と、いうか、この年代で生きている役者さんで、この台詞の少なさだったら、ホント誰でもできちゃうような気がしなくもない。いや、台詞が少ないから逆に難しいってのもわかるんだよ。でも、郷ひろみさんは無理だろうね。だって、オトコマエだもん。渡辺謙さんだと貫禄がありすぎるかな。むしろ、この役は存在感がありすぎてもこまるし、なくてもこまる。平凡だけど頭に引っかかるような人がいい。斉藤洋介さんがパって浮んだ。めっちゃ、平凡やん。近所のスーパーにいても、だれも気がつかなさそう(苦笑)ただ、ちょっと、若すぎるのかなって気がする。もう少し年代をあげて、平凡の偉大さを優先するなら、北村総一郎さんかな。どこにでもいそうだけど、ちっとも慌てない人ってイメージができるような気がする。また、彼だったら重みも出せるかもしれないし、逆に貫禄ありすぎかもしれないな。迷ってたら、一人浮んだ。この間スマステーションに出演していて、武士の一分にも登場されている笹野高史さん。細いし、凄く平凡な印象なんだけど、どこか頭に残ることができる役者さんだと思う。こういう上手さを見せない上手い人が日本の演劇を支えているんだろうなって、方。僕のイメージにはぴったりハマリました。それで、私の結論はこうなりました。本命・笹野高史さん対抗・北村総一郎さん穴・斉藤洋介さんこんな感じでいかがでしょうか。では!!※もっと、「なんだかなー」なら『目次・◎ものがたり(映画、音楽、文学、本)』まで※もっと、「なんだかなー」なら『目次・◎村上春樹さん』まで
2006年12月09日
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栃木の男の子二人が行方不明になった事件で小林隼人ちゃんが遺体で発見された。冥福と、天国に召されたことをお祈りしたい。栃木県警のページでは同じ写真がまだ、掲載されている。その写真を見るととても愛らしい二人だ。だけど、行方不明者は一斗ちゃんのだけになっている。率直にいって、助かる可能性は低いと思われる。コンビニでパンを持ったままじっとしている話を聞いた。きっと、取っちゃいけないと思いつつ、でも、おなかがすいていてたまらなかったのだろう。さぞ、ひもじかったろう。さぞ、痛かっただろう。どうして、男に殺されないといけないのだろう。どうして、父親は父親の役目を果たさなかったのだろう。まだ、殺害の状況がよくわからないから、断言はできない。でも、子供は寝ると重くなるし、熱くなる。もし、下山容疑者が隼人ちゃんと一斗ちゃんを橋から投げ捨てたのだとしたら、そのぬくもりや、人間の重さを感じなかったのだろうか。感じなかったのだろう。腹立たしいし、残念だけれども。ラジオをつけていると、児童相談所を大声で責めていた人がいた。確かに、児童相談所にも非はあったのかもしれない。でも、実際に祖母の家に預けられているし、実の父親が警察沙汰にしたくないといっている。それ以上、彼らに何ができたというのだ。私はあまりにも頭にきたから、ラジオを消した。すぐに公の児童相談所に責任を擦り付けるのはあまりにも、無責任だ。それに、児童相談所の現場の職員の方も無念だったのではないだろうか。一番、守らなきゃいけないのは父親じゃないか。祖母宅からアパートに戻したのは父親じゃないか。そして、幼い子供を殺害したのは間違いなく、小林容疑者じゃないか。なぜ、それが分からないのだろうか。怒りの矛先が狂ってしまっている。こんな本末転倒なことがまかり通るならば、再びこのような事件が起きてしまう。そして、僕は残ってしまった、残された人々について考える。まず、下山明宏容疑者。親になるには幼すぎたんじゃないか。いや、人間になるには未熟すぎるんじゃないか。怒りと、人間への絶望が生まれる。父親の小林保徳さん。徐々に明らかになると思うが、彼は一体、何をしてたのだろう。どうして、こうなってしまったのだろう。警察沙汰にしたくなかったのは、なぜだろう。誰かになぜ、助けを求められなかったのだろう。子供を失ってしまったことには同情はある。彼も被害者である。それでも、正直、憤りと疑問を感じる。そして、一斗ちゃんと、隼人ちゃんのお兄ちゃん。別の場所で暮していたから、生きているようだ。この子は何を感じているのだろう。さらに、下山容疑者の子供達。彼らはこれからどうやって、生きていくのだろう。誰が引き取ってくれるのだろう。親のために、この子供達はひどい視線を浴びていくのだろう。自らの中にも罪悪感も生まれてしまうのかもしれない。この子供達も可愛そうだ。最後に、一時期、隼人ちゃんと一斗ちゃんを引き取った祖母。彼女は必要以上に自責の念に駆られているかもしれない。一緒に孫と過ごした日々が可愛いいほど、祖母にとっては辛い気持ちになるのだろう。もう一度、ご冥福をお祈りする。生まれ変われば、喜びも悲しさも体験できる人生を歩んでください。絶対に。※お父さんの小林保徳さんの会見をみて、ちょっと書き加えました。確かに、児童相談所も父親も殺すまでは思わないですよね。※9月16日ついにお兄ちゃんの一斗ちゃんの遺体も発見されました。予期していたとはいえ、実際、発見されると辛いですね。ガソリンスタンドでの執拗な暴行、下山容疑者の子供が起きた「ぎゃーっ」という泣き声、仲のよかった二人など、話が明らかになればなるほど、怒りと悲しみがこみ上げてきます。ご冥福をお祈りいたします。
2004年09月14日
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中学校のテストの答えあわせ。ある問題で先生が言う。「この問題は2-3人だけ間違えました」大抵、僕は間違えている。別の問題では、こうも言う。「この問題が解けた人は、2人しかいませんでした」僕は、結構、正解している。時々、僕という人間は多くの人ができることができなくて、多くの人ができないことができるタイプのではなかろうかと、思う。blogのエントリーが1000件になった。更新率は99%である。もしかしたら、難しいことなのかななって気はする。でも、僕には、基本は楽しかった。そりゃ、意地で書いたり、陰の部分がにじみ出ることもあったけども。同時に、コメントとか、メッセージとか、アクセスが力になってるなとも、感じる。そんな、あなたがイッパイつまった、みなさんに感謝!なんか、一つ大台を超えた気分です。できれば、これからもヨロシクお願いします。※もっと、「なんだかなー」なら『目次・◎日々の「なんだかなー」』まで
2006年07月01日
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熊田曜子さんといえば、いまや雑誌のグラビアには欠かせない存在である。ちょっと色気があって、スタイルもいい。どちらかというと、派手目の女性である。ケバイと言えば、言い過ぎだろうか。ちょっと前にあるテレビ番組で寝ていたの熊田曜子さんが突撃してきた若手芸人に起こされていた。昔、某覚醒剤容疑者が得意にしていたネタである(笑)ちょっとだけ、画面に写った熊田さんはすぐにシーツを上げて顔を隠した。「私、メイクしないと本当にだめなんですよ」でも、私はノーメイクの熊田さんが意外にしんなりと綺麗だったことにびっくりした。派手目な彼女だから化粧で得をしているだろうとの、思い込みが打ち砕かれたからだ。「なんや、きれいやん」元々、目が大きいのがすっごく、ナチュラルに訴えかけていた。セクシーというより、すっぴんの彼女は「こけてぃっしゅ」だった。まあ、テレビだから、前夜に知らされて軽くメイクをしていた可能性もないではないが。それで、次のシーンはきっちりメイクをしてきていた。確かに、ぱっちりしていた。美人顔にはなっている。でも、そういう美人って、逆にどこにでもいそうに思えてくる。はっきり言って、僕はメイクする彼女よりノーメイクの彼女のほうが、好きである。でも、熊田さん自身はメイクをしないと芸能人としてはだめだと思っているのだろう。いわゆる美人にならないと、と。これって、思い込みに過ぎない。いわば、自分の自分へのイメージと、他人の自分へのイメージが違っている。世間の評価は他人のイメージである。でも、自分の中で正しいのは自分のイメージである。このギャップって真面目な人ほど、実に苦しくなる。なぜなら、真面目な人ほど確固とした自分のイメージがあるために、逆に、世間から見た自分のポジションが分からなくなってしまうからだ。「自分を見失う」という状態に陥りやすいのではないだろうか。本当は、自分の自分と他人の自分がズレているだけなのに。そうこう考えると、きっと、熊田さんは真面目で、実は派手というより控えめな人なのかなと、想像してしまう。でも、自分を必死で確立しようともがいている。メイクとか、グラビアいうのは、その一つの手段に過ぎないのだろう。そうであれば、なおさら、僕は熊田さんに魅力を感じてしまうのだ。それも、僕が持つイメージに過ぎないのかもしれないけれども。
2004年11月27日
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ヨハン・クライフが言った。「30歳を超えた今でも、彼は欧州のトップレベルのフィニッシャーだ」これは、バルセロナのラーションを評価したものだ。このとき、僕は初めてフィニッシャーという言葉を聞いた。でも、ラーションのプレースタイルを想像すると、実にぴったりくる名前だと思う。ディフェンダーの裏を取るにせよ、持ち込んでシュートを打つにせよ、非常に早く、コンパクトに、そして正確にネットを揺らすスタイル。まさに、ラーションはとどめを指す、フィニッシャーという言葉にふさわしい。サッカーのフォワードほど、現代になって呼び方が増えたポジションて珍しいと思う。これが、30年前だったら、ウイング、センターフォワード、ストライカー、以上。ところが、いまや、そうはいかない。果たして、アンリはウイングなのか、センターフォワードなのか、ストライカーなのか。あえて言えば、アンリはマルチ・オフェンダーとでも呼びたくなる選手である。つまり、フォワードは華々しいポジションだけに、そのイメージも多彩であり、呼び方も増えてきたのだろう。でも、昔の用語も死んではいない。例えば、ストライカー。かつては点を取る人のことをそういった。いまやストライカーのイメージといえば、ドリブルとか、テクニックはたいしたこと無いけど、力とシュートの上手さだけは図抜けている選手がイメージされる。インテルのビエリ、アドリアーノがストライカーにぴったりくる。さらに、ストライカーはプレースタイルが凄くワガママに感じる。センターフォワードとなると、もうちょっと、チームプレーやポストプレーをこなすようなイメージがある。ファン・ニステルローイ、スペインのトーレスがぴったりだ。これが、ウイングになると、ちょっと難しい。純粋なフォワードでのウイングというと、ロッペンやクラウディオ・ロペスとかになる。後の選手はミッドフィルダーもこなす、サイドアタッカーのようなニュアンスが強くなる。例えばスペインのホアキンはウイングだけど、ちょっとフォワードとしてはイメージしづらい。でも、足の速いフォワードは死滅したわけではない。オーウェン、バロシュ。ただ、彼らはウイングとは呼ばない。むしろ、ゴールゲッターとかゴールハンターとか呼ばれる。さらに、どちらかというとスマートにゴールを決める人をゴールハンターといいがちである。つまり、エトォはゴールハンターで、バロシュはゴールゲッターといえば分かりいいのではないだろうか。また、サッカーの複雑化に伴い、中盤もできる選手がフォワードに入ることも多い。パスも非常にうまい選手である。例えば、ルーニー、ベルカンプ、トッティ。トッティはイタリアサッカーの申し子的で、ファンタジスタが通称である。一般的にプレーメーカーと呼ぶのが性に合っている。ベルカンプの頭にはテクニカルとかつけてもいいのかもしれない。さらに、もう一つ。ストライカーみたいに押し込むシュートではなくて、ともかく多彩なシュートへのアイディアを持つ選手。誰かがこういう選手をシューターと名づけた。ベルカンプもそうである。でも、まあ、その時はたしかマカーイを指してシューターとしていた。これも、なかなか、小粋な名前だと思う。点であわせるのはイマイチでも、足元のボールを確実にシュートに持っていく。昔のシュケルや、ラウルなんかがそうであろう。他にもトップとか、アタッカーとか、ドリブラーとか、9番とか、様々に言われる。そうだ、ちょっと前、クライファートがアーチストゴールハンターと評されていたことがある。理由は「ありえないほど難しいシュートを決め、信じられないほど簡単なゴールを外す」から、だそうだ。嬉しくないネーミングだ。ここら辺の皮肉はヨーロッパの人はとても、うまい。と、いっぱい書いてきたけど、ラーションほどフィニッシャーという言葉が似合う選手はいない。(復帰を祈っております)だから、これからも特徴的な選手が現れる度に新しい名前、呼び方が生まれてくるのだろうと思う。※テンポの関係で選手の敬称を省かせていただきました。ご了承ください。
2004年11月26日
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