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この前、両国駅前を歩いていると、過去の横綱の手形がたくさん並んでいました。
あんまり古いのもありましたが、自分が知っているあたりから、写真撮りました。
はっきり覚えているのは、大鵬が引退したあと、横綱北の富士(→この前千秋楽の解説していた親方)あたりでしょうか。
思いっきり、40年前のことを思い出しました。
自分自身ピアノ習い始めて、黄色いバイエルとかやっていたころかなあと思ってみていました。
横綱輪島・琴桜・北の湖・・・、小学校高学年。
ハノン・ツェルニー30番、ソナチネ、ブルグミュラー、バッハインベンション・・・。こんな感じだったでしょうか。
ピアノ習っている人多かったです。結構細かく熱心な先生でした。
ハノンはスケールしかやりませんでしたが、どの調でも弾けるようにと、EsDurとかFismollとか言われたら、すぐ弾かないといろいろおしかりを受けたし、メトロノームこれくらいで弾いてきなさいとか、そんなこともふつうにやっていたかもしれません。ドイツ音名ある程度すぐわかるのはこのときのおかげかもしれません。
そのあと、レッスンに行くのはやめてから、たまには触っていましたが、だんだん弾かなくなりました。
ずっと20年少しは、もっぱら聴く専門だったり、どういうわけか体育会の生活をしたり、会社と家の往復だったり。
三重ノ海とか、千代の富士とか、高校生のころの横綱。千代の富士はものすごく長かったから、会社に入って、新入社員から数年くらいまで活躍していました。

最後の写真は、貴乃花、若乃花、曙、そこからあとは、モンゴルから来た横綱、朝青龍・白鳳・日馬富士
ピアノのレッスン行くのを22年ぶりに再開したときは、貴乃花の全盛時代だったと思います。
年6場所、同じことやっていても、顔ぶれも、時代もずいぶん変わるものだなあと改めて思ったりもします。
やっていることは一緒なのになにが違うのだろうと、自分なりに考えたもしてしまいます。
やっていない時期がいっぱいあったから、違いに敏感なのかもしれません。
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子供のころは、日本の楽器メーカーのピアノしか知らなかったです。外国のピアノがちょっと探せば触れるようになってきたのは、2000年前後からかと思っています。それでも数は今ほどでもなかったように思います。
それから、そもそも弾き方が今とはぜんぜんちがったと思います。たまごのようには今しているとは思えないし。手首なんかぜんぜん使っていないし、使ったらおしかりうけますし。。。ピアノがよくなったせいもあるのでしょうけど、本当に不思議です。
春秋社版を編者のせんせいと、メトードローズとかのせんせいと、その方がたが主流のころとそのあとでは、なんだか相当違うようにも思います。
こどもの教材はうらやましいかぎりです。トンプソンやらバーナムやらミクロコスモスやら。いまの時代の方のほうが恵まれているのはいうまでもありません。
1ドル300円くらいで、外国に行くのもめずらしかった時代と、1ドル150円くらいになってきた、90年代以降、留学に行く方も、講師で来日される方の量とか、当たり前のことがずいぶん変わったと思います。
世界の情勢もぜんぜんちがうと思います。
東西冷戦で、ドイツが分かれていて、戦火となったドレスデンとかライプツィヒとか、ほぼ元通りになるのに50年以上かかっていて、旧東ドイツ側の研究などほとんどできていなかったようにも思えます。これはここ20年くらいでやっとまともになった、メンデルスゾーンハウスやゼンパーオーパーを目の当たりにして、実際に話を聞いてわかったこともたくさん。そんな時代に自分がいることも知ったりしました。
楽譜もいろいろなものがすぐに取り寄せられるようになって、日本語訳のものもたくさん出てきていますし。、あのころの楽器店の様子とか知っているのもほんとうに貴重かもしれません。
著作権のきれていない作曲家も今よりもはるかに多かったかも。プーランクの楽譜がなんでこんなうすいのに5000円もするのと思ったこともありましたし。
なんだか殴り書きのめもみたいになってしまいました。
BGM: メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64
(ヴァイオリン:アンネ・ゾフィ=ムター 指揮:クルト・マズア ライプツィヒゲヴァントハウス管弦楽団)
https://www.youtube.com/watch?v=K67o86CS5uo
70代80年代のカメラ屋さんになっていたメンデルスゾーンハウスをいまのようにきれいに整備された 指揮者。マズア夫人は日本人なので、いろいろ語っていただいたこと懐かしく思い出しました。
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