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役への自己登記は、すなわち生の自己選択である 世界情勢の不確実性が高進する現代においては、劇世界を虚構で入れ子にするメタシアターを、単に遊戯を目的に用いてはならない。それでは災害のみならず、戦争への懸念が日本でも切迫する状況から背を向けることにしかならないからだ。そのことを、工藤俊作プロデュース プロジェクトKUTO-10『ストア派おじさん、故郷に帰る』の劇評で記した。メタシアターの今日的な用い方を示す、もう一つの事例が南極『wowの熱』である。ポスト・トゥルースと呼ばれる、恣意的に操作された情報や陰謀論といった風聞は、事実を曲解するという意味で虚構世界を構成することになる。それらに浸り切ってしまうと、現実社会と乖離した別の世界を生きてしまい、場合によっては反社会的な妄執に突き動かされる危険性がある。しかし本作はタイトル通り、まさに演劇への熱に浮かされた若者たちの姿を描く。そのことで、演劇人は現実が虚構に侵食された世界でこそ、生の実感が得られることを逆説的に示した。本作は意識的に虚構世界に生きて虚構と現実を逆転しようと試みることで、かえってアイデンティティが確立し得るという、演劇人の性(さが)と情熱を表現したのである。 本作は「wowの熱」という作品の上演に向け、稽古をする劇団を描くメタシアターである。劇中劇の「wowの熱」とは、平熱が45℃を超える特性を持つ中学生の少年・ワオ(端栞里)を主人公にした物語。平熱が高い以外は、彼自身にとっては何の支障もない。だが5年前の流行り病で熱を測る機会が増えたために、飲食店で門前払いされるといった扱いを受けるようにはなった。そして今、熱のために見学続きだった水泳の補修を、他の生徒と共に受けなければならない状況を迎えている。この補修も熱が高いことを理由に逃れようとするが、体育教師・海パン(井上耕輔)と追いかけっこした際に、ワオはプールに落っこちてしまう。それによってプールの水温が、ワオの体温によって上昇し温泉に変貌する。生徒皆で浸かって温泉を味わう彼らは、やがてワオ熱湯なる銭湯をオープンさせる。だが、プールに熱帯魚を放流して実験することになっていた理科委員のメガネズミ(こんにち博士)とマンボー(瀬安勇志)の横やりが入る。どちらがプールを使用するかを巡って、ワオとマンボーがカードバトルをして決着をつけるという、漫画やアニメのような展開が繰り広げられる。マンボーが沸騰したワオの熱に当たって失神して勝負はつく。だがその際、マンボーが持ち込んだ、水を凍らせる分泌液を放出するナンキョクヒエウナギがプールに入ってしまう。凍ったプールに閉じ込められた同級生たちを救うべく、ワオはプールに入って力を振りしぼり、再び熱湯にする。同級生たちは助かったものの、教頭に見つかってワオ熱湯は撤収を余儀なくされる。銭湯を撤去した日を境に、ワオの体温はなぜか36度に戻る。そしてワオは、仲間とカラオケに行くなど普通の生活を送るが、ときどき平熱が高かった頃を懐かしく感じる。そんな、少年のひと夏の熱い日々を描く物語である。 「wowの熱」の物語に至るまでに、実は9個のナンセンスなスケッチが助走として展開される。数珠繋ぎになったスケッチは単なる遊びではない。本作が入れ子状になったメタシアターであることを示す効果がある。開演すると「1番ユガミノーマル」の文字が電光掲示板に流れると共に、高校野球のウグイス嬢のアナウンスも入る。そして劇場入り口から登場したユガミノーマルは、ブラウン管テレビに映る氷を石の金づちで割ろうとしたりヒーターなどで溶かそうとしたりして、中に閉じ込められたオーパーツを取り出そうとするものの失敗。すると次に「2番こんにち博士」の電光掲示板とアナウンスで登場したこんにち博士が、ユガミノーマルに演技のダメ出しをする。なんと彼らは、演出家と俳優だったのだ。しかし「3番ポクシン・トガワ」のアナウンスでポクシン・トガワが登場すると、ユガミノーマルとこんにち博士は演出家と俳優でもなく、お笑いコンビ・ナンキョクズであることが判明する。彼らは演出家と俳優としてダメ出しをするコントを、芸能事務所関係者のポクシン・トガワにネタ見せをしていたのだ。しかしポクシン・トガワは芸能関係者ではなく、入れた物の温度を上げるカバンのセールスマンであった。ナンキョクズの寒いコントも面白くなると言われて、彼らはカバンの中に入れられてしまう。そしてセールスマンがカバンに生肉を入れると、「4番古田絵夢」のアナウンスと共に、原始的なゾウ類・マストドンの家族によるランチが始まる。そしてナンキョクズとセールスマンのシーンは、マストドングランマが描いた絵画として、部屋に飾られている。このように一人ずつ紹介されると共に劇空間に増える俳優たちによって、前のコントを入れ子にするスケッチが次々と展開され、世界観もしだいにナンセンスになってゆく。入れ子になった数珠繋ぎのコントは、冷血動物症という奇病にかかり、近所の子供からホットハウスマンと揶揄される温室の男(瀬安勇志)の物語へと至る。体温調節ができないために、そのままでは低体温になって死んでしまうホットハウスマンは、一日の大半を温室で過ごしている。鬱屈した心情を抱えたまま、温室でスーパーヒーローが登場するビデオばかり見ていた彼は、いつしかヒーローから仲間に誘われることを夢見ていた。しかしそれが実現しないことが分かると、天才的な頭脳を持つ彼は人工知能を人間に移植して、スーパーヒーローを自ら作ろうとする。しかしそのために人間を殺すことになってしまう。だから彼は、自分はスーパーヒーローではなく、ヒーローを引き立てる悪役でしかないことを悟る。という記事が掲載された雑誌『ムー』を、ワオが友達の甲斐(九條えり花)とプールサイドで読んでいるシーンにつながることで、ようやく「wowの熱」が始まるのである。 上記を1幕とする展開を、明日の本番に向けてゲネプロをする劇団の模様から2幕は始まる。そこでは、実名で登場する南極の劇団員たちの内部事情というレイヤーが加わり、メタシアターの度合いが高まって複雑になる。1幕の終了、すなわちゲネプロを終えた休憩中、ワオを演じる端栞里が作・演出のこんにち博士に、自分の演技の感想を求める。そしてワオならカラオケから抜け出してもう一度プールに戻るはずと、ラストシーンの書き換えを願い出る。こんにち博士は、ワオを熱っぽく表現した端を認めて、演じた本人が言うならとラストシーンの変更を了承する。しかしその直後、栞里は倒れてしまい、公演は中止となる。病院で目覚めた栞里が体温を測ると、45度の高熱があった。彼女は俳優の栞里ではなく、「ワオの熱」の主人公のワオに憑依されたのだった。まるでホットハウスマンのように。栞里が「wowの熱」の劇世界に入って、自身のアイデンティティとは何かに気付く過程が2幕で描かれる。 ワオを現実世界に召喚したのは、彼のキャラクターを愛しすぎたこんにち博士の仕業であった。上演が終わればキャラクターが消えてしまうことを惜しんだ彼は、雑誌『POPEYE』の特集「呪物・呪術のABC」の中から「物語を現実に浸食させる儀式」を実行し、栞里の大事なものを「wowの熱」の劇世界の最深部に閉じ込めることと引き換えに、ワオを現実世界に呼び出したのだ。栞里の大事なものはどこにあるか。それは冒頭で入れ子状に展開されたスケッチの1番目、氷河に収められている。ここで劇中劇と現実世界のつながりが判明したことによって、栞里たち数人の劇団員たちは、同特集の「物語の中に入り込む方法」を実践し、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のタイムマシン・デロリアンのように、車を使って「wowの熱」の劇世界に入り込んでゆく。車をバックして「逆行」させて、「wowの熱」のラストシーンからどんどんと遡り、ブラウン管に映る氷を割ろうとする男のいる次元に至る。そしてワオの特殊能力を使って氷を溶かして、栞里の大事なものであるオーパーツ=「wowの熱」の台本を取り出す。それを手にした栞里たちは、今度は車を前進する「順行」によって現実世界に戻る。しかしその過程で、蛇行した車がホットハウスマンの温室に突っ込んでしまう。そしてホットハウスマンを、フロントガラスにひっかけたまま戻ってきてしまう。車の「逆光」「順行」に沿って、入れ子状になった世界の最深部へ潜りまた浮上する様は、スケッチに登場する人物たちが流れるように行き来することで表現される。アナログな場面処理ではあるが、視覚的に一発で了解させる極めて演劇的な演出で見事であった。 劇中盤、劇団のリーダー・ユガミノーマルがビデオカメラを手に、南極の新作「wowの熱」の製作現場のドキュメンタリーを撮影するシーンがある。稽古開始から新宿シアタートップスへの小屋入りまでを、劇団員たちのインタビューを交えてコンパクトにまとめた動画である。舞台上では現在進行形で撮影が展開し、脇のスクリーンに映像も映されるものの、これはすでに撮影された動画であり、回想的な位置付けとなっている。動画には、ゲネプロに至るまでの劇団や劇団員たちの内情が収められている。2025年1月に法人化した劇団の代表取締である和久井千尋は、次の公演で集客が少ないと大きな負債を抱えると嘆く。そして電卓を叩いている時の方が幸せだという彼は、いつも振られる豪傑な役柄と本来の自分との間で引き裂かれる思いをしている。デザイン担当の古田絵夢は、「wowの熱」のタイトルだけでどうやってフライヤーを作れば良いのかと癇癪を起こす。3つのバイトを掛け持ちするポクシン・トガワや、特殊な方法で作曲をする揺楽瑠香といった、スタッフを兼務する彼らの姿が描かれる。そして「wowの熱」で初主演を務めることになり、喜ぶ栞里の姿も映し出される。南極でただ一人、途中入団した彼女は高校時代、公共劇場でアルバイトをしていた。ちょうどその時に南極がリハーサルをしていたが、ユガミが熱中症になって降板。彼の代わりに栞里が本番で台詞を読んだことがきっかけで、こんにち博士に南極への入団を誘われたのだという。そんな彼らに台本を配ったこんにち博士が、次回公演の作品コンセプトを伝える。そこで、先述した入れ子状に数珠繋ぎされるスケッチは実際に上演されるわけではなく、実際の公演ではワオと甲斐が雑誌『ムー』を閉じるシーンから舞台は始まると告げる。入れ子状のスケッチは、作品の深みを増すための裏設定でしかないが、作品の背景をしっかりと踏まえて演じてほしいとこんにち博士は述べる。しかし、劇団員たちは複雑すぎる設定が理解できず混乱する。劇中の南極が上演する「wowの熱」では上演されないことになっているスケッチだが、現実の『wowの熱』ではすべてが上演され、観客は序盤にすでに見ている。したがって、こんにち博士による作品コンセプトの説明は嘘ということになる。すると劇中で展開される「wowの熱」の製作過程も、劇団員たちの内情を含めて虚構だということになる。劇中劇「wowの熱」を単に現実が包んでいるのではなく、その現実だと思われていた世界は、実在する同姓同名の人間が登場するものの、虚構の劇団のドキュメントである。劇中劇「wowの熱」を上演しようとする虚構の現実を中間項として挟み、さらにこの2つの虚構世界を上演する本当の現実があるという、3層の劇構造を本作は有しているのである。 したがって、栞里が「物語の中に入り込む方法」の「順行」で戻ってくる現実世界も、虚構としての現実である。その世界に、車のフロントガラスにひっかかったままホットハウスマンがやってくることで、劇中劇「wowの熱」のキャラクターと、虚構としての現実である南極の劇団員たちが入り混じり、両者の境界のあいまいさが高進する。そのことが良くわかるのが、ホットハウスマンと彼を演じる瀬安勇志が同一平面に存在しているように見せるシーンである。虚構としての現実にやってきた際、彼は栞里が落とした「wowの熱」の台本を手に入れる。そして自分の役柄を理解した彼は、物に人間の意識を移植する人造人間を作るために、劇団員たちを次々と襲う。その最初のターゲットとなるのが、ホットハウスマンを演じる瀬安勇志である。公演中止後、ジムで劇団のドキュメンタリー動画を見ていた勇志は、ホットハウスマンによって絞殺される。その際、ホットハウスマンは寒さに耐えるべく相当に厚着をしているために顔が隠れており、勇志と別の俳優が演じていることが分かる。そして死体を引きずって掃除用具入れに隠そうとしている間に両者は入れ替わり、覆いを取るとホットハウスマンの顔は勇志になっているのだ。そして、一旦退席していた水泳部顧問・海パン役の井上耕輔が戻ってきて死体を発見するが、ホットハウスマンによってスタンガンで気絶させられ、彼も改造されてしまう。他にも、普段の自分と演じる役柄のギャップに悩んでいた和久井は、二つの人格を顔の半分で分けて両方を有するトゥーフェイスへと改造される。このようにホットハウスマンは劇団員たちを改造し続け、子供の頃に読んだヒーローコミックに登場する6人からなる悪役集団・シニスターシックスを結成する。なぜか。「wowの熱」の台本を読んだホットハウスマンは、プールに溺れたことで水を温泉に変える能力を覚醒させたワオに、本当のヒーローの誕生を見た。そんなワオをこの現実世界に誕生させ、シニスターシックスに打ち克つというストーリーを実現させるためである。そのことが、自分はヒーローになれないホットハウスマンの、悪役として長年夢見ていたことだったからだ。冷蔵庫と融合して全てを凍らせるミスター・フリーズに改造されるポクシン・トガワが、「wowの熱」は台本に書かれた物語でしかないとホットハウスマンに述べる。しかしホットハウスマンは、ならば虚構を現実化させて、消費されない物語の反乱を行うと宣言する。この台詞には演劇の現実化という、演劇人の夢と共に、本作の肝が集約されている。 一方、平熱を取り戻した栞里は、ホットハウスマンの魔の手から逃れた劇団員たちに、「wowの熱」の再演を劇団事務所で提案する。資金がないと劇団員たちに反対される栞里だが、そこに彼女の望む通りに台本を書き換えたこんにち博士がやってくる。再演することに同意する2人だが、こんにち博士は栞里をまだワオだと思って喜ぶ。栞里は俳優としての自分が評価されていないことに反発。栞里は、大事なオーパーツはこんにち博士が勝手に設定した台本ではなく、自分そのものだと言ってそれを破り捨てる。その時、シニスターシックスがやってきて、栞里やユガミたちを新宿浄水場へと誘いだす。そこは、「wowの熱」の最終場面のプールサイドに状況が似ている。このシチュエーションが「wowの熱」の再演そのものだと思い込むこんにち博士は、音響や照明スタッフを呼んで演出を付けて、ワオとシニスターシックスとの対立を演劇化する。しかし一般の通行人や浄水場の管理人に使用許可を取っているのかを問い詰められて、無許可だったことが発覚すると、スタッフたちは機材を撤収してしまう。演劇を現実化しようとするホットハウスマン、現実に起こっていることを演劇化しようとするこんにち博士、そして現実世界を生きる一般人やスタッフの冷めた反応。ユガミは演劇のようにショーアップされる空間で、現実と虚構を巡る三者三葉の立場が入り乱れる様を目の当たりにし混乱する。ここにおいて、現実と虚構の乱反射が極点に達するのだ。そんな中で、こんにち博士と同じく栞里にワオを投影しているホットハウスマンは、彼女に抱きしめてほしいと告げる。自分の体温をコントロールできないホットハウスマンは、ワオの高熱で殺されることによって、自らの死と引き換えに最高のヒーローを誕生させるという、ねじれた願望を成就させようとするのである。暴れ回るシニスターシックスによって場がカオスとなり、ユガミが負傷する。その痛みに苦しむユガミが栞里に、この状況は台本や演出がない現実そのものだと告げる。 虚構のような出来事が現実(という体裁)となった様を目の当たりにして、栞里はその場から駆け出して退場。そして舞台美術が全て片付けられて何もなくなった空間に、奥の扉を開けて栞里は再びやってくる。そこは新宿シアタートップスの裸の劇場空間である。この時こそ、栞里と観客は同じ目線で時空間を共有する。つまり、何もないシアタートップにいるという紛れもない現実を感得するのだ。手にラストシーンが書き換えられた完全版の「wowの熱」を手にした栞里は、ラストシーンに至るまでをぶつぶつとつぶやき、次第に熱を込めて一人で演じてゆく。その間に他の劇団員たちは、栞里と交わしたやり取りの断片を発する。それは栞里と劇団との関りの回想であり、「wowの熱」の最終リハーサル、初主演に抜擢された日、劇団に入団した日、ユガミの代役として舞台に立った後、そしてこんにち博士に劇団に誘われた際と、時間を遡ってなされる。「wowの熱」を演じて歩き回る栞里と、彼女に話しかける劇団員たちは会話が噛み合わない。しかし双方が話し始めるタイミングや仕草がシンクロしているので、傍目から見れば会話が成り立っているように見える。これは栞里の脳内で展開されている回想の視覚化なのだろう。彼女は記憶を遡行して自身の俳優としての原点に立ち返りつつ、今やらなければならないことを、内なる衝動に突き動かされて実行しようとしている。過去と現在が彼女の中で混然一体となり、アイデンティティを探るのだ。その答えが、虚構の現実化の実践である。「wowの熱」のラストシーンは、ワオ熱湯の撤収後に平熱に戻ったワオが、友達とカラオケに行って普通の中学生に戻ることだった。だが書き換えられた完全版の台本では、カラオケから抜け出したワオが夜のプールに忍び込む。そして自分の体温よりも低いであろうプールの水を温泉にするべく、その場でジャンプをして飛び込む瞬間で幕となる。ここにおいて観客は、新宿シアタートップスで、今まさに演劇の魔力に自らを賭けようとする俳優の姿を、一種の感動と共に目にするのだ。 憑依型俳優として劇団員から評価されてきた栞里は、こんにち博士やホットハウスマンに、ワオという役柄を求められ、素の自分を見てもらえないことに悩んでいた。そのことは、代表取締役の自分と豪胆な役柄との間で引き裂かれる和久井も同様であり、俳優ならば大小誰しもが抱える問題であろう。そのことは、自己規定する自分とは異なる役柄を、他者から一方的に与えられることによって生じる。だからこそ、与えられた役柄をあえて自分で選び直した時に、自己との差異は解消される。それは役に進んで自己投機することに他ならない。その境地に至ることで、俳優のアイデンティティが満たされるのだ。本作は複雑な入れ子構造のメタシアターを展開し、ホットハウスマンの台詞にあったように虚構の反乱によって現実に打ち克とうと奮闘する作品である。その眼目は、虚構による現実への侵食でこそ、演劇人が生きていることの実感が得られるという命題を浮かび上がらせることにある。虚構世界に留まり続ければ現実世界と乖離が生まれてしまい、日常生活が送れなくなる危険性がある。だが本作で登場する現実世界は、虚構としての現実という中間項であることに留意しよう。それによって、俳優がいくら虚構で現実を侵食しようと企んでも、その現実世界は虚構としての現実であるために、本当の現実世界で生きる自己を見失うことはない。しかしそのことは、本当の現実を虚構世界が支配することは不可能であるという隘路に行き着いてしまう。そういう意味では、ホットハウスマンの企みは決して実現されることはない。だが虚構世界で光り輝く瞬間が本当の自分だという、演劇人の切実なアイデンティティは満たされる。演劇による虚構によって現実を変えることはできないかもしれないが、それに関わる者にとっての、もうひとつの真実ではあるのだ。ここにこそ、演劇人がなぜ金銭的に報われない演劇活動をするのかという真理がある。本作は演劇の熱にうかされた若者たちが、なぜ演劇をするのかを作品総体で表現した。その熱が持続するうちはどんな苦労もいとわず、仲間と乗り越えて行ける。これが運命共同体としての劇団の良さである。そんな場を共有するからこそ、劇集団は作品ごとにクリエイターが集うユニットとは異なる集団力が発揮される。それに観客が感応した時、観客はアナログな芸術である演劇に、映像表現とは異なる独特のリアリティを感得するのだ。 不条理な笑いや突飛な展開が次から次へと目まぐるしく出来するので、観客は翻弄される。それでいて作品の展開の仕方には不思議と無理矢理な感じがしない。一つ一つの場が投げっぱなしになっておらず、後々の伏線となって上手く回収されている。時空間の移動による場の処理もスムーズなので、作品は複雑ながらもキレイに一本にまとまってつながっている。このような戯曲が書けるこんにち博士の筆致には舌を巻く。それだけでなく、露天風呂を思わせるゴツゴツとした岩のような巨大な舞台美術に、「wow」のネオンサインが光るワオ温泉のビジュアルも目を惹く。奈落があるシアタートップスの劇場機構を活かして、床に広げた巨大カバンの中に俳優が飛び込んで消えたりする演出にも工夫が施されており、エンターテイメントもふんだんに盛り込まれている。度々客電が点灯して、リハーサル風景であることを明らかにする場に登場する音響や舞台監督は本当のスタッフである。彼らも劇中の登場人物として俳優とやり取りを行ったり、場転を手伝ったりと、舞台が立ち上がる様を演劇として観客に体感させる。俳優、戯曲、演出、劇場機構が混然一体となって、壮大な虚構を出来させた。相当に手の込んだ作品は、劇団だからこそできる特性であろう。 南極の作品を観るのは初めてだったが、この作品だけでもこの集団が演劇に何を求めて何をやりたいのかが、はっきりと見えた。今、このような愚直な劇集団は珍しい。本作は南極ゴジラから南極へと劇団名を改名した後の一作目である。今後、どのような作品を創るのかを興味深く追っていきたい。
May 9, 2025
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現在形の批評 #14(書評)・別役実 『ベケットと「いじめ」』関係性の中の「孤」 刺激的な本に出会った。二〇〇五年八月、白水社から刊行された別役実著『ベケットと「いじめ」』がそれである。 別役実はアングラ演劇と呼ばれる、一九六〇年台後半以降に演劇活動を開始した運動家の一人である。鈴木忠志と共に早稲田小劇場を結成し、『マッチ売りの少女』や『象』などの不条理な作品を書いている。また、軽妙な文体の中にも鋭い指摘を突いた犯罪批評や、ユーモアエッセイも書いている。アングラ演劇の果たした役割については全号の拙稿(『現代演劇の変遷と問題』)を参照してもらいたい。そんな別役が作劇において最も影響を受けたのが、本書でも論じられるアイルランド出身の劇作家サミュエル・ベケット(一九〇六~一九八九)である。彼の不条理演劇の代表作『ゴドーを待ちながら』は二〇世紀、世界の演劇を根底からひっくり返す衝撃を与えた。日本もまた然りである。とまあ、予備知識として著者と論じる対象者の簡単な解説もそこそこに、いよいよ本書の書評を中心に評論めいたものを書き付けていこう。 本書は一九八七年に同じく白水社から刊行されたものの新書版である。後に述べるが、この時期に新装されたのにはちゃんと意味がある。前半部分は昭和六一年、富士見中学校で起きた「いじめ事件」を基にして人間というものがいかように変化したのかを分析し、八〇年代当時でいう現代の相貌を読み解く。後半部はその辺りの変化を、ベケットが既に一九五〇年代に行った作劇にその片鱗が見られると指摘し、演劇との考察を試みている。全体を貫いている主張を言ってしまうと、〈現代社会は「関係性」に捕らわれている世界〉ということである。本書は優れた現代のフィールドノートであり、演劇理論書でもある。 「関係性」とは何か。富士見中学校で「お葬式ごっこ」をされ、果ては自殺した学生(鹿川君)は、「いじめ」た者に対して「なぜこんなことをしたんだ」「だれがこんなことをしたんだ」と意見したり、対立・ケンカをしない。もしかするとそういった行動を起こすことによって「いじめ」が沈静するかもしれない。しかし、鹿川君は「何だこれー」「オレが来たらこんなの飾ってやんのー」と言ってしまう。これは明らかにおかしい。状況を受け入れ、肯定する発言だからである。別役によると前者は「個人」というものを前提としているからこそ意見をし、状況を変革する可能性を含む存在としての人間を見る。つまり前/近代的な人間観である。しかし、現代では「個人」が主役なのではなく、「いじめ」を成立させている関係、「葬式ごっこ」が成立させるアトモスフィアー、この「関係性こそが主役」になっていると述べる(二五頁)。こういった状況下では、前/近代的な個人として発言することは「関係性が主役」であるから、その言葉の意味が形骸化する。つまり浮いてしまうだけになる。できることは不覚ながら「関係」を成り立たせる〈場〉に同化し、自虐的になることしか残されていない。 「個人が主役ではなくて関係が主役になってしまっている。おそらく「お葬式ごっこ」の状況はそうだったろうという感じがする。関係が主役で個人がなくなって、それぞれが「孤」になってしまっている場合は、そこに作用している意図、その中にどういう傾向があったにしろ、悪意があったにしろ、冗談があったにしろ、それは全部無記名なものになっている。関係のものになっている。個人のものとして機能しないで無記名のものになっている。」(七七頁) 別役の指摘した状況は極めて「いま」の合致する。例えば、言い訳をするときや何かに感動した時を思い浮かべて欲しい。その内容について一生懸命言葉を尽くして説明すればするほど、伝えたい思惑とズレが生じて空疎なものになってしまうときがある。それを本書に則って考えれば、言葉がそれ自体で意味を内包してるものではなく、ただの「もの」として「物質化」しているからである。 「言葉というものがなぞった、たとえばスキャンダルのフォルムと運動、それがどう存在しどう動いたかということだけが問題となる関係。この場合の言葉はほぼ「もの」みたいな感じですね。言葉の物質化が行われている。従来の言葉の物質化というのは、意味性よりも音韻性みたいなところを重視して、それが物質的にわれわれの生理にどう作用したかというようなことを問題にしますが、それとは違う意味で言葉が物質化されているという感じです。」(一二九頁) 「いじめ」られた者がそれを克服するために思いのたけを対象者にぶつける、この発語者と発語された言葉とが不可分に釣り合った状態、言い換えれば精神と身体の統一。これは近代に発見された人間の内面であり、近代演劇=新劇が目指し、実践してきたことである。 「個人」が「孤人」でしかない「関係性」優位の社会構図を、別役はベケットの『行ったり来たり』『わたしじゃない』『息』の三つの戯曲に見ている。私たちがベケットの戯曲を読んだ感想は往々にして「ナンセンス」や「不条理」といった認識であるが、そのような観念は本書で行われる極めて数学的・論理的な分析によって音を立てて瓦解する。この過程は胸がすく思いになる。ベケットの不条理劇は不条理でもなんでもなく、不条理なのは現代社会であり、その情況を生きる私たち自身もまた不条理な存在なのだ。ベケットはエンターテイメントとしての演劇に付加される一切の要素を取り除き、〈方法としての方法〉を実験しただけなのである。本書が優れた現代のフィールドノートであり、演劇理論書といった事由とはこういうことである。 すると、本書が二〇年近くを経て再び刊行された理由も見えてくる。九〇年代以降の私たちが生きる同時代を振り返ってみると、阪神大震災・オウム事件・少年犯罪・援助交際・無差別テロ・小学生による殺人・ネットを使用した集団自殺、及び殺人事件。ここに挙げた様々な事件・事故は「関係性が主役」である社会環境を「孤人」として生きる人間の変容の末に起こったものと見ることは可能ではないだろうか。出版された八〇年代よりもさらに私たちは存在不安に陥っており、人間は自己を支配する様々な関係性に身を置いて、皆と同じ意識感覚(こういったのが大衆迎合を生む要因でもあろう)を持たなければつまはじきにされる社会に生きている。ネットの存在はその典型である。文字という名の「物質」が氾濫した中では、温かな・豊かな人間性を回復することはもはや絶望的である。キーボードに文字を打ち込む人間と打ち出された文字=物質とは乖離している。ネットが支配する関係は「無記名性」であるがゆえ、いくら他者を攻撃しようとも生身の身体が傷つくことはない。それは某巨大掲示板や、静岡県で最近起こった娘による母親に対する毒殺未遂事件で、実験という名の殺人記録をブログに書き込んでいた事実がはっきりと証明している。情報の行き来と仮想のコミュニケーションは逆説的な閉鎖性を生み出す結果をもたらした。そんな中で演劇が果たす役割とは何か。九〇年代以降の小劇場演劇の特徴として松井周氏は、「(演劇は)人間を一度、ヒト科の動物として捉えなおし、その習性や反応などの「外面」を観察」するものが隆盛であり、それは「観客の視点を超越的な視座へ高めてくれる効果」があると述べる。(注)平田オリザ的ないわゆる「静かな」演劇はまさしく先日したネット上での傍観姿勢と合致する。いくら演劇は社会を写す鏡だとしても、これでは現状報告・現状観察日誌以上ではない。現実の〈情況〉を〈結果〉としてぽんと提示するのではなく、創作者側が積極的にその〈原因〉と〈問題点〉を探り、風穴を空けるくらいの気概が必要だろう。時に誤読したっていいではないか。私たちは何も演劇に新劇的啓蒙を求めてはいない。演劇というフォルムを使い、どう有機的に〈思索〉したのか、その軌跡に触れたい。そうでなければアナログな演劇をする意味性がないではないか。 本書の締めくくりは、ベケットの戯曲からの脱却は可能かを問うている。事態がより深刻さを増した現時点ではますます困難な相談である。注 『ユリイカ』 青土社 二〇〇五年七月号所収 松井周「ポスト「静かな演劇」の可能性」
Oct 19, 2005
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現在形の批評 #5(舞台)・大人計画『キレイ』 8月12日 シアターBRABA! ソワレ大劇場で公演するということ90年代、サブカルチャー路線の作風でナイロン100℃と共に「静かな演劇」とは一線を隔した活動を続けてきた大人計画。今や確実にエピゴーネンが増え続けるほどメジャーになった劇団の初見。はっきりいって楽しんだ方ではない。方ではないとは曖昧な表現だが、その曖昧さは作品自体にも言えるからだ。三つの国に分かれ、100年もの間、民族紛争が続く“もう一つの日本”。民族解放軍を名乗るグループに誘拐され監禁されていた少女(鈴木蘭々)=成長したケガレ(高岡早紀)が10年ぶりに地上へ逃げ出す。記憶を失った少女は自らを<ケガレ>と名乗り、出生の秘密を探りながら本当に<キレイ>と呼べるものを求める「ミュージカル」。作品の骨格はかなり骨太な戯曲が根底になっているのだが、ミュージカルに肝心な歌が効果的に役割を担っているように思えず、笑いを誘うため、また、劇場を照明と音響でいっぱいにし、観客をそれなりに満足させるためだけにしかその機能を果たされていない。それは役者についても言えることである。いわゆる個性豊かなキャラクターとギャグで溢れ、全体を笑いで引っ張ってはいるが、役者の表情も身体の厳密な状態も分からないくらい後方にいた私にはどうしてもその面白さが伝わってこないのだ。鈴木蘭々と阿部サダヲが光っていたぐらいでその他の役者に至ってはかつてビデオで観たキャラメルボックスの役者のように台詞の洪水を浴びせてくれるだけである。座った位置が問題だったのか。そんなことはない。かつて大阪MBS劇場として、劇団四季の常打ち小屋だった時に観劇した『アイーダ』はそんなことは思わなく、オペラグラスを用いた程、後方に座したが十分に楽しめるものだった。あらゆる音波が席に座っていても身体に伝わってくる感覚はさすがと唸ったほどだ。確かに遠くから見ていることには違いないが、物理的に身体に何かしらを感じさせることによって舞台との距離を内在的に縮めていた。大劇場での公演の最大のリスクはこの距離にあると言って良い。舞台は全ての観客を等価に観る情報、体感する熱気を提供するべきである。多少座る位置によって観え方が変わるとしても小劇場ではまずそういった事態は起こらない。鈴木忠志の言を借りれば「非動物性エネルギー」に集約される舞台機構の仕掛けに頼らざるを得ない大劇場での公演に不可欠な、情報を伝達技量が明らかに不足していたと感じさせられた。
Sep 26, 2005
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