東方見雲録

東方見雲録

2025.10.30
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カテゴリ: 郷土


引用サイト:​ こちら

関連サイト:第一号磁界型電子顕微鏡および関連資料  大阪大学   こちら
関連サイト:菅田栄治  Wikipedia   こちら

関連サイト:田中敬一先生との思い出 こちら
稲賀 田中先生の経歴はご存知とは思いますけれど、最初にざっとご紹介しますね。先生は鳥取大学医学部の前身である米子医科大学を卒業し、1年間のインターンを終えて解剖学教室に助手として入られました。以来、1991年の退職まで解剖学教室で研究と教育にいそしみ、医学部長在任中に超高分解能走査電子顕微鏡(Ultra-High Resolution SEM: UHS-T1)を開発されました。残念なことに私はその頃、育児休業中だったため、開発の詳しい経緯は存じ上げないのですが、先生のご著書『超ミクロ世界への挑戦―生物を80万倍で見る』に詳しく書かれています。
私が所属していたのは田中先生の教室(解剖学第二)ではなく、もともと田中先生の教室におられた飯野晃啓先生の教室(解剖学第一)でした。とはいえ2つの教室のメ ンバーは家族のようなもので、和気藹々とした雰囲気の中で研究を行っていました。
私の研究テーマは染色体の高次構造の解明でしたので、超高分解能SEMが完成した1年後に復職すると、田中先生から新しい装置の性能を確認するためにDNAの二重らせん構造を見たいと言われ、お手伝いしました。田中先生みずからオペレーターを買って出てくださり一緒に挑戦したのですが、最初はなかなかうまくいきませんでした。試行錯誤を繰り返しながら1年半ぐらいかけてようやく二重らせん構造がきれいに撮れたときには、とても嬉しかったことを憶えています。
田中先生が医学部長を1期2年だけで退かれたことも印象深い思い出です。本学では学部長は2期務めるのが慣例でしたが、田中先生は「早く研究に戻りたいから」と、周囲に惜しまれつつあっさり辞められました。当時からよく、「私は旅客機ではなく戦闘機のパイロットでありたいんだ」とおっしゃっていて、常に最前線で研究する姿勢を貫かれていましたね。私は「その戦闘機の隅でいいので一緒に乗せてください」という気持ちで田中先生に一生懸命ついてきました。
関連サイト:走査電子顕微鏡関連装置が日本顕微鏡学会より「顕微鏡遺産」に認定 こちら
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ちょっと寄り道
気になる見出し:実は集落ゆかりの世界的偉人…事実知った住民らが顕彰碑設置  電子顕微鏡の国産第一号を開発 東昇さん   こちら
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 東昇さんは、1941年、理化学研究所の研究者として、当時世界に2台しかなかった電子顕微鏡の国産第一号を開発。従来の光学顕微鏡より細部を見分ける能力が向上し、ウイルス研究は飛躍的に前進した。
 昇さんは開発後、日本ウイルス学会会長、京都大名誉教授などを務め、75年には紫綬褒章を受章。天然痘やクラミジアの研究で世界のウイルス学をリード。世界的な権威とされ、82年に70歳で病死した。日本顕微鏡学会の樋田一徳副会長は「医学の進歩のため、電子顕微鏡を自ら開発した点に科学者の 矜持(きょうじ) を感じる。東先生の発明や研究で多くの人命が救われた」とたたえる。

関連サイト:東昇氏の功績をたたえ公民館に記念碑  こちら
関連サイト:東昇  Wikipedia   こちら
国産第一号の”電子顕微鏡”製作
1938年(昭和13年)、京都帝國大学医学部を卒業、微生物学教室に進む。当時は光学顕微鏡しか日本にはなく研究生活の壁に突き当たる。当時、電子顕微鏡はドイツとベルギーの世界に2台しかなく、東昇は当時、日本の科学のメッカと仰がれていた東京の理化学研究所に私費留学をし、1941年(昭和16年)日本で第一号となる電子顕微鏡を完成させた。この時の製作費は、故郷川辺に住んでいた母ケサ亀が先祖伝来の土地を売却し息子を支援。製作に成功した際の新聞記事には「祖先伝来の田畑を売って、電子顕微鏡と取り組む」と大きな見出し付きで発表された。


























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Last updated  2025.11.04 18:09:59
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