東方見雲録

東方見雲録

2026.05.23
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カテゴリ: ランドスケープ



使用開始日   2000年5月15日
意匠図案説明  瀧泉寺前不動堂、灯籠を描く
開設場所    〒153-0064 東京都目黒区下目黒3-2-3
引用サイト: こちら

下目黒 地名
江戸時代の下目黒は下目黒村を形成し、米・麦・菜・タケノコなどを栽培する普通の農村であったが、下目黒村でも一部、大鳥神社や目黒不動(瀧泉寺)を中心とする寺社群は江戸町民が多く参詣する門前町を形成し茶屋・料理屋・土産物屋で繁盛していた。これらを訪れる目黒詣では江戸市民の四季折々の楽しみとして賑わい、行人坂や権之助坂は参詣及び下目黒村の農産物を運ぶ道として交通が多かった。

目黒一帯は江戸時代から明治にかけてタケノコの名産地として知られていた。目黒不動の門前の数軒の茶屋ではタケノコ飯が名物として、タケノコの旬にはこれが目当てで参詣する人が多かったとされる[8]。行人坂を下りて目黒川を目黒太鼓橋で渡り、門前まで至る1kmほどの道の両側には、タケノコ飯の他に粟餅や飴などの店が並んでいた。

門前町は明治時代には行楽地から花街に変貌し、五百羅漢寺と成就院(蛸薬師)の間には多くの料亭があった。大正時代半ばからは市街地化が急速に進んだ。

地名の由来
下目黒の地名は旧来の下目黒村に由来する。「目黒」の地名の由来は諸説あり定かでない。瀧泉寺に祀られる不動明王に由来するともいう。

河川
目黒川
羅漢寺川

権之助坂(一丁目)
行人坂(一丁目)
三折坂(三丁目)
石古坂(三丁目)
男坂 女坂(目黒不動境内)(三丁目)
引用サイト: こちら




瀧泉寺前不動堂

目黒不動として親しまれている瀧泉寺(りゅうせんじ)境内、独鈷の滝(とっこのたき)左側に前不動堂(まえふどうどう)はあります。


江戸時代後期に刊行された「江戸名所図会(えどめいしょずえ)」にも、現在地付近に描かれており、江戸中期の仏堂建築として、当時の姿をよく保っています。

また、附(つけたり)として指定されている「前不動堂(まえふどうどう)」と書かれた扁額(へんがく)には、「佐玄龍書」の署名があり、建立当時のものと推測されます。

筆者の佐々木玄龍(ささきげんりゅう)(1650年から1722年)は当時一世を風靡した書家です。
引用サイト: こちら



男坂 女坂(目黒不動境内)

目黒不動尊 本堂


引用サイト: こちら


権之助坂
江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために、年貢米の取り立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。なんとか助けてほしいという村人の願いも聞き入れられず、権之助は刑に処せられることになり引かれて行く。「権之助、なにか思い残すことはないか」と問われて、「自分の住んだ家が、ひと目見たい」と答える。

馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。父祖の家を離れる悲しみと、村人の明日からの窮状が権之助の心を去来したかも知れないが、それは表情には現わさなかった。

村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。

また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。

昔の道路は、江戸市中から白金を通り、行人坂をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。

坂に見る時代の流れ
昔は、行人坂が江戸市中から目黒筋に通じる幹線道路であったが、権之助坂が開かれ明治にはいって鉄道が敷設されると坂の主役は、権之助坂の方に移ってくることになった。

とはいっても、明治のころの権之助坂は、現在の坂より急で車馬の往来が激しく、ときには馬もろともわきの杉林に落ちることもあったというから、決して十分ではなかったことがわかる。坂下から新橋までの間は地盤が低く、大雨で目黒川が氾濫すると橋だけが水面に頭を出していることがあった。目黒川には、水車が数カ所あったので、氾濫の一因となったのではないかという。

新橋と行人坂下の太鼓橋との間には梨畑があって、行楽客の休憩所にもなっていたが、たびたびの出水で梨の木が枯れてしまい、その後に盛土して開業したのが現在の太鼓鰻という。

昭和にはいってから権之助坂の南側一部分譲されて家が建てられた。そのころの模様を、古くから住む大円寺の福田芳江さんは、次のように語ってくれた。「権之助坂は、今の行人坂より狭く、向こう側(北側)は、久米邸の石垣になっていて、そこに萩の花がこぼれるように咲いて、それはきれいでした。ホタルがたくさんいましたね。あるとき、ホタルが5つ6つかたまって飛んでいるのが火の玉のように見えて、腰が抜けるほどびっくりしたことがありました。そこここにスズムシやマツムシが鳴いていて、思わず立ち止まったものです」

さて、商店街はというと、ここの商業の歴史は意外と浅い。戦時中は、駅付近に若干の商店があっただけのさびしいところで、追いはぎも出たことがあるという。そんなところに、戦後ボツボツ露店が立ち並ぶようになり、やがて定着して店舗を構え、地元のお客を相手にゆうゆうと繁昌を続け今日の隆盛を見るに至った。

ところが、昭和42年11月、ターミナルビル、ステーションビルが次々に完成し、中央から有名店、老舗が進出してくると、地元商店街の様子も一変し、それまでビルができれば人が集まるという期待とは裏腹にさっぱり客が流れなくなったという。「つかの間の太平の夢から、いっぺんにさまされた」とある商店主はいっているが、ここにも激しい時代の移り変わりを見る思いがする。

坂の方も、権之助坂のわき腹をけずるように、放射3号支線一が開通し、権之助坂は下りの一方通行にされてしまったが、それでも朝夕は車の洪水をさばき切れずにあえいでいる。権之助も土の下で苦笑していることだろう。




引用サイト:目黒区   こちら



林試の森公園

引用サイト: こちら


Wikipedia情報 こちら





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Last updated  2026.05.23 00:00:07
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