東方見雲録

東方見雲録

2026.08.05
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徳川家霊廟 寛永寺・増上寺・日光東照宮の関係

久能山東照宮・日光東照宮
徳川秀忠(1579年 - 1632年、家康の三男)
増上寺 台徳院霊廟
崇源院(1573年 - 1626年、秀忠正室で淀殿の妹)
増上寺 崇源院霊牌所
※没後、崇源院霊屋が増上寺に建てられたが、秀忠の没後、崇源院は台徳院霊廟に祀られた。建物(旧崇源院霊屋)は正保4年(1647年)、鎌倉の建長寺に移築され、仏殿となった。
徳川家光(1604年 - 1651年、秀忠の次男)
輪王寺 大猷院霊廟

徳川家綱(1641年 - 1680年、家光の長男)
寛永寺 厳有院霊廟
徳川綱吉(1646年 - 1709年、家光の四男)
寛永寺 常憲院霊廟
徳川家宣(1662年 - 1712年、家光の三男甲府城主綱重の長男)
増上寺 文昭院霊廟
徳川家継(1709年 - 1716年、家宣の四男)
増上寺 有章院霊廟
徳川吉宗(1684年 - 1751年、御三家で、紀州家2代光貞の四男、家康の曾孫)
墓所:寛永寺、常憲院霊廟に合祀。院号:有徳院
※吉宗は1720年(享保5年)御霊屋建立禁止令を出し、以降大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔か霊牌所が建立された。

墓所:増上寺、有章院霊廟に合祀。院号:惇信院
徳川家治(1737年 - 1786年、家重の長男)
墓所:寛永寺、厳有院霊廟に合祀。院号:浚明院
徳川家斉(1773年 - 1841年、御三卿で、一橋家2代治済の長男、吉宗の曾孫)
墓所:寛永寺、厳有院霊廟に合祀。院号:文恭院

墓所:増上寺、文昭院霊廟に合祀。院号:慎徳院
徳川家定(1824年 - 1858年、家慶の四男)
墓所:寛永寺、常憲院霊廟に合祀。院号:温恭院
徳川家茂(1846年 - 1866年、家斉の七男で紀州家11代斉順の長男)
墓所:増上寺、文昭院霊廟に合祀。院号:昭徳院
徳川慶喜(1837年 - 1913年、御三家で、水戸家9代斉昭の七男、一橋家9代当主)
墓所:谷中寛永寺墓地(後継将軍がいないため合祀できず、谷中霊園内に神道形式で埋葬した)
引用サイト: こちら

引用サイト:徳川家の菩提寺が2つある理由は?増上寺と寛永寺を詳しく解説!  こちら
家康が小田原攻めの論功行賞で関東に移行してきた後、菩提寺を探し始めることになるのですが、その時に徳川家と思想が同じであった関東にある浄土宗の増上寺を菩提寺にと決めます。

家康が菩提寺を増上寺に決めた理由は、家康がたまたま増上寺の前を通りがかった時に住職の源誉存応上人と対面し、その思想に家康が深く感銘を受けたからだと言われています。


一方で、増上寺は室町幕府の僧侶・聖聡(しょうそう)によってその基礎が築かれたと言われてますが、この聖聡の弟子には家康の祖先にあたる松平親忠の四男・存牛(ぞんぎゅう)がいたと伝わっています。つまり、増上寺は室町時代から徳川(松平)家と繋がりのある寺院だったのです。

次にもう一つの菩提寺・寛永寺ですが、これは家康の死後に天台宗の僧侶・南光坊天海によって建てられたと言われています。この天海は頭脳明細で博識豊かな人物であったと言われ、一説ではあの明智光秀が実は生き残っていてその成れの果てがこの天海なのではとも言われている人物です。

頭の切れる天海は家康の生前から徳川家の重要人物となり、家康の死後も二代将軍・秀忠、三代将軍・家光にも気に入られ重用されていくこととなります。
こうして徳川家での権力を手にした天海の薦めで寛永寺が建立されることになりました。

最初祈願時でしかなかった寛永寺でしたが、天海に陶酔していた家光が葬儀をこの寛永寺で執り行ったり、その後も四代将軍・家綱や五代将軍・綱吉が続けて葬儀を行ったことから寛永寺も徳川家の菩提寺となりました。

・・・・
八朔の日
朔日というのは、「さくじつ」以外に「ついたち」とも読むのをご存知でしょうか。
たとえば、神社には「朔日参り(ついたちまいり)」という言葉があります。毎月1日に家や土地を守ってくださる氏神様を参拝することで、その月も平穏無事に暮らせるようにお祈りをします。

8月1日とは言っても「旧暦の」と書きましたが、現代の暦に置き換えると、8月下旬から9月頃にあたります。(※2022年の新暦における「八朔」は8月27日)
この時期は、稲作を行っている人たちにとって、田んぼに稲穂が実りだすとても大切で希望のある季節。
秋の収穫を前に「初穂(はつほ)」という収穫前の稲穂を神様へお供えし、日本各地で「豊作祈願」の祈りが捧げられてきました。


田んぼの実りを祈願するという意味を込めて、この日は「田の実の節句・田実(たのむ)の節句」とも呼ばれています。「田の実」が転じて「頼み」となり、農村においてはよく頼みごとをするような親しい相手――家族や親戚、身近な知人・友人などに、稲穂を贈る慣習も生まれました。

考えてみれば、昔は今のように、離れた人と繋がって助け合うような手段や機会は、まずなかったわけです。
だからこそこの文化が、きっと身近に助け合うことができるような人との結束を強める、大切なきっかけでもあったのではないでしょうか。
それが次第に農家だけでなく、武家や町人の間でも「贈り物」を交わし合う日として広がっていったとされています。


江戸時代になると、徳川家康が江戸城に入城した日が天正18年(1590年)の8月1日であったことも重なり、八朔は幕府にとっても重要な日とされ、大々的にお祝いが行われるようになりました。
各地の武士たちが次々将軍家を訪れて、祝辞を申し述べる「八朔の祝い・八朔の礼」と呼ばれる行事が行なわれていたのだとか。
引用サイト: こちら

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Last updated  2026.08.05 08:00:04
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