夏二題
石段と坂道の記憶
青木弘
昭和21年、台湾から引揚げてきた。上陸港の田辺から父の生家がある大分県国東半島は遠く、汽車の切符が手に入るまで御所ちかくの親戚の世話になった。物心ついてはじめて味わう日本の春。花吹雪が舞っていたような気がする。
長じて同志社に入学、比叡山をあおぐ岩倉の学生寮で4年間を過ごした。方言が飛びかい個性がぶつかりあったが、数十人の兄弟ができたようなもの。年に一度の母校のホームカミングデーにあわせて集い、息災を確かめあっている。
昭和33年
春、
テレビ局に入社した。娯楽系と教育教養系の番組比率が半々という認可条件があり、ぼくは硬派系の
制作
チームに配属された。
学校巡り、千宗室さん指導の茶道入門、小磯良平さん指導の絵画入門、立命館大学の末川博総長指揮するテレビ大学、たぶん世界初の性教育講座や痩せる体操などを十人に満たないスタッフで制作した。テレビ大学を除いて生放送である。
担当した番組のひとつに「
狂言名作選」がある。
京都の茂山一家の総出演だった。
忘れられないは清水寺の音羽の滝近くの石段で演じた「蟹山伏」。リハーサル中、狂言師のたまごたちが石段から転げ落ちないかと弱気になって茂山千之丞さんに相談すると「若いときはなんでも冒険。心配無用でござる」とはげまされた。
真夏。汗まみれになって蟹の精や山伏を演じたちびっこたちが、いま、日本の狂言を伝えている。

横16㍍のスクリーンに影絵を写し、その前で演舞す
る
影絵劇団として知られ、毎年百数十回の公演を続けていていた。しかし、仕掛けが大きいから会場や移動に難があり、主宰の中川正文助教授
(故・
京都女子大名誉教授
)
は「影絵を映画にして全国の子どもたちにみせたい」と、ひそかに動き出していた。
ネタ探しに歩き回っていた私は
、
社が募っていた秋の芸術祭参加の企画コンペに応募したところ、夢のある企画として合格、走り出したのであった。
仕掛けや幻想的な影を浮かび上がらせる照明器具を操作する女子大生たちは全員黒衣である。カメラマンは「色気がないな」と言いながら、いつのまにか予定以上のフィルムをまわしていた。手ごたえを感じたのはここまで。撮影は試行錯誤の連続、やがて中断する。夏休みが終わったのである。
こんな状況を一時間にまとめて放送したが入賞には届かなかった。 翌年、僕は番組づくり部門からはずされ、ほろ苦い思い出のひとつになった。

蛇足である。ことし(
平成
23
年)
の夏は「おんな坂」で知り合ったひとと暮らして50年になる。ともに足腰がしっかりしている坂道や石段を歩いてみようと思う。願はくは「ぴんぴんころり」のときまで好奇心の旅を続けたいと思っている。
▼筆者紹介 1935年台湾生まれ。大分県立国東高校・同志社大学法学部政治学科卒。読売テレビ入社。制作・編成・広報などを経て、よみうり文化センター出向。
(注)2025年。おんな坂のひとと出会って64年。感謝です。