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昭和天皇の証言。1934年(昭和9)2月、侍従武官長・本庄繁に実父・大正天皇のことを語る。「先帝の事を申すは如何かなれども、其皇太子時代は究めて快活に元気であらせられ、伯母様の処へも極めて身軽るに行啓あらせられしに、 天皇即位後は万事御窮屈にあらせられ、元来御弱き御体質なりし為め、遂に御病気と為らせられたる、誠に、畏れ多きことなり」秩父宮「父上は天皇の位につかれたために確かに寿命を縮められたと思う。東宮御所時代には乗馬をなさっているのを見ても、御殿の中での御動作でも、子供の目にも溌剌としてうつっていた。それが天皇になられて数年で、別人のようになられたのだから」伊藤博文→有栖川宮「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に躍らされなければならない」 大正天皇は側室の子として生まれ、肉親からまともな愛情を受けないまま、病気を繰り返した幼少期。 有栖川宮というこの上とない理解者を得て全国を回り、健康が回復するとおもに、自由奔放な振る舞いを見せた皇太子時代。 大正天皇の不運は「操り人形」になることを拒否し、天皇にあるまじき過剰なまでの人間性を保持しようとしたところにあるのではないか? 大宅壮一は「大正時代とは何か?」をテーマに「炎は流れる」を書きはじめ、途中で絶筆となった。 大正天皇は早く生まれすぎたのかもしれない。
2005.05.24
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全日空機がやはり8月12日、伊豆沖の日航機が故障した同じ地点で墜落している。機長は私の友人のお父さんで、彼が生まれる前の事故だったという。機体は海の底で遺体はあがっていないという。 知り合いの中に、婚約者の彼があの事故で亡くなったという人がいる。 また、別の知り合いなのだが、お見合いをした人の中に運輸省のお役人が居て、どうやら修理された機体を最終的に受け取るための判子を押した人らしい。断ったのか、断られたのか、詳しいことは確認できなかったが、結婚しなくて良かったとか。 遺書を克明に書いていたビジネスマンの奥さんの話。詳しいことは忘れてしまったが、500人以上の犠牲者、私の周りにも、関係者がかなり居たことになる。
2005.08.12
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【辰11】13度C、晴。ポッドキャストを活用している。安住紳一郎の番組を2007年7月22日からのバックナンバーを聞いている。1つ30分くらいで4つ、約2時間、ブログを書きながら聞いている。 ラジオというのは音声で一過性のものだったのだが、ポッドキャストというシステムで何度も聞ける音声図書となった。貴重な経験をしている。【平成22・庚寅】Samstag/辰弥生11/甲辰/穀雨/牡羊座【横浜】太陽(4:58~11:40~18:21)月(13:45~20:12~26:29)正午月齢:9.6
2010.04.24
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【文月3】実朝の首塚に行ってきた。朝5時17分長津田始発、町田経由で渋沢まで、約1時間。西中学から西小学への道を間違えて、遠回りして水無川に出てしまった。古墳公園まで約1時間。少し休憩をとって、首塚に向かう。 地図で確認した小泉ハイツとか何とか商店を通って、目標の信号まで、上り坂を覚悟していたのだが、緩やかな下りだった。ここまでで、また、1時間。 東田原神社に寄って、その少し先を右、標識がある。首塚、完全に観光スポットになっている。暫し、ベンチで休息。 9時、出発。畑の間の水路がにぎやかである。後は下り坂、駅まで約1時間、秦野駅からの道、予想通り急な坂道、私の心臓には無理。 10時14分の急行で帰途、11時長津田着。 早朝早出半日コース(5:00~11:00)終了。交通費;\1,060.【22.August(Samstag)文月3・己亥・立秋・獅子座】
2009.08.22
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疲れてくると眠れなくなる。眠るにも体力がいる。今日は眠る体力があるようで、午前中から昼寝。
2009.08.30
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時々、部屋を掃除、整理・整頓をしております。で、1999年・平成11年の年賀状が出てきました。【1998・極私的10大ニュース】(1)友人・知人の訃報相次ぐ40~50代(2)大雪で川崎駅以遠をはじめて散策(3)5月の連休、両親の墓参で大阪へ(4)小説掲載の同人誌『裸木』できる(5)ベイスターズ優勝・ラジオで観戦(6)K-City(川崎市民放送)の青柳さんとその仲間たちと一緒に横浜球場で野球観戦(横浜対中日戦)(7)参議院選挙・ツルネン氏惜敗次点(8)K-Cityで地下鉄サリン事件被害者が生出演(9)和歌山カレー事件、中3の名探偵出現(10)美濃市教育委員会主宰『にわか』に投稿キボウ・つちのとう(己卯)◆今年は希望の年◆十年程前に友人からもらったステレオ・アンプが LUXMAN という相当高価なものだと分かり、ほこりを払って名曲を聴いております◆50代、人生も残り少なくなり名曲・名作(文学作品や映画)を味わう年にしようと考えております◆長嶋監督のカンピータ冴えわたって巨人優勝かも?*こういう年賀状を出して1週間後、心筋梗塞で緊急入院しました。人生、一寸先は闇です。
2009.04.06
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【啓蟄・如月17・丁巳(Freitag)13.Mearz】 現場のゲートに立っているといろいろな人が話しかけてくる。その中にクレーマー・オジサンが居る。独り言を言っていると思えば微笑ましいのだが、時に突っ込みを入れたくなる。【豪邸というけど掘っ立て小屋じゃないのか!】この意見は賛成。ウン千万する建売住宅を掘っ立て小屋というのはやっかみ以外の何物でもないのだが、戦後の住宅自体が戦前の住宅に比べたら掘っ立て小屋といえるだろう。 映画「細雪」で三女の結婚相手、場末の男だった。その住んでいる映像として安治川沿いの木造モルタルのアパートが使われていたのだが、あれは戦後建てられた建物である。戦前、場末の人間が住んでいた住宅・木造の長屋なのだが、もっと確りとした土壁の家で、今なら文化財指定になるほと造りは確りとしている。 私が大阪の生まれ育った家は昭和8年に建てられた4軒長屋(平屋)で、戦災に合わずに焼け残ったものだった。5寸(15cm)柱で土壁、大屋根小屋根のある瓦葺、今なら、造ろうとしても材料がないかもしれないし、その辺の建売より高価なものになる。 戦後、日本の社会が豊かになったというのだが、センスは大正から昭和初期の方が良いように思う。 やっかみで共鳴しあうクレーマー・オジサンとの独り言大会は続く。
2009.03.13
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江戸っ子(東京)には三代江戸に住んでいるという条件がある。 その点、浜っ子(横浜)は本人が「浜っ子」と自覚・宣言すればなれる。紅毛碧眼であっても、浜っ子として受け入れるという土壌は明治以来のもので、吉川英治も「わすれ残りの記」に書いている。 では、東京、横浜に挿まれた川崎にはどういう条件があるのだろうか? こういった話題・設問に接した事がない。 杉山神社を巡る旅の中で気がついたことだが、鎌倉と密接な関係を持って居たのが川崎・稲毛である。川崎原住民の資格は鎌倉時代から住んでいたことなのかもしれない。
2008.12.16
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事件は昭和38年(1963年)12月8日午後10時30分頃、赤坂のナイトクラブ、ニュー・ラテンクオーターで起こった。 力道山(39)がヤクザに刺された。 刺した男は村田勝志(24)住吉一家、大日本興行、小林楠扶の若衆で、直井二郎の舎弟。身長177cm、体重80Kg。 この日、力道山は東京に居る予定ではなかった。試合の後、浜松で泊まり翌日箱根でゴルフ。ところが、相撲協会の元横綱前田山から会いたいという電話。アメリカ巡業でアドバイスが欲しいという用件だった。 ケンカして出た相撲界から、元横綱からの頼みごとに、力道山は喜び気持ちは高揚した。そして、酒に酔った。リングの上では正義の味方の力道山だが、酔ってしまえば、だだの、アブナイおじさんとなる。 安部さんは言う。あそこのトイレ中は広いのだが入り口が狭い。その狭い入り口で力道山とホステスが話しこんでいた。何時もは年配の従業員がいて客の世話をしていたのだが、その時はいなかった。そこへこの村田勝志がやって来て、力道山の背後をすり抜けた。「人の足を踏みやがって、この野郎!」と力道山。「でかい人が狭いところに立っていれば、触れてもしかたがないでしょう」と村田勝志。力道山は村田を突き飛ばし、うつ伏せになった村田に馬乗りになり、頭を叩き続けた。村田は体を半回転させ、左わき腹に隠し持ったナイフで力道山の左下腹部を刺した。この後、村田はタクシーで帰ったのだが、帰り際吉村マネージャーに「ナイフの刃が根元まで刺さったので、早く病院に連れて行ったほうがいい」と言ったそうだ。病院で手術、全治2週間の傷であった。しかし、1週間後に容態が急変。再手術、しかし、力道山は麻酔から醒めることはなかった。 村田は傷害致死罪で懲役7年の刑となった。
2005.11.16
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【啓蟄・如月21・辛戌(Dienstag)17.Mearz】【聖パトリック・デー】今日は祖父の命日でもある。近江・彦根の在の人、近江商人、大阪で馬の道具屋をしていて、1944年・昭和19年に亡くなった。 母の話では琵琶湖と太閤さんが自慢で檜のエキスが滲み込んだお酒(昔の日本酒)を毎日飲んでいたという。裸馬が走っていると両手を広げて止まらせるのが得意だったとか。(昭和30年ごろまで、大阪の街中でも荷運びは馬車が主力だった) 酒と女が好きだというのは、アイルランド人と共通している。 行春を近江の人とおしみける【芭蕉】 ZARDのファンという人のブログを探して読んでいる。空を見るのが好きで、自分を詩人と名乗れる・これがファンの必要条件のようだ。 男性の場合、自分はファンではないと言いながら、カラオケで歌ったりCDを買ったりしている。私も「ファンではない」という言い訳をしながらブログに書いていた時期があった。しかし、彼女の歌を聴き始めて1年半が経って、毎日、空を眺めて、自分のことを詩人と名乗るのに躊躇しなくなった。 先週あたりから青空が白っぽくなった。これが春霞なのだろうか? 富山だと立山連峰が見えなくなった。 今年の春、何が起こるのだろうか?
2009.03.17
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杉山巡のブログを読んでくださっていた皆様本人の二女です16日より検査入院、17日に手術をした父ですが、手術中、本人の容態が急変し、母の元へと旅立ちました。母が旅立ってから、わずか4ヶ月と1日でした・・・私たちと同居を始めてからは、2週間ほどでした。色々と、こみ上げてくる思いはございますが、今までこのブログを読んでくださった皆様、母が亡くなった時、励ましのコメントをくださった皆様に、父に代わって深くお礼を申し上げます。長い間、ありがとうございました。
2011.11.18
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登呉羽山(呉羽山に登る)雨後風無秋気温(雨後に風無くして秋気温かく)呉羽峻阪留履痕(呉羽峻阪にして履痕を留む)維昔秀吉進征旆(維れより昔秀吉進みて旆を征し)敵将力窮降軍門(敵将力窮まりて軍門に降る)吾来此地見形勢(吾此地に来りて形勢を見れば)中越全景眼中存(中越の全景眼中に存り)立岳衝空向東聳(立岳空を衝き東に向かいて聳え)神通水漲指北奔(神通水漲り北を指して奔る)兵営一路連城中(兵営一路城中に連なり)海湾直接ハア原(海湾直にハア原に接す)→ハア原(実り豊かな平野)ハ→禾+四+能。ア→禾+亞。眺望如此難多得(眺望かくの如く多く得ること難からん)真是北国好公園(真に是れ北国の好き公園なり) 大正天皇が皇太子の頃、富山巡啓の時に、作られた漢詩である。(1909/9) 富山の呉羽山公園にある。もう、40年程前、富山に3年住んでいた事がある。この呉羽山公園はよく行った。そこにこの大正天皇の詩碑があった。大正天皇は「脳がお・・・」と言われていたから、「えっ! 漢詩?」という印象だったが、この原武史『大正天皇』朝日選書を読んで、事情が分かった。
2005.05.23
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