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インカ帝国の第二の都市キトが赤道上にあることから、
スペイン語 「赤道=エクアドル」を国名とした。
固有種生物の宝庫・ガラパゴス諸島もこの国にある。
標高とは海抜で計り、エベレスト(海抜8848m)が約2.6km
高いが、地球の中心から一番遠い山は、エクアドルの「チンボ
ラソ」 (海抜6267m)で約2.2kmも遠い(6384.4km)と
いう。
纏めるには、難しいが、間違いが多いことを覚悟に写経する。
エクアドル共和国
| 年月 |
略史 |
|---|---|
| BC1万年頃~15世紀半ば |
人類の生存確認。様々な古代文明が栄える。身分制、首長制を基盤として、祭祀センターを備えた社会構造の存在。 15世紀半ばには隣国のクスコを拠点として拡大したインカ帝国の遠征で征服され、キトはクスコに次ぐ帝国第2の都市として栄える。 |
| 16世紀~ 18世紀 スペイン植民地時代 |
1527年、キトで育ったアタワルパが皇位継承権を巡り、クスコのワスカルに勝利したが、1533年スペイン人フランシスコ・ピサロの一群にインカ帝国は滅ぼされ、当地区はペルー副王領に編入され、1563年三権の府がキトに置かれた。18世紀前半にはヌエバ・グラナダ副王領に5年間編入されたが元に戻された。疫病、ミタ制による重労働でインディオ人口は激減し、アフリカから黒人奴隷が補填された。西班牙系クリオージョの寡頭支配、混血者、流浪インディオの出現、住民のカトリック教化が進行した。 |
| 1809年8月~ 1830年 <自治運動・大コロンビアの一部> |
キトの革命評議会からイスパノ・アメリカ初の自治運動勃発。ペルー副王軍に鎮圧されたが、南米大陸にその運動は広まった。1810年代から現在のコロンビア、アルゼンチンを中心に各地の開放が進み、1822年に 北から シモン・ボリーバル、アントニオ・ホセ・デ・スクレが、 南から ホセ・デ・サン=マルティンの率いる解放軍がエクアドルに迫ると、各都市は独立宣言し、ビチンチャの戦いでスクレ将軍が西班牙軍を破り解放が確定した。ボリーバルの采配でコロンビア共和国(大コロンビア)の「南部地区」に組み込まれた。 |
| 1830年~ 1925年 <独立・保守支配・自由主義革命> |
大コロンビアの内乱で、「 北部地区 」が ベネズエラ として独立するや、「 南部地区 」も エクアドル として、1830年独立宣言、初代大統領の予定者スクレ元帥は暗殺され、フローレスが彼に代わった。解放者ボリーバルの ラテンアメリカ統合の夢 は潰えた。 独立後、ヌエバ・グラナダ共和国との戦争、内戦で混乱、その後、カトリック教会を軸にしたモレノの保守独裁政治は1875年まで15年間続き、暗殺された。 カカオのプランテーションが進み、グアヤキルの資本家権力による自由主義経済体制が1925年まで続いた。 |
| 1925年~ 1978年 ポピュリズムと軍政 |
シエラの勢力がクーデターを起こし、政治がグアヤキルからキトに移動。 1929年世界恐慌でポピュリズムを背景にしたイバラ大統領が40年間も足跡を残した。 1941年アマゾン地域を巡りペルー軍との戦争に敗れ20万平方km以上の領土を失い、1960年頃には政治不安が高まった。 ロドリゲス将軍が決起して、革命的国民主義政権を樹立、アマゾン地域の石油開発で石油国有化、農地改革、キューバや東側諸国との友好関係、OPEC加盟などを行ったが、保守的な反対勢力のクーデターで失脚した。 |
| 1979年~ 軍事政権から民政移管 親米から反米へ、さらには自主的立場・南米統合展望 |
人民勢力結集党からの大統領で民政移管したあと、フェブレス大統領は親米政策をとるも1987年大地震に遭遇、石油パイプラインが破壊された。バジェン大統領はアマゾンの石油埋蔵地を巡りペル-のフジモリ政権とのセネパ紛争で敗れ、OPECからも脱退した。 政権の交代は続き、1998年にはアマゾン地域の放棄、通貨をスクレからUSドルに変更する非常事態宣言を行った。 ポピュリズム政策で2007年に就任したコレア大統領は、ベネズエラのチャベス政権と共に反米を旗印に自主外交を進め、OPECに再加盟し、コロンビアの親米ウリベ政権と国交を断絶(アンデス危機)した。 |
(エクアドル その2 に続く)
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