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| 年月 |
略史 |
|---|---|
| 1492年 |
コロンブスのイスパニョーラ島発見 |
| 1697年 |
< ここまでは、現在、島の2/3を領有する東国・「ドミニカ共和国」(前身はスペイン領サント・ドミンゴ)を参照。 > イスパニョーラ島の西部(島の1/3を占める)がフランス領となる( 仏領サン=ドマング ) |
| 1791年 |
< ハイチ革命 > 仏本国で仏革命(1789年)が勃発すると、サン・ドマングの黒人奴隷とムラート(混血自由黒人)がヴードゥーの司祭に率いられて蜂起、その反乱軍は白人地主を処刑、仏に宣戦布告し侵入した英・西軍を撃破して島全土を掌握。ルーヴェチュールが1801年自らを終身総督とする自治憲法を公布し、ハイチを立て直そうとしたが、「奴隷制復活」を掲げたナポレオンが軍を派遣し、その反乱は鎮圧され首謀者は獄死。再び、蜂起したジャン=ジャック・デサリーヌの反乱軍は英の支援で仏軍を駆逐した。 |
| 1804年~ |
独立 < ハイチ帝国 >1804年~1806年 デサリーヌ・・建国の父・・は国名をハイチに変更して、ナポレオンに倣って皇帝・ジャック1世として即位し、白人を追放、翌年憲法制定、翌年北部・クリストフや南部・ペションの勢力により暗殺された。 < ハイチ国 > ハイチは北部の ハイチ国 と南部のハイチ共和国に分裂した。ジャック1世の暗殺に関わった一人であるアンリ・クリストフが「ハイチ国陸海軍大元帥兼大統領」に就任した。1811年、クリストフは突如自身を国王と宣言し、 アンリ1世 として独裁的に振舞い始めた。北部王国では、クリストフが王制[ハイチ王国]を宣言、圧政を敷き、対仏征服名目で宮殿、城塞<両者共に世界遺産>を建設、1820年国王アンリ1世が自殺。 < 南北分裂で南部のハイチ共和国 > 南北に分かれて争ったが、南部共和国では、ペションが農地改革でプランテーションを解体、革命戦士に土地を分配、南米の解放者・シモン・ボリーバルも亡命してきた。 < ハイチ共和国による南北統一 >1820年 南部のペションの後継者ボワイエ大統領がハイチを再統一した。 < ハイチ共和国による全島統一から「ドミニカ共和国」分離 > 1820年イスパニョーラ島の東2/3を支配していた、スペイン人クリオージョ達が「スペイン人ハイチ共和国」の独立を宣言し、「コロンビア共和国」への編入を求め1821年内戦に陥ると、ハイチは東進してこれを併合1844年まで 全島に独裁体制 を敷いた。この時期に、仏艦隊が迫り、ボワイエ大統領は「独立時に仏系植民者から摂取した農園・奴隷に対する莫大な賠償金」を請求され、シモン・ボリーバルが主催した国際的な パナマ会議が失敗 に終わり、ハイチの独立は承認されず、仏に対して 独立を承認してもらう代わりに賠償金の支払いに応じた ため、賠償金が長年の借金としてハイチを苦しめる。1843年ボワイエ独裁への反乱でボワイエは亡命し、国は無政府状態に陥り、1844年上記賠償金のための重税で苦しむ東部の西班牙系住民が再度「ドミニカ共和国」の独立を宣言、これに敗北して手放すなど内政は混乱が継続。 |
| 1849年 |
< ハイチ帝国 >1849年~1859年 この状況を収拾したフォースタン将軍は黒人奴隷出身で1791年の反乱にも参加した人物で、大統領に就任、さらに1849年には帝政を宣言・皇帝フォースタン1世を名乗る。圧政、秘密警察配備、隣国侵入を行い、1859年圧政で困窮した民を救うべく将軍の蜂起を呼び、帝政は崩壊、共和制に復帰。しかし、国内情勢は復帰不可能なまでに悪化、大統領交代、内戦が発生。 |
| 1915年~1934年 |
米国による軍事占領 (債務返済問題を理由に海兵隊派兵、数十万のハイチ人がキューバ、ドミニカ共和国に亡命。1934年には世界恐慌、ニカラグアのサンディーノ軍との苦戦などで米大統領ルーズベルトの善隣外交政策のもと海兵隊が撤退。) |
| 1946年~1956年 |
米占領以来、共和制下で数人のムラートの大統領が交代、1946年クーデターでエスティメが黒人大統領になり改革を企図したが 国内混乱 を招き、黒人の軍事政権が誕生、一時は活況を呈したが全土でゼネストが起こり1956年クーデターで打倒された。 |
| 1957年9月 |
< 秘密警察(トントン・マクート)の時代 > フランソワ. デュヴァリエ大統領 (1964年以降終身大統領)国民統一党 黒人多数派を代表する医師でポピュリスト政治家から翌年には軍事独裁者に転じた |
| 1971年4月 |
ジャン=クロード.デュヴァリエ (F. デュヴァリエ の子息)大統領就任 |
| 1986年2月 |
J.C. デュヴァリエ 大統領ハイチ出国 |
| 1987年4月 |
民主憲法発布 |
| 1991年2月 |
ジャン=ベルトラン・アリスティッド大統領就任(元サレジオ修道会の司祭、支援母体「Lavalas」から初めての民主的選挙で選ばれた34代大統領、後に36,37,39代大統領歴任) 首相はルネ・ガルシア・プレヴァル(デュヴァリエ時代に亡命していた、後に38代、40代大統領) |
| 1991年9月 |
軍事クーデター、 アリスティッド大統領国外脱出 |
| 1993年7月 |
アリスティッド大統領の帰国に向け合意成立 |
| 1993年10月 |
国連安保理制裁再開(6月に実施、8月末に停止されていたもの) |
| 1994年5月 |
国連安保理制裁強化(全面禁輸等) |
| 1994年7月 |
国連安保理、加盟国に 多国籍軍創設 を認める決議を採択 |
| 1994年9月 |
カーター合意により 軍指導部は退陣に合意 。多国籍軍、展開 |
| 1994年10月 |
アリスティッド大統領帰国 |
| 1995年3月 |
多国籍軍が国連ハイチ・ミッション(UNMIH)に移行 6月の選挙では多党連合であるラヴァラ(Lavalas)政治機構(OPL)が圧勝 |
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