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(チェコ その1 から続く)
| 1918年-1938年 |
<第一共和国> 第一次世界大戦後、チェコとスロバキアが合同し、チェコスロバキア共和国成立。トマーシュ・マサリク大統領の下で、民主主義体制を堅持。しかし、国内に300万人を数える独系住民(ズデーテン・独人)に代表される少数民族問題は解決されることなく、大恐慌による経済の悪化も重なり、逆にヒトラー政権に利用される。 |
| 1938年-1939年 |
<第二共和国> ミュンヘン協定で、ズデーテン地方を独に割譲。一方、この隙に乗じポーランドは、争点でのザオルジェ地方に進駐、これを占領。翌1939年にはナチス・独が進駐、チェコスロバキアは解体、ボヘミア・モラヴィア地方が独保護領となる。 |
| 1939年-1945年 |
<独の占領期> |
| 1945年 |
< 第二次世界大戦後、独立回復 > ナチス・独敗走の結果、ソ連軍が国土の大半を「解放」。ロンドン亡命政府、共産党の連立政府発足。「東西の架け橋」を標榜する、ベネシュ大統領は、独系、ハンガリー系住民の市民権剥奪、私有財産没収を命じ、領内250万人超の独系住民を追放。1946年、選挙で、共産党がなんとか第1党になり(スロヴァキアでは、第2党)共産党指導者首班の内閣が成立。1947年、マーシャル・プランへの参加を表明するも、ソ連の圧力で撤回。「一国の外相としてモスクワへ行ったが、ソ連の下僕としてプラハに戻ってきた」ように、日増しにソ連、共産党からの圧力が高まる。 |
| 1948年 |
< 共産主義体制確立 > 非共産党系閣僚がベネシュに辞表を提出、ゴットワルト内閣の総辞職を目論むが、共産党は労働組合などを動員、ベネシュに圧力をかけた。結局、ベネシュは辞表を受理し、共産党と社会民主党左派政権が成立、チェコスロヴァキアにおいて共産化が完了(二月事件)。3月、閣内に残るヤン・マサリクの暗殺説が囁かれるなか、政府は事故死として事件を収拾。ベネシュは大統領職を辞し、9月3日に死亡。 |
| 1948年~ |
< 共産党体制の時代 > ベネシュに代わり、大統領に共産党指導者クレメント・ゴットワルトが就任。基幹産業の国有化、農業集団化を推進、ソ連型社会主義を建設。またソ連・ユーゴ対立の影響で、国内で「チトー主義者」に対する粛清・弾圧、スロヴァキア自立を求める者などに及んだ。1953年、スターリンの葬式から帰国したゴットワルトが死去。党第一書記には、アントニーン・ノヴォトニーが、大統領にはアントニーン・ザーポトツキーが就任。1956年のソ連共産党第20回党大会におけるスターリン批判は、隣国ポーランドとハンガリーで体制危機を招いたが、チェコスロヴァキアでは、その影響は体制を揺るがすまでには至らなかった。1960年に発布された憲法によって、国名はチェコスロヴァキア社会主義共和国となり、社会主義建設は順調に進んでいることを内外に印象付けた。 |
| 1968年 |
<プラハの春事件> しかし、1960年代に入ると、経済成長の鈍化、スロバキアの自治要求、知識人や学生などからの批判が高まり、1968年1月、ノヴォトニーに代わって、 アレクサンデル・ドゥプチェクが党第一書記に就任。「人間の顔をした社会主義」を掲げ、言論の自由化や計画経済への市場原理の導入、粛清犠牲者の名誉回復といった共産党体制の改革 を進めた(毎年春開催の音楽祭にちなみ「 プラハの春 」と呼ばれる)。8月、"西側化"を危ぶむソ連がワルシャワ条約機構軍を介入、鎮圧(チェコ事件)、「プラハの春」は終わった。1969年4月、ドゥプチェクは党第一書記を解任され、代わってグスターフ・フサークの「正常化体制」が始まり、改革に賛同の党員、知識人などを公的生活から追放。1977年、哲学者ヤン・パトチカや 劇作家ヴァーツラフ・ハヴェル などが憲章77を発表、政府の人権抑圧抗議運動を起こす。反体制派の合議組織「 市民フォーラム 」(Občanské fórum:OF)結成。 |
| 1989年11月17日 |
民主革命(「ビロード革命」)により共産主義体制が終結 1989年11月17日、全国民の75%が参加したゼネストが正午から午後2時まで国内全土で行われた。ビロード革命により共産党体制が崩壊した。 大統領にハヴェルが、連邦議会議長には、ドゥプチェクが就任 した。 |
| 1993年1月 |
市場経済への移行政策や連邦政府と共和国との権限配分をめぐって、チェコとスロバキアの対立が深まり、1993年1月にスロバキアとの連邦を解消し チェコ共和国 に。 1995年11月OECD加盟。 |
| 1996年 |
クラウス中道・右派連立政権下で経済は安定化していたが、春の下院選挙で左派の社民党(CSSD)が大躍進、第二次クラウス政権は少数内閣となる。1997年11月与党市民民主党(ODS)の政治献金疑惑を契機にクラウス政権は総辞職。 |
| 1998年6月 |
繰り上げ選挙でCSSDが第一党となるが、左派、右派とも単独過半数をえられず、 右派ODSの閣外協力支持のゼマンCSSD政権 が成立。 1999年3月NATO加盟。 |
| 2002年6月 |
下院選挙でCSSDがなんとか第一党を保ち、基督教民主連合-人民党(KDU-CSL:中道)、自由連合-民主連合(US-DEU:右派)間の政策協議・連立交渉で翌月、シュピドラ連立3党政権が成立。 |
| 2003年2月 |
民主化革命後約13年間大統領を務めたハヴェルが退任。決選投票でクラウス元首相(ODS)が大統領に選出される。 |
| 2004年5月 |
シュピドラ連立3党政権は EU加盟を成し遂げた が、欧州議会選挙での敗北を受けて同首相は辞任。グロス首相の下で第2次3党連立内閣が発足。 |
| 2004年11月 |
上院選挙(1/3改選)で敗北、政治スキャンダル等が加わりグロス首相が退陣、2005年4月パロウベク内閣が発足 |
| 2006年6月 |
下院選挙実施後の野党第一党・市民民主党(中道右派:ODS)党首トポラーネクの少数内閣が一度は下院の信任を得られず総辞職した後、翌年1月に第二次内閣として再度成立。 |
| 2008年2月 |
クラウス大統領が再選。 |
| 2008年10月 |
上院選挙(1/3改選)、地方選挙で野党第一党社会民主党(CSSD)が躍進。2009年3月下院で内閣不信任案可決を受けて内閣総辞職。フィッシェル選挙管理内閣発足。2010年5月の下院選挙では、多数党派を組めない第一党CSSDに代わり、第二党ODSが音頭を取り、新党「TOP09」、「公共の物(VV)」との連立に成功、ネチャスODS党首が7月に組閣した。 |
| 2010年10月 |
上院選挙(1/3改選)では、最大野党CSSDが票を伸ばして、上下両院に捻れが発生。12月には副首相のVVからの離党、3党の連立解消が合意、3党から新たに構成し直した、新党LIDEMの連立政権が下院で承認された。 |
| 2012年10月 |
上院選挙(1/3改選)では、最大野党CSSDが票を伸ばして、上下両院に捻れが一層強まった。左派政党を合わせると、上院の安定多数である60%の議席を確保している。 |
| 2013年1月 |
任期満了に伴う大統領選挙が、初めて直接選挙により実施され、2回にわたる投票を経てゼマン元首相が選出され、3月8日に正式に就任した。 |
| 2013年6月 |
ネチャス内閣が政治的スキャンダル等により辞任したことを受け、同年10月に下院繰り上げ総選挙が行われた。この結果、第一党となったCSSD、同選挙で初めて議席を獲得した新政党ANO(「Yes」という意味の政党名)、キリスト教民主同盟-人民党(KDU-CSL)の3党からなる連立政権が樹立され、2014年2月に下院による信任を受け、ソボトカ内閣が発足した。 |
| 2017年10月 |
実施された下院総選挙において、ANOが第一党となり、長期連立交渉の結果、7月にバビシュ内閣が発足した。また、2018年1月には大統領選挙が実施され、決選投票を経て現職のゼマン大統領が再選された(2期目の任期は3月から)。 |
| 12021年10月 |
下院総選挙では、単独政党としてはANOが議席数において僅差で第一党を維持するも、SPOLU(「共に」の意味の右派野党連合)とPirSTAN(海賊党と首長連合(STAN)の中道連合)による二大野党連合が過半数の議席を得る結果となり、野党5党の連立を纏めたフィアラ氏が11/28ゼマン大統領の任命を受けた。 |
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