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Feb 5, 2019
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​​​​​ ​​​☆

賢明なる諸兄へ

 さて、先日 「
BS日テレ」
 北海道が ソ連の進撃から逃れた話:
ソ連の北海道侵攻が阻止された理由
なる番組を見ました。
 その感想をお送りします。

1.
 講師は、樋口 隆一 明治学院大学名誉教授。
 先生は、バッハ研究の大家です。
 さて、先生は、
終戦時の北海道第5方面軍 司令官、
樋口 季一郎 陸軍中将のお孫さん だそうです。

2.
 1945年8月15日前後、
カムチャッカ半島からソ連軍が、
千島列島の小島・
​占守島​ (しむしゅとう)を攻略し、
その後北海道を目指す予定でした。
 この島の日本軍が樋口司令官の配下にあり、
8月15日を過ぎていましたが(停戦違反)、
撃退しました。
 ソ連の戦死者4,000人に対し
日本の犠牲は400人でした。
 樺太、満州から北海道に侵攻すべき
ソ連軍も到着がおくれましたが、
千島列島の小島の日本側勝利で
侵攻はストップしました。
 ソ連の狙いは不凍港「釧路」の獲得
にあったそうです。
 つまり、留萌、釧路を結ぶ地域の東を
占領する予定でした。
 トルーマン大統領は、
スターリンからの北海道占領の要請を断りました。
 そこで、北海道の侵略は阻止されたそうです。

3.
 だから北方領土の問題は
まだ「片ついていません。」
樋口先生の解説も面白かったです。
 バッハに関しては、先生の本を
1冊読んだだけですが。​


​​​








<めいてい君の追加>

​​​​​ 1.読売新聞 2019.1.27 7:00 文化
「スターリンの野望」北海道占領を阻止した男





https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20190125-OYT8T50003/3/
(期間限定でWebで公開しています。)

・・・・・・
 樋口季一郎司令官(陸軍​中将)​は
​​​​ 1. スターリンの占守島占領に抵抗して
  第5方面隊を指揮して
​   北海道になだれ込むのを断念させた 。​
   日本軍自衛の戦闘での死傷者600名、
   ソ連軍死傷者3,000名
   とも。
  仕方なく、ソ連は北方四島を占拠し、
  シベリア抑留の手段をとった。
2.樋口中将を戦犯にするよう連合国軍に求めた
  スターリンであったが、かつて満州で
​ユダヤ系ドイツ人の通過を認めた​
  樋口中将の好意に恩を感じたユダヤ系団体の
  反対圧力もありマッカーサー元帥は拒否した。
​   もう一人の杉原千畝 と呼ばれる所以である。​
・・・・・・・・・・・







司令官は樋口季一郎中将




堤中将は、第5方面軍傘下の第91師団
(千島列島の占守島から捨子古丹島)の
師団長である。




(前略)

​当初、日本側は上陸してきたのは
ソ連軍と断定できず国籍不明
としていたが、次第にソ連軍と
認識するに至った。
ソ連軍が占守島に上陸したとの報を受け、
第5方面軍司令官の 樋口季一郎中将は、
第91師団に「断乎、反撃に転じ、
ソ連軍を
撃滅すべし」と指令を出した。
師団長の堤中将は、射撃可能な砲兵に
上陸地点への射撃を命ずるとともに、
池田末男大佐(死後、少将へ進級)率いる
戦車第11連隊に対し師団工兵隊の
一部とともに国端方面に進出して
敵を撃滅するように命じた。
同時に他の第73旅団隷下部隊に対しても
できる限りの兵力を集結して全力で
この敵に当たるように命じ、
幌筵島の第74旅団にも船舶工兵の舟艇による
占守島への移動を命じた。
これを受けて戦車第11連隊は直ちに出撃し、
第73旅団でも沼尻に配備されていた
独立歩兵第283大隊(大隊長:竹下三代二少佐)
をソ連軍の東翼へ差し向け、
その他の隷下部隊を国端崎へ前進しようとした。​
戦車第11連隊は、18日午前5時半頃から
連隊長車を先頭に四嶺山のソ連軍に突撃を行って
撃退し、四嶺山北斜面のソ連軍も後退させた。
ソ連軍は対戦車火器(対戦車砲4門のほか対戦車銃
約100挺)を結集して激しく抵抗を始め、
日本戦車を次々と擱座・撃破したが、
四嶺山南東の日本軍高射砲の砲撃を受け、
駆け付けてきた独歩第283大隊も残存戦車を先頭に
参戦すると、多数の遺棄死体を残して竹田浜方面に
撤退した。
戦車第11連隊は27両の戦車を失い、池田連隊長以下、
将校多数を含む96名の戦死者を出した。
その後、日本側の独歩第283大隊は国端崎に向け前進し、
ソ連軍が既に占領していた防備の要所を奪還した。
ソ連軍はこの地の再奪取を目指して攻撃を開始し、
激しい戦闘となった。
独歩第283大隊は大隊長が重傷を負い、
副官以下50名余が
戦死しながらも、
要地を確保して第73旅団主力の四嶺山南側

への集結を援護することに成功した。
この戦闘の間、ロパトカ岬から
ソ連軍130mm砲4門が射撃を
行ったのに対し、
四嶺山の日本陸軍の九六式十五糎加農1門が
応戦して
全門の制圧を報じている。
18日午後には、国端崎の拠点を確保し、
戦車第11連隊と歩兵
第73旅団主力が四嶺山の東南に、
歩兵第74旅団の一部が
その左翼及び後方に展開し、
日本軍がソ連軍を殲滅できる
有利な態勢となった。
昼ごろに第5方面軍司令官から、
戦闘停止・自衛戦闘移行の
命令があったため、
第91師団はそれに従い、

18日16時をもって積極戦闘を停止することとした。
しかし、実際には戦闘は続いた。
夜までには、幌筵島の第74旅団も
主力の占守島転進を終えた。

ソ連軍は霧の晴れ間に航空機を飛ばして
海上輸送の攻撃を
行ったが、
阻止するには至らなかった。

樋口は大本営に現状を報告。
大本営は米軍を率いるマッカーサーに
スターリンへの停戦の
働きかけを依頼したが、
スターリンはこれを黙殺した。
18日16時は停戦時間であったが、
なおもソ連軍上陸部隊

(狙撃連隊2個と海軍歩兵大隊)は、
日本軍に対して攻撃を仕掛けた。
艦隊とロパトカ岬からの砲撃も手伝い、幅4km、
深さ5~6kmにわたって橋頭堡を確保した。
すでに反撃行動を停止していた日本軍は、
無用の損害を避けるため後退した。
ソ連軍航空部隊は間欠的に夜間爆撃を行った。
ソ連軍の重砲・自動車など重量のある貨物の
荷降ろしが完了
したのは、
翌日に日本側沿岸拠点に停戦命令が届き、

その砲撃が無くなってからだった。

(後略)


(以上はWIKIPEDIAから)





​​​​
​​​​​​​​ ​2.「知恵袋」から​

<質問>
1945年8月、ソビエト軍が
北海道まで南下しなかったのは、
なぜですか?

<ベストアンサー>
 もともと極東ソ連軍は正式に
北海道侵攻の作戦計画を立てていました。

ソ連参謀本部 が対日進攻作戦計画を
策定しはじめたのが1945年5月からで
完成させたのが7月30日、
8月9日に不可侵条約を破棄して
対日宣戦布告し満洲に進攻しました。
 続いて8月11日に南樺太進攻
日本がポツダム宣言受諾を通告し
自発的戦闘を停止した後も
8月16日から9月3日にかけて
千島から北方4島に侵攻して占領 します。
さらにソ連極東軍司令官ヴァシレフスキーの
スターリン宛電文により、
8月19日時点では
すでに北海道進攻作戦が作戦準備
入っていたことが明らかになっています。

 ところが 8月18日、
米大統領トルーマンがスターリンに
北海道は米軍に降伏する ことになったと
通告しました。スターリンは激怒します。

 これには前段があって、
7月16日にアメリカで世界初の核実験が成功、
速攻で日本に対する原爆使用が決定され、
17日からはポツダム会談が始まり
トルーマンは24日にソ連に原爆の実用化を
匂わせておいて26日にポツダム宣言発表。
当初の原爆投下予定日は8月4日、
実際には天候の関係で遅れて広島8月6日
長崎8月9日、
日本のポツダム宣言受諾通告が8月14日で
終戦詔書発布が8月15日。
降伏文書調印が9月2日で、
ここでやっと正式に日本敗戦になります
(ですからソ連の北方領土侵攻は
実は1日オーバーしています)。

アメリカとしては原爆によって、
日本に対する終戦圧力に加え、
ソ連に対する威力誇示 という
二重の利得を得る形になっていたわけです。

 そこで停戦した日本に対して
まだ正式に降伏していないからという理由で
侵攻を続けるソ連に強力な圧力をかけたわけです。

 結局 スターリンは激怒しながらも
これを黙認して北海道侵攻作戦を中止
そして23日にはその代替として
極東日本人捕虜50万人の抑留が
極東ソ連軍に指示されて、
北海道占領計画は中止 になりました。
 北海道という広大な占領地をとれなかった
彼はどうしてもソ連国民に対して
「これだけの戦果を挙げたぞ」
と政治宣伝したかったわけで、
これがその後長期にわたる
シベリア抑留の悲劇を生むことになるのです。​​​​​​

☆​​​​​​​​


3.樋口 隆一氏略歴
   WIKIPEDIA





☆​






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Last updated  Apr 29, 2020 02:07:43 PM
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