いろいろ日記

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綿谷ノボルという存在



   「綿谷ノボルという存在」


 綿谷ノボルは、自分の中の柔らかな感受性を、完璧にくびり殺した存在なんだと思う。

 親の偏った価値観の枠にしっかりからめとられて生きる子供は、たいへん苦しい思いをすることが多い。しかし普通は、成長のどこかで親の要求が子供の能力の限界を超えて、期待に応えられなくなり、「こんなこと、やってられるか。」と荒れたり、反抗したり、また、子供の世界が広がるうちに、親の価値観の偏りに気がついて自分で苦しみながらでも修正したりしていくものだ。
 しかし、子供の能力がずば抜けて高いとき、不幸なことに何の疑問を持たないまま、その路線を突き進んでいってしまえることがある。しかし、そういう場合、その子供は自分の中から湧き上がってくる自然な要求、願望に耳を傾ける回路をふさいでしまう危険性があるように思う。遊びたかったり、サボりたかったり、だらだらしていたかったり、そういう自分をずっと押し殺して生きているのに慣れてしまうと、人間として当然感じるような要求を自分が持っていたことすら忘れてしまうのではないだろうか。

 そうやって成長して大人になった人は、たしかに忍耐強い人ではあるのだが、その忍耐強さというのは自分の自然な感情に対する感受性がむちゃくちゃ鈍くなっている、ということに過ぎないのかもしれない。そして、悪いことに、自分が鈍感な分、人の自然な感情を踏みにじっても心を痛めることはない。

 そういう人が政治家になったとき、その人の存在は、たいへん危険なものになりうると思う。

 こんなことを書いているのは、ライス国務長官の生い立ちが先日ラジオで紹介されていたのを聞いたからだ。
 そのラジオによると、彼女は牧師のお父さんとピアノの先生のお母さんの間に生まれた。お母さんは、この子にはしっかりした学歴をつけて馬鹿にされないようにしよう、という信念を持って彼女の教育に当たり、彼女は3歳から、ほとんど1日中机に向かって勉強する、という生活を送ったそうだ。また、ピアノをはじめとして、一通りの教養をつけるため、習い事に日々昇進することも怠らなかった。彼女は親の期待によく応えてすばらしい成績を修め続け、エリートコースに乗って、ついに国務長官にまでのぼりつめたのだった。
 さて、これは、いったい美談なのか。彼女がいかに充実した楽しい子供時代を送り、いかに幸福感を感じるのか、といった配慮はそこにはないように思う。彼女の子供時代は親が思い描いた未来の設計図を完成するために使われた。その設計図どおりに生きて彼女が本当に人間として幸福になれるか、という疑問は棚上げされたままだ。そして、彼女は、今、自分が幸福かどうか、という根源的な問いかけを自分にできているだろうか。達成感と幸福感とは別個のものだと思うのだが。

 綿谷ノボルは、たしかに被害者なのだが、加害者になりうる危険な存在なのだ。綿谷ノボルの井戸はすっかり埋められてしまって、もう、そこに降りていくことすらできない。いかなる子供も綿谷ノボルにしてはいけないと思う。いかなる子供からも、子供時代をうばってはならない。子供は未来のために生きているのではない。子供は今を生きる存在なのだ。

 は~。(ためいき)
つい、力が入ってしまった。

 子育てってむつかしい。あたしが親のやり方をはみ出すとき、これでいいのかという自責の念が強く出てきて、これでいいのだ、という気持ちと、ほんとにこんなことでいいのか、という気持ちとの葛藤でへとへとになってしまうのだ。(へなへな~)悪いことにオットーが自分の受けてきたやり方を持ち出して対立すると、あたしはダブルパンチを受けて、立ち直れない気分に陥る。
 あたしは、なんとかここに踏みとどまっていたい。ぷんちゃんがしあわせな子供時代を送れるように援助してやりたいと思う。なんでそれがこんなに困難なのか。何があたしをこんなに縛るのか。あたしは井戸の底で、それと対決しているのだと思う。すごくつらい作業に感じることもしばしばだ。
 しょぼしょぼした自分にとどまり続けること。それは今のあたしには大きな課題なのだ。(は~。)あたしも、ずっと達成感で生きてきた女なんだな~。達成感は気分がいいから、幸福感とすりかわりやすいと思う。








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