いろいろ日記

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赤坂シナモン



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 赤坂シナモン
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 赤坂シナモンについて考えると、私は、人はずっと続いてきた命のつながりの一環として生きている存在なんだということを改めて実感する。

 先日、臨床心理士の降旗志郎氏の本(『軽度発達障害児の理解と支援」)を読んでいて、「特命天使」という言葉に出会った。

  「子供は、この家のご先祖様から『この家に行きなさい、この家にはこういうことが起こるからしっかりやりなさい』と言われて生まれてきたのではないでしょうか。お母さんの実家のご先祖様からも『うちの娘はここにお嫁に行っている。あなたはその人をお母さんとして生まれるけど頼むね』と言われてきているのではないでしょうか。そういう特命を受けて生まれてきた、いわば特命大使であり特命天使(天の子ども)なのではないでしょうか。」

 私自身、子ども時代に、母の苦しさ、生き辛さを間近に見ながら支え続けてきた自覚がある。その上で、私では母を幸せにできないと言う強い無力感にずっとさいなまれていた。その無力感は、私の大人になってからのくつろげなさ、自責の念と直結していたと思う。特命天使としての仕事は、うまくいかないことが多い。なぜなら大人である母親を子どもが支えようとするのはもともと強い無理があるからだ。そして、大人になってから、得体の知れない生き辛さに苦しんだり、あるいは、突然母親に対する強い怒りが自分の中にあることに気づいて愕然としたりする。挫折した特命天使の失望感は深いのだ。

 さて、赤坂シナモンだが、彼は稀にみるとびきり優秀な特命天子だ。
母親であるナツメグは、ふと思うのだ。「わたしが人びとを癒し、シナモンがわたしを癒す。でもシナモンを誰が癒すのだろう?シナモンだけがブラックホールみたいに一人ですべての苦しみや孤独を飲み込んでいるのだろうか?」
シナモンが支えている母親のナツメグは、命のつながりの輪のなかでちょうど身動きできない場所にいて、他の人の荷まで引き受けている存在なのだ。重荷はさらにシナモンにかかっていることだろう。
 シナモンは物静かに満ちたりている。彼は、その場所で特命天使の仕事を全うしている。彼は、力のある特命天使なのだ。しかし、たとえばナツメグが失われたとき、つまり、シナモンがその特命天使の仕事から解放されたとき、彼はどう自分の立ち位置を定めていくのだろう。
 ただ、彼に限ってはナツメグにかわる誰かと強い共依存の関係を結ぶようなことにはならないと思う。なぜなら、彼は、ナツメグの置かれた困難な場所が、彼女自身ではどうしようもできない巡り合わせであることを深く理解し、成熟した自分の意思でナツメグをサポートすることを選択したのだと感じられるからだ。
 シナモンに引き継がれた課題は、シナモンから声を奪うほど、重いものだったのだろう。彼は、それを引き受けていくために独自の成長の仕方をとる必要があったのだと思う。彼を成熟させたのは、彼自身である。ナツメグは、それを邪魔しなかった。邪魔しないと言う形で、ナツメグはシナモンを支え得たのだと思う。
 子どもに委ねられた特命天使の仕事は、できるだけ早く終わらせてやるにこしたことはないと思う。そのためには、昔特命天使だった母親自身が、無力な自分を本当に受け入れて、できるだけ自分の代で、親から受け継いできた重荷を軽くしていくしかないと思う。ナツメグは、その場所で精一杯やっているのであり、それは、シナモンにもわかっていることなのだ。

 さて、私も、自分の特命天使の荷を降ろそうと思う。ずっと背負ってきて、すっかり自分の体になじんでいるものだから、荷を降ろすのはとても怖い。だから、毎晩ぐっしょり寝汗をかいたり、変な時間にがばっとめをさましたりしている。でも、やるしかないんじゃないのかなあ。私は、ちょうどそういう位置にくるように生まれあわせたのだろう。


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