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★☆『 映画「長州ファイブ -CHOSYU Five- 』★☆ ★☆『長州ファイブ』について★☆ この映画は、日本の夜明けの幕末の歴史の1ページを描く感動の作品です。初代総理大臣となった伊藤博文らまだいずれも20代前半の若き長州藩のサムライ達5人が1853年の黒船ペリーの来航など西洋諸国の日本進出や中国を含む他の周囲のアジア諸国の植民地化に危機感を抱き、「敵を知り、己を知れば百戦、危うからず」という孫子の発した故事と吉田松蔭の教えに発奮し、日本を救う道は西洋の先進技術や制度を学びそれを取り入れて吸収し、軍事・工業技術や国力を急速に高めて江戸幕府から近代国家に転換するしか対抗する道はないと判断し、イギリスのロンドンに密航してイギリス人家庭の部屋を借りてホームステイでロンドン大学に学びながら造幣、造船、鉄道の技術を貪るように見聞、文明化された英国と祖国日本の違いに興奮して学ぶ長州の若者5人の姿を描いています。日本を変えるため、命を懸けて海を渡った彼らをイギリス人は「長州ファイブ(Chosyu-Five)」と呼んで尊敬しているそうですが、こんな偉大な日本人の先祖が活躍したことを知らないのは、残念ながら外国人ではなく、近代史の歴史を満足に学んでいない当の日本人の方だったのです。・・恥ずかしいことです。全国公開に先駆け、山口県、北九州市にて先行上映しています。 ★☆鑑賞結果・感想★☆ この映画は、時代考証がよく研究されている作品で、映像に映る幕末の町並みや風景が忠実に描かれていました。プロローグの大名行列の前を馬で横切る西洋人を無礼者として斬り殺す衝撃的な史実(生麦事件)に基づいたシーンでまず物語が始まります。江戸末期の幕末と呼ばれるあの時代は、まさに激動の時代で20歳そこそこの若いサムライ達が「国難を救う」ために自らを犠牲にして懸命に東奔西走し活動しているのを見ると、当時の若者達は偉大な人たちが多かったのだと思いました。長州ファイブの一人である山尾庸三(東京大学工学部創設者)役には、性格俳優だった松田優作の息子の松田龍平が演じていますが、他の役者も若きサムライらしさがよく演じられていて素晴らしい演技でした。最後のエピローグシーンも迫力あるバックミュージックで一層効果のあるシーンが演出されていました。史実に基づいた作品なので、幕末の時代についてある程度の予備知識があれば一層楽しく鑑賞できるのではないかと思いました。【長州ファイブたちの功績】伊藤博文(いとうひろふみ)1841~1909→(三浦アキフミ) 内閣制度立ち上げ。日本帝国憲法草案作成。 初代・内閣総理大臣となった。井上 馨(いのうえかおる)1835~1915→(北村有起哉) 西欧化政策をすすめる。井上 勝(いのうえまさる)1843~1910→(山下徹大) 新橋~横浜間に日本初の鉄道を敷く。遠藤謹助(えんどうきんすけ)1836~1893→(前田倫良) 体調を崩し、無念の帰国。 後に造幣局整備に尽力する。山尾庸三(やまおようぞう)1837~1917→(松田龍平) 造船技術を学び、近代化をすすめる。 後に、東京大学工学部を創立。 2006年度「長州ファイブ」製作委員会作品配給:リベロ監督:五十嵐匠出演:松田龍平、山下徹大、北村有起哉、三浦アキフミ、前田倫良、原田大二郎、榎木孝明、寺島進、泉谷しげる(佐久間象山役) 他公式URL: http://www.chosyufive-movie.com/長州ファイブ [ 松田龍平 ]価格:2531円(税込、送料無料) (2019/12/24時点)楽天で購入ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2006/11/25
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★☆ 峡谷を流れる水の流れと木々や断崖沿いの道を歩く ★☆ I strolled in Tyomonkyo Yamaguchi prefectural Wildlife Park. ~ 詩人「中原中也」も遊んだ長門峡(ちょうもんきょう)の美 ~Beauty of Tyomonkyo by which poet "Tyuya Nakahara" also played 昨年の11月10日(水)、REALISTは、秋の「長門峡」を訪れて、スタート地点の道の駅「長門峡」から「竜宮淵」までの片道総距離5.55kmを約3時間かけて往復(約11km)を散策しましたが、写真は、そのうちの最初の往路の片道を2時間余りかけて撮影したものです。撮影後は、帰りの復路の片道を約1時間で道の駅「長門峡」の駐車場まで戻りました。 今回は、Part-V(パート5)として、前回の写真の続きから、REALISTが散策した片道行程ルートの写真を順次ご紹介します。 このシリーズは、「竜宮淵」の終点に至った今回で終了します。 This series ends this time arrived at the terminal of "Palace of the sea goddess pool". 進路右前を観ると、木々の間から深い底の岩が見える透明感ある豊かな水をたたえた渓谷があります。水面に映る紅葉も綺麗ですが、ここは日本ではなくて北欧か北ヨーロッパの渓谷の自然中にいる様な雰囲気がありました。ヨーロッパのお城もこの風景ならきっと似合うでしょう。 エメラルドグリーンに染まった静寂の水はゆったりと流れていました。The water of the silence dyed to emerald green flowed in a relaxed manner. 岩が雪の様に見えますが、石灰岩や大理石の白い岩が一面に続いています。ここで何万年と流れた自然の水が創造したこの渓谷では様々な形状の岩や水の流れの神秘を感じることができます。 素晴らしい風景だと、しばらく眺めてパチリと撮影しました。実は、写真には写っていませんが、他にもカメラで撮影している人々があちらこちらでも見かけました。 やがて、赤い橋が見えてきました。この橋は、「紅葉(もみじ)橋」と命名されています。 ここから上がれば、橋を渡ってその先でもしばらく風景を楽しみ歩くことができますが、しかし、橋を渡った先は、以前の大雨の崖崩れで通行止めのままなので橋を渡ることをあきらめました。 「紅葉(もみじ)橋」の先は、赤い紅葉で赤く染まっていました。 さてさて、先をしばらく進むと、第2の洞穴(ほらあな)が進路先にあり、穴の中を見ると暗い感じでしたが、突入!!ここは奥行きが15mぐらいでしょうか? 穴の中から出口に差しかかったのでパチリと撮影! 穴を出ると、水の音が!右下を見下ろすと、光り輝く水面(みなも)とゆるい波紋も見えました。A shining surface of the water and a loose ripple were seen when looking down at lower right because the sound of water was heard when going out of the hole. 道の先が見えないので、よく観ると左下に傾斜のある下り坂の道になっていました。道は人がやっと一人が歩ける道幅で狭い断崖沿いの道ですが、スリルがありますね。 高い道から低い渓谷沿いの道となりました。歩くたびに万華鏡の様に景色は変化していました。It became a road along the valley low from a high road. Whenever walking, scenery had been changed like the kaleidoscope. 渓谷のずっと先まで見通せる地点だったので、パチリと撮影!この先のずっと先が終点なのですが・・ しばらく歩き続けると、川幅が狭くなってきましたが、水の流れは少し速くなっている様でした。 先の方にアユ料理のお店の建物が見えてきましたので、終点の「竜宮淵」も近いことがわかりました。 やがて、道路の舗装が真新しく手すりも立派になりました。終点はもうすぐです。 「竜宮淵」に到着すると、渓谷の水路の川幅は大きくなりました。 道沿いにあった「長門峡県立自然公園」の案内板です。 「竜宮淵」の駐車場付近にある「長門峡遊歩道案内板」です。ここにある駐車場は広いので、車を駐車して遊歩道を散策する人も多いようですが、県外の観光客には、ここがわかりにくいという欠点がありますね。 この長門峡を初めて世に知らしめたのは、イギリス人のガントレット氏ですが、その後、その美しさに魅了されたフランス留学帰りの「高島北海」という人物が、この地を世間の誰もが観光できるようにと私財を投げ打って開発したことがよく分かりました。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2011/02/13
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★☆ 青い空、青い海、白い砂浜、白い入道雲、ビキニの乙女たち ★☆ Blue sky, blue sea, white sandy beaches, towering white cloud in summer, Bikini girl ~ 待ち遠しかった夏休み!海で遊んだ思い出のイメージそのもの ~ REALISTの学生の頃は、夏休みが始まる今頃、もうドキドキ、ソワソワしていましたね。遊ぶ時間を確保するために、休み中の宿題の大半は7月中から8月の上旬までには全部済ませていました。午前中が勝負だとの思いで、ラジオ体操から帰り朝ごはんを済ませたら全力集中してお昼まで取りかかるのです。それで・・お昼からはフリーになるわけです。夏は、プールもありましたが、やはりビキニの乙女たちのいる「海」!・・そのイメージでピッタリなのが、当時、テレビで見かけるたびに胸がはずんだ『 宮崎美子 』さんの青いビキニのミノルタカメラのテレビCMです。 宮崎美子さんが女優になるきっかけとなったのが、彼女が国立熊本大学法学部法律学科3年生当時に週刊朝日の「篠山紀信が撮る!週刊朝日“キャンパスの春”」の表紙モデルに応募・即採用された(1980年1月)ことで、それをチャンスにテレビCMにも起用され、それが今回ご紹介する「いまのキミはピカピカに光って」のバックコーラスで有名なミノルタ一眼レフカメラ「X-7」のCM(1980年3月)でした。このCMを突破口に彼女は単なるモデルから、ポーラテレビ小説『元気です!』(1980年10月 - 1981年3月)や『2年B組仙八先生』(1981年4月 - 1982年3月)など次々とドラマ出演する女優へと転身したわけです。東京での女優業と一方では大学生という両立は困難でしたが、努力家の彼女はゼミに出席するために東京と熊本を飛行機での往復を繰り返し、5年生で見事卒業されました。彼女は、もともとはジャーナリストを志願していたようですが、『才色兼備の女子大生タレント』と呼ばれるように、朝日放送のクイズ番組「クイズタイムショック」ではいつも全問正解でしたし、最近でも漢字検定一級にも挑戦し合格されています。1958年生まれの彼女ですが、時々テレビで拝見するお姿は昔のままで清純さや可愛らしさは失われておらずお美しい限りです。 ★☆ 宮崎美子(21歳当時)のTVCM動画 ★☆ 「いまのキミはピカピカに光って」で有名な「MINOLTA X-7」のTVCM(1980年3月)「夏の海のイメージ」ピッタリなTVCM 大学を卒業するまでは、海水浴に行くことが何よりも楽しみでした。家族や近所の家族と一緒に、高校生以上になると友人同士で、町内会の家族一同で貸切バスを数台チャーターしてまで海水浴は当時は盛んでした。海水浴場では、見事で大きな松原が白い砂浜に沿って続いていて、青い海と青い空、色とりどりのビーチパラソルや子供たちの浮き袋、白い入道雲と白い砂浜のコントラストは美しくて、シャワールームとトイレが付属した監視人(ライフセーバー)の常駐する白い平屋建ての建物からは、海に向けられて設置された大型スピーカーからハワイアンや海外のビーチボーイズの歌、海にふさわしい様々な音楽が鳴り響いていました。 ★☆ 宮崎美子の魅力(YOUTUBE) ★☆ 1980年の宮崎美子主演TBSテレビ小説「元気です!」の主題歌「元気です」(吉田拓郎)の歌と宮崎美子さんの写真集です。若々しい大学生当時のデビュー当時の写真が大半です。 高校生頃になると妙に色気づいて、高校2年生のクラスメートは男女とも仲が良く連帯感があり、17歳の夏休みは大学受験の勉強もありましたが、高校の最後の思い出にとクラスの主導権を握っていた女子たちの強い提案でクラスメートの40数人の男女と教育実習に来られていた女子大生の先生の卵だけで日本海側にある長門市の青海島の海岸でキャンプをすることになり、野外テントを学校から数張り借りてみんなで列車に揺られ・・暑い夏でしたが、北長門海岸国定公園の美しい景観のある海岸にキャンプを設営して1泊した思い出があります。ジーンズにTシャツスタイルでフォークギターを弾きながらみんなで吉田拓郎の「旅の宿」を歌ったり、海を泳いだり、女子が持ってきたラジカセでフォークダンスの「オクラホマミキサー」を輪になって踊ったり、写真を撮り合ったり、夜は夜で男女ペアで肝試(きもだめ)しで島内の暗い道を歩き、就寝するまでの間はみんなで打ち寄せる穏やかな波の音を聴きながら、身の毛もよだつ怖い話などを互いにした記憶があります。クラスのほぼ半数の女子は、この宮崎美子さんの様に誰も笑顔が可愛くて、黄色やピンク、ブルーなどのカラフルなビキニスタイルだったのがとても印象的でした。とにかく、みんな爽(さわや)かでとても純粋な高校生たちでした。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2010/07/18
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★☆ モモイロペリカンの「カッタくん」が16日急死 ★☆The pink pelican which the human being liked~ 人が本当に好きだった純粋でやさしい鳥「カッタくん」~ (REALIST撮影) 今年の4月に花見に散歩に宇部市の常磐公園に訪れた際に、偶然、目の前に2羽のモモイロペリカンがいたので撮影したものです。顔がわからないので何ともいえませんが、足に赤いリングを付けている方が「カッタくん?」だろうと思います。彼は他のペリカンと違い、人間を恐れず近づいてきました。彼女?奥さん?かわかりませんが、メスの仲間をいっしょにお供にして連れて来るのです。 ★☆『 Scary Bird in UK kingdom 』★☆ 7月16日、幼稚園児と一緒に合唱する姿などがテレビで報道され、人気者だった宇部市常盤公園のモモイロペリカン「カッタくん」が公園内の湖で死んでいるのが発見されました。彼は23歳の生涯でした。ご冥福をお祈りします。 彼は、人間の子供よりも体型ははるかに大きかったのですが、最近の人間の様に肉親同士で殺し合ったり、弱い者をいじめたり危害を加えることもなく、鳥仲間ばかりか人や人間の子供が好きでとてもやさしく接する世界にも希な紳士な鳥でした。(REALIST撮影) このように、周りに人がいても何も危害を与えることは絶対にありません。子供たちもそれを知っているので、近くに寄ってきます。 ☆★ 「カッタくん」は、自ら幼稚園に3年通園した ★☆ モモイロペリカンの「カッタくん」は、1985年(昭和60年)7月8日、 日本初の人工ふ化で誕生、親のふるさとであるインドのカルカッタの名にちなんで「カッタ」と命名されました。明光幼稚園で園児に囲まれるカッタくん(1989年5月) 彼は人間の子供たちが好きで、1988年5月ごろから宇部市内の小・中・高校を訪問するようになります。そのなかでも、1989年3月1日から始まった公園から800メートルの距離にある明光幼稚園への毎日の通園で全国的に話題となり、その飛来し通園する様子や幼稚園内を歩き、廊下の大鏡に映る自分の姿を見たり、園児と一緒に教室で音楽に合わせて合唱する風景などがテレビで報道されとても有名になりました。この間、繁殖のために2ヶ月くらい飛べなくする仮切羽などが行われましたが、歩いて通園したり、園舎の建替えで上空からその仮園舎の位置がわからなくなったときには、通園する園児や先生を見つけ、一緒に歩いて通園しています。途中、1992年1月に明光幼稚園付近で交通事故に遭い骨折していますが、その治療後の1992年(平成4年)2月27日を最後に約3年通園しています。・・・しかし、何を思ったのか・・1997年(平成9年)3月5日、 カッタくんは5年ぶりに明光幼稚園を訪れ、その後4日間通園しています。市民からの募金の約1億円により、1995年(平成7年)7月12日、宇部市のアニメ映画「カッタ君物語」が完成、全国で上映され、絵本でも紹介されました。 (REALIST撮影) 周囲の花見客の人間たちにあいさつを終えて、これから、今まさに夫婦で仲良く自分の巣に向かって飛び立とうとするところです。 ★☆『 山口県 宇部市 常盤公園 とペリカン 』★☆ ☆★ カッタくんの災難・・・そしてご苦労様 ★☆ カッタくんには、好きであったその人間たちから大変な災難を受けています。それは、1997年(平成9年)7月22日深夜、公園内に侵入した心ない人間たちから、花火でいたずらされ、それに驚いたペリカン7羽(カッタ、サーレム、ソール、カパティ、パトナム、ペリーナ、ウェンディ)が逃避行し行方不明となったのです。捜索した結果、山口県の豊浦郡豊浦町川棚漁港駐車場で眠っているのを発見、捕獲して常磐公園に無事連れ帰ることができました。 (REALIST撮影) 上は、常磐公園内ペリカン島近くにある「カッタくん?の像」、下は、やはり公園内にあるカッタくんを模した幼児向けの水飲み場です。 「カッタくん」急死のテレビ報道を見ていましたが、その中で、カッタ君の人工ふ化から携わり、育ての親である常磐公園遊園協会動物課の飼育指導員・白須道徳さんは、「ペリカンが湖に浮かんでいると連絡が入り、ボートで駆けつけたところ、顔を見たらカッタくんだとすぐに分かった。人間社会とペリカンの世界を行き来してきただけに、これまでいろいろな出来事があった。苦労して育てただけに残念です。」などとカッタ君のことを時折涙ぐみながらインタビューに答えているのが印象的でした。17日、常盤遊園地内の動物愛護碑前に献花台が設置され、碑の横にはカッタ君の写真が置かれ、明光幼稚園の園児約120人や訪れた多くの市民が献花台の前で手を合わせ、突然のカッタ君の死を悲しむ様子が見られたそうです。宇部市では9月の動物慰霊祭に合わせて、カッタくんの追悼式を開催する予定としています。カッタくん、あなたの人に対する純粋さとやさしさをありがとう!!ご苦労様でした。合掌!! カッタくん情報(宇部市常磐公園遊園協会ホームページ) (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/07/20
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★☆ Pkw.K1キューベルワーゲン82型(アフリカ仕様) (1/35) ★☆ ~ Pkw.K1 Kübelwagen TYPE82 AFRICA-CORPS ~ キューベルワーゲン82型は、既に作成済みのものがありますが、今回は、そのアフリカ仕様バージョンを作成しました。ロンメル軍団を想定した北アフリカ戦では必須の車両だからです。それで、「通常タイプとアフリカ仕様ではどこが違うのか?」ということになりますが、それは、「タイヤが違う!、”バルーンタイヤ”と呼ばれた砂漠用に改良されたタイヤを装備していた」ということです。 Ramcke's Fallschirmjager Brigade. North Africaバルーンタイヤに変わっただけで、随分とイメージが変わって見えます。キューベルワーゲン82型は、主に連絡車として幅広い戦線で使用され、終戦までに各種合わせて約51.000台が生産されましたが、特にロンメル将軍が率いたドイツアフリカ軍団(DAK)の北アフリカ戦線では、冷却水を必要としない空冷エンジンが喜ばれ、操縦性の良さや整備の容易さから多くの将兵に愛用されました。そのため1942年からは、北アフリカ戦線の各部隊の要望により砂漠地帯での走行性を高めるためのコンチネンタル・バルーンタイヤを装備したアフリカ仕様の82型が新たに製造されたわけです。塗装は、エアーブラシを使用して砂漠戦用にダークイエロー一色にしました。まだ、汚すのが嫌なので、工場出荷時のままの新品で、しばらくは、カーショールームの展示室にでも置いているような感じにしておきます。 Box Art (By Tamiya)★☆『 AFRIKA KORPS in color WW2 』★☆ このキットモデルは、タミヤから1999年9月から発売開始されたMMシリーズ(1/35scale)で、比較的新しいものです。通称”アフリカ型”なわけですが、ロシアのぬかるんだ泥道に苦しんだ東部戦線やイタリア戦線でも使われた当時の写真が残っているそうで、場合によっては、北アフリカ戦線を想定した場面以外でも使えそうです。通常型に比べ、タイヤばかりかリブの形状やリアパネルも変更されており、このあたりの細かい違いを見事に再現しているタミヤらしさのあるキットと言えるでしょう。 WH1275658の登録番号の見えるこのアフリカ仕様車両は、泥よけ上と前面に師団旗が掲げられています。運転席ドアには、「第164アフリカ軽師団」を示す白い「マイセンの交差剣」の部隊章が描かれています。助手席に同乗している将官は、1943年1月1日から師団司令官に着任したフライヘア・フォン・リーベンシュタイン少将です。 左側面部の状況を撮影したものです。キューベルワーゲンの独特な雰囲気の形状がよくわかります。このオープンカーが店頭で市販されていたら、すぐにでも買っちゃいそうです。軽量モノコックボディで無駄なものはすべて取り払われた状態で、エンジンも空冷4気筒985ccエンジンです。徹底した軽量化と小型エンジン・・・これこそエコです! 左後方から撮影した状況です。ナンバープレートの上には、制動灯(ストップランプ)があります。後部座席の後には、雨天時や砂嵐の際に使用する幌(ホロ)が折りたたまれています。 後部の状態を撮影しました。菱形の中にRの文字のある部隊章は、ロンメル・アフリカ軍団の一部を構成していた「ラムケ降下猟兵旅団」であることを示しています。このマークは、正面右の泥よけフェンダー部にも描かれていました。こうして見ると、エグゾーストパイプ(排気管)は、デュアルだったのですね。 右後方からの状態です。丸みを帯びたフェンダーライン、と角ばったボディラインの調和が取れたデザインですね。幌(ホロ)の状況がよくわかります。幌の止め紐(ひも)をはずして、手でぐっと引けば、アコーディオンカーテンの様に今でも簡単に開きそうです。 アメリカ軍では第二次世界大戦中にジープが多用されましたが、このTYPE82は、まさにドイツ版ジープと言えるでしょう。頑丈そうで武骨な様でどこか親しみのもてるクラッシックなヨーロピアンスタイルです。 右前部方向を撮影した状況です。エンジンは後部座席の後方にあり、燃料タンクや貨物収納部は前部トランクにあったようです。ウインドウの両端に方向指示器、運転席側にサイドミラー、敵からの発見を極力防ぐためのヘッドライト部分の反射や光の無用な拡散を防ぐためのスリット措置、路面の状況を照らすノテックライトの位置がわかります。この状況が、この車の特徴点を示す場合ではベストショットですかね? ユーモラスな顔の様な正面をそのまま撮影した状況です。アメリカ軍のジープがスペアタイヤを後部に装着しているのに比べ、TYPE82は、フロント部分に装着しています。この部分しかないという結果からこの位置なのでしょうが、進行中に正面から攻撃された場合は、小銃弾程度であれば、ボディから直接の貫通弾ではなく、このタイヤホイール部分による乗員への被弾防止効果も少しはあることでしょう。 写真でもなかなか見ることのできない、この車の底部分の状況を撮影しました。こんな構造になっているのですね。新品なので、まだ車軸部分やマフラー部分も黒い下塗り塗装がピカピカです。やっぱり、生まれたてのおニューがいいです。 右側後方から見た運転席部分の状況です。こんなインパネの配置状況だったのですね。ちょっと、乗り込んで運転したい気分になります。ワイパーもスイッチをONにすれば、電動で動きました。固めのシートなので、腰の悪い方や虚弱体質の方はこの車でのドライブはご遠慮ください。1/35 ドイツ Pkw.K1 キューベルワーゲン82型 (アフリカ仕様)【35238】 タミヤ楽天で購入ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/07/18
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★☆ 70年以上前の工学テクノロジーと思えないその先進性 ★☆ GERMAN 8-WHEELED HEAVY ARMORED CAR(1/35) 前回に続き、今回も70年以上前の1937年から生産実用化されていたドイツ軍の8輪駆動重装甲偵察車「Sdkfz232」のご紹介です。ただし、今回は、その車両の先進的な工学テクノロジーがわかるディティールデザインに焦点を当てることにしました。 この車体の装甲板は、厚いところでせいぜい15mmでした。それは、この車両の主目的が『 戦闘 』ではなく、敵の勢力、装備などの情報を隠密裏(おんみつり)に収集するという『 偵察 』であったためです。それにより、道路上では85km/hの高速走行が可能となり、道路のない不整地でも素早く迅速に行動できたわけです。そのため、敵の発砲する弾丸に対する装甲板の被弾経避(ひだんけいひ)が十分に考慮されたものに仕上がっています。それは、随所に工夫が見られる角度を持たせた装甲板の状況を一目見れば納得できます。 ★☆『 SdKfz 232 (8-rad) 』★☆ 写真左は、1944年のイタリア戦線でフレームアンテナのない「Sdkfz231」3台による前線偵察中のシーンで、どの車両も前部フェンダーにスモークディスチャージャー(発煙弾)を装着しています。右の写真も同じくイタリア戦線で上陸したアメリカ・イギリス軍部隊の敵情視察に向かう際に撮影されたもので、シュテルン・アンテナを装備した「Sdkfz232」」の砲塔部分で車長と射撃手が見えます。砲口に砂などの異物混入を防ぐためにカバーを装着しています。 武装の携行弾数は、通常は、20mm機関砲が180発、7.92mm機関銃が1125発でした。それに加え、車内にはMP38サブマシンガン1丁・携行弾数は192発がありました。この20mm機関砲(2cm・Kwk38)は、毎分450発の射撃能力があり、100m先で20mm厚、500m先の14mm厚の垂直装甲板を貫通することができました。 8輪重装甲無線車「Sdkfz232」の主たる任務は、交戦を避けつつ敵の情報収集をすることでした。写真は、敵情を偵察中の「Sdkfz232」が、偶然、優勢な敵部隊と遭遇したことを想定して、発煙弾で煙幕を張り、装甲の厚い車体前面を敵に向けたまま、後部操縦席で急速に後退しつつ追撃してくるあらゆる敵に対応できるように砲塔を旋回させながらその場から離脱するという訓練をしている状況です。 この車両の当時の実写で多く見るれるのが、上の写真の様に砲塔下の装甲板のフックに乗務員の戦闘用ヘルメットを装着している例が多いということです。これは、正確な理由はわかりませんが、「Sdkfz232」の場合、大型無線機類を装備していたため、車内スペースに余裕がないのかもしれません。 当時のドイツ軍車両を見て感心することは、他国に絶対に負けないその車載装備品の充実ぶりです。ツルハシ、斧、スコップ、消火器、ジャッキ類などの車両整備品等々いたせり尽くせりという感じです。追加装備された前部のスペードアーマー(装甲板)についても、単なる垂直な鋼鉄板でなく、くの字型に角度をもたせることによって装甲板の被弾経避(ひだんけいひ)で損傷を最小限にする工夫が施(ほどこ)されています。 砲塔部の乗員搭乗口の状況がよくわかります。戦車に比べ砲塔部が小さく、内部に車長と射撃手の2人が入るには狭いと感じられます。 右の写真は、1943年秋ごろ前線から帰還したところをドイツ国内で撮影されたもので、市民たちが帰還部隊を見守っているところです。この車両はフレームアンテナではなく、シュテルン・アンテナを装備した「Sdkfz232」ですが、スペアタイヤの装着状況やバケツの取り付け状態が、左の自作モデルと偶然に一致していました。 この複雑な形状を見ると、他の国の装甲車や戦闘車両の形状がずいぶんと単純なものに見えてしまいます。これを1台製造するのには、かなりの複雑な製造工程が必要だったことでしょう。しかし、それを他の国なら・・まずまず不可能だとあきらめるであろうことを・・見事やり遂げるのが、まさにドイツの技術水準の高さでしょう。戦車に比べゴムタイヤの装甲車は走行時の騒音が少なく、まさに機動的な偵察任務に最適なものでした。当初の東部戦線における連戦連勝は、優秀な偵察部隊の存在抜きには考えられませんでした。 車体右側面部の状況です。中央部の搭乗口が開口された状況です。搭乗員は、戦闘時や緊急時には素早くここから搭乗するとともに、非常時には脱出口になりました。 上の写真と対比した車体左側面部です。ここにも中央部に乗員の搭乗口がありますが、これは閉じた状態にしています。搭乗口の左側には、金属的な光沢のあるジャッキ、右側に円筒形の消火器、さらにスコップの柄が見えます。 タイヤ2輪づつを大型フェンダーで保護していますが、これを見ると何とも未来的な車両のイメージがします。 30%OFF!!タミヤ 1/35 MM 35297 ドイツ 8輪重装甲車 Sd.Kfz.232 “アフリカ軍団”価格:2,499円(税込、送料別)ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/09/07
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