道楽れきし旅

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2022.12.22
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テーマ: 歴史の探索(131)
カテゴリ: 歴史の探索

​​   道楽れきし旅  ​​ ​​ ​ 天平の遷都 編​ ​​​​​​​
​​​   帝の​​​ 夢と彷徨のナゾ ​​
​​​​​​​​​​​​​​​   聖武天皇の ‟仏都”は何処に ?

恭仁京の中心施設・大極殿の跡。基壇の上の草原には、いくつか 礎石が点在し、
大きな木々と石柱が立つ。 復元された建物はない =京都府木津川市加茂町例幣 ​​

​​ 《 目次 》​ ​​

​​ ​​ ■幻の恭仁京
1 大極殿の跡に遷都の" 物証 " ​​ ​​
 2  新首都は平城京の外港都市
​​​​​ ​​​​​​
■和束川の流れ ​​
​​   3​​​​ 「恭仁東北道」と血脈の争 ​​
​​  4 “たいこ山”には餅とケーキ
​​​​​​​ ​​​   ■ ​紫香楽は復権するか ​​
  5 大仏造りの跡、見えない遺構 ​​
​​ ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ ​​
  6 遷都は必然?でも振り出しに ​​​​


​​ ​​​​​​​​​​​ ​​「 、クニ ​​​​? …クニ何です? ​それ、どこにあるんですか ?」。新型のカーナビの説明をするお兄さんが、目的地の入力画面で指を止め、何度か聞き返してきた。 ​JR奈良駅近くのレンタカー店。​ 行き先を訊かれ、何気なく「​ 恭仁京 ​(クニキョウ)」と答えたのだが…。​ ​​ ​​​​​​​​​

恭仁京とは、古代に移り変わった都(ミヤコ)の一つ。と言っても、そのころの日本の首都と言えば、一般的に 思い浮かぶのが 奈良の平城京か京都の平安京。あるいはその間の長岡京か。だが恭仁京は平城京からの最初の遷都(セント)先だから、 地元の観光業界などでは普通に知られる場所だろうと、なんとなく思っていた。

タクシーも知らない 幻の都  スマホで調べてみると、所在地は京都府木津川市加茂町…。なるほど、奈良県内ではないのだ。しかし住所をナビに入力し、改めて地図で見ると、現在地の北東10kmほど。県境を越えてすぐの木津川沿い、県都・奈良市の隣町ではないか。

ただ前日、駅前で乗ったタクシーの中でも「恭仁京など聞いたことがない」と運転手さんに言われたのを思い出した。観光案内もしているとのことだったが、現地と隣り合う"地元"で、どうも知名度が高くないのだ。

​かと言って所在地となる京都では、恐らくもっと知られていないのではないか。なにしろ恭仁京は、京都に平安京ができる半世紀も前に廃止されてしまう。いわば、奈良・平城京の歴史に吸収されてしまったような"幻の都"なのだ。

ときの帝(ミカド)が、もとの都を出たまま戻らずに、あちこちに都を移す。なぜだか、よくは事情が分からない。そんなことに興味でもわかないと、普通は関心が向かない場所なのだろう。

『続日本紀』などの歴史書によれば、恭仁京は天平12(740)年、聖武天皇が東国行幸からの帰路、平城京へ戻らずに建設に取りかかる。
​​ 首都がくるくる変わる異常事態 ​​ ​​
その約5年後に平城京へ戻るまでの間、​ 紫香楽宮 ​(シガラキノミヤ=滋賀県)で大仏造立をめざしたかと思えば、100年前の都•難波宮(ナニワノミヤ=大阪府)への遷都も宣言。恭仁京にもいて、3つの都の間を行ったり来たり。後世、"彷徨(ホウコウ)の天皇"と呼ばれるなど、古代史最大のナゾの一つとされる。


カーナビには、恭仁京と同じ方向にあって少し先だからと、紫香楽宮跡も目的地に加えてスタートした。だがそれがまずかった。恭仁京から遠く離れた、全く別の場所としか認識されなかったのだ。

車は間もなく、ビュンビュン車両が行き交う4車線の幹線道から、いつの間にか高速道でまっすぐ琵琶湖方面へ北上。後から 入力した 紫香楽へと大きく遠回りするコースに誘導されていた。

あわてて道路標識を見直し脇道へ。途端に道が複雑になる。彷徨をたどる自ら彷徨しそうだったが、何とか一般道で木津川を越え、黄色いセンターラインの道に出て、ほっとする。 山あいを 川沿いに 東進する 伊賀街道(国道163号)だ。これだと昔なら都から伊勢や美濃など東国への直行ルート。恭仁京もその沿線だ。

   ◆◆  ◆◆  ◆◆ 

恭仁京跡は、視界が開けた谷あいの地にあった。細い小道に入ると、坂の途中に「くにのみや学習館(木津川市文化財整理保管センター分室)」があったので、展示の出土品や解説ビデオを見た。市から管理を受託する「甕原(ミカノハラ)まちづくり協議会」代表のMさんが、他の見学グループの対応に追われていた。

​​​ ​◆ 遺構の礎石などが"物的証拠" 「ここの​ 大極殿 ​(ダイゴクデン)は当時の奈良の平城宮からそっくり移築したもの。今の奈良市の平城宮跡に建つ第一次大極殿は、こちらの遺構をもとに復元された」とMさん。第一次というのは移築後に恭仁京が廃止され、もとの平城宮に新たに建てられた大極殿と区別するため。つまり、恭仁京に移築された最初の建物のことだ。


平城宮から 恭仁宮に 移築された 大極殿の再現図 (CG)。この建物の遺構をもとに、 平城宮跡に 第一次大極殿として 復元された くにのみや学習館の宮殿再現ビデオから



現在の平城宮跡に建つ第一次大極殿。 再現されたのは、 2010年 =奈良市二条大路南3丁目
​​

廃都後の恭仁京跡に残った大極殿は、​ 山背(ヤマシロ)国分寺 ​の金堂となるが、その後、焼失する。 平城宮跡で第一次大極殿が復元されたのは、2010年のこと。設計図や絵図もないため法隆寺金堂など同時代の建築物を参考にしたという。だが、正確なサイズや基礎部分の構造などは恭仁京の遺構に基づくそうだ。

大極殿は、天皇の即位や外国使節との謁見など朝廷の最重要儀式の場。それがそっくりそのまま移築されたとは、なんと分かりやすい遷都だったことだろう。

現地には、巨大な柱を支えた礎石など"物的証拠"が 今も残っている というのだから、もはや“幻の都”とは言えない。官人への移住命令などの記録もあり、正式な遷都だったと分かる。


そうなると、 ホントに 国の首都が東へ西へとくるくる替わる、異常な事態である。聖武天皇はなぜそんなことを…。理由には諸説あるようだが、天皇が代わる度に宮廷が移る「歴代遷宮(セングウ)」というのが前世紀の飛鳥時代までは、あった。

新天皇は先帝が“使用済み”の宮殿を放棄する時代が長期間、続いたという。日本固有の穢(ケガ)れ忌避と再生の思想からだそうだがその後、碁盤目状の道路網など恒久的な都市設計の藤原京や平城京が整備される。従ってそれ以降の遷都は、かなり異例なことだったはずだ。

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最終更新日  2023.12.23 19:50:11
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