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ここにいてここにいてどこにいったのそれ だいじなのざんざんざん と音がするぼろろろろろ と音がするちっ かりかりかりかりかりかりかりかりざんざんざん ぼろろろろろろしんいろんな音がするあたまのなかがいっぱいになるいやよきらいおそとのあれみたい帽子がおちる髪がちくちくするあれみたいあれはしずかだけどあれ きらいいやよどこにいったの帽子が おちちゃうのにねえそれだいじなのわたしより だいじなの「すぐだからね、ごめんね」ここにいてあったかくしてそのままいてずっといてあのいやな音がきえたらここにいるの「待っててね」じゃあ音がきえるように泣いちゃうからね
2010.06.04
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このすっとぼけた顔とヨヨイノヨイ的おまぬけな所作。浮世絵初期の巨匠、鈴木春信による『調布の玉川』である。ちょっと童顔で、そのくせ人を小馬鹿にしたような、磁器みたいなつるんとした冷たさのある表情に品のよい色気があって、春信の描く人物はとても魅力的。気のせいかな、みんな盆踊りみたいなポーズではあるのだけれども。これは万葉集、東歌からモチーフをとって調布の川で手織りの布をしゃぶしゃぶしている少女を描いてみたら、こうなったという図。そのもとの歌が、これ。 たまがわに さらすてづくり さらさらに 何ぞこの子の ここだかなしき三歳から今も住みつづける街には多摩川の支流がながれていて子供のころにはよく遊んでいたし、中学に入ると毎日まいにち電車で本流の広い川面を越えて学校に通うようになった。そして夫の実家は、まさしく調布の多摩川のほとりにある。でもそのかぎりで、私にとって「たまがわ」は「多摩川」だった。それが「玉川」になったのは、その名のフランス語表記を知ったときのこと。riviere de cristalリヴィエール・ド・クリスタル。水晶の川。ああ! 玉! ギョク!ふかく、腑に落ちる。あの「多摩川」は、かの「玉川」。夜の川面に映る星は、川底で光を放つ宝玉。水晶の晶は、星を表す。玉川すなわち豊けき水とともに宝玉をたたえた川である。たまらん。そんなスンバラシイものが家の近くにあったとは。しかも夫の家の近くにまで。うっとりだ。と思っていたところに、ころんと生まれてきた我が子。 何ぞこの子の ここだかなしき星であり、玉であり、宝であり、また我が子である。出来すぎていて、ヨヨイノヨイくらい踊りたくもなる。踊ってみたのが、ここに貼付けられる文章である、といえなくもない。
2010.05.01
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娘がこの世に出てきて七ヶ月。連れて我が家にかえってきて六ヶ月。おかしなもので、ふとした瞬間、「うちに”三人め”がいること」にびっくりする。これからの自分の人生が「こどものいるもの」になり、それ以外ではもうありえなくなったことに、びっくりする。あんな大変な思いして産んだのに?と夫が呆れて笑う。そうですね、おかしいな、と首をかしげる。体の一部に別のひとが突然あらわれて間借りし、あれよあれよと他の部分もそのひとのためにいそいそと模様替えしていく。ちょっとちょっとあんたたち私の体でしょうが、という家主の声を華麗にスルーして膨らんだり色が変わったり、もう何が何やらさっぱりわからない。それでも義務と責任だけはばっちり背負い、勝手のわからない体を抱えて十月十日。そういえばそれなりに、ふつうに、大変だったような気がする。ひたすらごろごろ寝転がりながら、地味に毒をもられている気さえする病院の食事にたっぷりひと月耐え忍んだこともある。切迫早産なんて名前がついて、去年の夏は私と関係ないところを通り過ぎていった。そうして迎えたその瞬間。ひとことで言うなら、「満員の特急電車内で空前絶後の食あたり」。痛いことは痛い。人生これまでの腹痛で間違いなくいちばん痛かった。だが少なくとも「鼻からスイカ」なんていう、未知との遭遇レベルではなかった。出てくる最後のとき、どこかに足を引っかけられて「ぃたっ」と声が出たのが「痛い」と言葉にした唯一のタイミングである。ハレルヤ。大変だったのはむしろ産んだあとのほうで、勝手に進められてめんくらっていた体のリフォームも、実は外壁をちょちょいといじっただけのことだった。本気を出したホルモンは、内装をべりべり剥がして骨組からいじくりまわし始めた。人格ごと変えられて、授乳がこわい、お風呂がこわい、夜がこわい。明日のことどころか、一時間あとのことすら考えられない。それでも私はやっぱり毎日びっくりしていた。自分が「親」になっている。自分に「子供」がいる。目の前に「自分の産んだ子」がいる。世話をしながら、不思議だふしぎだと首がまがる。目が丸くなる。一言でいえば、そう、いったい、いつの間に?いや、だから。九ヶ月もお腹のなかで育てて、それからまた七ヶ月も面倒みてて。まだ言うか。まだ言うのです。摩訶不思議。これが自然なことだということが、またさらに不可思議。ホルモンのばか騒ぎは幸い一ヶ月したらぱたりと止んで、あとは周りの心配をよそにけろっと母親業をいとなんでいたのだけれど、実はいつまでたっても不思議でしかたがないのだ。しかし育児にかかわる本やら何やらに出てくるおかあさんたちは、ひたすら我が子に会えたことに感動し感激し喜びを爆発させ、愛情をあふれさせている。七ヶ月経ってまだびっくりしてるなんて言葉、読んだことも聞いたこともありはしない。なので、書いてみようと思った次第。もしかしたら、ほかにもいるかもしれない。「可愛い」「大好き」という言葉ではかすりもしない、「???」なんとも表現できない感覚を抱えて、でも実にリアルにコンクリートにおむつとミルクと離乳食とを段取りながら、日々暮らしているひとが。……どうかな。いないかな。いないかもな。まあいいか。子供をみて、子供が存在することに、驚く。我ながらミョーな親だとは思うのだけれど、それでも親なのだとさすがの自分も納得する方法がひとつ。子供を抱くことだ。抱いているときは、自分の手のなかに娘がいても、びっくりしない。むしろ、しっくりきすぎて、身動きがとれない。疲れていようがなんだろうが、離したくも降ろしたくも渡したくもない。はたして私は、ちゃんとわかっているのだろうか? それとも、わかっているから驚いてしまうのだろうか?このひとが、自分の体から離れて生きているということを。世界のすべての謎を知る賢者のような顔の娘を前にしてだってこのひとは、確かに私の知りたくてしょうがない答えをすべてその手に握っている……はたしてそれはお腹がすいているのかお腹がいっぱいなのか眠いのかおむつなのか遊びたいのかなんなのですか?今日も首を傾げている。
2010.04.27
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