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あまり大きな声では言えないが、ほんとうは、いわゆるクラシック音楽なるものはあと何年もつか、というのが、稀代の天才軽業師・片山杜秀の潜在的な主題である。ほとんど華麗とも言うべき身のこなしで、あるときは音の細部を、あるときは文化史を、あるときは作曲家、演奏家のゴシップを語りながら、少しでも延命させようとしているように見えもすれば、ああ、これはクラシック音楽なるものの最後の瞬間を生きているようなものだぜと、なかば長嘆息の風情で身を投げ出しているように見えもするのだが、結局は余命を計っていることに違いはない。音楽の座標が失われ、音楽の主体なるものが希薄になってしまっているからだけではない。音楽享受のありようそのもの(たとえばユーチューブ!)が劇的に変化してしまっているからである。この天才にとってさえも、先は見えないのだ!亭主も古楽に転向して以来の最近10年ばかり、クラシック音楽業界が「裸の王様」のような状態であることを薄々感じてはいましたが、ここまで明確に「王様は裸だ!」と言ってのける三浦雅士さんとはどういう方なんでしょう?早速ググってみると、生まれは1946年とまさに「団塊世代」。学生運動が収束した1969年、あの青土社に創業とともに加わり、雑誌「ユリイカ」や「現代思想」の編集長を務めた、とあり、音楽業界外の立場にいることも含め、大いに納得。年齢から見ると、まさにコンサート・ホール客層を支えている世代でもあります。
周知のように、と、つい言ってしまうのだが、1960年代一世を風靡したモダン・ジャズがいまや常磐津・清元と同じ境遇に入ったのと同じように、19世紀から20世紀にかけて世界を制覇したドイツ観念論(カント、ヘーゲルからマルクス観念論!まで)ならぬドイツ・クラシック音楽(主流がロマン派だから紛らわしいのだが)もまた、常磐津・清元と同じ境遇に入ってしまったのである。そのことは、いまはもう10年前、街から消えてしまった大型CDショップの棚の並びを思い出して見るだけで実感できる。当時すでに、ジャズもクラシックも好事家(!)の対象として店のわずかな一隅をしめるに過ぎなくなっていたのだ。あるいは、オペラはむろんのこと、コンサート・ホールの客層を見るだけでわかる。老齢化(平均年齢70歳!)にマニア化(その道の若き「通」つまり「オタク」たちだけ!)が凄い速度で進行している。例外は音楽学校の演奏家志願者(若い!)と教師(比較的若い!)だけで、彼らだけがドイツ音楽の栄光は未来永劫に続くと全身で思っているのである。彼らに限っては、いわゆる現代音楽と称される先端部分がひねくれればひねくれるほど(たとえば35「ヘラーが丸く収めます」に描かれた状況のなかで片山がどこに立っているかよく考えること!)、有難みが増すようにさえ見えているらしいのだ。
ああ、昔は文学全集も音楽全集も刊行され、これら必須の教養は、目にも見えれば手でもさわれていたのに!(…中略)
冒頭の言を繰り返せば、クラシック音楽業界のこのような惨状を一手に引き受けて、どのようなかたちでも打破してみせようと八面六臂の活躍をしているのが、片山杜秀なのだということである。私の印象では、ほとんど片山杜秀ただ一人と思えるのは、この巨大なタイタニック号が沈没しかかっていることを常に意識しながら丁々発止を展開していると思えるのは彼一人だからである。他は大学教授か業界人なのだから、話題にすること自体がはばかられるのだ。(以下略)

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