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2019年03月31日
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カテゴリ: 音楽




片山杜秀さんと言えば、博覧強記を武器に新聞・雑誌の音楽批評やクラシック音楽ネタの記事を書きまくり、あるいはラジオ番組でしゃべくりまくる牛乳瓶底メガネの何だか暑苦しいオッサン(失礼!)、という印象がまず先に立ち、亭主はこれまでずっと敬遠して来た経緯があります。それでも連れ合いが書棚から一冊引っ張り出して眺めているのにつられ、「世界之巻」編の方を手にとってパラパラとめくり始めました。

亭主に限らず、書店で初見の文庫本を手にして最初に読み始めるのは巻末の解題記事、という方は少なくないはず。(文庫本はほぼ例外なく既刊本の廉価版として世に出されるので、再刊にあたり解題記事をつけることはどうやら斯界の常識のようです。)件の著作、巻末をめくるとお約束通り三浦雅士さんによる「解説 もうひとつの片山杜秀論」という記事がありました。ところが、これを読み始めたところあまりに面白くてやめられなくなり、そのままお買い上げという仕儀に(筑摩書房にマンマと乗せられてしまった…)。この記事、要約してもつまらないので、以下冒頭部分を引用にてご紹介しましょう。
あまり大きな声では言えないが、ほんとうは、いわゆるクラシック音楽なるものはあと何年もつか、というのが、稀代の天才軽業師・片山杜秀の潜在的な主題である。ほとんど華麗とも言うべき身のこなしで、あるときは音の細部を、あるときは文化史を、あるときは作曲家、演奏家のゴシップを語りながら、少しでも延命させようとしているように見えもすれば、ああ、これはクラシック音楽なるものの最後の瞬間を生きているようなものだぜと、なかば長嘆息の風情で身を投げ出しているように見えもするのだが、結局は余命を計っていることに違いはない。音楽の座標が失われ、音楽の主体なるものが希薄になってしまっているからだけではない。音楽享受のありようそのもの(たとえばユーチューブ!)が劇的に変化してしまっているからである。この天才にとってさえも、先は見えないのだ!
 周知のように、と、つい言ってしまうのだが、1960年代一世を風靡したモダン・ジャズがいまや常磐津・清元と同じ境遇に入ったのと同じように、19世紀から20世紀にかけて世界を制覇したドイツ観念論(カント、ヘーゲルからマルクス観念論!まで)ならぬドイツ・クラシック音楽(主流がロマン派だから紛らわしいのだが)もまた、常磐津・清元と同じ境遇に入ってしまったのである。そのことは、いまはもう10年前、街から消えてしまった大型CDショップの棚の並びを思い出して見るだけで実感できる。当時すでに、ジャズもクラシックも好事家(!)の対象として店のわずかな一隅をしめるに過ぎなくなっていたのだ。あるいは、オペラはむろんのこと、コンサート・ホールの客層を見るだけでわかる。老齢化(平均年齢70歳!)にマニア化(その道の若き「通」つまり「オタク」たちだけ!)が凄い速度で進行している。例外は音楽学校の演奏家志願者(若い!)と教師(比較的若い!)だけで、彼らだけがドイツ音楽の栄光は未来永劫に続くと全身で思っているのである。彼らに限っては、いわゆる現代音楽と称される先端部分がひねくれればひねくれるほど(たとえば35「ヘラーが丸く収めます」に描かれた状況のなかで片山がどこに立っているかよく考えること!)、有難みが増すようにさえ見えているらしいのだ。
 ああ、昔は文学全集も音楽全集も刊行され、これら必須の教養は、目にも見えれば手でもさわれていたのに!(…中略)
 冒頭の言を繰り返せば、クラシック音楽業界のこのような惨状を一手に引き受けて、どのようなかたちでも打破してみせようと八面六臂の活躍をしているのが、片山杜秀なのだということである。私の印象では、ほとんど片山杜秀ただ一人と思えるのは、この巨大なタイタニック号が沈没しかかっていることを常に意識しながら丁々発止を展開していると思えるのは彼一人だからである。他は大学教授か業界人なのだから、話題にすること自体がはばかられるのだ。(以下略)
亭主も古楽に転向して以来の最近10年ばかり、クラシック音楽業界が「裸の王様」のような状態であることを薄々感じてはいましたが、ここまで明確に「王様は裸だ!」と言ってのける三浦雅士さんとはどういう方なんでしょう?早速ググってみると、生まれは1946年とまさに「団塊世代」。学生運動が収束した1969年、あの青土社に創業とともに加わり、雑誌「ユリイカ」や「現代思想」の編集長を務めた、とあり、音楽業界外の立場にいることも含め、大いに納得。年齢から見ると、まさにコンサート・ホール客層を支えている世代でもあります。

一方で「王様の軽業師」である片山杜秀さん、こちらは1963年生まれということで、いつの間にやら50歳代半ばにお成りのようですが、「音楽放浪記」に収録されている記事の初出は2000年〜2008年と、著者がまだ30歳台後半〜40歳代のもの。月刊紙「レコ芸」に連載されたCD評を集めたものということで、今から思えばちょうどクラシック音楽の「黄昏」が始まった頃(iPodの発売は2001年、ユーチューブが始まったのが2005年と、音楽享受のモードが大きく変化し始めた頃に対応)なのかもしれません。いずれにせよ、「クラシック音楽」が光り輝いていた団塊世代に遅れること20年弱、その世界に分け入ってみると、内部は依然として前近代的な伝統芸能の世界。インターネット・ICTの急激な発達という黒船来襲で市場価値も凋落し始めていた(?)というわけです。(最近のスポーツ界で自浄の動きがあることと比べて、クラシック音楽の世界が相変わらず無風状態のように見えるのは亭主のひが目でしょうか?)

コンサート・ホール客層の高齢化は亭主も肌で感じているところですが、このままあと20年経過すると、団塊世代(現在約1千万人ほど)の平均年齢は90歳、人口で2割程度にまで減る上に、高齢でコンサートへ足を運ぶこともなくなると予想されます。たとえば、典型的な伝統芸能である歌舞伎は基本的に歌舞伎座と国立劇場でのみ興行されていますが、20年後にはいわゆるプロのオペラやオーケストラは一握りの集団によって担われることになるのかも?この状態になれば、こんにち的な意味でのクラシック音楽の命数は尽きる(?)のかも知れません。そう遠くはない未来の話です。








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最終更新日  2025年04月22日 19時58分20秒
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