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2026年08月30日
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カテゴリ: 音楽


本書の主題は、戦後しばらくの間「論壇のスター」だった社会学者・思想家、清水幾太郎(1907-1988)が、1960年代(大学紛争が収束する頃)を境に政治的な立場を大きく変えていくにつれて急速に人気を失い忘れ去られていった理由を深掘りし、いわゆる「知識人」とメディア(の向こうにいる「大衆」)との関係を明らかにしようというものです。


著者の竹内洋氏は教育社会学者で、明治以来の日本の教育制度やそこから生まれた教養主義・学歴至上主義・立身出世主義に焦点を当て、特に高等教育制度の頂点をなす大学の教員や学生が何を考え、どう行動したかを歴史的に分析することで日本の政治や社会が持つ構造問題に鋭く切り込んでいます(このブログでも既に彼の著作をいくつかご紹介しました)。そのような彼の著作に通底するテーマが近代的な価値観としての「 能力主義(メリトクラシー) 」です。これは前述の色々な「〇〇主義」全体を一言で表す思想でもあります。

本書を読むと、たとえば音楽や造形芸術における「芸術至上主義」も、その変種の一つと気付かされます。なぜなら「崇高な美」といった美学的価値は、それを「知的に鑑賞・評価できる(批評する)能力」、あるいはそのような「鑑賞に値する作品を制作(演奏)する能力」と表裏一体だからです。 音楽の世界にメリトクラシーが「芸術音楽(=真面目な音楽)」という概念とセットで持ちこまれた結果生まれたのがクラシック音楽 、ということもできるでしょう。

我々は、普段の生活の中で能力主義を露わに意識することは稀です。が、この思想は近代社会において「市場原理+資本主義=ビジネス」の基本原理となることで、ヒトが抱くあらゆる種類の欲望の最も強力な駆動装置として機能してきました。(この視点から眺めれば、「真面目な音楽」という考え方は、クラシック音楽が「ビジネス」になるために必須だったと見ることもできます。)

もちろん、身分や家柄といった封建的・前近代的な束縛を打破し、誰でも努力と才能次第で経済的・社会的な成功を掴み取ることができるという能力主義の原則は、個人の自由と社会の流動性を飛躍的に高めるという利点がありました。しかし、これによって社会にもたらされた「豊かさ」の影で、封建時代とは別種の深刻な差別や歪みが蓄積されてきたこともまた事実です。(その矛盾が極限にまで高まって爆発したのが先の2つの世界大戦だったとも言えます。)

つまり、能力主義こそは、このところ危惧される「戦前的な世相」の原因である巨大な経済的・社会的格差の根本にある思想ではないか。

というわけで、この機会に改めて能力主義の歴史を振り返り、我々に染み付いているこの思想の功罪とそれをどう乗り越えていくべきかについて考えてみることに。

時代を遡れば、能力主義は北米ヨーロッパをモデルとした明治以降の日本社会において教養主義、さらに世俗的な修養主義や立身出世主義と固く結びつきながら浸透していきました。たとえば、話の発端である清水幾太郎についても、戦中・戦後の論壇で圧倒的な覇権を誇ったメディア知識人である彼の軌跡をたどるとその構造が鮮やかに見えてきます。

清水は東京の下町出身ながら、東京帝国大学という当時最高峰のエリートコースを歩み、その高い知的能力と教養を武器に、大衆メディアへ積極的に進出しました。彼にとっての教養や社会科学の知見は、本来は限られた特権階級のものであった高踏的な知識を、戦後民主主義の文脈の中で大衆にわかりやすく還元・啓蒙するための強力なツールでした。しかしその背後には、「自分こそが最も優秀でラジカルな知性として大衆を導かねばならない」という強烈な能力主義的エリート意識、一方で山の手出身者が占めるアカデミズムの正系から外れることへの焦燥感やコンプレックスが潜んでいました。彼が晩年に至り、時代の激しい変化の中で過激な極論へと走って孤立し、急速に忘却されていった背景には、能力主義の階段を登り詰めたエリートが大衆メディアという空間の論理に呑み込まれていく典型的なドラマがありました。

同じ構図は、日本におけるクラシック音楽の受容の歴史にも色濃く刻まれています。昭和の時代、クラシック音楽界における吉田秀和らの音楽評論は、文学や思想における論壇の知識人たちの振る舞いと完全に共鳴していました。「大作曲家」や「永遠の名盤」の解釈を巡る言説は、西洋の高度な文化を吸収し、自らを高めていくための「教養主義的メリトクラシー」そのものでした。そこでは、音楽を深く理解し、正しく鑑賞することが人間の精神的向上や社会的ステータスに直結するという目的意識が支配していました。音楽は、人格を陶冶し、立派な近代的主体を作り上げるための「教育的・道徳的な手段」というわけです。

しかし、昭和の終わりから平成、令和へと時代が下るにつれて、こうした教養主義や芸術至上主義は次第にその求心力を失っていきました。音楽学者の渡辺裕氏が『 聴衆の誕生 』で描き出したように、デジタル技術の普及やメディアの多層化によって、絶対的な権威を持つ「名盤」や「巨匠」の神話は解体され、音楽は多様な消費文化やサブカルチャーへと変質していきました。

このクラシック音楽の「オタク化」や「サブカル化」は、ある意味において、かつて音楽が背負い込まされていた「何かの目的のために聴かねばならない」という重苦しい呪縛からの解放を意味していました。「これを聴けば教養がつく」「人間が陶冶される」といった外発的な目的から切り離され、個人のマニアックな偏愛や純粋なフェティシズムの対象として音楽を愛でる態度は、たとえば中島敦の『山月記』の主人公・李徴がエリートとしての高い目的意識=詩人としての成功の重圧に押しつぶされて虎へと変貌した悲劇とは対照的に、芸術が本来持っている「目的からの解放」、娯楽の王としての姿を鮮やかに復権させたと言うことができます。

このように、個人の内面や文化の受容において教養主義的な枠組みが解体されていく一方で、社会全体の構造としての「メリトクラシー」は、資本主義経済の中で依然として強固な枠組みとして我々の価値観を縛り続けています。「成功したのは自分の能力と努力の結果であり、失敗したのも自己責任である」という「新自由主義」の論理は、社会のあらゆる場面で格差を正当化し、現代のさまざまな社会問題や生きづらさの根源となっています。

さらに、メリトクラシーは近年叫ばれている「多様性・公平性・包括性(DEI)」の理念に対しても高い障壁として立ちふさがっています。純粋な能力主義を信奉する組織ほど、無意識の偏見や同質性バイアスを隠蔽しやすく、「能力があるから今のポジションにいる」という思い込みが、多様な背景を持つ人々の参入を阻む原因となっているからです。

かつて戦後の一時期、日本ではこうしたメリトクラシーの弊害に対抗する形で「結果の平等」が強力に志向された時期もありました。(当時の状況は庄司薫の小説「薫くん4部作」にも活写されています。)しかしそれは個人のインセンティブを抑圧し、システムを硬直化させたことで結果としてうまくいかず、社会はふたたび能力主義のレールの上に戻らざるを得ませんでした(この揺り戻しによって社会主義的な再分配政策が過度に否定されることにもなりました)。では、結果の平等への回帰でもなく、かといって野放図なメリトクラシーの専制でもない第3の道はどこにあるのか。

亭主の答えは単純で、必要なのは「能力主義の果実が広く社会に還元されるような仕組みを作ること」です。が、問題はそれがどんなものであるべきかです。

たとえば「累進課税」はそのような仕組みの典型ですが、これがあまりうまくいかないことは既に実証済み。その最大の理由は、払った税金の使途が自分で決められないからです。たとえば音楽ビジネスで稼いだ「有能な」音楽家がその富を再分配する気持ちがあるとすれば、やはり音楽の世界でそうしたいと願うでしょう。

むしろ、それ以前の問題として、能力主義で上位に立つような人々に、そのような再配分という「行動」へのインセンティブを持たる必要があります。ヒトの行動を支配しているのが感情(=速い思考)であることを考えれば、彼らにそのような行動を促す感情を掻き立てることが問題解決への鍵となります。この点で知恵を授けてくれるのが行動経済学です。

ここで、問題の根本的な解決のためには、能力主義の成功者という、いわば一握りの人たちに働きかけるのではなく、彼らが依って立つところの「評価システム」全体を改造する必要があります。音楽の世界で言えば、「職業音楽家(プロ)」の教育・養成から始まって選抜課程での評価の仕方、さらには興行の仕組みにわたってDEIや「社会還元」の考え方を浸透させることが必要になるでしょう。

プロスペクト理論によれば、人間は利益を得る喜びよりも損失を被る痛みを強く恐れる傾向があるため、DEIの推進を「誰かの特権を奪うゼロサムゲーム」として提示するのではなく、「同質性による組織の致命的な判断ミスや機会損失を回避するためのリスクヘッジ」としてリフレーミングすることが極めて重要になります。さらに、個人の成果の背後にある「偶然の巡り合わせや環境(運)」の存在を可視化し、評価のプロセスを極めて透明にすることで、「能力さえあればすべてが報われる」という傲慢さを和らげ、認知的謙虚さを組織文化に根付かせることができます。

クラシック音楽の世界においては、聴衆の側では教養の鎧を脱ぎ捨てて純粋な娯楽の自由を取り戻しつつある一方で、職業音楽家の間では依然として強固な能力主義とそれに基づく芸術至上主義・権威主義が支配しているように見えることが問題です。(この点だけで言えば、「コンクールなんか消えてなくなればいい」というピアニスト、アンドラーシュ・シフの 直言 にも共感するところがあります。)

我々の社会システムや価値観もまた、能力主義を「人間の序列化と支配の道具」としてではなく、もっとしなやかに多様な個性を活かすための道具へと構造変革していく必要があります。競争の原理そのものを全否定するのではなく、その毒を注意深く中和しながら、誰もが生きやすい寛容な空間をデザインしていくこと。それこそが、我々が近代の遺産を引き受けながら未来へ向かうために残された、最も重要で現実的な課題であると言えるでしょう。







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最終更新日  2026年08月30日 16時13分55秒
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