全41件 (41件中 1-41件目)
1
7月18日付 おしらせの件について ブログ仲間の皆様へ たくさんのあたたかい励ましのコメントをいただきまして、ありがとうございました。感謝の気持ちでいっぱいです。10月1日に退院しました。今は自宅の近くの医院へリハビリ通院しています。 7月18日 入院 8月01日 足の骨折手術 8月24日 皮膚の移植手術 実は、足の骨折の為にメスで切った箇所の皮膚が死んでしまった為、植皮手術が必要になり、同じ足のふくらはぎから、筋肉と皮膚を移植しました。この移植手術後は、2週間のベッド安静の為、リハビリがかなり遅れてしまい、今現在、松葉杖を使っても満足に歩く事が出来ない状態です。 実際は家の中を這って移動している状態で、ブログの更新はもうしばらくお休みさせていただきます。(1年後に、植皮の為に盛り上がった皮膚と足の中に入っている金属を取り除く手術が必要になりそうです。) ブログ仲間の皆様、本当にありがとうございました。皆さん、グログ、がんばってください。
2006.10.08
コメント(32)
本日仕事中に、左足首を複雑骨折し、緊急入院して手術することになりました。でなことで、2ヶ月間お休みいたします。
2006.07.18
コメント(16)
人を助けられるのは、人だけである。時として、天使が人と人とを結びつける。その人の目が、天使の目に見えた瞬間、運命の出会いが始まる。 一人のショボクレタ男が街をうろついている。目は虚ろである。この男の名は、キャッチ(ジム・カヴィーゼル)。自らの不注意で交通事故で妻と息子を亡くし、自分だけが生き残った悲惨な過去を持つ男。心の葛藤に耐え切れなくなった無意識は、現実逃避へ向かわせ、脳裏から彼の過去を消し去った。 過去がなければ未来もない。虚ろな目をして街を歩くだけの男の日常の始まりである。 女性警察官シャロン(ジェニファー・ロペス)。警察官としての職務にはげみ、いつも明るく力強くふるまう彼女の表情の奥には、覆い隠された心の傷があった。誰にも言えない、誰にも気づかれたくない心の傷。 仕事熱心、明るい性格、人に安心感を与えるような力強さ。これらは心の葛藤からの逃避であった。 幼いころ、父親の暴力から母親を守るため、警察に助けを求めたシャロン。以後、家族からの愛を失い、のけ者扱いされたシャロン。自分が正しいと思ってしたことが、家族全員から拒絶されたのである。こうしてシャロンは、疎外者となった。 「だめよ。がんばって。」 「目をあけて。」 「私といて。」タッチが交通事故の現場で、しだいに薄れてゆく意識の中で聞いたこの囁きは、実は警察官シャロンの言葉だった。シャロンは警察官として、この事故の処理にあたっていたのだ。タッチにとって、シャロンの声と顔は天使の声と顔としてうつった。 事故から一年後、シャロンはギャングに殺されそうになるが、間一髪のところで、タッチに助けられる。今度はシャロンが瞬間、タッチを天使と見たのである。 天使が役割を果たした証は、この二人のおもいに集約されている。 タッチ「過去を直視して生きなければ、死んだ妻や娘は許してくれないし、シャロンとの未来もない。」 シャロン「父親の少しでも良いところをみつけ、父親と面と向かわなければ、一生トラウマから逃れられないし、タッチとの未来もない。」
2006.07.09
コメント(12)
これは理屈ぬきで誰もが楽しめそうな単純明快なアクション映画である。 この種の映画には、入り組んだストリー展開のおもしろさや、登場人物の複雑な心の葛藤がない分、魅力的なヒーロー、ヒロインの存在が不可欠となる。誰もが日常生活において、とうてい体験できそうもないことを映画の中の主人公になりきって擬似体験してみたい、という想いがあるからである。 さて、私たちが現実から、一旦離れる為には、私たちの日常生活では到底出会うことなどありえないような親しみやすさの中に、一種のカリスマ性を感じさせるほどの近寄りがたさを合わせ持った人物が主役であることが必要となるが、この映画はこれらの要求を十分満たした内容になっている。 南米コロンビア、ボゴタで、ある出来事がきっかけで知り合い、恋に落ち、お互いのことをよく知りもしないで、すぐに結婚してしまったふたり、 ジョン・スミス(ブラッド・ピッド)、 ジェイン・スミス(アンジェリーナ・ジョリー)ところがある日、お互いの本当の職業が、プロの殺し屋であることを知る。ふたりともプロの殺し屋の中でもコンピューターをくしし、近代兵器を自由自在に操ることができる、ずば抜けて優秀な殺し屋であった。 お互いの秘密を知ってしまった以上、お互いの組織の秘密を守る為、殺し合わなければならない。絶対に拒否は許されない。もし拒否したら、お互いの所属する組織から命を狙われることになる。果たして、愛し合うふたりは、お互いを殺す事ができるのか。 このような最悪な状況に陥ると、この夫婦の背負っている心の重荷の重圧から、物語の展開が急に暗くなるのが常であるが、この映画は全く暗くならない。何故、暗くならないのか、それは、ジョン・スミスとジェイン・スミスは、簡単に抹殺されるような人物ではないからである。要するに、映像が創りだした超人なのである。 超人が死ぬ筈がない、という安心感が画面全体に溢れたつくりになっている。 ブラッド・ピッドとアンジェリーナ・ジョリーを見比べると、俄然、アンジェリーナ・ジョリーの方が、輝いて見える。彼女を輝かせる為に、ブラッド・ピッドが必要だったような気がしてくる。彼女の顔立ちと身のこなしは、東洋の神秘を漂わせている。底知れない強さを感じさせる人物とは、身体全体に神秘的なものを漂わせている人物であって、けっして大柄で、筋骨隆々の身体の持ち主などではない。やはり、「超」とは、「神秘性」なのである。 この映画を観ているうちに、アンジェリーナ・ジョリーの顔が奈良の大仏の顔に見えてきた花畑風来であった。
2006.05.28
コメント(12)
突然、絶体絶命の危機に陥った時、人はどうするか。周りの人にひたすら助けを求めるが、誰も相手にしてくれない。 こうした状況に追い込まれた時、現状を嘆き苦しみ、ひたすら耐える道を選ぶか、それとも自分の持てる能力の全てを引き出し、現状を打開する道を選ぶか。 飛行中の機内の狭い空間の中で突然消えた娘。「わが社の調査によると、あなたの娘さんは、すでにお亡くなりになっていて、はじめからこの飛行機には乗っていなかったのです。」 これは、自己否定を促される言葉である。しかし、自分の娘の生命に関わる問題である以上、絶対に機長のこの言葉を信じるわけにはいかない。 これは、周囲の人達から自己否定させられたカイル(ジュディ・フォスター)が、自分自身と自分の娘を何者かから、取り戻す為の戦いを描いた映画である。 「娘は確かに乗っていた。」 「娘は機内のどこかに必ずいる。」自分自身の確証を信じ、たった一人で機内を探し回るカイル。 こうなると、全乗務員、全乗客、全て敵である。たった一人で戦うには武器がいる。はたして自分には武器があるのか。 自分は、この飛行機の構造を知り抜いている。(実は、カイルはこの飛行機の設計者だった。自分が設計した飛行機に乗ったのは、偶然だった。) 自分には、本当の敵は誰なのかを見抜く力がある。 自分には、機内の何処へでも潜り込むことができる身体能力がある。これらの武器と自分自身を信じる力さえあれば、必ず娘を探し出す事ができる。 この物語のヒロインには、やはり、ジョディ・フォスターが似合うし、ハッピー・エンドで終わるストーリーは、いかにもアメリカ映画的である。 今は安定した豊かな生活をしていても、それが永久に続くとは限らないから、常日頃、頭と体を鍛えておこう。頼りになるのは、今の社会的地位や財産などではなく、どんな状況におかれようとも、しぶとく生き抜く為の自分自身の中にある力なのだ。 ジョディ・フォスターは、こうした思いを投影させるような演技をする。 彼女の動きをみていると、映画の内容に多少難があっても、最後には、良い気持ちになって映画を見終えることができるような気がしてくる。 その証として、良い気持ちになって映画館を出てきた花畑風来の姿が、そこにあったのである。
2006.03.19
コメント(27)
観終わった後、私達の心に衝撃が走る、それがこの映画「ドッグ・ヴィル」である。 アメリカ合衆国、ロッキー山脈の小さな田舎町、ドッグ・ヴィル。住民は貧しく、素朴で善良な人々の集まりだった。 しかし、本当に「素朴で善良」なのか。 この物語が人間性の隠された本質を解き明かしてゆく。「衝撃のラスト・シーン」で幕を閉じるまでに、人間の心の奥に潜む利己主義の恐ろしさを私達に教えてくれる。 利己主義が集団となって、大きな力となり、一人の人間に向けられた時、集団の中の個々の人間は、閉鎖された空間の中の絶対多数が正義だと思い込み、自分自身の心の醜さ、残忍さに気づかない。 この事態を客観的に見つめることができた人物さえも、やがては集団心理の中へ埋没してしまい、自分自身を見失ってしまう。 グレース(ニコール・キッドマン)は、神の化身か。それとも神の使者なのか。この醜い人間達に対して、神の怒りは、終に頂点に達する。 映像は、舞台劇をそのまま映像化したような創りになっている。ドッグ・ヴィルの町のセットは、スタジオの床に白線を引き、道路と家々を区別しただけの簡単なものであり、リアルな風景の中に登場人物の微妙な心の変化を光と影の微妙なバランスで表現する映画特有の手法も使われてはいない。物語の進行も、主に語り手の解説によって進められている。 このような故意にリアリティーを欠いたような演出は、これが現実の物語などではなく、寓話なのだという印象を与える役割を果たしている。 あらすじプロローグ ドッグ・ヴィルの住民の紹介。第1章 トム(ポール・ベタニー)自称、作家、町の伝道所の伝道師「人間の心の奥を掘り起こそうとしている」と、グレース(ニコール・キッドマン)「ギャングに追われている逃亡者」との出会い。トムは銃声を聞いたことをきっかけに、グレースと出会うことになる。第2章 トムの指導で、住民に自分を受け入れてもらう為、個々の家々で肉体労働をするグレース。第3章 グレースを心から受け入れる住民。第4章 ある日、警察が町にやってきて、グレースの手配書(行方不明)を張ってゆく。住民達は警察からグレースをかばう。第5章 グレースと住民の信頼関係は、ますます深まってゆくが、警察から来た2枚目の手配書(強盗事件に関与、危険な女)を見て、住民の態度が少しずつ変わり始める。第6章 住民のグレースに対する態度が一変する。第7章 町から逃げ出そうとするグレース。ギャングと警察を恐れるあまり、グレースの身に鉄の重りのついた鎖を取り付け、過酷な肉体労働を強いる住民。毎晩、グレースをレイプする男達。第8章 今までグレースをがばってきたトムが豹変し、ギャングにグレースの存在を知らせる。第9章 グレースの正体が明らかになる。実は、グレースは、ギャングのボスの父親と同じ闇の世界で生きるのがいやで、家を飛び出した娘だった。人間の心の弱さからくる人間性の醜さに対して、自分自身の心の中の矛盾に決着をつける為、最後の裁きを下すグレース。父親から譲り受けた強大な闇の権力を使って、住民をすべて虐殺し、町に火をつけるグレース。 こうして人間性の醜さの象徴と化したドッグ・ヴィルの町は、この世から消え去ったのである。
2006.01.29
コメント(25)
この作品は、映画としては、ディズニー映画で知られているガラスの靴でお馴染みの童話「シンデラ」をファンタジーの世界ではなく、現実にあった話として、とらえなおした内容になっている。 従って、魔法使いが登場して、シンデラに舞踏会用の衣装を与えたり、カボチャを馬車に変えたりはしない。もちろん、ガラスの靴もこの映画では母の形見の靴を使っているのであって魔法の力など、かりてはいない。 メイドとして、継母とその連れ子に扱き使われる生活を強いられるという点だけが同じなのである。 16世紀、フランス。 幼い頃、母親を亡くしながらも、父親に愛され、たくさんの使用人に囲まれ、なに不自由のない生活を送っていた8歳の女の子、ダニエル(ドリュー・バリモア)。 しかし、この温かくて穏やかな生活は、父親の突然の死によって一変する。 死の直前に父親と再婚した男爵夫人ロドミラ(アンジェリカ・ヒューストン)によってメイドにされてしまうダニエル。 ロドミラとその連れ子による贅沢な暮らしによって、家計が困窮するにつれ、メイドの仕事は、しだいにその量を増してゆく。 あれから10年。 18歳になったダニエルを、このままにしておいてはいけない。このままでは、ただ単に、ひたすら逆境に耐え抜く女性を描いた映画になってしまう。 なにしろ、主演のダニエル役は、ドリュー・バリモアである。ドリュー・バリモアの、なんとなくぎこちなく、かわいい顔立ちの中にある強さを引き出してダニエルとダブらせなければならない。 ダニエルの持つ力とは何か。 それは、父親のダニエルに対する愛情の深さである。幼い頃、父親と過ごした6年間、この深い愛情は、ダニエルに自分自身の運命を切り開く為の強い力を与えたのである。 もし、仮に、ダニエルが父親から愛されずに幼児期を過ごしていたら、はたしてどうなっていただろうか。逆境に耐えぬく力は存在しただろうが、自分の運命を切り開いて運を掴み取る強い意志の力は芽生えなかった筈である。 もう一つ、ダニエルには大きな力がそなわっていた。それは自分自身が、継母とその連れ子によって虐げられた生活を体験したことにより、社会で虐げられている人々の心を知っていたことである それに、父親から教えられた読書の習慣によって、今のフランス社会の矛盾もよく知っていた。 こうしてダニエルは、童話の「シンデラ」のように魔法使いの力をかりることなく、自分自身の力によって、フランス王子ヘンリー(ダグレイ・スコット)の心をつかみ、「ふたりは末永く幸せに暮らした。」といことでこの物語は終わるのである。
2006.01.03
コメント(28)
この映画の原作は出演者2人のラジオドラマからはじまり、舞台化され、映画化されたものである。(原作/脚本 三谷幸喜) この映画は「傑作」である。おそらく観た人のほとんどは、直感的にそう思う筈である。 一般に喜劇と呼ばれている映画のおおくは、実際に観て見るとあまり笑えない。特に喜劇役者と称される人達を集めたような映画は、笑えない。喜劇役者の演技力と脚本の力に頼ってしまい、笑いを増幅するような映像が施されていない。 それほど、笑いの映画をつくることは難しい。 笑いは人間特有のものである。それが証拠に、笑い転げている犬や猫を見た人はいないだろうし、大笑いをして水槽の中で跳ね回っている金魚など、見た人は勿論いない筈である。 喜んでいるかのような表情をみせる犬や猫や金魚はいるが、喜びと笑いは明らかに違うものである。 この映画を観たことをきっかけに、今まで意識しなかった笑いについて、深く考えてみるのもいいのかもしれない。 主演は役所広司と稲垣吾郎。2人とも喜劇役者ではない。むしろ、喜劇よりもシリアスな役に向いている。 シリアスなイメージの2人の役者が、脚本の主旨を的確につかみ演じているからこそ、傑作映画になったともいえる。 映像も2人の役者のやりとりからくる微妙な人間心理の変化に迫力を与える役割を果たしていて、脚本のおもしろさの映像化に成功している。 「生きて帰って来い。死んでいいのは、お肉の為だけだ。」 これは検閲官、向坂(役所広司)が、戦地へ赴くことになった劇団「笑の大学」の座付き作家、椿(稲垣吾郎)に、最後に贈った言葉である。 日本が戦争への道を歩み始めていた昭和15年当時、権力の末端で言論統制を担う役割の検閲官が、「お国の為に死んで来い。」というべきところを「生きて帰って来い。死んでいいのは、お肉の為だけだ。」と決して言ってはならない言葉で送り出したのである。 「お国の為に」 「お国の為に」 「お国の為に」いつの間にか、「もじり」が入って、 「お肉の為に」にすり代わっている。 こうした様々な「笑いの要素」の詰まった舞台脚本を検閲官に認めさせる為の、喜劇作家の「7日間の戦い」を描いた物語である。 「権力に対する僕なりの戦い方は、検閲官に言われたとおりに書き直して、さらにおもしろくする。僕には自身がある。一晩考えれば、いい案が浮かぶ筈。」お笑い劇団など、ご時世に合わないから潰してやろうとする検閲官に、いつの間にか、笑いの脚本づくりを手助けさせ、 「こんなおもしろい世界があるなんて、この本を書いた男の知恵に心から感心した。」と、言わせるまでになってしまうのである。 「自分なりの戦い方」という言葉が、さりげなく心に残る映画である。
2005.12.04
コメント(24)
巨匠黒澤明監督が、最も影響を受けたとされるアメリカ映画界の巨匠ジョン・フォード監督。 西部劇の古典とされる名作「駅馬車」で知られるジョン・フォード監督がアイルランドの大自然を舞台につくりあげた名作「静かなる男」。 この映画は現代社会に生きる私達の目には、「癒し」の映画として映るのではないだろうか。 製作年度は1952年。今から53年前の映画である。53年間という月日が、この物語に登場する人間くさく素朴な人達を何処かへ追いやってしまったような気がする。日本映画でいえば、渥美清の「男はつらいよ」に出てくるような人達である。 合理化を追求するあまり、合理化によってもたらされた人間の心の歪みが拡大してゆくにつれ、そうしたことには見向きもしないで人間らしく生きる人々を描いたこの映画は、これから先、益々「癒し」としての価値を増してゆくのではないだろうか。 映画の冒頭シーン。 汽車がキャッスル・タウンの駅に、いつものように3時間遅れで到着する。降りてきたのはただ一人。身長197センチの大男ショーン(ジョン・ウエイン)。 アメリカでプロボクサーを引退したショーンが、生まれ故郷のアイルランドの村へ帰ってきたのだ。 たちまち数人の人なつっこそうな村人が集まってきて彼に話かけてくる。その中にはなんと、駅長もいるし汽車の運転士もいるではないか。 ショーンが、イニスフリーへ行くんだ、と言うと、イニスフリーで釣りをして大きなマスを釣ったことがあるとか、姪がイニスフリーに住んでいるから案内させてやるとか、いつまでたっても話が終わりそうにない。 そのうちに人のよさそうな中年男が勝手に彼の荷物を自分の馬車に載せ、「わしが乗せてってやる。」と無愛想に言い放つ男の馬車に乗ってイニスフリーへ向かう途中、羊を追う赤毛の美しい女性メアリー(モーリン・オハラ)の姿が目に止まる。 (この地方に住んでいるのは、すべてこうした愛情に満ちた素朴な人達なのです。汽車が3時間も遅れるのは、おそらく停車駅ごとに。汽車の運転士が客や駅員としゃべりまくっているからなんでしょうね。それから、赤毛の女性は後に、ショーンの奥さんになる人なのです。) この映画の最大の見所は、ショーンとメアリーの兄レッド{ヴィクター・マクラグレン)との大格闘シーンである。きっかけは、メアリーの結婚をめぐっての二人のプライドと意地の張り合いによるものであるが、このシーンはアイルランドの大自然と村人達の人間性の融合によって叙情性豊かな名シーンに仕上がっている。 (この2人の格闘を見ようと村人達が仕事そっちのけで集まってくるんですね。そしてみんなレッドにいくらだとか言って賭けに夢中になるんです。この村の神父も仲裁するのを忘れて、もう格闘見物に夢中になっているし、死にかけていた老人までもが格闘を見ようと走り出す始末。おまけにこの村の警察が署長に応援を頼むと、返ってきた返事は「ヤンキー(ショーンのこと)に5ポンド。」なのですよ。さらに隣の村からも観光バスで2人の格闘見物にやってくるのです。 因みに、なぜ「静かなる男」なのか、実はショーンには暗い過去があったのです。ボクサー時代、試合中に自分のパンチによって、相手のボクサーが死んでしまったのです。もう二度とパンチは使わない、この「禁」をやぶっての男の戦いだったのです。もちろん愛するメアリーのためにです。) 「自分の中に何か得たいの知れない空虚さを感じた時、 映画”静かなる男”を観てみよう。 少しは楽になるかもしれないから。」
2005.11.15
コメント(14)
この映画を一言で言えば、「ハチャメチャ・カンフー・アクション映画」ということになる。 映像も映画の内容に合わせたかのごとく雑な作りである。 この映画のキャッチ・フレーズである「ありえねー」ことの連続で物語は進んでゆく。 しかし、見終わった後には、やはりこれは映画なのだ、という気持ちにはなる。 ハチャメチャ過ぎる内容から、その人の性格、その人のその時の気分によって「笑いの連続」だった人と「少しもおもしろくなかった人」の両方に別れることだろう。「少しもおもしろくなかった人」は、現実に自分が居る社会とはあまりにも違うハチャメチャ世界へ素直に入って行けない人なのかもしれない。 この映画の映像は、他の映画にみられるように人の心理状態を光線の明暗やカメラの角度を微妙に変化させることによって表現しようとする細やか演出は全くなく、大胆で荒削りである。これは視点を変えてみれば、ハチャメチャなストーリー展開をなお一層ハチャメチャなものにする役割を果たしているともいえる。 この映画の主役達は、他の一連の映画では主役になり得ないような一見ダサイ若者、ダサイおっさん、ダサイおばさん達である。この誰の目から見てもダサイ連中が、突然、カンフーの達人に変身して大活躍する。カッコイイ若者、カッコイイおっさん、カッコイイおばさんへの突然の大変身である。「ありえねー」この言葉が、ここに生きている。若者であろうが、年寄りであろうが、脂肪太りの身体であろうが、背が高かろうが低かろうが、魅力的な顔立ちであろうがなかろうが、そんなことは一切おかまいなく、いきなりヒーロー。ヒロインにダイナミックに変身させてしまう。 それにカンフーの達人達がくりひろげるアクションシーンも「ありえねー」カンフー技のオンパレードであり、「なんで人が空を飛べるんだ。」「こんなことありえねー。」「えーい。もう細かいことに拘るのは面倒だ。どんどんやってくれ。「ありえねえ。」「ありえねえ。」「じーと見ててやるからどうぞ、好きなようにご自由にやってください。」というようなことを呟きたくなってくるシーンの連続である。 しかし、ここまでハチャメチャ度が進んで来るとアジア社会の躍動感さえ伝わってくる。高度成長下の国の未来への明るさ、失敗しても何度でもやり直せる力強さ、これはアジアでしか創ることができない映画なのかもしれない。 この映画のストーリーは伏線がはっきりしている。どんな内容の映画であっても見終った後、ある程度の満足感を味わうことができるのは伏線に沿ったストーリー展開になっているかどうかにかかっている。 ヤクザに憧れる町のチンピラ、シン(チャウ・シンチー)は、幼い頃、路上生活者らしい得たいの知れない男から如来神掌(にょらいしんしょう)と呼ばれるカンフーの教本を買わされる。 毎日この教本の従ってカンフーの修行に励む。 ある日、口のきけな少女が町のワルガキどもにいじめられているのを助けようとするが、修行を重ねてえとくしたはずのカンフーがまるで役にたたない。シンは、この日を境に善人になるのをやめ、悪人になる決心をする。 ストーリの詳細を書いてもあまり意味がないほどハチャメチャな内容なのであえて書かないが、この如来神掌と口のきけない少女が伏線となって、つじつまの合うストーリーを形作っているのである。 この映画から何か得るものがあったのか、という問いには、こう答えたい。「複雑な事はすべて単純化してシンプル イズ ベストを貫きましょう。」
2005.10.31
コメント(24)
これは地球外知的生命体からのメッセージをもとに人間の存在とは何か、をテーマしたジョディ・フォスター主演のS.F映画である。 花畑風来「という具合に書くと凄く堅い内容の映画に思われるかもしれないけど、DVD150分の長さを感じさせないほど、おもしろい映画なのです。但し、U.F.Oもエイリアンも出てきません。あれ?次に書いてある事って、この映画とは関係ないんじゃないの?いや、いや、実は関係あるんです。 目の前には、誰の目にもどうしようもないと歎きたくなるような荒地がひろがっていた。 この土地にしがみつき、この土地をなんとかする以外、生活の糧を得る術がないほど、みんな貧乏だった。 ここに町をつくり、農地や工場をつくって、みんなの生活をよくしよう。みんなの共通の目的ができ、一人一人の心に連帯感が芽生えた。 時は流れて、荒地はすっかり姿を消し、そこには綺麗な家々が立ち並び、整然と区画整理された田畑ができ、近代的な工場もできた。 あんなに貧乏だった人々は、みんな小金持ちになった。 しかし、目的を果たした人々の心から、しだいに連帯感が失われていった。失われた分、自由になったけれど、一人一人の心に小さな荒地ができた。 それは、時とともに大きさを拡げ、荒地の大きさに怯えさえも感じる人が増えていった。 そんな時代に観るべき価値のある映画、それがこの「コンタクト」である。 花畑風来「ロード・ショー公開された時、観た映画なのです。でも、今回、あらためてDVDで観てみると、映画館で観た時よりもかなり良い映画におもえてきたのです。ということは、日本社会が、あの頃より、かなり荒れてきた証なのかもしれません。」 この映画のパンフレットには次のように書かれている。子供の頃から、わたしはずーと考えてきた。なぜ、そして何のためにわたしはここにいるのか、わたしとは一体、何者なのか、と。もしその答えのほんの一部でも知ることができるのなら、わたしは命を賭けてもいいと思っている。間違ってる? エリー・アロウェイ この言葉は、ジョディ・フォスターの知的な演技力によって、抵抗なく頭の中に入ってくる。そして、映画を観終わった後、次のような言葉を言いたくなる。 「私たちが、固定観念に縛られて身動きできなくなるほど、悩みの出口が見えなくなった時、視点を変えて、太陽系第三惑星の地球上に存在する自分自身を時間と空間の正体を追求しながら意識してみたらどうだろう。少しは悩みからの解放の糸口がつかめるかもしれない。」 あらすじ 宇宙の彼方に、幼い頃からの自分の疑問に答えてくれる生命体がいることを信じて天文学者になったエリー(ジョディ・フォスター)は、ある日、宇宙の知的生命体らしきものからのメッセージを受信する。 このメッセージには、空間移動装置の設計図が含まれていた。エリーは、紆余曲折の末、この装置に乗って地球外生命体との接触を試みる事になるんだが。。。。。。。。。。。。
2005.10.10
コメント(33)
これは、グウィネス・パルトロウ主演の恋愛映画である。この映画を観終わった後、グウィネス・パルトロウの魅力以外、あまり印象に残るものはない。「あの美貌。あのスタイル。あのかわいさ。」彼女が出演している他の映画、例えば、「大いなる遺産」(1997年)、「恋におちたシェイクスピア」(1998年)、「ダイヤルM}(1998年)など、ぜひ、観てみたいという気持ちをいだいたまま終わってしまいそうになる。 しかし、この映画の題名であり、ストーリー展開のテーマである「スライディング・ドア」について、あれこれ想いを巡らせてみると、私達の日常生活において意味のある映画になってくる。 「スライディング・ドア」とは、地下鉄の電車のドアのことである。このスライディング・ドアの開閉によって、この物語の主人公ヘレン「グウィネス・パルトロウ」のその後の人生が変わってくる。 ヘレンは広告代理店に勤めている。ある朝、出勤してみると、些細な出来事を理由に解雇をいいわたされる。キズついたヘレンは、地下鉄に乗って家へ帰ろうするが、寸前のところで電車のドアが閉まってしまい、「電車に乗れなかったヘレン」と、寸前のところでドアの閉じるのを押さえて、なんとか「電車に乗ることができたヘレン」ができあがる。 この2人のヘレンを対比させて、物語は進んでゆく。 ヘレンは、作家志望のジェリー(ジョン・リンチ)と同棲生活している。ヘレンが会社から解雇を告げられていた時、ジェリーは昔の恋人リディア(ジーン・トリプルホーン)とヘレンの部屋で浮気をしていた。「電車に乗れなかったヘレン」は、ひったくりにあい、顔に怪我をして病院へ行っていた為、時間的にジェリーの浮気の現場に遭遇できなかった。 一方、「電車に乗ることができたヘレン」は、ジェリーの浮気の現場に出くわすことになるが、車内で後に恋人になる男性ジェームズ(ジョン・ハンナ)と知り合っていた。こうしてヘレンの人生は変わってゆく。 その後はお決まりともいうべき、ああでもない、こうでもない、の恋の物語の展開となり、「グウィネス・パルトロウ」の魅力全開のシーンが、くりひろげられる。 ここでこの物語の「スライディング・ドア」の発想のユニークさだけに焦点をを絞り、この「スライディング・ドア」を私達の日常生活に当てはめてみることにする。(注意! 以下は実話ではない。) 会社からの帰宅途中、寸前のところで電車のドアが閉まり、乗れなかった。そこで時間つぶしに改札口を出てブラブラしていると宝くじ売り場があった。宝くじを10枚買った。そのうちの一枚がなんと一等であった。 寸前のところでドアが閉まり乗れなかった電車が、大事故をおこしていた。 寸前のところでドアが閉まり、くやしがって振り向いたひょうしに持っていた傘の柄が近くにいた女性の服のポケットにひっかかり、服を破ってしまった。これが縁でこの女性と知り合うことができた。 誰しも自分の過去を振り返ってみると、形をかえた「スライディング・ドア」が、たくさんあったのではないだろうか。 これをもっと拡大して、二つのドアのうち、どちらのドアを開けるかで、日本の運命が変わってくる事態を想定してみよう。 最近の例では、郵政民営化。参議院で郵政民営化関連法案が否決された時、小泉総理が衆議院解散のドアを開けなかったとしたらどうなっていたか。。。。。 一本の映画を観て、こんなぐあいに、あれこれ想定してみる気になれるのも映画の持つ力の一つではないだろうか。
2005.10.02
コメント(22)
この映画は、どこにでも居そうな平凡なOLが、猫の能力を身につけ、キャット・ウーマンとなって敵と戦う物語である。 これは単なる女性アクション映画ではない。DVD日本語版に数々の名台詞が出てくるので、その台詞をそのまま書いてストーリーを追ってゆくことにする。映画の台詞「これが昔の私。 何の変化もない毎日のくりかえし。 夢より現実を選んだせい。 アーティストを目指していたはずなのに、 いまだに美容クリームの広告デザイナーをやってる。」花畑風来「現実には、ほどんどの人が、夢よりも現実で仕事を選び、 生活の安定の方をとっている。そうして年を重ねるごとに 夢を忘れてゆく。」 ある出来事から自分の勤める会社の新化粧品の致命的な欠陥を知ってしまったペイシェンス(ハル・ベリー)。工場の廃液を浴びせられ、死に追いやれたペイシェンスに無数の猫が擦り寄る。花畑風来「平凡な人間に平凡な猫の組み合わせでは、ペイシェンスが 野良猫大将になってしまうような気がする。 やはり、平凡なものを変身させるには、超が付くくらい 異質なものが必要なのです。」 ペイシェンスの顔をじっと見つめている猫は、ただの猫ではない。古代エジプトの女神バストからの使いであるエジプシャン・マウのミッドナイト。 神の使いである猫のミッドナイトに新しい命を与えられたペイシェンス。映画の台詞「すべては、私が死んだ日に始まった。 死亡記事を書くなら、きっとこうだ。 平凡な女の平凡な人生が終わった。 家族もいない。でも死亡記事はでなかった。 私の死んだ日は、私の新たな命の始まりだったから。」 こうして、ペイシェンスはキャット・ウーマンとなって、悪と戦う事になるのだが、キャット・ウーマンの事をもっと詳しく説明する為に、この辺りから女性猫学者が登場する。映画の台詞「キャット・ウーマンは、社会の掟に縛られない。 欲望のままに生きるの。 それは幸いであり、災いでもある。 いつも孤独で誤解される存在。 でも、他の女性が知らない自由を味わえる。 あなたは、キャット・ウーマン。 視覚も嗅覚も聴覚も驚くほど鋭いわ。 強烈な独立心。 ゆるぎない自信。 人間離れした反射神経。 運命を受け入れなさい。 これまでは、とらわれの人生だったけど。 新たな自分をまるごと受け入れることで 自由になれるの。 自由は力よ。」花畑風来「この映画のアクション・シーンは、猫の独特の動きを巧みに 取り入れた異様な感じのする映像になっていて、 台詞からだけではなく、映像からも自己実現を感じることが できるようにつくられている。」
2005.09.19
コメント(16)
DVDの題名は「ファイティング・ガール」ではなく、何故か「ファイティング×ガール」となっている。 これはメグ・ライアン主演のボクシング映画である。「あのメグ・ライアンがボクサー!」期待してはいけない、メグ・ライアンは女子ボクサーではなく、ボクシングの女性プロモーターの役である。 実在の女性プロモーター(ジャッキー・カレン)のサクセス・ストーリーを主演メグ・ライアン風にアレンジした内容となっている。 それにしても人気女優(メグ・ライアン)主演ののボクシング映画なら、劇場公開された時、かなりの話題になった筈なのに、花畑風来としては「ファイティング・ガール」なんて映画があったことすら知らなかった。 そこで、この映画の事を色々調べてみると、案の定、日本では劇場公開されていない。 2004年、アメリカで劇場公開されたものの、観客動員数が芳しくなく、日本で劇場公開されないまま、いつの間にかDVD化されてしまった作品だということである。 ということは、内容しだいでは、掘り出し物の映画をみつけたことになる。 この映画、「感動」の面においては、文句なく掘り出し物である。弱い者が強い者に挑戦する姿は、純粋に感動を呼ぶ。 誰しも前例がない事をやりぬくには勇気がいる。 ドロドロとした男社会のボクシング界で、女性であるがゆえ、前例がないということで、誰からも全く相手にされない女性プロモーターが、誰からも全く評価されない無名のボクサーをみつけだし、超一流に育て上げるという物語は、違和感なく組み立てられていて、自然な感動を呼ぶ。 それに、(メグ・ライアン)のキュートな魅力も十分生かされていて、明るく楽しい、アメリカ映画らしいアメリカ映画になっている。 ストーリー ボクサーの資質を見抜く天才的な目を持ちながら、周りの男達から、その才能を無視されていたカレン(メグ・ライアン)。 とこがある日の出来事がきっかけになり、幼い頃からの夢をかなえるチャンスがめぐって来る。 ある会社の重役の秘書であったカレンは、今までの安定した生活を捨て、自らの才能を試す道を選ぶ。 ボクシング・トレーナーのカレンの父親は、女の子のボクシング好きを快く思っていなかった。従って、幼い頃からボクシング・ジムばかりで遊んでいたカレンは、みんなから邪魔者扱いされていた。ところが、たった一人、カレンのよき理解者がいた。プロボクサーの叔父レイである。 この叔父の言葉が、幼いカレンの潜在意識に染み付いて。カレンの人生に大きな影響を及ばすことになる。 「なあ、おまえとどこにもいる他の女の子との違いはなんだ。」 「叔父さんのお気に入り。」 「そのお気に入りさんは、将来なんになる。」 「世界をびっくりさせる。」 「そうとも世界は鯛で、おまえは真珠だ。きれいなだけじゃない。 強いんだ。強ければ何でもできる。忘れるな。」 「ええ、レイ叔父さん。」 「いいな。」 町のチンピラ・ボクサー、ルーサー(オマー・エップス)の才能を見抜いたのはカレンだけだった。ある出来事から引退した名コーチ、フェリックス(チャールズ・S・ダットン)を復活させ、この3人が今までのボクシング界の常識を次々に崩してゆくことになる。試合に勝ち続けるルーサー。カレンは天才プロモーターとして、マスコミに取り上げられ、しだいに有名になってゆく。 しかし、成功の後には必ずといっていいほど、大きな落とし穴が待ち受けている。この様々に形を変えた落とし穴は、成功の大きさに比例して大きくなってゆく。 マスコミに利用され、あまりにも有名になり過ぎたカレンは、自分の本質を見失い、自分をファション化する方向へ進んでゆくのだが。。。
2005.09.11
コメント(20)
この映画は、主演者であるショーン・コネリーとキャサリン・ゼダ=ジョーズのキャラクターが、どんでんがえしにつぐ、どんでんがえしのストーリーに、生き生きとした風を吹き込むことによって、明るく楽しい作品に仕上がっている。 ニューヨークで起こったレンブラントの名画盗難事件を調査する為、保険会社の女性調査員(本業は泥棒)ジン(キャサリン・ゼダ=ジョーンズ)が、マック(ショーン・コネリー)に近づく。マックは、美術品専門の泥棒として本命視されていたからである。 マックとジンは、お互いに罠をかけ合いながらも、男と女として、お互いに惹かれ合ってゆく。 ショーン・コネリーは、1930年 スコットランド生まれ。この映画の製作当時、69歳と思われる。 物語の中で演じているマックの年齢設定は、60歳。マックは、美術品専門の世界最高技術を身につけた泥棒である。狙うのは常に最高級美術品、巨大組織をターゲットにハイテクを駆使し、自分の能力を試す為に泥棒をしている。 もし、仮に、この物語を日本社会に合うように創りかえ、日本映画に変えてみたらどうなるだろうか。 日本人の国民性である「みんなが行く方向へ自分も行かなければ取り残される。」という集団安住社会に、ショーン・コネリーのキャラクターであるカリスマ・スーパー老人が存在すること自体、不自然に写るし、ショーン・コネリーに匹敵する日本人俳優は残念ながら見当たらない。 そこで、マックをサラリーマンの定年退職者が集まった泥棒集団へと代えるてみる。マックのような強烈な個性を持った人物がいないいじょう、みんなで知恵を出し合い、集団で行動する方が得策だからである。 しかし、日本の老人は、ハイテクが苦手のイメージが定着しているから、ハイテクを使わない泥棒集団に代える必要がある。 社会全般に定着したイメージを無視すると、リアリティーを欠いた滑稽なシーンの展開になってしまう懸念があるからである。 そこで、思い切って、老人集団をやめ、年齢に拘らず、ハイテクが得意な人を集めたハイテク泥棒集団を創り上げたらどうなるか。 はたして、キャサリン・ゼタ=ジョーンズが演じたジンに、十分に能力を発揮させ、生き生きとした映像を創り上げることができるだろうか。 キャサリン・ゼダ=ジョーンズは、1969年 イギリス生まれ。保険会社の調査員ジンの役を演じている。この映画の製作当時、30歳と思われる。 キャサリン・ゼダ=ジョーズは、この映画の中では、ひときわ輝いている。この輝きの凝縮は、ジンが防犯用のレーザービームを巧みに潜り抜けるシーンにある。美貌としなやかな身体の動きは、知的な躍動感があり、映画全体に光をはなっている。 しかし、このシーンがこれほど生きているのは、相手役のショーン・コネリーのカりスマ性が背後にひかえているからであって、このカリスマの作用なしでは、このシーンは成り立たない。 従って、ジンが泥棒集団の中のマドンナ的な存在になってしまっては、常に一人で計画を練り、独りで行動しようとするジンの孤独な知力が生きてこない。 本当は、お互いが個性を認め合って、各自の個性を生かした集団をを創り上げるのが理想なのだが、それを描くと、この映画全体が学園ドラマ風になってしまうような気がする。 以上のような理由で、この種の映画を日本社会に置き換えるには、かなりの無理があるし、例え、置き換えたとしても、なんの面白味もない平凡な映画になってしまうだろう。 洋画を観るとき、時には、こういうことをあれこれ考えてみると、今まで気づかなかった日本社会や日本人の異質性が見えてきて、今までとは少し違った洋画の観方ができるのかもしれない。
2005.08.21
コメント(27)
私達が日常生活に疲れた時、自分自身の原点を知ることによって、見失った自分を取り戻すことがある。原点さえ知っていれば,軌道修正のヒントをつかめるからである。 この映画は、女優吉永小百合の原点である。名匠浦山桐郎監督は、吉永小百合の隠れた資質を巧みに引き出し、後世に残る名作を創り上げた。カラーではないモノクロの映像からは、構図の良さと量感のある画面構成にによって、この時代の日常生活が現実味を帯びて伝わってくる。 浦山桐郎は、この「キューポラのある街」で監督デビューし、同じく吉永小百合主演の「夢千代日記」を最後に、この世を去った映画監督である。生涯で監督した作品は、9作。寡作であるということは、自分の気に入った作品しか撮らなかったということを意味している。 当時17歳の吉永小百合が、この物語の中では14歳の中学3年生のジュンの役を演じている。「キューポラのある街」と「夢千代日記」を観くらべてみると、ジュンが自分自身の原点を忘れることなく成長していった姿が、夢千代ではないかと思えてくる。映画「男はつらいよ」のフーテンの寅さんが、渥美清そのものであるように、「夢千代日記」の夢千代は、吉永小百合そのものであると感じさせるからである。 昭和30年代。経済高度成長下の日本。キューポラと呼ばれる鋳物工場の煙突が立ち並ぶ埼玉県川口市。そこは鋳物職人達の町でもあった。 ジュン「勉強しなくても高校へ行ける家の子に、負けたくないんだ。」(ジュンは、高校進学を目ざす中学3年生の女の子。一流高校県立第一へ確実に受かるほどの学力の持ち主。ジュンの家は貧乏人の子だくさん。ジュンには弟2人、それにもうひとり、母親から赤ちゃんが生まれ出ようとしていた。ジュンは、弟達のめんどうをよくみる明るくてしっかり者のおねえちゃん。) ジュンの父親「ダボハゼの子はダボハゼだ。中学出たら、みんな働くんだ。鋳物工場で。」 (ジュンの父親は、鋳物職人。近代化の波についてゆけない職人気質が、家族の生活を窮地に追いやってゆく。) ジュン「勉強したって意味ないもん。やだよ。あたい、もう、みんなやだよ。」(酒の力を借りて、現実から逃げる父親。競艇で、わずかな生活費を無くしてしまう父親。飲み屋で、酔っ払い相手に働く母親。逆境にもめげず、あんなに元気だったジュンが崩れ始める。) ジュンの作文「私には、解らない事が多すぎる。第一に、貧乏な者が高校へ行けないということ。今の日本では、中学だけでは下積みのまま一生うだつがあがらないのが現実なのに、下積みで、貧乏で、喧嘩したり、お酒を飲んだり、博打をうったり、短気で気が小さく、その日暮らしの考え方しかもっていない皆弱い人間だ。元々弱い人間だから、貧乏に落ち込んでしまうのだろうか。それとも貧乏だから弱い人間になっていまうのだろうか。私にはよく解らない。」 (父親から、ダボハゼの子はダボハゼだと言われたジュンの苦悩。) この映画には、ジュンの友達のヨシエと弟のタカユキ(市川好郎)の友達のサンキチが、父親といっしょに北朝鮮へ帰る話が出てくる。当時の社会問題をジュン達の日常生活にからませることによって、この物語をスケールの大きなものにしている。 ジュン「一人が5歩前進するより、10人が1歩前進する方がいい。とにかくさ。あたいは、ダボハゼじゃないから安心してよ。かあちゃん。」 (進学を諦め、就職することにしたジュン。定時制高校で、働きながら勉強する事に生きがいをみいだしたジュン。) ジュンとタカユキが、元気に走ってゆくラストシーンからは、逆境を切り開いて力強く生きてゆく2人の未来を暗示させる。
2005.07.31
コメント(18)
この映画は感動の名作である。 感動とはどんな感覚だったのか、忘れてしまった人は、ぜひ、この映画を観て感動を味わってほしい。 ザック(リチャード・ギア)がポーラ(デブラ・ウインガー)を抱きかかえ、工場を出てゆくクライマックス・シーンで、何処からともなく、こみあげて、溢れ出てくるような感情を体験する事になるだろう。 今、私達の社会は、人がしだいに「物」化してゆく状況におかれている。人を「物」としか見ないことには、当然起こりえないような事件が頻繁に起こっているし、以前は身近に居た人間的な魅力に溢れた人が、いつの間にか姿を消してしまっている。 日本は、久しく、タコ壺社会だと言われてきた。 日本人は元々、集団でしか行動できない習性を持っていて、個人個人は、それぞれ個々の小集団の中で生活していた。 これをタコに例えれば、一つのタコ壺の中に、たくさんのタコが入っていて、他のタコ壺のタコ社会へは、容易に入ってゆけない構造になっていた。自分のタコ壺の中で要領よく振る舞っていさえすれば、困った時、仲間が助けてくれるという安心感があったし、何よりも安定した収入が得られた。 ところが、こんなにタコ壺の数か多いのは、無駄であって、合理的ではない、ということになって大半のタコ壺は割られることになった。 タコ壺の中でしか安心感を得られないタコ達は、数少なくなったタコ壺の中に、我先に入ろうと足の引っ張り合いをはじめた。 もう自分さえ良ければ、他の人はどうなっても良いという社会の始まりである。 この物語の主人公であるザック(リチャード・ギア)も、これと同じような状況下にいた。 薄暗い部屋の中で、自分の父親の寝顔をみて、フィリピンでの幼い頃の屈折した不幸な思い出が次から次へと蘇る。このシーンから、彼には自分の居場所がないのだということを感じ取れる。 「おまえは、俺と同じだ。仕官の器じゃない。」 海兵隊の父親の反対を押し切って、彼は海軍士官学校へ入学する。ところが、この海軍士官学校は、彼のような利己主義は自ら墓穴を掘り、卒業できない訓練のシステムが出来上がっていた。利己主義者に軍の指揮を執らせることなどできないからである。 ところがである。この士官学校には、凄い教官がいた。鬼軍曹フォーリー(ルイス・ゴセットJr)である。 彼は、その風貌、粗野な話し方とはうらはらに、優れた人格者であった。彼の鋭い洞察力は、ザックの内面を見抜き、ザックを人間的成長へと導いてゆく。 この士官学校では、卒業と同時に教官と生徒の立場が逆転する。 フォーリー「おめでとうございます。少尉殿。」 ザック 「軍曹、君のおかげだよ。」 毎期、希望退学が半数に達するほどの過酷な教練に耐え、卒業の日をむかえることができたザックに対してのこの会話は、フォーリーの人間的魅力を感じさせる。 この町の女性たちの夢は、士官学校の訓練生と結婚し、エリート・パイロットの奥さんになることであった。しかし、訓練生たちは、卒業が確実になると自分の女を捨てて、この町をでてゆくのが常であった。 また逆に卒業できなかった訓練生は、女性から捨てられていった。ザックの親友の自殺は、これが原因であった。 ポーラもザックから捨てられる運命にあった。 この映画のラスト・シーン。 海軍士官の真っ白な制服に身を包んだザックが、ポーラの勤めている工場の中に入ってゆく。ポーラを見つけたザックは、彼女を抱きかかえ、工場から連れ出そうとする。 「ポーラ、やったね。ポーラ、おめでとう。」工場の仲間たちから、拍手で見送られ、工場の出口が見えてきた時、ポーラがザックの制帽をとって、自分がその制帽をがぶる。ここで、静止画像となり、映画は終わる。
2005.07.17
コメント(31)
「世の中は、どうしてこんなに不公平なんだろう。おかしいじゃないか。どうして俺の願いは叶わないんだ。神はどうしたんだ。神がいるなら何とかしろよ。」 「俺が神だ。そんなに言うんなら、おまえに任せるから神をやってみろよ。神だってたいへんなんだぞ。」 この映画は、こうして神を体験する事になった男、ブルースの物語である。ブルースの役は、ジム・キャリー。ジム・キャリーの演技が、コメディ・タッチのシナリオを、さらにコメディー化している。深刻な問題もすべてコメディ化して笑いで吹き飛ばせば、吹き飛ばされた跡に、物事の本質が残されているのかもしれない。 神の役は、モーガン・フリーマン。神が出てくる背景の映像は、白色が基調となっている。神の服装も白いスーツ、白いネクタイ、白いワイシャツ。白は、乱れに乱れた事態を、すべて解決してくれそうな予感を漂わせる色である。 モーガン・フリーマンの老練な人をやさしく包み込むような演技が、白色とよく調和している様は、彼が神である事への疑いの念を吹き飛ばすには十分である。「神様お願いです。 神様お願いです。 神様お願いです。 神様お願いです。 神様お願いです。 神様お願いです。 神様お願いです。 神様お願いです。」神となったブルースの耳に、世界中の無数の人々の祈りの声が聞えてくる。(実際には、バッファロー市の市民の声だけだった。神はブルースに全人類を任せたわけではなく、試しに彼の住むバッファロー市の人々だけを任せたのだった。) 「神は一人なんだ。こんなにもたくさんの人達の願いを、吟味などしてはいられない。やってられない。えーぃ、めんどくさい。よろしい。全部叶えましょう。はーぃ、全部OK!です。」 人々の願いをすべて叶え、自分自身の願いも自分で全て叶えた結果、いったい何が起こったか。(但し、人の心は神でも操作できなかった。)プラス思考は、マイナス思考なしには成り立たない。金持ちは、貧乏人なしには成り立たない。宝くじ当選者は、はずれた人達なしには成り立たない。神の力の乱用によって、崩されたバランスは、バッファロー市民の暴動となって現われた。 神様! 助けて! 下記の神とブルースの会話は、私たちに貴重な教訓を与えてくれる。(DVDのオーディオ日本語音声をそのまま表記)神様、助けて!(バッファロー市を暴徒の町にしてしまったブルースに対して) 「見掛けほど簡単じゃないだろ。神の仕事は。」「みんなの望みを叶えただけだ。」「だが、本当の望みなど、わかる者はいない。」「シングル・マザーが二つの仕事を掛け持ちしながら、子供と遊ぶ時間をつくる。これが奇跡だ。 十代の若者がドラッグをやめて勉強に励む。これが奇跡だ。 何もかも神に頼る者は、自分の中にあるパワーに気づいていないんだ。奇跡が見たいのなら自分で起こせ。」神様、助けて!(自分自身を見失ったブルースに対して)「ブルース、君には才能がある。人々に笑いと喜びを与えられる才能があるんだ。私が、そうつくった。君のそのユーモアこそ、天賦の才能だ。」神様、助けて!(同棲中の恋人、グレース(ジェニファー・アニストン)の自分に対する深い愛情を知ったブルース。高速道路でトラックに轢かれて死んでしまったブルースに対して)「祈るんだよ。ブルース、本当の望みは。」「グレース」「取り戻したいか。」「いや、幸せになってほしい。どんな形でもいいから、僕と同じように彼女のことを心から愛する恋人を見つけてほしい。まるで貴方のように、深く大きな愛で彼女を包み込める、そんな恋人を。」「それが祈りだ。」」「最高だよ」「願いを叶えよう。戻れ。」 こうしてブルースは、神の力によって生き返り、再びこの世に戻ってくる。 花畑風来が、この映画から得たこと。「自分の中にある力」「自分の本当の望み」「自分の役割」この三つについて、もう一度考え直してみよう。今後の人生が少しは変わるかもしれない。
2005.07.02
コメント(34)
童話作家、新美南吉が1919年に発表した「ごんぎつね」を読みながら、レンタル・ビデオで映画「時計じかけのオレンジ」を観ている花畑風来が居る。 花畑風来は、世代を越えて支持されているこの二つの作品から、人間のもつ素朴さが文明の発展とともに失われ、人々が単なる「物」になってゆく未来社会を予感する。 映画は本来、監督のものである。この映画は、映画監督スタンリー・キューブリックのものであることを強烈に主張している。 2005年の今、SF映画として描かれたこの映画の近未来超暴力社会が現実のものとなりつつある。私たちがこの映画を観て、何の抵抗も感じなくなった時、人の心が荒廃し、心の戦争状態に入ってしまった証になるのかもしれない。 この映画の映像は極めて絵画的である。絵画的というのは、作品のテーマを表現する為に現実でないものを現実であるかのごとく錯覚させる為の映像ではなく、作者の感性にそって現実を加工し、未来社会であるかのごとく思わせる映像のことである。 この映画の映像には白色が多く使われている。主人公であるアレックス少年(マルコム・マクドゥウェル)とその仲間に怪しげな白い衣装を身に付けさせ、全編にわたって白色系を多用した映像からは、詩的な美しさを感じさせ、この超暴力が現実的なものではなく、未来社会のものだということを強調しているように感じる。 さらに、この映像にクラシック音楽を浴びせることにより、映像に深みと量感を持たせ、重量感を伴って未来へと繋がっていくことを暗示させている。 映画の冒頭、左目に長いつけまつげを付け、不適な薄笑いを浮かべたアレックス少年の顔がアップで映し出される。これは集団暴行、集団レイプ、暴走運転、窃盗を単なるホラー・ショー、ゲームとしか感じないアレックス少年の時代とともにつくられた残忍な本性を現している。 夜、ミルクバーで超暴力大放出のプランをたて、仲間三人と夜の街へ出かけてゆくアレックス少年。彼の癒しはベートーベンのシンフォンニー。彼の敬愛するベートーベンの曲が、彼の心の奥に潜む超暴力エネルギーの放出に拍車をかける。 ついに、殺人を犯し、刑務所の生活が始まる。神への忠誠を誓い、模範囚となるが、刑務所を早く出たいが為の見せ掛けであり、残忍な本性は何も変わっていない。 現在、実験中であるルドビコ式心理療法を受け、完全に洗脳されたアレックス少年。暴行、強姦、反社会性への拒絶反応は、吐き気と苦痛を伴い死んだも同然の状態となるベートーベンの第九を聴いても拒絶反応を示すよう洗脳された彼は、苦しみから逃れる為、自殺をはかるが未遂に終わる。 裏を返せば、彼の残忍な反社会的本性は権力によって利用されていた。善は本人の心の奥から自然に生まれ、本人自身がそれを選択しなければならない。選択の自由を洗脳によって奪い取り、彼を非人間化したのは、現政権の政略の為であった。 自殺未遂によって、洗脳から解き放たれた彼の本性のエネルギーは、権力の管理の下に放出されることになる。 大勢のマスコミ関係者に取り囲まれたアレックスが、全裸の女性とからみあう、ラスト・シーンは。 気がつかないうちに、権力によって管理され、操作される人間性に疑問符の普遍性を投げかける映像となっている。
2005.06.19
コメント(20)
19歳で第130回芥川賞を「蹴りたい背中」で受賞した綿矢りさの17歳のデビュー作「インストール」(第38回文藝賞受賞)の映画化。 この映画は現実逃避した女子高校生が、仮想世界の空虚さを体験することにより再び現実世界に戻ってくるまでの過程を描いた物語である。 花畑風来は、17歳の綿矢りさの視点にたって、この映画のストーリーを追っていくことにする。 高校へ通学する女子高校生の群れ。この群れの動きはスローモーション。この映像から、私(この物語の主人公である女子高校生)「上戸彩」と他の人達が、しだいにかけ離れて行くのを感じる。 この物語の主人公である女子高校生の私の語り。私「 なんて普遍的な風景。 私。 毎日みんなと同じ。 背も顔も。 歩いて行く歩幅さえも。 個性のない普遍的な風景。 」 この映画を観ている花畑風来の語り。花畑風来「自分自身が今まで意識していなかったことを、何かのきっかけで意識してしまうと、この映画の私のように今までの日常生活が送れなくなってしまうことがある。」 私のクラスメートで片思いの相手である光一(中村七之助)の語り。光一「大体あんたにゃ人生の目標がない。だからそううだうだと他の何百万人もの人間が乗り超えてきた基本的でありふれた悩みを引きずってんのさ。」花畑風来「日本は、いわゆる談合式口利き社会であり、赤信号みんなで渡れば怖くない式集団社会、たこつぼ式村社会である。ようするに本当の自由はない。 それに、毎日のように報道される日本の財政危機、リストラ、少子化による人口減少、老人問題、年金問題、貧富の差による凶悪犯罪の増加などなど、私たち17歳世代の将来は暗い。 こうした社会をつくってしまった大人たちを愁いてみたところで虚しいものである。私「休みたいけど1回休んだら、次の日もまた次の日も学校へ行けなくなる気がする。」花畑風来「登校拒否、ひきこもりは、マイナス方向への道なのです。マイナス方向への道はちょっとしたきっかけさえあれば簡単にできるものなのです。」 そして、ある日、私は学校早退をきっかけに登校拒否、ひきこもり女子高校生の道を歩むことになる。花畑風来「こうした状況下に陥ると何故か救いの手が現れるものである。」 救いの手。それは10歳の小学生の男の子(かずよし)「神木降之助」だった。この男の子は、パソコンに精通し、しかもエロ知識にも精通し、独自のエロ哲学を持っていた。 私が捨てたパソコンが縁で、私はこの男の子から自給1500円のアルバイトを勧められる。アルバイトの内容。この男の子、かずよし君にはミヤビさんという名の風俗嬢のメル友がいた。もちろん、ミヤビさんは、かずよし君を10歳の男の子だとは思っていない。かずよし君のハンドルネームは、かな子である。「かな子ちゃん、私、夜のお勤めで忙しいから私の代わりにHチャートのアルバイトしてくれない。」 でも、かずよし君は小学校へ行かなければならないし、宿題もしなければならないので忙しい。そこで、時間をもてあましている私に頼んだのです。 こうして、かずよし君からのパソコンとエロの指導の基、私のなりすましHチャート嬢の生活がはじまる。 現実は何も変わっていないけれど。クラスメートの光一の突然の交通事故死はあったけれど。 約6ヶ月間、かずよし君の両親にみつからないように、かずよし君の部屋の押入れの中で、かずよしと共にHチャート嬢になりすました私の心に変化があらわれる。私「 生きていたい。 誰かに会いたい。 話がしたい。声が聞きたい。 かかわりあいたい。 じかに触れ合ってつながって大切にしたい。 暖かくて不完全で どうしようもないものを好きになりたい。 退屈でも くだらなくても そのうち そのうち きっと 」 これは、私のこころの底から湧き出てきた言葉である。本能に近い言葉である。仮想世界、虚構世界、妄想世界、逃避世界からの離脱の言葉である。 こうして、再び以前と同じような、私の高校生活がはじまった。
2005.06.07
コメント(16)
「霧笛が俺を呼んでいる1960年」名古屋港第一稲永埠頭に立ち並ぶ古びた倉庫群 倉庫の壁の黒ずみと老朽化によって崩れ落ちたコンクリートの修理跡が醸し出す侘しさが、港を舞台にした遠い昔の日本映画を蘇らせる雰囲気を漂わせている。 ある日の夕暮れ時。花畑風来がここを通りかかると、歌を歌いながら歩いてくる男女数人の若者たちの姿が目にとまった。仕事帰りらしく、その顔は晴れ晴れとしていた。 耳を澄まして聴いてみると、どこかで聴いて事があるような懐かしさを匂わせるメロディである。 霧の波止場に 帰ってきたが 待っていたのは 悲しいうわさ 波がさらった 港の夢を むせび泣くよに 岬のはずれ 霧笛が俺を 呼んでいる 花畑風来のかすれた記憶がしだいに輪郭をおびてくる。脳裏に浮かんでは消える古い港の風景が、靄のかかったようなレンタルビデオ店の陳列棚と重なって、ビデオ「霧笛が俺を呼んでいる」の形が現れてくる。 そうです。そうなのです。この歌は、花畑風来が今から数ヶ月前、レンタルビデオ店で、なにげなく借りてきて観た映画「霧笛が俺を呼んでいる」の主題歌だったのです。 今の若者たちには似つかわしくない歌。彼らが知っているはずのない歌。この古びた倉庫の群れから吹きさらす異質な風が、彼らにとっては異質な歌を歌わせているのだ。 この映画はB級映画である。低予算、短期間で大量につくられていた頃の映画である。B級映画のなかには時として、才気にあふれる映画が出現する事があるが、この映画には才気は感じられない。ストーリーもありふれていて特筆すべきものではない。 この映画のテーマは、ストーリーではなく、港の高潮防波堤に一人たたずむ赤木圭一郎自身の姿に集約されている。 育ちは良さそうだが暗い過去を背負って生きているような影のある顔だち。 金持ちしか海外旅行ができなかった時代に、日本ではとうていエリートになれそうもない大半の若者たちの疎外感を癒していたのが「船乗りになって世界中を旅したい。」という思いではなかったろうか。その思いが、自分を取り囲んでいる冷たい現実を意識した時、靄のかかった港の風景と重なりあって、赤城圭一郎の寂しく孤独な横顔へと向かってゆく。 10代の吉永小百合の初々しい美しさが、この映画に安らぎを与えている。「霧笛が俺を呼んでいる」 歌 赤木圭一郎 作詞 水木かおる 作曲 藤原秀行 霧の波止場に 帰って来たが 待っていたのは 悲しいうわさ 波がさらった 港の夢を むせび泣くよに 岬のはずれ 霧笛が俺を 呼んでいる 錆びた錨に からんで咲いた 浜の夕顔 いとしい笑顔 きっと生きてる どこかの街で さがしあぐねて 渚にたてば 霧笛が俺を 呼んでいる 船の灯りに 背中をむけて 沖をみつめる さみしいかもめ 海で育った 船乗りならば 海へ帰れと せかせるように 霧笛が俺を呼んでいる
2005.05.28
コメント(22)
「ひょっとしたら、自分の人生は何者かに操作されているのではないか。」私達がこんな疑いを持った時、この物語の主人公のように、 「おはよう。会えない時の為に。こんにちは。こんばんは。おやすみ。」と言い残して、他人から与えられた人生に、別れを告げる勇気を、私たちは持っているだろうか。 自分の感情は本物。 周りの他人の感情は偽者。 自分が見ている風景は本物。 周りの他人が見ている風景は偽者。 自分の人生は本物。 周りの他人の人生は偽者。 「トゥルーマン、遅れるわよ。」朝、美人の奥さんに急かされ、家のドアを開けると、小鳥のさえずりがきこえ、いつものように、近所の人達の笑顔に出会う。 「おはよう。会えない時の為に。こんにちは。こんばんは。おやすみ。」彼らに朝の挨拶をして、会社へと向かう。 これが彼の幸せな日々の生活であった。 ある日の朝、テレビスタジオ用のライトが、空から彼の目の前に落ちてくる。「ここで臨時ニュースです。シーヘブンの上空で飛行機にトラブルが発生し、何と、部品が落下したそうです。」 壊れたライト。この壊れたライトが、この物語の伏線となる。 シーヘブン島で生まれ、シーヘブン島で育ち、シーヘブン島にある保険会社に勤めるトゥルーマン(ジム・キャリー)。シーヘブン島を一歩も出たことがないトゥルーマン。 これには理由があった。幼い頃、父親といっしょにヨットで海に出た時、嵐にあい、目の前で父親が溺死したのだった。 この出来事が彼の心にトラウマをつくり、海が怖くて島の外へ出る事ができない人間になってしまった。 しかし彼には、仕事を捨て、この島から逃げ出して、フィジー諸島へ行きたい、という強い願望があった。 このテレビドラマの製作者(エド・ハリス)は、シーヘブンという架空の島を超巨大スタジオ内につくり、2000台の超小型カメラを設置し、親のいない赤ん坊をテレビ局で引き取り、「トゥルーマン」と名づけ、彼の一生の出来事をテーマにした壮大なドラマ「トゥルーマン・ショー」をつくりあげた。 海で死んだ父親。元気な母親。美人の奥さん。幼なじみの親友。 学生時代の恋人。近所の親切な人々。会社の同僚。すべて、このドラマのエキストラ。すべて、偽者。これは、このドラマの製作者が演出する「トゥルーマン」の一生の物語。この番組は高視聴率をほこり、24時間実況中継で全世界に放映されていた。 「自分の日常生活が何者かに演出されているのではないか。」というトゥルーマンの疑惑は、頂点に達する。島を抜け出して真実を確かめる決意をするトゥルーマン。演出家のあらゆる妨害にもめげず、島からの脱出を試みるトゥルーマン。ついに、嵐の海で力つき、溺死してしまうトゥルーマン。 ところがである。彼が嵐の海で死ぬはずがないのである。全てがテレビスタジオのセット内の出来事であり、全てが偽者だからである。 この映画のラストシーン。 「おはよう。会えない時の為に。こんにちは。こんばんは。おやすみ。」笑顔で、こう言い残して深々と頭を下げ、「EXIT]と書かれたスタジオのドアを開け、演出された架空の世界から、現実の世界へ、真実を求める旅に出るトゥルーマンの勇気に、全世界の視聴者から拍手喝采が巻き起こる。 こうして、この番組は終了となる。
2005.05.17
コメント(20)
この映画のポスターを見ると子供達が3人、ニコニコしながら手をつないで道を歩いている。 背景には、不気味さが漂う青い空。草の枯れきった、子供達の未来を暗示させるような荒野。 子供達の明るい笑顔と背景の違和感。この違和感に惹かれて、花畑風来は映画館へと足を運ぶ。 原作者レモニー・スニケットのシルエットが、3人の子供達、三姉弟妹の世にも不幸せな物語の案内役となる。 資産家の両親。何不自由のない親の愛情に満ちた生活。幸せは、ある日突然、音を立てて崩れる。原因不明の火事によって、家と両親を亡くしたことが、不幸せへの旅の始まりとなる。 幸せは、幸せを呼ぶ。不幸せは、不幸せを呼びこむ。一度不幸せになれば、次から次へと不幸せが襲いかかる。 不幸せには、不幸せを導く象徴が現れる。不幸せの象徴。それがジム・キャリー扮するオラフ伯爵。 ジム・キャリーの凝りに凝った演技は、まるで絵本の中に出てくる邪悪な魔法使いのようにリアリティーの欠片も感じさせないほど、ファンタジーな悪人に仕上がっている。 この映画の美しい映像が、ジム・キャリーの演技に拍車をかけているようにも思える。 子供たちの遠い親戚にあたるオラフ伯爵。ボードレール家の莫大な財産を手に入れる為、子供達の後見人となり、子供達の命を奪おうと企てるオラフ伯爵。 ところがである。この子供達、ただの平凡な子供達ではなかった。 自分の勝ち誇った顔が、アップで写し出される筈であったオラク伯爵。オラク伯爵の野望は、この子供達が身につけた天才な能力と勇気のまえに、脆くも崩れ去る。 三姉弟妹の紹介 (姉) 14歳のヴァイオレット(エミー・ブラウニング) 発明の天才。廃材から今までになかった物を、いとも簡単に 創り出してしまう。 (弟) 12歳のクラウス(リアム・エイケン) 本の虫。自宅に無数にあった蔵書から、あらゆる知識を身につけ、 それを生かす事ができる。 (妹) あかちゃんのサニー(カラ&ジェルビー・ホフマン) 硬い物なら何でも噛みつくのが大好き。 硬い物を噛み砕く頑強な顎と歯をもつにいたった。 最後に一言。 原作を読んでみたくなる映画。それが「レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語」なのである。
2005.05.08
コメント(24)
観終わった後、社交ダンスを習ってみたくなる映画。それが「シャル・ウィ・ダンス?」である。 この映画は、日本版「シャル・ウィ・ダンス」のリメーク版ではあるが、社交ダンスを習ってみたくなる気持ちにさせるものの一つに、ジェニファー・ロペスのダンス・シーンがある。 社交ダンスに限らず、どの分野においても、その芸に熟達した人がいる。その卓越した芸を自分自身の目で見ることによって、意欲と向上心が芽生える。 ジェニファー・ロペスは、ダンスを知りぬいたダンス教師である。ダンス・コンテストの前夜、彼女がリチャード・ギアにダンスの手ほどきをするシーンがある。このシーンは、特にカメラワークが優れているというわけではないが、実際にダンサーでもあるジェニファー・ロペス独特の体の線の美しさがかもし出す躍動感が神秘性をも生み出し、映像の色と溶け合い凄みさえ感じさせる。 この映画のキャッチ・フレーズは「幸せに飽きたらダンスを習おう。」である。この「幸せに飽きたら」とは、心にポッカリ空いた穴をさしている。つまり、空虚さである。安定した職場、安定していて暖かい家庭からは、ワン・パターンの生活からくる空虚さが常につきまとう。 全く、人間とは、どうしようもない存在なのである。 花畑風来は、日本映画の「シャル・ウィ・ダンス」を観たわけではないが、この空虚さの表現は、日本とアメリカとでは、かなり違ったものになるはずである。 同じ状況におかれた場合、哀愁とわびしさが漂う日本人。サラリと簡素に表現するアメリカ人。 他の多くの映画に共通した感情表現のちがいが、この映画にもあるはずである。 こころにポッカリと空いた穴は。何とかして埋めなければならない。埋めるきっかけをつくる必要がある。 リチャード・ギアが職場帰りの電車の窓から、何気なく見たビルの一角にあるダンス教室の窓。そこには何か思いつめたように、外を見つめるジェニファー・ロペスがいる。 やがて、彼女のことが気になりはじめ、会いたい気持ちを抑えきれなくなる。ある日、突然、電車を降り、彼女のいるダンス教室の扉をたたく。。。。。 安定だけしかないワン・パターン人生の一時的終了である。
2005.05.01
コメント(30)
この映画は、1981年の深作欣二監督の「魔界転生」である。「仁義なき戦い」の深作欣二監督独特のスピーディーな画面展開が心地良い。千葉真一が「柳生十兵衛」の役で出演しているが、「柳生十兵衛」は彼に最も適した役だと感じさせるほど光っている。 徳川幕府軍12万が、キリスト教徒一揆勢3万7千人を惨殺した島原の乱。死体の山の中から一揆の総大将、天草四郎(沢田研二)が蘇る。「神よ。見よ。あなたの僕たちの屍の山を。」「何故、あなたは沈黙を守った。」 神に絶望し、神を捨てることを誓った天草四郎に魔界の神の力が宿った。肉体を得た天草四郎の霊は、徳川幕府打倒の復習の旅に出立する。この世に未練を残しながら死んでいった者を蘇らせながら、江戸へ江戸へと向かう。その中には、細川ガラシャ夫人、宮本武蔵もいる。 そこに立ちはだかるのが、柳生十兵衛(千葉真一)。 この映画は、燃えさかる炎の中での柳生十兵衛と天草四郎との対決シーンで幕を閉じる。魔物を切ることができる剣を手に入た柳生十兵衛。その顔と手には、密教の呪文のような字が無数に書かれている。 この剣とこの字の力を借りなければ魔物には勝てないのである。 花畑風来は、この文字を「言霊」と解釈する。言霊とは、辞書によると「言葉に宿る神霊。」と書かれている。 ここで当時のドリフターズのコントが登場する。加藤茶が、この映画の柳生十兵衛を真似て、顔や手に「百恵ちゃん。淳子ちゃん」の文字を無数に書いてコントをくりひろげる。百恵ちゃんは山口百恵、淳子ちゃんは桜田淳子。二人とも当時のアイドルである。 これは「言霊」の持つ力の意味をよく現している。もし、この世に霊魂が存在するとして、我々が「言霊」の力を借りて霊魂と戦おうとする場合、顔に密教の字を書こうが、アイドルの名前を書こうが、たいした違いはないのである。自分の好きなアイドルが自分を守ってくれると思えば力を発揮するからある。 要するに、言葉自体に、見えない力があると信じていれば、その言葉は「言霊」となるからである。 天草四郎の最後の言葉が印象にのこる映画である。 「人間がこの世にあるかぎり、私はもどってくる。必ずもどってくるぞ。」
2005.04.24
コメント(14)
NY、マンハッタンの真ん中。4階建てエレベーター付の巨大な豪邸に、娘のサラ(クリステン・スチュワード)と共にに引っ越してきたメグ(ジョディー・フォスター)。そこにはパニック・ルームと呼ばれる部屋があった。 パニック・ルームとは、避難場所、隠し部屋を意味する。壁はコンクリート、電話は別回線埋め込み式、換気は独立式。ドアは分厚い鋼鉄製、予備のバッテリー内蔵式の為、停電でも開閉可能。隠しカメラで家中モニター。 娘と二人だけで住むのに、どうしてこんな大きな家が必要なのか、という疑問は残るが、なにしろ主演は、あのジョディー・フォスターである。パニック・ルームという素材を使ってジョディー・フォスターの魅力を画面いっぱいに引き出さなければならない。 物語をつくるには、この家への侵入者が必要である。侵入者は総勢三名。侵入者の目的は、この家のまえの持ち主である金融界の大物の隠された遺産。遺産は、パニック・ルームの床に隠されている。 戦うジョディー・フォスター。娘を守る為、自分自身の能力を全開にして戦うジョディー・フォスター。それには、パニック・ルーム自体を生き物のように見せなければならない。パニック・ルームは生きている。パニック・ルームは生き物である。 パニック・ルームの力を借りて戦うジョディー・フォスター。この戦いの様を詳細に伝えるには、カメラも生き物にする必要がある。カメラは生き物のように、部屋の壁、床、天井を通りぬけ、部屋から部屋を駆け巡る。 花畑風来は、ジョディー・フォスターの熱烈なファンではない。ところが、この日記の中で何度も何度もジョディー・フォスター、ジョディー・フォスターと叫んでいる。これは彼女の魅力を最大限表現した映画になっている証でもある。 「 さあ、今からでも 遅くはない 自分の自由を脅かす 侵入者と 戦おう この映画のジョディー・フォスターのように 」
2005.04.17
コメント(22)
この映画、一言で言えば「良い映画」である。ラスト・シーンは、せつなくて泣けてしまう映画でもある。 主演は、’ジョディー・フォスター’と’リチャード・ギア’。微妙な顔の表情の変化によって、自分の内面の隠された感情を巧みに表現する’ジョディー・フォスター’と’リチャード・ギア’の演技がすばらしい。 映像は、南北戦争後のアメリカ西部をリアルなタッチで表現している。 花畑風来は、この映画を観終わってから、しばらくして次のような詩が脳裏に浮かんだのです。 自分の親を選べなかった子供たち 大きな夢をもっていた子供たち 大きくなったら 大人になったら 僕は 私は はじめて知るのは 自分たち子供だけの社会 大人たちの社会は 自分たちの社会とは違う 大きくなったら 大人になったら 大人になった子供たち 知りすぎた大人たち 知りすぎて 年老いた大人たち 自分が生きていた証がほしい 生きていた足跡を残したい それが どんな小さな証であっても それが どんな大きな証であっても この映画の内容の要約 「今までの自分に別れを告げ、新しい自分になりたい。」あることをきっかけに、他人になりすまし、他人の人生を歩むことができた男の物語、それは自分自身の死をもって貫徹された。 あらすじ ひとりの兵士が歩いている。その男は大地主の農場経営者ジャック・サマースビー(リチャード・ギア)。南北戦争が終わり、妻(ジョディー・フォスター)のもとへ帰ってきたのだ。六年ぶりに帰ってきたジャック・サマースビー。彼は、もともと冷酷で妻にも平気で暴力をふるうような男だった。黒人を人間扱いしない男でもあった。 ところが、帰ってきた彼は、妻にやさしく、黒人を奴隷扱いしない男に変っていた。妻は、彼は別人であると直感するのだが。。。。。。。。。。。。。。
2005.04.10
コメント(18)
この映画の監督は、ジャン=ピエール・ジュネ。ジャン=ピエール・ジュネの作品「エイリアン4」「アメリ」「ロング・エンゲージメント」を観ていると、ユングの深層心理学の世界を覗いてみようか、と気になってくる。 人間の心の奥の隠された部分に私たちを連れて行ってくれそうな予感がする。 この映画の映像の特徴は、原色である。時として、スポットライトのように使われている原色は、一瞬、不思議な世界を作り出し、リアリティーを消す役目を果たしている。この原色の使い方は、鈴木清順監督の「東京流れ者」と共通している。 それから。 急に早くなる場面展開も、私たちを不思議な世界へ引き込む役割を担っている。 アメリの役を演じているのは、オドレイ・トトゥ。アメリの役を演じているというよりも、アメリ自身ではないか、と思わせるほど、アメリ役に適している。 この映画を観ていると、アメリという女性が好きになる。英語ではないフランス語独特の音が、なおいっそう彼女をかわいくみせる。 親友の金魚のクジラが、冷たい家庭に絶望して身投げをするほどの家庭環境の中で育ったアメリ。 アメリといっしょに人生に奇跡を起こしてみようか、という気になってくる。 花畑風来が、この映画から得られたことをまとめると次のようになる。 「人と人は、見えない意識の糸でつながっている。 ひとりが意識を変えることにより、他の人にも影響を与える。 それは連鎖となって、人から人へと回りまわって、 やがて、自分自身に帰ってくる。」 あらすじ 自分の殻に閉じこもりがちな父親と、情緒不安定で神経質な母親に育てられたアメリ。 「子供は、親を選べない。ここから様々な悲劇が起こる。」 いつもひとりぼっちで、友達もなく、空想の世界に逃避する女性になってしまったアメリ。 ところがある日、アメリに転機がやってくる。好きだったダイアナの自己のニュースを聴いていたアメリ。ショックで手に持っていたビンの蓋が床に転げ落ちる。そこで、偶然あるものを発見する。それは、以前、この部屋を借りていた男が、子供の頃、大切に隠しておいた宝箱だった。 アメリの心にすばらしい考えが浮かんだ。この宝箱の持ち主の少年を探し出して返してやろう。持ち主の彼が喜んでくれたら、自分の世界から飛び出そう。。。。。。。 「こうして人の心を良い方向へ変える23歳のアメリの旅が始まった。」
2005.04.03
コメント(26)
花畑風来は、レイトショーで独りで「ロング・エンゲージメント」を観た。館内は花畑風来独りだけであったので観客の反応はわからないが、おそらくこの映画を観終わった後は、何か考え込んだ表情で映画館から出てくる人が多いのではないだろうか。 映画の好きな人にとっては、何回も観て研究してみたくなるような映画である。 この映画、黒澤明監督の作品と同じように職人がつくったような映画である。頑固一徹、職人が隅々まで拘って創り上げた手作りの味わいがある。 花畑風来としては、この映画が持つ五つの要素について書いてみたい。 1.セピア色 2.リアル 3.フランス語 4.ユング 5ジョディー・フォスター1.セピア色 この映画の映像は、始めから終わりまで、すべてセピア色で統一されている。全シーンにわたってセピア色のフィルターを被せてある。セピア色とは、写真が古くなった時に出るあの薄い褐色である。セピア色は、過去と現在をつなぐ架け橋の役目を果たしている。また、人の心情を固定化して釘付けにする役目を負っている。2.リアル 一般には映画の戦闘シーンを観る時、それが残忍で目を背けたくなる映像であっても、結局は第三者、つまり、傍観者の立場で観ているのであるが、この映画の戦闘シーンは他の映画とはちがう。 自分が実際に戦闘に参加しているような錯覚に陥る。いつ自分のもとへ砲弾が飛んで来るかわからない得体の知れない恐怖感。やりきれなさを通り越した不安感。突然、わけもわからず逃げ出したくなるような焦燥感。 リアルな映像とは、観客にこういうおもいをさせる映像なのかもしれない。3.フランス語 日本の映画館で上映されている洋画のほとんどは、アメリカ映画である。従って台詞は英語である。英語の音を聴き慣れた花畑風来にとっては、フランス語の音は違和感がある。しかし、この違和感こそが大切なのである。 「第一次大戦下のフランスを描くには、フランス語でフランス人のスタッフで撮らなければならない。」というジャン=ピエール・ジュネ監督のポリシーが、この違和感から理解できるのである。4.ユング マネク(ギャスパー・ウリエル)の戦死を知らされたマチルド(オドレイ・トトゥ)が、彼は必ず生きていると直感する現象は、ユングの無意識の深層心理学に由来しているのではないだろうか。5.ジョディー・フォスター この映画にはジョディー・フォスターが出演している。フランス人の主婦になりきり、新たな魅力を引き出している。 あらすじ 第一次大戦下のフランス。マチルド(オドレイ・トトゥ)のもとに、マネク(ギャスパー・ウリエル)の戦死が伝えられる。マネクは、マチルドにとって幼なじみで婚約者である。彼女には、「彼は必ず生きている。」という不思議な直感があった。。。。。。
2005.03.27
コメント(10)
ロマンス冒険活劇映画「ロマンシング・ストーン 秘宝の谷」女性版「インディー・ジョーズ」ともいえる作品である。 監督は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のロバート・デメキス。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」も、この「ロマンシング・ストーン」も冒頭に日常のさりげない生活の映像がでてくる。この映像には、彼独特のすぐれたリアリティーがある。 夜、タイプライターに向かって、けんめいに小説を書いている女性がいる。自分で書いた小説に自分で感動して泣いている。この女優、いったい誰だろう。よく観ると、あの「白いドレスの女」で、魅惑のスーパー悪女を演じたキャスリーン・ターナーではないか。キャスリーン・ターナーは洗練された美女のはずだが、この女性、美人には見えない。「白いドレスの女」のキャスリーン・ターナーと同じ人物だとは思えない。涙を拭くために、ティッシュ・ペーパーを探すが、買い忘れていたことに気づき、メモ用紙で鼻をかんでしまう。猫のロミオと小説の完成のお祝いをしている。暖炉に火をつけ、ロミオには人間用の高級ツナをプレゼント。お酒で乾杯。この女性作家には好感がもてる。生活観が滲み出ている。しかしである。彼女を演じているのは、あのキャスリーンー・ターナーである。彼女本来の美しさをスクリーンに呼び戻さなければならない。 さて、どうするか。花畑風来としては、この映画のシナリオ・ライターに登場してもらう事にする。 シナリオ・ライター「自分なりに、いろいろ検討してみたのですが、 彼女を無理やり部屋から出し、 冒険の旅へ出てもらうことにしました。 ロマンス冒険小説を書いているのだから、実際に 冒険したほうが良いのです。 彼女が冒険する場所は、南米のコロンビアにしました。 あらゆる面でコロンビアは、冒険に適した国です。 太陽、ジャングル、水、海、動物、すべて揃っています。 さて、生きるか、死ぬかの彼女の冒険の旅が始まります。 ご期待ください。」 花畑風来「どうして、生きるか、死ぬかの冒険をすると 美しくなれるのですか。」 シナリオ・ライター「人は誰でも力というか、 秘められた能力をもっているものなのです。 でも、様々な理由で、それを発揮できないでいるのです。 この秘められた能力を発揮できるようにしてやれば、 彼女に限らず、人は生き生きとした表情になり、 美しくなれるのです。 彼女は、自分の本来もっている能力を全開にして、 困難を克服するはずです。 花畑風来「なるほど、それも一つの真実ですね。 それではこの映画のラスト・シーンで確かめてみます。」 ラスト・シーン 「。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。」 おそれいりました。 あらすじ ロマンス冒険小説ベストセラー作家のジョーン・ワイルダー(キャスリン・ターナー)は、ギャングに誘拐された姉を助けるため、南米のコロンビアへ向かう。ギャングの目的は、姉の夫が彼女宛に送った秘法のエメラルドの隠し場所を記した地図であった。コロンビアに着いた彼女に危機が。。。。。。。。。。。
2005.03.21
コメント(12)
これは、1991年、渋谷シアターコクーンで公演された’言葉の実験劇場’「夜会 邯鄲KAN TAN」をビデオ化したものである。 「夜会」は、映画と同じように永久に残す価値のあるものとして位置づけたい。 構成、演出、脚本、出演、作詞、作曲、すべて中島みゆきである。中国の故事「邯鄲の夢」をモチーフに、中島みゆきの歌がストリーをおってゆく、中島みゆき、ひとり芝居のミュージカル、それが「夜会 邯鄲KAN TAN」である。 邯鄲(かんたん)とは、中国河北省南部の古都の名である。邯鄲の夢とは、中国の青年、盧生(ろせい)が、旅の途中、邯鄲の宿に泊まるがこの宿の亭主から不思議な枕を与えられ、この枕をして眠ったところ、これからの自分の一生をすべて観てしまったという「お話」のことである。 ’人生において栄耀栄華は夢幻のようなもの’の例えで使われている。 中島みゆきシナリオは、中国の青年「盧生」をクリスマス・パーティー帰りの孤独なOLに置き換え、このOLがひろったタクシーの中で、不思議な夢を見ることから「邯鄲の夢」の設定をしている。 中島みゆきの歌う歌が、台詞の役目を果たし、ストーリーが展開してゆく。歌は、その時の人の心情によって、とらえかたが違うから、台詞よりも奥深い。 涙ーMade in tears- トーキョー迷子 タクシードライバー キツネ狩りの歌 僕は青い鳥 ロンリーカナリア ひとり遊び 萩野原 キツネ狩りの歌 わかれうた ひとり上手 さよならの鐘 LA-LA-LA サーチライト キツネ狩りの歌 B.G.M シュガー 黄色い犬 キツネ狩りの歌 ふたつの炎 傾斜 二隻の舟 傾斜 殺してしまおう 雪 I love him ラストシーン。 体の奥底からこみあげてくるものは いったいなんだろう。 これは、きっと救いなのだ。 とてつもなく大きくて あたたかいものが 私たちを包み込んでくれている。 現代に生きる私たちが、「邯鄲の枕を」を手に入れたとしたら、 どんな夢をみるのだろうか。
2005.03.13
コメント(18)
公開当時、超暴力映画として脚光をあびたサム・ペキンパー監督の映画「わらの犬」。花畑風来は、レンタル・ビデオ店で借りてきて、この映画を観たのです。 この映画の題名「わらの犬」とは、いったい何を意味するのか。DVDの映画の解説をそのまま書き写すと次のようになるのです。「中国の思想家、老子の語録にある”超人的な存在である天から見れば、人間の行動は、護身のために焼く、わらの犬のように、ちっぽけな存在にすぎない。」 この映画は、伏線が、はっきりしている。 伏線とは辞書で引くと「小説、戯曲などで、のちに述べる事柄の準備として前の方で、ほのめかしておくこと。」とある。 「私たちの日常の生活の中にも、伏線にあたるものがある。 ただ、気づかないだけのことである。」 臆病者の平和主義者、数学者のデビッド(ダスティン・ホフマン)は、病める暴力社会の国、アメリカから逃れ、イギリスの片田舎にやって来るが。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。デビット(ダスティン・ホフマン)の運転する車が、ヘッドン一家に追われ道路に飛び出した精神薄弱者のジョンをはね、傷を負わせた事が伏線となる。 ジョンの引渡しを要求するヘッドン一家。もし、引き渡せば、ジョンは嬲り殺しにされる。 傷を負ったジョンを守ってやれるのは自分だけ。 「ここは、俺の家だ。俺自身だ。」 ことなかれ主義で臆病者のデビット(ダスティン・ホフマン)が、強者に戦いを挑む。 男の本能に目覚め、動物の雄と化したデビット(ダスティン・ホフマン)とヘッドン一家5人との戦いが始まる。これは、ただの戦いではない。殺すか、殺されるか、の壮絶な死闘である。 戦いのシーンに巧みに取り入れられたサム・ペキンパー監督の得意技、スロー・モーションが、迫力ではなく、さらなる恐怖感を与える。 戦いに勝ったデビッド(ダスティン・ホフマン」。ヘッドソン一家5人の無残な死体が散らばっている。 ジョン「帰り道がわからない。」 デビット「いいさ。 僕もだ。」 ラスト・シーンでの、この台詞は、強烈な印象としてのこる。
2005.03.06
コメント(10)
B級映画(低予算、短期間で製作された映画)の名作「東京流れ者」。日活アクション映画路線に沿った映画にしなければならないという制約が当時にはあった。 要するに、たくさんの制約の中で創られた映画なのである。 花畑風来は昔々、名画座で、この映画を観たのです。今回、偶然、レンタル・ビデオ店でDVDを見つけたのです。 昔々、ある名画座の館長が、あるラジオ番組の中で「死ぬ時は、東京流れ者を観ながら死んでゆきたい。」などと、しゃべっていたのを聞いていたので、てっきり、1966年のキネマ旬報のベストテンにランクされている映画なのだと思っていたのです。ところが、今回、調べてみたら、ランクされていなかった。 思い込みとは、恐ろしいものです。(評論家に評価されている作品が優れた映画とは限らない) この作品は、渡哲也主演のごくありふれた歌謡やくざ映画。したがって、あらすじを載せても意味がないので書かない。 この映画の注目点は、二つある。 1、「流れ者には女はいらねんだ。」 2.鈴木清順監督が創り出した彼独自の映像美。その1.「流れ者には女はいらねんだ。」 「哲也さん!」 「女といっしょじゃあ、歩けないんだ。」 渡哲也の’東京流れ者’の歌が流れ、映画は終わる。 夢はいらない 花ならば 花は散ろおし。。。。。。あぁ 東京流れ者 あぁ 東京流れ者 この「女はいらねんだ。」の部分を置き換えて 「流れ者に金はいらねえんだ。」 「流れ者に地位や名誉はいらねえんだ。」とつぶやいてみる。そうして、東京流れ者の歌を口ずさんでみると不思議なほど気持ちが楽になるのである。 何故なら、「流れ者」と言う言葉は、ものごとに拘らない、しがらみに囚われない、自由な心を連想させるからである。 さあ、試してみよう。 「流れ者にこんな服はいらねえ。」 「流れ者にこんな家はいらねえ。」 流れ流れて 東京の。。。 どこで生きても流れ者 どうせ さすらい ひとり身の。。 あぁ東京流れ者 あぁ東京流れ者その2.鈴木清順が創り出した彼独自の映像美。 この映画の映像からは、手書きの絵を組み合わせて創り出したような印象を受ける。 要するに、一言でいえば、絵になる映像なのである。 リアリチィーのある映像なのではなく、構図の良さの中に現実にはない原色を、時には背景に、時にはスポット・ライトのように部分的に取り入れることによって、むしろ、リアリティーを押さえ込んでいるのであり、リアリチィーを奪い取られた映像が彼独特の不思議な美を創造しているのである。 鈴木清順は、日活時代、わからない映画を創る、という理由から、会社を解雇された監督である。 しかし、観客の多くは、彼の映画を十分理解していたのである。 「人は皆、どのような制約に阻まれた環境の中に 居ても、その制約の中でしか、できない独自のものを 創り出す可能性を秘めているのである。」
2005.02.26
コメント(13)
花畑風来の今回のテーマは、 「マーヴェリック」と「浮かんで通る」 この二つの言葉の結びつきなのす。 この映画。あらゆるジャンルの役を自分のものとしてしまうジョディー・フォスターの演技力が光る。 あらすじ アメリカ西部開拓時代。賭博師でペテン師のマーヴェリック(メル・ギブソン)は、四ヶ月後に開かれる西部最大のポーカー大会への参加を目指していた。 酸化料は2万5千ドル。 賞金は50万ドル。 マーヴェリックにからむのは、美人スリ師のアナベル(ジョディー・フォスター)、それにペテン師保安官クーパー(ジェームズ・ガーナー)。ポーカー大会の会場に向かってこの三人の騙し合いの旅が始まるのだが。。。。。。。 この映画を観る’きっかけ’となった言葉。 「浮かんで通る」 ある日、花畑風来が、喫茶店でコーヒーを飲みながら新聞を読んでいると、隣の席から、こんな会話が聞こえてきたのです。 「先生、先生に相談したい事があるのですが、聞いてい ただけますか。」 「なんや、なんや、聞いたるさかい、言うてみな。」 「実はですね。私。人から言われた事に、すぐキズつい てしまうのですね。 人の言葉に影響されて、そればかり気になってしまい 何も手につかなくなってしまうのです。 なんとかならないものでしょうか。」 「ほーう。ガラスの心を持っておったんか。 おまえの心は、おまえの顔と会わんのう。 その顔で悩んでおったのか。おまえ、可愛い奴やの。 わかっちょる。わかっちょる。 答えは簡単、簡単。 浮かんで通れ。」 「??? 浮かんで通るのですか。」 「そうや、浮かんで通るんや。 おまえ、’マーヴェリック’って映画観たって言って たやん。人にキズつけられた時だけ、あの三人のよう になればええのや。」 「??? 三人と申しますと、あのジョディー・フォス ター、メル・ギブソン、ジェームズ・ガーナーの三名 の事ですか。 「そうや、そうや、おまえの話し方。品があるのう。」 「でも、あの三名は、ギャンブラーで、サギ師で、 スリで、ペテン師ですよ。 私といたしましては、あのような人達にはなれませ ん。」 「あのな。わしはな。奴らの遊びの精神を真似しろ! と言うておるんじゃ。」 「遊びの精神ですか。」 「おまえさんによくわかるように、わしが創った詩を 読んだるさかい、よう聞いとれや。 心がキズついて どうしようもない時 何かにとらわれて 身動きできなくなった時 心の塊のすぐ上を 笑いながら 通り過ぎてみよう 自分の心をペテンにかけ 鼻歌を歌いながら 気がつけば 君を悩ませたあの塊は 君のうしろに居て さよならの手を振っている 「どうや。わかったか。浮かんで通るとは こういうことや。」 「先生。よくわかりました。 先生は、詩人なのですね。 ところで。 浮かんで通るの事をもっと詳しく知りたいのですが、 心理学関係の本に載っているのでしょうか。」 「どの本で知ったか、もう忘れてしもうたわ。 とにかく、わしは、辛い事があった時、 浮かんで通る、浮かんで通る、と、わし自身に 言い聞かせているうちに、いつの間にか、 眠ってしまっておるんや。」
2005.02.20
コメント(8)
この映画のラスト・シーン。吉永小百合の顔がアップで映し出され、穏やかな口調でこう言う。 「生きている限り、夢をみる力がある限り、 きっと何かが、私たちを助けてくれる。」 エンディング・ロールが流れ終わり館内が明るくなっても観客のほとんどは席を立とうとしない。 観客の間から、「久しぶりに良い映画を観たなあ。」「あー、感動しちゃった。」こんな声が聞こえてくる。 映画館に、ふだん足を運ばないような高齢者の姿が目に入る。 花畑風来は思ったのです。映画はこうでなくては。これが映画なのだと。 花畑風来の映画の観方は、単純なのです。単純が一番良いのです。ものの本質は単純なのです。 観客は、高い料金を払ってまで、わざわざ映画館に足を運んで来ているのです。 映画評論家や映画通が、この映画をどう批評しようが、映画を観に来た人たちが、満足して気持ちよく家に帰る事ができる。そんな映画が優れた映画の一つなのです。 「生きている限り、夢をみる力がある限り、 きっと何かが、私たちを助けてくれる。」 健在の日本社会を包み込む不安と焦燥。貧富の差の拡大。犯罪の増加。自殺の増加。やがて来る人口の減少。年金の崩壊。資本主義、自由主義社会でありながら、しがらみだらけの自由のない社会。 この映画の舞台となった明治初期のように日本の人間社会が、今、大きく変わろうとしています。 「夢をみる力」 人が人を物としか見ない現象が進んでいます。生まれた時、ゼロから始まって、「夢をみる力」があったからこそ、今、生きている私たち。 吉永小百合の生き方の原点となった映画「キューポラのある街」の逆境にもめげず、健気に明るく生きる吉永小百合ふんするジュンが、再び帰って来て、 「生きている限り、夢をみる力がある限り、 きっと何かが、私たちを助けてくれる。」と、私たちに向かって叫んでいるような、そんな映画だったのです。 あらすじ 明治維新。稲田家の家臣たちは北海道への移住を命じられる。命じたのは明治新政府。これにはある裏事情があった。帰る土地をなくし、新しい土地を開墾するしか生きる道のなくたった彼等。四国の淡路島で暮らし、北海道の過酷な自然など経験したことのない彼等。武家社会に育ち、農作業の経験のない彼等。「自分たちの新しい土地をつくるんだ。」という初期の固い団結は、志乃(吉永小百合)の夫、英明(渡辺 謙)の失踪をきっかけとして、崩れはじめるのだが。。。。。。。。。
2005.02.12
コメント(14)
この映画は、裁判もなしに一生刑務所暮らしを余儀なくされた囚人、メイソン(ショーン・コネリー)と、科学兵器スペシャリスト、グッドスピード(ニコラス・ケイジ)の男の友情を描いたアクション映画なのです。 映画のあらずじは、最後に書くつもりです。 花畑風来は、この映画から得られたものを二つの事項に絞って書きたいのです。 その1 脳裏に刻まれた映画のアイコン。 その2 老人とアイドル。その1。 映画の中には、わずか数秒ではあるが、強烈な 印象を与えるシーンがある。 それは脳裏に残り、そのシーンを想い浮かべると 映画全体の内容が見えてくることがある。 この映画には、花畑風来の脳裏に、強烈な記憶を 焼き付けたシーンがある。 これをパソコンに置き換えると、アイコンの 役割を果たしている。 要するに、例えば、年月が経過しても、このシーン を思い出す度に、映画の全体像が頭に浮かんでくる というわけである。 アイコンをクイック後に、パソコンのディスプレ -に内容全体が表示されるのと同じことである。 それは、幽閉され、投獄生活をおくっていたメイソン(ショーン・コネリー)が、政府に協力する為、独房から開放され刑務所の暗い廊下を、足を引きずりながら歩いてくるシーンである。 チャラ、チャラと不気味な鎖の音が聞こえてくる。彼の手は、鎖で縛られ、鎖は床まで垂れ下がっていた。 スポットライトで照らし出された顔からは、秘められた凄みを感じさせられる。独房に置かれた数々の本は、彼の教養のたかさを示している。 このシーンの持つド迫力は、得たいの知れないとてつもない老人が、とてつもない事を、これからやろうとしている事を暗示させている。重厚な音楽が、これに拍車をかける。その2。 こんな会話、聞いた事がない! 「俺は、ショーン・コネリーの大ファンなんだが、 おまえはどうなんなんだ。」 「ショーン・コネリーは、俺たち年寄りのアイドル なんだ。おまえ。知らなかったのか。 奴は1930年生まれ。ザ・ロックは1996年 の映画だから、66歳の時の映画だ。 あの年でよ。鉄砲かついで走りまわってるじゃね えか。それにハゲとまでいかないけど、やっぱり ハゲの仲間さ。ハゲがよく似合うよな。 年寄りでハゲでも、あんなに渋くてカッコイイ んだぜ。奴は俺たち爺の鏡よ。」 「奴は若い時より渋くて、遥かに良くなったよな。 俺なんぞ。奴の写真を壁にべたべた張ってるぜ。 奴はよお。わしら年寄りのアイドルだ。 みんな、あんな年寄りになろうぜ。」 映画館へ入ると、観客の中に老人の姿は、ほとんどないのです。レンタルビデオ店でも、ほとんど見かけないのです。 日本の老人たちの間から上記のような会話が聞かれ、映画館とレンタルビデオ店に、たくさんの老人たちが足を運ぶようになった日。 現代の日本の老人たちの保守的に固定化された生活意識も変わって来るのではないでしょうか。 あらすじ 通称ザ・ロックと呼ばれる連邦刑務所に、観光客を人質にとったテロリスト集団が立てこもった。彼らは、政府から奪った科学兵器を装備している。彼らの要求は1億ドル。与えられた時間は40時間。ダ・ロックへ侵入できるのは世界中で唯一人。ザ・ロックからの脱獄経験者で現在囚人のメイソン(ショーン・コネリー)。 政府の要請を受けたメイソン(ショーン・コネリー)とグッドスピード(ニコラス・ケイジ)は。軍の特殊部隊とともにザ・ロックへ向かうのだが。。。。。。。。。。。。
2005.02.05
コメント(10)
伝説となったブルース・リーの大アクション映画。映画のあらすじは、書いても意味がないと思うので書かない。 ブルース・リーの身体から発する怪鳥音と、究極にまで鍛えられた肉体の躍動が、眠りから目覚めた野性のDNAに火を付ける。 疑いの眼差しは、絶叫へと変化し、ブルース・りーの発する雄叫びが、自分の雄叫びである、と錯覚する。 ブルース・リーのアクション・シーンは、武術の究極の姿である。格闘シーンもここまで来ると、もう詩の世界である。 興奮は、感動へと移り変わり、感動さえも乗り越え、詩の世界へ到達する。 「一芸に秀でる」「匠の技」の次元ではない。 ブルース・りーは、中国拳法を基に独自の拳法をあみだした本物の武術家である。そのブルース・リーが演じているのだから、他のアクション俳優とは全く違う迫力あるシーンができるのが、当たり前である。 いや、これだけでは足りない。花畑風来が思うに、これは以前、ブームとなった「気」というものが、おおいに関係しているのではないだろうか。 例えば、「はっけい」。「はっけい」とは、体内に吸い込んだ「気」を一挙に丹田へもっていき、圧縮させ、一気に爆発させ、その力を拳に伝え、相手を倒す。とにかく。これは空手とは全く違う武術なのです。 武術に限らず、自分の好きな事、自分の得意分野をとことん伸ばしてみよう。 料理、手芸、魚釣り、絵、歌、なんでも良いのです。映画の中の世界とはいえ、人は誰しも、自分の好きな事を鍛錬していくと、ここまでできる可能性を秘めているのです。
2005.01.28
コメント(12)
ジェニファー・ロペス主演の映画である。花畑風来独自の見方によると、この映画には4つの要素が含まれている。 その1。「女性が憧れるお尻の形とは?」 その2.「味のある顔とは?」 その3.「リスクとは?」 その4.「弱者は強者に対して、いかに反撃するか?」その1。「ジェニファー・ロペスのお尻は、世界一美しく、世の女性の憧れの的である。皆、彼女のようなお尻になりたいと願っている。」 花畑風来は以前、このような内容の記事を読んだことがある。それ以来、彼女の映画を観る度に、つい、つい、彼女のお尻に目がいくようになってしまった。 「えー。そんな事が書いてあったんですか。」「女性のお尻の形なんて、みんな同じで、たいして変らないんじゃないですか。」この映画のアクションシーンで、彼女のお尻をじっくり観察してみよう。きっと誰もが、納得する筈である。その2。 ジェニファー・ロペスには、不思議な魅力がある。花畑風来が初めて彼女の映画を観た時、彼女そのものには、なんの印象も残らなかった。「どうして、この人が主演なんだろう。」と疑問に思ったくらいである。 ところがである。何回も彼女の映画を観ているうちに、初期の印象は変ってしまった。 中年女性の持つ強かなたくましさと若い女性の持つ新鮮なみずみずしさをミックスしたような彼女の魅力が、しだいに明らかになってきたのである。 まるで、スルメを噛んでいるようなものである。その3。 ハイ・リスクに、ハイ・リターンはつきものである。 うますぎる話の陰には、大きな落とし穴が潜んでいる。 ジェニファー・ロペス演じるウエイトレスのスリムは、大金持ちで、実業家で、高学歴で、背が高く、ハンサムで、やさしく、いわゆる女性が望むもの全てを持ちあわせた男性ミッチに、みそめられて結婚する。豪華な邸宅に住み、やがて娘も生まれる。 これは、スリムの魅力が導いたハイ・リターンである。 ところが、ある日突然、ハイ・リスクが頭を持ち上げてくる。スリムが気づかなかった夫の人間的欠陥が、大きな落とし穴を創りだし、誰もがうらやむ幸せな生活は、地獄の日々へと一転する。 夫であるミッチは、自分の欲しいものを手に入れる為なら手段を選ばない冷酷な男であった。 夫の浮気を問い詰めた事をきっかけにして、やさしい夫は暴力亭主に変貌する。正しくは、変貌したのではなく、元々暴力男だったのだ。 自分が単なる「物」としか扱われていないことに気づいたスリムは、子供を連れて夫から逃げる決心をする。 こうしてスリムの逃避行が始まるのである。その4。 弱者は、自分の存在を脅かす強者に対して、あらゆる手段をもちいて、それを叩き潰さなければ自分の自由は、取り戻せない。 資金力と人脈にものをいわせ、ヤクザまで使って自分を追いかけて来る夫に対して、彼女はどう対処したらよいのか。警察と弁護士からも見放されたスリム。 ここまでくると、目には目、歯には歯を、である。 自分の事を本当の娘である事を認めないヤクザのドンの父親から援助を受け、暴力には暴力で立ち向かう決心をするスリム。 父親から紹介してもらった並外れた格闘技のインストラクターから格闘技の指導を受け、訓練に訓練を重ね、暴力に対しても強くなったスリム。 自分から夫の家へ忍び込み、夫に格闘を挑むスリム。まるでK1のような夫との戦いが始まる。 格闘の末、スリムは夫を殺してしまう。これは誰から観ても、正当防衛か、事故死が成立する見事な戦いであった。 花畑風来は、これはジェニファー・ロペスの魅力をフルに引き出したジェニファー・ロペスにぴったり合った映画だと思っているのです。
2005.01.22
コメント(8)
「今日は、おもしろくない事ばかりだった。 何で、いつも俺だけが。。。このどうしようもない憂鬱な気持ち、誰でもいいから、何とかしてくれ。」 ぶらぶらと独りシネコンへ行くと、数ある映画ポスターの中から、「エイリアン VS.プレデター」のポスターだけが目に留まった。 エイリアンとプレデターのあの不気味な顔から、花畑風来に、こんな呼びかけがあったような気がした。「俺達が、おまえの頭をすっきりさせてやる。 俺達の戦いぶりをじっくり、よく見てろ。 おまえのせこいストレスなんて、一瞬に吹き飛ぶぞ。」 1979年に公開された「エイリアン」は、SF恐怖映画としては、傑作中の傑作であった思う。 未知の宇宙生物、無限の破壊力と生命力を持つエイリアンと遭遇し、恐怖の世界へと、のめり込んでゆく宇宙飛行士達の微妙な心理の変化が、鋭く描かれていた。 花畑風来は、初めてこの映画を観た時、途上人物と一体となって、恐怖に震えた覚えがある。 とこるが、映画というものは、続編がつくられるに従って、最初の映画で描かれていた優れた面が、希薄になってゆくのが常である。いつに間にかテーマが変わってしまうのである。 終には、他の映画のキャラクターであるプレデターとの合体となってしまった。 エイリアン対エイリアンの能力に優れた頭脳まで加わった知的生命体プレデターとの対決にまで話がいってしまった。 この映画。 プロレス観戦のつもりで素直に何も考えずに観れば良いのである。 それほど映像は、スピーディーなのである。 この映画から学ぶべき事は、ただ一つ。エイリアンの並外れた生命力である。どのような状況下におかれても、相手への反撃の種は、必ず残しておく。ころんでも、絶対にただでは起きない。 ラストでのプレデターの身体から、エイリアンの子供が飛び出すシーンが、それを物語っている。
2005.01.15
コメント(10)
この映画は、日本の国民的大女優、吉永小百合主演の青春恋愛映画なのです。花畑風来は、レンタルビデオで、この映画を観たのです。 ストーリーは、あえて書かない。ストーリーを追ってゆく事によって、「ハラハラ、ドキドキ、」するタイプの映画ではないからである。 世代を超えて、みんなが共通の価値観を持っていた時代。みんなが貧乏だけれど、明るい未来を夢みる事ができた時代。高校生役の吉永小百合の笑顔が、日本の明るい未来を暗示させている。 この映画を観ていた花畑風来は、おもわず「小百合ちゃん! 小百合ちゃん!」と画面に向かって声をかけてしまった。それほど、吉永小百合は、清楚で、かわいく、魅力的なのである。 この映画には、「かなしからずや」という言葉がよくでてくる。「かなしからずや」。これは古語であり、「悲しい」という意味ではない。辞書で調べてみると、「身にしみていとおしい」「心を強くひかれる」という意味だそうである。 「かなしからずや」この、たいへん含みのある言葉を実生活で使ってみたらどうだろう。 何か良い事が、起こりそうな気がするのが。。。。。。。 人は、自分が今居る世界が、すべてだという錯覚に陥りがちであるが、別の世界もあるのだという事を、教えてくれるのが映画の持つ役割のひとつなのです。
2005.01.09
コメント(4)
この映画は、簡単にいえば東欧のある国から、ある目的を果たす為に、ニューヨークのJFK空港に降り立ったある男の物語なのです。 トム・ハンクス演じる主人公は、空港に降り立った瞬間、母国に起きたクーデターの為、パスポートが無効となり、入国も出来ず、帰国も出来ない状態となり、ターミナルで九ヶ月も暮らさなければならない破目に陥るのです。 ホームレス・カントリーレス・マネーレス・英語が出来ない為のコミュニケーションレス・レス・レス・レス彼にあるものといえば、ある一つの目的とターミナル内の狭い限られた空間だけ。 ところが彼は、わずか九ヶ月の間に、この狭い空間の中で言葉を覚え、仕事をみつけ、友達を得、苦境に立っている人を助け、美女と恋をし、当初の自分のある目的まで達成していまうのです。 なぜ、このような状況下で、このような事ができてしまうなか? この映画を観終わった後、花畑風来は必死に考えたのです。 なぜ、花畑風来は目的も果たせず、お花畑の小さな家にくすぶっているのか? この男にあって花畑風来にないものは、いったい何なのか? 映画は、言葉ではなく、映像と音から受ける感覚です。花畑風来の眠っていた感覚に、刺激を与え、様々な事を考えさせられた映画でした。
2005.01.03
コメント(9)
全41件 (41件中 1-41件目)
1
![]()

