仕事のこと 0
母の備忘録 0
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【2017年12月15日(金)】 午前中は夕刻からあるガイド会同期の飲み会のクイズ大会の準備をフルスロットルで行い、午後からは、1月から3ヶ月間勤務する梅小路公園の事前説明に出席しました。 梅小路公園は「京の冬の旅」と併行しての勤務になりますが、梅小路公園は土日祝日のみの勤務となり、月3~4日の勤務です。 午後1時半から梅小路公園の「緑の館」の茶室で、梅小路公園を管理する(公財)京都市緑化協会の係の方から勤務要領、Q&Aなどのお話をお聞きしました。 我々が勤務するのは、梅小路公園内の七条案内所と大宮案内所で、いずれも引退した京都市電を利用した案内所です。土日祝のみオープンです。 通常、七条案内所が2人で大宮案内所が1人ですが、現在、七条案内所の前が新駅の工事中で、お客様が少ないので、七条案内所が1人で、大宮案内所が2人勤務になっています。英語対応のメンバー1人が2人体制の方に入り、私は英語対応ですので大宮案内所が勤務場所になります。勤務内容は、通常の観光ガイドではなく、お客様からの梅小路公園や京都観光についての質問にお答えするという内容です。例えば他の観光地への交通機関についての質問にお答えするといった内容です。私の勤務する大宮案内所では、障害者の方の作られたグッズの販売もします。 説明を受けた後、「朱雀の庭」「いのちの森」を案内いただいた後、2つの勤務場所を案内していただき、全体責任者のJさんから、より具体的な勤務内容について説明を受けました。大宮案内所(私の勤務場所) 市電の中が案内所になっています。七条案内所 やはり市電の中が案内所になっています。 午後3時には終了すると思ったのですが、皆さんとても熱心で終わったは午後4時ごろになりました。終了後、ガイド同期による忘年会の会場に向かいました(こちら)。 しかし、説明会に出発する前に、この望年会で行うクイズ大会の準備に時間を費やしてしまったのと、所望のバスに乗れなかったため、説明会前に昼食をとることができませんでした。それで、説明会終了後、飲み会の会場に向かう前に、明日の修学旅行の昼食の下見を兼ねて、京都タワー地下のダイニングスペース「サンド」に立ち寄って、腹ごしらえをしました。時間もあまりないし、1時間半後には飲み会が始まるので、「ニコット・アンド・マム」というドーナツ屋さんで、ドーナツ2個とコーヒーを求めて簡単に済ませました。 単価200円と、ミスドと比べるとずいぶん高価ですが、美味しかったです。ゆっくり味わって食べたかったですが、飲み会前の準備の集合時間が迫っていたので、慌ててかき込まざるを得ませんでした。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/12/15
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【2017年12月11日(月)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイドの私の担当分が一昨日終了しました。 来年1月から次の3ヵ月周期に入り、私は「京の冬の旅」の伏見稲荷大社御茶屋と通常固定点の梅小路公園を担当することになっています。 今日は、その伏見稲荷大社御茶屋の事前説明会がありましたので出席しました。 通勤するときは、ヤサカバスでJR桂川駅に出て、そこからJRで京都乗換で稲荷駅に行くのが最短・最安になるので、それで行こうと思いましたが、そのバスに乗り遅れて、少し遠回りするバスになりました。このルートでドア・トゥ・ドアで1時間5分でした。もともとのバスであれば片道1時間程度の通勤時間でしょう。運動のためと交通費節約のために、京都駅行きバス+徒歩にすれば、片道1時間半程度と推定しています。 10時過ぎから、市の観光協会の方2名も来ていただいて神職の方に勤務場所を案内していただきました。場所は本殿に上がる階段の手前の右手です。 「松の下屋」とその庭園、「御茶屋」が見学場所になります。ガイドすべき内容は事前資料に書かれていますので、現場現物の確認と朝夕の準備・片付けの仕方、各点での注意点、トイレ、控室などを中心に案内いただきました。展示される棟方志功氏の絵も拝見させていただきました。松の下屋 その後、儀式殿のロビーをお借りして、内部の打ち合わせがあり、詳細事項の連絡・調整がありました。今回の全体責任者は、今年1~3月の八木邸の際に全体責任者をしていただいた方です。またお世話になります。 終わってから、同期の方二人と、「道八」というお店で昼食をとりながら情報交換させていただきました。「道八」は低価格が魅力なので、修学旅行の昼食処としてもいいです。ただ、満席のことも多いようです。→こちら 昼食後、風邪が治っていませんが、客員研究員の研究のフィールドワークのため、伏見稲荷大社の「お滝場」をいくつか巡りました(こちら)。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/12/11
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【2017年12月9日(土)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第16日でした。特別拝観は12月17日までですが、私の勤務は今日が最終日でした。 12月に入りましたが、天気もよく、土曜日ということもあって、多くのお客様にお越しいただきました。今年は紅葉が例年より早く、庭のモミジもほとんど散ってしまいましたが、真っ赤な散りモミジはまだまだキレイです。 ただ、私の勤務日のなかでは最も寒いと感じました。足は厚手の靴下を2枚はき、間に使い捨てカイロを入れ、手も白の手袋を2枚重ねで着けて、やはり間に使い捨てカイロを入れて寒さ対策をしました。手のほうはそうでもなかったですが、外気に触れている本堂の縁が冷たく感じました。日差しが強かったので、次第に冷たさは緩和されましたが。 京都の最低気温を調べてみると、この前の勤務日の6日が0.2度、今日が1.3度なので、こ前の方が気温が低かったのですが、今日のほうが足が冷たく感じました。おかしいなぁと思ってガイドを始める午前10時の気温を比較してみると、6日が5.7度に対して、今日が3.9度でした。今日のほうが気温の上がり方が緩やかだったようです。 今日も無事に楽しくガイドを終えることができました。全期間を通じても、大きなトラブルなく、チームを組んでいただいた皆さんとも和やかにいっしょに仕事をさせていただくことができました。お客様にも喜んでいただけたと思います。ガイド仲間の皆さん、お客様に感謝です。 12月はお仕事としては、あと修学旅行を1回残すのみです。その他では、エリア会議が1回、研修が1回、1月からの仕事の説明会が2回、フィールドワークのお手伝いが1回と、ガイド以外のイベントが結構あるので忙しいですが、22日以降はお仕事なく、新年も少なくとも5日まではお仕事ないので、久しぶりにのんびりできそうです。 最後に今まで紹介できていなかった興臨院のことを書いておきます。●興臨院案内#15 興臨院#10 補足◆檀那の間の北側中央に掛けられている絵 故渡瀬凌雲氏(1980年没)筆。氏が中国の「雲崗石窟」にスケッチ旅行に行かれた時のものを絵にされたもの。渡瀬氏は先代の和尚とは知りあいである故。渡瀬凌雲 わたせ-りょううん 1904-1980 大正-昭和時代の日本画家。明治37年7月9日生まれ。小平小洲,福田浩湖らにまなぶ。日本南宗画会展,帝展などで入選。昭和35年日本南画院の再興に参加,41年「飛瀑朝宗」で文部大臣賞。48年日本南画院副理事長。昭和55年5月17日死去。75歳。長野県出身。本名は幸成。作品に「残照グランド・キャニオン」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)◆檀那の間の屏風 湯川松堂(しょうどう)筆「金彩四季花鳥図」屏風六曲一双。 湯川松堂 明治元年六月、日高郡印南町に生まれる。名を愛之助といい、松堂のほかに晩年楽寿の号をもちいた。幼児より画才にめぐまれていた。 明治十一年大阪に出て三谷貞広に師事して日本画をまなび、同二十四年さらに京都にのぼって絵画を近代京都画壇の中心人物だった鈴木松年に学ぶ。花鳥、山水、人物をよく描いた。明治期の京都画壇は、円山応挙を祖とするいわゆる円山四条派が本流。この中には楽寿館の装飾絵画の作者の幸野楳嶺や望月玉泉も入る。 同三十六年、第五回内国勧業博覧会に「秋津洲」を出品して入選。その後小松宮家の殊遇をうけ、同三十九年宮内省の委嘱により「岩倉公一代絵巻」を描いた。昭和四年、天皇の大阪行幸のみぎり、御在所の屏風に「群鶴図」を揮毫した。同十五年には紀元二六〇〇年記念として「神武天皇東征図」を明治神宮に、「神武天皇望霊鳥図」を橿原神宮にそれぞれ奉納した。昭和三十年十一月大阪府八尾市で八十七才の天寿を終えた。(https://textream.yahoo.co.jp/message/552018638/bdbdbfm4sa4la4pbdbd9qa4nbct/1/16360)◆書院床の間の掛け軸「慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)」 観音経にある言葉で、「観音様は何時もやさしい、思いやりの眼をもって私たち生きとし生ける衆生を見てくださる。」という意味◆うさぎ 興臨院では、ウサギを飼っておられます。そのウサちゃんは、時々お庭や表に出て来てきます。お客様の人気者になります。私も何度か見かけました。11月8日撮影 今日、明日と次女の旦那が東京から来てくれています。家内の手料理で、酒を酌み交わしました。家族が増えるとというのは嬉しいことです。年末にはもう一人家族が増える予定です。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/12/09
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【2017年12月6日(水)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第15日でした。 12月に入っての平日ですが、お天気が良かったこともあり、多くのお客様にお越しいただきました。●興臨院案内#14 興臨院#9 茶室 方丈の東北には茶室「涵虚亭(かんきょてい) 」があります。「大徳寺の茶面」と呼ばれてように、茶道との関係が深い大徳寺ですが、実際にお茶室はたくさんあって、全部で47ものお茶室があります。塔頭寺院は22ですから、1つの塔頭寺院で複数持っているところも多いということです。 「涵虚亭」という名は、11世紀頃の中国宋代時代の政治家で詩人であった蘇東坡(そとうば)が書いた漢詩から付けられたもの。蘇東坡の本名は蘇軾(そしょく)ですが、号の東坡居士から蘇東坡と呼ばれることが多いです。唐宋八大家のひとりに数えられ、父の蘇洵、弟の蘇轍とともに三蘇とも称されます。その作である「赤壁賦」は傑作として有名です。 この茶室の命名の由来になった詩「涵虚亭」は次のような詩です。 水軒花榭両争妍 すいけんかしゃふたつながらけんをあらそう 秋月春風各自偏 秋月春風おのおのみずから偏す 惟有比亭無一物 ただこのていあって一物なし 坐観萬景得天全 ざしてみるばんけいの天全をうるを 意味は、 水軒と花樹と、いずれも美を争っている。 従って秋月と春風は各々自ら偏っている。 軒は水の傍にあり、榭(うてな)は花の上にある。 見るところのものは、水の景であり、また花の景である。 故に秋月と春風とにあって、偏っているわけである。 もし虚(きょ)を涵(ひた)せば、すなわち一物をつけないのであるから、 天全の景でなくて何であろうか。 虚を涵すという名を帯びた此の涵虚亭、 見ると所ただ一の亭があるのみで、他に一物もない。 座して萬景の天全を得るを観るのである。 この詩は蘇東坡が41歳の時、洋州(現在の陝西省(せんせいしょう)洋県)の文同という友人の詩に応えて作った「和文與可洋川園池三十首」の中の一首で、その地方の園や池を詠じたもの。涵虚亭、「虚(うつろであることに)に満たされている」という名の庵を題材に、「もし花園の中や水辺に建てられていたなら、他に気をとられてしまうが、何もないところにあるので、偏らず全ての風情を得られる」と賞賛しています。 さて、このお茶室は山口玄洞という篤志家によって、昭和3年に寄進されたものです。山口玄洞氏は、広島県尾道市出身で、大阪で洋反物のブローカーを開始、合資会社山口綿花商店を創設、屈指の綿花商となりました。また三十四銀行、共同火災海上保険、尼崎紡績等の重役、貴族院議員も務めました。茶道を趣味とし、表千家の後援者としても知られます。 山口玄洞氏は、資産の多くを寄付に使いました。その一環として、この涵虚亭も寄進されたわけですが、日本全国の100棟に近い堂塔を各地の名刹に寄進しています。京都およびその周辺では、醍醐寺の大講堂、神護寺の金堂、延暦寺の阿弥陀堂などがそうです。京都がお世話になった方の一人です。 お茶室の南面に正方形に近い潜り戸がありますが、これは「躙口 (にじりぐち)」です。千利休が考案したものといわれ、誰もが頭を下げて入らねければならず、一旦自分の立場を捨てて茶室の中では対等な人間関係を持つ、そんな意味があるとされます。 そうはいっても身分の高い方にそこまでしていただくのはということで、立ったまま入れるようにしたのが、西面の障子の入った貴人口(きにんぐち)です。古田織部が考案したものといわれ、このお茶室は他の造りも含め、織部好みのお茶室になっています。 茶室の前に紐が十文字に結んである小石が置いてありますが、これは関守石(せきもりいし)といい、「これより中に入ることは遠慮されたし」の意味があります。これから先、客の出入りを遠慮してもらうための印として関守の役をもたせたためにこの名があります。 次にお茶室の中ですが、入ってすぐが流しの備えられた四畳半の水屋です。奥が茶席になっており、四畳+隅板の茶室と入ってすぐ左の台目畳の手前座からなります。台目畳は4分の3畳の畳のことです(一畳の畳は丸畳)。作りとしては、「四畳台目隅板付き」となります。点前座の前に炉が切られていますので、出炉の形式で、点前座が床の間と離れたところにあるので、下座床になります。 隅板は4分の1畳で、ここにはお茶を運ぶなど亭主を補佐する半東と呼ばれる人が座り、給仕口を使って出入りします。隅板を入れることで、茶室内の動きがスムーズになり、使い勝手がよくなっています。その隅板の位置に袖壁があり、床の間が部分的に隠されています。こういう床の間を「洞床(ほらどこ)」といいます。 天井は貴人畳(床の間の前の畳。主客が座る)の上の平天井、連子窓の上の駆け込み天井(化粧屋根裏天井)、そして亭主の上の落ち天井と3つに分かれています。高さ角度が異なると同時に、使っている材料や作りも三者三様です。また躙口上の障子には外の連子窓の影が写って風情があります。 お茶の心は「和敬静寂」といわれます。千利休の茶道の精神・境地を表した言葉で、主人と客が互いの心を和らげてつつしみ敬い、茶室の品々や雰囲気を清浄な状態に保つという意味です。 また、禅の心と茶の心は一致するといわれ、茶禅一味といいますが、大徳寺全体としては、特に茶の湯そのものを大切にしています。そして、28日が千利休の月命日ですので、大徳寺のいくつかの塔頭寺院では、28日に月例のお茶会「月釜」が行われます。興臨院でも「月釜」が行われます。この涵虚亭ではなく、庫裏の広間で行われますが、興臨院は事前申し込みがなくても参加可能なようなので、そういう機会に来ていただくのもよいかと思います。 お寺で販売している大徳寺全体のガイドブックを買いました。全塔頭寺院がそこそこ詳しく書かれています。 興臨院のガイド終了後、京都産業大学の月例研究会参加のため京都産業大学に向かいました(こちら)。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/12/06
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【2017年12月4日(月)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第14日でした。 12月に入り、だいぶ寒くなり、今日始めて使い捨てカイロを使いました。早く暗くなりますので、予定通り今日から最終入場時間が16時半から16時になりました。●興臨院案内#13 興臨院#8 方丈北側の各部屋 方丈南側の3部屋が公式の部屋だったのに対し、北側の3部屋は私的な部屋になります。 まず、北西隅の部屋が「衣鉢の間(えはつのま)」といいます。ご住職が着替えをされる衣装部屋でもあり、師匠から弟子に禅の教えを伝えていく場所でもあります。 この部屋に置かれている漢詩の屏風は、祇園南海によるものです。祇園南海(1677~1751)は、江戸時代の中期の儒学者であり、漢詩人、文人画家。江戸生まれで、木下順庵の門人で特に詩文にすぐれました。さらに服部南郭、柳沢淇園、彭城百川とともに日本文人画の祖とされます。また『八種画譜』『芥子園画伝』などを通じて,中国明,清の絵画を慕い、日本南画の先駆者ともいわれ、池大雅らに影響を与えました。紀州藩に仕え、野呂介石、桑山玉州とともに紀州三大南画家と呼ばれています。 その隣の部屋を「眠蔵(みんぞう、めんぞう)」と呼びます。室中の間から見えていた仏間がありますので、少し北側に出っ張ってはいますが、細長い部屋になります。仏間の真裏で、火事があったときには、ご本尊など大切なものをすぐ持ち出せるように、昔はこの部屋でご住職が就寝されました。 東北隅の部屋が「書院」です。ご住職が執務をされる部屋です。この書院には「日本最初の床の間」と称する床の間がありますが、実際に日本で最初にできたというのではなく、日本の最初の床の間はこういう造りだったということです。下の木を框(かまち)といいますが、二重框になっていて、下の框は欅で、足で蹴ったような形をしているので蹴込式(けこみしき)といわれます。創建当初のものを再現したものですが、蹴込式の床で畳を入れたものは珍しいです。また、床の壁は土壁ではなく当初は襖張りであたということで、今も襖張りのままにしてあります。襖と同じような縁が施されています。パンフレットより この部屋には、谷文晁、河鍋暁齋のお軸も掛けられています。 谷文晁(たに ぶんちょう、1763-1841)は、江戸時代後期の日本画家。江戸下谷根岸の生まれ。12歳の頃 父の友人で狩野派の加藤文麗に学び、18歳の頃 中山高陽の弟子 渡辺玄対に師事しました。20歳のとき文麗が歿したので北山寒巌 につき北宋画を修めました。その後も狩野光定から狩野派を学び、大和絵では古土佐、琳派、円山派、四条派などを、さらに朝鮮画、西洋画も学びました。26歳の時長崎旅行を企て、 大坂の木村兼葭堂に立ち寄り、釧雲泉より正式な南画の指南を受けます。古画の模写と写生を基礎にし、諸派を折衷し南北合体の画風を目指しました。その画域は山水画、花鳥画、人物画、仏画にまで及び画様の幅も広く「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風を確立し、後に 関東南画壇の泰斗となりました。 文晁は鷹揚な性格であり、弟子などに求められると自分の作品でなくとも落款を認めました。また画塾 写山楼では講義中、本物の文晁印を誰もが利用できる状況にあり、自作を文晁作品だと偽って売り、糊口をしのぐ弟子が相当数いたといわれます。購入した者から苦情を受けても「自分の落款があるのだから本物でしょう」と、意に介さなかったといいます。これらのことから当時から夥しい数の偽物が市中に出回っていたと推察でき、鑑定に当たっては落款・印章の真偽だけでは充分ではないといわれます。 河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい、1831-1889)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家。号は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」。狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」と称しました。その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されています。 またこの部屋には、徳美友僊(とくびゆうせん)の描いた屏風「鷹猿図(たかさるのず)」も置かれています。徳美友僊は1841年京都生まれの日本画家で、鈴木松年に師事しました。 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/12/04
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【2017年12月1日(金)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第13日でした。 今日はこの興臨院では初めての当日責任者を担当させていただきました。結界を越えて入られるお客様に気付かなかったといようなことはありましたが、無事、当日責任者を務めることができました。 お天気は曇り時々晴れ。散り紅葉が綺麗でした。●興臨院案内#13 興臨院#7 多羅葉の木 方丈の北西隅の庭園には多羅葉(たらよう)の木が一本植えられています。この名は葉の裏に傷をつけると貝多羅樹(ばいたらじゅ)の葉のように文字を書くことができるために付けられました。 貝多羅樹は、ヤシ科のオウギヤシ(別名ウチワヤシ)で、その掌状の葉の裏に竹筆や鉄筆などの先の尖ったもので文字を書くと、その跡が黒く残るので、古代インドで写経をするのに用いました。日本の法隆寺にも伝来されています。 ですので、寺院にはこの貝多羅樹と同じ性質を持つ多羅葉の木がよく植えられています。ただこの多羅葉の木は希少な樹木ではなく、公園などに植えられていることも多くあります。私の住む京都桂坂の緑道にも植わっていますので、何枚かいただいて先の尖ったもので傷をつけてみました。黒く跡が残ります。「葉書」はこの多羅葉が由来といわれています。そして実際に葉書としてこの多羅葉の葉を使うことができます。郵便局が公式に認めています。ただし、郵便局で確認したところ、不定形で120円切手を貼ることが必要で、切手を剥がれないようにしっかりと貼ってくださいとのことでした。そして実際に自宅宛で投函してみますと、ちゃんと届きました。 郵便局のシンボルツリーにもなっていますので、全国の大きな郵便局には写真のように多羅葉の木が植えられているところが多くあります。 興臨院のパンフレットでは、貝多羅樹となっています。多羅葉を貝多羅樹と呼ぶこともあるようです。 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/12/01
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【2017年11月28日(火)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第12日でした。 庫裏前の紅葉が落ち始めましたが、方丈北庭の紅葉が最も綺麗な時期を迎えたようです。天気良く、暖かな一日でした。●興臨院案内#11 興臨院#7 方丈西の庭園 方丈西の庭園には石碑と石塔があります。 左手のの石碑には「琴 爪塚」と彫られています。これは先代の山口大痴(だいち)和尚の奥様がお琴の先生でしたので、使い古した琴の爪を供養するために昭和57年に建てられたものです。爪塚 右手のの石塔「琴心塔(きんしんとう)」は、お琴の演奏者のご分骨が納められています。 琴心塔(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。) -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/11/28
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【2017年11月25日(土)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第11日でした。 紅葉がピークの土曜日で、お天気も良く、思ったほど寒くなくなく、多くのお客様に来ていただきました。●興臨院案内#10 興臨院#6 方丈前の庭園 方丈前の庭園は「檀那の間」に座って見るのが一番きれいに見えるように作庭されてるといわれます。「檀那の間」にはお寺にとってVIPの檀家さんをお通しする部屋だからです。ですので、他のお寺の方丈定庭園に行ったら、檀那の間がどこかを特定して、そこから庭を眺めるのが一つのコツです。 興臨院では、昭和50年に解体修理した本堂が完成した昭和53年に、過去の資料も調べたうえで、中根金作という「昭和の小堀遠州」とも呼ばれた作庭家によって方丈前庭園が作庭されました。中根金作は、京都であれば、妙心寺塔頭の胎蔵院の余香苑、城南宮の楽水苑、そして一番有名なのが、島根県の足立美術館の庭園を作庭しています。中根金作氏はボストン美術館の日本庭園の策定も手掛けています。 この庭園は蓬莱山形式の枯山水庭園です。右奥の築山が蓬莱山の神仙境を表しています。蓬莱山は秦の始皇帝や漢の武帝の頃、海のかたに仙人の住む神仙島があり、そこに不老長寿の薬があるという伝説上の山です。理想郷です。その左の大きな石の間の石橋が、檀那の間に描かれた寒山、拾得が住んだといわれる国清寺(こくせいじ)の石橋(しゃっきょう)です。 蓬莱山に発した水が渓流となって石橋の下をくぐり、大きな川の流れになり、やがて大海に広がるさまを石組と白砂でうまく表しています。禅の教えは祖から発して未来永劫脈々と拡がっていくという「水源一滴」の考え方を表したお庭でもあります。 敷かれているのは白川砂。人口の照明がない時代、太陽や月の反射をを多くして、少しでも部屋の中を明るくしようと白い砂が枯山水庭園に敷かれることが多かったのです。 今日の紅葉 終了後、知人の能発表会を観に大江能楽堂に向かいました(こちら)。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/11/25
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【2017年11月22日(水)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第10日でした。 前回のここの勤務は11月12日でしたので10日前。そのときは紅葉はまだまだだったのですが、今朝、表門から覗いたらビックリ。素晴らしい紅葉になっていました。方丈の周りの紅葉は、緑も残っていてグラデーッションが綺麗でした。次第に紅葉していくところを見れるのはガイドの役得です。 平日にも拘わらず、やはり紅葉本番、それから飛石連休の前日ということもあり、多くのお客様に来ていただきました。ここでは初めて予約の団体さんの案内もさせていただきましたが、北側の部屋は縁が狭く、お茶室も一度に全員入れないことなどなど、多人数の案内の場合、特別な工夫が必要なことが分かりました。 午後から雨の予報でしたが、拝観時間中は何とか持ちこたえ、我々が帰る頃になって雨が降り出しました。 昨日から我々の持ち時間終了後(16:30)のライトアップも始めたようです。ガイドはなしで、拝観料は昼間と同じとのことです。去年から始められたようです。ネットを見てもライトアップのことは載っていませんので、積極的には宣伝していないようですが、部屋の中も照明され昼間の拝観よりも、襖絵やお軸がはっきりと観賞できるので、これはこれでお薦めです。●興臨院案内#9 興臨院#6 本堂(方丈)礼の間、檀那の間 興臨院の本堂について続きです。 南側の東側の部屋(向かって右)は「礼の間(らいのま)」です。玄関に一番近い部屋で、今の時代で言えば、応接間にあたるところです。この部屋の襖絵も村石氏によるもので、「葡萄図」です。葡萄の葉や実が描かれていますが、向かって左側の奥から2枚目にはイタチ、奥の右から2枚目の下の方にはメジロも描かれています。葡萄の葉が鳥が飛んでいるようにも見えるので、たくさんの鳥がいっせいに飛び立ちそうな姿にも見えます。 掛かっている興臨院の額は、縁どりが非常に鮮やかです。このオリジナルは室中の間の外に掛かっている扁額です。右に「為日本国天啓和尚」と書かれ、左に「大明梅がい方伯行書」(「がい」は崖の山がない字)と書かれています。天啓和尚は開祖小渓和尚の一番の弟子で、興臨院の2代目の住職です。左側に書かれた中国の僧によって、この額が天啓和尚に贈られたことを示しています。縁の飾りにわずかに色彩が残っていますが、これをX線分析をするなどして、オリジナルの色彩が割り出されました。それが礼の間の額の縁の部分です。中国から贈られたものなので、中国的なデザインです。 西側(向かって左)の部屋は、「檀那の間」です。檀那とは檀家さんのことです。檀家さんをここへお通しします。お寺にとっては経済的な支えでもあります。ですのでいわばVIPルームです。「檀那」は、「布施」を意味するサンスクリット語(梵語)の「ダーナ」から来ています。英語の"donation(ドネーション)"、"donor(ドナー)"も同じような起源と意味を持つ単語です。日本では、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、家庭内で奥さんがご主人を呼ぶ場合にも使われています。語源からすると、稼ぎの悪いご主人は「檀那」と呼んではいけなのかもしれません。 この部屋の襖絵も村石氏によるもので、「寒山拾得図」です。巻物を手にしているのが「寒山」で文殊菩薩の生まれ代わりともいわれます。箒(ほうき)を持っているのが「拾得」で普賢菩薩の生まれ代わりともいわれます。唐代の脱俗的な人物で、宋代以後、彼らの生き方に憧れる禅僧や文人によって格好の画題とされてきました。ですので、禅宗のお寺に行くと、達磨大師同様、よく絵の題材になっています。 家内はSさんと京都でランチでした。Sさんはドイツ時代に家族ぐるみでおつきあさせていただきました。久しぶりの再会で、おしゃべりも長くなったようです。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/11/22
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【2017年11月12日(日)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第9日でした。 そして、今日は思いがけないことがありました。ガイドの案内中に誰か知った人に会うこともあるのではないかと思っていたのですが、始めて1年になりますが、今まではありませんでした。ところが今日朝早い時間に、M社子会社時代の先輩Nさんにバッタリお会いしました。 私はいつかは知っている方にお会いするのではと気をつけているのですが、Nさんは私がガイドをしていることをご存知ないので、目を合わせても私に気付いていません。私から「Nさんですよね。」と声をかけました。向こうは名前まで思い出したかどうかは分かりませんが、私だと気が付きビックリ。こんなところで会おうとはまさか思っていないわけです。残念ながら私の案内の時間ではなかったので、ペアの方に案内していただきましたが、拝観が終わってから少しだけお話することができました。これからも、こういうことが時々起るのでしょう。 最高気温14.6度と少し寒かったですが、お天気は良く、多くのお客様にお越しいただきました。●興臨院案内#8 興臨院#5 本堂(方丈)室中 興臨院の本堂について続きです。 南側の部屋の中央は「室中の間」です。仏事を執り行う方丈の中で最も大切な部屋です。中央に祀られているのが、開祖の小渓紹ふ(付の下に心)(しょうけいじょうふ)禅師です。幕に隠れて見にくいですが、その向かって左に祀られているのが、ご本尊の釈迦如来です。普通はご本尊が中央に安置されますが、大徳寺の塔頭では開祖を非常に大切にしますので、他の塔頭寺院でも、このように開祖が中央に祀られていることが多いです。 その左にお位牌が多く安置されています。向かって右側に畠山家代々のお位牌、左側が前田家のお位牌です。中央の一番大きなお位牌が前田利家公、その右側が畠山義総公のものです。 この部屋の上部が響き天井になっていて、天井の下で手を叩くとよく響きますが、人が余り多く天井の下に集まると少しも鳴りません。パンフレットにこのように記載されていますが、残念ながら拝観では室中の間は入っていただけないので、この現象は体験できません。実は私も体験したことがありません。 襖絵は村石米齋氏による水墨画で、向かって左側が、山口県青海島を描いた夏山水、右側の絵は、中国北京郊外にある頤和園(いわえん)の風景を描いたもので、冬山水ともいわれます。頤和園は代々の皇帝の離宮になった景勝地で、世界遺産に指定されています。 村石画伯の画風は、繊細かつ緻密である点においては他の追随を許さず、岩や山の配色バランス、線の描き方に非常に神経が使われていることが分かり、簡素ながらも主題の追及に無駄がないところが高い評価を得ています。 中央の扉のにある彫刻の唐草模様が、室町期の特徴である左右対象式から、少し乱れ始めたものになっています。所々の装飾に用いてある唐草模様の円曲線が、何れも同様の曲線を表しています。中央扉の唐草模様の彫刻中央扉の最下部の彫刻(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/11/12
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【2017年11月10日(金)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第8日でした。 今日は、往きに中央図書館に寄って、今日が期限の若冲・応挙関係の本を一旦返しました。 雲一つない良いお天気で、暑くもなく寒くもなくで、最高の旅行日和でした。土日に続く金曜日とうこともあって、多くのお客様にご来訪いただきました。楽しくガイドをさせていただくことができました。●興臨院案内#7 興臨院#4 本堂(方丈)襖絵 興臨院の本堂について続きです。 本堂の襖絵についてですが、昔は狩野元信、土佐光信などによる襖絵があったと、大徳寺誌や都林泉名勝図絵などに記されています。しかし、今はありません。これは、明治維新後の廃仏毀釈の影響で海外に流失したためです。近年ボストン美術館で興臨院のものと思われる絵が発見されたりしています。 ですので明治維新以降は、襖には何も描かれていなかったのですが、平成6年に久留米出身の日本画家・村石米齋(べいさい)氏に襖絵を描いていただきました。厳密には「描いていただいています。」です。50面襖がありますが、時間をかけて順次描いていただいているところです。ところどころ白いままの襖があるのはそのためです。村石米齋氏は1949年生まれで、書道家でもあります。興臨院の襖絵について記された「都名勝林泉図絵」の部分 帰りにも京都市中央図書館に寄り、再度、若冲・応挙関係の図書を借りました。朝、返却ポストに返した本を、職員の方が戻しているところでしたので、最初に借りた本のうち2冊を再度借り、新たに2冊借りました。2回目に借りた本2冊は延長しましたので、現在6冊借りていることになります。・(新規)若冲 その尽きせぬ魅力 狩野博幸監修 ペン編集部編 CCCメディアハウス・(新規)若冲 ワンダフルワールド 辻惟雄・小林忠・狩野博幸・太田彩・池澤一郎・岡田秀之 新潮社・(再)もっと知りたい円山応挙 樋口一貴 東京美術・(再)応挙・呉春・蘆雪 山川武 東京藝術大学出版会・(延長)すぐわかる 画家別 近世日本絵画の見かた 安藤敏信 東京美術・(延長)別冊太陽 江戸絵画入門 河野元昭監修 平凡社・(返却)別冊太陽 若冲百図 小林忠監修 平凡社 ・(返却)別冊太陽 円山応挙 金子信久監修 平凡社 ・(返却)若冲への招待 朝日新聞出版編・(返却)若冲 狩野博幸 角川ソフィア文庫延長した2冊新たに借りた2冊(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/11/10
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【2017年11月8日(水)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第7日でした。 風邪のほうは、体温は少し高めながら平熱、脈拍も少し高めながら正常範囲。そして、まだ鼻声なのと、喉が少しいがらっぽいなど、症状は残っていますが、ガイド勤務は支障なくできました。 一日中、雨がしとしと降る生憎のお天気でした。 今日は、ご案内に対するお客様の反応が良かったなという印象です。こういうお天気が悪い日でも来られる方は、もともと積極的に色んなことを知りたいという方が多いのかもしれません。 それから、今日で7日目になりますが、今まで振り返って、外国人の比率は清水寺随求堂ほど高くはないですが、下鴨神社に比べるとかなり高いと思われます。そして、西洋人の比率が高いと感じます。大徳寺内で団体の西洋人のツアーもよく見かけます。禅とかに興味を持つ西洋人が多いということかも知れません。 ●興臨院案内#6 興臨院#3 本堂(方丈)全体 興臨院の本堂についてです。 本堂は「方丈」とも「客殿」とも称します。 「方丈」はもともと1丈四方の建物という意味で、鴨長明の「方丈記」は、そんな小さな庵で書いたということからの書名です。 また『維摩経』には、昔インドで在家ながら仏教を深く信じていたという、維摩居士(ゆいまこじ・維摩詰)の方丈を訪れた文殊菩薩とその一行が、その狭い空間に全員収ることができたという逸話が書かれています。そのことから、仏教においては方丈に全宇宙が内在しているという考え方が生まれ、そこから寺院の住職が生活する建物を特に方丈と呼ぶようになりました。形も正方形ではなく、5、6室を持つ長方形の簡素な建物として発展し、それぞれの部屋の役割も決まってきました。室町時代中期以降は仏像や祖師像が安置されるようになり、本堂の役割を担う建物となりました。 この興臨院の方丈も、典型的な部屋の配置になっています。 南側(下図の下半分)が公的な部屋、北側(下図の上半分)がプライベート的な部屋となっています。 帰宅後、月イチの高血圧診察で近所のO医院に行きました。いつものように血圧測定のグラフを見せて説明しました。「冬場に入って血圧が高めになっているのに加え、直近はさらに高くなっているが、これは風邪をひいた特殊要因によるもので、それがなければ朝晩平均で140/90以下である」と説明しました。珍しく聴診器で診ていただいたうえ、いつものアムロジピン1ヵ月分を処方してもらいました。 医者から戻ったら、家内がテニスから帰っていました。「合宿」とカレンダーの予定には書いてあるのに、日帰りだと言って出かけたのでおかしいなぁと思って聞いてみたら、滋賀県土山のダイヤモンド滋賀というリゾート地で、やはり泊りがけだったようですが、この前長崎に2泊3日で旅行に行っているし、他にも泊り無しの人もいるので、私に悪いと思い、泊りは止めたとのこと。そこまで気を遣わなくてもいいのに。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/11/08
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【2017年11月4日(土)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第6日でした。 昨日までどうもなかったのに、朝起きたら鼻グジュグジュ。身体がソクゾク。熱は36.8度。平熱は36.3度で、普通の状態で高くても36.6度なのでやはり高め。ついに風邪をひいてしまったのかも。粒子線治療が終わって2年半、風邪一つひかなったのですが。休むほどではないので出勤しました。 3連休の中日で、多くの方にお越しいただきました。 ここしばらく暖かったのであまり厚着をしていかなったのですが、風邪気味ということもあったのでしょう、思いのほか寒かったです。これからしっかり防寒をしていかねばなりません。 ご案内した女性のお一人から、「大変よく分かり勉強になりました。社会の先生か何かやられたのですか?」と声をかけれらました。「分かりやすい案内」、これが私のモットーですから嬉しかったです。●興臨院案内#5 興臨院#2 建造物 興臨院の建物についてです。◆表門(重文) 左右の横が唐破風になっている平唐門(ひらからもん)と呼ばれる構造の門です。桧皮葺の優美な姿をしています。一間一戸で、2本の門柱の頭が高く出て、蟇股を左右から挟んでいます。細部を見ると懸魚の唐草模様の中が透彫りになっているなど優れた工作が施されており、大徳寺山内でも有数の古い門です。表門◆唐門(重文) 方丈の玄関になっている唐門は正面が唐破風になっているので、向かい唐門といいます。やはり桧皮葺で、室町時代の特徴をよく表し、波形の連子窓、客待の花頭窓等は禅宗の建築様式をよく表しています。奥が唐門波形の連子窓花頭窓本堂(重文) 一重入母屋造。方丈あるいは客殿ともいいます。創建直後に焼失しましたが、すぐ再建され、現在の建物は1540年頃に再建されたものです。しかし、年月とともに痛みが激しくなってきましたので、昭和50年に解体修理し、再建当時の姿に復旧されました。従って、室町当時の特徴をよく表しています。桧皮葺の屋根は、近代の寺院より低く、優美で安定感があり、静寂と落着きを表しています。建物内部も簡素で、素朴であり、さほど寺院らしくなく、現在の日本の民家住宅へ移る過渡期のものといわれます。 本堂(方丈) 終了後、大阪での飲み会に出席のため(こちら)、北大路駅まで歩いて地下鉄で京都駅へ。JRに乗り換えて大阪に向かいました。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/11/04
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【2017年10月24日(火)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第5日でした。 今日のペアの方は下見の際にお世話になりましたが(こちら)、いっしょにお仕事をさせていただくのは初めてです。ベテランらしさが随所にうかがえるお仕事ぶりに感心し、私も色々指導いただきました。この年になって、新入社員のように先輩から仕事で指導いただくというのは、そうそうあるものではありません。これも気持ちを若く保つための一つかと思ってやっています。 台風のとき、ここ興臨院の勤務も台風の影響を受けたようです。22日の台風接近の際は、少しだけ早めに拝観をストップをしただけだったようですが、翌日は拝観は中止になったとのこと。天気は回復したのですが、風で木の葉や木の枝などが庭や縁に散乱して、とても拝観できるような状態ではなかったので、拝観中止なったようです。 しかし今朝、出勤した際には、いつもと同じように葉っぱ一つ落ちてなくて、全くそんなふうになった気配も感じられないほどでした。枯山水の砂紋も新たに描かれ、むしろいつも以上にきれいでした。我々はただ出勤しただけですが、お寺さんはさぞかし大変だった思います。私は気付きませんでしたが、大徳寺内の松の木も何本か倒れたようです。 興臨院の案内の続きです。●興臨院案内#4 興臨院#1 歴史 現在、大徳寺には塔頭が22ありますが(これ以外に別院が2)、戦国武将ゆかりの塔頭が多いことを前回書きました(こちら)。 興臨院もそれらの塔頭同様、戦国武将により建てられました。1520年代の大永年間、大徳寺第86世小渓紹ふ(付の下に心)(しょうけいじょうふ)和尚を開祖として、師に深く帰依した能登の守護職畠山義総によって建立されました。寺の名前は義総の法号「興臨院殿傳翁徳胤大居士」からつけられました。 小渓紹ふは仏智大通禅師とも呼ばれます。徳望厚く、塔頭瑞峯院開祖徹岫宗九(てっしゅう そうきゅう)、正受院開祖清庵、玉雲院開祖天啓和尚など門下に優秀な人々が輩出しました。 畠山義房は七尾城主として一向一揆(いっこういっき)を鎮圧し、領国を安定させました。古典、和歌、漢詩文などの文芸を愛好し、能登畠山文化の全盛期を築いた名君として知られます。しかし1545年に義総が死ぬと重臣たちの主導権争いが始まり、畠山氏は急速に衰退し、ついには天正5年(1577年)、上杉謙信の侵攻を受けて滅亡しました。 興臨院は畠山家没落とともに衰退しますが、天正9年(1581)、前田利家が屋根の葺き替えを行うなど庇護し、父利春公(1561年没)の菩提も弔われました。ですので、興臨院は畠山家の菩提寺であるとともに、前田家の菩提寺にもなっています。 前田利家は、はじめ織田信長に仕え、その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、天正9年(1581年)、織田信長より能登一国を与えられ、七尾城主となり23万石を領有する大名となりました。信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付きますが、後に羽柴秀吉に臣従しました。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築きました。また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)を任じられました。秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力しますが、秀吉の死の8ヶ月後に病死しました。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/10/24
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【2017年10月19日(木)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第4日でした。 出勤に最寄りのバス停までバスを使っているので、この頃歩行歩数が少なくなっています。平均1日8000歩以上を目指していますが、今月は今のところ、6000歩強です。今日は、朝五条通りを通るバスを降りてからずっと1時間半くらい歩く覚悟だったのですが、朝起きたら雨脚強く断念。いつもと同じように最寄りバス停までバスを使いました。本当によく降ります。 雨のウィークデーの中日となりました。天気が悪くて暗かったのですが、その分室内が見やすく襖絵がいつもよりはっきりと見えました。●興臨院案内#3 大徳寺#3 現在、大徳寺には塔頭が22ありますが(これ以外に別院が2)、下記のチャートのように戦国武将らによって建てられた塔頭が多くあります。 また大徳寺は、村田珠光、武野紹鷗、千利休、小堀遠州など日本の茶道の歴史そのものの足跡があるところでもあります。 村田珠光は室町中期の人。京都三条に住み茶の湯を学びました。30歳の頃に禅僧となり、臨済宗大徳寺派の一休宗純に参禅。茶禅一味の精神を追求し、わび茶の精神をつくっり、侘び茶の祖と称されます。能阿弥の引き立てにより、足利義政は珠光のパトロンとなりました。珠光の作り出した茶室は縮小された4畳半で、書院風の宝形造。 武野紹鷗は室町後期の人。道号は一閑。茶道を学ぶとともに、三条西実隆に古典・和歌を学び著名連歌師とも親交しました。京都四条に大黒庵を設け、村田珠光の提唱した侘び茶の道をおしすすめて、次代の千利休、津田宗及、今井宗久らに大きな影響を及ぼしました。4畳半茶室よりも小さい3畳半や2畳半の茶室を考案しました。大徳寺の末寺である南宗寺に参禅しました。 千利休は、安土桃山時代の人。和泉堺の出身で、幼名は与四郎、名は宗易。武野紹鷗らに師事。堺の南宗寺に参禅し、その本山である大徳寺とも親しく交わりました。織田信長・豊臣秀吉らに茶頭となり、草庵での侘数寄の茶道を大成。正親町天皇より利休居士号を勅謚されました。 小堀遠州(政一)は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。大徳寺の春屋宗園に参禅しました。古田織部に茶道を学び、第一の弟子と称されました。その茶の湯は現在ではきれいさびと称され、遠州流(小堀遠州流)として続いています。 京都の臨済宗の本山のいくつかは「京童」(京の若者たち。京都市中の物見高くて口さがない若者ども。)から、「~面(づら)」と呼ばれました。それが下記のチャートに書かれています。大徳寺は茶の湯との関わりが深く、「大徳寺の茶面」と呼ばれました。 茶の湯との関係で有名なのが金毛閣です。大徳寺の三門ですが、千利休は、この三門の造り替えのための援助をします。三門が完成すると大徳寺の住持であった古渓宗陳(こけいそうちん)が、利休に対する感謝の意を表するために利休の木造を造り、それを三門の上に祀りました。それに対して秀吉が「高貴な方が通る三門の上に草履をはいた利休の木造を置くということは、高貴な方の頭を踏みつける行為と同じである」と言って怒り、それが利休切腹の一因になったと言われています。大徳寺 金毛閣(三門) 撮影10月9日大徳寺 勅使門 撮影10月9日大徳寺 仏殿 撮影10月19日大徳寺 法堂 撮影10月19日 帰りに桂駅前のA眼科に寄りました。緑内障予備軍としての定期検査です。前回6月のときに、次回は3ヶ月後とのことだったので、本当は9月に行かないといけなかったのですが、今日になってしまいました。前回まで、いつも午前中に診てもらっていたのですが、午前、午後でコンディションが変わることもあるので、次は午後に来てくださいと言われていたので、この時間に行きました。 勤め帰りの時間なので混んでいることを覚悟したのですが、空いていてすぐ診てもらえました。今日は視野の測定はありませんでした。眼圧は、午後計っても正常でした。次回3ヶ月後、また午後来てくださいとのことでしたので、次回は視野も検査いただくことになるのだと思います。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/10/19
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【2017年10月14日(土)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第3日でした。時々雨が降る生憎のお天気が影響した。 ガイド中お客様から、「月例のお茶会は、予約なしで誰でも入れるのですか?」という質問を受けました。誰でも入れるけれども、そのときは拝観料が1000円になると聞いていたので、そうお答えしました。念のため帰宅後ネットで調べてみました。間違ってはいませんでしたが、その他いろんなことが分かりました。 大徳寺での月例茶会は下記6つの塔頭寺院で28日(利休の命日)に催されます。いずれも臨時会費1,000円で、2月と8月は休会。興臨院は、事前申込など必要ありませんが、他のところでは事前に茶券を購入しないといけないところもあるようです。 その他、細かい内容では、 ・茶会が開かれている場合は、「在釜」という札が門にかけられる。・必要なものは、扇子・懐紙・菓子楊枝・服装は和服かスーツやジャケット着用が望ましい・お茶の心得がない場合、アドバイザーとなる同伴者が必要 あと自分で勉強していて説明内容に間違いがあったことにも気付きました。 茶室「涵虚亭」の中の説明で、「洞床(ほらどこ)」の説明をしていますが、これは半楕円形の給仕口の水屋側の部分だと思い込んでいてそう説明していました。ところがそうではなくて、この給仕口を入った床の間の様式のことでした。床の前に袖壁が出ていて、中が洞のように見えるからです。 茶道に見識のある方が説明を聞かれたら、「あれ?ガイドさん間違ったこと言ってる」と思われたかも知れません。すいませんでした。次回から正します。●興臨院案内#2 大徳寺#2 大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山です。臨済宗は禅宗の一派で、禅宗にはその他に、曹洞宗、黄檗宗などがあります。 臨済宗には15の派があり、うち8つが京都に本山があります。下表の赤字でかいたものがそうです。大徳寺はそのうちの一つです。 応仁の乱でほとんどの伽藍を焼失しましたが、一休宗純や、その一休に帰依した尾和宗麟などの堺の豪商、戦国大名などの尽力で再建されました。江戸時代初期には伽藍のほとんどが完備されました。 一休宗純は室町前期の臨済宗の僧で、大徳寺47世を務めました。京都生まれで、後小松天皇の皇子といわれています。幼少で出家し、大徳寺の華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となり、その法を嗣ぎました。風狂の生涯を送り、書画・偈頌(げじゅ・禅宗で悟りの境地などの宗教的内容を表現する漢詩)に優れ、著に「狂雲集」があります。 戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼び、江戸時代には、彼をモデルとした『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となりました。 大人の一休さんは、アニメの一休さんからは想像できないお顔の持ち主です。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/10/14
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【2017年10月12日(木)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第2日でした。 曇一時雨の天気で、京都の最高気温は23.6度と昨日より6度強下がりました。お庭の紅葉もうっすらと色づき始めました。 案内の中では、答えられない質問がありました。後でご住職に確認したり、自分で調べました。こうやって引き出しが増えていきます。・月例のお茶会は、どこでするのか? →後でご住職にお伺いしたら、涵虚亭近くのスダレの下がった広間でされるとのこと。 年に1回か2回は涵虚亭でもされるとのこと。・襖絵を書かれた村石米齋氏はご存命か? →ご存命です。1949年10月13日お生まれですので、明日で68歳になられます。 親が書道教諭で、幼い頃から書は身近なものであったようです。 福岡教育大学特設書道科を卒業した後、九州大学文学部美学美術史研究室の 研究生となりました。 卒業後は県立高等学校で、親と同じ書道教諭を勤めました。 そして美大や専門教育は受けておらず、独学で水墨画を学びました。 フィラデルフィア美術館に数点の書が収蔵されるまでになりました。 スリッパなしで、靴下で板の間を歩きますので、最後には足の裏が少し痛くなりました。●興臨院案内#1 大徳寺#1(ガイドしている内容より詳しいです) 興臨院は大徳寺の塔頭(たっちゅう)です。塔頭とは、大寺院の敷地内にある小寺院や別坊のことを指します。塔中とも書きます。高僧の住房や庵居から発展し,その墓(塔)を守って弟子が相伝し、塔の中で首座にあるところから塔頭と呼んだとも、また塔の頭(ほとり)に少庵を建てて、これを守ったことから塔頭と呼んだともいいます。 大徳寺は、鎌倉時代末期正和4年(1315)、宗峰妙超(大燈国師)を開山として創建された臨済宗大徳寺派の大本山です。 宗峰妙超は、播磨 (はりま・兵庫県)出身。11歳の時、地元の大寺院である書写山円教寺に入り、天台宗を学びますが、のち禅宗にめざめ、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明(大応国師)に参禅。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)、26歳のとき、師から印可(精進した弟子に師が力量の証明を与えること)を得ました。嗣法(弟子が師の法を継ぐこと)の後、約20年草庵にあって京都で乞食行(こつじきぎょう)をします。修行に励みますが、峻烈無比の禅風の故に近づく人は多くありませんでした。 正和4年(1315年)(元応元年=1319年とも)、同郷の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立しました。これが大徳寺の起源とされます。花園天皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)、大徳寺を祈願所とする院宣を発しています。このころ、正中の宗論にて顕密の学僧を論破して名声を高めました。門下に関山慧玄がいます。 建武4年(1337年)、妙超は病に伏し重態となりますが、花園法皇の求めに応じて、妙超没後に花園法皇が師とすべき禅僧として、弟子の関山慧玄を推挙しました。また、花園法皇が花園の離宮を禅寺とするにつき、その山号寺号を正法山妙心寺と命名し、その年の12月22日、妙超は死去。妙心寺では、この建武4年を開創の年とし、妙超の遺命を受けた関山慧玄が開山となっています。 禅風は厳格で、容赦ない厳しさをもって人に接し、深く自己の悟境を掘り下げていくことを重視し、唐代の禅風の復活を志向しました。自ら公案(注1)をつくって弟子を育成し、教化においてはほとんど方便を(注2)を使わず、正面より禅の極みを打ち出しました。 師の南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属します。(注1)公案:禅宗において修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題のこと。 「禅問答」として知られる。(注2)方便:方便法輪。日本の禅では、仏祖・禅師の本意ではないものの、本意を伝える手段と なりうるという意味で方便という。またいかにすれば仏性を発現できるかを模索する、 柔軟な心構えをいう(一休宗純は後日登場)大徳寺 南門大徳寺 本坊(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村7
2017/10/12
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【2017年10月9日(月・祝日)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド初日でした。 大徳寺には22の塔頭寺院がありますが、そのほとんどが通常非公開です。常時拝観できるのは、高桐院、龍源院、瑞峯院、大仙院の4つです。その他の寺院のうち、いくつかが時期を区切って特別拝観をします。 興臨院はその中でも開いている期間が多い寺院です。私の手元資料では、今年は、1/7~1/29の土日祝、3/18~6/11、9/9~10/1と開いていました。そして、この秋は、10/7~12/17の特別公開となっています。この時期、黄梅院が10/7~12/17、総見院が10/7~12/8に特別公開されます。黄梅院は興臨院と全く同時期、総見院はほぼ同時期ということになります。 10時から16時半拝観受付です。 交通費倹約と健康のため、今までは五条通りを走るバスや阪急を降りた後は、歩いて通うことが多かったですが、大徳寺は今までの箇所よりさらに北にあるので、交通費はかさみますが、最寄りバス停までバスで行くことにしました。 私のガイドの方は事前に「紙芝居」もうまく作れて、話す内容の咀嚼も時間がとれたので、初日にしてはうまくできたと思います。ここでは同じ日に受付も担当し、ご朱印の日付記入や授与品の販売も担当します。土日と平日では受付場所も変わります。ちょっと複雑ですが、日とともに慣れるでしょう。 暑さがぶり返して、方丈庭の白砂の照り返しもきつく、午後は暑かったです。初日の緊張感もあり、かなり疲れましたが、何とか無事一日目を乗り切りました。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/10/09
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【2017年9月29日(金)】 清水寺随求堂勤務第27日目。最終勤務日です。 Tシャツでは寒いくらいの気候でした。7月、8月の暑さと比べたら、大きな違いです。時期的に多くの修学旅行生に来ていただきました。 今日も特に大きな問題もなく終了することができました。これで延べ21日間の勤務は終わりです。 最初は要領を得ず指導をいただいたこともありましたが、2、3回でほぼ手際よく諸事できるようになり、案内も分かりやすくできるようになりました。小さな失敗は色々ありましたが、大過なく終えることができました。 身体の負荷は大変でした。7、8月は清水寺に朝、上がってくるだけで汗だくで大変でした。多くのお客様が来られたときは、声がかすれたりしたこともありました。 我が会が担当する箇所のなかで、一日に接する方の人数が最多なのはここでしょう。それぞれの方に接する時間は短いですが、地下の胎内から出てこられたときの、皆さんの満足そうなお顔、あるいは清々しいお顔を拝見させていただくのが大きな喜びでもありました。 たくさんの方と初めて仕事をごいっしょさせていたのも大きな収穫です。皆さん気さくな方で、楽しくいっしょに仕事をさせていただくことができました。 時期や曜日で、外国人観光客、修学旅行生、家族連れの比率が変化するのも興味深かったです。 お守り売り場の方とも親しくなれたので、これから修学旅行で来たときも、言葉を交わすことができます。 次回は桜と新緑のきれいな春、紅葉のきれいな秋に担当できればうれしいのですが。 写真は今朝の清水寺。通勤途上、朝の人の少ない清々しい清水寺や祇園の街を歩くのも楽しみでした。しばらく見る機会がないでしょう。 今朝の仁王門・随求堂・三重塔 勤務後、家内といっしょに女子プロ野球の観戦に「わかさスタジアム(西京極球場)」に行きました(こちら)。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/29
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【2017年9月27日(水)】 清水寺随求堂勤務第20日目。勤務は今日を含めて2回で終わりです。 夕方から雨の予報で、午後から雨がポツリポツリ来たときもありましたが、何とか持ちこたえ雨天対応は不要でした。 清水寺有料拝観エリア手前の見所紹介の続きです。●十一重石塔 「音羽の滝」から出口に向かって下りてきたところにある「放生池(ほうじょうち)」の近くに十一重石塔が立っています。 初層軸石(じゅくいし)の東正面に「天長地久 御願円満 奉寄進龍塔 所願成就 皆令満足」「寛永十二(1625)年・・・石大工今川」などと刻まれています。「龍塔」とありますが、古代インドから龍は仏教を守護し、とくに仏塔を守るとして崇拝されてきたことを示します。「石大工今川」は、石灯籠を含め、多くの優れた石造品を残した京都・白川の名石匠の一人です。 第二層に四方四仏を浮き彫りされています。寛永再建の清水寺荘厳のため、本堂のすぐ東側に建立されましたが、大正7年に現在地に移されました。 普通は十三重ですので、十一重は珍しいです。地震などで、上端の二重が欠落したのかも知れません。 (以上、「京都清水寺さんけいまんだら」から) いつもであれば、勤務終了後まっすぐ帰るのですが、今日は夕刻6時から、某講座の委員会があるので、歩いてその会場に向かいました。場所は室町出水上ルの京都YWCA。ここに着く頃から雨が降り始めました。→こちら(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/27
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【2017年9月25日(月)】 この9月で3ヵ月単位の勤務単位が終わり、来月から新しい3ヵ月サイクルに入ります。 勤務時期は10月日~12月17日です。この期間は私はここの勤務だけで、これに修学旅行を足しても勤務日数はそう多くはありません。少し時間的余裕ができそうで、特別客員研究員の研究に時間が割けそうかなという気がします。 新しいサイクルの勤務の前には、特別な日を設定して、説明会が行われることが多いですが、今回の興臨院では説明会は行われず、現在の拝観期間中にそれぞれで下見をするということになりました。そして新しいサイクルの全体責任者の方は、過去いっしょにお仕事をしたことがない方なので、顔合わせも兼ねて、この方の勤務日の今日に下見をさせていただきました。 朝の準備から下見をさせていただきました。今回初めて担当する同期の某さんも来られていました。今日勤務のお二人から、受付とガイドの要領を伝授していただきました。 ガイド内容については、始まる前に一通り説明を聞いた後、拝観時間になってから一般のお客様に混じって聞かせていただきました。「紙芝居」は、ほとんど使っておられませんでしたが、使ってもよいとのことなので、「紙芝居」を準備して、慣れないうちは使いたいと思います。 受付や授与品販売、ご朱印書き(日付のみ)の方法、その他色んな注意事項も教えていただきました。例えば、お客様がお帰りになるときに「ありがとうございました。」とは言わずに、「ようこそお詣りくださいました。」などと言うことなどです。 気候的には負荷の少ない時期だし、紅葉もきれいな時期です。自分自身も景色も楽しみながらのガイド期間となることが期待されます。 ガイドが始まったら興臨院の詳細を少しずつご案内するとして、今日は、外で撮影した写真だけアップしておきます。 総門前の案内 総見院と黄梅院の特別公開が興臨院と同じ10月7日にスタートしますが、ここにはまだ書かれていません。カバーで覆われたところに書かれているのでしょう。総見院が12月8日、黄梅院が興臨院と同じ12月17日までです。興臨院前の碑 奥にある瑞峰院、大慈院の名も刻まれています。興臨院前の案内興臨院表門(重文)興臨院前庭 お昼前に終わったので、金閣寺方面に歩き、修学旅行生昼食場所の下見を兼ねて「Zip Cafe」というお店で昼食をとり、(こちら)、その後、「京の夏の旅」本野精吾邸を見学しました(こちら)。 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/25
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【2017年9月24日(日)】 清水寺随求堂勤務第19日目。 昨日の土曜日が秋分の日の休日で、今日が日曜日で正味の二連休、そしてお彼岸のお墓参りのついでに参詣という方もいらっしゃったでしょう。気象庁公式記録では「晴後薄曇」と、お天気も良好でした。いつもの土日より多くの方にお詣りいただきました。 清水寺有料拝観エリア手前の見所紹介の続きです。●祥雲青龍像 西門の前には「祥雲青龍」が建立されています。毎年、春と秋に観音様の化身である16メートルの大青龍が門前を練り歩く、青龍会(せいりゅうえ)が行われています。そのお誕生から15年と清水寺門前会30周年を記念して、2015年の12月に建立されたものです。 青龍会は平成12年(2000年)の御本尊開帳を記念して始まりました。清水寺境内と門前町を「南無観音」と唱え地域守護・除災を祈願して観音加持のお練り巡行が行われます。 「清水門前会」は昭和24年の法隆寺壁画焼失事件をきかけに結成された「清水警備団」が前身です。日夜清水寺と門前町の警備に当たっています。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/24
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【2017年9月22日(金)】 下鴨神社ガイド第11日目でした。朝は、いつも阪急河原町駅から1時間ほど歩くのですが、早起きしての特別客員研究員中間発表の資料作りの時間を確保するため、バスを使いました。 今日が最終勤務日。午後は雨が降り、大炊殿のエリアでは初めて本格的な雨の中でのご案内となりました。いつもは出口から間違って入って来られるお客様がいらっしゃらないかを直接確認できる位置でご案内するのですが、その位置ではお客様に傘を差していただかなければならないので、大炊殿前の透き塀の格子から出口を見ながら、お客様には建物の庇の下に入っていただいての案内としました。私の咄嗟のアイデアでそうしたのですが、先輩方に雨の場合どうしているかを事前に確認しておくべきでした。 雨は降りましたが、平日にしては多くのお客様にお越しいただきました。最終日も特にトラブルもなく終えることができました。 7月から9月の3ヵ月で11回の勤務でした。多くの皆さんと初めていっしょにお仕事をさせていただくことができましたが、組み合わせの偶然で、ごいっしょしていただけなかった方も何人かいらっしゃいました。 夏場は特別参拝所前の持ち場では、照り返しの暑さが厳しく、大炊殿エリアでは蚊の攻撃が厳しい中でのご案内でした。小さな失敗もありましたが、皆さんの協力を得ながら、楽しくお仕事をさせていただくことができました。仲間とお客様、下鴨神社様に感謝です。 最後の特別拝観エリアのご案内です。●大炊殿エリア その4 この大炊殿エリアの見どころとして、葵の庭、大炊殿、御井、水ごしらへ場、薬草類をご紹介してきましたが、最後にこのエリアでのその他の見どころについてご紹介します。 まず、北側の板を渡した道を東に進むと、特別参拝所でご覧いただいた本殿の裏に出ます。本殿を裏からご覧いただいたり、参拝いただいたりできます。本殿の裏に続く板の道の入口の説明板本殿裏に導く板の道裏側から見る三井神社裏側から見る叉蔵裏側から見る本殿 大炊殿の西隣には、「御車舎(おくるまや)」の展示エリアがあります。ここの内容は、時間の関係で、項目の紹介にとどめていました。 手前に「唐車」が展示されています。葵祭に使われる唐車は、これよりも一回り大きな唐車になります。 その向こうには、資料の展示場があり、下鴨の地に住んだこともある、川端康成、谷崎潤一郎に関する資料を中心に展示されています。今回は、夏目漱石についての展示もありました。 漱石は京都を4回訪れています。 2回目の訪問が、1907年3月28日~4月11日で、 京都帝国大学文科大学学長・狩野亨吉に招かれて訪れ狩野宅に泊っています。 名所・旧蹟・行楽地などを見て回り、滞在中に『京に着ける夕べ』を書いています。 そばにある糺の森のことを描写しています。******* 寝心地はすこぶる嬉(うれ)しかったが、上に掛ける二枚も、下へ敷く二枚も、ことごとく蒲団なので肩のあたりへ糺の森の風がひやりひやりと吹いて来る。<略> かくして太織の蒲団を離れたる余は、顫えつつ窓を開けば、依稀(いき)たる細雨(さいう)は、濃かに糺の森を罩(こ)めて、糺の森はわが家(や)を遶(めぐ)りて、わが家の寂然(せきぜん)たる十二畳は、われを封じて、余は幾重(いくえ)ともなく寒いものに取り囲まれていた。 春寒(はるさむ)の社頭に鶴を夢みけり ********ピンボケですいません。 その奥の「三つ葉葵紋蒔絵 お駕籠」 (光が反射して見にくく、説明板の字もピンボケですいません) 一番奥に「儀装馬車」が展示されています。葵祭の前に行われる御蔭祭に実際使用しているもので、今年、たまたま観ることができた御蔭祭で見かけました。ですので、そのときの写真を使ってのご案内もしていました。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/22
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【2017年9月18日(月)】 下鴨神社ガイド第10日目でした。 台風が過ぎ去って、天気は回復方向なので、いつものように四条河原町から下鴨神社まで1時間近くかけて歩くことに。そのため、7時20分頃のバスに乗車。これで集合時間20分前の9時には着けるはずです。ところが、7時40分頃、阪急桂駅に着いて、人身事故で列車が止まっていることが分かりました。事故が起こったのは大阪方面ですが、その影響で京都河原町行きも止まっています。 運転再開は8時5分くらいとのこと。これであれば、河原町からバスに乗れば集合時間に間に合います。ですので、運転再開を待つことに。ところがしばらくして、運転再開は8時25分くらいになるとのアナウンスがありました。これでも、ギリギリ集合時間には間に合います。しかし、8時25分再開が約束されているわけではないので、さらに遅れる可能性もあります。そうなると、集合時間に間に合わないどころか、拝観開始時間に間に合わない可能性もあります。 そこで、別ルートを色々考えました。まず、家内に車で来てもらって、地下鉄のどこかの駅まで送ってもらう方法です。すぐに家内に電話。しかし、今日は剪定の庭師さんが早朝から来るので家を空けられないとのことで断念。 次の候補は、阪急桂駅からバスで京都駅に出て、地下鉄で鞍馬口まで行き、そこから徒歩。すぐにバスがあったとして、下鴨神社到着は9時過ぎ。集合時間に間に合います。バスを待つ時間が長くなると集合時間に間に合わない可能性もあるので、別のルートも検討。JR桂川駅まで約2km歩いて、JRで京都駅まで行って、地下鉄+徒歩。これであれば、集合時間直前か、チョイ遅れくらいで着けます。 このどちらかで行こうと桂駅の階段を下りたら、幸いにも京都駅行きのバスが停まっていたので、さっと乗りました。皆さん代替ルートで乗られていたので、バスは混雑していました。途中、「電車停止で、最悪集合時間に遅れる可能性がありますが、拝観開始には必ず間に合います。」と今日のペアの方に連絡を入れました。 予想通り9時過ぎには到着。十分集合時間(9:20)には間に合いました。今日のペアの方も阪急をお使いですが、ご近所の他のメンバーの方から、「阪急止まってるぞ!!」とのメールが来て、JRで来たとのことで、私より早く到着されていました。 ということで、朝の電車Stopによるバタバタは一件落着。交通費が余分にかかってしまいました。駅で何か証明をもらったらよかったのかもしれません。 三連休最終日で、時々雨がパラパラと降りましたが、概ねお天気もよく多くのお客様にお越しいただきました。涼しくなって、大炊殿のエリアでは蚊に悩まされることがなかったのが幸いでした。●大炊殿エリア その3 大炊殿の東隣の建物は「御井」です。中に井戸があります。大炊殿同様寛永5年(1628)の建築で、重要文化財に指定されています。井戸が重要文化財に指定されているのは、日本全国でもここだけだと思われます。この井戸の水を使って、神饌料理が作られていました。大炊殿の御井側の側面に木の箱のようなものが取り付けられていて、蓋がされていますが、蓋を開けて、そこに水を入れると、台所の方に流れる構造になっています。御井と「水ごしらえ場」(手前)当別拝観エリアの外の駒札大炊殿の黄色の丸の箱に水を入れると、台所に水が流れるようになっている。 そして、御井の前方には大きな石が埋まっていて、平らな表面が顔を出しています。「水こしらえ場」と呼ばれます。末刀の社(まとのやしろ)という水の神様が降臨されるという磐座(いわくら)です。ここに御井で汲まれた水を入れた桶を置いて、若水神事や御薬種神事が行われています。 この御薬酒を造るために薬草もこの庭には植えられています。掲示板に植えられている薬草の紹介がされています。背の高いものでは、「カリン」です。この「カリン」の古木は有名で、この庭は「葵の庭」と呼ばれますが、「カリンの庭」とも呼ばれています。葉の色と同じなので、分かりにくいのですが、私のガイド期間中は、カリンの薄緑色の大きな実がなっていました。咳どめの効果があり、のど飴の原料にもなっています。カリン酒は披露回復の効果があります。 その他,私のガイド期間中には、カワラナデシコ、ヤブランの花が咲きました。カリンの古木カリンの実(撮影9月13日)庭内の「葵の庭(カリンの庭)」の駒札カワラナデシコ(撮影7月28日)ヤブラン(撮影9月13日)(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/18
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【2017年9月17日(日)】 清水寺随求堂勤務第18日目。 清水寺に到着して、朝の準備をしていると、拠点全体責任者の方から携帯に電話があり、「暴風警報が出たら連絡するので、携帯の着信に気をつけておいてください。」との連絡がありました。会の規定で、種々特別警報または暴風警報が出た場合は、勤務を終了し、退勤することになっています。 今日は3連休の中日ということもあり、台風接近にもかかわらず、結構多くのお客様に来ていただいていました。雨も降っていないし、風もそれほど強くありませんでした。これは、いつもの土日以上に忙しくなるかもと思っていましたが、11時40分頃、全体責任者の方から電話があり、「暴風警報が出たので、受付終了して、片づけをして、速やかに帰るように。」という指示がありました。私がガイド中で、携帯着信に気付かなかったので、チームの別の方に連絡が入りました。 すぐに「台風接近により拝観終了」の表示をお守り売り場の方に掲示いただき、受付を終了し、片づけました。それほど天気が悪いわけではないのに、拝観終了となったので、終了直後に来られて入れなかったお客様の中には申し訳なかったのですが。 我々は退勤ですが、清水寺の従業員の方は勤務続行で、本堂は拝観可能のままです。お寺の方に「申し訳ないですが、お先に失礼します。」と、礼を失さないようにして、退勤しました。 公私に忙しい日が続いているので、予期せぬ自由時間ができたという点はありがたかったです。 清水寺有料拝観エリア手前の見所紹介の続きです。●「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」碑 西門下右手の大きな自然石を使った石碑です。元清水寺貫主・大西良慶和上の筆によるもので、「観音経」に説かれている語句です。 命に関わるような非常に危険な苦難に遭遇したとき、その代表的な13を挙げ、「彼の(かの)観音力を念じなさい。そうすれば必ず観音様の絶妙自在な神通力によって即時に助けられ解脱することができる」と説かれています。 碑の裏側には、大西良慶和上による建立の趣旨が漢文で書かれています。昭和39年の本堂大修理、昭和40年の北法相宗創立、昭和42年の本尊御開帳などなど歴史が書かれ、洗心会という京都市民の仏教修養団体での法話に300回出向し、洗心会の施捨で石碑を建て、記念とすると書かれています。昭和42年、和上93歳のときの建立です。 午後早く自宅に戻ったら、長女とベビーと長女の旦那は、名古屋に出発した後でした。明日までいる予定でしたが、台風が来る前に急いで帰ったようです。長女が里帰り出産で帰ってきたのが7月1日。8月12日に出産。2ヵ月半、我が家は賑やかでした。今日からまた家内と二人だけの生活に戻ります。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/17
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【2017年9月13日(水)】 下鴨神社ガイド第9日目でした。 お天気もよく平日にしては多くのお客様に来ていただきました。以前、旧三井家下鴨別邸でのガイドのときお世話になったスタッフの方がお二人見学に来られました。お一人は私が特別参拝所でガイドをしているときに来られたそうですが、気が付きませんでした。失礼してしまいました。 今日は結婚式2組以外に、十二単特別拝観がありました。私が担当のときに、これがあるのは初めてです。三井神社エリアの舞殿で、巫女さんが十二単の着付けを見せ、その後王朝舞を披露します。団体での申し込みがあれば行われ、神社のホームページによると1回4万円の初穂料のようです。1回の時間は30分程度です。 この上演時は、三井神社エリアは立ち入りができなくなりますので、特別拝観所の見学が終わったお客様を、外から回って、大炊殿エリアにお連れしなければなりません。初めての経験でしたが、特に問題なく対応できました。●大炊殿エリア その2 賀茂斎院御所が応仁文明の乱で焼失したときに、大炊殿と呼ばれる社殿も焼失しました。大炊殿は平安時代の「鴨社古図」にも描かれている歴史的な建物でした。賀茂斎院御所は再建されることがありませんでしたが、この大炊殿は江戸時代初め、寛永5年(1628)に再建されました。大炊殿は神様にお供えする神饌を調理する社殿です。今ではここで神饌を作ることはありませんが、昔はここで、主にご飯やお餅などの穀物類を使った神饌を調理し、魚鳥類は別棟の「贄殿(にえどの)」、現在の御供所の一間で調理する慣わしになっていました。 神社建築の中で、この種の社殿が現存するのは非常に珍しく、重要文化財に指定されています。大炊殿 中に入ってご覧いただくこともできます。入り口の土間には竃(かまど=おくどさん)があり、中の間は台所になっており、流し台、用具類、神饌の材料などを置く所です。ここでは「大炊殿神」が祀ってあり、調理を始める前にお祓いが行われました。奥の間は、調理した神饌を盛り付けしたり、ご神前にお供えする前に配膳棚に並べておくところです。ここには神饌料理とはこういうものだというサンプルも置かれています。竈(かまど)(おくどさん)大炊殿の古写真屠蘇(とそ)神饌調理の様子(ピンボケすいません)七五三餅(複製)下鴨神社葵祭神饌(複製)御蔭祭の神饌(写真)御粥祭神饌(複製)賀茂祭舗設図 並仮建物図(かもさいいほせつずならびにかりたてものず)特別拝観エリアの外の駒札(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/13
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【2017年9月12日(火)】 清水寺随求堂勤務第17日目。 未明に激しい雷雨があり(夕刊で、奈良県高田市などで浸水の被害があったと知りました)、鴨川も茶色の濁流でした。 雨はましにはなりましたが、朝から雨天対応で、使い捨ての靴袋を使用。途中で激しく降る場面もありましたが、午後2時か3時くらいには止みました。修学旅行シーズンが到来し、修学旅行生の比率が高くなりました。 途中でトイレに行くため寺務所に向かうと、重そうなリュックを背負って、杖を突いた女性に呼びとめられました。「お寺の方ですか?月照さんの石碑やお墓はどこにありますか?」尋ねられました。月照さんの石碑は、このブログでも紹介したように(こちら)知っていましたので、お答えできましたが、お墓の存在までは知りません。寺務所にお連れして、事務所の方に対応をお願いしました。 持ち場に戻ってお守り売り場の方にお尋ねしたところ、月照さんのお墓は通常の参拝エリアとは離れたところにあるとのこと。清水寺の詳しいガイドブックを見せていただくと、そのように書いてありました。このガイドブックは「京都清水寺さんけいまんだら」という本で、かなり詳しく清水寺のことが書かれています。随求堂のお守り売り場には置いてなくて、ご朱印所や寺務所で販売しているとのこと。 ガイドをしていると、その女性の方が、随求堂に来られました。「ずいぶん遠かったですが、月照さんのお墓もお参りできました。ありがとうございました。」とのこと。このお墓は、子安の塔の前の谷を下ったところにあるので、杖を突いてそこまで行かれ、またこの随求堂まで戻って来られたということです。お足がお悪いのに、重い荷物を持たれて大変だったでしょうに、きっと月照さんに特別な思い入れがおありになるのでしょう。 早速休憩時間に事務所に行ってこの本を買い求めました。お守り売場の方によると、著者は学校の先生で、清水寺の学芸員をされていた横山正幸さんという方だそうです。学芸員をお辞めになる前に、集大成として書かれて本のようです。帰りの電車で読みましたが、本当に詳しいところまで、しかも全ページカラー写真や絵を使って書かれています。これ一冊あれば、清水寺のことはすべて分かるといっても過言ではありません。1500円の価値がある本です。同期のガイド仲間にも紹介するつもりです。京都清水寺さんけいまんだら月照(忍向)の墓所についての記述(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/12
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【2017年9月10日(日)】 清水寺随求堂勤務第16日目。 清水寺随求堂のような固定点は3ヵ月に一度のサイクルで担当が替わります。我々のサイクルは9月で終了で、次の10~12月の方々にバトンタッチをすることになります。 バトンタッチをする前には、次に担当する方々への事前説明会が催されます。今日がその日でした。朝の集合場所には、その説明会に参加される方々も集まられて賑やかでした。 我々もこの事前説明会は3ヵ月前に受けています(こちら)。今日もそのときと同じように始業前と始業直後の仕事の内容を見学された後、ミーティングをされていました。 今日は変化点が一つ。 我々がガイドするのは基本日本語です。外国の方々には、外国語で書かれた案内書を見ていただきます。今まで案内用に用意されている言語は、英語、中国語、韓国語、スペイン語、フランス語、ドイツ語の6ヶ国語でした。ところが結構イタリアからのお客様が多くて、イタリア語も入れると、外国語の案内が読まれる回数の順位は、感覚的ですが、中国語、英語、スペイン語、イタリア語、韓国語、フランス語、ドイツ語の順です。そこでイタリア語の案内が準備され、今日から外国語ガイドの棚に置かれました。 今日は天気の良い日曜日でした。無事に業務を終えることができました。 清水寺有料拝観エリア手前の見所紹介の続きです。●仁王門前の狛犬 清水寺の七不思議の一つになっています。 狛犬は普通「阿吽(あうん)」すなわち口を開いた「阿形」と、口を閉じた「吽形」で一対です。「阿」は宇宙や万物の始まり、「吽」は宇宙や万物の終わりという意味があります。五十音も「あ」で始まり「ん」で終わります。「阿吽」で完結するという意味があります。しかし、ここはどちらも「阿形」で口を開けているので、七不思議の一つというわけです。向かって右向かって左 しかし、もともとは「阿吽」で金銅製だったようです。それが、戦時下の昭和十七年に金属供出のため台座を残して撤去され、昭和十九年に石造のものが再建されたようです。その際に東大寺南大門に設置されている狛犬を模して造られました。東大寺南大門のものは、宋人六郎によって建久七年(1196)に造立されたものとされています。渡来した宋の工人によって造られた、中国式の獅子で、両方「阿形」です。それで、清水寺の現在のものも両方「阿形」になったということです。 台座の裏には、「音羽婦人会」(向かって右側)、「清水普門会」(向かって左側)と彫られています。これら団体による寄進により再建されました。台座背面の刻印(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/10
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【2017年9月8日(金)】 下鴨神社ガイド第8日目でした。 このシリーズ、初の受付担当でした。「京の冬の旅」で今年の1~3月、妙心寺塔頭の養徳院でのガイドのとき受付を2度担当しましたが、それ以来の受付担当です。 当日責任者の先輩の方に、助言、協力をしていただき、慌てながらも、何とか想定時間内で矛盾のない締め作業ができました。 これで3回の受付を経験したことになりますが、ようやく慣れたような気がします。次回からは今回のように慌てることなく、こなせるだろうと思います。●大炊殿エリア その1 賀茂斎院御所、双葉葵 三井神社のエリアの西隣りが大炊殿(おおいどの)のエリアです。このエリアのみ屋外・屋内とも写真撮影自由になっています。 このエリアは「賀茂斎院御所」があったところです。 「斎院」について、まず「斎王(さいおう)」から説明します。斎王は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王(親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)のことです。伊勢神宮の斎王は特に斎宮(さいぐう)、賀茂神社の斎王は特に斎院(さいいん)と呼ばれました。斎宮の歴史は古く、『日本書紀』によれば崇神朝にその嚆矢が認められます。制度的に整ったものが確認できるのは上代の天武朝からです。一方の斎院は平安時代初期に始まり、鎌倉時代、承久の乱後の混乱の中で断絶しました。初代斎院は、嵯峨天皇の有智子(うちこ)内親王。最後の35代斎院は、後鳥羽天皇の皇女、礼子(れいし(いやこ))内親王です。 斎院は、紫野に置かれた斎院御所に滞在しましたが(現在の京都市上京区櫟谷七野(いちいだにななの)神社のあたり)、賀茂祭の期間は、下鴨神社内のこの賀茂斎院御所に滞在したといわれます。斎院制度が廃絶になった後、応仁文明の乱で賀茂斎院御所は焼失し、以降、再建されることはありませんでした。 しかし、この斎院は現在「斎王代」という形で、葵祭に再現されています。 葵祭では、1956年(昭和31年)に斎王にちなみ、斎王代と女人列が創設されました。斎王役は、一般女性から選ばれるので斎王の代理という意味で「斎王代」と呼ばれます。この斎王代は「一般公募」あるいはオーディション等で選ばれません。才色兼備だけでなく、一説によると2000万円と言われる費用を負担できることが条件になります(着る「十二単」の衣装も新調で自前とか)。そのため、京都ゆかりの寺社・文化人・実業家などの令嬢が推薦等で選ばれています。莫大な負担ができる家の令嬢に事実上限られるため、母娘で斎王代、姉妹揃って斎王代とか、祖母・母・子と三代続けて斎王代であるという例もあります。 毎年5月4日には斎王代禊(みそぎ)の儀が行われます。下鴨神社と上賀茂神社両社で隔年交替で行われます。今年は下鴨神社で行われ、斎王代と女人たちが御手洗池(みたらしいけ)に手を浸し清めました。5月15日の葵祭の「路頭の儀」では、斎王代は腰輿(およよ)と呼ばれる輿に乗って、祭の主役の一人を務めます。 この葵祭では、行列に参加する人の衣冠などに双葉葵の葉が飾られます。双葉葵はこの賀茂斎院御所にも自然に豊富に生っていました。しかし、双葉葵は気候に敏感な植物のようで、温暖化などにより、自然に育てることがむつかしくなっています。そのため、現在は上賀茂神社、下鴨神社内だけで賄うのが困難になり、「葵プロジェクト」と称して、全国の学校などに協力してもらって、双葉葵を育ててもらっています。そして、この庭でも賀茂斎院御所の「葵の庭」を再現しようと、双葉葵を植えて庭師さんが苦労しながら育てておられます。葵の庭フタバアオイ (撮影9月13日) もう一つ葵祭に欠かせないのが「カツラ(桂)」の木です。フタバアオイと同じように、ハード型の葉をもち、牛車を飾ったりします。この桂の木もこの庭に植えられています。カツラの木特別拝観エリアの外の駒札 帰宅途中、K歯科に寄り、今回の歯痛の最後の治療をしていただきました。1ヵ月後に点検です。(守秘義務再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/08
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【2017年9月7日(木)】 今日は、清水寺随求堂勤務の第15日でした。 朝から雨がショボショボ降る天気で、一日中雨が降ったり止んだりでしたので、スノコを前にもう1枚加え、靴袋も使い捨ての薄いビニールを使うなど、終日雨天仕様で臨みました。途中で雨脚が強くなったときは、随求堂が雨宿り場所と化して、たくさんお客様がお堂にいるにも拘わらず、胎内巡りをするお客さんはほとんどいないという状態になりました。 修学旅行生の比率が増えてきました。修学旅行生はどうしても賑やかなになり、他のお客様の迷惑になることが多いので、堂内での静粛に気を遣った一日でした。 清水寺有料拝観エリア手前の見所紹介の続きです。●子安塔跡 清水寺参道を上ってきた仁王門前、清水寺に向かって右側の商店街東端に、「子安の塔跡」の石碑が建っています。 今「子安の塔」と「泰産寺」は、は清水の舞台の南側、音羽の滝を谷を挟んだ丘の上にありますが、1911年まではこの地にありました。 清水寺参道の商店街の南側東端に建つ「子安の塔址碑」。 「子安の塔」は聖武天皇と光明皇后が御子の誕生を祈願し安産したので建立されたとの伝説をもち、 塔内に六センチほどの小観音を胎内に宿す千手観音を祀る安産の祈願塔として有名です。洛陽三十三所観音霊場第十四番札所にもなっています。清水の舞台の南側の丘の上に建つ「子安の塔」 清水寺への参道の途中から北に降りる坂道を「産寧坂」と呼びますが、その語源については諸説あります。この坂の上の清水寺にある子安観音へ「お産が寧か(やすらか)でありますように」と祈願するために登る坂であることから「産寧坂」と呼ばれるようになったという説が有力ですが、一方で清水寺に参拝した人がこの坂道を通る際に念願を強くし、願いが叶ったあとで観音様への御礼に再度お参りする時に通る坂であることから「再念坂」と呼ぶようになったという説もあります。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/07
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【2017年8月31日(木)】 清水寺随求堂のガイド勤務第14日でした。 夏休みも既に終わった学校も多い平日だし、修学旅行シーズンではないので、ゆとりをもってご案内できました。 それに何よりも暑さが和らいだのが助かりました。朝、清水寺に上がってくるときもほとんど汗をかかなっかたし、案内中も暑いと感じることはありませんでした。今日の最高気温は30.8度。平年値は32.2度なので、平年より少し涼しめでした。全然疲れ方が違いました。このまま涼しくなっていって欲しいものです。 全国的に夏休みが短くなっているのでしょうか、8月なのにもう修学旅行の生徒を見かけます。しかし、まだまだ少ないので、また外国人の比率が高くなりました。感触的には90%くらいでしょうか。一日楽しく案内をさせていただくことができました。 無料拝観エリアの見所のご案内を続けます。 ●測量基準点標石 清水寺仁王門の縁の北西エリアに設置されています。 明治時代に地図を作るための測量用に設置されました。近くの看板に詳しく説明されています。 基準点は9箇所設置されていましたが、残っているのはここだけとのことです。 いつもなら晩酌ですが、明日の二条城ガイドがあるので我慢。昨日「紙芝居」は完成できたので、夕食後、明日の「しゃべり」の内容を頭の中で整理しました。幸い十分準備する時間があって、準備不足という状態は避けるきおとができました。 明日は天気も良さそうですし、気温も高くはなさそうです。私の案内さえちゃんとできれば、皆さん熱心に聞いていただけると思います。私自身も楽しいガイドができるはずです。がんばります。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/31
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【2017年8月26日(土)】 下鴨神社ガイド第7日目でした。 このシリーズ、初の当日責任者でした。ガイドをしながら見てきた部分も分かっているようで分からないところがありました。うっかり部分もありました。しかし、いっしょに勤務の方々に色々教えていただきながら、何とかこなすことができました。皆さんに感謝です。 特別参拝所で時々立ち見が出るほど、多くのお客様にお越しいただきました。助かったのは、暑さが和らいだことでした。京都の最高気温は31.0度と昨日より、3.5度低かったです。●三井神社エリアでの案内 その2 三井神社 前回紹介した唐門(こちら)を入ったところに鎮座するのが、三井神社です。 三井神社http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/26728344.html 3つの社殿を合わせて三井神社です。下鴨神社の摂社にあたります。摂社とは、主祭神と関係の深い神様をお祀りした神社です。 中社には 賀茂建角身命(かもたけつみのみこと)、東社(向かって右)には伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)、西社には玉依媛命(たまよりひめのみこと)が祀られています。中社と西社は本殿と同じご祭神ということになります。本殿には賀茂建角身命はお祀りされていませんでしたが、この三井神社では、親子三神が並んでお祀りされていることになります。 寛永5年の造替で、国の重要文化財に指定されています。 「山城国風土記」逸文に、蓼倉里三身社(たでくらのさとみいのやしろ)、「延喜式」三井ノ神社(みいかみのやしろ)とある神社です。 奈良時代から平安時代にかけてこのあたり一帯は蓼倉郷(たでくらごう)と呼ばれていました。三身社の三身とは前述の祭神三神のことです。 三井神社の西にある3つのより小さな神社は末社です。神社名とご祭神は、 北 諏訪社(すわのやしろ) 建御方神(たけみなかたのかみ) 中 小杜社(こもりのやしろ) 水分神(みくまりのかみ) 南 白髭社(しらひげのやしろ) 大伊乃伎命(おおいのきのみこと?) 別名 猿田彦神(さるたひこのかみ) です。末社の三社http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/26728344.html 平安時代の下鴨神社社頭絵図・鴨社古図に描かれている神社です。各社の位置などは現在なお変わりません。これらの神社は糺の森を禁足地とし、ご社殿前の斎庭の葵草と苔庭など自然のなかに祀られる、古代神社の姿を伝える貴重な神社です。白髭社には賀茂斎院歴代斎王神霊社(かものさいいんのみたまのやしろ)が合祀されています。歴代斎王の神霊は、元当所の西方にあった賀茂斎院御所に祀られていましたが、文明の乱-1407-により焼失、その後、糺の森の鴨社神宮寺境内に遷座していました。それを、昭和元年頃白髭社に合祀しました。いずれも重要文化財に指定されています。 三井神社、末社の三社とも檜皮葺きの屋根を持った一間社流造です。(以下、2017/9/9追加) 三井神社エリアの南側のガラスショーケースには、いくつか展示物があります。 東側には、明治天皇がご幼少のときに使われた木馬の複製が置かれています。天皇家は明治維新以前は京都にいらっしゃいましたので、明治天皇は幼少期を京都で過ごされました。乗馬を糺の森の馬場でされましたが、その練習用の木馬です。馬の操縦よりも、馬の高さに慣れたり、高い馬に乗る練習用だったと思います。 西側には、3つの横長の絵が展示されています。木の板に描かれた一種の絵馬です。 上2つが明治33年に描かれたもので、上が御蔭祭を描いたものです。御蔭祭は下鴨神社で葵祭(5月15日)に先駆けて5月12日に行われる祭礼です。比叡山の麓、上高野にある下鴨神社の境外摂社、御蔭神社に荒御霊(あらみたま)を迎える神事です。帰りには白い神馬に荒御霊が乗せられて下鴨神社にお着きになります。絵には、荒御霊を載せた白い神馬も描かれています。 真ん中の絵が、葵祭を描いた絵です。斎王の制度は鎌倉時代に廃絶になり、斎王代は昭和31年に創設されたので、この絵には描かれていません。 下の絵は幕末に描かれたもので、文久3年(1863)の孝明天皇の上賀茂・下鴨神社への行幸が描かれています。行幸の目的は攘夷祈願です。攘夷には反対の立場をとっていた徳川幕府ですが、朝廷と手を取り合って国難を乗り切るための公武合体を実現するためには、当時上洛をしていた徳川家茂が、孝明天皇の賀茂行幸のお供をするのもやむを得ないと考えました。絵の中には、孝明天皇の乗った鳳輦や、この徳川家茂、そして後に徳川幕府最後の将軍になる、一橋慶喜の姿も描かれています。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/26
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【2017年8月25日(金)】 清水寺随求堂のガイド勤務第13日でした。学校が始まったところも多く、子供さん、家族連れの方が減ったように思います。京都の最高気温34.5度と、やはり暑い一日でした。 無料拝観エリアの見所ご紹介の続きです。●蜷川虎三氏句碑 ブログ仲間のお一人が蜷川虎三さんを尊敬する人物の一人とされており、清水寺に氏の句碑があると教えてくださいました。過去のガイド関係の訪問時にそれとなく探したのですが、見つけることができませんでした。 今回、朝の集合時間に余裕をもって行くことが多いので、この機会に見つけ出そうと思い、ネットで調べておいて見つけました。 音羽の滝を出口に向かって降りて来ると、大きな十一重塔がありますが、その背後にひっそりと建てられていました。音羽の滝方向への逆行を禁止する表示よりは西側にありますので、拝観券を払わなくても見学できるところにあります。蜷川虎三氏句碑「道はただ一つ その道をゆく 春」(撮影8月9日) 蜷川虎三氏は、元京都府知事。1950年 - 1978年と非常に長く務められました。戦後の京都は蜷川氏とともにあると言っても過言ではないでしょう。私の京都での大学在学時代は氏が知事のときでした。 氏が書かれた「腹の底から憲法でいこう」という本の中には、次のような記述があるそうです。いい人間を育てる道――。「道はただ一つ その道をゆく 春」ってのは、私の句ですが、ただ一つの道、それは昭和二十二年三月三十一日に制定された教育基本法に見るかぎり、まぎれもなく憲法の道である、というのが私の信念です。 蜷川氏と清水寺の大西良慶貫主(共に故人)とは深い親交があった関係でここに句碑が建立されたようです。 ネットで調べていたら、京都市伏見区石田桜木22 (石畑町集会所 前)にも同じ句碑があるようです。 今日は、帰り道に予約してあった歯医者に寄りました。5月に一度右下奥歯が痛くなり、治療をしてもらって、6月にそこそこよくなって定期メンテのモードに戻ったのですが、7月にまた痛くなり、治療再開。今回は同じ右下奥歯ですが、原因となる場所が前回とは少し違ったようです。現状では、両方の歯で噛んでもほとんど痛みを感じないところまで快復しました。来週もう一度来院してOKであれば、定期メンテナンスのモードに戻ります。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/25
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【2017年8月23日(水)】 下鴨神社ガイド6日目でした。順調に一日終えることができました。 前回「蚊」対策で買った「どこでもべ―プ」を持って行くのを忘れ、今日は大炊殿のガイドで蚊にやられました。この「どこでもべ―プ」気休めだという人もいますが、やはり効果があるようです。次回忘れずに持って行かねばなりません。 今日の京都の最高気温は34.7度。猛暑日にはなりませんでしたが、暑い一日でした。特別拝観エリアの御案内の続きです。●三井神社エリアでの案内 その1 唐門 本殿エリアの西に三井神社のエリアがあります。 三井神社エリアへは、唐門から入ります。唐破風を持っているので、唐門と呼ばれます。約400年前の寛永5年(1628)に造り替えられた門で、重要文化財に指定されています。欄間に掘られた「葡萄」、格子の凝った造りが見所です。 この欄間の「葡萄」は「エビカズラ」という野性の葡萄です。日本神話にこんなお話があります。 イザナギノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉冉尊)は「国生み」(日本国土創世)をした。しかし、イザナミノミコトは、火の神を産んだために火傷を負って亡くなった。イザナギノミコトは、イザナミノミコトに逢いたい気持ちを捨てきれず、黄泉国(よみのくに)まで逢いに行った。そこで「決して覗いてはいけない」というイザナミノミコトとの約束を破って見てしまう。イザナギノミコトが見たのは、腐敗して蛆にたかられたイザナミノミコトの姿だった。その姿を恐れてイザナギノミコトは地上へ向かって逃げ出した。そのとき鬼に追いかけられ、身に着けていた髪飾りを鬼に投げつけるとそれがエビカズラの実に変わり、鬼から逃げることができた。 このお話から、欄間にエビカズラを持つ唐門を潜ったということは、お祓いを受けて、本宮から三井神社のエリアに入ったということになると云われています。唐門http://www2q.biglobe.ne.jp/~kamada/yomoyamabanasi/01664simokamo.htm(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。) -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/23
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【2017年8月20日(日)】 清水寺随求堂のガイド勤務第12日でした。順調にご案内できました。今日も、京都の最高気温は35.3度と暑い一日でした。 無料拝観エリアの御案内の続きです。 前回、近藤正慎顕彰碑を紹介しました。今日は、もう一人幕末期、清水寺に忠義を尽くした人物、大槻重助を紹介します。 ●大槻重助 天保9(1838)年~明治26(1893)年。江戸時代末期・明治期の僧月照の僕。 安政の大獄が起こると月照に従い薩摩入りします。月照上人の入水後、その遺品を京都に持ち帰った重助は、京都に戻った後、捕えられ、六角牢獄につながれます。そこで同じく獄中にあった信海上人と再会。信海上人は後に江戸に送られ、伝馬町牢内で病死するのですが、このとき重助は、信海から後事を託されます。 重助はやがて解放され、一旦は生まれ故郷に帰ったものの、再び清水寺に戻ります。生涯、月照・信海両上人のお墓を守り続け、清水寺で夫婦でささやかな茶店を開くことが許されました。 明治7年(1874)の、月照上人の17回忌の際には、薩摩で西郷隆盛から上人を悼む漢詩を託されます。以前紹介した、境内北総門の北にある「月照上人・信海上人慰霊碑」のうち、向かって右にある石碑に、西郷の詠んだ「相約して淵に投ず」の漢詩を見ることができます。 顕彰碑がその「慰霊碑」の左側手前に立ち、西郷隆盛の弟、西郷従道による篆書が刻まれています。 上記の茶店は、開店当初は名前もなくかなりみすぼらしい茶店だったようです。現在、音羽の滝を下ったところの茶店「忠僕茶屋」がそのお店です。大槻重助の顕彰碑(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/20
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【2017年8月14日(月)】 清水寺随求堂のガイド勤務第11日でした。 やはり夏休み、お盆ということで、お客様も多く、日本人の構成比が高かったです。 人数が多いと遠くのお客様にもお聞きいただけるよう大きな声を出さなければなりません。またしゃべる合計時間も長くなります。今日は、声が途中で枯れ気味になることもありました。唯一助かったのは、気温がそれほど高くならなったことです。京都の最高気温は31.9度でした。 今日から3日間は、夜間拝観もあります。清水寺本堂の拝観料は同じ(大人400円)ですが、一旦通常拝観を締め切ってお客様に出ていただいたうえ、18:30からの入場で、受付は門前になるそうです。随求堂も開けるとのことです。 本堂の夜間拝観は一度観たいとは思いますが、ベビー誕生、9月1日二条城ガイドの準備もあるので、来年にします。 随求堂勤務の日記のあと、有料の本堂エリアに入るまでの、スポットを案内しています。 ●近藤正慎顕彰碑 前回の随求堂第10日で信海・月照歌碑と西郷隆盛詩碑について書きました(こちら)。この近藤正慎顕彰碑は、その区画内東側に、それらの碑に寄りそうように建っています。 近藤 正慎(しょうしん)(文化13年(1816)- 安政5年(1858年))は、江戸時代末期の尊王攘夷運動家で、清水寺寺侍。丹波国桑田郡(現・京都府)生まれで、京都清水寺成就院で出家し、兄弟僧であった月照を支援し尊攘運動に身を投じました。 安政の大獄に連座して捕縛され、六角獄舎において、月照の行方について拷問を受けながら問われましたが、全く白状せず、獄中で舌を噛み切って壁に頭を打ちつけて自害しました。この碑はその近藤正慎を顕彰したものです。明治維新後、従五位に列せられたため、そのことが刻銘にも表されています。 清水寺はこの近藤正慎の功績に報いるため、遺族や家族たちの生計になればと、境内茶屋の開設権利を与えました。その家系が営む茶屋は「舌切茶屋」と呼ばれるようになりました。現在の茶屋はいずれも4代目によって営まれ、音羽の滝から出口に向かう道の左側で、お参りを終えた参拝者の憩いの場として、賑わいをみせています。 近藤正慎の孫に陶磁器の人間国宝である近藤悠三、曾孫に俳優の近藤正臣がいます。 近藤正慎のお墓は、東山通を霊山護国神社に向かって東に入って、南側の青龍寺にあります。 今日は、長女のベビー誕生3日目です。名古屋の旦那のご両親が、車で赤ちゃんに面会に来てくださいました。家内が高槻の実家のお墓参りがあり、午後3時以降しか、病院に行けないので、わざわざその時間に合わせてくださいました。しかし、お母様は旅行好きなので、早めに来て、まず車で将軍塚に行かれ、車を病院に置いて、電車で嵐山に行かれたとのことでした。 私は仕事を終えた後、家内に最寄駅まで迎えに来てもらって面会に行きましたが、ご両親はお帰りになった後で、お会いできませんでした。 昨日は、手で顔をかくためか、顔のところどころが赤くなっていましたが、きょうはキレイになっていました。毎日、なんのかんのと心配してしまいます。(守秘義務再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/14
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【2017年8月11日(金)】 清水寺随求堂のガイド勤務第10日でした。 今日は、金曜日ですが、「海の日」で祝日。そのことを失念していて、朝、平日ダイヤのバスの時間で支度して、バス停に行って気が付いて一旦家に戻りました。帰りも、土日祝日は五条通バスがちょうどいいのがないので、阪急四条河原町経由で帰るのですが、やはり失念していて、五条坂方面に下ってしまって遠回りをしてしまいました。まだまだ土日祝日なのに平日と間違うことが多くあります。基本的に土日祝日は勤務日でなかったサラリーマン時代の習性が身にしみついているようです。 祝日、夏休み、千日詣りが重なり、多くの方に拝観いただきました。日本人の構成比が、推定ですが6割から7割と非常に高ったです。お盆時期は、宿泊料も特別料金になるので、海外からの観光客が避けるためだと思います。 そして今日も暑い一日でした。京都の最高気温は、35.6度と連日の35.5度超えです。昨日の35.5度超えた日のリストに今日のデータを加えると、 8月6日 36.7度 随求堂勤務 9日 35.7度 随求堂勤務 10日(昨日)35.8度 下鴨神社勤務 11日(今日)35.6 随求堂勤務 35.5度超えの日すべてが勤務日という悲惨な状況が続いています。 無料拝観エリアの見所紹介の続きです。●信海・月照歌碑、西郷隆盛詩碑北総門の北にこれら3つの碑があります。信海辞世の歌 (左歌碑) 西の海 あずまのそらと かわれども こころはおなじ 君が世のため月照辞世の歌 (中央歌碑) 大君の 為には何か 惜しからん 薩摩の迫間(せと)に 身は沈むとも西郷隆盛 (右詩碑) 相約投淵無後先 豈図波上再生緑 回首十有餘年夢 空隔幽明哭墓前 (相約して淵に投ず後先なし あに図らんや波上再生の緑 頭を回らせば十有余年は夢 空しく幽明を隔てて墓前に哭す) 月照(1813~58)は、幕末期の尊皇攘夷派の僧侶。清水寺成就院に入り、天保6年(1835年)、成就院の住職になりました。しかし尊皇攘夷に傾倒して京都の公家と関係を持ち、西郷隆盛とも親交がありました。安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出して西郷の故郷である薩摩藩に逃れました。ところが、薩摩国に命を狙われていることを悟って死を覚悟し、西郷と共に錦江湾に入水しました。月照はこれで亡くなりましたが、西郷は奇跡的に一命を取り留めました。享年46でした。清水寺では月照の命日である11月16日に「落葉忌」として法要を行っています。 信海(1821~59)は月照の弟で,成就院の住職を継ぎましたが,青蓮院宮のために攘夷祈願をして捕えられ,江戸で獄死しました。41歳でした。 入水から命を拾い、その後維新の立役者となった西郷隆盛が月照の死を悼んで捧げた弔詩が、月照の碑の横に刻まれています。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/11
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【2017年8月10日(木)】 下鴨神社ガイド5日目でした。 五条通バス+徒歩+205番バスで出勤予定でしたが、五条通バス乗車中に催したので、西京極競技場前バス停で緊急降車。用を済ませて、阪急で西京極から河原町へ。京阪で祇園四条から出町柳で何とか緊急事態を乗り切りました。 さらに改良した紙芝居を今日から使いました。 変更点は ・印璽社と叉蔵の説明を加えた ・三井神社の説明の中に、末社3社の名前を加えた ・御蔭祭の写真を加えた ・斎王代の写真を加えた ・御井の神事の写真を加えた ・葵祭の唐車と御蔭祭の偽装馬車の写真を加えた。 そして、叉蔵の説明で「瓦葺が奈良の正倉院と違う点」ですと説明していましたが、これは間違いということに気付き、「正倉院は寄せ棟造り、こちらは入母屋造り」と訂正しました。 「蚊」対策で買った「どこでもべ―プ」(こちら)を今日初めて使いましたが、効果はあったようで。蚊に悩まされることはありませんでした。 この夏、京都の最高気温が35.5度を超えたのが過去3回。8月6日36.7度、9日(昨日)35.7度、10日(今日)35.8度。全部勤務日です。ついていません。今日も暑さが厳しい一日でした。●特別参拝所での案内 その3 本殿とその他の社殿 特別参拝所からは、本殿を斜め前から全体を観ていただくことができます。本殿エリアは撮影禁止のため下記から拝借。http://www.asahi.com/and_M/information/SDI2016031009031.html 東本殿、西本殿とも、南向きに建っており、全く同じ大きさ、同じ形をしています。屋根は檜皮葺で、反りをもっていて、切妻屋根の正面だけを長く伸ばして向拝にしています。こういう神社建築様式を流造(ながれづくり)あるいは片流造といいます。全国の神社本殿のうち、6割から7割がこの流造になっていて、標準的な造り方です。しかし、両本殿は幕末の文久3年(1863)に造り替えされたもので、古式をよく伝える代表例として国宝に指定されています。母屋正面の柱の間が3つあるため、詳しくは三間社流造と呼ばれます。 それぞれの本殿の縁には、向かって右に口を開いた金色の獅子、左には口を閉じ、角を生やした銀色の狛犬が、魔除けのために置かれています。阿吽(あうん)の獅子と狛犬です。金と銀は陰陽を表しています。 一般的な神社ですと、鳥居の前に石造のものが置かれているところが多いですが、下鴨神社では鳥居の前には、このような獅子・狛犬は置いてなくて、このように本殿の縁に置かれています。ただ、他の神社の鳥居の前の石造のものも、このような獅子と狛犬の組み合わせが一般的ですので、他の神社を訪問時に観察するのも面白いです。 神社では、神様に新しい神殿にお住みいただくための遷宮が行われることがあります。定期的に行われるのが、式年遷宮です。有名なのが伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮です。全く新しい社殿を建てて、そこに移り住んでいただくというものです。 下鴨神社では、平安時代の中ごろに21年に一度の式年遷宮の制度が確立しました。しかし、現在本殿2棟は国宝であり、他の社殿も53棟は重要文化財の指定を受けている関係で、すべてを新しくすることができなくなり、近年は社殿の建て替えは行わず、傷んだところを修復するかたちでの式年遷宮となっています。 一昨年、第34回目の式年遷宮が行われ、きれいな檜皮葺の屋根や色鮮やかな塗りを観ていただくことができます。●特別参拝所での案内 その4 印璽社・叉蔵 西本殿の西側の小さなお社は「印璽社(いんじしゃ)」です。「霊璽社(れいじしゃ)」とも呼びます。 御祭神は印璽(いんじ)で、印鑑、契約の神様です。その業界の方々のお参りの多い神社です。毎年秋には「印章祈願祭」が行われます。全国の印章業者の祈願祭で、古い印鑑を埋納する神事が行わます。社殿は重要文化財です。印璽社http://tabiseto.com/simogamoinjisya.html 印璽社の西隣の建物が「叉蔵(あぜくら)」です。奈良東大寺の正倉院と同じ校倉(あぜくら)造で、目的も同じで宝物が保管されています。同じ「あぜくら」ですが、漢字が違うのと、正倉院は屋根が寄棟造ですが、こちらは入母屋造になっています。やはり重要文化財です。叉蔵http://okutanigumi.jp/simogamoh15.html 下鴨神社勤務後、先日延期となった定例会があり出席しました。→こちら(守秘義務再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/10
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【2017年8月9日(水)】 清水寺随求堂のガイド勤務第9日でした。 朝、今日の勤務者が集まったときに、この前の台風のときの勤務はどうだったかを確認したのですが、一旦出勤したのですが、10時半頃お寺の方から、「帰宅してください。」との指示が出て帰宅したそうです。 今日から16日までは「千日詣り」で、いつもより多くの参拝客があるので、特別体制です。暑さがきびしかったですが、特別体制だったので、何とか乗り切ることができた感じです。夏休みで、かつお盆も近づき、日本人のお客様の比率がさらに増えて、半分くらいになったのではないかと思います。 途中で千日詣りも参拝させていただきました。いつもは、舞台側(南側)から本堂に上がりますが、「千日詣り」期間中は、本堂西側から上がって、いつもは入れない内々陣をぐるっと一周して、また西側から出てきます。「千日詣り」期間中、我がガイド会のメンバーが勤務していますので、多くの仲間に会いました。いつも置いてある「弁慶の下駄・錫杖」は、出入り口の位置にあるので、撤去されていました(別の場所にあったのかもしれませんが)。 「千日詣り」は初めてです。蝋燭を買い求め、家内安全祈願・長女の安産祈願を記入し、献じさせていただき、お札をいただいてきました。いつもは遠くから拝ませていただいている御前立の観音様や周りの仏様も、今日はかぶりつき(言葉が不適切ですが)で参拝させていただきました。●清水寺の「千日詣り」とは 清水寺HPから 千日詣りは、一日の参詣が千日分の功徳に相当するとされています。この風習は観音信仰の広まりとともに誕生し、古くから観音さまの功徳日として広く人気を集めました。大慈大悲の心であらゆる願いや悩みに耳を傾け、その苦厄を取り除こうとされる観音さまの慈愛を感じることができる一日です。期間中は本堂内々陣の特別拝観や夜間拝観などもおこなわれます。お札 帰りに、今まで津軽三味線レッスンに行っていた十字屋カルチャーセンターに寄りました。耐震工事で場所が河原町御池に移るので、その最初の会の会費支払いと、以降の自動引き落とし手続きのためです。もう1回、8月が四条河原町で、9月から河原町御池になります。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/09
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【2017年8月6日(日)】 清水寺随求堂のガイド勤務第8日でした。 今日は全国的にこの夏一番の暑さで、朝の準備を終えた時点で汗だく。やがて少し汗は引きましたが、京都も午後2時過ぎには、この夏一番の最高気温36.7度を記録。再び汗まみれでした。 暑い中、他の勤務の方々とお互いの体調を気遣いながら楽しくお仕事をさせていただきました。夏休みに入った日曜日で、日本人の比率が高かったように思います。 帰る頃、夕立に遭いそうでしたが、幸い阪急四条河原町まで歩く間は降らず、桂駅に向かって電車に乗っているときにどしゃ降り。そして桂駅に着くころ止み、バスに乗っているとき、再びどしゃ降り。そしてバスを降りる頃には止むという、貧乏クジを引きがちな私には珍しく超ラッキーな通勤帰途でした。 清水寺無料拝観エリアの見所紹介の続きです。●「虎の図の石灯籠」 清水寺の七不思議の一つです。仁王門をくぐった右手、西門の下の広場の南側、あまり目立たないところにあります。火袋を穿った自然石を置いただけの簡素なもので、形は一般的な石灯籠とは異なります。 この石灯籠の正面には虎の絵が彫られていますが、どこから見ても、虎と目が合ってしまうことから、「八方睨みの虎」と呼ばれています。 この虎の絵は、江戸時代後期の画家「岸駒(がんく)」によって描かれたものです。当時、日本には虎はいなかったため、岸駒は虎を描くにあたって、中国の商人から虎の毛皮や頭蓋骨、四足などを取り寄せ、様々な角度から写生することによって、当時、日本人で誰も見たことのない虎の姿をかなり忠実に描いたと言われています。 彫りが長い年月で削られ、今はその姿はよくわかりません。しかし、描かれた当時はまるで生きているかのようだったそうです。そのため、夜な夜な吠えたり、池の水を飲むために毎晩、石灯籠から抜け出したと伝えられています。 昨日から名古屋から来ている長女の旦那は、私が帰宅した後、名古屋に戻りました。昼間長女といっしょに桂川イオンに買い物に行ったそうです。この週末は、すでにベビー誕生しているはずなので、また来てくれるようです。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/06
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【2017年8月2日(水)】 下鴨神社ガイド4日目でした。 今日も朝は、四条河原町から、小一時間歩いたのですが、前回汗だくの経験をしたので、今日は、ラフな格好で現地まで行って、ガイドが始まる前に着替えるということをしました。正解でした。汗だくではない状態でガイドを開始することができました。平日で、「みたらし祭」も終わった後なので、境内にも落ち着きが戻っていました。 この時期の大変なのは暑さはもちろんですが、もう一つあります。「蚊」です。一番奥の大炊殿のエリアは樹木が多いエリアで「蚊」が多くいます。ガイド仲間の多くは、携帯用の虫除け器を着けておられます。聞いてみますと効果があるようです。私は今まであまり悩まされることがなかったのですが、今日はやられました。帰りに自宅最寄り駅で、バス待ちの時間があったので、ドラッグストアで「どこでもべ―プ」を買い求めました。880円也。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/02
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【2017年7月29日(土)】 清水寺随求堂のガイド勤務第7日でした。 朝、烏丸五条から歩くにしても、四条河原町から歩くにしても、清水寺に着いたら、汗だくです。勤務は支給された清水寺のTシャツを着てするので、朝来てきた服は勤務中ハンガーにかけておくのですが、帰りに着替えるときに、汗が乾かないこともあるので、今日から着替えを持っていくことにしました。 夏休みに入った土曜ということで、日本人の比率は半分程度と、今までに比べ日本人の比率が高かったように思います。今日は、夕立に降られることはありませんでしたが、蒸し暑い一日でした。無事、勤務を終えることができました。 清水寺無料拝観エリアの見所紹介の続きです。●景清爪形観音(かげきよつめがたかんのん) 清水寺の七不思議の一つです。 随求堂の前、三重塔の前の石段を上がるところに燈籠があります。この燈籠の火袋の奥にある火穴の奥面に、観音像が線刻されているといいます。 壇ノ浦で滅亡した平家の侍大将に悪七兵衛景清という豪の者がいました。景清は落ちのび、清水寺付近に潜伏し、源頼朝の命を狙っていました。彼が打倒源氏を願って心魂込め、自分の爪で石に観音を刻んだという伝説があります。 石も黒っぽく、火穴も小さいため暗くて見えませんが、晴天時には、まれに一部が見えるという説もあります。お天気に恵まれたら、ぜひお試しを。写真右の燈籠です。 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/07/29
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【2017年7月28日(金)】 5連続ガイドOFF日が終わり、久しぶりの勤務でした。 今日は、下鴨神社勤務の3日目。五条通を通るバスに乗り遅れ、桂駅行きバス+阪急で四条河原町に出て、歩きました。温度はそうでもなっかたと思うのですが、湿度が半端ではなく、着いたら汗だくでした。 みたらし祭が、7月22日(土)~30日(日)の期間行われており、「足つけ神事」に多くの方が訪れらています。 湿度が高く、午後からは日差しも強くなって、暑かったですが、帰る頃になって夕立になり、傘を持っておられないお客様が、特別拝観エリアから出るに出られず閉門を遅らせました。特別拝観エリアの御案内の続きです。●特別参拝所での案内 その2 神社の名前の由来と葵祭 上賀茂、下鴨の両神社は、鴨川の上流・下流の位置関係からそのように呼ばれています。同じ「かも」ですが、上賀茂神社は「賀茂」と書き、下鴨神社は「鴨」と書きます。「かも川」も一般的には、高野川と合流する鴨川デルタより上流を「賀茂川」と書き、下流を「鴨川」と書き、神社の名称と同じ関係になっています。神社の名前が先にこうなっていて、川の名前もこうなったようです。 しかし、上賀茂神社、下鴨神社という呼称はいずれも通称であって、正式には下鴨神社を賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)といい、上賀茂神社を賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)といいます。賀茂別雷神社は、ご祭神の名前からの名前であり、賀茂御祖神社は、賀茂別雷命の母と祖父、すなわちご先祖がご祭神になっていることからの名勝です。上賀茂神社を上社、下鴨神社を下社、両社を合わせて賀茂社ともいいます このように、神社のご祭神は日本神話と深くかかわっていますが、神社としての歴史は紀元前にさかのぼります。紀元前90年の崇神天皇(すじんてんのう)の時には、早くも朝廷による神社施設造り替えの記録があることから、それ以前の古い時代から祀られていたものと思われます。先年、糺の森の発掘調査で弥生時代の住居跡や土器が発掘され、そのことが裏付けされました。 上賀茂神社、下鴨神社、両社の祭祀が、有名な葵祭です。昔は賀茂祭と呼びました。毎年5月15日に行われています。御所を出発した行列は、下鴨神社に立ち寄り、儀礼をおこなった後、その日のうちに上賀茂神社に向かい、やはり儀礼を行って、そこでお祭が終わります。 勤務後歯医者でしたが、勤務終了がいつもより遅れたので、予約していた時間に間に合いませんでしたが、診ていただきました。私自身も、柔らかいものは両方の歯で食べることができるようになったし、先生からも腫れが軽くなっているとことでした、1週間後にまた診察していただきます。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/07/28
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【2017年7月22日(土)】 随求堂での6回目の勤務でした。 今日は、日差しはそれほど強くなかったですが、蒸し暑かったので、こまめに休憩をとるようにしました。お客様の状況、環境を見ながら、臨機応変の対応です。 いただいた拝観料の中に100ウォン硬貨を1枚発見しました。500ウォン硬貨は日本の500円と同じ大きさのようですが、100ウォンは100円より少し大きいです。しかし、100を刻んだ側のデザインは酷似しており、注意していないと見分けはむつかしいと思います。引き継ぎ事項で注意喚起しておきました。 帰りは、烏丸五条からバス1本で帰ろうとしましたが、土曜日でバスがその時間ないことに、五条坂バス停付近まで来て初めて気付きました。暑い中、余分に歩いて四条河原町まで行き、阪急+バスで帰宅しました。まだまだ土日休日の失念があります。●随求堂のご本尊と胎内めぐり 随求堂のご本尊は大随求菩薩です。大随求菩薩は密教における菩薩の一尊で、観音菩薩の変化身とされ、胎蔵界曼荼羅の蓮華部院におられます。「随求」とは「人々の求めや願いに随(したが)って、その求願を叶えてくださる」ご利益絶大な仏様とされています。大随求菩薩 しかしながら随求堂の大随求菩薩は秘仏となっていて、直接お姿を見ることはできず、外陣の外から御前立での参拝になります。しかし、地下にはこのご本尊のお腹の中に見立てた真っ暗な回廊があり、その中を巡ることができます。 真っ暗な回廊を左手で数珠を触りながら進みます。無明解脱の道です。何度か角度を変えながら進むと、ほのかな光の中に、大随求菩薩のシンボル文字(梵字)「ハラ」を表した、菩薩の分身の石「随求石」が見えます。その石を回し、あるいは手を置いて一つだけ願い事をし、新たな気持ちで再び陽の光と出会います。随求石 平成12年(2000)、清水寺のご本尊ご開帳が行われた際、記念事業として行われ、それが現在まで続いています。本堂に向かう途中にあり、拝観料も100円(小学生以上)なので、多くの方が、この胎内巡りを訪れます。修学旅行生にも人気です。外国人向けのガイドブックにも載っていて、外国人観光客も多く訪れます。 本当に真っ暗で、経験したことのない暗さに皆さん感動して出て来られます。随求石に出会った後、手を数珠から離してしまって、入口に戻って来られる方もおられるし、あまりの暗さに恐怖心から進むことができず、あきらめて入口に戻って来られる方も多くいらっしゃいます。子供さんは泣き出すこともあります。そして特に修学旅行生は興奮して大声をあげることも多く、静かにお参りするよう促すのも我々の役目です。他の方に迷惑をかける恐れがある場合は、止むを得ず、制止をしに回廊に降りることもあります。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/07/22
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【2017年7月21日(金)】 「京の夏の旅」下鴨神社の第2日でした。 初日よりはリラックスしてできました。暑い一日で、体力的には厳しい一日でした。 いっしょに勤務をいただいた先輩から、大炊殿の立ち位値は、常に出口が見える位置でとの指導を受け修正しました。 これから下鴨神社の勤務を投稿するとき、我々が案内する内容を紹介していきます。 まず特別参拝所です。拝観券を購入いただいた後の、最初の案内場所です。本殿は、通常参拝いただくところからもご覧いただけますが、この特別参拝所では、2つの本殿を南南西の方向からご覧いただけ、正面から見ていただくよりは、全貌がよく分かっていただけると思います。そして、エアコンが効いていて、この季節ホッと一息ついていただける場所でもあります。 特別参拝所では、下鴨神社の由緒と、本殿を中心に7分~10分程度でご案内します。●特別参拝所での案内 その1 下鴨神社の由緒 特別拝観所から左手奥に見える二棟が下鴨神社の本殿です。手前の方が西本殿で、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祀られています。 奈良時代に編纂された「山城国風土記」によりますと、今の宮崎県、日向の国、高千穂峰に降臨された賀茂建角身命は、神武東征の際、神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導しました。これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を頂きました。 神武天皇在位中は大和の国、葛城にいて天皇を補佐し、天皇が亡くなられた後は南山城の岡田の賀茂に閑居していましたが、その後木津川を下り、鴨川に沿って北上し、今の下鴨神社辺りに落ち着いたとされています。 その後、賀茂建角身命は丹波の国の神、伊可古夜日女命(いかこやひめのみこと)を娶り、玉依媛命(たまよりひめのみこと)をもうけます。東本殿には、その玉依媛命が祀られています。すなわち、親子で両本殿にお祀りされているということになります。 玉依媛命が鴨川で川遊びをしていると、上流から丹塗りの矢が流れてきたので、それを持ち帰り枕元に置いて休んだところ、まもなく身ごもり、男の子を生んだそうです。お父さんは誰か分かりません。やがてその子が成人になったとき、外祖父の賀茂建角身命は神々を呼び集めて七日七夜の宴を催し、そしてその子に向かって「お前の父と思う人に、この酒を飲ませなさい。」と言います。子は盃を捧げたまま、屋根を突き抜けて天に昇って行きました。天上の雷神(火雷神(ほのいかづちのかみ))が父とわかり、子は若い雷の神という意味で賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)と名付けられました。そして、上賀茂神社本殿の祭神として祀られています。 このように上賀茂神社、下鴨神社の本殿には、三代にわたる神様が祭神としてお祀りされているということになります。ここで使う私製「紙芝居」。当初作成のものから字を大きくしました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/07/21
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【2017年7月20日(木)】 随求堂での5回目の勤務でした。初の当日責任者でした。無事務めることができました。 修学旅行が終わり、夏休みが始まる前の平日ということもあり、直観ですが、拝観者のうち95%が外国人観光客ではなかったかと思います。この随求堂の胎内巡りは2000年に始まり、そのときから我がガイド会が案内を担当しているようですが、この外国人比率は、古い先輩方にとっては、隔世の感があるのではないでしょうか。 本堂より早く、午後4時で拝観終了ですが、太陽が低くなってきて、西日が持ち場の近くまで来ていました。これからの遅い午後の暑さが思いやられます。●随求堂の建物 堂は前堂と後堂、それを繋ぐ相の間で連結した構造。前堂が外陣部分となります。 前堂は楼閣風で下層の軒下正面には、盛松権体師の筆になる「随求殿」の横額がかかっています。 千鳥破風の正面白壁には、珍しいこて絵の龍が描かれています。 後堂は内陣で、ここにぱ秘仏ご本尊の大随求菩薩を納めた大厨子があります。相の聞には清水型千手観音、十一面千手観音、大聖歓喜天などが祀られています。 地下部は「胎内めぐり」となっていて、ここの案内を我がガイド会が担当しています。外陣・内陣ともに非公開ですが、外陣の外から、外陣や内陣をご覧いただき、参拝をしていただくことはできます。 随求堂の左手(北側)に旧慈心院の空き地広場があり、ここに『中興堂』があります。京都清水寺の貫主を務められた大西良慶和上(1875-1983)をおまつりしています。良慶和上の十三回忌の平成七年(1995)に建立発願され、同九年に落慶しました。中尊寺金堂風の宝形造りで清水寺では新しいお堂です。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。) -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/07/20
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【2017年7月17日(日)】 「京の夏の旅」下鴨神社の初日でした。特別公開はすでに7月8日からスタートしていますが、私の勤務今日が初日です。7~9月は清水寺随求堂が月に7日程度、下鴨神社が月に4日程度の勤務になります。 交通機関は、今朝は、五条通を通るバスで烏丸五条まで行き、そこから歩いて五条河原町へ。そして市バス205番の反時計回りで、下鴨神社前で降りました。確か1時間15分程度で着いたと思います。往きはこのルートにしようと思います。帰りも平日はその逆ルートにしようと思いますが、土日は五条通を通るバスの本数が1時間に1本になるので、今日は、市バス205番を四条河原町で降り、阪急+京阪京都交通バスで帰りました。 ガイドの方は、用意した紙芝居を使って、ほぼ標準説明内容に沿って説明しました。最初はやはりたどたどしさがありましたが、次第に慣れ、午後からは、ほぼ問題なくできました。 昼食時の対応や交替時間の調整で一部反省点もあいましたが、何とか一日終えることができました。そして暑い一日でした。祇園祭前祭の山鉾巡行の日で、京都が最も熱くなる一日でもありました。夕立がありましたが、バスに乗った後だったので助かりました。 特別拝観の範囲1:西本殿、2:東本殿 3:霊璽社 4:叉蔵(あぜくら) 14~19:三井神社、唐門 20:大炊殿 (内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/07/17
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【2017年7月16日(日)】 随求堂での4回目の勤務でした。交通費が余計にかかりますが、この暑さと体力を考え、朝は五条烏丸から歩く(交通費片道300円)のでなく、四条河原町から歩きました(430円)。 休みの日は、家族連れが増えるためか、日本人の比率が多少上がるようです。それでも、外国人の比率は50%超だと思います。 作業、案内ともほぼ問題なくできるようになりましたが、今日は夕刻にわか雨が降ってきて、私にとって、初めての雨天対応となりました。先輩方に教えていただいて、雨天対応も把握することができました。 朝の随求堂。西面しており、朝日を背にしています。●随求堂の歴史 随求堂は、清水寺塔頭の一つであった「慈心院」の本堂にあたるところです。 慈心院は、もとは室町時代以前から「轟坊」の名で存在しました。桃山時代、太閤秀吉が特に信心篤く、後継男子の出生を祈願し、寺領を寄進して、「慈心院」となりました。 江戸時代に入ると、執行職(住職)の宝性院に次ぐ寺第二の役職・目代職の有力塔頭となりました。しかし、その後衰微します。江戸時代中期、享保年間、慈心院を建て直すため、大坂和泉の安楽寺の盛松権律師という僧が、享保3年(1718)清水寺に入寺しました。盛松権律師は塔頭慈心院の復興のため、享保20年(1735)、本堂として随求堂を再建しました。ご本尊大随求菩薩は同18年(1733)に開眼供養して祀られました。 ところが、慈心院そのものは明治の廃仏毀釈の波をこうむり、なくなってしまって随求堂のみが残ることになりました。 帰りは、まだ雨が降っていたので、四条河原町まで歩き、阪急+バスで帰宅しました。 帰宅したら、長女の旦那が名古屋に帰った直後でした。家内と長女と旦那で、安産祈願で有名な梅宮神社にお参りして、やはり初ベビーの次女の安産お守りを買ってきたとのことでした。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/07/16
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【2017年7月15日(土)】 7~9月の固定点ガイドは2つ。通常固定点の清水寺随求堂と「京の夏の旅」の下鴨神社です。清水寺随求堂は連続的にガイドがありますが、「京の夏の旅」は7月8日から始まり、9月30日まで。私の初勤務は7月16日となっています。2日後に初日を迎えるので、今日、下見に行ってきました。 通勤経路も考慮して、五条通を通るバスで行って、西大路五条で降りて、時計回りの205番のバスに乗り継ぎ、下鴨神社前で降りました。片道1時間半かかりました。時計回りのバスだと歩く距離は少ないですが、遠回りになるので、時間がかかったようです。五条通を通るバスで烏丸五条まで行って、そこで降りて、河原町五条まで歩いて、反時計回りの205番に乗るほうが早いかもしれません。そして適当な歩行距離でもあります。 以前は、下見に行っても、ほとんどが面識のない方ばかりだったのですが、過去の勤務などを通して、面識のある方が増え、下見もずいぶんやりやすくなりました。同期の方一人も下見に来ておられました。朝のミーティングから参加されたそうです。 特別参拝所、三井神社、大炊殿とも複数の方のガイドを聞きましたが、3箇所とも、今回の責任者の方の案内を聞くことができました。分かりやすく、素直で癖のない説明をされていました。私の目指すスタイルに近く、かつ標準版にはない内容も加えて、厚みのある説明をされていましたので、とても参考になりました。最初は、標準版に忠実に話すとしても、慣れてきたら、そういった内容も加えたいと思います。案内の看板 タヌキなどの漫画は「有頂天家族」から。 お昼過ぎに下鴨神社を出て、午後からの京都アスニーの「京都学講座」に向かいました。→こちら(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/07/15
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【2017年7月14日(金)】 清水寺随求堂勤務の第3日目でした。 通勤はバス1本で烏丸五条まで行って、そこから歩くことを基本にしようと思っています。歩きは、往きは上り坂なので40分くらい、帰りは下り坂なので35分くらいかかります。 この暑い中、体力的にしんどいので、バスを乗り継いで、歩きを少なくできないかと思い、今日は試しに五条大宮で降りて、207番のバスで清水道まで行ってみました。往きは10分くらい短縮できそうです。帰りは試してませんが、渋滞が激しいので、あまり変わらないか、ひょっとすると歩きのほうが早いかもしれません。 毎朝コンビニに寄って、昼食のおにぎりを買うのですが、今朝は違うルートを試したこともあり、うっかりして忘れてしまいました。同じ勤務の方が、「近くの梅山堂の地下の食堂なら、清水寺関係者は半額になるそうだよ。」と教えてくださいました。しかし、参道のお土産屋さんのどこかに、おにぎりくらい売っているだろうと思い、かなり下りたところまで探しながら行ってみました。ところが、売っている気配はありません。止むなく戻って、教えていただいた梅山堂の地下の食堂に行ってみました。 店の方が、私が清水寺のTシャツを着ているのを見て、「清水寺関係者の方は、半額になります。ただし、先にお会計をしていただき、食べ終わった食器はご自分で返却口まで運んでいただきます。」とのこと。きつねうどん700円を注文し、350円で食べることができました。昼食時間の目安30分ギリギリで持ち場に戻れましたが、おにぎりを探しに下りることをしなければ、余裕で間に合いました。近くで働いておられる清水寺の方によれば、混んでいる場合は、断られることもあるようですが。 テレビ番組で、清水寺の参道の商店街は、清水寺で成り立っているので、清水寺の消防隊を結成したり、夜の見回りをしたりして、奉仕しておられるというのを視たことがあります。半額サービスもその一環なのかもしれません。 暑さが厳しい一日でした。 写真は、今朝の出勤途上の「八坂の塔」の東側からの眺め。修学旅行生を清水寺に案内するときは、清水道のバス停で下りて、少し遠回りになりますが、八坂通から上がります。八坂通に入ると、見上げる感じでパッと八坂の塔が目に入り、感嘆の声が上がります。そして、塔を行き過ぎたところで、「せーので振り返って!!」と促します。振り返るとこの景色が目に飛び込んできて、2回目の感嘆の声があります。京都の絶景スポットの一つです。 八坂の塔は、正式には法観寺。臨済宗建仁寺派の寺院。伝承によれば五重塔は592年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際仏舎利を三粒を収めて法観寺と号したといわれます。五重塔は永享12年(1440年)の再建。高さ49mで東寺、興福寺の五重塔に次ぐ高さ。浄蔵貴所(じょうぞうきしょ・平安時代中期の天台宗の僧侶)が、この塔の傾きを法力でなおしたという故事があります。八坂の塔 二年坂、三年坂も、早朝はほとんど人がいません。二年坂三年坂(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/07/14
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