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知られざる伏見稲荷大社 その7今回は下記ルート図で「9」のエリアをご案内します。知られざる伏見稲荷大社 フィルードワーク ルート図9.清めの滝 「ぬりこべ地蔵」のある墓地の北辺を東進し、左に脇道に入り、小川沿いに進み、見えてきた建物の軒下を潜ったたところに、「清めの滝」(図1)があります。図1 清めの滝 境内には「お塚」と呼ばれる平らな石の建造物がたくさん建ち並んでいます(図2)。図2 「お塚」 「お塚」には、稲荷系の神名だけではなく、例えば出雲系の「少彦名大神」、遠方の有力神社の神名「熱田大神」、神仏習合を思わせる「閻魔地蔵菩薩」、「弘法大師」など多種多様な名前が彫られています。こういう形の「お塚」が、「お山巡り」参道沿いの神蹟や、稲荷大社の北側、南側の谷の特定の場所に建ち並んでいます。 このような「お塚」が登場したのは、明治時代になってからです。そして明治後期、大正、昭和前期とその数はどんどん増えていきます。今では稲荷大社境内外含めて1万基程度あるのではないかといわれています。 なぜ「お塚」が登場したのでしょう。前述したように明治維新の廃仏毀釈で愛染寺が破却され、人々が礼拝していた仏像、偶像がある日突然、目の前から姿を消します。また、勧請の神璽(しんじ)(図3)などに、それまで比較的自由に書くことのできた「○○大神」という称号が、すべて「稲荷大明神」と改められるようになり、その他の神名はすべて俗称として排除されました。永年持ってきた私的な信仰の場がなくなり、禁止はされていたものの、稲荷山中の神蹟に近いところに「私のお稲荷さん」「私の仏様」という位置づけで「お塚」が建てられはじめ、それがやがて全山、そして稲荷大社の周辺にも拡がっていったのではないかと考えられます。図3 神璽の例 そしてこういったお塚群の存在する場所には、修行・潔斎のための「お滝」と呼ばれる人工的に作った滝が併設されているところが多くあります。伏見稲荷境内及び周辺には、このような「お滝」が数多く存在します(図4)。筆者の研究によると多くが「お塚」の増加とともに、主に明治後期から大正時代にかけて造られ(図4-2)、最盛期には25もの「お滝」がありました(図5)。図4 「お滝」の分布(「清めの滝」の位置も示しています)図4-2 「お滝」の創建年代、廃滝年代 (筆者の研究による推定)図5 現存するあるいは遺構となった全「お滝」の写真(「✕」は水流のない「お滝」)(右下の「たつみ滝」は「お山巡り参道」から外れているので、「25」の数には入れていない)一種のブームになり、物見遊山的に「お滝」をする人も多かったようです。 “大正の広重”こと吉田初三郎も稲荷大社を描いた俯瞰名所図絵で詳しく「お滝」を紹介しています(図6)。図6 吉田初三郎「伏見稲荷大社全境内名所図絵」(大正14年)「清めの滝」同様、稲荷大社の南側の谷にある「末広の滝」の管理者の方は、行列ができるほどになったこともあり、滝口を1つから3つに増やした(図7)といようなエピソードも語っておられました。今は「お滝」する人が減りましたが、それでも17の「お滝」が現役で活躍しています(図3)。図7 「末広の滝」の「お滝」 水流が3本ある 「清めの滝」は稲荷大社の南側の谷に連なる「お滝」群の一つです。そして、最も麓側にあり、稲荷大社に近く(図4)、信者さんに身を清めてから稲荷大社にお参りしていただくという意味から「清めの滝」と名付けられました。管理者のお話しによると創建は大正時代後期とのこと。川の流水を利用した「お滝」がありますが、上流に農作地ができたりして水質が悪くなり、今は滝水を流していません(図5)。管理者が住まわれている住宅以外にも、大きな家屋が建っています。先代の管理者が稲荷系の宗教の教祖を務めておられたそうで、その集会場だった場所だそうです。図5 「清めの滝」の「お滝」(もう滝水は流していない) 「清めの滝」に限らず、「お塚」「お滝」の維持管理にはどこも苦労されています。滝行者、巡礼修行者は減少し、所有者の分からない「お塚」も増えています。管理者の高齢化、自然災害の甚大化といった問題もあります。あと何十年かすれば、「お滝」を巡る神秘的な空間は見られなくなっているかも知れません。よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「知られざる伏見稲荷大社」 次回「知られざる伏見稲荷大社」→
2026/09/08
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知られざる伏見稲荷大社 その6今回は下記ルート図で「8」のエリアをご案内します。知られざる伏見稲荷大社 フィルードワーク ルート図8.「在りの山墓地」と「ぬりこべ地蔵」 東丸神社の東の小路を南に行き、稲荷大社境外に出ます。「松の下屋・御茶屋」敷地の塀に沿って進み、小道に突き当たり、左折して東に向かうと、墓地があります。江戸時代まではこの墓地は「在りの山(ありのや)ま墓地」と呼ばれる稲荷大社神主家や関係者の専用墓地でした。現にこの墓地の南東の一画に社家松本家、羽倉家の墓所を見つけることができ、荷田春満の立派なお墓もあります(図1)。昔は荷田春満のお墓にお参りする人も多かったのでしょう、この小径の途中には道標が複数建っています(図1-2)。図1 荷田春満の墓図1-2 「荷田春満大人(うし)墓道」 「左 東丸大人墓道」 また、この墓地の稲荷大社側角付近には、稲荷大社の神馬の墓石2も建っており、「神馬穂國第一世」「神馬穂国第二世」と神馬の名が刻まれている。(図2)(注1)。図2 神馬の墓 (注1)古くは生きた馬を神社に奉納しました。神社に馬を奉納できない者が馬の姿を絵に書いて奉納するようになりました。それが今の「絵馬」に繋がっています。江戸時代中期には、生きた馬が奉納され、稲荷祭に供奉している絵図が稲荷大社に残っています。 今は、生きた神馬は稲荷大社にはいませんが、木造の神馬の像があります。稲荷大社境内の「玉山稲荷社」の南側に西向きに一頭、「奥宮・三社殿」への石段下に北向きに二頭の木造の神馬がいます。 「玉山稲荷社」南側の神馬舎並びに神馬像については、稲荷社所蔵の「諸件物要覧」によると、文久2年(1862)に建築・奉納されたとあります。ただし、奉納者は分かっていません。 「奥宮・三社殿」石段下の神馬像は、昭和13年(1938)に奉納されたもので、その年に神馬舎もい建てられています。昭和57年(1982)に仔馬が奉納されました。今日では親子神馬として親しまれ、「仲良く何事も"ウマ"くいきますように」と願う多くの人が名刺を差し入れたり、人参をお供えしたりしています。 しかし、近代においても実際に生きた神馬がいたことが記録として残っています。「伏見稲荷大社年不表」によると「穂園號」といい、「大正元年(1912)2月23日に神馬舎新築、同年11月8日に久邇宮邦彦殿下神馬一頭奉納」と記されています。また同年3月発行の講員機関誌「いな里」によると、神馬舎は「表参道右側」にあると紹介されており、楼門下の、現在の車祓所近辺にありました。「穂園號」は2代続き、それぞれの死後「在りの山墓地」の神馬の墓に葬られたのだと思われます。 神馬の墓石の南側に「ぬりこべ地蔵」の小さな祠が建ちます(図3)。この名は土の塗り壁(塗り込め壁)のお堂に地蔵菩薩が祀られていたことからだといいます。この名から、病を「塗り込める」「封じ込める」ご利益があるととらえられるようになり、病気・歯痛平癒の信仰を集めるようになりました。 お参りする前に、お堂の前にある丸い石を撫でてから、自分の身体の痛いところをさすると痛みがとれるという言い伝えがあります。昔はお参りに来たときに、奉納された塗箸をお堂の中のお札に包んで持ち帰り、それで食事をして、治ったら新しい塗箸を奉納するという習わしがあったそうです。一時止めてしまったそうですが、最近またその塗箸が復活して、詰め所でお札などといっしょに購入することができるようです。図3 ぬりこべ地蔵 創建の由緒は明確ではないそうですが、当初の祭祀の場所は稲荷山の奥にかつて存在した浄土宗の寺院であったと云われています。「4.愛染寺跡」に記した、西光寺あるいは浄安寺であったのかもしれません。 しかし、慶応4年(1868)、明治政府により発令された神仏分離令による廃仏毀釈の混乱を避けるために、同じ浄土宗の摂取院(現在はJR稲荷駅南の踏切手前にある)の墓地に移されたといいます。JR稲荷駅の西方の「京都府警察学校」のあたりです。 しかしその後、明治40年(1907)に再び危機が訪れます。明治末から大正にかけて、深草の地には、大日本帝国陸軍第十六師団の施設が多く建設され、現在の京都府警察本部の場所にも兵器庫が建設されることになりました(注2)。「ぬりこべ地蔵」は立ち退きを迫られ、一時は撤去という話も持ち上がりましたが、「在りの山墓地」が地元に開放されたこともあって、墓地とともに現在地に移転されました。その際、木村藤太郎という人物が尽力し、今も木村家の人々が地蔵菩薩の世話を続けておられます。 6月4日は「64=虫」に因んで「むし歯予防の日」です。この日に「歯供養」が営まれ、「ぬりこべ地蔵」に供えられた歯ブラシが参詣者一人一人に配布されます。 全国から歯痛平癒を願う人々が参拝に訪れます。また、「歯痛が治りますように!」などと書いたハガキを出すだけでもご利益があるとのことで、地蔵堂の中には歯痛・病気平癒祈願あるいは平癒のお礼を伝えるハガキが積まれているのを見ることができます(図4)。「京都市伏見区ぬりこべ地蔵様」だけでもハガキは着くようです。海外からも手紙が届くことがあるそうです。図4 地蔵堂の中の病気・歯痛祈願、治癒お礼のハガキ(住所・氏名はマスキングしています)(注2)深草の地には、帝国陸軍第十六師団関連の施設がたくさん建設されましたが、戦後、その広い面積を利用して、それらの土地は種々の施設に利用されています。・司令部庁舎(現聖母女学院本館)(建物もそのまま利用されている。国登録文化財)・騎兵第二十聯隊(現深草中学、市営深草住宅)・陸軍衛戍病院(現国立病院機構京都医療センター)・歩兵第三十八聯隊(元第九聯隊)(現京都教育大学)・陸軍兵器廠京都支廠(現龍谷大学深草キャンパス、現警察学校)・工兵第十六大隊(現桃陵団地)・野砲兵第二十二聯隊(現藤森中学、京都市青少年科学センター)・輜重兵第十六大隊(現京都教育大学附属高校、リハビリテーション病院)・京都憲兵隊(現伏見税務署)また新たな道路も建設されました。南北の通りとしては、師団街道(伏見稲荷バス停のある道)、東西の通りとしては、鴨川運河を跨ぐ、第一軍道(京阪深草駅南の道)、第二軍道(聖母学園に突き当たる道)、第三軍道(京都医療センター方面に向かう道)などです。よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「知られざる伏見稲荷大社」 次回「知られざる伏見稲荷大社」→
2026/09/07
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知られざる伏見稲荷大社 その5今回は下記ルート図で「6」及び「7」のエリアをご案内します。のエリアをご案内します。知られざる伏見稲荷大社 フィルードワーク ルート図6.御茶屋(重要文化財)、松の下屋(したや)(京都市指定登録文化財)(通常非公開) 本殿前階段の前を南に向かいます。本殿の南側の塀に囲まれた敷地に、御茶屋、松の下屋、そして松の下屋庭園の門があります(図1)。図1 「御茶屋」「松の下屋」「松の下屋庭園」の門 御茶屋がこの地にあり、稲荷大社が維持している由緒は少々複雑です。 慶長11年(1606)に宮廷における非蔵人(ひくろうど)再興が始まります。非蔵人とは賀茂・松尾・稲荷などの神職の家や家筋のよい家から選ばれ、無位無官で宮中の雑用を勤めた者のことです。この年、稲荷社家の羽倉(荷田)延次と大西(秦)親明の2名に加え他社の神職2名が後陽成天皇の非蔵人として召しだされました。羽倉延次は最年長者としてその頭に任じられ、やがて後水尾天皇の即位後も宮中に仕え、さらに退位後も後水尾院に出仕しました。そして上北面の玄蕃頭(げんばのかみ)に任じられました。上北面とは院御所を警備する侍で、院への昇殿を許された四位、五位の諸大夫(しょだいぶ)です。このような関係から、羽倉延次が寛永18年(1641)に禁中古御殿の一部であった御茶屋を後水尾院から拝領し、西羽倉家の敷地内(現在の参集殿とその前の駐車場の位置)に移築したと考えられています。しかし、明治時代に現在地に移築されることになります。次がその経緯です。 現在、御茶屋、松の下屋がある敷地は社家松本家の所有でその屋敷がありました。明治維新後、神職神官世襲の制が廃止され各社家が衰退していきます。明治17年(1884)に松本家の土地が、当時主典(禰宜(ねぎ)の下にあって、祭儀や庶務を執行した判任官待遇の神職)だった竹良豊(たけりょうほう)に譲渡されます。竹良豊は羽倉家の養子で、書写・詩歌に優れ、富岡鉄斎とも交友がありました。明治22年(1889)になると竹良豊が羽倉家から分家し、その際、西羽倉家にある「御茶屋」の損廃を惜しみ、保存を前提に「御茶屋」を西羽倉家から譲り受け、松本家から譲渡された現在地に移築し修理します。 しかし、竹良豊没後、この敷地は大阪の実業家木田氏の所有になります。さらに大正6年(1917)には福田氏という実業家が木田氏から買収します。そして大正7年(1918)から8年(1919)にかけて、福田氏が現在の「松の下屋」を建て、御茶屋を修理しました。庭園もそのときに今の形に整備されたのではないかと考えられています。一説によると福田氏は料亭として利用しようとしたといわれています。「松の下屋」は神社境内にある建物としては、少し異質な感があるのはそのためだと考えられます。その後、また別の人の手に渡ると聞いた稲荷大社が、御茶屋の保存を目的にこの敷地を買収しました。このように、御茶屋、松の下屋とも複雑な経緯を経て現在に至っています。 御茶屋の欄間には吹寄せの菱格子を入れ、付書院に続く仲敷居窓は、桟と腰の舞良とも吹寄せとして、書院造の厳格さを和らげています。床・違い棚・付書院を備えた書院造の格調を保ちながらも、数寄屋風な意匠で構成されて、おだやかなたたずまいに仕上げられています。小堀遠州もこうした構成の座敷を作っていますが、この御茶屋はどちらかといえば、曼殊院小書院、西本願寺書院など、貴族の好尚を示す遺構に通じるものと言えます(図2、図3)。図2 御茶屋室内図3 御茶屋外観 「松の下屋」は2階建ての書院造ですが、敷居に石を用いたり、縁側部分が四半敷になっていたりで、一風変わった造作も見られます。棟方志功氏が奉納した襖絵が所蔵されています(図4、図5)。図4 松の下屋図5 棟方志功筆襖絵 御牡丹図 「松の下屋庭園」は、明治・大正期に流行した別荘庭園の趣が色濃く感じられるところから、植治こと七代目小川治兵衛の息の掛かった庭師が作庭したのではないかといわれています。川の流れを作り、その東にせり上がった斜面をもち、その上には茶室「瑞芳軒」を頂き、稲荷山三ヶ峰を借景としています。「松の下屋」2階座敷から眺める「松の下屋庭園」は圧巻です(図6)。図6 松の下屋庭園 この一画は普段は非公開ですが、棟方志功氏の襖絵とともに「京の冬の旅」などで特別公開される可能性もありますので、興味のある方はそのときに是非見学ください。 御茶屋前を少し本殿側に戻ったところには、その世界では有名なオダイさん砂澤たまゑ氏奉納の照明灯が建ちます(図7)。オダイさんとは霊能者で、昔はオダイさんが信者を連れて夜間も含め「お山巡り」の修行をよくしていましたが、今ではほとんど見られなくなりました。砂川たまえ氏には「霊能一代」という著書があり、今は絶版となっていて、ネットで8万円とかの高額の値付けとなっていたりします(図8)。筆者の研究上読みたかった本なのですが、京都の図書館にはなく、大津の図書館まで遠路借りにいきました。図7 砂川たまゑ氏奉納の照明塔図8 砂川たま恵著「霊能一代」 (amozon.com.jpから)7.荷田春満(かだのあずままろ)旧宅(国指定史跡・通常非公開)、東丸(あずままろ)神社 荷田春満[1669~1736]は、江戸時代中期の国学者で、社家の一つ羽倉家の二男として生まれました。古典・国史を研究して近世国学を発展させ、『万葉集』『古事記』『日本書紀』などを研究し、儒学の古学のもと、復古神道を提唱しました。賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤(あつたね)ととともに国学四大人(したいじん・しうし)といわれます。その生家がここに残る平屋建て書院造りの旧宅(図9、図10)です。祭器庫や庭なども当時の遺構をよく残しています。大正11年(1922)に国の史跡に指定されました。「京の冬の旅」などで、特別公開されることがあります。図9 荷田春満旧宅の門図10 荷田春満旧宅書院 「京都を彩る建物や庭園」サイトより 春満の死後、明治16年(1883年)に、正四位の位が贈られたのを機に、稲荷大社宮司らによってその学徳を称えるための神社創建への動きが起こり、荷田春満を祭神とする社殿が造立されました。それが荷田春満旧宅の東隣にある東丸神社です(図11)。図11 東丸神社 当初は稲荷大社の摂社として位置づけられていましたが、大正2年(1913)に羽倉家末裔羽倉信義氏に稲荷神社奉仕を辞し、東丸神社に専務する辞令が出され、東丸神社は独立した神社になりました。社殿の造りも、稲荷大社本殿が流造に対し、東丸神社は春日造と独自色を持っています。また、本殿の前の鳥居も山王鳥居と呼ばれる造りになっており、ここにも独自色が見られます。稲荷大社は今では商売繁盛祈願の神社として有名ですが、東丸神社はその御祭神の功績から、学業成就祈願や合格祈願の神社として静かな人気を集めています。千羽鶴が多く奉納されています(図12)。図12 東丸神社 春日造・山王鳥居・千羽鶴 入り口の鳥居を潜って、すぐ右側に「としまいりの石」(図13)が建っています。「としまいり」とは、人の歳の数だけご祈願を重ねることです。本殿前にあるこちらの竹棒ボックスから歳の数だけ竹棒を持って、本殿と「としまいりの石」の間を心静かにまわります。竹棒は本殿にお願いする度ごとに一本ずつ箱に納めます。図13 としまいりの石よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「知られざる伏見稲荷大社」 次回「知られざる伏見稲荷大社」→
2026/09/06
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知られざる伏見稲荷大社 その4今回は下記ルート図で「4」及び「5」のエリアをご案内します。知られざる伏見稲荷大社 フィルードワーク ルート図4.愛染寺跡 神仏習合期、稲荷大社には神宮寺的なものは存在しませんでしたが、応仁の乱後の再建のときには、浄財を募る多くの勧進僧や勧進沙門(しゃもん・沙門とは修行僧)が活躍しました。彼らを「本願」と呼び、その住む所を「本願所」といいました。元禄時代頃(1688~1704)から本願所は「愛染寺」と称するようになりました。場所は、外拝殿北側の土産物店やトイレが並ぶ場所です(図1)。江戸時代の境内図にも登場します(図2)。図1 愛染寺の位置図2 「再撰花洛名所図会 東山之部 八」 元治元年(一八六四)刊 愛染寺は浄財を募ることで、経済的な側面から稲荷大社内での力を強めていきます。また、幕府・奉行所とも結びつき、社家管理であった仏教色の強い大師堂・文殊堂・弁天堂を愛染寺管理とし、その散銭(賽銭)を収入としたり、様々な興業的なものを取り入れたりして、さらに経済力を増していきました。これらに対し、社家側は快く思っていませんでした。訴訟も起きたりしています。「3.社家地跡」で述べたように、社家は勤皇方と結びつきが強く、愛染寺は幕府と結びつきが強かったという構図も影響したものと思われます。 幕末の頃、将軍の行列の京・大坂の往来は、必ず二条城-伏見街道-伏見港-大坂のルートでした。伏見街道沿いにあり幕府と関係の深かった愛染寺には、徳川家茂が5度、一橋慶喜が7度「小休憩」しています。 さて、明治維新後、明治元年(1868)3月28日に新政府から神仏分離令(神仏判然令)が発布されます。すると稲荷大社は4月12日という早いタイミングで、愛染寺に対して、本殿内陣の仏具やその他仏教に関わる装飾類を「悉くことごとく取り除き、境内南の方にて焼き捨てること」と命じています。そして弁天堂・大黒堂・文殊堂・愛染寺の愛染堂・聖天堂の取り払いが短期間で決行されて、6月5日には、取り払いが終わったことを役所に報告しています。躊躇なく短期間で取り払いが行われたのは、前述したような稲荷大社社家側の不満があったからだと考えられます。神仏分離令は、社家側にとっては、まさに「渡りに舟」だったのでしょう。 愛染寺は真言宗の寺院でしたが、それ以外に西光寺という清浄華院を本山とする浄土宗寺院、浄安寺という大雲院を本山とする浄土宗寺院もありました。いずれも稲荷大社境内に住む人たちの檀家寺で、愛染寺とは性格の違った寺院でした。西光寺は現在のJR稲荷駅南の踏切手前の摂取院の東にありました。浄安寺は参集殿南側付近にあったといわれています。これらの寺院も、本山となる寺からの抵抗はあったものの、結局は命令通り廃止となりました。5.新門辰五郎と彫られた燈籠 楼門北側の階段を上がったところ、すなわち外拝殿の北側に高さ3メートル余りの石灯籠が一基据えられています。この石灯籠の正面(西側)の基段3段目に、寄進者の姓名が15名ほど刻まれており、一行目には「新門辰五郎」の名前が明瞭に読みとれます(図3)。裏面に回ると、わずかに慶応という文字と「三」という文字も読み取ることができ、慶応3年(1867)の寄進であることが分かります。図3 「新門辰五郎」の名が彫られた燈籠 新門辰五郎[1800~1875]は江戸末期の人。江戸出身で浅草寺に新設された門の番人となったことから、新門辰五郎と呼ばれました。火消し人足から町火消し番組の頭となり、のち、徳川(一橋)慶喜に重用され、その身辺警護にあたりました。徳川慶喜は一橋慶喜の時代に、二条城-伏見街道-稲荷大社-伏見港の経路で何度か往復し、稲荷大社境内にあった愛染寺(4.参照)で度々休憩しました。そういった関係から新門辰五郎が燈籠の寄進者の一人となっているのだと考えられます。よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「知られざる伏見稲荷大社」 次回「知られざる伏見稲荷大社」→
2026/09/05
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今週のOJRセンターでの重粒子線照射は、8/31(月)、9/1(火)、9/3(木)と今日9/4(金)でした。通常。水曜日が機器メンテ日でお休みなので、これが通常の照射スケジュールです。今日は、大雨を心配しましたが、傘を差さなくても済むくらいの雨で、気温も高くなく助かりました。今日はOJRセンターに着く前に、いっぱい失敗をしちゃいました。まず、家内に最寄り駅に送ってもらうのに、「10時半頃出るよ」と昨日お願いしていたのに、今日は10時頃に「じゃぁ、送りお願い。」と言って、出かけようとしました。時間を30分間違ってしまいました。さて10時半になりました。家を出るとき、家内が「鍵がない。探しても見つからない。仕方ないから予備の鍵もっていくわ。」と言います。念のためと思って、私のポケットから私の鍵を出してみたら、家内の鍵が入っていました。玄関を出るとき、間違って家内の鍵をポケットに入れたようです。家内に最寄り駅に送ってもらって、車を降りてコンビニで買い物をしようとして、財布を持ってくるのを忘れたことに気付きました。家内を呼び止めようとしましたが、間に合わず。慌てて家内の携帯に電話して引き返してもらって、ある程度の現金だけをもらって行きました。診察券も財布に入っていたのですが、家内が引き返して来るのを待つ間にOJRセンターに電話して「診察券忘れても受付られます」ということを確認できたので一安心。どうかしていた一日でした。ボケが始まっているのかも。家内に深謝。治療を照射1回目から整理すると1回目 8/13(木) 第2治療室 仰向け姿勢 垂直照射 診察あり2回目 8/14(金) 第3治療室 うつ伏せ姿勢 垂直照射 診察あり3回目 8/17(月) 第3治療室 仰向け姿勢 垂直照射4回目 8/18(火) 第1治療室 うつ伏せ姿勢 斜め45度右上照射5回目 8/19(水) 第3治療室 仰向け姿勢 垂直照射 CT撮影6回目 8/20(木) 第3治療室 うつ伏せ姿勢 垂直照射 診察7回目 8/25(火) 第3治療室 仰向け姿勢 垂直照射8回目 8/26(水) 第1治療室 うつ伏せ姿勢 斜め45度右上照射9回目 8/27(木) 第2治療室 仰向け姿勢 垂直照射10回目 8/28(金) 第3治療室 うつ伏せ姿勢 垂直照射 CT撮影・診察11回目 8/31(月) 第3治療室 仰向け姿勢 垂直照射12回目 9/1(火) 第2治療室 うつ部背姿勢 垂直照射13回目 9/3(木) 第1治療室 うつ伏せ姿勢 斜め45度右上照射14回目 9/4(金) 第2治療室 仰向け姿勢 垂直照射 診察今日は、週の終わりということで、照射後、診察がありました。CTの撮影はありませんでした。来週の火曜日が16回目の最終照射で、そのときにCTを撮るからでしょう。今日の診察は担当医のU先生でした。前回のCTをその後詳しく分析したところ、腫瘍が少し小さくなっていたので、照射のプログラムを修正しましたとのこと。少し効果が現れてきたようです。体調の質問もありました。「治療の最初の頃からですが、朝、起きたときに、胃がむかむかするのですが」と答えたところ、「重粒子線が一部当たっているので、胃に影響が出ていると思います。治療後、3ヵ月くらいは今飲んでいただいている、胃酸の分泌を抑える薬を飲んでいただくことになるでしょう。」とのことでした。もう一度、治療に関する注意書きを読んでみると、「治療後3ヵ月程度は、粘膜の刺激になるため、熱いもの、からいもの、酸っぱいもの、かたいもの、炭酸飲料」は避けてください。炭酸飲料・アルコール類の再開は治療後に医師とご相談ください。」と書いてあります。治療が終わっても、お酒は、すぐに復活とはいかないようです。あと照射は2回。9月8日に照射は終了です。どこで、どのように経過観察するかの相談は、最終日の9月8日になると思います。ちょっと遠いですが、OKGセンターで診てもらえたらと思っています。よろしかったら、下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/09/04
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知られざる伏見稲荷大社 その3今回は下記ルート図で「3」のエリアをご案内します。知られざる伏見稲荷大社 フィルードワーク ルート図3.楼門 一番鳥居から二番鳥居の方向に歩き、二番鳥居を潜ったところに楼門があります(図1)。重要文化財に指定されています。 天正17年(1589)に豊臣秀吉が母親 大政所(おおまんどころ)の病気祈願をしたときの祈祷料で建てられたものです。そのときの、いわゆる“命乞いの願文”が稲荷大社に伝来し、そこには「母の命を3年、駄目なら2年、それでも駄目なら30日でも」と書かれています。祈願が叶ったのか、大政所はそれから4年生き永らえます。最初1万石だった祈祷料は、後に5千石に値切られたという逸話も残ります(注1)。昭和48年の楼門の解体修理で、願文の年次と同じ「天正十七年」の墨書が発見され、伝承の正しかったことが確認されました。また、神社の楼門の規模としては最も大きいものに属します。(注1) 戦国時代に、土地の価値を表すのに「石」を使った「百万石」とは「百万石の量の米が生産できる土地」という意味。1石は一人の人間が一年間で消費するお米の量だと言われる。一食につき一合、それを一日三食で、365日分とすると1095合。だいたい1000合。「百万石」であれば、すべてを米生産に充てれば百万人分の米がとれるという計算になる。1俵=4斗=400合=60kg(注3)戦国時代に、土地の価値を表すのに「石」を使った「百万石」とは「百万石の量の米が生産できる土地」という意味。1石は一人の人間が一年間で消費するお米の量だと言われる。一食につき一合、それを一日三食で、365日分とすると1095合。だいたい1000合。「百万石」であれば、すべてを米生産に充てれば百万人分の米がとれるという計算になる。1俵=4斗=400合=60kg 楼門の左右には「随身(ずいしん・ずいじん)像」(「随神」とも)と呼ばれる人形が1体ずつ安置されています(図2)。随人は、平安時代の「皇族」や「官僚」を警護する警備兵あるいは武官です。稲荷大社を守護するために安置されています。向かってか右側の像が口を開けた「阿形(あぎょう)」で年配者の姿をしています。本殿側から見て右側なので「右大臣」とも呼ばれます。向かって左側の像が「吽形(うんぎょう)」で、青年の姿をしています。本殿から見て左側なので、「左大臣」とも呼ばれます。両方とも弓矢を持っていますが、何故か向かって左の方だけ「矢大臣」とも呼ばれます。向かって右が年配者になっているのは、本殿側から見て左側の方が位が高いからだと思われます。他の神社でもよく見かけ、多くはこの組合せになっています。 「大臣」とはいうものの、天皇に直接仕えて政治を司る右大臣、左大臣とは異なり、前述した「皇族」や「官僚」を警護する警備兵あるいは武官です。ひな祭りの雛段の、右大臣、左大臣も同じです。もし、天皇におつきする右大臣、左大臣であれば、位が高いですから、三人官女より上の段に来なくてはなりません。 どんどん横道にそれます。「うれしいひなまつり」というサトウハチロー氏作詞の童謡があります。その3番の歌詞にこの随身が登場します。「金のびょうぶに うつる灯(ひ)をかすかにゆする 春の風 すこし白酒(しろざけ)めされたか あかいお顔の右大臣」。となっています。しかし、ここに間違いがあります。顔が赤いのは、向かって右側の年配者の左大臣です。サトウハチロー氏は、後日、「向かって右なので右大臣としてしまった。」と間違いを認めています。図3 雛壇の左大臣、右大臣 楼門の前には、一対の狐像が置かれています(図4)。狐は稲荷大社の御祭神と誤解する方も多いようですが、稲荷大神のお使い(眷族)です。稲荷大神の眷族が狐となった由緒には諸説あります。稲荷大神が食物の神=御饌津神(みけつかみ)であるので、やがて三狐神(みけつねかみ)と書かれるようになったという説、狐が米を食い荒らす鳥獣を追い払うからだという説、狐の色や尻尾の形が実った稲穂に似ているからという説などがあります。 向かって右の狐像は玉、向かって左の狐像は鍵をくわえています。稲荷大社には、玉鍵の信仰があり、「玉は稲荷神の霊徳の象徴で、鍵はその御霊を身につけようとする願望である」ともいわれます。また、鍵は稲蔵の鍵という説もあります。この2体の狐像は明治13年(1880)に寄進されたものだと伝えられており、それ以前はごく普通の狛犬像だったようです。江戸時代の境内絵図には狛犬像が多く書かれており、狐像が増えたのは近代になってからのようです。江戸時代までは、愛染寺(後述)が境内にあって、狐に乗った荼吉尼天(だきにてん)を祀っていましたが、その愛染寺が明治維新の廃仏毀釈で破却されたことと、明治になって狐像が増えたことは関係あるかもしれません。境内には狛犬像も残っています。 さて、この「玉」と「鍵」は、花火が上がったとき「たまや~」、「かぎや~」と歓声をあげることと関係しています。今の奈良県五條市の花火師であった弥兵衛(やへい)は稲荷信仰をしていて、後に江戸に出て、万治2年(1659)日本橋に店を構え、狐がくわえる鍵から屋号を「鍵屋」としました。後の文化5年(1808)、鍵屋の番頭が暖簾のname="insertImg" />れん分けで両国上流に開業し、やはり狐くわえていた玉から着想を得て「玉屋」という屋号をつけました。お店はともに繁盛し、両国の花火大会では、両国橋を挟んで両店が花火を上げ、どちらの花火屋の花火なのかを紹介するためもあって、「たまや~」、「かぎや~」と川面で叫ぶようになったといいます。「鍵屋」は今に至るまで15代続いています。境内にはこれ以外に「稲穂」「巻物」をくわえた狐像も存在します(図5)。「稲穂」は稲荷大神がもともと五穀豊穣の神であることに由来します。「巻物」は知恵を象徴しているといわれます。 楼門付近から見える現代的な建物についても言及しておきましょう。 1つは駐車場の南に建つ「参集殿」(図6)です(現在では取り壊されて駐車場になっている)。昭和38年(1963)竣工の年代物の建物です。稲荷大社のホームページでは「食堂・喫茶」としか紹介されていませんが、実は宿泊もできます(図7)。ネットの予約サイトには登場しない穴場です。宿泊だけですが3,500円強です。以前は「お山巡り」やそこで修行をする全国の信者さんで混雑したのでしょう。時代の変化を感じさせます。建物の古さに拘らない、あるいは昭和レトロの雰囲気を楽しみたい方にはお薦めかもしれません。コインロッカーも100円と安価です(図7-2)。 図6 参集殿図7 参集殿の部屋図7-2 参集殿のコインロッカー もう1つが、八芒星の形をした「儀式殿」です。昭和43年(1969)の竣工です。その名から分かるように、結婚式場として建てられましたが、今は一部が社務所として使われているのみです(現在は解体済み)。棟方志功氏奉納の壁画「七大星韻図」(7作品)があり、今は額装され、「京の冬の旅」など特別公開の際に順繰りに公開されることがあります。 よろしかったら下記と「いいね」にぽちっとお願いします。←前回「知られざる伏見稲荷大社」 次回「知られざる伏見稲荷大社」→
2026/09/03
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知られざる伏見稲荷大社 その2今回は下記ルート図で「2」の部分をご案内します。知られざる伏見稲荷大社 フィルードワーク ルート図2.熊野社・藤尾社・霊魂社 大西家の東側に小さな社が3つ並んでいます。西の方から熊野社、藤尾社、霊魂社です(図1)。図1 左から熊野社・藤尾社・霊魂社 熊野社(重要文化財)は末社で、造りは一間社春日見世棚造、檜皮葺(主要な神社社殿の建築様式は図4参照)。 祭神は、伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)です。平安末期に流行した熊野御幸(ごこう)において、上皇らが稲荷奉幣(ほうへい)を行った際、立ち寄って拝礼したと伝える社です。当時、多くの貴族や武士も熊野詣をしました。その途中で伏見稲荷を参拝した人々は稲荷山の杉の小枝を折り、鎧や衣服につけて旅の安全を祈願し、この杉は「しるしの杉」と呼ばれ、熊野詣参拝者の目印でもあり、お守りでもありました。現在でも、伏見稲荷大社では、初午大祭に「しるしの杉」が授与され、古来の信仰が受け継がれています。元禄7年(1649年)に再建されましたが、その後移転を繰り返し、1959年(昭和34年)に現在地に移されたました。 霊魂社は物故した稲荷大社職員および特別崇敬者の霊を合祀する社です。一間社春日造、檜皮葺、慶応3年(1867)の創建です。 藤尾社(重要文化財)は末社であり、造りは一間社流見世棚造、檜皮葺、祭神は、舎人(とねり)親王(676-735)です。大化の改新で知られる中大兄皇子(のちの天智天皇)の弟、天武天皇の皇子で、淳仁天皇の父にあたる人物です。日本書紀を編纂したことでも知られます。この藤尾社は、南に2kmほどのところにある藤森(ふじのもり)神社と深い関わりがあります。 現在の稲荷大社がある場所は、かつて藤尾と呼ばれていました。奈良時代末期の天平宝宇3年(759)、藤尾社はこの藤尾の地に鎮座します。その後、室町時代の1438年(永享10年)、後花園天皇の勅により、足利6代将軍・義教(よしのり)が山頂にあった稲荷の祠を山麓に移し、これにより藤尾社は追い出されるような形で藤森神社に遷座しました。(諸説あります) このように藤尾社は現在の藤森神社の地に遷座しましたが、後の時代に稲荷大社内に再興されたようです。天正17年(1589)の社頭図に、「藤尾天皇再興 南向」とあるのが初出です。その後、江戸時代の延宝8年(1680)には天皇塚が崩れた跡地に小社を新築し、藤尾社としたとの記録があります。 京都検定公式テキスト記載の「平安京の五条以南が氏子圏となって、祇園社(八坂神社)と京を二分した。」という文章からは、五条以南がすべて稲荷大社の氏子圏と考えがちですが、前述の経緯から東海道線から南の鴨川以東は稲荷大社付近も含めて藤森神社の氏子圏なのです。すなわち稲荷大社周辺は稲荷大社の氏子圏ではなく、藤森神社氏子圏であり、稲荷大社は稲荷大社の氏子圏から遠く離れたところに鎮座しているということになります(図2)。 藤尾の地を稲荷の神に譲る際の、こんな説話も残っています。「山の上の稲荷社から山麓の藤尾社に、藁わらを置きたいので土地を貸してほしいという申し入れがあった。藤尾社側が『藁を置くくらいなら・・』と承諾したところ、稲荷社の者が多くの藁をつなぎ、藤尾社の広大な土地を囲んだ。そして藤尾社を追い出し、そこに稲荷社の社殿を建立してしまった。」 5月5日に行われる藤森神社の「藤森祭」の際には、藤森神社の神輿が稲荷大社の藤尾社前まで入ってきます(図3)。かつては、藤森神社側は「土地返せ、土地返せ」と言い、稲荷大社側では「神様お留守」とか、「あと三年待ってくれ。」と問答しました。図4 神社社殿の主要な建築様式よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「知られざる伏見稲荷大社」 次回「知られざる伏見稲荷大社」→
2026/09/02
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昨日は11回目、今日は12回目の、OJRセンターでの重粒子線照射でした。あと4回で終了です。7月18日に、爪に現れた筋は、抗がん剤治療の痕跡であろうと書きました。(こちら)そのときの筋の位置は根元から約5mmでした。(下の写真)今日、図ってみたら約9mmの位置でした。(下の写真)差は約4mm。手の爪は平均的に1日に約0.1mm伸びるそうです。7月18日から約40日。0.1mm×40日=4mm。だいたい話が合います。髭も1週間くらい前から伸び始め、久しぶりに髭剃りが必要になりました。頭髪は抗がん剤治療で完全に抜け落ちてしまいました。でも、わずかに復活し始めているようです(下の写真)。元に戻るには半年から1年かかるそうですから、気長にいくしかないでしょう。すね毛は全く復活の気配がありません。よろしかったら、下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/09/01
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知られざる伏見稲荷大社 その1今回は、前回示したルート図のなかの「1」の部分について、ご案内します。知られざる伏見稲荷大社 フィールドワーク・ルート図1.表参道、社家地跡 JR稲荷駅前の大きな鳥居を一番鳥居(図1)、楼門の前の鳥居を二番鳥居といいます。また一番鳥居から楼門に向かう参道を「表参道」といいます。図1 一番鳥居と表参道(遠くに見えるのが二番鳥居) 表参道は現在石畳の道ですが、明治9年までは石畳ではなく、馬場があり走馬(そうめ)奉納が行われていました(図2)。 一番鳥居や二番鳥居は柱の頭部に台座を乗せた「稲荷鳥居」(「台輪鳥居」)と呼ばれる形式の鳥居です。今は、境内では台座が省略された「明神鳥居」が多くなっています(図3)。図3 鳥居の種類 現在の表参道の北側(楼門方向に向かって左側)には北参道(注1)があり、土産物店などが軒を連ねています。表参道と北参道の間には、白色コンクリートの建物「儀式殿」(現在では解体済み)が建っています。表参道の南側には駐車場や「参集殿」(現在では解体され駐車場になっている)などがあります。これらのエリアは、幕末までは社家(世襲的に仕える神職の家柄)の屋敷が建ち並んでいました。大西家、東大西家、羽倉家、東羽倉家、西羽倉家、北羽倉家、松本家、毛利家、中津瀬家、鳥居南家、祓川家などです(図4)。図4 稲荷大社の社家と愛染寺(天保頃)(出典:伏見稲荷大社御鎮座千三百年史) 現在の儀式殿あたりにあった東大西家には、元治元年(1864)の蛤御門(禁門)の変の直後、新撰組などに付け狙われていた木戸孝允(桂小五郎)が匿われたと伝わります。また、文久3年(1863)の「八月十八日の政変」後、いわゆる「七卿落ち」で京を追われた三条実美らは、慶応3年(1867)に官位に復職し、帰洛しました。大阪から船で伏見に着き、伏見に一泊後、稲荷大社に立ち寄り、西羽倉邸に入って休憩し、直衣のうし(公卿の平服)に着替えたといいます。このように江戸末期の稲荷大社社家は勤皇方との結びつきが強かったようです。 明治維新後、明治4年(1871)に、国家により、神社は一人一家の私にすべきものではないとの精神によって神官世襲の制が廃止され、社家の持ち主が先祖伝来の土地を手放さざるを得なくなり、今ではそのほとんどが稲荷大社あるいは民間所有の土地になっています。唯一、神主家本家の「大西家」が、元の屋敷の半分近くになりつつも踏みとどまっています。「旧社家大西家」の表札でそのことを知ることができます(図5)。図5 旧社家「大西家」(注1)正式には稲荷際の際、神輿が出発する際に使われる道なので「神幸道」と呼ばれる。また「裏参道」と呼ばれたりもするが、後述する「お山巡り」にも「裏参道」があるので、ここでは「北参道」と表現した。よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「知られざる伏見稲荷大社」 次回「知られざる伏見稲荷大社」→
2026/08/31
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2017年度から、京都産業大学日本文化研究所の上席特別客員研究員を務めさせていただいています。私は「伏見稲荷大社の不思議研究」をメインテーマに研究を続けてきて、多くの文献を読んだり、現地調査を行いました。そのなかで知った、一般にはあまり知られていない伏見稲荷大社やその周辺のスポットを巡るフィールドワーク・コースを設計し、実際に2020年1月の某催しで、案内を行いました。コロナの直前です。またこの成果を研究員の2019年度の報告書の題材として報告しました。・平成29年度(2017年度) 『お滝』の成立過程と現状・平成30年度(2018年度) 『お滝』の成立過程と現状 その2・令和元年度(2019年度) 「知られざる伏見稲荷大社」研究とフィールドワーク設計・実施・令和2年度(2020年度) 『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚・令和3年度(2021年度) 「熊鷹社」の「お塚」研究・令和4年度(2022年度) 「清めの滝」の「お塚」研究・令和5年度(2023年度) 「権太夫の滝」の「お塚」研究・令和6年度(2024年度) 「八嶋の滝」の「お塚」研究・令和7年度(2025年度) 「千本鳥居」の研究全体で約2時間のコース。そして年配者も歩けるように、稲荷山の麓のエリアに限ったコースです。そのフィールドワークコースの内容を本小稿「知られざる伏見稲荷大社」では紹介します。2019年12月時点の内容です。現在は状況が変わっているところもあるので、その場合は、2019年12月時点の情報である旨補足を加えたり、現状がどうなっているかを書き加えます。******************************************知られざる伏見稲荷大社 はじめにはじめに 旅行についての国際的なウェブサイトであるトリップアドバイザーの「外国人に人気の日本の観光スポット ランキング」(注1)において堂々6年連続で1位なのが(2019年12月時点)、伏見稲荷大社です。千本鳥居など神秘的な空間は外国人でなくとも人々を惹きつけます。今回ご案内する皆さんの大半が一度は訪れられたことがあると思いますし、中には初詣や初午(はつうま)大祭で何度も訪れられて、「今さら伏見稲荷大社なんて」と思われる方もいらっしゃるかも知れません。しかしちょっと待ってください。伏見稲荷大社とその周辺には、あまり知られていない事柄や不思議な場所がたくさん存在します。今回は、主に江戸時代末期以降の時代変化と関連付けて、稲荷山裾野エリアに点在する不思議スポット、トリビア・スポットをご案内します。(以降、伏見稲荷大社及びその前身を時代に関係なく「稲荷大社」と記述します。)「よく知られている」伏見稲荷大社伏見稲荷大社の基本事項です。主に京都検定公式テキストから引用しました。・祭神:宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、 大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、 田中大神(たなかのおおかみ)、 四大神(しのおおかみ)の五神。まとめて稲荷大神(注2)と称す。・全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本宮。・和銅4年(711)に秦伊呂具(はたのいろぐが)稲荷山の三ヵ峰に三柱を創祀したという。 「山城国風土記」逸文には、伊呂具が餅を的にして矢を打つと、餅が白い鳥になって山の峰に 飛んで行き、そこに稲が生えたので、イナリの社名になったと伝える。・天長4年(827)に従五位下の神階を授けられ、東寺の守護神として崇められた。・以降、歴代の天皇の行幸とともに民間にも広く信仰され、平安京の五条以南が氏子圏となっ て、祇園社(八坂神社)と京を二分した。・応仁・文明の乱で本殿は焼亡。明応8年(1499)に再建。幾度か修造を重ね現在に至る。・天慶5年(942)に「正一位」を授けられる。・過去は、式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社、官幣大社。 現在は単立神社で、神社本庁に入らずに独立した単立宗教法人。・本殿の他、権殿、外拝殿、楼門などの社殿が重要文化財に指定されている。 他に後水尾上皇から拝領したと伝える御茶屋も重要文化財。JR稲荷駅前の一番鳥居前を出発し、「1.社家地跡」から昇順で、ご案内します(図1参照)。(注1)2019年度の2位以下のランキングは、2位:広島平和記念資料館、3位:広島県宮島、4位:東大寺、5位:箱根彫刻の森美術館、6位:新宿御苑、7位:三十三間堂、8位:高野山 奥之院、9位:姫路城、10位:金閣寺。京都はベスト10に3箇所入っています。20位以降では、24位:愛宕念仏寺、26位:京都駅ビル、27位:平等院、28位:永観堂禅林寺が入っています。清水寺がランキング入りをしていないのは、本堂が修復中だからでしょうか。(注2) 動物のオオカミの語源は大神おおかみとされる。日本では古くから狼信仰があり、『日本書紀』では、狼を「かしこき神(貴神)にしてあらわざをこのむ」と記述しており、大和国風土記(逸文)では「真神」として神格化されている。山の神として山岳信仰とも結びついている。図1 「知られざる伏見稲荷大社」フィールドワークのコース番号は今後の章番号と合致させています。よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「『八嶋の滝』の『お塚』研究 その2 次回「知られざる伏見稲荷大社」→
2026/08/30
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八嶋の滝の「お塚」研究 その24.「お塚」・塚石・神号の数、神号の種類 塚台・塚石・神号などの数について、過去調査した、熊鷹、清メ、権太夫と比較する。( )内に熊鷹、清メ、権太夫の順に示す。 塚台の数は89基(79,42,83)、塚石の数は249石(180,126,204)であった。すなわち、塚台当たりの塚石数の平均は2.8石(2.3,3.0,2.5)ということになる。最大のものは26石(11,17,46)であった(倒壊して下部を地中に埋めて片隅に設置されている塚石は、もともと何基の塚台に乗っていたか分からないが、1石が1基の塚台に乗っていたと仮定した)。今まで調査した4ヶ所のお塚場の中では、塚台数も塚石数も最大である。塚台当たりの最大塚石数は、権太夫よりは少ないが、熊鷹、清メよりは多い。平均は今までのお塚場とそれほど変わらないので、権太夫同様、塚石の非常に多い塚台が少数あると同時に、塚石の少ない塚台の割合が大きいということになる。 全神号数は463件(301,211,375)であった。塚石当たりの神号数の平均は1.9件(1.7,1.7,1.8)、塚台当たりの神号数平均は5.2件(3.8,5.0,4.5)ということになる。塚石当たりの神号数も、塚台当たりの神号数も熊鷹、清メ、権太夫に比べて多くなっている。 神号は「○○大神」などと刻まれているが、熊鷹、清メ、権太夫同様、やはり大部分は「大神」である。「大神」などの部分が判読可能で、純粋な神号と判断した神号451件の内訳は、「大神」370件、「大明神」28件、「命・尊」13件、「龍神」10件、「天」6件(弁財天)、「明神」、「大菩薩」(純粋な神号ではないが)各4件、「南無妙法蓮華経」(同左)3件、「龍王」、「明王」各2件(不動明王)、「神」、「霊神」、「大善神」、「龍神」、「宮彦」、「大権現」、「姫ノ神」、「女」、「大姉」各1件であった。特徴は熊鷹、清メ、権太夫にはなかった、「命・尊」、「大菩薩」、「南無妙法蓮華経」が相当数見られること、また1件ではあるが「大姉」などという仏教下の法名の号があることなどである。神仏習合が多く見られる。 神号「○○大神」の○○の部分を完全に判読できたのは、463件のうち444件であった。最初の○○の部分が同じであれば、同じ神号とすると、神号の種類は310件となる。この件数は判読全神号数の70% (81,87,59)となる。神号の分散度が熊鷹および清メより小さく、権太夫より大きいということである。そのなかでも、多い神号をあげると、「白玉」14件、「白菊」9件、「白光」、「末廣」それぞれ8件「白龍(竜)」7件、「大岩」、「白瀧」それぞれ5件、「熊髙(高)」、「戸川」、「豆の粉(子)」それぞれ4件である。「白玉」、「末廣」は熊鷹、清メ、権太夫でも上位にランクされ、最もポピュラーな神号の一つといえよう。「白光」、「白瀧」は熊鷹、清メで上位にランクされている。「戸川」「豆の粉(子)」が、数は多くはないが八嶋で上位にランクされているが、熊鷹、清メ、権太夫では全くなかった神号である。特に「豆の粉(子)」という神号は奇異な神号であり、その由来を知りたいものである。 多く使われている漢字の上位12位をあげると、「白」76、「光」48、「玉」41、「吉」33、「末」27、「龍」25、「姫」24、「丸」20、「高」19、「福」18、「八」17、「熊」と「春」が16となる。このうち上位4つ「白」、「光」、「玉」、「吉」は、熊鷹、清メ、権太夫すべてで上位12位に入っている。また、「龍」、「丸」、「高」、「福」は、上記3箇所のうち2箇所の上位12位に入っている。「末」、「八」、「熊」、「春」は、上記3箇所のうち1箇所の上位に入っている。すなわち、八嶋の上位12位13の漢字のうち、12はお塚に刻まれる漢字としてポピュラーなものといえよう。唯一「姫」だけが、上記3箇所上位12位のいずれにも入っていない。「姫」という漢字が多く使われているのが、八嶋の特徴といえよう。図1 「八嶋の滝」境内写真(ただし、2014年撮影)5.建立年代 塚台数89のうち建立者の地域が確認できたのは(刻まれた会社名から割り出したものも含む)、30基であった。内訳は愛知県12(うち名古屋市11)、大阪府8、京都府3、兵庫県3、奈良県2、東京都2である。名古屋市が多いが、管理者の方のお話によると、名古屋の宗教団体の方の利用が多いからだそうである。日活尾上桃華と名の刻まれたお塚があり調べたところ、尾上桃華は「おのえ とうか」と読み、1898年生まれ、1953年没の俳優で、名脇役として活躍した人物であることが分かった。 建立年代が確認できたのは89基中41基と46%(37%,67%,45%)であった。最も古い年代は大正14年、最も新しい年代は平成15年であった(創立時期推定と符合する)。分布を見てみると、大正時代1基、昭和一桁代3基、昭和10年代3基、昭和20年代9基、昭和30年代11基、昭和40年代6基、昭和50年代2基、昭和60年代0基、平成一桁代4基、平成10年代2基であった。八嶋のお塚のブームは昭和20年代から昭和40年代だったといえよう。熊鷹、清メ、権太夫では、平成に入ってからのお塚建立は、ほとんどなかったが、八嶋では相当数存在している。これも八嶋の特異点といえよう。こぼれ話的ではあるが、通常。建立年月には、昭和、平成など元号が使われるが、八嶋には唯一西暦のものがあった。「1989年1月建立」と書かれたものである。昭和天皇の崩御が平成64年1月7日であり、塚石完成時に元号がどうなっているか分からばいため、止むを得ず西暦を使ったのであろう。6.終わりに 八嶋の全「お塚」を調査し、熊鷹、清メ、権太夫と同様の統計分析を行い、それらとの類似点、相違点を明らかにすることができた。今後、引き続き他の「お塚場」も調査し、時代背景に重ね合わせて、「お塚」の歴史を体系的に分析していきたい。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「『八嶋の滝』の『お塚』研究」その1 次回「知られざる伏見稲荷大社」→
2026/08/29
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今日は、OJRセンターで10回目の重粒子線照射と照射後2回目のCT撮影と診察でした。通常は月、火、木、金の週4日の照射日なのですが、加速器などのメンテのためなのか、先週同様変則で今週は火、水、木、金と4日間連続で通いました。今日は、雨がぽつりぽつりと降っていましたが、途上雨に当たる場所はごく短距離なので、傘を差さずに済み、気温が高くない分助かりました。ちょっとムシムシとはしていましたが。照射1回目から整理すると1回目 8/13(木) 第2治療室 仰向け姿勢 垂直照射 診察あり2回目 8/14(金) 第3治療室 うつ伏せ姿勢 垂直照射 診察あり3回目 8/17(月) 第3治療室 仰向け姿勢 垂直照射4回目 8/18(火) 第1治療室 うつ伏せ姿勢 斜め45度右上照射5回目 8/19(水) 第3治療室 仰向け姿勢 垂直照射 CT撮影6回目 8/20(木) 第3治療室 うつ伏せ姿勢 垂直照射 診察(以上、前回記述済)7回目 8/25(火) 第3治療室 仰向け姿勢 垂直照射8回目 8/26(水) 第1治療室 うつ伏せ姿勢 斜め45度右上照射9回目 8/27(木) 第2治療室 仰向け姿勢 垂直照射10回目 8/28(金) 第3治療室 うつ伏せ姿勢 垂直照射 CT撮影・診察照射の際に、技師の方に質問して、もう1つ分かったことがあります。治療台に横になって、固定具がつけられた後、治療台に何か金属製のものが設置されます。「何ですか?」と尋ねたら、「呼吸感知器です。例えば、仰向けの場合、胸の位置を感知して、それに合わせて重粒子線を照射します」とのこと。呼吸同期照射のための感知器なのですね。呼吸を吐ききったときに、コトンという音が聞こえます。照射口の奥のシャッターが開く音なのでしょう。ただし、照射口そのものは閉じたままです。シャッターは重粒子線を通さない物質でできていて、照射口は重粒子線を通す物質でできているのでしょう。診察は担当医のU医師がお休みで、S医師による診察でした。質問は「体調に何か変化はありませんか?皮膚は赤くなっていませんか?」の2点でした。「特に変化はないですが、しいて言えば、少し食欲が落ちたくらいですかね。皮膚は特に赤くなっていません。」と答えました。11年前の兵庫県粒子線医療センターでの重粒子線では、背中の照射部が赤くなり皮膚炎になり、薬を塗って治しましたが、未だにその痕跡は残っています。ところが、今回はその兆候もありません。「技術の進歩によるものですか?」と尋ねたら、「その通りです。面照射からビーム照射になるなどして、急峻なピークを作ることができるようになり、皮膚への影響が昔に比べると少なくなりました。」とのことでした。一番知りたかったのはCT画像で腫瘍が小さくなっているかどうかなので、これも尋ねてみました。治療開始前分と今日の分のCT画像を比較してもらいましたが、変化なしとのこと。「治療の効果は、治療が終わってから出始め、効果は半年から1年くらい続きます。ですから、今は大きくなっていなければOKと考えてください。」とのことでした。治療の効果を見るためにCTを撮っているのではなく、思いがけず早く効果が出て腫瘍が小さくなったりすると、照射プログラムを修正しなければならないので、そのためにCTを撮っているのでしょう。あと照射は6回。来週4日、再来週2日です。よろしかったら、下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/08/28
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2017年度から、京都産業大学日本文化研究所の上席特別客員研究員を務めさせていただいています。私は「伏見稲荷大社の不思議研究」をメインテーマに研究を続けてきました。◎’平成29年度(2017年度) 『お滝』の成立過程と現状◎’平成30年度(2018年度) 『お滝』の成立過程と現状 その2◆令和元年度(2019年度) 「知られざる伏見稲荷大社」研究とフィールドワーク設計・実施◎令和2年度(2020年度) 『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚◎令和3年度(2021年度) 「熊鷹社」の「お塚」研究◎令和4年度(2022年度) 「清めの滝」の「お塚」研究◎令和5年度(2023年度) 「権太夫の滝」の「お塚」研究◆令和6年度(2024年度) 「八嶋の滝」の「お塚」研究◎令和7年度(2025年度) 「千本鳥居」の研究◎はこのブログでも研究成果をすでに公表してきたものです。ただし、◎'については、その年の研究成果そのものではなく、同じような内容を「京(みやこ)カレッジ」という講座で発表したので、その内容を「伏見稲荷大社とその周辺の『お滝』について」というタイトルにて連載させていただきました。2021年度から2024年度は、各「お塚」個別に研究し、先日からその報告書を編集するかたちで、「『熊鷹社』の『お塚』研究」「『清めの滝』の『お塚』研究」「『権太夫の滝』の『お塚』研究」と連載させていただきました。今回、「『八嶋の滝』の『お塚』研究」について、同じように報告させていただきます。*******************************************八嶋の滝の「お塚」研究 その11.はじめに 伏見稲荷大社(以下、大社)の社領とその周辺の景観を特徴づけているのが、多くの「お塚」群である。過去の「お滝」の研究で言及してきたように、ほとんどの「お滝場」には「お塚」が祀られている。令和3年度から、その個々の「お滝場」「お塚場」に焦点を当て、研究を進めている。過去、「熊鷹社」(以下、熊鷹)、「清めの滝」(以下、清メ)、「権太夫の滝」(以下、権太夫)のお塚群について、現地調査を行った。今年度は、「八嶋の滝」(以下、八嶋)について、現地調査を行ったので、その概要を過去の研究対象との比較も交えながら報告する。2.「八嶋」の立地 大社南側の境外地の谷に位置する「お滝場」群の中で最も西にあるのが清メであるが、この清メの次に東に立地しているのが八嶋である(図1)。大社本殿から、直線距離で約500メートル、徒歩約10分のところにあるが、「お山巡り」の参道から外れているため、大社を訪れる観光客の喧騒が嘘のような静けさの中にある。この点は、清メ、権太夫と類似しており、「お山巡り」の参道に位置する熊鷹とは大きく環境が異なるところである。より東側には「命婦滝」「弘法滝」「青木滝」「白菊滝」「御劔滝」「七面滝」「末広滝」などが立地する。図1 「八嶋の滝」の立地3.「八嶋」の沿革 過去及び今回の管理者への取材も踏まえ、八嶋の沿革について述べる。 記録が残っておらず、創建の時期は詳しくは分からないとのことであるが、創建は百年強前(大正後期)ではないかとのことである。大正14年発行の吉田初三郎作「伏見稲荷大社境内名所図絵」には掲載されているが、大正元年発行の「官幣大社稲荷神社境内及び稲荷山神蹟全図」や大正2年発行の「伏見稲荷神社御山獨案内」には掲載されておらず、管理者のお話と符合する。 お塚を新たに建てる人もなくなり、お塚の持ち主の代変わりとともにお塚にお参りする人も少なくなり、また、「お滝」をする人も少なくなり、管理者の方は常駐されていない。頻度は不明だが、掃除や手入れのために時々来られているようである。しかし、今回のフィールドワークのうちの一日に、お会いすることができ、色々お話をお伺いできたのは幸いであった。他のお塚場同様、連絡のつかないお塚の持ち主も多く、維持管理に苦労されているようで、いくつかの倒壊したお塚が、片隅に集められ、基台のない状態で、土に下部を埋めて保存されているものもあった。また、以前は「お滝」の水が常時流れ(図2)、静謐な雰囲気を醸し出していたが、今回のフィールドワークの際は流れていなかった。管理者の方に伺うと、川水の流れが変わってしまい、止むを得ず水止め、滝行の申込みがあれば水道水を流しているとことで、残念なことである、 なお、八嶋の名は、大社の摂社である大八嶋社に因んだものと考えられる。図2 八嶋の滝の「お滝」 2014年当時の写真 当時は「お滝」の水は流れていた。 「その2」に続くよろしかったらぽちっとお願いします。←前回「『権太夫の滝』の『お塚』研究 その2」 次回「『八嶋の滝』の『お塚』研究 その2」→
2026/08/27
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8月23日から今日(8月26日)まで、孫2人(長女の男の子、次女の女の子)が単独で我が家に遊びに来てくれました。二人とも小学3年生で、とても仲がいいです。天気もよかったので、プール遊び、花火も楽しめました。外は危険な暑さなので、室内でトランプやカルタなどをして楽しみました。回転寿司も久しぶりに行きました。癌治療中ですが、楽しい日々でした。よろしかたっら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。
2026/08/26
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権太夫の滝の「お塚」研究 その24.「お塚」・塚石・神号の数、神号の種類 「お塚」・塚石・神号などの数について、過去調査した、清メ、熊鷹と比較する。( )内に清メ、熊鷹の順に示す。図1 「権太夫の滝」全景 権太夫は「お塚」の数の特定が清メ、熊鷹に比べむつかしかった。通常1つの「お塚」は1つの基台上に築かれるが、権太夫の場合、「お塚場」全体の面積上の制約のためか、1つの基台上に複数の「お塚」が築かれたものがある。そのような場合は、塚石の形状・色、神号の字体、経年劣化具合から、「お塚」の単位を判断した。 「お塚」の数は83基(42基,79基)、塚石の数は204基(126基,180基)であった。すなわち、「お塚」当たりの塚石数の平均は2.5基(3.0基,2.3基)ということになる。最大は46基(17基,11基)であった。他に42基の「お塚」もある。平均は今までの「お塚」とそれほど変わらないので、塚石の非常に多い「お塚」が少数あると同時に、塚石の少ない「お塚」の割合が大きいということでもある。「講」など団体による建立の「お塚」より、個人建立の「お塚」が多いといえるであろう。 全神号数は375件(211件,301件)であった。塚石当たりの神号数の平均は1.8件(1.7件,1.7件)、「お塚」当たりの神号数平均は4.5件(5.0件,3.8件)ということになる。これら2点は、権太夫、清メ、熊鷹で、有意差はそれほどないといえる。 神号は「○○大神」などと刻まれているが、この「大神」の部分は、熊鷹では、奉納された小さな木製鳥居で隠されて、視認できないものが多くあったが、権太夫は清メ同様、ほぼ全数確認できた。熊鷹、清メ同様、やはり大部分は「大神」である。「大神」313件、「大乃神」14件、「大明神」12件、「明神」8件、「神」6件、「命」1件、「霊神」3件、「霊」1件、「龍王」8件、「龍神」2件、「明王」4件(すべて不動明王)、「天王」2件、「天」5件(すべて弁財天または弁天)、「天女」1件、「大師」2件、なし3件、不明1件であった。これらの合計は全神号数375件より多くなる。これは、これらが複数使われた神号が9件もあるためである。なかには、「白玉龍王弁天大神」と3つ使われたものもある。熊鷹、清メでは複数使われた神号はなかった。また「大乃神」「霊」「霊神」「天女」は、熊鷹、清メではなかった。「龍神」「龍王」が、熊鷹では皆無であるのに対し、清メ、権太夫で多いのは、昨年度も指摘したが、やはり「お滝」が存在するからかもしれない。図2 「権太夫の滝」の「お滝」 神号「○○大神」の○○の部分を完全に判読できたのは、375件のうち353件であった。最初の○○の部分が同じであれば、同じ神号とすると、神号の種類は208件となる。この件数は判読全神号数の59%で、熊鷹の81%、清メの87%に比べると低い。同じ神号が多いということである。そのなかでも、多い神号をあげると、「権太夫」17件、「白菊」17件、「白龍(竜)」16件、「末廣」15件、「白玉」11件、「天龍(竜)」7件、「玉姫」7件、「御剱」6件である。「白玉」は熊鷹、清メでも上位にランクされ、ポピュラーな神号の一つといえよう。「権太夫」が多いのは当然だが、七神蹟のその他の祭神、「白菊」「末廣」「御剱」が多いのも権太夫の特徴といえよう。 多く使われている漢字の上位12件をあげると、「白」77件、「権」31件、「末」29件、「玉」27件、「龍(竜)」27件、「廣」21件、「太」21件、「吉」21件、「菊」20件、「夫」18件、「光」16件、「高」14件となる。「権」、「太」、「夫」が上位にランクされるのは、権太夫の祭神が「権太夫大神」であることから当然であろう。「白」、「光」、「玉」、「吉」は、熊鷹、清メの上位12件にも登場するので、神号に使用される漢字として人気のあるものといえよう。5.建立年代 塚台や基台に建立者の住所が刻まれているのが確認できたのは、83基中10基のみであった。清メ同様確認できた割合は小さく、熊鷹の79基中50基であったのと比べると大幅に少ない。そのなかでも、大阪府下が8件、京都1件、東京1件で、やはり大阪府下が多い。昭和十五年建立の「権光會」という「講」団体建立と思われる「お塚」に付設された石鳥居に「満州新京」と記されたものがあった。日本の満州進出時においても、現地で稲荷信仰が盛んだったのかもしれない。 建立年代が確認できたのは83基中37基と45%(67%、37%)であった。最も古い年代は大正2年、最も新しい年代は昭和52年であった。分布を見てみると、大正時代3基、昭和一桁代1基、昭和10年代9基、昭和20年代2基、昭和30年代15基、昭和40年代6基、昭和50年代1基。第1のブームが昭和10年代。「紀元二千六百年記念」などと刻まれた昭和15年建立の「お塚」が散見された。また、第二次大戦中の建立はなかった。第2のブームは昭和30年代から40年代にかけてである。熊鷹、清メを含めても、昭和60年代以降建立の「お塚」は皆無に近い。 権太夫は大正元年の創建なので、大正時代の建立が多いと推定していたが、そうではなかった。もっとも、建立年代不明の「お塚」も多く、また、後の年代に再建している可能性もあるので、大正時代の建立は少なかったと言い切れない側面はある。 熊鷹の「お塚」に刻まれた建立者名には、会社名、会社経営者名が多く見られ、「商売繁盛」祈願の「お塚」が主役であるとの側面がみられた。また、清メは教会併設の「お塚場」であり、その信者が「お塚」建立の主役となったとみられる。それらに対し、権太夫は、より庶民的な「お塚場」との印象を受けた。6.終わりに権太夫の全「お塚」を調査し、熊鷹、清メと同様の統計分析を行い、それらとの類似点、相違点を明らかにすることができた。今後、引き続き他の「お塚場」も調査し、時代背景に重ね合わせて、「お塚」の歴史を体系的に分析していきたい。よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「『権太夫の滝』の『お塚』研究 その1」 次回「『八嶋の滝』の『お塚』研究 その1」→
2026/08/25
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2017年度から、京都産業大学日本文化研究所の上席特別客員研究員を務めさせていただいています。私は「伏見稲荷大社の不思議研究」をメインテーマに研究を続けてきました。◎’平成29年度(2017年度) 『お滝』の成立過程と現状◎’平成30年度(2018年度) 『お滝』の成立過程と現状 その2◆令和元年度(2019年度) 「知られざる伏見稲荷大社」研究とフィールドワーク設計・実施◎令和2年度(2020年度) 『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚◎令和3年度(2021年度) 「熊鷹社」の「お塚」研究◎令和4年度(2022年度) 「清めの滝」の「お塚」研究◆令和5年度(2023年度) 「権太夫の滝」の「お塚」研究◆令和6年度(2024年度) 「八嶋の滝」の「お塚」研究◎令和7年度(2025年度) 「千本鳥居」の研究◎はこのブログでも研究成果をすでに公表してきたものです。ただし、◎'については、その年の研究成果そのものではなく、同じような内容を「京(みやこ)カレッジ」という講座で発表したので、その内容を「伏見稲荷大社とその周辺の『お滝』について」というタイトルにて連載させていただきました。2021年度から2024年度は、各「お塚」個別に研究し、先日からその報告書を編集するかたちで、「『熊鷹社』の『お塚』研究」「『清めの滝』の『お塚』研究」と連載させていただきました。今回、「『権太夫の滝』の『お塚』研究」について、同じように報告させていただきます。*******************************************権太夫の滝の「お塚」研究 その11.はじめに 伏見稲荷大社(以下、大社)の社領とその周辺の景観を特徴づけているのが、多くの「お塚」群である。過去の「お滝」の研究で言及してきたように、ほとんどの「お滝場」には「お塚」が祀られている。令和3年度から、その個々の「お滝場」「お塚場」に焦点を当て、研究を進めている。過去、「熊鷹社」(以下、熊鷹)及び「清めの滝」(以下、清メ)のお塚群について、現地調査を行った。今年度は、「権太夫の滝」(以下、権太夫)について、現地調査を行ったので、その概要を過去の研究対象(熊鷹、清メ)との比較も交えながら報告する。2.「権太夫」の立地 権太夫は、大社北側の境外地の谷に位置する「お滝場」群の中で最も麓側に立地している。大社本殿から、約500メートル、徒歩7,8分のところにあるが、「お山巡り」の参道から外れているため、大社を訪れる観光客の喧騒が嘘のような静けさの中にある。この点は、清メと類似しており、「お山巡り」の参道に位置する熊鷹とは大きく環境が違うところである。より東側には「寝覚めの滝(廃滝)」「荒木滝」が立地する。図1 「権太夫の滝」の立地図2 御産場稲荷東側に行くと、「権太夫の滝」と「荒木の滝」の道標がある3.「権太夫」の沿革 過去及び今回の管理者(教祖)への取材も踏まえ権太夫の沿革について述べる。 創建は大正元年とのことである。大正14年発行の吉田初三郎作の「伏見稲荷大社境内名所図絵」には掲載されているが、大正元年発行の「官幣大社稲荷神社境内及び稲荷山神蹟全図」には、編集段階では創建されていなかったとみられ、掲載されていない。境内主祭壇の前には、大正二年七月の建立を刻字した鳥居がある。図3 大正二年鳥居建立を示す刻字 現在の教祖のお父様が創建された。お父様は「お滝場」専業だったが、現在の教祖様(御年80歳くらいと推定)は、若い頃は別の仕事に就かれ、退職後にお父様から引き継がれ、現教祖のお子様も別の仕事に就いておられる。近年は「お塚」の新設もほとんどなく、また、滝行をする人も少なくなり、「お滝場」としては、通常就労年齢での専業は「お山巡り」参道沿いの「薬力の滝」くらいである。 「お山巡り」途中の「四つ辻」の荒神峰に「七神蹟」の一つ田中社があり、権太夫大神が祀られている。権太夫は、この田中社の「お滝場」であり、権太夫にも「田中社」があり、権太夫大神が祀られている。滝水は、当初は上流の溜め池「古池」から引いていたが、埋め立てられたため、現在は湧水を引いており、常時流れている。権太夫大神は、大国主命(大己貴命)の別称とのことである。よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「『清めの滝』の『お塚』研究 その2」 次回「『権太夫の滝』の『お塚』研究 その2」→
2026/08/24
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清めの滝の「お塚」研究 その24.「お塚」・塚石・神号の数、神号の種類 「お塚」・塚石・神号などの数について、昨年度調査した、「熊鷹社」と比較する。( )内が「熊鷹社」のものである。 「お塚」の数は42基(79基)、塚石の数は126基(180基)であった。すなわち、「お塚」当たりの、塚石数の平均は3.0基(2.3基)ということになる。最大は17基(11基)であった。 全神号数は211件(301件)、塚石当たりの神号数の平均は1.7件(1.7件)であり、「お塚」当たりの神号数平均は5.0件(3.8件)ということになる。 「清めの滝」の「お塚場」としての規模は、「熊鷹社」の半分から7割程度と言えよう。塚石当たりの神号数は両者とも1.7と同じであるが、「お塚」当たりの塚石数と「お塚」当たりの神号数は、いずれも「清めの滝」のほうが多くなっている。この差が有意差なのかどうか、有意差であるとすると、その原因な何なのかは、今後の他の多くの「お塚場」の調査を待たざるを得ない。 神号は「熊鷹社」同様、「○○大神」とされたものがほとんどである。この「大神」の部分は、「熊鷹社」では、奉納された小さな木製鳥居で隠されて、視認できないものが多くあったが、「清めの滝」は、小鳥居が奉納されることが稀なため、全て視認できた。211件の神号のうち、「大神」が191件、「命」が5件、「大明神」、「龍王」がそれぞれ4件、「龍神」、「明王」、「天王」、「天」、「大僧正」が、それぞれ1件、不動明王像1件、役行者像1件であった。「熊鷹社」で少数ながらみられた「明神」、「神」は、「清めの滝」では皆無であった。「熊鷹社」での「大明神」と「明神」の合計数の割合が、28%だったのに比べると、「清めの滝」での「大明神」の割合は2%と、非常に低い。一方で、「清めの滝」では、「熊鷹社」にはなかった「命」が5件、「龍王」が4件、「龍神」が1件、「天王」または「王」が2件見られ、多様性に富んでいる。「龍」にまつわる神号が多いのは、「お滝」があるからかもしれない。これは、今後の他の「お塚場」の調査で明らかにしたい。図1 不動明王像、役行者像などを祀ったお堂図2 図1のお堂の説明板昭和初期に大峯山から勧請した鐘掛不動明王を祀るお堂を昭和50年に有志によって再建されたことがわかる 神号「○○大神」の○○の部分を判読できたのは、211件のうち200件であった。判読率は95%と、「熊鷹社」の89%に比べ高かった。これも、「清めの滝」は、小鳥居が塚石の前になく、視認が容易なことが一つの要因である。「大神」など最後の部分が異なっても、最初の○○の部分が同じであれば、同じ神号とすると、神号の種類は174件にのぼる。この件数は判読神号数の87%で、「熊鷹社」の81%に比べて高かった。神号がよりバラエティーに富んでいるということである。 そのなかでも、多い神号をあげると、「白玉」4件、「白龍」3件、「石切」3件である。「白玉」は「熊鷹社」でも上位にランクされ、ポピュラーな神号の一つといえよう。「石切」は「熊鷹社」ではゼロ件だったので、「清めの滝」独特の神号であるかもしれない。 多く登場する漢字の上位12件をあげると、「白」26件、「丸」19件、「光」17件、「玉」16件、「吉」15件、「春」14件、「福」9件、「龍」9件、「石」8件、「一」7件、「八」7件、「豊」7件となる。これらのうち、「白」、「丸」、「光」、「玉」、「吉」、「福」は、「熊鷹社」の上位12件にも登場するので、神号に使用される漢字としてポピュラーなものといえよう。「熊鷹社」で1位31件の「熊」、7位17件の「鷹」は、「清めの滝」では、両者とも3件と少ない。「熊鷹社」でこれらの漢字が多く登場するのは、「お塚場」の名称からであろう。図2 「清めの滝」で最も大規模な「お塚」5.建立者の住所、建立年代 塚台や基台に建立者の住所が刻まれているのが確認できたのは、「お塚」42基中11基のみであった。「熊鷹社」の79基中50基であったのと比べると大幅に少ない。この理由は不明である。 建立年代が刻まれているのが確認できたのは42基中28基であった。こちらは、「熊鷹社」の79基中29基に比べて高い。この理由も現在のところ不明である。 石造の鳥居に刻まれた年代も含め、最も古い年代は1924(大正13)年、最も新しい年代は1998(平成10)年であった。分布を見てみると、1924(大正13)年~1930(昭和5)年4基、1931(昭和6)年~1940(昭和15)年14基、1941(昭和25)年~1950(昭和25)年3基、1953(昭和28)年1基、1969(昭和44)年1基、1971年(昭和46年)~1980(昭和55)年5基、1981(昭和56)年~1990年(平成2)年2基、1998年(平成10)年1基となっている。現管理者発言の約100年前(1923年頃)創建という話と符合する。「熊鷹社」の「お塚」建設年代の分布と比較すると、「清めの滝」の最初のピーク1924年~1950年と2回目のピーク1971年~1980年は、「熊鷹社」ではいずれもゼロになっている。明治時代後半から大正時代にかけてのブームで、既存の「お塚場」の余地がなくなって、新しい「お塚場」の誕生に繋がったり、戦後も、ある「お塚場」の余地がなくなると、他の「お塚場」に需要が流れたりなど、「お塚」にも経済原理が働いたのかもしれない。 「熊鷹社」の「お塚」建立者名の中には、会社名、会社経営者名が多く見られ、「商売繁盛」祈願の「お塚」の側面がみられたが、「清めの滝」では1件のみであった。「清めの滝」は教会併設のお塚場」であり、その信者が「お塚」建立の主役となったということなのかもしれない。6.終わりに 「清めの滝」の全「お塚」を調査し、昨年度の「熊鷹社」同様の統計分析を行い、「熊鷹社」との類似点、相違点を明らかにすることができた。今後、引き続き他の「お塚場」も調査し、時代背景に重ね合わせて、「お塚」の歴史を体系的に分析していきたい。よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「『清めの滝』の『お塚』研究」その1 次回「『権太夫の滝』の『お塚』研究」その1→
2026/08/23
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2017年度から、京都産業大学日本文化研究所の上席特別客員研究員を務めさせていただいています。私は「伏見稲荷大社の不思議研究」をメインテーマに研究を続けてきました。◎’平成29年度(2017年度) 『お滝』の成立過程と現状◎’平成30年度(2018年度) 『お滝』の成立過程と現状 その2◆令和元年度(2019年度) 「知られざる伏見稲荷大社」研究とフィールドワーク設計・実施◎令和2年度(2020年度) 『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚◎令和3年度(2021年度) 「熊鷹社」の「お塚」研究◆令和4年度(2022年度) 「清めの滝」の「お塚」研究◆令和5年度(2023年度) 「権太夫の滝」の「お塚」研究◆令和6年度(2024年度) 「八嶋の滝」の「お塚」研究◎令和7年度(2025年度) 「千本鳥居」の研究◎はこのブログでも研究成果をすでに公表してきたものです。ただし、◎'については、その年の研究成果そのものではなく、同じような内容を「京(みやこ)カレッジ」という講座で発表したので、その内容を「伏見稲荷大社とその周辺の『お滝』について」というタイトルにて連載させていただきました。2021年度から2024年度は、各「お塚」個別に研究し、先日まで「『熊鷹社』の『お塚』研究」を連載させていただきました。今回、「『清めの滝』の『お塚』研究」について、成果報告書に手を加え、写真・地図なども添えて報告させていただきます。******************************************「清めの滝」の「お塚」研究 その11.はじめに 伏見稲荷大社の社領とその周辺の景観を特徴づけているのが、多くの「お塚」群である。過去の「お滝」の研究で言及してきたように、ほとんどの「お滝場」には「お塚」が祀られている。昨年度から、その個々の「お滝場」「お塚場」に焦点を当て、研究を進めている。昨年度は、「熊鷹社」のお塚群について、現地踏査による調査を行った。今年度は、引き続き「清めの滝」のお塚について、現地踏査を行ったので、その概要を「熊鷹社」との比較も含め報告する。2.「清めの滝」の立地 「清めの滝」は、伏見稲荷大社奥社のすぐ南側に立地している。奥社への道は「千本鳥居」であり、多くの参拝者、観光客で賑わうが、その目と鼻の先にありながら、訪れる人は皆無に近い。伏見稲荷境外の「お滝場」であるし、何の道標もないので無理もない。昨年度研究対象にした、「お山巡り」のメインルート途中にある「熊鷹社」と大きく環境が違うところである。「清めの滝」の位置を図1に示すが、この地図を頼りに「清めの滝」に辿り着くのは難しい。筆者も発見するのに苦労した。文章でも説明しておく。 2つのルートがあるが、奥社経由で行くのがよいであろう。千本鳥居を抜け奥社境内に入ると右側(南側)にトイレに下りる階段がある。下りたら舗装のない道をトイレの方向(西側)とは反対側(東側)に、右側(南側)を注視しながらゆっくり進む。少しの距離のところに、立札も道標もない、細い道の入り口が見つかる。少々険しい下り道なので注意しながら進むと「清めの滝」がある。図1に位置関係を図示する。図1 「清めの滝」の位置3.管理者への取材 当研究の当初2018年にも、管理者の方に取材しているが、今回改めて取材を行った。それらを総合すると、「清めの滝」は次のような歴史となる。 現管理者(年齢70歳から80歳と推定)で2代目であり、お父様が今から100年くらい前に、「お塚場」「お滝」を始められたとのこと。すなわち大正時代後半の創建ということになる。大正14年発行の吉田初三郎作の「伏見稲荷大社境内名所図絵」には掲載されているが、大正元年発行の「官幣大社稲荷神社境内及び稲荷山神蹟全図」には、掲載されていないことと符合する。 「伏見稲荷教會」の看板のある建物は、現管理者のお父様が組織した伏見稲荷教会の参集所だった。現管理者は、別の職業に就かれ、教会を継がず、お父様一代限りの教会となった。今、この建物に信者の方が参集されることはない。遅くとも1980年頃には、教会の活動は終え、以降は、現在のご主人が維持管理をして来られたと推定される。宿泊所はなく、「お山巡り」の方が、宿泊されることはなかった。 「お滝」は川水を使っていたが、上流に畑がたくさんできて、水がひどく濁って、滝行には不適切な水質になったので、20年くらい前に止めたとのことなので、現管理者が維持管理を始められた後に、止められたことになる(図2)。図2 清めの滝 (水は流れていない) 崖崩れで倒壊した「お塚」も多いが、「お塚」の持ち主も、ほとんど分からなくなっており、再建はできていない。清浄を保つのが精一杯とのことである。図3、図4に示すように整備が行き届いているとはいえないし、倒れたままのお塚も散見される。図3 「清めの滝」境内図4 倒れたままの「お塚」もあるよろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「『熊鷹社』の『お塚』研究 その3」 次回「『清めの滝』の『お塚』研究 その1」→
2026/08/22
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熊鷹社の「お塚」研究 その34.「お塚」・塚石・神号の数、神号の種類 「お塚」の数は79基、塚石の数は180基であった。すなわち、「お塚」当たりの、塚石数の平均は2.3基ということになる。最大は11基であった。 全神号数は301件を数えた。塚石当たりの神号数の平均は1.7件、「お塚」当たりの神号数平均は3.8件ということになる。 神号は「○○大神」あるいは「○○大明神」とされたものがほとんどである。この「大神」「大明神」の部分が判読できたものは、301件の神号数のうち291件であった。うち、「大神」が204件、「大明神」が78件、「明神」が3件であった。その他6件のうち3件は「○○神」の部分を省いたもの、残りは「地神」、「不動明王」、不動明王像である。現地踏査中、不動明王像の「お塚」を参拝する人を多く見かけた。所有者以外の人と思われ、「お不動さん」信仰が盛んであることを目の当たりにした。「難切り不動尊」と呼ばれ、あらゆる災難を切ってくれると言われる。難切り不動尊 神号の「○○大神」の○○の部分を判読できたのは、301件のうち269件であった。「大神」であっても「大明神」であっても○○の部分が同じであれば、同じ神号とすると、神号の種類は実に217件にのぼる。すなわち、大部分が異なった神号ということである。建立者が自分の好きな神号を名付けているのである。なかには、建立者が冨士崎千代子という「お塚」の神号の1つが「冨士崎大神」となっているょうに、自分の名前をそのまま神号にしている場合すらある。「神様の名前は何でもOK」の感がある。 そのなかでも、多い神号をあげると、「白玉」6件、「白光」5件、「白瀧」4件、「末廣」4件、「熊鷹」4件、「朝日」または「旭」4件、「福徳」4件、「熊吉」3件、「光玉」3件、「若丸」3件である。多く登場する漢字も分析してみた。「熊」31件、「光」31件、「白」31件、「玉」30件、「吉」26件、「福」22件、「鷹」17件、「高」16件、「丸」15件、「瀧」11件、「三」10件、「徳」10件などである。5.建立者の住所、建立年代 塚台や基台に建立者の住所が刻まれているのが確認できたのは、79基の「お塚」のうち50基であった。内訳は大阪府27基、愛知県5基、京都府4基、兵庫県3基、滋賀県3基、福岡県3基、東京都2基、奈良県1基、和歌山県1基、三重県1基であった。大阪府が半数強を占める。地方別では地元関西が39基で約4分の3を占めるが、愛知県、福岡県、東京という関西以外の大都市の建立者も相当数ある。東端は東京都である。 建立年代が刻まれているのが確認できたのは29基であった。石造の小鳥居、大鳥居、灯籠、ろうそく台、狛狐像に刻まれた年代も参考にはなるが、後年付設される場合が多いので、ここでの分析では省いた。最も古い年代は1899年(明治32年)、最も新しい年代は1985年(昭和60年)であった。分布を見てみると、1899(明治32)年~1900(明治33)年5基、1901(明治34)年~1910(明治43)年2基、1911(明治44)年~1920(大正9)年12基、1951(昭和26年)~1960(昭和35)年6基、1961(昭和36年)~1970(昭和45年)3基、1985(昭和60)年1基となっている。明治晩期から大正時代にかけて第一次のブーム、戦後昭和20年代後半から昭和40年代前半まで第二次のブームといった様相を呈している。 建立者の名前の中には、よく知られた名やネット検索で発見できる名もあった。東京の和菓子店「塩瀬総本家」、四代目竹本織太夫木津屋吉兵衛などがそうである。会社などは、今も存続するものが多いが、一方でネット検索で見つからないものも多い。栄枯盛衰である。6.終わりに 熊鷹社の全「お塚」を調査することができ、色々な統計をとることもできた。また、「お塚」の基本的な構造も把握することができた。今後、他の「お塚場」も調査し、時代背景に重ね合わせて、「お塚」の歴史を体系的に分析していきたい。よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「『熊鷹社』の『お塚』研究 ②」 次回「『清めの滝』の『お塚』研究 ①」→
2026/08/21
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今日は、OJRセンターで6回目の重粒子線照射と診察でした。通常は月、火、木、金の週4日の照射日なのですが、加速器などのメンテで、今週は月、火、水、木と4日間連続で通いました。家内が用がないときは、最寄り私鉄駅まで送り迎えしてくれました。感謝。1回目から整理すると1回目 8/13(木) 第2治療室 仰向け姿勢 垂直照射 診察あり2回目 8/14(金) 第3治療室 うつ伏せ姿勢 垂直照射 診察あり3回目 8/17(月) 第3治療室 仰向け姿勢 垂直照射4回目 8/18(火) 第1治療室 うつ伏せ姿勢 斜め45度右上照射5回目 8/19(水) 第3治療室 仰向け姿勢 垂直照射 CT撮影6回目 8/20(木) 第3治療室 うつ伏せ姿勢 垂直照射 診察ありうつ伏せ姿勢のときは分からないのですが、仰向け姿勢のときは機械の動きがある程度分かります(体は固定具で押さえつけられているので、目で追うだけですが)。照射の前後に横から板状のものが出てきます。何かと尋ねたらレントゲンだそうです。恐らく骨の位置を照射前後で確認して、それを基準にして照射をしているのだと思います。それから、照射窓は特に空いていません。四角い蓋がしてあって、そこから貫通してくるそうです。照射のあとの担当医師による診察は、「体調は変化ありませんか。」という質問だけでした。「特に変化ありません。」と答えました。以前の粒子線治療で経験おり、腫瘍が明白に小さくなるのが分かるのは照射治療が全部終わってからというのは分かってはいたのですが、「腫瘍の大きさはどうですか?」と聞いてみました。やはり「まだ始めたばかりなので、変化ないでしょう。」とのことで、昨日撮ったCT画像と照射開始前のCT画像の比較も、医師は見せてくれませんでした。来週8/28の診察は9回目の照射前のCT撮影の後で、合計16回の照射の半分が過ぎたタイミングなので、画像比較をしてくださるかもしれません。よろしかったら、下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/08/20
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熊鷹社の「お塚」研究 その23.お塚の構造 「お塚」の構造は、それぞれの「お塚」によって、若干異なるが、標準的には次のような構造であることが分かった。「熊鷹社」の「お塚」の例を図1に示す。図1 「熊鷹社」の「お塚」の例 腰の高さほどの四角形の台(ここでは「塚台」と呼ぶ)の上に、階段状の四角形の台(ここでは「基台」と呼ぶ)があり、その上に「お塚」(ここでは「塚石」と呼ぶ)が設置されている。塚石は、1個だけのこともあれば、複数基の場合もある。塚石には「熊鷹大神」など、神号が刻まれている。 1個の塚石に刻まれる神号は、1つだけのこともあれば、複数のこともある。塚石の形は、上下に長い楕円形状(完全な楕円ではなく自然な形)のものが一般的であるが、墓石のような四角柱のものもある。熊鷹社では、それぞれ1個だけだが、扇形のもの、神殿形状(図2)のものも発見した。 図2 塚石部分が神殿形状の「お塚」 塚台や基台には、狛狐像1対が置かれていることが多い。また、屋根付きの「ろうそく台」が1個なし1対、塚台の上に設置されていることも多い。塚石の前には、小さな石造の鳥居が1基ないし複数基設置されている場合もある。お供え物を置く、祭壇が塚台の前に設置されている場合もある。面積の広い「お塚」では、大きな石鳥居が塚台の前の少し離れた位置に建てられていることもある。稀ではあるが、灯籠が設置される場合もある。 塚台や基台に建立者の名前や住所が刻まれている「お塚」も多い。個人や会社組織によって建立されもの以外に、稲荷講社や各種団体によって建立されたものもあり、この場合は、共同建立者の多くの名前が刻まれている。稲荷講社によって建立された場合は、教師の名が刻まれるのが一般的である。建立年月が塚台、基台、塚石裏面に刻まれている場合もあるが、刻まれていない場合も多い。 雨天でも参拝できるよう(「お塚」の風化を防ぐ目的もあるかもしれない)、木製の屋根が設けられた「お塚」も多い。ただし、木製なので劣化が早く、建て直しが頻繁にあるため、書かれた建築年代は古くはない。よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「『熊鷹社』の『お塚』研究 ①」 次回「『熊鷹社』の『お塚』研究 ③」→
2026/08/19
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2017年度から、京都産業大学日本文化研究所の上席特別客員研究員を務めさせていただいています。最初の年に決めたテーマは、ずっと変えることはできません。私のテーマは「伏見稲荷大社の不思議研究」です。過去、次のような小テーマを設定して研究してきました。◎’平成29年度(2017年度) 『お滝』の成立過程と現状◎’平成30年度(2018年度) 『お滝』の成立過程と現状 その2◆令和元年度(2019年度) 「知られざる伏見稲荷大社」研究とフィールドワーク設計・実施◎令和2年度(2020年度) 『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚◆令和3年度(2021年度) 「熊鷹社」の「お塚」研究◆令和4年度(2022年度) 「清めの滝」の「お塚」研究◆令和5年度(2023年度) 「権太夫の滝」の「お塚」研究◆令和6年度(2024年度) 「八嶋の滝」の「お塚」研究◎令和7年度(2025年度) 「千本鳥居」の研究◎はこのブログでも研究成果をすでに公表してきたものです。ただし、◎'については、その年の研究成果そのものではなく、同じような内容を「京(みやこ)カレッジ」という講座で発表した内容としました。2021年度から2024年度は、各「お塚」個別に研究しました。これからしばらく、それらについて、多少手を加えて研究内容をしたためさせていただきます。まず最初は「熊鷹社の『お塚』研究」です。****************************************熊鷹社の「お塚」研究 その11.はじめに 伏見稲荷大社の社領とその周辺の景観を特徴づけているのが、多くの「お塚」群である。過去の「お滝」の研究で示してきたように、ほとんどの「お滝場」には「お塚」が祀られている。昨年度から、その「お塚」に焦点を当て、研究を進めている。昨年度は荒木神社内の私の生誕地に由来する「お塚」についてピンポイントの研究を行った。今年度から、「お塚場」ごとに各「お塚場」全体をとらえて研究を進めていく。「お塚場」の数は、30箇所以上あると考えられ、今年度は「熊鷹社」のお塚群について、現地踏査による調査を行った。2.熊鷹社熊鷹社は「お山巡り」の主経路にある「お塚場」のなかでは、最も奥社から近い「お塚場」である。奥社からは、歩いて約10分のところにあり、最も多くの観光客が訪れる「お塚場」であるだろう。観光客は「千本鳥居」の景観に続き、ここで「お塚」群の特異な景観に驚かされることになる。ここでは、ほとんどのお塚に朱塗りの木製小鳥居が多数供えられている。管理茶屋「竹屋」のご主人によると、この小鳥居はそれぞれの「お塚」の関係者によって奉納されたものとのことなので、大部分の「お塚」が持ち主により継承され維持されているということであろう。 一見、伏見稲荷大社の社領地内のように見えるが、地図で確認すると、熊鷹社および三辻から熊鷹社への参道は、深草開土町口町が半島のように突き出た部分にあり、住所が伏見稲荷大社とは異なるので社領地外かもしれない。しかし、伏見稲荷大社の末社という扱いになっている。下記地図で熊鷹社の位置を示す。熊鷹社の位置神秘的な雰囲気の漂う社殿谺(こだま)ヶ池(新池)行方不明になった人を探す時にこの池のほとりで手を叩き、こだまが返って来た方角に手がかりがあるというよろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「『伊勢國一身田』の刻字のある『お塚』その4 」 次回「『熊鷹社』の『お塚』研究」②→
2026/08/18
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「伊勢國一身田」の刻字のあるお塚 その47.現地調査結果からの仮説これまで述べてきた各現地調査の結果から次のような仮説を立てた。●明治時代、一身田の地で、鈴木勘五郎氏は稲荷教師として伊勢花栄講を開き、一身田やその周辺 地のみならず、遠くは東京、神戸、信州などにも信者を持った(地元信者の親類縁者かもしれな い)。●鈴木勘五郎氏は伏見稲荷お山巡り裏参道の荒木社の地に明治33年2月お塚を建立した。●一身田で料理屋を営んでいた菊池藤治郎(菊地藤次郎)氏は伊勢花栄講の熱心な信者で、大正元 年九月に荒木社お塚前に石鳥居を奉納した。●鈴木勘五郎氏死去のあと、未亡人の鈴木かつ(子)氏が教師を継いだ。●大正10年9月風雨でお塚が倒壊し、鈴木かつ氏が、大原常之助氏、菊池藤治郎(菊地藤次郎)氏、 松村弥次男氏を発起人として、お塚の再建が行われた。若林定吉氏の名も刻まれている。名前の 刻字の大きさから主たる浄財提供者は菊池藤治郎氏と考えられる。●大正15年3月、一御田神社境内に花山稲荷が建立された(京都山科の花山稲荷からの勧請か)。 寄付人14人には菊池藤次郎氏、大原常之助氏、松村弥次男氏、若林定吉氏が含まれる。鈴木姓が 2名入っているが、鈴木勘五郎氏、かつ氏の子孫かもしれない。●昭和8年9月、菊地藤次郎氏、若林定吉氏によって、玉保院に2基の水槽が寄進された。●昭和35年に荒木社を引き継ぎ荒木神社が創建された。鈴木かつ氏亡き後、伊勢花栄講は存続でき ず、お塚の発起人の代替わりとともに(神社の所持者が変わったことも影響したかもしれな い)、すでにお塚は関係者により維持管理がされなくなっていた。●一御田神社内の花山稲荷は地元の氏子たちによって維持されている。●荒木神社内のお塚は近年倒壊で危険な状態になり、神社によって移設され維持管理されている。8.最後に まだまだ情報不足で上記は大胆な仮説であることは否めないが、伏見稲荷大社周辺で「一身田」と彫られた鳥居の驚きの発見をして数年後、ここまで知ることができたのは、大きな喜びである。 以上よろしかったら下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚」 「『熊鷹社』の『お塚』研究①」 次回→
2026/08/17
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「伊勢國一身田」の刻字のあるお塚 その35.玉保院の水槽の刻字の現地調査 本堂正面左右に本堂屋根からの雨水を溜める水槽が2基あり、それぞれ次のように刻字されている。(左右は本堂に向かって)●左「當所橋向町 喜久家 菊池藤治郎 昭和八年九月 五十四才 妻 ゑい」(図1)●右「當所橋向町 花定 若林定吉 昭和八年九月 七十九才 妻 むめ」(図2)図1 本堂に向かって左の水槽の裏側の刻字図2 本堂に向かって左の水槽の裏側の刻字6.一御田神社のお塚 一身田には寺内町として発展する以前からの鎮守社であった一御田(いちみだ)神社が鎮座しているが(図3)、その境内に「花山稲荷」が祀られていることが分かった(図4)。図3 一御田神社 図4 花山稲荷(一御田神社内)の扁額石鳥居には「平成七年六月吉日」とあり(図5)、その後ろには約15本の朱塗りの木の鳥居が続いており、「平成二十三年十月吉日」と墨書されている(図6)。図5 花山神社の石鳥居図6 花山稲荷の朱塗り鳥居 奥には小さな社殿があり、その後ろには「花山稲荷大明神」と刻まれたお塚が建てられている(図7)。その裏には「大正十五年三月建之」とともに寄付人名14名の刻字がある(図8)。うち若林定吉と菊地藤次郎(玉保院は菊池藤治郎)が玉保院水槽の刻字と共通。伏見稲荷裏参道の荒木神社お塚とは、松村弥次男、若林定吉、菊地藤次郎(荒木神社は菊池藤治郎、菊地藤次郎両方あり)が共通。図7 花山稲荷の「お塚」図8 花山稲荷の「お塚」裏面に刻字された名前 本殿の前だったと思うが、「~命(みこと)」と祭神を書いたと思われる木札があり、なかに「松村彌次男命」と書かれたものがあった(図9)。松村彌次男は神として祀られているようである。図9 祭神名(と思われる)を書いた木札よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚」 次回「『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚」→
2026/08/16
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「伊勢國一身田」の刻字のあるお塚 その24.「伊勢國一身田」の刻字のあるお塚の現地調査 このお塚について現地調査を行い、分かった事実を列挙する。●お塚は裏参道沿いの猫の額のような離れ小島の土地にあるが、荒木神社の境内地であることが分 かった。●荒木神社は、明治時代に鎮座した荒木社を引き継いで、昭和35年に創建された。ゆえにこのお 塚は荒木社の時代に建てられたものである。●「伏見稲神社御山独案内」(大正2年発行)(図1)や「官幣大社稲荷神社境内稲荷山神蹟全 圖」(大正2年発行)(図2)には「荒木明神」と記され、昭和初期発行と推定される「伏見稲 荷山参拝圖」(図3)には「荒木社」と記されている。図1 「伏見稲神社御山独案内」(大正2年発行)図2 「官幣大社稲荷神社境内稲荷山神蹟全圖」(大正2年発行)図3 「伏見稲荷山参拝圖」(昭和初期発行<推定>)●お塚の手前の石鳥居には「奉納」(図4)、「伊勢國一身田」(図5)、「御料理貸席 㐂久家藤 治郎 書 ゑい子」(図6)、「大正元年九月建之」(図7)と刻まれている。図4 鳥居の「奉納」の字刻図5 「伊勢國一身田」の字刻図6 「御料理貸席 㐂久家藤治郎 書 ゑい子」の字刻図7 「大正元年九月建之」の字刻●最初発見した2014年2月時点では、お塚群は基壇の上に乗っていたが(図8)、現在は一対の狐像 とともに向かって左側の空き地に移され(図9)、コンクリート地盤に、しっかりと設置されてい る(図10)。神社の方のお話では、お塚が倒壊したりして危険な状態になったが、所有者と連絡が とれず、神社側にて移設したとのこと。元お塚群が載っていた祭壇には、ほとんど何も残ってい ない(図11)。図8 2014年2月9日撮影 (お塚群は祭壇上に見える。祠の左側は空き地)図9 2020年12月18日撮影 (お塚群は祠の左側に見える)図10 移設されたお塚群図11 お塚群が移設された後の祭壇●神社の方のお話では、お塚は所有者からの志納で維持管理し、修理が必要な場合など、所有者に 連絡して対処してもらっているとのこと。しかし連絡がつかなくなっているお塚も多く、その場 合、修理は神社負担で行っている。●基壇に鳥居から外れた扁額が置かれており「正一位花栄大神」と書かれている(図12)。図12 「正一位花栄大神」の扁額●基壇に向かって左に石碑があり「維時明治三十三年二月 勢州一身田 鈴木勘五郎 神威のいや ちこなるを畏み 神石を茲(ここ)に創建せしに 大正十年九月風伯に侵され倒壊せしを悲しみ 未亡人かつ子其遺志を紹ぎ(つぎ)世話人等と勠力(りくりょく)再建し以て永劫に傳ふと云爾 (しかいう)」と刻まれている(図13)。図13 「お塚」再建の経緯を刻んだ石碑●基壇正面最上段の石には「伊勢花栄講」、その下の段には「教師 鈴木かつ 㐂久家藤治郎」と刻まれている。その左「若林定吉」「鈴木清一」「国枝文(江?)」と刻まれている(図14)。図14 「伊勢花栄講」「教師 鈴木かつ 㐂久家藤治郎」などの字刻●最下段には、「大正拾 年十二月改築 発起人 大原常之助 菊地藤次郎 松村弥次男」と刻まれ、それに続き世話人と して池田弥一郎はじめ14人の名が刻まれている(図15)。図15 「大正拾年十二月改築 発起人 大原常之助 菊地藤次郎 松村弥次男」などの字刻●お塚の回りの石玉垣には、一身田誰々、津市誰々、一志郡誰々などと刻まれており、お塚建立者 が一身田町内にとどまらないことを示している。 ●基壇には名前とともに「信州世話人」「神戸」「東京」など三重県から離れた地名も見える (図16)。図16 「信州世話人」「神戸」「東京」などの字刻 ●お塚は全部で23基残っており、それぞれには神名のみが刻まれ、建立者は刻まれていない。各 お塚の神名は、「花丸・花菊」「花光・八丸」「寶丸・花徳」などとなっており、花・光・栄な どの字が多用され、建立者自身の姓名の一部を使用したものも多いように思われる(図10)。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚」 次回「『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚」→
2026/08/15
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今日は、OJRセンターで2回目の重粒子線照射でした。公共交通機関で往復しましたが、家内が最寄り駅への送りと迎えに車を出してくれました。いつも感謝。今日は、第三治療室で、うつ伏せで背中からの照射でした。CT撮影など余分な作業はなかったので、30分程度で終わりました。照射のあと担当医の診察がありました。質問は「お腹に痛いところはありませんか?」だけでした。「ないです。」と答え終わりそうだったのですが、疑問に思っていること、分からないことをいくつか尋ねました。まず、「今日の照射は背中側からだったが、腎臓を傷めることはないのか?」という質問。担当医の回答は、「病巣の垂直位置と腎臓の垂直位置は数ミリしかオーバーラップしていないので、腎臓全体に粒子線が当たることはありません。」 腎機能の低下で、透析まで行くリスクが高いと書いてきましたが、今日の回答を聞いて、あまり心配する必要はないのかなと思いました。次に、「前回の診察で、前の粒子線治療で当たった大腸付近は、大腸を痛めないようにするため、照射できないので、再発リスクが非常に高い、と聞きましたが、全然照射できないのですか?」 医師の回答「そうではありません。6~7割の強度で当てますが、殺傷力が弱くなるので、再発リスクが高いということです。消化器に接した部分も6~7割の強度で当たります。」淡い期待ですが、ひょっとすると再発は免れることができるかもしれないと思いました。最後の質問。「ラぺプラゾールという薬を処方いただき飲んでいますが、これは、下剤を飲んだり、ガスコンという胃腸内のガスを除去する薬を飲んだりして、胃内が荒れるのを防ぐための薬ですか?」 医師の回答、「そうではありません。重粒子線が、胃の一部や十二指腸にもわずかに当たることによって、過剰な胃酸分泌が起こる可能性があります。そのことによる、胃潰瘍や十二指潰瘍、胃液の逆流によっておこる食道炎などを防ぐためです。」疑問点が分かり、ポジティブにとらえることのできる回答もあり、少々救われた気分になりました。来週は、月、火、水、木と4日連続で照射があり、水曜日には照射後初めてのCT撮影があり、それに基づいた担当医の診察が木曜日にあります。よろしかったら、下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/08/14
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今日は、OJRセンターに初回治療に行きました。家内は家内の実家のお墓参りに行ってもらい、最寄り駅へだけ送ってもらって、あとは公共交通機関で往復しました。治療の前に、先生の診察がありました。7月31日に採血した血液検査の結果、クレアチニンが高くなって1.91になっている旨の説明がありました。前に看護師さんからも聞いていたし、K病院での血液検査と同じ値なので驚きはしませんでした。抗がん剤治療の影響か、一時的に高いだけなのかも知れないとのことでしたが、私は抗がん剤治療の影響だと思っています。これから徐々に低くなっていくかもわからないし、そのままなのかも私にはよく分かりません。一方で重粒子線治療で腎機能への影響がある可能性があるので、それでさらに悪化する可能性もあります。設計した治療計画の画像を見せてもらいました。病巣のうち、2015年の重粒子線治療で重粒子線を浴びている大腸近辺の部分は、当てすぎると大腸を損傷するので、癌を殺傷するだけ当てられない。従って、再発は免れないとの説明でした。「絶対に再発しますか?」と聞いたら、「絶対と思っておいてください。」とのこと。前回診察を受けたときは、「再発リスクが高い」という説明でしたが、だいぶニュアンスが違います。ちょっとショックでした。問題の十二指腸のところは指摘がなかったので、ギリギリまで照射できるのかもしれませんが、そこまで聞けていません。明日も診察があるので、確認してみます。照射は第二治療室で、仰向け姿勢で行われましたが、前回CTで浣腸をして病巣位置や形状を元の状態に戻して撮影した経緯があるので、まずCT撮影を行いました。また浣腸してから、病巣の位置・形状を再確認してから照射という可能性はありましたが、前の晩に下剤を通常の1.5倍にして、極力お腹の中を空に近づけましたので、浣腸までは不要で、そのまま仰向け姿勢の照射がありました。その後、うつ伏せ状態のCT撮影もありました。通常なら30分以内に終わるのですが、上記のようなプラスアルファの作業があったので、1時間程度かかりました。両腕を頭頂部に上げて、バーを掴む姿勢を続けなければならないので、少々疲れました。今日は治療1日目ということで、重粒子線治療分の費用支払いがありました。前立腺がん以外は、重粒子線治療本体の費用は何回照射しようと一律、237万5千円ですが、私のがん「軟部肉腫」は保険適用で、私はマイナンバーカードを保険証として使っていますので、最初から高額医療が適用され、支払いは約11万円で済みました。2015年前の軟部肉腫では、当時まだ保険適用でなく「先進医療」に分類されていましたので、高額医療もきかず、約300万円の支払いが必要でした。しかし、医療保険で先進医療特約(半額のみ)に入っていたので、あとから約150万円が返ってきて、結果的には約150万円の支払いで抑えることができました。そのときと比べると、経済的には大助かりです。今では多くの「がん」が保険適用になっていますが、例えば食道癌や腎臓癌は、未だに先進医療で保険適用されていません。これから9月8日まで15回、OJRセンターに通うことになります。よろしかったら、下記と「いいね」をぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/08/13
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もうだいぶ前のことになりますが、2020年12月に「伏見稲荷裏参道の故郷名が入った鳥居 」というテーマで、このブログに投稿しました。(こちら⇒第1回、第2回、第3回)その結果をまとめ、京都産業大学日本文化研究所上席特別客員研究員の2020年度の研究報告書にしました。研究報告書は2ページ程度にまとめる必要があり、写真などを入れる余裕がありません。当時のことを思い出しながら、報告書に手を加えながら、写真などを添えて、ここに改めて報告をしたいと思います。******************************「伊勢國一身田」の刻字のあるお塚1.はじめに 研究計画書では『「あなたの知らない伏見稲荷大社」研究とフィールドワーク設計の継続』を取組テーマとした。しかし、特別客員研究員応募時の研究計画書で、将来の研究課題の一つにあげた『「伊勢国一身田」の刻字があるお塚』について、予期せぬ展開があったので、今年度はこれを研究課題とした。2.『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚の発見 この「お塚」は、伏見稲荷大社お山巡りの裏参道の御産場稲荷と三つ辻間の道沿いにある。京都の寺社巡りをするなかで2014年2月に偶然発見したものである。鳥居(図1)に「伊勢國一身田」(図2)、「御料理貸席 㐂久家藤治郎 大正元年九月建之」(図3)と刻まれている。図1 「伊勢國一身田」の刻字がある鳥居図2 「伊勢國一身田」の刻字図3 「御料理貸席 㐂久家藤治郎 大正元年九月建之」の刻字「一身田」(いしんでん)は現三重県津市郊外にある町で(図4)、私の生誕地である。そこから遠く離れた京都の地で「一身田」の地名を発見して非常に驚いた。図4 三重県津市一身田町お塚の基壇上段には「㐂久家藤治郎」の名が刻まれている(図5)。図5では見にくいが、基壇下段には発起人3名の1人として「菊池藤次郎」の名が刻まれている。「㐂久家」は屋号で、「㐂久家藤治郎」が仕事上の名前、「菊池藤次(治)郎」が本名と考えていいのではないだろうか。近代における商売繁盛の稲荷信仰の隆盛を物語る証左として興味を持ち、特別客員研究員応募時の研究計画書に将来の研究課題の一つとしてあげた次第である。図5 「お塚」の基壇上段に刻まれた「㐂久家藤治郎」の名。下段に発起人の一人として、「菊池藤次郎」の名が刻まれている。(この写真では判読できない)3.一身田の菩提寺で「菊池藤治郎」の名を発見 私の親族の法要を一身田町の菩提寺玉保院(ぎょくほういん)(図6)で営んだ際、本堂前の水槽(図7)に「菊池藤治郎」と刻まれているのを偶然発見した(図8)。ご住職談では、菊池藤治郎氏は、一身田で料理屋を営んで財をなし、こうやって寺院などに多くの寄進をしたとのことであった。そしてそのご子孫の連絡先を教えていただくことができた。驚いたことに私の小学校の同級生だった。ご子孫が小学生の頃、すでに料理屋は営んでいなっかったと記憶している。ご子孫から詳しくお話を聞きたいと思い、このお塚についてより詳しく現地調査をすることにした。図6 玉保院図7 玉保院本堂前の水槽(写真左下)図8 水槽裏の「菊池藤治郎」刻字 「その2」に続くよろしかったらぽちっとお願いします。←前回「京カレッジ『お滝の研究』」その8 次回「『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚」その2→
2026/08/12
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伏見稲荷大社とその周辺の「お滝」について その8(最終回) ワルディー・ヨーリョ15.なぜこれほど多くの「お滝」が存在するのか 修行・潔斎のための滝は全国に点在するが、これほど多く集合しているところは、他に例をみない(図1に伏見稲荷大社とその周辺の全「お滝」の写真を示す)。なぜ、稲荷山とその周辺には、これほど多くの「お滝」が存在するのか、その理由を研究結果をもとに推論してみた。・明治時代の前から、修験者、山伏、巫覡、一部の稲荷信者などの修行・潔斎の場として、自然の 滝や簡易的に造られた少数の滝が稲荷山域には存在していたのではないかと考える。「白滝」、 「鳴滝」などがそうかもしれない。 (図2に浄蔵貴所が修行したと伝わる坊外遺跡の写真を示す。「お山巡り」の三ツ辻を北に行っ たところにある)・一方で、稲荷山は、それほど急峻な山ではなく、また「葛城山」や「大峰山」の修験の場のよう に女人規制でもなく、平安時代から「初午」のときには、多くの老若男女が「お山巡り」をし た。「枕草子」第152段「うらやましげなるもの」には清少納言も「お山巡り」をしたと書かれ ている。その他の多くの古典文学にも登場し、祈りの場だけではなく、物見遊山的な側面があっ たことを窺い知ることができる。・伏見稲荷大社のご祭神は、農耕の神様だが、いつしか商売繁盛の祈りの場としても人気を博する ようになり、より多くの参拝者が訪れるようになった。・江戸時代になると、伏見稲荷大社の浄財を集める本願所「愛染寺」が整備され、全国に稲荷社が 勧請され、稲荷信者が全国的に増加した。「江戸に多いもの、伊勢屋、稲荷に犬の糞(くそ)」 と落語でネタにされるほど江戸には稲荷社が増えた。・明治初期の神仏判然令で、本願所「愛染寺」が廃寺となり、唯一神道にふさわし社頭になった が、一方で愛染堂・弘法大師堂・弁財天堂・大黒天童・文殊堂などの諸堂は取り払われ、荼枳尼 天、弁財天、歓喜天への信仰の場もある日突然無くなってしまった。また、それまで授与品の神 璽(神宮の印)には「何々大神」と自由な神名を書くことができたが、俗称の神名が禁止され、 「稲荷大明神」のみに改められた。行き場を失った庶民の信仰が山上に、「私の神様」を彫った 「お塚」の形で現れた。(図3に神璽の例を示す)・明治7年、七神蹟地と参道以外は上地令で官有林となった。庶民信仰の発現である「お塚」は表 向き禁止であったが、官有林の管理が行き届かず、「お塚」がさらに増え、修行・潔斎の滝も求 められようになり、場所によっては「お滝」が併設されるようになった。・もともと京阪神都市圏に近いという地の利があったが、明治15年以降、東海道線稲荷駅、京都 電気鉄道、京阪電気鉄道が次々と開業し、アクセスが容易になり、さらに参詣者が増えた。・明治35年、官有林が境内に編入されたが、ルール上は新規「お塚」は認められなかったため、 水流の得やすい社領地外の谷間に「お塚」、「お滝」が拡大していった。山上より、谷間の方 が、「お塚」の石を安価に運べるという経済的な理由もあったかもしれない。・大正前半期、日本全国が好景気に沸き、参詣者や滝行者がさらに増え、「お塚」、「お滝」もさ らに増えた。・昭和2年、稲荷講社が設立され、全国からのオダイさんや熱心な信者が「お山」を行い、稲荷講 による「お塚」が増えるとともに、滝行者も増加した。・宗教の制限がなく,稲荷神蹟の神々に纏わる「お滝」だけではなく、真言宗系、日蓮宗系、天台 宗系、教派神道系の「お滝」も存在し、受け入れの間口が広かった。・湧水が豊富で、流量のある自然流が稲荷山山中や南北の谷部に存在する。また、江戸時代から溜 め池もあり、滝水の確保が容易だった。このように、複数のな要因が重なり合って、「お塚場」や「お滝」が増えていったものと推察される。16.「お塚場」「お滝」の現状と将来 「お塚場」の運営は、「お塚」所有からの志納や、地代・管理料奉納によって成り立っている。管理者のお話によると、「お塚」もその所有者の世代交代とともに、世話がされなくなってしまうことが多く、所有者の分からなくなっている「お塚」も多いという。寺院のお墓も同様であるが、お墓の場合は、仏教への信仰心がなくても、後継ぎさえいれば、何とか継承されることも多いと思われるが、「お塚」の場合は、信仰心頼りという側面があり、継承がより難しいのではないかと思われる。 また、先代の管理者は若い頃から専業だったが、現管理者は別に職業を持っているとか、その職業を退職後、管理者をしているとか、奥様が管理をしてるとかいうところが大多数で、今も専業というところは、「お山巡り」の本道沿いで観光客の多い「薬力滝」だけであった。「お塚場」の運営が専業では成り立たなくなっている。管理者の多くは、「お塚」がある限り、滝行者がいる限り、「お塚場」、「お滝」を守っていきたいとおっしゃっており、使命感と信仰心によって、維持されているのが現状である。維持には費用もかかり、年月の経過とともに志納のない「お塚」はさらに増えるであろう。文化財に指定されているわけではもなく、このままでは、いずれこの独特の神秘的な景観を目にすることができなくなるかもしれない。 現地踏査の際、日本人観光客に出会うことはほとんどなかったが、多くの外国人観光客と出会った。「七面滝」の入り口には、図4に示すように、英語で書かれた看板のあった。ある管理者のお話では、外国の旅行ガイドブックに「お塚場」や「お滝」を巡る道が紹介されているそうである。 筆者は単純に観光資源として有効活用すればいいと考えた。例えば、ご朱印、「お滝」巡りスタンプラリー、「お塚場」ごとのお守りやグッズの販売、滝行体験などである。しかし、管理者の皆さんから返ってきた答えは、消極的、否定的であった。そもそも「お塚場」や「お滝」は神聖な場所であること、滝行は生命の危険を伴うこと、滝行をする人の中には人に知られたくない事情を持った人もいることなどが理由である。「お塚場」の同業者組合のようなものもなく、同じ町内会として、近くの「お塚場」の管理者とは懇意にしていても、伏見稲荷大社の南側の「お塚場」の管理者は、北側の「お塚場」の管理者と面識がないそうで、共に行動する基盤もないとのことであった。 しかし、考えてみると、京都の神社仏閣の多くは、祈り、お参りの場であると同時に、観光の対象でもある。そして述べてきたように、稲荷山域は昔から、神聖な場所であると同時に物見遊山の場でもあった。滝行が盛んなときも、真剣な滝行と、避暑のための水浴び的な滝行が同居していたという。この独特の神秘的な空間を継承するためにも、観光資源としての活用を視野に入れてもいいのではないかと考えている。17.最後に この研究の機会及びその発表の機会を与えてくださり、ご指導いただいた京都産業大学日本文化研究所の関係者の皆様、現地踏査でインタビューにお答えいただいた、各「お滝」の教祖・管理者の皆様、特に研究のきっかけを作ってくださり、何度も取材に応じてくださったうえ、滝行もご指導いただいた「権太夫滝」の教祖様に深く感謝いたします。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「京カレッジ『お滝の研究』」 次回「『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚」その1→
2026/08/11
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今日は、OJRセンターに行ってきました。治療開始前の最後の通院です。なにか重要な話を聞くわけでもないし、いつも家内に運転してもらうのも負担をかけるので、前回同様公共交通機関で往復しました。OJRセンターのホームページに示された「受診から治療の流れ」では、前回の「CTシミュレーションとCT撮影」の後は、1日「治療リハーサル」が、治療開始までにあることになっており、「治療室で実際の治療と同じような内容の練習をします。治療台に横たわって腫瘍の動き等も確認します」となっています。ですので、てっきり治療室に入るのかなと思いましたが、違いました。前回の「CTシミュレーション」の部屋で、固定具を付けてのCT撮影でした。最初に、うつ伏せの姿勢でCT撮影がありましたが、看護師さんから「ちょっと気になるところがあるので浣腸して、もう一度CT撮影します」とのこと。前と腫瘍や臓器の位置が体内の便の影響でズレていたのでしょう。浣腸用のトイレがあり、そこに行って浣腸してもらって、排便した後に再撮影。今度はOKでした。仰向けの姿勢もOK。これで今日のプログラムは終わり。看護師さんに「治療室でのリハーサルはないんですか。」と聞いたら「今日のプログラムに入っていません。今日は、前回と腫瘍や臓器の位置が異なっていないかの確認が目的でした。」とのこと。前回、前々回の呼吸訓練で特に問題なかったし、体の静止も問題ありませんでしたので、リハーサルの必要はないだろう。それよりも、今回の私の腫瘍治療は特に腫瘍や内臓の位置が重要なので、リハーサルをすっ飛ばして、今回のようなプログラムになったのでしょう。最後に、看護師さんから、今後の各治療日に前もって治療表に記入してこなければならない項目について説明がありました。「治療の前に浣腸になる可能性があるので、下剤の量は上手く調整してください」との注意もありました。いよいよ、8月13日から9月8日まで、計16回の治療が始まります。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/08/10
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伏見稲荷大社とその周辺の「お滝」について その7 ワルディー・ヨーリョ13.各「お滝」の所在地特定と創建年代 全「お滝」の所在を、伏見稲荷大社社領内か否か、伏見稲荷大社管理か否か、現役の「お滝」か否かを含めて図1に示す。併せて、今回の研究で、詳細所在地が特定できなかった「お滝」、研究によって詳細所在地が特定できた「お滝」、新たに発見した「お滝」も示した。 今まで述べてきた研究から、これら「お滝」の創建年代と、廃滝となった場合の年代を特定・推定した結果を図2に示す。 年代の根拠は、「お滝」管理者などへの取材、「お滝」建設年代を示す石碑、現地の説明板、第6章にあげた地図への記載の有無、第5章にあげた文献での記載などによる。創建年代については、約3分の2が、ほぼ特定できたといえる。残り3分の1は、まだまだ研究の余地がある。特定できたなかで、多いのが明治末期から大正期にかけての創建である。鉄道網の発達により、参拝者が増え、それとともに「お塚場」や「お滝」が増えていったものと推定される。 多くが、明治末期から大正期を創建年代とするなかで、3つの「お滝」を江戸時代末期から明治時代初期としたが、推定の域を出ない。「白滝」は管理者への取材で、創建は江戸時代とのお話であったことと、現管理者で6代目ということからである。「薬力滝」の管理者への取材では、創建は不明とのことであったが、現管理者で8代目ということから、おおよそ割り出したものである。「鳴滝」は「朱」36号の「稲荷山のお塚についての覚え」に、明治2年の「山林掛襍誌」に「鳴滝」の名が登場するためである。ただ、この「鳴滝」が今の「鳴滝」と同じ場所だという確証はない。「白滝」も「鳴滝」も、自然水流や簡易な工事で「お滝」を造れるような場所にあり、江戸時代あるいはそれ以前から修験者が滝行を行っていた可能性は考えられる。 伏見稲荷大社管理のものも含め、すべての「お滝」が私設で創建されているためか、管理者の方々に取材する限り、記録がほとんど残っておらず、代替わりを多く経た今、創建年代の特定が難しい状況となっている。14.廃滝の年代の特定・推定 廃滝時期については、現管理者あるいは先代、先々代での廃滝が多く、廃滝にあたって、現管理者自身が見聞したケースが多いので、取材によって比較的正確に年代を特定できた。 廃滝の理由としては、滝行人口の減少が1つあげられる。13回にわたって現地踏査をしたと述べたが、その間、滝行する人の姿を見ることはなかった。管理者のお話でも、多くても、月に数人とか、ある決まった時期に信者さんの団体が来られて滝行をする程度とのことであった。 他には管理者あるいは教祖の代替わり時に継承が途切れてしまう例である。前出の「ねざめ滝」「岩龍滝」がそうである。 「清メ滝」のように、上流が開発されて田畑になり、水流が濁ってしまったりとか、前出の「たつみ滝」のように、近隣に学校が建設されて、水流が弱くなったりとかが原因という例もあった。 水流はないが現存する「お滝」でも、「御壺滝」や「熊鷹本滝」については、無住となっており、廃滝の理由を特定することはできなかった。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「京カレッジ『お滝の研究』」 次回「京カレッジ『お滝の研究』」→
2026/08/09
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伏見稲荷大社とその周辺の「お滝」について その6 ワルディー・ヨーリョ11.新たに発見した2つの「お滝」 第6章の地図に記載された「お滝」で、どうしても見つけ出せなかった「お滝」がある一方で、現地踏査を重ねる中で、記載されていない2つの「お滝」を発見することができた。 1つは「お山巡り」裏参道の入り口近くの「間力教会」の「間力滝」である。現地取材で、間力教会は昭和28年創建で、現教主で2代目であり、「お滝」は、その石鳥居に彫られているように昭和57年に建設されたものであることが分かった。尾根筋にあるので水流は水道水とのことで、お滝群の中で最も新しい「お滝」であり、唯一水道水を使う「お滝」である。 もう1つは、日蓮宗宝塔寺境内の「たつみ滝」である。すでに廃滝になっており、石碑で昭和25年に建設されたものであることが分かる。幸いにも、境内を掃除されている地元の檀家さんにお話を聞くことができ、この「お滝」はある熱心な信者さんの寄進によって造られたが、近くに学校(当時の立命館高校)が建設された後、水流が弱くなり、約20年前に廃滝になったとのことである。 図1に両「お滝」の写真を示す。12.歴史の中で名前の変わっている「お滝」 古地図などのリストを再掲する。①西川文吉、他2名「官幣大社稲荷神社境内及稲荷山神蹟全圖」(1913)②松岡貞次郎「伏見稲荷神社御山獨案内」(1913)③吉田初三郎「伏見稲荷大社境内名所図会」(1925)④中村風祥堂「伏見稲荷参拝図」(推定昭和初期)⑤伏見稲荷大社編「続・お山のお塚 参拝経路図」(1966)⑥深草稲荷保勝会「伏見稲荷大社付近名所案内図」(2001) ⑦北尾鐐之助「近畿景観 第三編 京都散歩」(1934) 上記の地図に記載の「お滝」のなかには、、歴史のなかで、名前が変遷しているものがいくつかある。前出の「不動滝」→「岩龍滝」がそうである。 それ以外では、「末広滝」と「七面滝」の間の「お滝」がそうである。図2に示す。①では「新熊鷹新」となっており、②では「三光滝」となっている。①はあまりデフォルメされていない地図であることから考えると「熊鷹新滝」は現在の「御劒滝」と考えられる。一方、②では、隣接する2つの「お滝」からの距離が記載されており、ちょうど中間に位置することから、こちらの「三光滝」も現在の「御劒滝」と考えられる。しかし、①と②の地図は両方とも、1913年に発行されているので、正式名と通称といったように、複数の呼称があったと考えるのが妥当であろう。その後、所有者が替わるなどして「御劒滝」という名称になったとのではなかろうか。ただ、「御劒滝」の管理者の方は、「熊鷹新滝」、「三光滝」の名前は聞いたことがないとのことであった。 もう1つは「清滝」上流の「お滝」で、①では「荒滝」、②では「笠杦早瀧」、③では「初音滝」④では「清明滝」となっていてる(図3)。現存の「お滝」の名称は「清明滝」である。「清明滝」は伏見稲荷大社社領にあり、かつ伏見稲荷大社が直接管理する2つの「お滝」のうちの1つである(もう1つは「清滝」)。これについては前出の文献「朱」36号の「稲荷山のお塚についての覚え」に、昭和9年に「初音滝」を改修して「清明滝」と改称したとあるので、「初音滝」が同じ場所で「清明滝」となったのは間違いない。「荒滝」「笠杦早瀧」も同じ場所にあったのかどうかは不確かではあるが、「お滝」に適切な場所は自ずと限られてくるので、同じ場所で「荒滝」→「笠杦早瀧」→「初音滝」と変化していったと考えてもいいのではなかろうか。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「京カレッジ『お滝の研究』」 次回「京カレッジ『お滝の研究』」→
2026/08/08
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左目の白内障の手術を4月2日にK病院で行い(こちら)、右目の手術をその翌日に決心し、6月4日の手術を予約をした(こちら)。併行して、軟部肉腫の治療が進行中であった。手術での軟部肉腫の摘出ができないかK大病院を紹介してもらい診察を受け、その検討結果を聞きにいく予定が6月4日になり、重なってしまった。軟部肉腫の治療を優先するため、6月4日の右目白内障手術を延期せざるを得なかった。また、その軟部肉腫の抗がん剤後の治療もどのような方法で、いつ行うか全く予想がつかず、日程未定の延期となった(こちら)。最終的に、軟部肉腫の治療を重粒子線治療で行うことになり、先日、その日程も確定した。8月13日から9月8日までだ。その後の体調がどうなっているかわからない部分はあるが、以前の重粒子線治療の経験から、治療後1ヶ月程度は、治療効果はそれほど現われず、体調面での副作用も、まだ出始めないと思われる。そこで、重粒子線治療終了後、1ヶ月くらいの間のに右目の白内障手術ができればと思い、昨日、軟部肉腫の関係でK病院に診察に行った(こちら)ついでに眼科に立ち寄った。眼科の窓口で事情を説明したところ、「では、受付で申し込んでから来てください」とのことで、受付を済ませ眼科へ。一通りの検査を終えた後、先生の診察を受けた。今度は女医さんだった。「手術は重粒子線治療の終わる9月8日以降でお願いします。」とお願いしたところ、「一番早いタイミングで、9月29日になります。」とのことで、9月29日の手術が決定した。手術前に3日間差す目薬は、前の手術予定前に処方を受けたものが冷蔵庫保管で未開封で残っていると伝えたところ、「じゃぁ、それを使ってください。」となった。また、事前に心電図の検査が必要だが、9月10日に軟部肉腫の泌尿器科、腫瘍内科の診察があるのを看護師さんが察知し、その日に入れてくださった。何度も足を運ばずに済むのでありがたい。ようやく右目の白内障手術の日程が決まった。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「白内障手術」 次回「白内障手術」→
2026/08/07
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今日は、K病院で予約してあった、泌尿器科と腫瘍内科の診察を受けました。まず、採血・採尿をして、泌尿器科へ。OJRセンターで8月13日から9月8日まで、重粒子線治療を受けることになったことを伝え、エコーで腎臓の腫れを検査。特に異常なし。次回予約を重粒子線治療の終わた後の9月10日にしてもらいました。続いて腫瘍内科へ。ここでもOHRセンターで重粒子線治療を受けることを伝えました。血液検査の結果です。ヘモグロビン 前回7月21日より改善はしているものの、抗がん剤治療前のレベルには戻っていません。これからも改善しいていくとは思います。腎臓は、赤血球の数を調整するホルモン「エリスロポエチン」を分泌していますが、腎臓の機能が低下すると、この分泌量が減少し、赤血球が不足します。重粒子線治療で腎臓が影響を受けて、元に戻らないかもしれません。クレアチンニン 腎機能を直接示す指標です。若干の回復傾向があるものの高止まりです。このまま高止まりの場合は、重粒子線治療の副作用で、さらに悪化する可能性があります。その他いつもは追っかけてない指標で気になるものの推移をみてみました。アルブミン 肝機能の指標です。Lowを示すLマークが付いていたので推移を調べました。抗がん剤治療前から下限ギリギリで、ほぼ元に戻っているので、あまり問題視しなくてもいいのかなと思います。アミラーゼ 膵臓に異常があると値が上昇しますが、腎機能が低下した場合も、アミラーゼが体外へ排泄されにくくなり、血液中の値が上がることがあります。今回HighのHマークがついていましたが、改善方向なので、このまま正常値に戻るのかなと思います。しかし、クレアチニン値同様、今後の重粒子線治療の副作用で腎臓への影響があれば戻らないかもしれません。リパーゼ 急性膵炎やその他の膵臓疾患の診断において特に重要な指標ですが、アミラーゼ同様、腎臓の働きが低下しても高くなります。すでに正常値に戻っているので問題ないかなと思います。しかし、クレアチニン、アミラーゼ同様、今後の重粒子線治療の副作用で高くなる可能性があります。MCV 赤血球1個当たりの、平均的な大きさを示します。MCVが高いということは、赤血球が大きくなっている=造血に何らかの異常があるというサインです。 確かに腎機能が低下しているので、造血に異常があり、高い値になるのはいたしかたのないところ。ただ。もともと高めであり、今回、上限を超えたのは、ごくわずかなので、あまり気にしなくていいのではと思います。MCH 赤血球1個当たりの、平均ヘモグロビン量です。今回、上限をわずかに超えました。ヘモグロビンが少ないので、赤血球1個あたりのヘモグロビン量で補っているのでしょうか。総ビリルビン ビリルビンは、古くなった赤血球が分解される過程で作られる黄色い色素です。ビリルビンは赤血球の分解によって作られます。貧血がある場合には、総ビリルビン値が低くなることがあります。これは、赤血球が減ることで、赤血球が壊れる時に生じるビリルビンが少なくなる事、ビリルビンが持つ抗酸化作用が関係している事が原因と考えられています。私は、もともと赤血球が少ない(前回の重粒子線治療による腎機能の低下が原因)ためか、総ビリルビリンは下限ギリギリでした。抗がん剤治療中は、抗がん剤投与直後は理由は分かりませんが、一旦上昇し、しばらくすると下限を割るという繰り返しになっています。直近3回の血液検査ではクレアチニン値が高くなったまま、ほぼ横ばいですので、総ビルビリン値も低位横ばいになっています。腎機能が回復してくれば、この値も上昇して正常値に戻ると思われます。総蛋白 総蛋白は、血液中に含まれるすべてのタンパク質の総量です。 血液中には100種類以上のタンパク質が存在し、それぞれが重要な役割を果たしています。 主な構成要素はアルブミンとグロブリンで、これらのタンパク質は体内の水分バランスの調整、栄養素や薬物の運搬、免疫機能の維持など、様々な機能を担っています。主要構成要素の一つがアルブミンなので、アルブミンンの変遷と同じような変遷になっています。抗がん剤治療中は基準値を下回る瞬間もありますが、すぐ正常値に回復しています。今回も正常値に戻っているので特に心配の必要はないでしょう。好中球 好中球は、白血球のなかでもっとも数が多い顆粒球の一種です。白血球は、異物から体を守る免疫機能を持ちます。抗がん剤などの薬物によって、好中球減少症が引き起こされる場合もあります。骨髄での好中球の生産を抑制することや、好中球を破壊する作用を持つことがあるためです。特に、抗がん剤は腫瘍細胞だけでなく正常な細胞にもダメージを与え、好中球数の大幅な減少を招くケースが珍しくありません。一般的に、抗がん剤治療の開始後7日目から10日目頃から白血球の数が減り始め、10日目から14日目頃に最低になり、3週間くらいで回復していきます。グラフを見ると、抗がん剤投与で一旦上がりますが、その後下った後、快復しているのが分かります、特に第5クールと第6クール後はこの低下が酷かったので、好中球回復のためのフィルグラスチムという注射を打ってもらいました。今は正常値ですし、今回の重粒子線治療では好中球や白血球への影響はないと考えられるので、特に気にする必要はないでしょう。単球 単球は白血球の一種で、白血球の中で最も大きな細胞です。骨髄の中で生まれ、成熟したあとに、血中へと送り出され、生体内をパトロールして異物や病原体の侵入を監視する役割を担います。K病院腫瘍内科のY先生の話では、単球が少々高めということは、まだ白血球が快復途上にあるということとのこと。今回、上限値でしたが、あまり気にする必要ないようです。白血球、好中球、単球とも今回の重粒子線治療では気にする必要はないようです。尿検査の方で気になる指標尿蛋白 腎臓や尿管などの泌尿器に異常があると、血液中に戻るはずのタンパク質がフィルターをすり抜けて尿中に漏れ出してしまうため高くなります。抗がん剤治療で腎機能が悪化しましたので上限を超えたときもありましたが、現時点では上限値です。重粒子線治療では、腎臓がダメージを受ける可能もあるので、要注視です。尿潜血 尿潜血とは、尿に血が混じっている状態を指します。ただし、見た目では分かりません。腎機能の低下があると高くなります。尿蛋白同様、抗がん剤量で上限を超えたときもありますが、現時点では上限値です。尿蛋白同様、重粒子線治療では、腎臓がダメージを受ける可能もあるので、要注視です。やはり、今回の重粒子線治療の副作用として最も心配なのは、さらなる腎機能の低下です。腫瘍内科の次回診察日を泌尿器内科の診察日と合わせてもらい、9月10日とした。泌尿器、腫瘍内科の診察が終わり、眼科の診察を受けました。一度キャンセルした、右目の白内障手術をお願いするためです。→こちらよろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/08/06
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その1から続くこの重粒子線を体内まで到達させるには、十分な速度が必要なので加速器が使われる。光の70%の速度まで加速される。OJRセンターのそれは図1のような加速器であり、直径約17m、周長約57mに及ぶ。図1 OJRセンターの加速器この加速器によって、加速された重粒子が3つの治療室まで送られる(図2、図3)。治療室1は水平方向と45度方向の照射ができ、治療室2及び3は水平方向と垂直方向の照射ができる。がん病巣やその位置によって、これらの方向を組み合わせて行われる(1日の治療では1方向のみ)。図2 加速器から重粒子線が3つの治療室に送られる図3 治療室重粒子線を照射は、図4に示す「三次元スキャニング照射法」によって行われる。ビームをスキャンすることにより塗りつぶすように照射していく。私が2015年に重粒子線治療を受けたときは、面照射によるものだった。医学はやはり進化している。三次元スキャニング照射法は従来方法に比べて、・複雑な腫瘍形状に対応可能・ボーラス・コリメータ(注)が不要・日々変化する腫瘍の形や位置に対応可能・ビーム利用効率が高い (注)ボーラス・コリメーター:スポットライトのように広がった重粒子線ビームを、深さ方 向の調整を行い、さらに二 次元的に腫瘍の形に切り出す装置 などの優れた特徴を持っている。これにより、さらなる線量の集中と副作用の低減が期待できる。また、ボーラス・コリメータが不要となるため、腫瘍の形状が変化しても臨機応変に治療照射が行える。OJRセンターのホームページには、治療ができる条件として「治療対象部位が消化管に近接していないこと」と書かれている。私の軟部肉腫は消化管に近接している。だから、治療をお願いしても門前祓いかと思っていた。でも、治療をしていただけることになった。これは、やはりこの三次元スキャニング照射法で、消化管にかなり近いところまで照射できることになったためであろう。また、2015年に受けた、軟部肉腫の治療では、確か30数回の照射を受け、治療に2ヵ月程度かかった。今回は16回の照射で、治療期間も約1ヵ月である。これも三次元スキャニング法でビームを集中して当てることができるからかもしれない。図4 三次元スキャング法さらに、呼吸によって腫瘍の位置が変化するため、「動体追跡照射法」が使われている。動体追跡照射法は、がん細胞が呼吸や体の動きによって移動することに対応するために開発された。がんの位置をリアルタイムで追跡し、照射範囲を動かすことで、正常な組織への被ばくを最小限に抑えつつ、がんへの放射線量を十分に確保する。これも、2015年の私の1回目の重粒子線治療ではなかった技術であろう。いやぁ、やはり医学の進歩はすごい。図5 呼吸で息を吸ってふくらんだ胸 図6 呼吸で息を吐いたとき (照射はされない) (がん病巣位置を察知して照射される) 約10年前から進歩した技術に我が身をを託すことになる。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/08/05
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いよいよ8月13日から、重粒子線治療を受けることになる。2015年にも、兵庫県立粒子線医療センターで重粒子線治療を受けたので、そのときの知識はあるが、もう10年も経っているので、進歩している部分もあると思うし、記憶も薄れかけているので、OJRセンターのホームページを参考に自分自身でまとめておきたい。******************************************陽子(水素イオン)や重粒子(炭素イオン)などの粒子を加速させたビームを粒子線と呼ぶ。このうち重粒子を使って治療を行うのが重粒子線治療である。下図のように重粒子線は放射線の一種である。通常の放射線治療に使われるエックス線も放射線の一種である。図1 放射線の種類エックス線も粒子線も体の中まで進み、がんを殺傷する能力がある。ただ、エックス線は、体の表面近くでその効果が最大になり、エネルギーを与えながら体を通る抜ける。それ故、がん病巣ではない組織も損傷させてしまう。(図2、図3)図2 エックス線治療の照射のイメージ 図3 エックス線治療でのがん病巣のイメージ(正常な細胞も破壊してしまう)それに対して、陽子線や重粒子線は、体のある一定の深さで付与エネルギーのピーク(ブラックピーク)を作ることができ、その前後では弱く抑えることができるという特性がある(図4)。図4 各放射線の生体内における線量分布このブラックピークをがん病巣の位置に合わせることで、がんだけを集中的に狙い打ちすることができ、正常組織への影響を最小限に抑えながら、体の深いところにあるがんだけを殺傷することができる(図5、図6)。図5 粒子線治療のイメージ図6 粒子線治療でのがん病巣のイメージ(がん病巣だけを狙い打ちできる)また、重粒子は陽子線やエックス線と比べて、がん細胞を殺傷する能力が、2~3倍高く、1回の照射で得られる効果が大きいため、治療期間を短くすることができる。図7は、各放射線のDNA傷害の違いを示している。エックス線はDNAの二重螺旋構造の片側のみしか切断しない確率が高いのに対し、重粒子線はDNAの二重螺旋両方を切断する確率が高く、より確実にがん細胞を破壊する。図7 各放射線のDNA傷害の違い 「その2」に続くよろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/08/04
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今日はCTシミュレーションのために、OJRセンターに出向きました。7月31日に作った固定具で身体をしっかり固定した状態(実際の重粒子線照射時の体の位置)でCT撮影をしました。この結果をもとに、治療計画が立てられます。本来は造影CTをするのですが、この前の血液検査でクレアチニン値が高く、腎機能が低下しているとのことで、造影剤なしの単純CTになりました。あとで看護師さんに確認したら、クレアチニンが1.91だったとのこと。7月21日のK病院での血液検査のクレアチニン値と全く同じでした。悪くはなっていませんが、1.5レベルには戻っていません。まだ疲れやすさが残っているのも、腎機能が低下しているせいかもしれません。腎機能は赤血球関係の数値にも影響します。看護師さんには聞いていませんが、ヘモグロビン等赤血球関係の数値も元に戻っていないのではないかと思います。CT撮影は、うつ伏せと仰向けの2つの体位で行われました。重粒子線照射時の体位が、この2種ということでしょう。固定具はそれぞれで違います。うつ伏せの方は、問題なかったのですが、仰向けの方が、固定具と体の間の隙間が大きくて安定しないとのことで、2回固定具の修正がありました。作り直したのかなと思って看護師さんに尋ねたところ、樹脂製の固定具は、再度温めると柔らかくなり、それを体に密着させることで修正ができるとのことでした。体重を図ったら、固定具を作ったときより、1.5kgくらい減っていました。固定具を作ったときは昼食直後であったこと、今回は朝5時までに食事を済ませなければならなかったけど、起きることができなくて、朝食を抜いたこと、飲水も極力控えたこと、下剤の処方があるため身体の水分が少なくなったことなどが原因でお腹回りが痩せたのかなと思います。うつ伏せ、仰向け、それぞれのCT撮影が終わったあと、マジック(特殊なものと思いますが)で固定具の位置合わせのための線が、背中や腹部、足に引かれ、上からテープが貼られました。看護師さんから、お風呂でゴシゴシ洗わないように、シャツやタオルに色移りする可能性があるので、汚れてもいいものを使うようにとの注意がありました。また、固定具のフィット性を維持するために治療中は体重はプラス・マイナス2kg以内に収めること、特に下剤を使っていて、かつ夏場なので、水分を十分とるようにとの注意がありました。固定具の修正があったので全部で2時間近くかかりました。同じ姿勢を長時間続けなければならなかったので、多少疲れました。OJRセンターのホームページによると、今後、以前撮影したMRIや今回のCT画像をもとに、医師・医学物理士などが協力して、治療計画の作成が行われます。治療計画専用のコンピューターに標的となる癌の位置や形状を入力し、照射ビームの角度、線量(照射する量)など、最適な照射方法が検討され、カンファレンス(会議)で討議されたうえ、最終的な治療計画が決まります。これに5~7日間かかります。次回は、8月10日の治療リハーサルです。治療室で実際の治療と同じような練習をします。治療台に横たわって腫瘍の動きなども確認されます。今日は公共交通機関で往復しましたが、帰りだけ家内に最寄り私鉄駅まで車で迎えにきてもらいました。感謝。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/08/03
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昨日の投稿で、重粒子線治療期間中に飲む薬のことについて書いたが、今日は、食事制限のことについて書く。以前の2015年の重粒子線治療のときには薬の処方はなかったと書いたが、食事制限もなかった。やはり、2015年の治療のときは腫瘍は腎臓の後ろ側で、食事によって、腫瘍の位置や形が変わったりすることがなかったからであろう。今回は、腫瘍が前腹部側なので、食事の影響で消化器が動き、腫瘍の位置や形が変わるので、食事にも注意を払わないといけないのであろう。次のような注意が一昨日の看護師からの説明であった。まず、照射治療の4時間前までには、食事を済ますせる必要がある。そして水分は照射1時間前まで。それ以降、照射が終わるまで、絶飲絶食。さらにガスが溜まりやすい食べ方をしてはいけない。急いで食事を食べたり、麺をすすって食べたりせず、ゆっくり食べること。そして、ガスが発生しやすい食品を避けること。下表のような食品はガスが溜まりやすいそうだ。炭酸飲料もダメ。さらに禁酒・禁煙。すなわち、ノンアルコール・ビールもダメということだ。かなり厳しいが、治癒のために1ヵ月強我慢せざるを得ない。献立面で家内にも色々気を遣わせる。ガスが発生しやすい食品よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/08/02
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昨日は、OJRセンターで、重粒子線治療の注意点について看護師の説明を受け、採血、MRI撮影、固定具の製作を行った。担当医師から、3種の薬の処方を受け、帰りに薬局で買い求めた。2015年の脂肪肉腫の重粒子線治療では特に食事制限や薬の処方はなかった。腎臓の後の腫瘍で、腫瘍の位置が動いたりということがなかったためであろう。今回は、前腹部に腫瘍ができ、その腫瘍は十二指腸、大腸、小腸など色んな消化器に接しており、食べ物や便により腫瘍の位置や形が変わったりする可能性があるので、それを極力抑えるために、食事制限や薬の処方がある。薬は、昨日から飲み始め、照射の終わる9月7日まで飲み続けなければならない。薬は下記の3種。まず、ピコスルファート。いわゆる下剤である。小腸や大腸に極力、便がない状態にし、腫瘍位置や形を安定させるためであろう。寝る前に、水に10滴入れて飲む。便が固かったり、下痢になったりしたら、量は自己調整可能である。下図5~6の便の状態にしなければならない。かなり下痢に近い状態のように思う。2番目が、ガスコン錠。胃腸管内の小さなガスを合体させ体外へ排泄させやすくする作用がある。ガスによる腫瘍位置や形への影響を極力減らすためであろう。朝・昼・夕と服用する。3番目が、ラベプラゾール。「胃粘膜細胞の胃酸分泌機構を阻害することで胃酸分泌を抑制する。それにより胃や十二指腸の潰瘍を速やかに治癒し、逆流性食道炎に伴う痛みや胸やけなどをやわらげる。」という薬の説明書きがある。医師の説明では、胃や十二指腸も照射の影響で潰瘍が起こることがあるので、そのための薬ということだったと思う。うろ覚えなので、今度の診察のときに聞いてみたい。薬局発行の薬の説明書よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/08/01
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今日は重粒子線治療をすると最終決定して、初めてのOJRセンター行きでした。今日は一人で公共交通機関で往復しました。片道1時間半はかかります。10時過ぎには、OJRセンターに着き、最初に主治医の診察がありましたが、K病院の最近の血液検査でクレアチニン値が1.9まで上がっていることや、ヘモグロビン値がなかなか元に戻らないことをグラフで示して(下図)、予定にはなかったのですが、採血もしてもらうことにしました。診察の後、看護師さんから、今日の流れや今後の予定の説明を受けました。次回の造影CTによるCTシミュレーションが8月3日、確認CT・リハーサルが8月10日、重粒子線照射による治療が、8月13日から9月8日のなかで16日間(時間は未定ですが、日は決定)です。内服する薬の説明や、治療が終わるまでの食事制限(後日説明しますが、かなり厳しいです)などの説明もありました。昼食をとった後、採血があり、そのあとMRI(単純=造影剤なし)がありました。以前にもここでMRIはしましたが、あれから日も経っているので、最新の情報で、重粒子線照射の設計をするためだと思います。その後、今日のメインイベントである固定具の作製でした。正確に照射するために、患者が動かないようにするための固定具です。仰向けとうつ伏せの状態で、それぞれ足部分の固定具、胴部分の固定具を作ってもらいました。詳しくは分かりませんが、足部分は、密閉したビニールの中に液体を入れていき、体温で固まるというものだと思います。足は暖かくなりませんでしたから。胴部分は薄い樹脂膜を温め(肌に温かみを感じましたので)、それを患者の胴にあて、体温や室温で冷えて固まると体にフィットした固定具ができあがるという感じでした。係の方が、おもりを載せたり、体にフィットするよう、冷えて固まるまで色んな場所を押し付けたりされていました。足部分が、仰向け、うつ伏せ、それぞれ15分、胴部分が仰向け、うつ伏せそれぞれ1時間、合計3時間くらいかかったと思います。最後に固定具を着けた状態で、呼吸の練習をしました。照射は自動的に呼吸の息を吐いた状態のときにされるようですが、深呼吸すると臓器や患部の位置が変化するので、普通の呼吸が必要だからです。練習の結果、特に問題なしとのこと。これで今日のプログラムは無事終了。処方してもらった薬を薬局で買い求めて家路につきました。長い一日でした。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/07/31
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伏見稲荷大社とその周辺の「お滝」について その5 ワルディー・ヨーリョ10.何とか場所が特定できた3つの「お滝」 古地図などのリストを再掲する。①西川文吉、他2名「官幣大社稲荷神社境内及稲荷山神蹟全圖」(1913)②松岡貞次郎「伏見稲荷神社御山獨案内」(1913)③吉田初三郎「伏見稲荷大社境内名所図会」(1925)④中村風祥堂「伏見稲荷参拝図」(推定昭和初期)⑤伏見稲荷大社編「続・お山のお塚 参拝経路図」(1966)⑥深草稲荷保勝会「伏見稲荷大社付近名所案内図」(2001) ⑦北尾鐐之助「近畿景観 第三編 京都散歩」(1934) ③では「末広滝」の上流に「岩滝」「不動滝」の順で2つの「お滝」の記載がある。④では、「末広滝」の上流には、「岩龍滝」「岩滝」の順で記載されている(図1)。実際に現場を探索すると、「末広滝」のすぐ上流にあり廃滝になっている「お滝」の鳥居には「岩滝大神」と書かれており(図2)、この「お滝」は「岩滝」と特定できる。そうすると、④の地図は、「岩龍滝」と「岩滝」の位置が逆とということになる。また、「岩滝」の上流の「お滝」は「不動滝」とも「岩龍滝」とも呼ばれていたことになる(図3)。なかなかその「お滝」を発見することができなかったが、さらに上流に足を踏み入れることで、ようやく「お滝」跡を発見することができた(図4)。幸い連絡先の電話番号が看板に書かれており(図5)、管理者の方に電話取材をすることができた。現在の管理者のお爺様が昭和8年に建設し、昭和25年に逝去後、お父様が継がれたが、やがて廃滝にしたとのこと。「お滝」の名前はご存じなかった。③は大正14年に発行され「不動滝」となっているので、推定の域を出ないが、管理者のお爺様が「不動滝」を譲り受けるか購入して、「岩龍滝」と名を替えられたか、建て替えて「岩龍滝」と命名したものと思われる。 ③の地図だけであるが「お山巡り」の裏参道沿いに「熊鷹滝」が記載されている(図6)。裏参道を上り、毎日稲荷から右手谷底を注意深く観察すると「お塚」が見える(図7)。毎日稲荷上の茶店「梶亭」のご主人に取材したところ、この谷底の「お塚」の場所に「お滝」があり、少年時代には「お滝」が実用されていたとのこと。教えていただいた年齢から、「熊鷹滝」は昭和25年から30年頃にかけて廃滝になったと推定できる。 ②の地図だけであるが、「権太夫滝」と「荒木滝」の間に「ねざめ滝」が記載されている(図8)。現地踏査したところ、この2つの「お滝」の間には、「お滝」の痕跡らしきものは存在しなかったが、ある民家の庭先に「お塚」が垣間見えたので、「権太夫滝」の教祖様に伺ったところ、やはり、その宅地内に「お滝」があったとの証言が得られた。もの心ついたときには、すでに「お滝」は稼働していなかったとのことなので、教祖様の年齢と②の地図への記載から、廃滝時期は昭和初期と考えられ、他の地図への記載がないことから、建設は大正年間と推定できる。非常に存続期間の短い「お滝」だったということになる。後日、その住宅を訪問して、庭の一画にある「お滝」跡を見せていただくことができた(図9)。現在の管理者のお爺様が明心教(教派神道の一つか)を始め、「お滝」も建設したようだとのこと。中学生のときお爺様が亡くなられたが、お父様は教祖を継承しなかった。「お滝」の水源であった溜池が農地になり(図10)、湧水を引いたが、パイプが破損してしまったことも、廃滝の引き金になったとのこと。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「京カレッジ『お滝の研究』」 次回「京カレッジ『お滝の研究』」→
2026/07/30
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前回7月27日の闘病記でOKGセンター大腸外科診察でのことを書きました。「腫瘍の摘出手術はできない。ということは重粒子線治療用のスペーサーを入れることもできない。スペーサー埋め込み手術なしの重粒子線治療になります。」とのことだった。根治できない可能性、再発の可能性の高い治療となる。もともと重粒子線治療の対象にならないと思っていたので、重粒子線治療ができることだけでもありがたいと思い、スペーサー埋め込み手術なしでの重粒子線治療をすることになりました。「今週中に、OKGセンター整形外科かOJRセンターから連絡を入れるようにします。」とのことでした。今日、OJRセンターから電話がありました。「7月31日11時に来てください。看護師によるオリエンテーション、重粒子線を正確に照射するための固定具作成、MRI撮影を行います。午後4時から5時くらいまでかかります。」とのこと。いよいよ重粒子線治療の準備が始まります。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/07/29
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伏見稲荷大社とその周辺の「お滝」について その4 ワルディー・ヨーリョ9.とうとう見つからなかった2つの「お滝」第6章にあげた古地図などのリストを再掲する。①西川文吉、他2名「官幣大社稲荷神社境内及稲荷山神蹟全圖」(1913)②松岡貞次郎「伏見稲荷神社御山獨案内」(1913)③吉田初三郎「伏見稲荷大社境内名所図会」(1925)④中村風祥堂「伏見稲荷参拝図」(推定昭和初期)⑤伏見稲荷大社編「続・お山のお塚 参拝経路図」(1966)⑥深草稲荷保勝会「伏見稲荷大社付近名所案内図」(2001) ⑦北尾鐐之助「近畿景観 第三編 京都散歩」(1934) 上記の古地図にはあるが、どうしても見つからない「お滝」が2つあった。②のみに記載されている「東福寺滝」と、③、④と⑤に記載されている「真心滝」である。 「東福寺滝」については、④では同じような位置に「廣一社」という表記がある(図1)。現地には確かに「廣一社」があり(図2)、「お塚」が残っていたが、近くに「お滝」あるいはその痕跡は発見できなかった。三ノ橋川沿いの少し上流に石垣らしきものを発見し(図3)、「お滝」の痕跡かとも思われたが、下りる道もなく、それ以上の探索は断念した。より上流の「五社滝」の管理者の方にも尋ねてみたが、「東福寺滝」という名前さえご存じなかった。 「真心滝」は古地図では、「青木滝」と「七面滝」「鳴滝」の間に位置する(図4)。この辺りをくまなく歩き回って探したが滝跡は見つからなかったし、隣接していただあろう「お滝」の管理者に尋ねてみても、どなたもご存じなかった。ところが、前述の「七面滝」で滝行を見学したとき、老齢の信者さんのお一人が「約70年前、子供の頃に父親が七面滝で滝行するのに、よく連れてきてもらった。すぐ下に真心滝という別のお滝があって、茶店も出ていて賑わっていた。」とおっしゃっていた。一方で、この場所で育って60年という、近くの鳥居製作所のご主人は、「真心滝」という名前さえご存じなかった。これらの言質から、「真心滝」は「七面滝」「鳴滝」のすぐ下流にあり、60年から70年くらい前に廃滝になったと考えることもできる。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「京カレッジ『お滝の研究』」 次回「京カレッジ『お滝の研究』」→
2026/07/28
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今日は、OKGセンターの大腸外科H先生の診察でした。今日も家内が往復運転してくれました。いつものように感謝。今日は、この前撮った胃カメラによる十二指腸内部の様子も含めて、他科の先生も加えての検討による次の治療方針案についての報告を受けることになっていました。前回のH先生のお話しでは、脂肪肉腫の手術摘出ができる可能性もあるとのことで、少し期待はしていました。しかし結果は、やはり手術摘出は無理とのこと。十ニ指腸などの臓器に密着していて、それを手術で取り去るのは無理とのこと。ちなみに胃カメラによる十二指腸の検体の分析結果は、悪性腫瘍は発見されなかったとのこと。ここはホッとしたところです。しかし、明らかに外から強く押されており途中まで浸潤している可能性はあるとのこと。手術摘出が無理なので、やはり、重粒子線治療を受けることになります。ただし、手術での摘出が無理ということは、臓器との間にスペーサーを入れることが難しいということになります。ですから、スペーサーを入れる手術なしでの重粒子線治療とせざるを得ないとのこと。ということは、臓器近くは避けての重粒子線の照射となるため、中途半端な治療になり、根治ができなかったり、再発のリスクが大きくなったりします。また、元々片腎で、前の粒子線治療で腎機能が低下しており、さらに腎機能が低下し、透析に至るリスクもあります。止むを得ません。癌が消化器に接しているため、重粒子線治療は無理と思っていたので、重粒子線治療ができるだけでも幸いと思わねばなりません。OKGセンターの成形外科から、OJRセンターに繋いでもらって、OJRセンターから私に今週中に、今後の重粒子線治療について連絡があるとのこと。これで、抗がん剤治療の次の方針が決定しました。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/07/27
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伏見稲荷大社とその周辺の「お滝」について その3 ワルディー・ヨーリョ7.現地踏査 各「お滝」の歴史は、文献には掲載されておらず、現地踏査が大きな情報源となった。滝建立記念石碑(図1)、石の鳥居や「お塚」(図2)などに彫られた年代を調査したり、教祖様や管理者(「滝茶屋」と呼ばれる(図3))の方への取材を行ったり、都合13日間にわたって現地踏査を行った。五社滝、荒木滝、ねざめ滝、権太夫滝、間力滝、白滝、薬力滝、不動滝、末広滝、白菊滝、七面滝、鳴滝、青木滝、弘法滝、命婦滝、八島滝、清メ滝の管理者や教祖様にお話を伺うことができた。 この研究を始めるきっかけとなった権太夫滝では、教祖様に作法を教えていただきながら、初めて滝行体験をさせていただいた(図4)。4月中旬のまだ寒い日であり、体が凍え、短時間で終わらざるを得なかったが、清廉な気持ちになり、身体の内から力が湧いてくるのを感じることができた。教祖様が「命の危険を伴うので、物見遊山の方はお断りし、初心者の方には必ず付き添います。」とおっしゃっていたのも理解できた。 七面滝、鳴滝では、かつての管理者は住んでおられず、彫工の大岩広生氏が家屋をアトリエとして活用しながら管理しておられる。七面滝は近くの日蓮宗宝塔寺の境外飛地であり、日蓮宗門徒の滝行場となっている。月に一度、大阪府柏原市欣心寺のご住職と信者連が滝行に来られるというので見学させていただき、お話をお伺いすることができた(図5)。ご住職曰く、「昔、滝行をする人が多かっのは、流行のようなところもあった。今は本当に信心深い人の滝行のみが残った。」 第6章に大正時代から昭和初期にかけて「お滝」を網羅した地図が多く発行されたことを示したが、これは当時は「お滝」が修行の側面以外に、観光の側面を持ち合わせていたからではないだろうか。8.鉄道網の発達(少し横道にそれます) 「お塚」や「お滝」が、明治時代後半から昭和初期にかけて急増したのは、鉄道網の発達で参拝者が急激に増加したことが一つの要因だと述べた。この研究の過程で、京都駅より南側の鉄道網の変遷には面白い歴史があることが分かった。既知のことで、ご存じの方も多いと思うが紹介しておく。図6を見ながら読んでいただくと分かりやすいと思う。・1879年(明治14) 官営鉄道 京都~稲荷~大谷 開設(翌年には大津延伸) 京都~稲荷駅南:現JR奈良線 稲荷駅南~太谷:ほぼ現名神高速道路・1895年(明治28)京都電気鉄道 七条停車場~下油掛間 開通・同年~1896年 奈良鉄道 京都~伏見~宇治~奈良 開通 京都~伏見駅南:現近鉄京都線 伏見駅南~奈良:現JR奈良線・1904年(明治37) 京都電気鉄道、勧進橋~稲荷間 開通・1907年(明治40) 奈良鉄道国有化・1910年(明治43) 京阪電気鉄道 五条~天満橋 中書島~宇治 開通 (京電稲荷線と平面交差)(図7)・1918年(大正7) 京都市が京都電気鉄道を買収。路線は京都市電に。・1921年(大正10) 官営鉄道 東山トンネル開通で、東海道線は東山トンネル経由大津 これに合わせ、官営鉄道(旧奈良鉄道):京都~伏見は廃止、稲荷~桃山に新線敷設 ⇒官営鉄道奈良線 京都~稲荷~桃山~宇治~奈良・1928年(昭和3) 奈良電気鉄道 京都~西大寺 開通 京都~丹波橋:官営鉄道(旧奈良鉄道)の旧線・旧線跡 丹波橋~西大寺:新設・1963年(昭和38) 近鉄が奈良電気鉄道を合併⇒京都~西大寺は近鉄京都線に・1970年(昭和45) 京都市電伏見線、稲荷線 廃止図6 「その4」に続くよろしかったらぽちっとお願いします。←前回「京カレッジ『お滝の研究』」 次回「京カレッジ『お滝の研究』」→
2026/07/26
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伏見稲荷大社とその周辺の「お滝」について その2 ワルディー・ヨーリョ5.文献調査 都合26回にわたって、歴彩館、京都市中央図書館、京都市伏見中央図書館、京都産業大学図書館、京都府立図書館、国際日本文化研究センターなどに足を運び、文献を調査し閲読した。何らかの関連する記述があった文献を発行年順に列挙する。・京都市参事会「京都要誌」(1895)・伏見稲荷大社編「お山のお塚」および別冊「塚台配置図」(1965)・伏見稲荷大社編「続お山のお塚」および別冊「塚台配置図」(1966)・伏見稲荷大社編「朱」(1967~・現在64号)・五来重編「山岳宗教史研究叢書 11近畿霊山と修験道」(1978)・山折哲夫編「神仏信仰事典シリーズ 3稲荷信仰事典」(1978)・五来重編「伏見稲荷の研究」(1985)・深草稲荷保勝会編「深草稲荷」(2002)・砂澤たまゑ「霊能一代」(2004)・大森恵子「稲荷信仰の世界 稲荷祭と神仏習合」(2011)・伏見稲荷大社編「伏見稲荷大社御知鎮座千三百年史」(2011)・宮田登、坂本要 「仏教民族学大系 8俗言と仏教」(2016) 平安時代から、稲荷山は「初午」の際には、老若男女が「お山巡り」の参拝をする人気の場所であると同時に、修験者の修行の地であったこと、明治維新の廃物毀釈・神仏分離の流れの中で、境内の愛染寺が破却されたりして、行き場を信仰心の具現化というかたちで「お塚」が建てられるようになったこと、明治中期から後期にかけて、鉄道網の発達もあって、参拝者が急増し、「お塚場」がどんどん増えていったことなどが分かった。「お滝」も「お塚場」に併設されるかたちで、どんどん増えていったものと容易に推定できる、しかし、明治維新以前に、実際に修験者による滝修行が行われたかどうか、そしてそれが明治時代以降の「お滝」に直接繋がっていったのかどうかは記述がなかった。また明治以降「お滝」を伴った「お塚場」が、それぞれいつ頃建設されたかまでは触れられていなかった。具体的な「お滝」の歴史に関する記述としては、伏見稲荷大社が現在管理している「清明滝」と「清滝」について程度であった。 これらの書の中で、特にユニークな書は砂澤たまゑ氏著の「霊能一代」である。砂澤たまゑ氏は所謂「稲荷巫覡(ふげき)」と呼ばれる霊能者である。この書は今では絶版になっていて、ネットショップではプレミアがついて、8万円などという高額で販売されていたりもする(図1)。京都の図書館のどこにもなく、大津市図書館までわざわわざ足を運んだ。読んでみると、昭和30年代のお話として、信者団を引き連れて夜通し「お山」をしたり、滝修行をしたりした様子が生々しく描かれていた。現在の「お山巡り」の様相からは想像もできない世界があったことを知ることができ、大津まで足を運んだ甲斐があった。砂澤たまゑ氏は、すでに故人だが、氏が寄進した照明塔が本殿への階段下右側、神楽殿西側に見い出すことができる(図2)。 京都新聞の過去記事閲覧を試みたが、キーワード検索が1998年以降の記事しかできないため今回は断念した。朝日新聞、読売新聞は過去の記事もキーワード検索ができる。そのなかで唯一見つかったのが、要約すると「稲荷山で『お山廻り』する人が多くおり、それを相手にする掛け茶屋が多くある。京都山林大区署において、官林にこのようなものがあるのはよろしくないと京都府庁に照会があった。」という1886年10月28日の記事であった。「お塚場」や「お滝」に直接関係はないが、文献調査でも読みとれる、上知令で参道以外が官有地になったことを裏付ける記事である。 6.地図の発掘、閲覧と分析 「お塚場」や「お滝」の場所の特定や、誕生の歴史を分析するうえで、役に立ったのが古地図および現代地図であった。上記文献調査や現地を歩き、「お滝」が掲載されているものを探しあてた。①西川文吉、他2名「官幣大社稲荷神社境内及稲荷山神蹟全圖」(1913)②松岡貞次郎「伏見稲荷神社御山獨案内」(1913)③吉田初三郎「伏見稲荷大社境内名所図会」(1925)④中村風祥堂「伏見稲荷参拝図」(推定昭和初期)⑤伏見稲荷大社編「続・お山のお塚 参拝経路図」(1966)⑥深草稲荷保勝会「伏見稲荷大社付近名所案内図」(2001) ⑦北尾鐐之助「近畿景観 第三編 京都散歩」(1934)①(下図)は東京の国会図書館にしかなく複写を取り寄せた。②(下図)は伏見区の市立図書館に保管されていたので、コピーで入手した。③(下図)は国際日本文化研究所で原本を閲覧し、電子データを入手したが、縮小版のものが「お山巡り」参道の茶店で販売されていた。④(下図)も「お山巡り」参道で販売されていた。地図には制作年代が記載されていないので、版元に問い合わせたところ、「代替わりしているので、はっきり分からいが、昭和初期の地図をそのまま使い続けている。」とのことであった。⑥(下図)はJR稲荷駅北側踏切近くの看板に書かれた地図であるが、現在は破損し撤去され地面に立て掛けられている。⑦(下図)は地図ではなく、観光紀行本であり、多くの「お滝」の名前が紹介されている。「この驚くべき多くの瀧には、みなそれぞれに小さな祠や神殿を作って、行者のための籠り堂を営むのである。小さな細い糸のやうな水流に、白衣の男女が蠢いて、夏などは『稲荷山の瀧屋』、信仰を築き上げた銭湯と云った風の、不思議な光景を現出してゐる。」(仮名遣いは原本のまま)のくだりが、当時の稲荷山での滝行の隆盛を示している。これらの地図や本に紹介されていれば、刊行された年代には、少なくともその「お滝」が存在していたということになる。 併せて、過去の都市計画図に「お塚場」、「お滝」の管理家屋が記載されていることを期待して調査した。縮尺は2千分の1ないし2千5百分の1で、1つ1つの家屋が区別できるように記載されているが、残念ながら、大正期、昭和初期のものは、山間については、調査不十分なためか、精度が悪く、また、ほとんどいっていいほど更新されておらず、今回の目的には利用不可能であることが分かった。 「その3」に続くよろしかったらぽちっとお願いします。←前回「京カレッジ『お滝の研究』」 次回「京カレッジ『お滝の研究』」→
2026/07/25
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小生は2017年から、京都産業大学日本文化研究所の上席特別客員研究員を務めさせていただいており、「伏見稲荷大社の不思議研究」というテーマで研究を続けています。その活動のなかで同大学日本文化研究所から要請があり、京(みやこ)カレッジという1年に一度行われる講演会で「伏見稲荷大社とその周辺の『お滝』について」というテーマでの講演要請を受け、2021年11月に45分間の講演を行ったことがあります。その様子は、こちらに掲載しました。その文末に「いずれ講義の詳細内容を投稿したいと思います。」と書きながら、京都でのガイド活動やそのガイド会のお役目務めで忙しくなり、果たせないままでした。しかし、幸か不幸か、がんの長期治療で時間がとれるようになりました。この時間を利用して、少しずつ紹介していきたいと思います。本番ではレジュメを受講者の皆さんにお渡しし、パワーポイントを使って講義をしたのですが、今回の投稿では、レジュメそのままではなく、内容をより詳しくし、そこにパワポで使った写真などを配していきたいと思います。それでは第1回です。**************************************伏見稲荷大社とその周辺の「お滝」について その1 ワルディー・ヨーリョ1.はじめに 本レジュメはが論文調ではなく、ドキュメンタリー調であることをお許しいただきたい。研究としてまだまだ表面的であるということもあるが、本講座の「講義概要・到達目標」に、「『京都の歴史のなかの“新しい”時代・もの・出来事』に関するおもしろさ・京都研究の奥深さを感じていただき、さらに自ら調べるための視点・方法などを理解いただきたいと思います。」とあるので、アマチュア研究家の一人として、これにできるだけお応えしたいという思いから、あえてこういうスタイルをとらせていただいた。2.研究のきっかけ 受講者の多くの方々もそうだと推察するが、京都の神社仏閣を巡ることが筆者の趣味の一つである。本格的な「京都歩き」を15年ほど前から始め、京都を網羅的に回り切ったつもりであったが、それに飽き足らず、2013年1月、京都市内の神社仏閣を全て訪問するという無謀な目標を立てて再度歩き始めた。上京区から始め、中京区、下京区、南区と踏破し、伏見区へと入り、2014年1月に、伏見稲荷大社付近に至った。そのとき、地図に「荒木滝」、「権太夫滝」と書かれているのを見つけた(図1)。平地に近いこんなところに果たして滝があるのかと疑いながら訪れてみると、それらは今まで目にしたことのない光景を呈していた。それぞれ数十メートル四方程度の狭いエリアに、平たい石を載せた塚や鳥居がジャングルのように林立する一種異様な空間であった(図2)。そして音を立てて、人工の滝が流れ落ちていた(図3)。修行あるいは潔斎のための滝のようである。京都に長く住み、かつそこそこマニアックな「京都歩き」を、すでに数年経験していたにもかかわらず、こういう場所の存在を全く知らなかった。「こんなところが京都にあったのか」という驚きであった。という驚きであった。 「権太夫滝」で、そこの教祖様が、偶然屋外に出てこられてお話しを聞くことができた。伏見稲荷大社の境内とその周りには、このような滝行ができる「お滝」が20箇所以上存在しており、「お滝」の多くは、「お山巡り」参道沿いの神蹟と所縁があるとのことであった。興味をかきたてられ、その後、苦労して場所を捜し出しながら(図4、図5に示す案内看板などをたよりに)、何日かにわたって多くの「お滝」を巡った。 秘境のようなところにある「お滝」、静謐感あふれると整備された「お滝」(図6)、廃墟のようになったところにある「お滝」や水流のない「お滝」(図7、図8)などさまざまで、印象深い旅になった。 2017年7月、京都産業大学日本文化研究所特別客員研究員として研究を開始するに当たり、この「お滝」について調べてみたいと思い、研究テーマとして選択し、約1年間にわたって研究した。あのとき「権太夫滝」の教祖様にお会いできなかったら、この研究もなかったであろう。教祖様はこの研究のまさに恩人といえる。3.研究の目標 次のように研究の目標を設定した。・すべての「お滝」の所在を明らかにする。・それぞれの「お滝」の建設年代を明らかにする。廃滝になったものはその時期を明らかにする。・何故このような多くの「お滝」が存在するようになったかを考察する。・「お滝」の維持・管理の状況を知り、将来への伝承を考察する。4.研究の方法・文献を調査、閲読する。・「お滝」の記載された古地図および現代地図を見い出し、探査や分析に利用する。・現地踏査を行い、「お滝」管理者への取材を行う。・研究対象をより深く知るために、滝行体験をする。 「その2」に続くよろしかったらぽちっとお願いします。←「千本鳥居」の研究 次回「京カレッジ『お滝の研究』」→
2026/07/24
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今日は2人で映画「Michel」(マイケル)を観に行った。去年の11月に2回目の脂肪肉腫が発覚した後、3回目の劇場映画鑑賞である。以前2回は、「国宝」(こちら)、「ソング・サング・ブルー」(こちら)である。今日は午後8時半上映開始と非常に遅い時間の予約だったので、そのシネコンのあるショッピングモールのレストラン街で夕食をとってからの鑑賞となった。この先長くないかもしれないので、少々贅沢をさせてもらった。題名から分かるように、マイケル・ジャクソンの生い立ちを描いた作品である。私はマイケルジャクソンのことは、あまり知らないし、特にファンでもないのだが、家内も観たいと言ってくれたので、今日の鑑賞となった。予告編映画『Michael/マイケル』特別映像【ファーストルック編】「マイケルに恋に落ちるはずだ」ジャファー・ジャクソン(マイケルの甥)が語る「マイケル愛の正体」 映画『Michael/マイケル』特別映像1983年に発表された「スリラー」のショートフィルムこのミュージカル「スリラー」のショートフィルムは、当時の常識を完全に塗り替えた。14分に及ぶ上映時間、ホラー映画さながらの演出、プロの振付師や俳優を起用した本格的な制作。その衝撃は大きく、これ以降、ミュージックビデオの制作予算も、求められるクオリティの基準も、業界全体で一段階も二段階も引き上げられることになった。ご一見あれ。【Michel】監督:アントワーン・フークア脚本:ジョン・ローガン製作:グレアム・キング ジョン・ブランカ ジョン・マクレーン主な出演者 ジャファー・ジャクソン(マイケル・ジャクソン)ジュリアーノ・ヴァルディ(幼少期のマイケル)コールマン・ドミンゴ(マイケルの父)ニア・ロング(マイケルの母)撮影:ディオン・ビーブ編集:ジョン・オットマン ハリー・ユン コンラッド・バフ トム・クロス製作会社:ライオンズゲート・フィルムズ ユニバーサル・ピクチャーズ GKフィルムズ オプティマム・プロダクションズ配給:米国:ライオンズゲート・フィルムズ 日本:キノフィルムズ公開:米国:2026年4月24日 日本:2026年6月12日上映時間:127分製作国: アメリカ合衆国言語:英語製作費: 1億5500万 - 2億ドル興行収入:10億200万ドルマイケルの歌・踊りいっぱいの楽しい2時間だった。マイケルの歌が好きかといわれるとそうでもないのだが。成人した後のマイケル役はマイケルの甥のジャファー・ジャクソン。映画初主演らしいが、マイケルの踊りを完璧にこなしていたように見えた。子供時代のマイケルを演じたジュリアーノ・ヴァルディも映画初出演らしいが、こちらも圧巻であった。6月14日には、全世界での興行収入が9億1,190万ドルを突破し、『ボヘミアン・ラプソディ』(9億1,100万ドル)を抜いて、音楽伝記映画として歴代最高の興行収入となった。マイケル自身の世界的な人気もあるが、彼らの演技の寄与も大きいであろう。初期バージョンの脚本には、マイケルに対する児童性的虐待の告発が含まれていたらしいが、マイケルの告発者の1人であるジョーダン・チャンドラーとの和解において、映画の中でチャンドラーへのいかなる言及も禁じる条項があることがわかったため、疑惑に関するすべての言及が削除され、再撮影されることになったらしい。後半のストーリー展開にやや飛び飛びな感じがしのはそのためか。映画は、1988年、マイケルのウェンブリー・スタジアムでのソロツアーの場面で終わるが、エンドロールに「His story continues(彼の物語は続く)」というエンディングカードが追加されている(その部分だけ翻訳字幕も出る)。これはマイケルのその後のキャリアを示しているのだとも解釈できるし、将来の続編を示唆するものとも解釈出来る。果たして、続編はあるのか。とにかく、音楽ものの映画が好きな御仁には見逃せない一作であろう。
2026/07/23
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御朱印 第三冊 2013(平成25)/3/4~2013/4/11 その2#1 壬生寺 歯薬師 2013(平成25)/3/12京都府京都市中京区坊城通仏光寺上ル壬生梛ノ宮町31(壬生寺境内)宗派:律宗#2 武信稲荷神社 2013(平成25)/3/12京都府京都市中京区三条通大宮西入る主祭神:宇迦之御魂大神 佐田彦大神 大宮能売大神 社格等:旧村社創建:859年(貞観元年) 例祭:5月第2日曜日#3 薬師院(来ぬか薬師) 2013(平成25)/3/14京都府京都市中京区釜座通二条上ル大黒町694山号: 医徳山 宗派:黄檗宗 本尊:薬師如来中興年:元禄元年(1688年) 中興:鉄面寂錬禅師別称:こぬか薬師札所等:京都十二薬師霊場第9番 通称寺の会(こぬか薬師)#4 永福寺(蛸薬師) 2013(平成25)/3/29京都府京都市中京区新京極蛸薬師東側町503山号:浄瑠璃山 院号:林秀院 宗派:浄土宗西山深草派 本尊:薬師如来(蛸薬師)創建年:養和元年(1181年) 開山:林秀正式名:浄瑠璃山 林秀院 永福寺 別称:蛸薬師堂、 蛸薬師札所等:京都十二薬師霊場第12番 通称寺の会(蛸薬師堂)#5 西光寺(さいこうじ)(寅薬師) 2013(平成25)/3/29京都府京都市中京区新京極通蛸薬師上ル中筋町495-1山号:北亀山 宗派:浄土宗西山深草派 本尊:阿弥陀如来創建年:弘安3年(1280年)頃 開山:傳慶別称 寅薬師札所等 京都十二薬師霊場第11番 通称寺の会(寅薬師)地図よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「御朱印」 次回「御朱印」→
2026/07/22
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次の治療は、OKGセンターか、OJRセンターで受けることにほぼ決定だが、抗がん剤治療後の回復状況は、引き続きK病院腫瘍内科で診てもらっている。今日は、K病院で採血・採尿をし、腫瘍内科のY先生の診察を受けた。前回の診察は、7月2日だったので、まず、その後のOKGセンター、OJRセンターでの経緯を報告した。OKGセンターで摘出手術を受けられる可能性があること、それがダメならOJRセンターで重粒子線治療を受けることになるであろうことを伝えた。採血の方は、白血球、血小板は正常範囲に復帰したが、赤血球関係が回復傾向ではあるが、なかなか元に戻らない。もう抗がん剤治療はないので、これから徐々に復活して元のレベルに戻るでしょうとのY先生のお話しだった。クレアチンにが、まだ悪化傾向にあるのが気がかりである。次回、約2週間後の8月6日に泌尿器の診察があるので、そのときに次の血液検査、尿検査をしていただくことになった。そのときまでには、OKGセンターやOJRセンターでの次の治療の方針が決まっているなずなので、お伝えすることなるであろう。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/07/21
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