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【2017年3月23日(木)】 「京都市内全寺社巡り」を思い立ったのは、2012年末にM社をリストラで早期退職した直後。失業保険をもらえるだけもらって、あとはパートタイムで観光ガイドのような仕事をボランティアでもいいからしようと思っていたので、全寺社を巡る時間が十分とれると思ったからです。退職後3ヵ月は順調でした。 しかし、2013年4月に結局再就職し、ペースダウン。とはいうものの土日を利用して何とか続きます。ところが、2014年7月に「がん」を発病。1年半のブランクができてしまいました。そして、経過観察になって9ヵ月後の2016年2月に再開。会社勤めは辞めていたので、再びペースは上がりました。 2017年8月に、ガイド会に入会し、観光ガイドの仕事を始めましたが、フルタイムではないので、ペースダウンはすれど、そこそこのペースで続けられると思っていました。しかし、ガイドとしての有償勤務以外にも、ガイド関係で下見、研修、会議、事前説明会、飲み会など結構時間をとられることが分かりました。それに加え、ガイドの仕事の勉強のため、プライベートにも関係のセミナーを聴きに行くようにもなりました。結果的に、去年の9月10日を最後に「京都市内全寺社巡り」は中断状態になってしまいました。 今日、午前中「京都迎賓館」見学の研修会があったので(こちら)、午後から、久しぶりに「全寺社巡り」をする予定でした。ところが、ガイド仲間といっしょに昼食をして、あれこれしゃべって、終わったのが午後2時頃。あまり時間がないので、直接帰宅しようと思ったのですが、途中で思い直して、東山区の北西の鴨川沿い三条通り付近を短時間でも歩くことにしました。実に7ヵ月ぶりの「京都市内全寺社巡り」となりました。午前中の「迎賓館」での研修も含め、歩いた径路(うろ憶えですが) 三条大橋の袂からスタート。(<>の中の数字は、地図内の番号)三条大橋<1> 天正18年(1590年)、豊臣秀吉 の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修されましたた。徳川家康によって定められた東海道五十三次の西の起点。駅伝の碑<2> 日本で最初の駅伝競走が、ここからスタートしたことを記念する説明碑「駅伝の碑」がある。1917年(大正6年)4月27日から3日間にわたり開催された。高山彦九郎像<3> 三条大橋の南東にあります。江戸時代後期の尊皇思想家。林子平・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の1人(「奇」は「優れた」という意味)。13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各地を遊歴して勤皇論を説きました。この像は御所望拝の姿で、土下座ではありません。吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物です。また、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられました。歌碑 京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇にも拝謁しました。その感激を詠った歌。 「我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ」小川亭跡碑<4> 小川亭は,肥後藩御用達「魚卯」の未亡人ていと姑りせが共に開いた旅館。幕末肥後藩士ほか勤王の志士たちに利用され,二人は志士の面倒をよく見たという。大正9(1920)年に廃業し,家屋は第2次世界大戦時の強制疎開で取り壊されました。三条京阪駅から縄手通を少し南に下った西側にあります。京都市立有済小学校に残る太鼓望楼<5> 明治9年8月。入り口に近いところに太鼓楼兼望楼を作り人々に時刻を知らせました。各小学校にあった望楼は明治末までに姿を消し,有済校にだけ残っている日本唯一の文化財。池田屋事件殉難志士墓所跡碑<6> この地にあった三縁寺には、池田屋事件で犠牲になった宮部鼎蔵・松田重助志士らの墓がありました。三条バスターミナルの開発に伴い、1979年に墓は三縁寺とともに、左京区岩倉へ移転しました。大像寺(浄土宗)<7>大将軍神社<8> 素盞嗚尊を主神とし、相殿に関白藤原兼家を祀る。 桓武天皇が平安京を造営した際、大内裏鎮護 のため、四方四隅に祀られた大将軍神社のうち、 東南隅の一つである。 特に平安京東のこの地は、三条口の要地にあたり 邪霊の侵入を防ぐ意を以て重要視されてきた。 このあたりに建てられた藤原兼家邸は、応仁 の乱で廃壊したが、境内に東三條社として名跡を 留めている。又。樹齢八〇〇年と伝える銀杏の 大樹があり、かっては鵺の森とも呼ばれ、源 頼政の鵺退治の伝説を偲ばせる。-境内由緒書き-大将軍神社境内の東三條社樹齢800年と伝わる銀杏の木城安寺<9> 浄土宗。幕末、御陵衛士・伊藤甲子太郎らが最初入った寺。その後すぐに、善立寺に移り、さらに月真寺に移りました。榎木大明神<10>圓光寺<11>市立三条浴場<12> こういう市立の浴場があるところは特別な地域であることが多いようです。蓮沢寺<13> 廃寺になったようです。古道具屋<14> 東山通で目を引くお店です。一澤信三郎帆布 店舗と工房<15> お家騒動でも有名になりましたが、しっかり商売は継続されています。門前白川道【道標】<16> [南]門前白川道 [東]右きく屋ばし [西]左たぬきばしなすありの径碑となすあり地蔵<17>「なすあり」とは、地元有済小学校の「有済」を逆さに読んだもので、中国古代の歴史書「書経」に記されている言葉です。意味は、「耐えて忍べば済す有り(どんな辛い事に対しても、耐え忍んで努力すれば必ず報われる)」ということ。昭和二十九年(1954)に、京都市水道局が花見小路通の水道管工事をした時に、お地蔵さまが白川の川底から掘り出されました。このお地蔵様が何百年もの間、川底の暗闇でじっと耐え、ようやく日の目を見たことを讃えて、「なすあり地蔵」と名付けられました。辰巳大明神<18> 元々は、御所を守るために創建され、御所の辰巳の方角」を守るということから、辰巳神社と呼ばれたのだが、いつしか祇園の芸舞妓が芸事の上達を祈るようになり、いまでは芸事の神として信仰されています。 もう一つ云われがあります。神社の祭神は実は狸で、巽橋に住んでいた狸が、橋を渡る人を化かしては白川の中を歩かせていました。それに困った人が、この狸の為に祠を建て神として祀ったところ悪戯が止んだという言い伝えです。ちょうど婚礼写真撮りがありました。新橋通り<19>巽橋<20>白川南通り沿いの白川(巽橋からの眺め)<21>祇園切通し<22>(巽橋を南に渡った南北の通り) 名前の由来は不明ですが、ネットでは富永町、末吉町、本吉町といった花街を縦に突っ切っている通りだからとの推定がありました。かにかくに碑<23> 祇園を愛した歌人、吉井勇の歌碑。 「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」 祇園白川に「大友」というお茶屋さんがあり、夏目漱石、谷崎潤一郎ら有名作家や画家が多く訪れました。この歌碑は、吉井の古希の祝いに「大友」のあった場所に谷崎潤一郎ら数名が建立しました。 毎年十一月八日には 「かにかくに祭」が祇園甲部お茶屋組合によっておこなわれています。弁財天<24> その昔、賀茂川が手の付けられない暴れ川で、白河上皇も「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言ったほどの川であり、その賀茂川の治水を受持っていた、防鴨河師の勢多判官為兼が、行きずりの僧から「川の北に弁財天を、南に禹王廟を祀れ」と言われ、そうすると賀茂川の洪水は治まったという謂れに因み、この白川が鴨川に注ぐ弁財天の社が再興されている。青木聾米(ろうべい)宅蹟碑<24> 青木聾米(1767~1833)は,祇園の茶屋「木屋」に生まれ,通称木屋佐兵衛。号を木米といい,晩年に聴覚を失ったため聾米と称した。29歳で作陶を志し,奥田頴川に入門。仁阿弥道八・永楽保全とともに幕末京焼の三名工といわれました。弁財天の一画に立っています。大和橋<25>から白川を望むせせらぎの道碑<26> 1987年(昭和62年)、京阪電車の地下化事業により琵琶湖疏水の三条~七条間が地下化し暗渠になりました。それに伴う川端通の整備・拡張作業の一環として、この散歩道が誕生し、名前は公募により決定されました。北座跡<27> 北座は元和年間(1615~24),四条河原での興行が許可された7か所の常設芝居小屋のひとつ。のちに四条河原の整備により四条橋東周辺に集中した。幕末には7か所のうち,北座と南座だけが残っていたが,明治26(1893)年に取り壊され,現在は南座のみになっています。出雲の阿国像<28> 出雲の阿国(おくに)は、歌舞伎の祖とされる女性芸能者。奈良の春日若宮で「ややこ踊り」を演じたと見えるのが初見。出雲大社の巫女と称して興行。慶長8年(1603)年、京都で「かぶき踊り」を始めて人気を集め、これを模倣した遊女歌舞伎が流行。阿国が興業したのは、北野の社と五条河原などで、四条河原の地は後の遊女歌舞伎の地だといわれています。 短時間でしたが、久しぶりの「京都市内全寺社巡り」でした。五条烏丸まで歩いて、バスに乗り帰宅しました。次はいつ全寺社巡りができるでしょうか。巡りきってからあの世に行きたいものです。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/03/23
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「京都市内全寺社巡り」2016年9月10日(土)東山区第3日の第3回(最終回)です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201609100003/◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記の東山区#3です。https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing===============================【東山区第3日 第3回(最終回)】続きです。東山区の南端まで歩き、再び東福寺エリアに戻ります。◆東福寺塔頭 南明院 最南端に位置する塔頭です。1414年に足利義持が業仲明紹を開山として創建しました。1590年に没した旭姫(徳川家康正室)の菩提寺として知られ、徳川家康、秀忠、家光は上洛の際に必ず墓参としたと伝わっています。徳川家康公正室旭姫墓【道標】 [西] 徳川家康公正室旭姫墓 在院 [東] 山門落慶紀念檀信徒一同 旭姫の墓◆東福寺塔頭 光明院 南明院の2つ北にある塔頭。 作庭家・重森三玲の庭「波心庭」で知られ「虹の苔寺」とも呼ばれています。JR東海のキャンペーン「そうだ京都行こう」のポスターになって、有名になってしまいました。 春は桜とつつじ、夏は新緑、秋は紅葉、四季折々の顔を見せてくれます。入り口の立て看板 「庭の自尊心」うーーーん。 お堂に入ったところに、志納を入れる竹筒があり、そこに自分で思う金額を入れます。お寺の方や案内の方は誰もいません。英語では、額が固定で命じされていました。曖昧な表現では、外国人に分かってもらえないからという配慮からでしょうか。 海外の観光客2人が、拝観料を払う窓口を探して右往左往していたので、竹筒に入れるのだよと教えてあげました。波心庭 写っているのは私ではありません。 ここに来るといつも写真の枚数が多くなってしまいます。◆東福寺塔頭 永明院 南明院と光明院の間にあります。非公開ですが、特別拝観があったこともあるようです。また東福寺エリアを出て、伏見区歩きのときに行った、仲恭天皇陵に向かいます。◆鳥羽伏見戦防長殉難者の墓 仲恭天皇陵の西隣にあります。 鳥羽伏見の戦いで長州軍は本陣を東福寺に置いて勝利をおさめましたが殉死者が出ました。戦死した石川厚狭介外長州藩及び支藩の藩士(防長藩士)48名の墓石が並ぶ戦没者招魂場です。鳥羽伏見戦防長殉難者墓碑 [北]鳥羽伏見戦防長殉難者之墓[東]昭和四十三年十一月 京都市防長藩士崇忠碑 [南] 崇忠之碑【題額】 明治元年正月の戦にいたくはたらきて深草の露と消え 淀川の泡と失ににし健夫等か 墓所を此処とさため巖根木根払ひ清めて亡魂を招祭れるは 天下の大政鎌倉にうつりてより七百年を経て再ひ天皇か朝廷にかへり 朝日子の照栄あるか如く望月のみちたらへる如き大御世の安御代となれる 是皆健夫等かいそしみ勤めし功によれるを戚てなりけり あはれ此役や吾軍薩摩の軍と共に呉竹の伏水の里白鳥の鳥羽の畷に出て都に入むとする賊を (以下略)◆仲恭天皇九條陵 仲恭天皇は鎌倉時代の天皇。 御名は懐成親王(カネナリ)父は順徳天皇。わずか3歳で践祚。これは祖父後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討幕計画を画策し、父順徳天皇もこれに加わったための譲位であった。 しかし後鳥羽上皇軍は幕府執権北条泰時に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡に、また天皇の叔父の土御門上皇は加担していなかったが自ら望んで土佐に流された(承久の乱)。 祖父や父の配流に伴い、順徳上皇系の天皇は廃位、土御門上皇系の茂仁親王(後堀河天皇)が即位した。もちろん、天皇は幼少で政治的な判断は皆無に等しかったが、幕府の意向で廃位となったのである。17歳で崩御した。在位期間は歴代最短。仲恭天皇御陵兆域原標 兆域原標とは、ここからここまでが墓地ですよという目印。??? あとで調べようと写真に撮りましたが、不鮮明で結局不明。どなたかご存知でしたら教えてください。◆皇嘉門院月輪南陵 皇嘉門院は平安時代末期からこの地を領地としていた九条家ゆかりの人物として知られます。皇嘉門院・藤原聖子(ふじわらのきよこ)は、平安時代末期の摂政・藤原忠通の娘で、後に崇徳天皇の中宮となりました。崇徳上皇が保元の乱で敗れて讃岐に配流された後も、京都に留まって出家しています。皇嘉門院は後に、異母弟の九条兼実に皇嘉門院領を相続させ、これが五摂家として知られる九条家の豊かな領地の基礎となりました。参道を下ります。 九条陵・月輪南陵参道【道標】 [北] 九条陵 月輪南陵 参道 [南] 昭和四年十一月建之 大阪皇陵巡拝会 維新戦役防長藩士墓【道標】 [西]右 維新戦役 防長藩士之墓 道標 [東]昭和十一年七月 京都防長会建之 再び東福寺エリアに戻ります。 ◆東福寺塔頭 正覚庵 位置的にはさきほどの光明院の北になります。 鎌倉時代の1290年、奥州伊達家4代当主・伊達政依(だてまさより)によって開かれました。正覚庵の特徴でもある筆塚は、最初のものは江戸時代の文化年間(1804-1818)に築かれたのだそうです。 「筆の寺」と言われる正覚庵。境内には古くなった筆の労に感謝するために作られた筆塚があり、今でも年に一度、勤労感謝の日に「筆供養」が行われています。 ちょうどご住職さんが帰って来られたところで、お疲れのところ申し訳なかったのですが、ご朱印をいただき、境内を拝観させていただきました。 お寺の外の東福寺本山境内に向かう角のところに藤原俊成の墓所を示す道標があります。伏見区歩きのときに訪問した所です。五条三位俊成卿墓道【道標】 [西] 五条乃三位しゆんせいの卿のおはかみち 冷泉家門人建之 [東] 小沢光貞謹書 明治卅六年七百年御遠忌ニ付 東福寺本山に入ります。 ◆東福寺 東福寺は、平安時代の延長2年(924年)に公卿の藤原忠平が建立した、法性寺(ほっしょうじ)をルーツに持つ寺院。その後、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)、四代将軍、藤原頼経の父である九条道家が、法性寺の地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を祀る新寺院の建立を発願。宋から帰国した聖一国師こと円爾を開山として、東福寺を開きました。当時の東福寺は、天台仏教、真言仏教、そして禅を学ぶ兼学の道場だったといいます。◆東福寺 勅使門 ここにも仲恭天皇陵と維新戦役防長藩士之墓所の道標があります。防長藩士墓所【道標】 [西] 維新戦役防長藩士之墓所(矢印) [南] 明治維新防長殉難者顕彰会 昭和五十五年十月吉辰 仲恭天皇九条陵参道【道標】 [西] 仲恭天皇九条陵 崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵 参道 [東] 昭和四年十一月建之 大阪皇陵巡拝会 ◆東福寺 六波羅門(重要文化財) 1221年(承久3年)の承久の乱後、朝廷の動きを監視するために設置された六波羅探題にあったものが移築されたと伝えられています。◆東福寺 三門(国宝) 東福寺唯一の国宝建造物。 現存する東福寺三門は、元応元年の大火によってそれまでのものが失われた後、応永年間(1394年~1428年)に室町幕府四代将軍、足利義持によって再建されたものです。なお、三門とは三解脱門の略で、禅宗寺院の仏殿(本堂)前に建てられる中門。それは、仏殿という涅槃に入る前に解脱を得る(悟りを開く)目的で設けられています。三門は、無空、無相、無願という三つの解脱を表す為に三つの出入口を開けた三戸形式であるのが普通ですが、東福寺の三門もまたその様式を守っており、五間三戸の二重門となっています。屋根は本瓦葺きの入母屋造で、その高さは22メートル。両脇には山廊が付属し、そこから上層内部へ上る事ができるようになっています。前の池は「思遠池」と名付けられています。 禅宗寺院における三門の建築様式は、当然ながら禅宗様であるのが一般的です。しかし、東福寺三門は大仏様を基調とし、それに禅宗様と和様を折衷した、極めて独特な様式を採っています。大仏様の特徴が特に強く見られるのが軒下で、柱に穴を開けて水平材を通した貫(ぬき)の構造が多用されており、組物は三手先の挿肘木で前方に張り出し、通肘木で繋いでいます。柱は上下が細くなった粽柱(ちまきばしら)となっており、柱と礎石の間に礎盤を入れる点などは、禅宗様の特徴です。中備は平三斗(ひらみつど)であるが、それが通肘木の上にも乗っているのが印象的です。垂木は禅宗様の扇垂木ではなく、和様の平行垂木となっています。 三門の上層は仏堂となっています。柱や梁などには、半人半鳥の迦陵頻伽などが色鮮やかに描かれており、極彩色の世界を作り出しています。これらの壁画は、東福寺の画僧であった兆殿司こと吉山明兆、およびその弟子である寒殿司こと赤脚子(せっきゃくし)が描いたものと伝わっています。また、上層正面中央に掲げられた「妙雲閣」の扁額は、足利義持の筆によるものだといわれています。◆維新戦役忠魂碑(東福寺三門東側) 慶応4(1868)年正月に勃発した鳥羽伏見の戦で,長州藩および支藩の兵(防長軍)は東福寺に陣を張り,伏見・淀方面に出張し会津藩を主力とする幕府軍と交戦しました。この時の戦死者48名は東福寺山内に葬られ,五十回忌にあたる大正6年に本碑が建立されました。碑文撰者は長州藩奇兵隊に所属し鳥羽伏見戦で戦った三浦梧楼(1846~1926)。 碑のかたわらに「防長忠魂碑」(西面)「墓地ハ此坂上約二丁」(北面)と記す石標が立つ 前述のように仲恭天皇九条陵の西隣に48名の墓地(招魂場)があります。 [西]維新戦役忠魂之碑【篆額】 正二位大勲位功一級公爵山縣有朋篆額 (碑文本文略) [東]伏見鳥羽戦歿志士人名 (氏名略) 大正六年十一月防長有志者建之 碑文の大意~http://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/gyoseilist_frame.html◆防長忠魂碑(東福寺三門東側) さきほどの南側にもう一つ碑があります。 長州出身の寺内正毅、田中義一、山県有朋の寄付により、4大正6年11月、長州藩殉難の士五十回忌に建立されました。表には戊辰戦争の概略と長州軍の活躍をたたえた文面、裏には鳥羽伏見で戦死した48名の名前が刻んであります。◆東福寺 浴室(重要文化財) 1459年(長禄3年)に建てられた前面を入母屋造、後方を切妻造にした単層本瓦葺の建物で、現存する禅宗伽藍のものとしては最古のもの。東大寺の湯屋に次いで古い。内部は、東側に2つの蒸し風呂が並び、後方に釜と焚き口があって、今でいうところのサウナ風呂となっています。当時は、100人単位の僧が修行していたため、沐浴には湯を使用せず、蒸気で体の垢を擦り落とすことで、水や薪を節約していました。◆最勝金剛院 九条家の墓を管理するために再興された東福寺の特別由緒寺院。東福寺で唯一伏見区に位置する寺院。 「月輪殿下兼実公本墓」の石柱 墓所の奥の八角堂は九条兼実の廟所。兼実は、平安末から鎌倉初期の公卿。別名は「月輪殿」、「後法性寺殿」。 1192年(建久2年)3月、後白河法皇が崩御すると関白となり、同年7月、源頼朝の征夷大将軍任官を実現させました。1207年(承元元年)4月5日没。法性寺に葬られました。法性寺内に東福寺を創建した九条道家は兼実の孫。 夕刻になったので、東福寺本坊や今回訪問できなかった塔頭は、次回訪問することにして、東福寺前からバスを乗り継いで帰宅しました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/09/12
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「京都市内全寺社巡り」2016年9月10日(土)東山区第3日の第2回です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201609100003/◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記の東山区#3です。https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing===============================【東山区第3日 第2回】 続きです。京都駅⇒新熊野神社⇒夢の浮橋跡⇒浄心寺⇒伏水街道一之橋旧趾⇒宝樹寺と歩いてきました。宝樹寺の南に瀧尾神社があります。こじんまりとしたお社です。瀧尾神社 創建年代は不詳ですが、「源平盛衰記」にその名が見えます。天正14(1586)年10月に、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建立したのに伴い、現在地に遷座しました。本殿や拝殿に立派な彫刻があることで知られます。高名な京の彫刻家・代々当主が新之丞を名乗る九山新之丞氏の子息(九山新太郎)作の彫刻が社内には多数見られます。 特に今年は祇園祭との関係で、この神社とその彫刻が脚光を浴びました。 京都・祇園祭で後祭の山鉾巡行の最後尾を飾るのは、一昨年150年ぶりに復活した「大船(おおふね)鉾」。その船主には元々龍頭があり、その復刻が図られました。専門家の調査で、江戸後期に瀧尾神社の龍を彫った、九山新之丞・新太郎親子が彫った可能性が浮上。瀧尾神社が寄進をすることになりました。公募で選ばれた滋賀県米原市の彫刻師、森哲荘(てっそう)さん(69)が、瀧尾神社(京都市東山区)拝殿の天井につり下げられた全長8メートルの龍の彫刻を参考に彫りました。そして今年の巡行では、大船鉾の船首にこの「龍頭」が据えつけられました。瀧尾神社 西側の鳥居 鳥居の向こうが拝殿瀧尾神社 南側の鳥居 鳥居の向こうが拝殿瀧尾神社 本殿 「北山貴船奧院御社」旧殿を移築改築したもので、京都市指定有形文化財に指定されています。 拝殿にはスリッパを履いて上がることができ、大船鉾の龍頭のモデルになった龍を間近で見ることができました。 神社の写真を撮っていると、ご近所の方が、この神社のことを色々説明してくださいました。 大丸百貨店を創始した下村家が、この神社のパトロンとのことで、大きな絵馬にも大丸百貨店の古い建物が描かれていました。 現在の本殿、拝殿、手水舎、絵馬舎は、下村家の手により、は江戸後期の天保10(1839)年〜11年にかけて造立されたようです。 それから、本殿の回廊には十二支の姿が彫られていることも教えてくださいました。 本殿横には幾つもの摂末社が並びます。大丸創始の下村家が勧請したと思われる「大丸繁栄稲荷」もあります。 その前には三嶋神社の祈願所があります。 本宮は東大路通東入に鎮座されていますが、かつては三嶋神社の近くに瀧尾神社があったというご縁もあり、「瀧尾神社」の境内内にも三嶋神社の祈願所が設けられ、絵馬の奉納や祈願が行えるようになっています。 うなぎを眷属として祀る三嶋神社の信仰には水場が欠かせませんが、本宮の近くを流れていた音羽川が枯れ、近くに水場がなくなったことも祈願所の設置には影響しているそうです。「うなぎ」を描いた絵馬 三嶋神社の由緒は、後白河天皇の中宮(皇后)平滋子建春門院様にあります。皇子のないことを嘆いた平滋子は、摂津(大阪府高槻市)の三嶋大明神に祈願したところ、夢の中に白衣の翁が現れてお告げを受け、間もなく後の高倉天皇をお産みになりました。喜んだ後白河天皇は、この地に邸宅・小松谷邸を持っていた平重盛(平清盛の嫡男)に命じて社殿を造営し、三嶋大明神を勧請したのがはじまりとされています。 私は以前高槻市に住んでいたことがあります。そこの「三島」と関係があるというのは驚きです。 現在も皇室とのつながりがあり、秋篠宮殿下が2度参拝されるなど皇室の子宝祈願にも一役買っています。 伏見街道を南下し、京阪・JR東福寺駅のすぐ横を通ります。仲恭天皇九条陵・崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵参道【道標】 [北]仲恭天皇九条陵 崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵参道 東福寺山門ヲ経テ 参道[南]昭和四年十二月建之 大阪皇陵巡拝会[東](矢印)稲荷・東寺【道標】 伏見街道が九条通と交わったところを少し東に入ったところにあります。 [南] 南 いなり【以下埋没】 [西] 西 東寺洛陽観【以下埋没】 [北] 北 大仏即成院【以下埋没】 伏見街道 第二橋 高欄親柱 鴨川を渡る九条通の高架下にあります。万寿寺 東福寺塔頭 かつては天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺とともに京都五山のひとつとして栄えましたた。しかし、永享6年(1434年)の火災後、衰微し、天正年間(1573年-1592年)には五山第4位の東福寺の北側にあった三聖寺の隣地に移転しました。これは三聖寺の開山が万寿寺と同じ十地覚空と東山湛照であった縁によるものといいます。 三聖寺は鎌倉時代には禅宗式の大伽藍を持つ有力寺院であったが次第に衰微し、明治6年(1873年)に万寿寺に合併されました。明治19年(1886年)には万寿寺が東福寺の塔頭となり、21世紀に至っています。東福寺境内にある愛染堂と仁王門、万寿寺入口にある鐘楼(以上、各重要文化財)ももとは三聖寺の建物でした。昭和10年(1935年)には京都市電と東山通、九条通の開通により境内が分断され、万寿寺は東福寺の飛び地のような位置に置かれることになりました。非公開のため拝観はできません。 九条通を横切り、東福寺の塔頭が多く集まる地域に入ります。東福寺 仁王門 塔頭万寿寺(三聖寺)にあったもの。三間一戸の八脚門で切妻造本瓦葺(重要文化財)。東福寺 北門北門から一旦東福寺エリアの外に出て、伏見街道を南下します。法性寺(ほっしょうじ) 浄土宗西山禅林寺派。本尊は千手観音菩薩。洛陽三十三所観音霊場第二十一番札所。 息子を二十歳で亡くした後、家内と洛陽観音巡礼をしたとき以来ですから、5年ぶりでしょうか。 925年(延長3年)藤原忠平の創建と伝えられます。藤原氏の寺として栄え、大きなお寺でした。関白藤原忠通が、この寺に入り「法性寺殿」と呼ばれるなど、当時の隆盛は想像を超えるものがあります。現在の清水寺や大徳寺ぐらいの寺だったようです。が、その後衰退し、現在の寺院は明治維新以降、旧名を引き継いで再建されたもの。木造千手観音立像は国宝で、旧法性寺の潅頂堂の本尊と伝えられ、「厄除観音」として知られます。 また、現在、東福寺の塔頭・同聚院(どうじゅいん)に安置されている木造、不動明王坐像(重要文化財)は藤原道長が建立した五大堂の中尊と伝えられています。再び北門から東福寺に入ります。 東福寺塔頭 退耕庵 幕末の鳥羽・伏見の戦いの際、東福寺に長州藩の陣が置かれた縁で、退耕庵は鳥羽・伏見の戦いの戦死者の菩提寺となっています。退耕庵 地蔵堂 玉章(たまずさ)地蔵と称される地蔵菩薩坐像のほか、小野小町100歳像などを安置します。玉章地蔵は京都市東山区の渋谷(しぶたに)越えにあった小町寺から明治7年(1874年)に移されたもので、小野小町宛ての恋文を納めると伝えます。 関ケ原の合戦のちょうど1年程前に、石田三成、宇喜多秀家と軍議を開いた茶室『作夢軒』があります。お庭もきれいですが、普段は拝観できません。特別拝観のときに、訪れたことがあります。東福寺塔頭 盛光院東福寺塔頭 霊源院 非公開のようですが、水子供養で訪れる方が多いようです。 庭手入れの方が来られていて、落ち葉を集める送風機がお地蔵さんの前に置かれています。何ともいえないコントラストです。東福寺塔頭 龍眠庵東福寺塔頭 海蔵院 今は社会福祉法人洛東園となり、老人ホームを営んでいます。昭和27年(西暦1952年)に東福寺によって設立されたようですので、歴史の長い施設です。 一部お寺の雰囲気が残っています。南門から再度東福寺エリアの外に出て、伏見街道を南下します。念仏寺 浄土宗 遣迎院 浄土宗西山禅林寺派 1201年(正治3年)に九条道家の開基、証空(浄土宗西山派の派祖)の開山により釈迦と阿弥陀を本尊として現在地に創建されたのに始まります。1583年(天正13年)には寺の敷地が豊臣秀吉により大仏殿(後の方広寺)の敷地と定められたため移転を余儀なくされました。移転は大仏殿計画地が渋谷仏光寺境内に変更されたため中断されたが、一連の経緯の中で2寺に分かれることとなりました。その内の1寺はそのまま残され、浄土宗西山禅林寺派の寺としてここに現存しています。もう1寺は現在の北区鷹峯に移され、浄土真宗遣迎院派の遣迎院となっています。 西山国師(証空)終焉の地です。遣迎院 西山国師御終焉地碑[西]鑑智 西山国師御終焉之地[北]泉州堺 神南辺隆光[南]南遣迎院 南遣迎院は2寺に分かれた南の方の寺という意。 神南辺隆光は天保12(1841)年に没するまで諸国に道標や石標を建立したといいます。 田中神社 伏見稲荷の境外摂社。社殿は正保2年(1645)だが、創建は一條天皇の御代(986-1011)といわれます。極楽寺 浄土宗禅林寺派伏見人形 丹嘉 伏見人形は江戸時代後期に最盛期を迎えた最も古い郷土玩具です。全国で90種類以上もある土人形のなかで、伏見人形の系統をひかないものはないと言われるほどの土人形の元祖であり、民俗的な美しさを誇っています。 当時、伏見街道沿いには、約60軒もの窯元が軒を連ねましたが、現在では寛延年間(1750年頃)創業の当窯元、丹嘉のみ。長谷川工務店 ゼネコンではありません。伏見稲荷に奉納する鳥居などを製作する会社です。千本鳥居の一番小さなもので、175,000円といわれています。 もう伏見稲荷に近い場所なのですが、この長谷川工務店のある地域だけ、東山区が半島のように突き出しています。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/09/12
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「京都市内全寺社巡り」2016年9月10日(土)東山区第3日の第1回です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201609100003/◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記の東山区#3です。https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing===============================【東山区第3日 第1回】東山区第1日、第2日は山科区の続きということで、東山区の東北部分を中心に歩きました。第3日以降は南から北上していくことにしました。自宅を出たのは午前10時半過ぎ。五条通を通るバスで京都駅まで行き、そこから東山区まで歩きました。京都駅出発は、午前11時25分でした。塩小路通を東に歩いて鴨川を渡って東山区に入ります。 南に向かい、東海道本選の陸橋を渡ります。新幹線のトンネルの手前で、東海道本線も新幹線も両方見ることができるスポットです。全部の列車が京都駅に止まるので、猛スピードの列車を見ることはできませんが。 東海道本選に沿って東進して、東山通まで来ます。●鳥戸野陵・中尾陵参道【道標】 [西] 鳥戸野陵 中尾陵 参道 [東] 昭和四年十二月 大阪皇陵巡拝会 [北] ←「鳥辺野稜」(とりべのみささぎ)は藤原定子の墓。藤原定子(ふじわらていし)(977-1001)は、平安時代、一条天皇の皇后。清少納言が仕えた。 「中尾陵」は東山区今熊野宝蔵町の住宅地にある仁明天皇皇后藤原沢子の墓。この道標の少し南に新熊野神社があります。●新熊野神社(いまくまのじんじゃ)永暦元年(1160)に後白河上皇が熊野権現を勧請して、法住寺殿の鎮守となりました。社殿は平清盛の造営。応仁・文明の乱で荒廃後、東福門院和子(まさこ)が社殿を再建しました。現本殿(京都市指定有形文化財)は寛文13年(1673)に聖護院の道寛親王により再建されました。熊野神社、熊野若王子神社とともに京都三熊野神社の一つ。本殿影向(ようごう)の大樟(おおくすのき) 神社創建の際、熊野から運ばれた後白河法皇お手植えのクスノキと伝えられています。 京都市の天然記念物 洛陽新熊野大権現道【道標】 [北]左 らくやう新くまの大こんけん 西国十五はんくはんせおん [東]右 大ふつ【以下不明】 [南]正徳二壬辰歳正月吉祥日 帳屋甚兵衛風化で、ほとんど読めなくなっています。大樟の近くにありますが、別の場所から移設されたものと思われます。石柱 京の熊野古道遠くに行かなくても熊野詣ができるという触れ込みです。 今熊野猿楽碑猿楽は,古代宮廷の余興や寺社の祭礼に興行されていたものに,鎌倉期歌舞的要素が付加されたもので,能楽の源流とされています。大和結崎座の観阿弥(1333~84)と子世阿弥(1363~1443)によって,応安7(1374)年,この地今熊野神社の社頭で,室町幕府三代将軍足利義満(1358~1408)の御前能として演ぜられたことにより京中で評判となり,将軍家や武家の後ろ盾を得て発展していきました。この石標は今熊野勧進猿楽を記念するものとして建てられました。横の扇形の碑には、 由緒を示す昭和五十五年十月十六日付けの文学博士屋辰三郎氏の碑文が刻まれています。 ご朱印 御神鳥の「八咫烏(やたがらす)」の印が押されています。熊野に係る神社は、摂社・末社を含めると全国に3,000以上あります。その御神鳥が八咫烏です。日本神話に登場する三本足のいカラスです。日本サッカー協会がシンボルマークにしています。新熊野神社ホームページ:http://imakumanojinja.or.jp/東山通を少し南下し、東に入ります。●光瀬寺(こうらいじ)(浄土真宗本願寺派)さらに東山通を南下し、泉涌寺道との交差点です。泉山御陵参道【道標】 [西]泉山御陵参道 [東]和四年十二月 大阪皇陵巡拝会 [北]←東山通から泉涌寺道を西に入ります。●夢の浮橋跡 かつて、この地に夢の浮橋が架かっていた。この橋は、四采天皇をはじめ、歴代の天皇、后妃等の垂所が多い泉涌寺(せんにゅうじ)に詣でる本道に架けられた橋であり、古くから大路(おおじ)橋(ばし)若しくは落(おち)橋(ばし)と呼ぱれていた。夢の淳橋という名は、源氏物語・宇治十帖の「夢の浮橋」の名に因み、この娑婆世界の無常の様が、夢のごとく、また浪に漂う淳橋のごとく、はかないものであるという例えからとったと伝えられている。 川の流れは泉涌寺の後ろの山から出て、今熊野の南を巡り、更に一の橋の下を流れて鴨川に入るが、今は暗渠となり橋は取りはずされている。泉涌寺道を西進し、東山泉小学校の西側を北に行ったところに浄心寺があります。●浄心寺(浄土宗西山禅林寺派) その東山泉小学校のグラウンド内に伏見街道第一橋が残されています。後述の石碑の場所から移設されたものと思います。●伏見街道第一橋伏見街道を南下します。●泉湯(銭湯) 営業しているようです。●伏水街道一之橋旧趾 一之橋は,伏見街道(本町通)の今熊野川に架けられた橋。愛宕郡と紀伊郡との境界ともされていたが,元来は法性寺内の橋であったらしい。この附近では,東の東福寺附近から何本かの川が街道を横切っており,北から順に二之橋・三之橋もあった。また,もともと附近は一之橋町と称し(明治2年に現町名に改める),小学校も一橋(いっきょう)小学校(今は東山泉小)というように,町名・校区名の由来となっていたが埋めたてられた。●宝樹寺(浄土宗西山禅林寺派) 本堂に祀られている薬師如来像は「子そだて常盤薬師」と呼ばれ、常盤御前が、今若・乙若・牛若の成長を祈願した像と伝えられています。 常盤御前が大和国宇陀(奈良県)の親戚を頼って都を逃れる途中、しばし雪をさけた松があったといわれ、境内墓地に「常盤御前雪除松跡の碑」が建っています。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/09/12
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【2016年9月10日(土)】 昨日は飲み会でしたが、そんなに飲んでなくて、朝の気分は良好。天気も良さそうだし、8月17日に全寺社巡り行ったっきり行ってないし、来週になると色々忙しくなるし、家内は自治会主催の近くの小学校でのミニ・コンサートに友達と出かけるというので、東山区第3日目の歩きに出かけました。【本日の行程】自宅を出たのは午前10時半過ぎ。バス一本で京都駅まで。午前11時25分くらいに京都駅を出発しました。東に歩いて、東海道線を南に横切り、東海道線の南側を歩きました。新熊野神社、瀧尾神社、光明院、東福寺の一部を歩きました。午後4時20分頃、東福寺前からバスに乗って、七条大宮でバスを乗り換えて帰宅しました。涼しいことを期待したのですが、京都の最高気温31.5度と真夏日に逆戻りで、汗を結構かきました。それでも一時期のことを思うと、だいぶましです。◆ルートと訪問スポット下記がオリジナル(下記の東山区#3)https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing◆歩行データ・歩行距離 東山区の歩き部分(地図上計測) 10.0km *全歩行距離 12.2km・歩数(全歩数)17,000歩 ・歩行時間 2時間44分。 *は自宅からの往復の歩数計データよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/09/10
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「京都市内全寺社巡り」2016年8月17日(水)東山区第2日の第3日です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201608170004/◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記です。https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing##########################≪東山区第2日第3回(最終回)≫(東山区第2日第2回から続く)さらに円山公園の奥へと進みます。料亭 左阿弥もとは元和元年、織田信長の甥である織田頼長により、安養寺の末寺として建てられました。頼長の父は、茶人の織田有楽斎。頼長も又、雲生寺道八と号し、この地で茶事を極めたと云います。江戸時代、安養寺のある東山あたりは、遊興の地として大変なにぎわい、中でも左阿彌は、安養寺「円山の六坊」の一つと数えられ、文人墨客が集いました。左阿彌が料亭を始めたのは嘉永二年。明治維新以降、御前会議にも使われ、有栖川総督宮や山県有朋参与が止宿し、頼山陽や土田麦僊画伯もよく訪れました。川端康成や志賀直哉の文豪らも訪れ、『暗夜行路』・『古都』にも左阿彌が書かれています。 左阿弥ホームページ http://www.saami.jp/history/index.html安養寺中興が慈円であったことから山号は慈円山。桓武天皇の勅命により天台宗のお寺として最澄が開創しました。法然がこの寺に庵を置き吉水草庵と呼ばれ、30年間念仏三昧の日々を送ったとされています。親鸞もこちらに念仏修行にやってきましたが、念仏弾圧により寺は荒廃してしまいます。至徳年間(1384~1387)国阿が安養寺に入寺してからは時宗に改め再興されました。境内には子院六阿弥坊が建立しますが、さきほどの左阿弥が料亭として残るのみになっています。本坊も、現在では本堂・書院・弁天堂が残るのみです。江戸時代には山号の慈円山を略し、徳川家康は円山と呼んでいたそうです。円山公園はもと境内の地だったことから、円山公園と呼ぶようになったとも伝わっています。安養寺ホームページ http://yosimizu-anyo-ji.com/index.html弁天堂山門の手前にあります。吉水さんと京都では呼んでいますが、霊泉が湧いていた事に由来します。弁天財と共に宇賀神将尊を祀っていて学術向上にご利益があるとされています。宇賀神将尊は、宝珠を抱いた白蛇に変化したことで、祇園では芸妓の技術向上のもご利益があるとされたくさんの芸妓が訪れます。慈鎮(慈円)和尚多宝塔(重要文化財)お堂の裏にあります。お滝場法然も使ったといわれる閼伽水の井戸もありますが、見逃しました。歓喜天堂(聖天堂)道標 お宿「吉水」の看板の横に立っています。山門真葛原吉水庵室の石柱 山門前に立ちます。「真葛原(まくずがはら)」は京都市東山区北部の円山公園の辺り一帯の称。本堂ご朱印ご朱印をいただくときに、将軍塚への行き方をお寺の方に聞きました。本堂の北側の道を上っていけばよいとのことで行ってみました。山側からの安養寺の眺めかなり上らないといけないかと思いましたが、ほどなく目的の道標に到達しました。安養寺がすでに高いところにあるからでしょうね。蛍が窟・知恩院【道標】建立者:中井慈眼(推定)[西]左 蛍か窟 参町 知恩院 四町お地蔵さんが乗った石垣のそばにあります。これを上っていくと、この日、将軍塚から下りたところにあった「知恩院」や「円山公園」を示す道標のところに行きつくはずです。「蛍が窟」は調べましたが、分かりませんでした。他にも石垣に乗ったお地蔵さんがありました。山道を下り、安養寺に戻ります。、歓喜天堂(聖天堂) 安養寺の守護神、歓喜天を祀ります。生駒聖天より勧請されたもの。かつては雨宝堂でした。安養寺の最上部にあります。本堂のほうに戻らず、南の道を下りていきます。将軍塚道【道標】[西]将軍塚道お宿 吉水ホームページ http://yoshimizu.com/kyoto/円山公園に戻ります。石垣で作られた公衆トイレ「ねねの道」道標長楽館の南を通り、阪急四条河原町まで歩き、阪急+バスで帰宅しました。(東山区第2日終わりです)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/08/30
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「京都市内全寺社巡り」2016年8月17日(水)東山区第2日の第2回です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201608170004/◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記です。https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing===============================それでは東山区第2日の第2回です。正法寺、霊明神社への階段を、西のほうに下りて行くと、左手に老舗料亭「高台寺 土井」があります。「高級」ですので、私は入ったことがありませんが・・・・料亭 高台寺 土井明治の両替商 元 清水吉次郎邸「十牛庵」の敷地にあり、本館は明治40年に数寄屋匠上坂浅次郎が建築、庭園は七代目小川治兵衛の作庭です。老舗と書きましたが、創業は昭和13年とのことで、それほど古くはないようです。 二年坂まで下りてきました。それまで、人とはほとんど出会うことがなかったのですが、ここまで来ると、清水寺のお膝元で、人、人、人です。空気が一変します。二年坂から正法寺の階段に向かうところに、正法寺を示す道標があります。開山国阿上人参詣道【道標】[北]開山国阿上人参詣道 是ヨリ三丁[西]洛陽 四拾八願所 本山霊鷲山 正法寺[南]■年 当■寺 ■ 来迎寺二年坂を北端まで歩き、東山通に向かう途中、左側に青龍寺があります。青龍寺浄土宗の寺で、洛陽三十三所観音霊場第九番。門と法然上人御遺跡青龍寺碑[北]法然上人御遺跡 六時礼讃根源之地 青龍寺[南]昭和五十三年六月吉日境内 木の向こうが本堂桓武天皇の勅命によって長岡京近郊に創建され、平安遷都により現在地に移されました。昔から「伽羅(きゃら)観音」の通称で広く信仰を集めてきた本尊の聖観音は、本堂正面に安置されており、身の丈約1メートル、細身の優雅な立ち姿です。寺伝によると、唐の徳宗皇帝から献上された伽羅木を、桓武天皇が伝教大師(最澄)に命じて彫刻されたものとのこと。本堂前の小さな庭に、長さ1メートル、幅50センチほどの石が据えられています。法然の門弟・見仏が後白河天皇追善回願のため、法然を招いて六時礼讃を勤めたとき、同じく門弟の住蓮が鉦の代わりに叩いたという念仏石で、隕石との言い伝えもあり、名物となっています。大小二つあって、小さい方は本堂内に保存されており、打つとカーンと金属性の音がするそうです。念仏石また、境内墓地には、勤王の志士・近藤正慎(義重)の墓があります。これは近藤 正慎の碑近藤 正慎(しょうしん)は、江戸時代末期(幕末)の尊王攘夷運動家。丹波国桑田郡(現・京都府)生まれで、京都清水寺成就院で出家。兄弟僧であった月照を支援し尊攘運動に身を投じました。安政の大獄に連座して捕縛され、六角獄舎において、月照の行方について拷問を交えて問われるが全く白状せず、獄中で舌を噛み切って壁に頭を打ちつけて自害しました。陶磁器の人間国宝、近藤悠三は孫、俳優の近藤正臣は曾孫です。子孫は代々、清水寺境内で休憩所「舌切茶屋」を営みます。東山通に出て、八坂神社近くの「王将祇園八坂店」で腹ごしらえ。疲れた身体には、ボリューム満点の中華料理とビールが一番。早くて安いのもいい。八坂神社を通って、円山公園へ。ラジオ塔(円山公園内)ラジオ普及のために昭和七(一九三二)年につくられ、ラジオ体操や野球中継が流されました。戦時中に資材供給しましたが、昭和57年に修復されました。祇園祭山鉾館京都で7月に行われる祇園祭の山鉾10基が収蔵されています。保存が困難になっていた山鉾のために、京都市のよって昭和43年に建設されました。収蔵されているのは木賊山(とくさやま)、芦刈山、伯牙山、郭巨山(かっきょやま)、油天神山、太子山、浄妙山、黒主山、孟宗山、岩戸山です。祇園小唄碑「月はおぼろに東山・・・」で有名な「祇園小唄」の碑です。祇園小唄は、長田幹彦が昭和初期に祇園のお茶屋「吉うた」で作詞し、佐々紅華が作曲、マキノ映画「絵日傘」の主題歌として、全国に大流行しました。歌ったのは藤本二三吉。男性の名前のようですが、元芸妓の女性歌手です。「吉うた」の二代目女将お龍さんが長年奔走し、昭和36年にこの碑ができました。ちょっと聞いてみましょう。歌詞:『祇園小唄』1.月はおぼろに東山霞む夜毎のかがり火に夢もいざよう紅桜しのぶ思いを振袖に祇園恋しや だらりの帯よ2.夏は河原の夕涼み白い襟あしぼんぼりにかくす涙の口紅も燃えて身をやく大文字祇園恋しや だらりの帯よ3.鴨の河原の水やせて咽(むせ)ぶ瀬音に鐘の声枯れた柳に秋風が泣くよ今宵も夜もすがら祇園恋しや だらりの帯よ4.雪はしとしとまる窓につもる逢うせの差向(さしむか)い灯影(ほかげ)つめたく小夜(さよ)ふけてもやい枕に川千鳥祇園恋しや だらりの帯よ円山公園明治維新までは八坂神社(当時は祇園感神院)や安養寺、長楽寺、双林寺の境内の一部でした。明治初年の廃仏毀釈の一環として、1871年(明治4年)に上知令によって土地が政府に没収され、1886年(明治19年)に総面積約9万平方メートルの公園が設けられました。園地計画は武田五一がまとめました。人工鉱泉療養所や貸席がたちならび歓楽境をなしていたが、火災で焼失したあと1912年(大正元年)に小川治兵衛により池泉回遊式の日本庭園が作庭され現在の形となりました。国の名勝に指定されています。円山公園の名は、安養寺の山号である慈円山からきています。祇園枝垂桜(円山公園内)「一重白彼岸枝垂桜」(ひとえしろひがんしだれざくら)という品種で、初代の枝垂桜は1947年(昭和22年)に枯死したため、現在は2代目が植えられています。来たるべき開花に備えているわけですが、花が咲いていないと、単なる一本の普通の木にしか見えず、誰も目を向ける人がいません。京都霊山護国神社南へ三町【道標】(手前)[西]京都霊山護国神社 南へ三町[東]昭和十六年十一月 靖芳書塾 稚松会建頼山陽先生墓碑【道標】(奥)[南]頼山陽先生之墓碑[北]大正十一年一月[東]大阪 有田音松建之長楽寺の頼山陽のお墓を示しています。坂本龍馬・中岡慎太郎銅像(円山公園内)慎太郎の背の低さを目立たなくするためにこのようなポーズになっているといわれています。昭和11年京都高知県人会有志により建立され、第二次大戦中に撤去されましたが、昭和37年に再建されました。京都市歌碑 円山公園内の料亭「東観荘」の前にあります。何故ここにあるかは、よく分かりません。 京都市民でありながら聞いたことありませんでした。You Tubeにありましたので、是非、お聞きください。 なかなかいいです。京都市歌作詞:藤山於菟路 / 作曲:諸井 三郎 昭和26(1951)年7月15日制定みどりの風に色はえてかおる都の花の宴あおぐ山々うるわしくながるる加茂の水清しひかりの都わが京都世界を結ぶ観光の都世紀の花あかり栄えいやます日のもとに平和の鐘が鳴りわたるひかりの都わが京都歴史にめぐるあやにしき虹の都の世をつぎし永久のおもかげ代々のあと新たにいまもしのばるるひかりの都わが京都(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/08/29
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「京都市内全寺社巡り」2016年8月17日(水)東山区第2日の第1回です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201608170004/◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記です。https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing===============================それでは第1回です。自宅を出たのは午前10時半過ぎ。遅くなったので、バス+阪急+地下鉄を使い、地下鉄蹴上駅からスタート。東山ドライブウェイを北側から上り、山科区で見つけられなかった「花山道路碑」発見に再挑戦(3回目)しましたが、結局発見できず。そのまま将軍塚まで上り、将軍塚の門の手前を、京都一周トレイルの道を「粟田口・知恩院」の方向に入りました。東山区第1日では、逆側から上ってきました。東山一周トレイル道標右の「東山山頂公園」の方から下りてきました。「粟田口」が東山区第1日で上ってきた方向です。今日は京都一周トレイルから外れ「知恩院」方向に下りていきます。「知恩院」方向に下りていくと、木の道標とともに、石の道標2つが見つかります。手前の道標 将軍塚・円山公園【道標】建立者:中井慈眼(推定)[南]右 将軍塚[西]左 円山公園奥の道標 山縣公紀念樹・菊渓・高台寺【道標】「菊渓」は「きくたに」と読み、高台寺の北の菊谷菊という菊が咲き誇っていた場所のようです。「山縣公紀念樹」に方向に行くと、平らな少し広い土地に出ました。木にこのように「高台寺山」というラミネートされたカードがぶらさげてありました。一つは「26 高台寺山198.6m 関西・東山三十六峰を歩く会 H22.9.4/9.9」もう一つは「京都・東山三十六峰 第26峰 高台寺山 標高200m 兵庫・東山三十六峰を愛する会」2014.9.20と書いてあります。いずれも東山三十六峰を歩く団体の方が、山の場所を特定するために、ぶらさげられたのだと思います。この場所はピークでも何でもなく、山の中腹の少し平らになったところです。そのような場所も、東山三十六峰の一つになっているということです。色んなネット情報を見ますと、東山三十六峰の中には、特定するのが非常にむつかしい山も多いようです。それにしても、H22といえば、6年前。ラミネートされているとはいえ、風雨と高低温の中、あまり劣化もせずに、文字が読める状態というのは驚きです。山縣有朋紀念樹を示すものは見つかりませんでした。もと来た道を戻り、東山山頂公園を南下し、東山区第1日でも歩いた京都一周トレイルの道を下ります。次は、伊藤博文の詩碑を目指します。場所の確信はなく、まず林道と交差したところで林道を西に向かってみました。この林道は、結構広い通りで、伊藤博文の詩碑が建てられたより新しい時代にできた道だと思われ、これは間違いかなと疑いつつでしたが。案の定、何も発見できず。林道と東山トレイルの交差点に戻りました。さらに京都一周トレイルに沿って南下すると、少し広くなった場所に着きます。このような道標がありました。左に行くと東山区第1日で歩いた京都一周トレイルですが、点線の方向に行くと、「清水寺」とともに、「木戸孝允の碑」とあります。「うん?木戸孝允?伊藤博文のはずだけど。」と思いながらも、この点線の方向に進むと、道標にもあった分かれ道に来ます。清水寺・将軍塚・伊藤博文詩碑・高台寺【道標】建立者:中井慈眼(推定)[南西]右 将軍塚 大日如来 左 伊藤公詩碑 高臺寺 木戸公墓所[北西]右 清水寺 参町[南東]左 清水寺 参町ありました、ありました。「伊藤公詩碑」の方向に向かいます。「通り抜けできません」とありますが、無視して行ってみました。しばらく行くと「通行止」の標識。それでも無視して進みます。誰も歩いていないので、山道はクモの巣だらけで、手に持った地図で前のクモの巣をかき分けながらの前進でした。途中からは、腰まで草が生えている中を歩かないといけませんでした。アドベンチャーです。しばらく行き、ようやく伊藤博文の詩碑を発見。難道中でしたので、喜びもひとしおです。伊藤春畝詩碑(以下、「いしぶみデータベース」の説明) 公爵伊藤博文(号春畝,1841~1909)自作の七言律詩を表に記し,裏面には建立の経緯を記す。伊藤と井上馨は明治42(1909)年に木戸孝允(1833~77)の三十三回忌列席のため来京。伊藤が木戸の墓所に詣でて作った七言律詩を中井慈眼に示したところ,中井が伊藤・井上の詩碑を東山に建立することを発意し建設された。井上馨の詩碑はこの碑の東方にあり姉妹碑とでもいうべきものである。 中井慈眼(1851~1932)は中井三郎兵衛と称し,三条東洞院で紙商を営んだ人物。府会議員・市会議員をつとめ明治京都の実業界で重きをなした。かたわら京都を観光都市として発展させるために東山の開発に尽力した。中井は近くの将軍塚の大日堂を明治41年に建立し,この碑一帯の整備にも意を注いだ。その詩碑の近くに、ラミネートされたカードがあり「27 霊山 176m 関西・東山三十六峰を歩く会 H22.9.4/9.9」と書いてありました。さきほどの「高台寺山」のカード一つと同じグループ、同じ日付けです。ここも特にピークになっているわけではなく、中腹で少しフラットになっているだけです。さらに山道を下りようとしますが、今度は、工事中に使う三角コーンが置いてあり、立ち入り禁止を示しています。無視して坂を下りていきます。霊山護国神社の裏に出ました。鉄条網でその先に進めなくなっています。回りは崖になっていて、回りこんで進むこともできないようです。ところどころ鉄条網が切られていて、無理やり入ったあとも見えますが、身体が硬い私がトライすれば、きっと血だらけになってしまいます。あきらめて、今下りてきた山道を戻りかけました。そのとき、少し崖になっていますが、鉄条網のないところがあって、そこから下りることができそうです。気をつけて下りました。やれやれ。下りたところは墓地でした。霊山護国神社の墓地だと思ったのですが、墓地の中を進んでいくと、正法寺というお寺の墓地であることが分かりました。からくりはこういうことだと思います。昔は、霊山護国神社の墓地(坂本龍馬や中岡慎太郎など、幕末の志士の墓が多く置かれている)は、無料で入れたのだと思います。そのころは、伊藤博文の詩碑にも、行くことができたのだと思います。ところが入場料をとるようになり、無料での入場を阻止するために、このようなバリケードを神社が設置したのでしょう。正法寺の墓地が隣接しているのですが、正法寺は拝観料をとっているわけではないので、鉄条網がないのでしょう。いずれにしても、正法寺に助けられました。この崖を下りました。正法寺(しょうぼうじ)時宗の寺院。山号は霊山(りょうぜん)または霊鷲山。この一帯を霊山とよぶのは当寺山号に由来しています。この寺は、最澄の開山により創建された天台宗の寺院に始まると伝えられます。はじめは霊山寺と称し、光孝天皇・宇多天皇の勅願所となりました。鎌倉時代初期には法然がこの寺で別時念仏を修したといいます。その後荒廃していたが、1383年(永徳3年)に時宗の僧国阿が再興して正法寺と改め時宗の寺院となりました。室町幕府3代将軍足利義満の帰依を受け寺運は興隆しました。江戸時代には時宗十二派の「霊山派」の本寺とされ、江戸幕府から朱印状を与えられ、塔頭十余宇を有したが、明治以降衰退し、現在は本堂(釈迦堂)・庫裏などを残すのみとなりました。 また、当時正法寺で授けたお札は「柏のお札」といって柏の葉の形の中に「伊勢熊野参詣輩」「許永代汚穢」(永代の汚穢を許す)の文言が刷られていました。本堂裏から不法侵入に近いかたちでお寺に入っているので、本堂にお参りしてから、山門に向かうということになりました。でも山門には内側からカンヌキがかけられていて閉まっています。内側からなので、カンヌキを外せば出られないことはないはずです。しかし、そうするとお寺の方に見つかったとき、どうやって入ったか詰問されることになります。困ったなぁと思ったところで、閃きました。お墓があるということは、お墓参りの人が入れる通路があるはずだ。山門を右に回り込んだところに道があり、山門の下に出ることができました。山門正法寺の山門を少し下りたところに霊明神社という小さな社があります。創建者の村上都やす(くにやす)(「やす」は”りしんべん”に山+豆)は朝廷に仕えていた貴族で徳川政権下では仏式で葬祭を行なうと決められていたことに疑問をもちました。そこで文化6年(1809)、正法寺の塔頭が所有していた山林を買い受けてこの地を購入して神式の葬祭を始められたそうです。お墓がある神社として珍しい存在です。文久2年(1862)京都で亡くなった長州藩の志士を葬ったことに始まり各藩の尊王攘夷派の志士を埋葬するようになります。久坂玄瑞が先祖の永代供養を申し入れたという記録もあるそうです。そして慶応3年(1867)龍馬と慎太郎が近江屋で刺客に襲われ亡くなると同志によって運ばれ神葬祭をおこなって埋葬したという記録が残っているそうです。明治10年(1877)政府によって墓地と境内地の大半を召し上げられ政府が管理する招魂社(現在の京都霊山護国神社)に管理させます。したがって現在は龍馬を始め志士達のお墓は霊明神社にはないのですが神社の前の階段を西側へと降りていくと神道墓地として少しばかり残されています。ご朱印急な階段を下りていきます。八坂の塔の眺めが見事です。前述の霊明神社の神道墓地(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/08/28
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【2016年8月17日(土)】 今日は天気も良さそうだし、家には私一人なので、京都市全寺社巡り、東山区の2日目に出かけました。【本日の行程】自宅を出たのは午前10時半過ぎ。遅くなったので、バス+阪急+地下鉄を使い、地下鉄蹴上駅からスタート。山科区で見つけられなかった「花山道路碑」発見に再挑戦(3回目)しましたが、結局発見できず。中井慈眼(中井三郎兵衛)が建立した東山周遊の道標でまだ訪れていないところや、伊藤博文詩碑を巡り、正法寺、霊明神社、円山公園、安養寺などを巡りました。伊藤博文詩碑は立ち入り禁止の山道のところにあったため、ちょっとしたアドベンチャーでした。山道のを歩いているときに、雨が降ってきましたが、それほどきつくはならなくて助かりました。◆ルートと訪問スポット下記がオリジナルhttps://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing◆歩行データ・歩行距離 東山区(一部山科区)の歩き部分(地図上計測) 8.9km *全歩行距離 12.7km・歩数(全歩数)18,000歩 ・歩行時間 2時間56分。 *は自宅からの往復の歩数計データ今日の京都の最高気温は32.3度とそれほど高くはありませんでしたが、平均湿度が73%と8月になってからでは最高で、気温以上に暑く感じました。【オリンピック】シンクロデュエット銅。おめでとう。指導者がいかに大切かということですね。卓球男子、銀。やっぱり中国は強い。でもはるか先を行っていたのが背中が見えてきた。女子レスリング、3階級(48kg、58kg、69kg)、すべて試合終了30秒を切ってからの逆転。すご過ぎる。でも、逆転が可能と選手は思っていた。日本の選手は体力では世界の選手に負けないそうだ。だから、終盤点差が少なければ、体力勝負で逆転できるという。まぐれでも、精神力だけでもない、ちゃんと裏付けがあるんだ。いやはやすごい。選手の名前がいいじゃないですか。ど根性(土性)で登り坂(登坂)でいい調子(伊調)。おめでとう!!!!よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/08/17
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「京都市内全寺社巡り」2016年8月11日(水)の東山区1日目の第2回(最終回)です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201608100007/◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記です。https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing===============================それでは第2回(最終回)です。佛光寺本廟の西に良恩寺があります。●良恩寺(浄土宗西山禅林寺派) 創建は永禄年間(1558~70)とされます。本堂に祀られる像高三尺(約九十センチ)の阿弥陀如来坐像は、小野篁(おののたかむら)作と伝わります。地蔵堂(導引地蔵堂)に祀られる地蔵菩薩像は、伝教大師の作とも伝わり、「導引地蔵(みちびきじぞう)」の名前で知られています。この「導引地蔵(みちびきじぞう)」という名前の由来ですが、かつて背後の華頂山(東山三十六峰の一つ)に火葬場があったことが関係しているようで、良恩寺はこの火葬場を管理し地蔵堂の前で葬者に引導を渡していたことから、この地蔵尊は導引地蔵と呼ばれるようになったといわれます。石柱の道路側には、写真では分かりにくいですが、「導引地蔵」と刻まれています。 本堂。小野篁(おののたかむら)作と伝わる 阿弥陀如来坐像が安置されています。 地蔵堂。導引地蔵が安置されています。●庚申堂登口【道標】[北]庚申堂 登口[西]将軍塚[南]昭和十三年十二月建之[西]吉岡和助 牧崎春吉粟田神社に上る階段下の鳥居の東側にあります。庚申堂とは後から訪れる尊勝院のことです。確かに、これから訪れる粟田神社の境内を通って、尊勝院や将軍塚に行ける道があるのですが、今は門が閉まっていて実際には行けません。粟田神社への登り口を三条通方向に少し歩きます。●粟田焼発祥地碑[東]粟田焼発祥之地[南]平成元年十月吉日[西]青蓮院門主 慈洽書[北]粟田焼保存研究会建 粟田焼は洛東粟田地域で生産された陶器の総称で,いわゆる京焼の一つ。寛永初年(1624)頃,三文字屋九右衛門が瀬戸より来て粟田口三条に開窯したのに始まります。初期は銹絵・染付陶器を生産しましたが,野々村仁清(生没年未詳)が御室窯で上絵付色絵陶器を完成後は色絵の高級陶器を焼き代表的窯場となりました。しかし,明治維新後は衰微の一途を辿りました。●出世恵美須神社参道【道標】[西]出世恵美須神社参道[南]皇紀二千六百年十月二十日[北]奉斎会建之出世恵美須神社は、あとで訪れる粟田神社の摂社の一つです。創建年代は不詳ですが、もとは三条蹴上の夷谷に奉祀されていました。源九郎義経が牛若丸の幼少時代に奥州下向の時、源家再興の祈願をされた恵美須神であり、出世又は門出恵美須と称されました。500年以上前に蹴上の山崩れがあり、土砂と共に流出した際に止まったところが現在の三条神宮道付近であり、夷町といいます。永く夷町、金蔵寺に奉斎されていましたが、明治に粟田神社摂社として遷し、出世恵美須神社として崇敬されています。地図で確認すると、確かに、蹴上を山科の方向に行ったところに日ノ岡夷谷町、三条神宮道に夷町という名前が残っています。●粟田神社スサノオノミコト・オオナムチノミコトを主祭神として祀り、厄除け・病除けの神として崇敬されてきました。京都の東の出入口である粟田口に鎮座する為、古来東山道・東海道を行き来する人々は旅の安全を願い、また道中の無事を感謝してお参りされるようみもなり、いつしか旅立ち守護・旅行安全の神として知られるようになりました。粟田祭では神輿に先行して剣鉾が巡行します。剣鉾は祇園祭の山鉾の原形と云われており、 室町時代には祇園会が行われない際は粟田祭をもって御霊会としたと伝えます。一説には奈良朝より活躍した粟田氏の氏神として創建された社とも云います。三条通に面した石標三条通から少しだけ南に入ったところにある鳥居 参道の石榴(ザクロ)の木 階段の登り口の鳥居鍛冶神社。粟田口の刀工、三条小鍛冶宗近・粟田口藤四郎吉光と、作金者(かなだくみ)の祖である天目一筒神を祀る鍛冶の神様。拝殿と本殿。拝殿は桧皮葺き。本殿・幣殿・拝殿は市の有形文化財に指定されています。粟田祭の夜渡り神事に行われる「粟田大燈呂」の出し物だと思います。 境内は少し標高の高いところにあり、北側の眺望が楽しめます。五山の送り火の「左大文字」「船形」が正面に見えます。神社の方に聞いてみたら、送り火の日には200人から300人の方が来られるようです。眺望可能な場所は狭いですが、入れ替わり立ち替わり観るので(どなたかが仕切っていらっしゃるのか、自発的かは分かりません)、混んでいても観られますよとのことでした。「五山送り火」のビューポイントの一つに加えておきます。 石段を下り、三条通の一つ南の道路をさらに西に向かいます。●元三大師【道標】[北]元三大師[西]文化二乙丑年四月建之[東]多賀大社あとから訪れる尊勝院への道であることを示しています。●青蓮院宮御墓参道【道標】[北]青蓮院宮御墓 参道[東]←[南]大阪皇陵巡拝会この道標に従っていくと、青蓮院宮墓地が右手にありました。しかし、金網があり入れません。青蓮院を拝観したときに、訪問可能と思ったので、写真は撮りませんでした。しかし、帰ってきてからネットで色々調べると、青蓮院境内からも訪問は不可能なようで、一般の人には閉ざされているようです。。この道をさらに上っていくと尊勝院があります。●尊勝院(天台宗)元三大師(良源)を本尊とする寺院で「元三大師堂」と呼ばれることもあります。青蓮院に属する寺院で、青蓮院の門主が、住職を兼務しています。尊勝院は、保延年間に陽範阿闍梨が比叡山横川に尊勝坊を開創したことに始まり、その後青蓮院三条白川坊の裏に移されたと伝えられています。応仁の乱により荒廃しましたが、文祿年間に豊臣秀吉によって本堂が再建されたといわれています。大正4年に寺地が現在地へ移転されましたが、その際、建物は本堂のみが移されました。内陣は極彩色が施されており、桃山時代の趣がよく残されています。小規模ではありますが、古式で上質の建物です。尊勝院は別に青面金剛(しょうめんこんごう)を祀り、京都三庚申(注)のひとつにも挙げられる庚申信仰の霊場です。境内には、「不見、不聞、不言(みざる、きかざる、いわざる)」の三猿の像があります。京都三庚申とは尊勝院、八坂金剛寺、山之内庚申堂(猿田彦神社)これでさきほどの粟田神社の三猿の張り子の由来が分かりました。尊勝院奥の山道に入ります。この道は京都一周トレイルの道で、家内と以前、逆方向からですが、歩いたことがあります。前回訪れた将軍塚に繋がっていますが、「いしぶみデータベース」によると、いくつかの道標があることになっているので、もう一度向かいます。●青蓮院・都ホテル【道標】 [南]左 青蓮院[東]右 都ホテルこの山道に設置された道標は明治-昭和時代前期の実業家である中井三郎兵衛(1851-1932)が、東山周遊の便にと建立したものではないかと言われています。中井三郎兵衛は京都府会議員で、京都織物、京津電気軌道、王子製紙などの役員をつとめました。かたわら京都を観光都市として発展させるために東山の開発に尽力しました。●将軍塚青龍殿舞台 前回訪れた舞台を下から眺めます。●将軍塚大日堂由来碑 前回訪れたときに、見逃していました。 [南]遍照法界(印)(印)【印文「邦彦王章」「泰山」】【以上篆額】 顕廣主めつらしきこのみほとけそのまゝに ちとせの後に見るそかしこし 従二位男爵九鬼隆一識[北]此の石仏大日如来像は中井君か将軍冢のあたりにて発見せるものにして君は菩提功徳の為めに明治戊申の夏もろ@@の名僧知識を集め再建供養の儀式を執行はれたり余も亦其の式に招かれけれは親しく其像を見てけるに古朴温容の中に自ら最高顕廣の相を備へ本邦にて稀なるものなるへく大方平安奠都後程遠からぬ時代の製作として観賞せり乃ち一首の咏歌を題語とを書して崇敬の念をしるすといふ 九鬼りう一識 (@@はかな2文字の繰り返し記号)中井三郎兵衛が将軍塚山上で石造大日如来像を発見し,翌年これを安置した大日堂を建立しました。この碑は九鬼隆一による大日堂建立経緯の記、および同人の歌を刻んだ碑です。●東山道路工事碑 将軍塚展望台駐車場にあります。東山ドライブウェイは昭和34年に開通し、当初は日本道路公団の有料道路でした。●清水寺・山県有朋紀念樹・高台寺【道標】(山科区#13で掲載済み)[北東]右 山縣公紀念樹 高臺寺[南東]左 清水寺今回は、東山ドライブウェイを下りずに、京都一周トレイルの山道を南下します。●井上世外詩碑[西南]山水増光 (印)(印)【印文「邦彦王章」「泰山」】【以上篆額】天懸海外三千界月満人間幾百州 侯爵井上世外 (印)(印)【印文「侯爵」「井上馨之印」】[東北]碑陰記碑面所勒世外井上侯句也建碑者中井慈眼翁也蓋桓武帝奠都之地山水明媚美甲于寰宇翁欲以為一大公園経営名区尽瘁不措今茲侯與春畝公来祭木戸公乃有此作翁於是卜地勒碑以培風致欲深富国之源其志美矣余惟園囿以招遠人不問雉兎芻蕘則文王之仁必達遐陬厥美更無窮極耳乃為記之明治四十三年八月 浪華南岳藤澤恒撰文 伊勢錦山矢土勝之書 設計監督 安田時秀 肝煎 辻坂楢吉 鐫刻 芳村茂右ヱ門 運搬 松山米吉 井上世外とは侯爵井上馨(1835~1915)の号。井上が揮毫した元人劉シン(「ごんべん」に先)作七言律詩の対句を表に記し,裏面には建立の経緯を記しています。井上と伊藤博文は明治42(1909)年に木戸孝允(1833~77)の三十三回忌列席のため来京。中井慈眼(中井三郎兵衛)が伊藤・井上の詩碑を東山に建立することを発意し建設されました。伊藤博文の詩碑はこの碑の西方にあり姉妹碑とでもいうべきものです。伊藤博文の碑は、今後探索予定。●清水寺・将軍塚・稚児ヶ池・山科街道【道標】[北西]右 清水寺 左 将軍塚 大日如来[南西]右 稚児ヶ池 山科街道●山県有朋紀念樹・高台寺・大日如来・将軍塚等【道標】[南西]右 山縣公紀念樹 高臺寺[南東]右 大日如来 粟田青蓮院 将軍塚 京津日ノ岡停留所 圓山公園 知恩院 都ホテル 山縣公手植松●清水寺・将軍塚【道標】[北西]左 将軍塚 大日如来[北東]右 清水寺石塀に囲まれたお地蔵様。風雨から守るためでしょうか。木の根道。鞍馬寺奥の木の根道と同じような道がありました。 ●石塔九十九折れの急な坂道を下り、五条通(国道1号線)近くの道に出ました。清水寺の方向に歩き、子安の塔側の入口(下の写真)から清水寺に入りました。ここから清水寺境内に入るのは初めてです。ちなみに清水寺の有料拝観の部分は舞台のある本堂だけですので、奥の院、子安の塔、音羽の滝、地主神社、舞台の下からの眺めなどは、この子安の塔側の入口から入場したり、普通の参拝経路を逆行することで、無料で観ることができます。子安の塔から、清水寺のパノラマをしばし眺め、外国人観光客で混雑する清水坂、産寧坂を下り、八坂の塔を右に見て、東山通に出て、八坂神社前まで辿りつきました。八坂さんの手前の「王将祇園八坂店」で、ビールと野菜炒めで遅い昼食。 16:40、阪急河原町駅から電車とバスで帰宅しました。最高気温36.1度の暑い一日で、山道が多かったので、相当疲れた歩きでした。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/08/13
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「京都市内全寺社巡り」2016年8月11日(水)東山区第1日の第1回です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201608100007/◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記です。https://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing===============================それでは第1回です。自宅を、午前10時過ぎのバスで出て、五条駅で地下鉄に乗り換え。渋滞がひどく、ここまでで1時間もかかってしまいました。蹴上駅を11:30出発。山科区は一応終えましたが、最終日に見つけられなかった石碑や、帰ってからネットで見つけたスポットがあったので、それも含めて回りました。まず、三条通を山科側に歩いて、山科区に入り、日向神宮方向に坂を上がります。●旧九条山浄水場(山科区) 山科区の最終日でも、横を通っていますが、特に気をとめず通過していました。帰ってからネットで、色々調べると、ここはかつて大日山貯水池(御所へ水を供給するための高度貯水池)だったところでした。戦後、進駐軍の指示で大日山貯水池を「九条山浄水場」として改造したものですが、昭和62年に浄水場としての操業を停止しています。 これが御所水道に水を送っていた貯水池ではないかと思います。●玉姫大明神(山科区)丘の上の住宅地にあります。●全和鳳美術館(廃墟)(山科区) 山科区の最終日で発見し、すでに投稿済みですが、この日は入口も撮影してきました。 荒れ果てていますが、入口のお花は誰かが世話しているのか、きれいに咲いていました。 三条通の東側歩道を、さらに山科の方向に歩きます。●「X王護国X」と掘られた石(山科区) 擁壁に、何故かこんな石が・・・ この付近に粟田口刑場が江戸時代より前からあり、約15000人ほどが処刑されたと推測されています。そして刑死者の供養として、京都の各宗派寺院が1000人ごとに供養碑を建てたといいます。その数は幕末までに15基に及びました。しかしこれらの供養塔は明治の廃仏毀釈によって撤去され、石材として転用されてしまってほとんどが失われてしまいました。一部はこのように最終的には擁壁に使われたのでしょう。●車石(山科区) 擁壁に、車石が使われており、車輪によって削られた石もちらほら見えます。●車石 旧舗跡(山科区) 車石の轍(わだち)の部分を擁壁に使って碑が作られています。三条通の西側歩道を岡崎方向に戻ります。●粟田刑場跡(山科区)「萬霊供養塔」「南無阿弥陀仏」と刻まれた2つの石碑が建っています。粟田口の刑場は明治維新後に廃され、明治5年(1872年)に舎密局の申請で京都府によって同地に粟田口解剖場が置かれました。しかしその年には解剖場は病院に移転となり、この土地は忌み地として残されました。2つの石碑は、この解剖場時代の供養塔です。山科区最終回では、草が茫々で、とても近付けるような感じではなかったのですが、草がきれいに刈られていて、間近で観ることができました。こちらの供養碑は大正元年、ここに鉄道を敷いた、京津電気軌道会社によって建てられたもののようです。●日岡峠修路碑(山科区) 京都から山科へ通じる三条通(東海道)の日岡峠は急坂の難所として知られていました。江戸時代には、街道に車石という牛車用の軌道を作ったこともありました。慶応3(1867)年には三条通(東海道)自体が峠の前後で付け替えられ現在の経路になりましたが,さらに明治になり急坂自体をなだらかにする工事が京都府により実施されました。このことを記念して建てられた碑です。同時に三条大橋から滋賀県境までの三条通が整備されました。 碑の南側面に記される本間英一郎はアメリカに留学したこともある土木技術者。のちに碓氷峠の鉄道敷設に尽力しました。[東]修路碑【篆額】京都三条橋以東抵近江国界道路険仄往往称不易行而日岡嶺為最甚焉然以当両京周道車馬旅客之行皆靡不由於此使憧憧之人永苦往来豈忍乎哉因以明治八年経始起工越二年而告テン(*)計為程一里十九町五十一間有奇易険為夷易仄為平而嶺之道高者又低一丈一尺四寸庶幾乎車馬旅客皆可以免往来之苦也歟明治十年三月京都府知事従五位槇村正直撰 太政大臣従一位三條實美篆額 京都府四等属中村勤謹書[北]石工 白川村 内田徳左衛門 土工 同 岡野傳三郎[南]主任 京都府雇 本間英一郎 森寺廣三郎 主事 京都府七等属角田利永 十等属紀野信存(*)はブログで扱えない文字のため、カナ書きとした。●花屋道路碑東山ドライブウェイを上がり、山科区最終回で見つけられなかった「花山道路碑」を探しました。ネットでより正確な位置が分かったためです。しかし、今回も見つけることができませんでした。止むなく、東山ドライブウェイを下り、三条通を岡崎方向に向かいました。●ウェスティン都ホテルウエスティン都ホテルには、美しい庭園があるので、見学しようと思い、寄りましたが、庭園を見つけることができませんでした。帰ってきてから、ネットでホテルに問い合わせたら、「ご宿泊の方でなくても見学はしていただけますので、フロントでその旨申し出てください。」とのことでした。今度近くに行ったら、お庭を見せていただこうと思います。●佛光寺本廟・門・本堂・御廟(おたまや)・鐘楼と手水舎・焼香箱・バケツをお墓参り用にここで預かっているようです。・「お茶所」を示す石。弘化3年と彫られています。・御廟の前に「三条小鍛冶宗近古跡」碑があります。[北]三条小鍛冶宗近之古跡 唱導者山本祐山 粟田口町住人一統建[南]大正六年三月三条小鍛冶宗近(生没年未詳)は,平安中期の刀工粟田口宗近のこと。その住居は三条通北側の合槌稲荷附近にあったといいます。三条小鍛冶宗近は名刀「小狐丸」や祇園祭長刀鉾の鉾頭の長刀で有名です。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/08/11
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【2016年8月10日(水)】 今日も朝から暑く、本当だったらゴルフ練習くらいにとどめたいところだったのですが、車がないので、ゴルフ練習は行けません。無理をしないという前提で、「京都市内全寺社巡り」に出かけました。【本日の行程】自宅を出たのは午前10時過ぎ。五条通経由のバスと地下鉄で、地下鉄蹴上駅からスタート。山科区第1日ですが、東山区で前回見つけられなかったり、あとで見つけたりした場所も含め回りました。◆ルートと訪問スポット下記がオリジナルhttps://drive.google.com/open?id=1g8SwpQ6kDUnreV2ZQi6eodH6lYc&usp=sharing◆歩行データ・歩行距離 山科区・東山区の歩き部分(地図上計測) 11.0km *全歩行距離 15.8km・歩数(全歩数)22,500歩 ・歩行時間 3時間33分。 *は自宅からの往復の歩数計データ暑くて、山道が多かったので、疲れました。帰宅後、しばらく休憩して体温を計ったら、37.1度ありました。熱中症になりかけだったのかもしれません。いつもはお湯だけでシャワーを浴びるのですが、今日は最後に水を浴びて身体を冷やしました。今日の京都の最高気温は34.7度で、猛暑日は昨日までの6日連続で途切れました。このまま、気温が下がっていって欲しいです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/08/10
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「京都市内全寺社巡り」2016年7月27日(水)山科区第13の第3回(最終回)です。山科区の最終回でもあります。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201607270003/◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記です。https://drive.google.com/open?id=1MoOqYBgZk5sF5srdqHZ1RpL0zKM&usp=sharing=============================== それでは第3回(最終回)です。 東山ドライブウェイを上がって、将軍塚大日堂まで来ました。 ここは、東山三十六峰の一つ華頂山の頂で、青蓮院の飛地境内です。 桓武天皇は都を奈良から京都の南方、長岡に移しましたが、いろいろと事故が続きました。この時、和気清麻呂は天皇をこの山上に誘い、京都盆地を見下ろしながら、都の場所にふさわしい旨進言しました。天皇はその勧めに従って延暦十三年(794年)、平安建都に着手されました。 天皇は、都の鎮護のために、高さ2.5メートル程の将軍の像を土で作り、鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させ、塚に埋めるよう命じられました。これが、この地を「将軍塚」と呼ぶ由来です。この「将軍塚」は、国家の大事があると鳴動したという伝説が、源平盛衰記や太平記に残されています。 また、延元年間(1338年頃)には新田義貞がここに陣を敷いて足利尊氏の軍を敗り、また近くは太平洋戦争にここが高射砲の陣地にもなりました。乃木大将、東郷元帥、菊池大麓、大隅重信 等の明治の元薫のお手植の松が植えられた、石柱や石碑が後継の松と共に残されています。 それから大日如来をお祀りした大日堂があります。 ここに平成26年10月、大護摩堂「青龍殿」が建立されました。麓にある青蓮院にあった国宝 青不動が現在はここに安置されています。ただし、通常非公開で前に複製が置かれています。 この青龍殿は、大正2(1915)年、大正天皇の即位を記念して、「大日本武徳会京都支部武徳殿」として京都北野天満宮前に建立された木造大建造物です。 戦後、昭和22(1947)年、京都府に移管され、「平安道場」として警察の柔道剣道の道場となり、後に、一般にも開放されました。平成10(1999)年、京都府は、平安道場を閉鎖し、解体処分を決定し、その後、青蓮院がここに「青龍殿」として移築再建しました。 何といっても圧巻は、青龍殿の背後に新築された大舞台です。以前からも西側に観覧席状の展望台がありましたが、眺望は限られていました。この新しい大舞台からは、まさに大パノラマが障害物なしに楽しめます。・将軍塚大日堂に続く参道に、大日堂内に大隈重信公がお手植えになった松があることを示す石碑が立っています。ここからは東山区です。・福徳門・大日堂・青龍殿 ・青龍殿内部 奥に国宝・青不動が安置されています。・青龍殿背部と大舞台・大舞台・岡崎方面を望む・黒谷・吉田山方面を望む・北側遠景 右奥は比叡山・西側遠景 京都御苑が見えます。・将軍塚と東郷元帥お手植えの松・将軍塚・黒木大将お手上の松・大隈重信公(早稲田大学、創建)お手植えの松以前に比べ、庭園がすいぶん立派になっていました。将軍塚大日堂を出て、ドライブウェイの三叉路まで下ります。また山科区に戻ったことになります。ドライブウェイを少し南に行ったところを東に入ります。初めてこの道に足を踏み入れました。以前来たときは、新興宗教の阿含宗総本山ということで近づきにくい雰囲気があったので、この道には入りませんでした。奥には京都大学花山天文台もあります。奥に奥に進んでいきましたが、花山天文台は関係者以外立ち入り禁止でした。戻って、阿含宗総本山を見学させていただきました。門が閉ざされているのかと思いましたが、オープンでした。・本殿・本殿横の京都大仏 お顔が少し見えます。・社務所のようなところでしょうか。その前の広場にモニュメントがあります。・エルサレムの獅子 平成20年、イスラエル・エルサレム市からの寄贈。・世界平和祈念仏舎利塔 平成25年建立。エルサレム植物園に建立した仏舎利塔と対をなすいものだそうです。 さらに奥にはこんな建物が東山ドライブウェイに戻り、五条通(国道1号線)方向に下っていきます。・東本願寺東山浄苑の門 国道1号線が山科へ抜けるトンネルの上を通って南下して下り、中央斎場のほうに上っていきます。葬儀関係の車しか往来しないところで、そこを一人で歩いている私は何か異常者に見られたかもしれません。途中までは京都一周トレイルの道なのでたまに歩行者も通る歩道ですが、そこを過ぎるとまず歩いて通る人はいないので、歩道は濃い緑に苔むしていて、滑らないように気をつけなければなりませんでした。・中央斎場入口 用のない方は立ち入り禁止と書いてありますが、用がないわけではないので、無視して入場。 ここに旭山古墳群の石碑があるはずです。見つからずウロウロするのは嫌だなと思いましたが、簡単に見つかりました。また、遅い時間だったので、葬儀の関係も全部終わっているようで、喪服を着ている人も見かけませんでした。早い時間に来ていたら、ハイキング姿の私は変な目で見られたかもしれません。・旭山古墳群石碑 [北東]旭山古墳群 [南西]昭和五十六年吉日 京都洛東ライオンズクラブ建之 旭山古墳は,六条山山頂から南斜面にかけて,径10メートル程度の円墳が20基余り点在している古墳群です。調査された古墳はいずれも7世紀初頭のもので,横穴式石室から須恵器の杯・壺・甕,土師器の甕や鉄釘,金環,刀子などが出土しています。もと来た道を下り、国道1号線に出ます。すでに東山区です。国道1号線に出たところに道標があります。・渋谷街道【道標】 [北東]渋谷街道 [南東]すく大仏 本願寺道 [北西]右 火葬場 左 山科大津 道 [南西]明治十三年六月建之 杉本新左【以下埋没「衛門」か】 岩佐孫【以下埋没「兵衛」か】 井上治郎【以下埋没「兵衛」か】 芝原嘉【以下埋没「兵衛」か】 片山長【以下埋没「兵衛」か】 池田長【以下埋没「兵衛」か】 杉本治郎兵【以下埋没「衛」か】この石碑の近くに京阪バスの「清閑寺山之内町」バス停があり、ちょうどいいバスがあったので、それで四条河原町まで下り、阪急で帰宅しました。これで山科区踏破ですが、見つからなかったり、見逃したりした石碑などがあるので、次の東山区を回るなかで訪れる予定です。(続きます)-----------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/08/04
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「京都市内全寺社巡り」2016年7月27日(水)山科区第13日目の第2回です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201607270003/◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記です。https://drive.google.com/open?id=1MoOqYBgZk5sF5srdqHZ1RpL0zKM&usp=sharing===============================それでは第2回です。日向大神宮を参拝後、参道を東のほうに下ります。途中から参道は左京区に入ります。右手に安養寺があります。●安養寺(西山浄土宗)(左京区)本尊は恵心作という阿弥陀如来。開祖・円仁像も安置されています。円仁により、天台宗の寺として開かれたといいます。安土・桃山時代、1590年、道観により浄土宗に改宗されました。 下の写真の、左の階段の門は閉まっていますが、その右の道が、安養寺の境内に入れる階段に繋がっています。一番右の道を上がっていくと日向大神宮です。二本の石柱はその二の鳥居ですが、水平の石である笠木や貫が無くなっています。他のブログを見ると、ちゃんとある写真もあったので、最近、損壊してしまったのだと思います。 分かれ道に、右が「神明道」すなわち日向大神宮への参道であることを示す道標が立っています。 さらに参道を下りていくと、インクラインの上に出て、第3トンネルを出てきた琵琶湖疏水を渡ります。●九条山浄水場ポンプ室 赤坂離宮、京都国立博物館の設計者である片山東熊が設計しました。九条山浄水場ポンプ室は、防火用水を京都御所へ送る目的で建設された建物です。大正天皇が皇太子だった頃に、疎水を船で下り施設を視察されるとの話があり、豪華な装飾を施したと伝えられています。この様な経緯から、側面にある出入口とは別に疎水側にも玄関が設けられています。 京都御所への送水は、約30メートル高い大日山の貯水槽に揚水、41メートルの落差をとり、京都御所までの約4キロメートルの距離を600ミリの鉄管でつなぎました。配管老朽等のため平成4年に廃止されました。 ●琵琶湖疏水第3トンネル出口 九条山浄水場ポンプ室横に、第一疏水の出口があります。 近くに寄れないので、扁額の文字は確認できませんが、下記のように書いてあります。美哉山河(うるわしきかなさんが)三条實美 筆なんと美しい山河であることよ 国の宝である美しい山河を守るには,為政者の徳と国民の一致が大切との含意も(史記・呉記列伝)琵琶湖疏水トンネルの扁額の文字は京都検定にもよく出題されますので、ここでまとめておきます。◆第2疏水取入口(滋賀県)萬物資始(ばんぶつとりてはじむ)久邇宮邦彦 筆すべてのことがこれによって始まる(易経)◆第1疏水第1トンネル東口(滋賀県)氣象萬千(きしょうばんせん)伊藤博文 筆千変万化する氣象と風景の変化はすばらしい(宋・岳陽樓記の一節)◆第1疏水第1トンネル内壁寶祚無窮(ほうそむきゅう)北垣国道 筆皇位は永遠である◆第1疏水第1トンネル西口廓其有容(かくとしてそれいるることあり)山縣有朋 筆悠久の水をたたえ,悠然とした疏水のひろがりは,大きな人間の器量をあらわしている◆ 第1疏水第2トンネル東口仁似山悦智為水歓歡 (じんはやまをもってよろこびちはみずをもってなるをよろこぶ)井上 馨 筆仁者は知識を尊び,知者は水の流れをみて心の糧とする(論語)◆第1疏水第2トンネル西口隨山到水源(やまにしたがいすいげんにいたる)西郷従道 筆山にそって行くと水源にたどりつく◆第1疏水第3トンネル東口過雨看松色(かうしょうしょくをみる)松方正義 筆時雨が過ぎるといちだんと鮮やかな松の緑をみることができる(唐・盧綸の詩)◆第1疏水第3トンネル西口美哉山河(うるわしきかなさんが)三条實美 筆なんと美しい山河であることよ くにの宝である美しい山河を守るには,為政者の徳と国民の一致が大切との含意も(史記・呉記列伝)◆疏水合流トンネル北口藉水利資人口(すいりをかりてじんこうをたすく)田邊朔郎 筆自然の水を利用して,人間の仕事に役立てる◆第1疏水殉職者慰霊碑(蹴上) 田邊朔郎が明治35年に私費建立した一身殉事萬戸霑恩 (いっしんことにじゅんずるはばんこおんにうるおい)田邊朔郎 筆 ◆蹴上”ねじりマンポ”南側雄觀奇想(ゆうかんきそう)北垣国道 筆見事なながめとすぐれた考えである ◆第2期蹴上発電所入口亮天功(てんこうをたすく)久邇宮邦彦 筆民を治めその所を得さしめる(書経・舜典)参道を三条通まで下りたところに、日向大神宮の一の鳥居があります。 三条通の北側を山科方向に戻ります。東山ドライブウェイへの橋を越えて、すぐの道沿いに石仏群を収めたお堂があります。●日ノ岡大日堂の石仏右奥の大きな石仏は、義経伝説にまつわる「蹴上の石仏」の一つといわれています。 義経の伝説とはこうです。 牛若丸が金売吉次に伴われて、奥州へ下るために九条山の坂にさしかかった。そのとき、たまたまこの坂を下りてきた九人の平家の武将達が水溜りの水を牛若丸に蹴りかけてしまった。牛若丸がその無礼をとがめて喧嘩となり、九人の武将達を斬り捨てたことからこの地区を蹴上と呼ぶようになったという。怒りも収まった義経は平家の武将達を不憫に思い、九体の地蔵を街道に安置し菩提を弔ったという。 日ノ岡峠の山科側は九体町といい、その地名の由来については、斬り殺された9人の菩提を弔うために村人が石仏を9体安置したのが地名の由来とする伝承があり、この9体の石仏のうち、現在も3体は街道筋に残されているといいます。 日ノ岡大日堂の石仏は、このうちの1体といわれています。その大日堂の後ろに、怪しげな廃墟を発見。●「和鳳美術館」(廃墟) ネットでは有名な廃墟らしく、「和鳳美術館」という美術館だったようです。全和鳳(チョン・ファフォン)という在日韓国人の美術家が運営していました。東山ドライブウェイを上っていきます。東山ドライブウェイは、1959年(昭和34年)に日本道路公団の有料道路として開通しましたが、その後、京都市に移管され、現在は京都市道渋谷蹴上線となり無料で通行することができるます。ただ自動車専用道路だったと思うので、歩道がなく、車に怯えながらの歩きになります。 左手に昔アミューズメントパークだった東山アクアパークの廃墟が見えてきます。●東山アクアパーク(廃墟) 1991年7月27日にオープンし、2007年に休業となったようです。2007年といえば、私がアメリカから帰任した翌年。けっこう最近の話です。私たち家族が京都に引っ越してきたのは1990年。子供たちはプールに行きたい年頃だったはずですが、このプールの存在は記憶にありません。 この道沿いにあるはずの2つの石碑「花山道路碑」に注意しながら歩きましたが、結局見つかりませんでした。帰ってきてから、ネットで調べました。「花山道路碑」は、道路沿いの藪の中にあり見つけるのがむつかしそうですが、場所はより詳しく特定できました。もう一つの「日岡峠修路碑」は東山ドライブウェイ沿いではなく、三条通沿いにあることが分かりました。いずれも東山区の歩きのなかで再度トライです。 将軍塚から下りてくる道の交差点を将軍塚方向に上ります。将軍塚展望台の駐車場への道に道標があります。●清水寺・山県有朋紀念樹・高台寺【道標】(わずかに東山区に入ったところ)[北東]右 山縣公紀念樹 高臺寺[南東]左 清水寺 慈眼居士中井三郎兵衛が東山周遊の便にと建立したものの一つです。東山区の歩きで、同じような道標が多く登場することになります。●将軍塚市営展望台(東山区) 車で無料で上がってこれて、駐車場代も無料。京都市内の展望そして夜景を安価に楽しめるスポットです。 ただ、最近できた後で紹介する近くの将軍塚青龍殿からの眺めに比べると劣ります。ただし青龍殿は500円必要です。駐車場の周辺にはたくさんのネコがいます。捨てネコをボランティアのみなさんが世話しておられるようです。将軍塚青龍殿に向かいます。(続きます)-----------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/08/01
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「京都市内全寺社巡り」2016年7月27日(水)山科区第13日の第1回(2016/9/8加筆 赤字部分)◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201607270003/◆ルート、訪問地プロットのオリジナルは下記です。https://drive.google.com/open?id=1MoOqYBgZk5sF5srdqHZ1RpL0zKM&usp=sharing===============================それでは第1回です。午前9時半に自宅を出て、地下鉄五条駅までバスで行き、そこから地下鉄で御陵駅へ。地下鉄御陵駅から、午前10時40分スタートです。駅を出て、三条通に沿って東に向かいます。三条通りの北側に3つの碑があります。●粟田口名号碑 木食正禅養阿上人(もくじきしょうぜんしょうあしょうにん)は、江戸時代中期の木食上人の一人。木食とは、草根木皮の生食のみで生きる、難行中の難行を云います。 当時の京都には、十一か所の無常所があり、いずれも刑場に近いので、僧属一般に敬遠されがちでした。しかし、上人は敢えて寒夜を選んで念仏回向にまわり、享保2年(1717)7月、永代供養のため、各所に名号碑を建立しました。なかでも、粟田口は京都最大の刑場なので、一尺三寸(約4メートル)の特大にしたとのことです。 もと九条山周辺にありましたが、明治の廃仏思想の折、人為的に切断されて道路の溝蓋などに流用されてしまいました。そのときの痛ましい傷痕が、今も判然と残っています。1933(昭和8)年に国道改修工事が行われた際、上半部分が出土し、道路改修で動かされて、現在地に復元されました。●日ノ岡宝塔 上記にも出てくる粟田口の刑場では一万五千人以上の罪人が処刑されたといわれています。処刑された罪人たちのために、各仏教諸宗によって1,000人に1基ずつ15基の供養塔が建てられたと伝えられています。 しかし、これらの供養塔は、明治時代になって粟田口刑場が廃止された後、仏教寺院の既得権益を取り上げるなどを行った廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、破壊されてしまいました。 廃仏毀釈から約70年ほどが経過した昭和14年(1939年)。法華倶楽部創設者の小島愛之助によって、処刑者の霊の冥福を祈るために供養塔が建てられました。●京津国道改良工事竣工紀念碑 京都市の蹴上と大津市の札の辻を結ぶ京津国道は,昭和6(1931)年から昭和8年にかけて,内務省大阪土木出張所京津国道改良事務所により拡幅舗装が施工されました。この碑は工事竣工を記念して建てられたもので,3段の基壇には三条街道車石の廃材が使われているます。また碑本体には竪に溝が走っていて,車の通行で溝ができた橋材を再利用したものと考えられています。●車石広場 江戸時代に京都周辺の街道に車石と呼ばれる敷石が整備されていました。米などを運ぶ牛車が通りやすいように道に敷いた石で、車輪が通る部分にあるすり減ったへこみが特徴です。東海道や竹田街道、鳥羽街道では今でも名残をみることができます。 ここ日ノ岡峠の九条山付近にもその一つ、京都市が2004年に整備した車石広場があります。三条通をさきほど記念碑からさらに東進し、京都市中に向かって左側にあります。平成9年に地下鉄東西線の開業に伴って廃線となった京阪京津線の軌道敷を利用して作られました。牛車の実物大の見本や実際の車道を見学できますが、「実際の牛車とは形が違い、車輪の幅も狭い。車石の敷き方も資料と違うので間違った情報として認識される可能性がある」と指摘する向きもあるようです。●日ノ岡丸彫り地蔵 この近辺には石仏が多く残っています。これはその一つです。 三条通と東山ドライブウェイが交差する少し手前、京都市中に向かって右側にあります。 花崗岩製の2m近い丸彫り地蔵。宝珠と錫杖を持ちます。風化があまり進んでいないので、比較的新しいのでしょう。やさしいお顔です。三条通を右入り、急な坂道を日向大神宮に向かいます。●日向大神宮 清和天皇の勅願4により、天照大神を粟田山に勧請したことに始まり、その後応仁の乱で焼亡しましたが、寛永年間(1624-44)に伊勢人野呂左衛門尉源宗光が再興したと伝えます。 内宮・外宮は京都市の登録有形文化財で、市内では例の少ない神明造本殿として貴重です。御門と板垣で敷地を区画する社殿構成が古式を伝えています。「京のお伊勢さん」と親しまれています。 神官にご朱印をいただくとき、外宮・内宮の造りの違いを教えていただきました。・外宮屋根の千木(ちぎ)が外削ぎで、堅魚木(かつおぎ)が内宮より1本少ない7本。外削ぎは男性の神様を表します。主神は天津彦火瓊々杵尊(アマツヒコホニニギノミコト)・内宮千木は内削ぎで、堅魚木は8本。内削ぎは女性の神様を表します。主神は天照大御神(アマテラスオオミカミ)・祭石 影向岩・天岩戸 戸隠神社 昨今、注目のパワースポットになっているようです。 この岩穴のトンネルは通り抜けられるようになっています。途中で直角に曲がり、その曲がるポイントには天手力男(あめのたじからおのみこと)を祀る戸隠神社があります。天手力男は、日本神話で天岩戸に隠れた天照大神を外に出すために重い天岩戸を手で開けたという力の強い神様として知られています。この前の道を東に向かうと、山道ですが、南禅寺や大文字山に繋がっています。・カキツバタ 境内の池に一輪だけひっそりと咲いていました。 (花弁の根元の色からカキツバタと思いますが、葉の中央の葉脈がはっきとしているので、ハナショウブかもしれません)(2016/9/8加筆)・拝殿 拝殿越しに外宮を眺めます。正面の鳥居の下に戻ると、伊勢神宮遙拝所の案内があったので、行ってみました。前に来たときは気が付きませんでした。急な坂道や階段を10分くらい登ります。・伊勢神宮遙拝所伊勢神宮の方向を向いていると思いますが、木が茂っていて見通しはよくありませんでした。もう一度鳥居の下に戻ると、もうひとつ遙拝所のようなものがありました。何も説明はなかったですが、遙拝所まで行くのが困難な人のための遙拝所かもしれません。参道を下っていきます。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/07/31
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2016年7月21日(木)「京都市内全寺社巡り」山科区第12日の第4回(最終回)です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201607210007/◆その地図へのプロットは下記です。https://drive.google.com/open?id=12eNlB8ebLm_Mp_OYXlJ93cwAwFI&usp=sharing=============================== それでは第4回(最終回)です。 本圀寺を後にし、琵琶湖疏水沿いに少し西進すると、永興寺があります。 アーチ型の橋を渡ります。●山の谷橋(黒岩橋)琵琶湖疏水の第10号橋。後から紹介するように、より下流の第3トンネル入口手前に「日本最初の鉄筋コンクリート橋」と云われる第11号橋がありますが、本格的という意味では、こちらのほうが日本最初とのことです。琵琶湖疏水の史跡に指定されている12ヶ所の1つです。●永興寺(曹洞宗)「ようこうじ」と読むようです。曹洞宗の開祖である道元禅師のゆかりの寺です。道元禅師は京都で生まれ、五十四歳の時、京都の建仁寺の東山、円山公園音楽堂南側にてお亡くなりになりました。その後、弟子の詮彗和尚が、同所に永興庵と云う庵を結び、道元禅師の偉徳を広めようとしましたが、新宗派の台頭を善しとしない比叡山徒の焼き討ちに遭い、永興庵は京都市内各地を転々として、現在に至りました。・龍尻尾本堂に現代の日本画家の安藤康行作とても迫力のある「大間天井龍図」が描かれており、この石のオブジェは、天井龍図の尾だそうです。●山科豊川稲荷永興寺の隣にあります。「愛知県豊川稲荷社の分霊で、”豊川ダキ尼真天(トヨカワダキニシンテン)”をおまつりしています。愛知県豊川市にある本体の豊川稲荷社は、”円福山・豊川閣・妙厳寺(えんぷくざん・ほうせんかく・みょうごんじ)”なる曹洞宗の仏教寺院で、嘉吉元(1441)年に開創されています。明治維新の神仏分離、廃仏毀釈をくぐり抜けたものの、神道を国教にして戦意高揚に利用した明治維新以後の天皇制国家の施策もあって、名称と外見上は神道に見せかける方が運用上、経営上も好都合だったらしく、豊川稲荷と称しているようです。その分霊だから山科豊川稲荷社も神様でなく永興寺と同じ曹洞宗の仏様なのだそうです。現地に落着いたのは大正8(1919)年で、東山区円山公園音楽堂のある辺りから移転してきたとのこと。●琵琶湖疏水第二トンネル入口黒岩橋の少し下流にあります。第二トンネルは長さ124m。トンネル入り口の扁額井上馨「仁似山悦智為水歓歡(じんはやまをもってよろこびちはみずをもってなるをよろこぶ)」(仁者は知識を尊び,知者は水の流れをみて心の糧とする)。●栗原邸琵琶湖疏水沿いの道から少し下りたところに、レトロな造りの洋館を発見。よく耳にした国の登録有形文化財「栗原邸」でした。旧京都工芸繊維大学の校長鶴巻氏宅。設計の本野精吾氏は同大学の教授でもありました。 DOCOMOMO JAPAN150選に選ばれています。山科方面にあるのは知っていましたが、こんなところで遭遇するとは思いませんでした。時々一般公開されているようですので、また訪れたいと思います。 この辺りは、日ノ岡堤谷須恵器窯跡があるところで、何かそれを表す石碑でも見つかるかなと思ってウロウロしましたが、何も見つかりませんでした。 再び、琵琶湖疎水に戻ります。●琵琶湖疏水第二トンネル出口扁額は「隨山到水源(やまにしたがいすいげんにいたる)」西郷従道 筆山にそって行くと水源にたどりつく●琵琶湖疏水第三トンネル入口第三トンネルの長さは850メートル。扁額は「過雨看松色(かうしょうしょくをみる)」松方正義 筆時雨が過ぎるといちだんと鮮やかな松の緑をみることができる(唐・盧綸の詩) ●日本初の鉄筋コンクリート橋第11号橋が、第三トンネル入口の手前にあり、「日本初の鉄筋コンクリート橋」と言われています。ところが「琵琶湖疏水の100年叙述編」という本に、「この橋を造るにあたってはまだ専用の鉄筋はなかったので疏水工事で使ったトロッコのレールを代用した。ところがこの橋自体は国産セメントの試験用というべきもので実用性は乏しかった。ここからさらに東へ行った、翌明治37年に作られた黒岩橋こそ日本最初の本格的な鉄筋コンクリート橋なのである。」とあるそうです。しかし、「日本初」の石碑や「本邦初鉄筋混凝土橋」の碑もここにあります。●日本最初の鉄筋コンクリート橋石碑[南]日本最初の鉄筋コンクリート橋[北]昭和五十二年八月 京都洛東ライオンズクラブ寄贈●「本邦初鉄筋混凝土橋」石碑[南]本邦最初鉄筋混凝土橋[北]明治三十六年七月 竣工 米蘭式鉄筋混凝土橋桁 工学博士田辺朔郎書之昭和7年建立。 琵琶湖疏水は850メートルのトンネルに入り、疏水沿いの道もここで途切れますので、三条通に向かいます。 途中、コンビニも食堂もまく、昼食をとってなかったので、三条通沿いのコンビニで、「おにぎり」とお茶を買い、行儀悪いですが、歩きながら食べました。 今日中に山科区を終えるのは不可能なので、旧東海道沿いの石碑を訪ねて終わることにしました。 この辺り、旧東海道は三条通の少し南を走っていますが、山の中腹を走っています。急な道を上がって旧東海道を東に向かいます。●旧東海道[南]旧東海道[北]昭和六十三年五月 京都洛東ライオンズクラブ建之●古民家旧東海道沿いの改装された古民家。「150 years house」として、旅行者に一棟貸しされているようです。地下鉄御陵駅から帰途に就きました。これで、山科区#12終わりです。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/07/28
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【2016年7月27日(水)】 朝は天気があまりよくなかったですが、午後から晴れてきそうだし、降水確率も10%と低かったので、京都市内全寺社巡りに出かけました。 今日は、山科区の最後でした。一部東山区も歩きました。13日間で山科区踏破です。今日、見つけられなかった石碑が二つあるので、ネットで調べておいて、東山区を歩くときに、もう一度トライします。【本日の行程】自宅を出たのは午前9時30分。五条通経由のバスと地下鉄で、地下鉄御陵駅からスタート。清閑寺山ノ内町からバスで四条河原町に出て、「王将」で遅い昼食を軽くとって、阪急とバスで帰りました。自宅着は、午後5時でした。下記がオリジナルhttps://drive.google.com/open?id=1MoOqYBgZk5sF5srdqHZ1RpL0zKM&usp=sharing◆歩行データ・歩行距離 山科区の歩き部分(地図上計測) 10.3km *全歩行距離 14.2km・歩数(全歩数)20,000歩 ・歩行時間 3時間10分。 *は自宅からの往復の歩数計データ昼食を摂る場所は途中全くなく、止むなく四条河原町にバスで戻ってから、午後4時ごろ、まいどの王将で、軽く野菜炒めとビールで済ませました。本当に暑くて湿度の高い一日でした。幸い熱中症にはなりませんでしたが、アップダウンも多かったので、かなり疲れました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/07/27
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「京都市内全寺社巡り」2016年7月21日(木)山科区12日目の第3回です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201607210007/◆その地図へのプロットは下記です。https://drive.google.com/open?id=12eNlB8ebLm_Mp_OYXlJ93cwAwFI&usp=sharing===============================それでは第3回です。琵琶湖疏水沿いを西進し、天智天皇陵の北辺を過ぎたところにある朱塗りの橋を渡って、本圀寺に入ります。●本圀寺(日蓮宗)妙顕寺と並んで京都に2つある日蓮宗総本山の1つですが、昭和になって色々あった、いわくつきのお寺でもあります。日蓮宗(法華宗)の宗祖・日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を構えたことから始まると伝え、1345年(貞和元年)に日静が光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転しました。日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けました。応永5年(1398年)には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ています。1536年(天文5年)の天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼失し、堺の成就寺に避難しましたが、1542年(天文11年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本国寺は1547年(天文16年)、六条堀川の旧地に再建されました。1568年(永禄11年)、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となりました。翌1569年(永禄12年)には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される事件(本圀寺の変)が発生しています。信長により本国寺は取り壊され、それぞれの建築物は二条城に運ばれて再組み立てされたといいます。1615年(元和5年)、徳川家康は本国寺の寺領を安堵。徳川光圀は当寺にて生母の追善供養を行い、1685年(貞享2年)、光圀から圀の一字を下され、本圀寺と改称しました。1711年(正徳元年)には徳川家宣の襲封祝賀のため来日した朝鮮通信使の宿舎となっています。1863年(文久3年)、水戸藩主徳川慶篤に率いられた尊攘派志士が、本圀寺に駐屯して皇室の守衛や慶喜の補佐にあたり、本圀寺勢と呼ばれました。1921年(大正10年)、本圀寺は明徳女学校を設立。同校は京都市西京区に移転し、京都明徳高等学校となっています。これは皆さんあまり知らないことではないでしょうか。その後、本末解体による六百旧末寺の離散や多数の訴訟と借財により、本圀寺は荒廃して六条堀川での創建の地を売却して、1971年(昭和46年)山科に移転しました。金色の鯱や龍、仁王像に大梵鐘、その他金色ずくめの装飾を施した寺院となりましたが、最近、旧に復されています。本山は山科に移ったものの、旧塔頭は現在も六条の旧地に十六院残っています。旧寺地は西本願寺の北側で、西本願寺の本願寺聞法会館や駐車場の敷地となっています。以上が本圀寺の概要です。・総門要付関この本圀寺、2009年に一度参拝しています。今回ご朱印をいただこうと社務所に伺ったら、拝観もできるとのことで、拝観もさせていただきました。拝観料500円はいいとしても、ご朱印500円はいかがなものかと。普通は300円ですが。回廊をぐるっと回って、いくつかのお堂を拝観します。・客殿 「本圀寺」の額。謂れを説明いただきましたが、忘れてしまいました。続いて本師堂、大本堂を拝観させていただきました。本師堂には長さ日本一とういう涅槃図が巻かれて置かれていました。2月に公開するそうです。本師堂前の朝鮮狛犬は加藤清正公寄進によるものだそうです。・大岩さん 大師堂の裏にあります。本圀寺の住所は山科区御陵大岩町。町名の由来にもなっています。・ご朱印堂内拝観後、境内を巡りました。2009年に拝観したときは、もっと金ピカの印象があったのですが、今回はそうでもありませんでした。概要のところにもあったように、最近、金ピカを落ち着いたものに変えたようです。2009年のときの写真とも比較してみましょう。・開運門と鐘楼この門は、加藤清正公が朝鮮出兵の出陣に際して、門を閉じずに出征し、凱旋帰国するまでは開けられる事が無かったため、「開かずの門」と言われます。また、尾張の貧しい家の出身ながら、秀吉のもと戦功を重ね、肥後熊本82万石の大名に登りつめた清正公にあやかり「開運門」ともいわれます。開運勝利の神様―せいしょこさま(清正公)―が寄進されたもので、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えながらくぐると、清正公の勝運・開運にあやかれるそうです。上の写真では鐘楼が右に見え、梵鐘は普通の色ですが、2009年に訪れたときには、別の場所にあり、金ピカでした。2009年当時の鐘楼の写真・仁王門古い部分と新しい部分が混在しています。2009年当時。 仁王さんも鯱も金ピカです。・九頭竜弁財天2009年当時。鳥居も金ピカです。・大本堂(手前)、本師堂(背後)、日蓮上人像本師堂には日蓮大聖人が亡くなるまで離さず拝んでおられた持仏の釈迦尊「閻浮第一立像釈迦牟尼世尊」が祀られています。 「閻浮第一(えんぶだいいち)」とは、世界に二つとないという意味です。2009年当時。燈籠、お堂の縁の擬宝珠が金ピカです。・加藤清正公廟『真正廟』清正の娘、瑤林院が建立しましたが、墓は生前に作ったもので、朝鮮出兵の前に、両親の遺骨、自身の肉歯、毛髪を石室に納めた生き墓です。1592年、文禄慶長の役を前に、16世日しん(示偏に眞)上人より首題七字の旗を授かり、妙経一万部読誦会を依頼して戦勝祈願を行ったと云われます。本圀寺は清正の菩提所として、夫人・清浄院と娘・八十姫(瑤林院)の墓も隣に建てられています。金色の鳥居は近年になって建立されたものです。2009年の写真。ここは金ピカ状態はあまり変わってないようですが、鳥居の場所が変わったようです。経蔵は修復中でした。お寺の方の話ですと、以前は国宝だったのが、重要文化財に格下げされたとのことです。2009年当時の経蔵の写真 拝観を終わり本圀寺を出ようとしたところで、見るべき石碑が本圀寺の東側にあることを思い出しました。「たたら遺跡」の石碑です。しかし、境内をぐるっと回ったときには気が付きませんでした。どこからどういっていいかわかりません。さきほどの社務所に行って、案内していただいた方に聞きました。その方いわく、「私も行ったことがないのでよく分かりませんが、客殿の裏にあるようですから、回りこんで行けばあると思います。ただ、道が悪いので、怪我してもしりませんよ。」とのことでした。恐る恐る行ってみたら、それほど悪い道でもなくすぐ見つかりました。●たたら遺跡石碑[南]この付近 たたら遺跡[東]古代製鉄遺跡[北]昭和四十七年六月十一日認証記念 洛東ライオンズクラブ 日本古来の方法による製鉄をたたら製鉄といいます。この遺跡は,比良山系から湖西・湖南地域に分布する製鉄遺跡の一つ,如意ヶ岳南麓遺跡群に含まれる御陵大岩町遺跡です。これらの地域の製鉄は6・7世紀を最盛期とし,鉄鉱石を原料としていたと考えられています。本圀寺をあとにしました。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/07/26
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「京都市内全寺社巡り」2016年7月21日(木)山科区第12日の第2回です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201607210007/◆その地図へのプロットは下記です。https://drive.google.com/open?id=12eNlB8ebLm_Mp_OYXlJ93cwAwFI&usp=sharing===============================それでは第2回です。毘沙門堂をあとにします。前回、見逃した石碑(道標)が一つあったので、探しました。毘沙門堂に上がる石段の下から、川に沿って山科聖天の方向に歩き、山科聖天に上がる石段の前を通り過ぎて少しのところの、ガードレールと川の間にあります。前回訪れた後山階陵・輪王寺宮御墓の道標です。●後山階陵・輪王寺宮御墓【道標】ごさんかいりょう・りんのうじのみやおんはか[北東]→後山階陵 輪王寺宮御墓[南西]大阪皇陵巡拝会毘沙門堂への道を戻ります。前回訪問の瑞光院の前の石碑。●赤穂義士旧跡石碑(瑞光院前)[東]浅野稲荷社 赤穂義士旧跡 瑞光院[西]弘化四年九月幽玄斎石東広林建之播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩(1665~1701)の妻が瑞光院二世陽甫宗隣と叔父姪の間柄で,かつこの地が遠祖浅野長政の邸宅地であったことから,廃寺になっていたものが浅野家の武運長久祈願寺として再興されました。元禄14(1701)年の松の廊下事件で長矩が切腹したのち,院主宗湫禅師は赤穂藩家老大石良雄と謀りその衣冠を境内に埋めて供養塔を建てました。浪士切腹ののち,その遺髪は境内に埋められ,上に遺髪塚が建てらました。浅野神社は浅野家第宅の屋敷に祀られた屋敷神でしたが、瑞光院の寺鎮守稲荷、地主神として祀られました。瑞光院はもと上京区堀川頭今宮御旅所下る瑞光院前町に所在し,現在地へは昭和37年に移転しました。途中にこんな掲示物が・・・・安朱橋から、琵琶湖疎水に沿って歩きます。安祥寺川が琵琶湖疏水と直角に交差し、琵琶湖疏水の下を流れています。洛東高校を過ぎると、疏水の北側に安祥寺があります。●安祥寺(高野山真言宗) 嘉祥元年(848年)、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子の発願により、入唐僧・恵運によって創建されました。 安祥寺には醍醐寺同様、裏の山にある「上寺」と麓にある「下寺」が存在しましたが、順子が死去したあとは朝廷の庇護を失い次第に衰微していったようです。そして、他の京都の多くの寺同様応仁の乱により荒廃し、上寺・下寺共に完全に廃寺となりました。 江戸時代に残った寺宝を元に現在地に移転して再建されましたが、上寺の方は再建されず廃絶しました。さらに、寺領のほとんどを寺の維持のために毘沙門堂門跡に売却、寺の規模は大幅に縮小されました。江戸時代においても何回も火災に遭い、明治39年には多宝塔を焼失、以後再建されていません。現在は江戸時代後期に再建された本堂、地蔵堂、大師堂のみが残っています。 貴重な寺宝が多くあるようですが、金属製のフェンスがあり、ちょっと近寄りがたい雰囲気です。門の向こうには雰囲気のある本堂が見えます。拝観できないのが残念です。安祥寺の前の道を山手に歩くと、護国寺があります。●護国寺(日蓮宗)本能寺を本山とする日蓮宗の寺院です。琵琶湖疏水が山裾に沿って蛇行南下し、JR東海道本線や京阪京津線に最も近づくところです。線路を上から見下ろします。いかに琵琶湖疏水が高いところを流れているかを実感できます。さらに琵琶湖疎水に沿って歩きます。再び北上する途中左側の傾斜地に建つ寺院、妙応寺です。●妙応寺(黄檗宗萬福寺派)第38代・天智天皇を祀る、天智天皇ノ社の神宮寺だったといいます。当初は天台宗だったとのこと。琵琶湖疏水にはこんな形の橋がところどころに掛かっています。橋の両側に道路と平行して石段がついており、横から見ると石段の側面が三角形に見えるところから三角橋の名がついています。舟の通行のために1メートルくらい高く架かっています。山科区第9日に訪れた天智天皇陵の北側に沿って琵琶湖疏水が流れます。左側の石柱の柵内が天智天皇陵です。本圀寺に繋がる朱塗りの橋が見えます。深い緑に囲まれたこの季節、ひときわ鮮やかです。橋を渡って、本圀寺に向かいます。橋の下を琵琶湖疏水が滔々と流れます。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/07/25
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「京都市内全寺社巡り」2016年7月21日(木)山科区第12日の第1回です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データは投稿済みです。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201607210007/◆その地図へのプロットは下記です。https://drive.google.com/open?id=12eNlB8ebLm_Mp_OYXlJ93cwAwFI&usp=sharing===============================それでは第1回です。10:30、JR山科駅からスタートです。 Google Mapには掲載されていなかったのですが、10年くらい前に買った地図を見ると、山科駅を少し東に旧東海道を行ったところに「宣心院」というお寺があることになっています。その場所に行ってみたのですが、新しい住宅分譲地になっていました。廃寺になったか、どこかに引っ越ししてしまったのでしょう。 京阪京津線、JR東海道本線を越え北に向かいます。琵琶湖疏水を少し越えたところを東に入ると、日蓮宗の小さなお寺が2つあります。両方とも境内に入って、参拝することができました。●大立寺(日蓮宗)●秀典寺(日蓮宗) 毘沙門堂に続く道の一本東の道を北に向かいます。●新福寺(真言宗 善通寺派) やはり山科には一般住宅のようなお寺が多いです。 「普通の家みたいなお寺大賞」をあげたいくらいの徹底ぶりです。 北に向かい、毘沙門堂に着きます。比較的有名なお寺で、春の桜、秋の紅葉時には混雑しますが、この時期ほとんど観光客は来ないようです。●毘沙門堂・極楽橋第111代後西天皇がこの地に来られたとき、橋より上はさながら極楽浄土のような清浄華麗な霊域であると感嘆され、極楽橋の名前を賜ったことに由来しているといわれています。・境内地図・仁王門 最近修復され、朱塗りがきれいです。阿吽の二天像が安置されています。 ・階段の手すりに「願主・松村興三郎」とあります。 徳林庵、諸羽神社でも見ました。 明治・大正時代に「やましな飴」で財を成した人物のようです。 毘沙門堂は天台宗五箇室門跡のひとつで、高い寺格と鄙びた山寺の風情を伝える古刹です。ご本尊に京の七福神のひとつ毘沙門天を祀ることからこの名があります。 創建は大宝三年(703)文武天皇の勅願で僧行基によって開かれました。当初は出雲寺(上京区・御所の北方)にあったことから護法山出雲寺といいました。 その後、たび重なる戦乱から苦難の道をたどり、寛文五年(1665)、山科安朱の地に再建。後西天皇の皇子公弁法親王が入寺してより門跡寺院となりました。 本堂は無料で拝観できますが、霊殿、宸殿、庭園を拝観するには拝観料500円が必要です。 過去、多分二度、霊殿なども拝観していますが、今回も拝観しました。 桜と紅葉で有名ですが、この季節ほとんど観光客の姿はありません。受付の女性が、私が今日最初で最後の拝観者だろうとおしゃってました。・本堂 仁王門同様、最近修復され、朱塗りがきれいです。出雲寺の扁額白象の木鼻と狛犬? 犬のほうは阿吽になっていて、肉球も付いています。 本尊毘沙門天のおみたけは二寸二分、伝教大師作で秘仏とされています。これは御前立です。・霊殿 阿弥陀如来を中央にして歴代の影像や位牌を安置している。永禄六年(1563年)御所の御霊屋として建立されたが、第三世公辨法親王住持の時、後西天皇より拝領移築されました。天井龍 霊殿の守護龍で、狩野永叔主信(ながすえおものぶ)の作。 眼の向きや顔が、見る角度によって変化する。 四角の雲の色彩を違えているのも特徴あるところ。写真出典:毘沙門堂HP・宸殿御所にあった後西天皇の旧殿を貞享三年(1686年)に第六皇子一品公弁親王が拝領し、元禄六年(1693年)に移築を完了し当門跡の新書院としました。右の枝垂桜が春になるときれいです。玄関の書と生け花襖絵 宸殿内部の障壁画百十六面は、すべて狩野探幽の養子で駿河台派の始祖狩野益信の作。「九老之図」写真出典:http://souda-kyoto.jp/card_member/event/297_photo_04.html#写真出典:http://ameblo.jp/rallygrass/entry-10253541701.html どの角度から見ても、鑑賞者が中心になるという逆遠近法の手法。 写真出典:毘沙門堂HP板戸の衝立 圓山応挙筆。平凡な杉板戸ではあるが実に迫力のある大きな鯉が泳いでいる。 これは旧院書の板戸でその豪華さがうかがえる。 鯉の眼を見ながら左右にゆっくり動くと、目が見る者を追っかけてきます。写真出典:毘沙門堂HP 「梅の間」 通称「いけずの間」襖絵は‘梅に鶯’、‘雀に竹’でなく、‘しまひよどりに竹’‘梅に山キジ’が描かれています。「鳥が合わない」ところから「取り合わない」という意味だそうです。「梅の間」に通されたら「とっとと帰れ!」ということなのでしょう。 写真出典: http://cookingyukki.blog27.fc2.com/blog-entry-609.html?sp・晩翆園 宸殿の裏手の庭園です。 江戸時代初期の回遊式庭園。 「心字」の池、亀島・千鳥石・坐禅石など。 山裾にせまる木立の枝間は暗く、さながら夜目に翠(みどり)を 思わせることから「晩翆園」と名付けられました。 拝観中、私とよく似た歳の男性の一人旅の方が、お二方拝観に入って来られました。この暑い季節の平日は、体力がまだあるリタイヤしたばかりの若い老人が多いのでしょう。それ以外にタクシーで二人か三人か来られていました。受付の女性が私が最初で最後とおしゃってましたが、結構、参拝者がありました。帰りがけに「私が最初で最後じゃなかったですね。」と言ったら、「私自身、驚いています。」とおっしゃってました。ご朱印 ・弁財天 お堂は工事中でした。裏にお滝場と思われる滝がありました。・鐘楼・勅使門Google Mapでは塔頭の龍華院が毘沙門堂に向かって右にあることになっていますが、荒廃していて入れなくなっていました。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/07/22
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【2016年7月21日(木)】 観光ガイド研修の模擬ガイド研修などがあったため、1ヵ月ぶりの「全寺社巡り」となりました。 すでに投稿しましたが、朝、車を出した後、市役所支所で年金免除申請をして、いったん自宅に戻ってから出かけました。【本日の行程】*9:45バス*JR桂川駅+JR山科駅 歩きスタート10:30・大立寺・秀典寺・毘沙門堂・後山階陵・輪王寺宮御墓【道標】・赤穂義士旧跡石碑(瑞光院前)・安祥寺・護国寺・妙応寺・本圀寺・たたら遺跡石碑・永興寺・山科豊川稲荷・琵琶湖疏水第二トンネル東口・栗原邸(旧鶴巻邸)・琵琶湖疏水第二トンネル西口・日本最初の鉄筋コンクリート橋石碑・本邦最初鉄筋混凝土橋石碑・琵琶湖疏水第三トンネル東口・旧東海道石碑+15:30 地下鉄御陵駅*阪急桂駅からバス*自宅 16:30 ◆ルート地図◆訪問先プロットhttps://drive.google.com/open?id=12eNlB8ebLm_Mp_OYXlJ93cwAwFI&usp=sharing◆歩行データ・歩行距離 山科区の歩き部分(地図上計測) 10.7km *全歩行距離 13.2km・歩数(全歩数)18,500歩 ・歩行時間 2時間53分。 *は自宅からの往復の歩数計データ 疏水沿いには昼食を摂る場所がなく、止むなく三条通に出て、午後遅い時間にコンビニでおにぎりを買って、歩きながら食べました。 山科区は今日で完了するつもりでしたが、毘沙門堂・本圀寺で拝観時間を多くとったのと、高気温下での長時間歩きを避けるため、午後3時半には切り上げました。 暑かったですが、ゆっくり歩き、室内で拝観している時間も長かったので、疲労困憊というわけではありませんでした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/07/21
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「京都市内全寺社巡り」の山科区9日目(2016年5月14日/土)の第1回めで、次にような書き込みをしました。>それでは山科区第9日の第1回です。>バスで烏丸五条まで行き、地下鉄五条駅から地下鉄に乗りました。>ホームの案内板に間違いを発見したのですが、これについては後日アップします。 この日、地下鉄五条駅で電車を待っていたとき、外国人のお客さんがいて何か話していたので、ふとホームの案内板を見たら、ちっとした間違いを発見しました。 プラットホームは1つで、東側が京都駅方面の1番線、西側が四条方面の2番線になっています。何番線かを示す表示が日本語のほうは合っているのですが、英語のほうが、2番線が「Track No.2」となるべきところが、「Track No.1」になっています。 これでは外国人のお客さんは困るだろうなと思い、帰ってきてから京都市交通局に、写真を同封したレターを送りました。 ほどなく、下記のように、お礼と訂正した旨の回答がありました。 先日の山科区11日目のときに五条駅経由で行ったので、確認したところ小さなシールで「1」を「2」に訂正してありました。 すぐに対応いただいてよかったですが、外国人観光客を増やすことが重要な命題になっている昨今です。さまざまな案内が、外国人に分かりやすい表示になっているかどうか、誤解を招く表現になっていないかどうか、いま一度よく見てみる必要があるのではないでしょうか。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/06/24
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「京都市内全寺社巡り」2016年6月15日(土)山科区第11日・第3回(最終回)です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データを示します。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201606150003/ ◆この日の訪問スポットのプロットhttps://drive.google.com/open?id=1wqRukJgmJMZ1ZA79woke1ox4UUs&usp=sharing◆第1回の投稿http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201606180002/◆第2回の投稿http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201606190004/===============================それでは山科区第11日の第3回(最終回)です。毘沙門堂の前の道を北西に進み、双林院の前も通り過ぎて、さらに北西に向かいます。●春秋山荘 茅葺の山荘風の建物があります。「春秋山荘」ですが、どうも閉店したようです。 帰ってきてからネットで調べてみたら、2014年ごろ閉店したようです。本店は祇園の料亭高月(最近、岡崎に移転したようです)。蕎麦が美味しく、懐石料理も楽しめたようです。閉店を残念がる書き込みが多くありました。古民家の維持がとても大変だったのが理由とのこと。特に茅葺屋根の維持が難題だったらしく、ある時、お客さんがいるときに屋根の一部が崩落して、これは危険だということになり、閉店を余儀なくされたのだとか。その少し先に道が2つに分かれるところに石柱があります。●後山階陵(ごさんかいりょう)遺跡碑 [北]後山階陵遺跡 [南]この付近 たたら遺跡(古代製鉄跡) [西]昭和六十年一月 京都洛東ライオンズクラブ建之日本古来の方法による製鉄をたたら製鉄という。この遺跡は,比良山系から湖西・湖南地域に分布する製鉄遺跡の一つ,如意ヶ岳南麓遺跡群に含まれる後山階陵遺跡である。これらの地域の製鉄は6・7世紀を最盛期とし,鉄鉱石を原料としていたと考えられている。この石標はたたら製鉄の遺跡を示すものである。なお,後山階陵とは安祥寺寺域内の安祥寺川上流西岸に東面して築かれた円墳で,左大臣藤原冬嗣(775~826)の娘順子(809~71)の墓である。(「京都フィールドミュージアム」の「いしぶみデータベース」から)右側の道を行くと後山階陵があります。ずっと行くと、大文字山に至るようです。左側に行くと、南禅寺・日向大神宮・蹴上などに至るようです。すぐそばに道標があります。●後山階陵参道【道標】 [東南]→後山階陵参道 [西北]大阪皇陵巡拝会まず右側の道を歩き、すぐのところのに後山階陵があります。●後山階陵 仁明天皇の女御藤原順子(ふじわらののぶこ)の御墓です。宮内庁の管理になっています。 藤原順子は藤原冬嗣の長女、道康親王(のちの文徳天皇)の生母です。さきほどの分かれ道のところまで戻り、今度は左側の道を行きます。次第に山に分け入るという雰囲気になってきます。途中に何かオブジェやワインの空き瓶を並べた建物がありました。アーティストのアトリエでしょうか。●安祥寺上寺(かみでら)跡碑 安祥寺は仁明天皇女御藤原順子(809~71)の発願により嘉祥・仁寿年間(848~53)頃に建立された寺で,唯摩会など国家的仏事が行われた。開基は入唐僧恵運(798~869)。斉衡8(856)年,寺の北方50町がさらに施入され伽藍が建立された。この山上に位置する伽藍を上寺と呼ぶ。のち勧修寺や高野山の支配が強まり,上寺は南北朝の兵火で焼失し,五大堂本尊などは東寺観智院に移された。(「京都フィールドミュージアム」の「いしぶみデータベース」から) [南]安祥寺上寺跡 [東]北へ七〇〇米丘陵の頂部 [西]昭和六十年一月 京都洛東ライオンズクラブ建之道標によると、まだ700メートル山を登らなければならないようです。ちょっときついし、雨が降りそうなので、止めました。今来た道を戻り、双林院に入ります。●双林院(山科聖天) 毘沙門堂門跡塔頭の一院です。毘沙門堂は、寛文五年(1665)後陽成天皇の勅により徳川家から安祥寺の寺領の一部を与えられ、天海大僧正、公海大僧正に至って現地に再興されましたが、双林院も同年に建立されました。当初、本尊には湖東三山の西明寺より迎えられた阿弥陀如来(藤原時代作「光坊の弥陀」と称す)を安置しますが、のち明治元年に聖天堂を建立し、門主の公遵法親王ご念持仏「大聖歓喜天」を賜り本尊としました。 そのほか武田信玄、源勝政や多くの信徒や寺院から奉納された聖天像を七十数体合祀し、願いのかなう霊験あらたかな「山科の聖天さん」として広く信仰されています。お寺のはずですが、なぜか鳥居が迎えてくれます。・聖天堂 大聖歓喜天は、修行をした聖天行者しか拝むことのできない秘仏(非公開)です。・不動堂 堂内で護摩が焚ける特殊な構造をしています。比叡山の千日回峰行者であった第二十四代住職が明治十六年に比叡山無動寺より勧請された不動明王を安置します。・山科聖天不動の滝・不動の滝の石不動明王 滝のそばに、普段見かけない花が咲いていました。・ご朱印ご朱印をいただくときに、輪王寺宮墓地の場所を尋ねてみました。そのお寺の裏の建物の中に一旦入って、出たところの階段を上がっていったところに輪王寺宮墓地がありました。●輪王寺宮墓地宮内庁管理のなかなか立派な墓地です。双林寺の敷地ではなく、毘沙門堂の敷地のようです。後西天皇の第6皇子・公澄親王、公弁法親王、第8皇女喜久宮、第1皇女誠宮 及び中御門天皇第2皇子公遵親王、東山天皇皇曾孫公延親王がここ輪王寺宮墓地に眠っています。門は閉まっていますが、横に回り込むと墓地の全貌が分かります。此処には歴代の毘沙門堂門跡が眠って居られて、宮内庁治定外を含めれば全13基が並ぶ壮観さです。制札には「後西天皇皇子、公弁親王墓以下六墓五塔」と書かれています。 毘沙門堂(前身は出雲寺)は鎌倉以来の荒廃が続きましたが、江戸時代初期に活躍した天台宗の僧である天海が再建。その弟子の公海僧正へと引き継がれ制札にある後西天皇皇子・公弁法親王を迎えて以来の門跡寺院の格式を誇ります。 双林院をあとにして、毘沙門堂へ向かおうとしたところで雨が降り出しました。結構強い雨足なので、傘を差して山科駅に急ぎ、帰宅しました。 この日で、山科区を完了したかったのですが、出だしが遅れたのと、予定になかった琵琶湖疏水第1トンネルまで行ったのと、雨で早めに切り上げたことなどで、完了はできませんでした。次回は確実に完了可能だと思います。 これで山科区第11日目を終わります。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/06/20
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2016年6月15日(土)山科区第11日・第2回です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データを示します。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201606150003/ ◆この日の訪問スポットのプロットhttps://drive.google.com/open?id=1wqRukJgmJMZ1ZA79woke1ox4UUs&usp=sharing◆第1回の投稿http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201606180002/=============================== それでは山科区第11日の第2回です。 琵琶湖疏水を第1トンネルから下ってきて、毘沙門堂に向かう道にかかる安朱三角橋で、一旦琵琶湖疏水にサヨナラし、南下します。●白蓮寺(時宗) 時宗のお寺は珍しいです。鉄筋コンクリートのお寺です。やはり山科は、こういう建物のお寺が多いようです。このお寺が鉄筋コンクリートである理由は、下記お寺の碑文を読むと納得です。 宝池山白蓮寺は平安時代に空也上人が創建したと伝えられるが、もとは下京区東洞院通り下ル東塩小路七条下る町にあり、境内は百八拾有余坪もあったという。 本堂庫裏の佛殿一宇に阿弥陀如来を本尊とし、空也上人像を祠る。その後宗派は変遷し、明治23年に時宗の寺院となるが、戦後堂宇の老朽甚だしく佛尊を安置し難く住持の僧また住むに座なき惨状に至る。 然れども壇徒僅少なりしで如何とも復興の方図立たなかった処、今回当山三世を踏襲せられたる、杉浦敬善師は毅然旧地を払い、昭和47年にこの山科区安朱東海道町に千坪の浄域を定め、近代様式の堂宇の建立を成就せられたる也 参照:【時宗白蓮寺の碑文】より 白蓮寺の前の道を、少し北上し東に向かいます。●諸羽神社 貞観4年(862年)、清和天皇の勅により、社殿が造営されました。山科区北部はかつて朝廷の所有地だったそうで 、この地にそびえる諸羽山に降り立ったと言われる 天児屋根命と 天太玉命を二大神として祀り、兩羽大明神と称したそうです。その後、正殿に応神天皇、脇殿に伊奘諾尊・素戔鳴尊・若宮八幡を合わせて6柱を祀るようになり、両羽の文字も諸羽と改称されました。社殿は応仁の兵火により焼け、その後もしばしば火災に遭い、その後、江戸時代中期に三度目の造営がなされたものが今日に至ります。本殿は修理中でした。 本殿に向かって左奥に「琵琶石」(左側)と「磐坐(いわくら)」(右側)があります。 この神社は、仁明天皇の第四皇子であり、若くして失明し、出家した「人康親王」ゆかりの神社としても有名です。人康親王が座って琵琶を弾いたといわれるのが琵琶石です。当時から琵琶の名手として知られ、多くの盲人に、琵琶を教えていたと言われています。伊勢物語にも、『山科の禅師』として人康親王が登場しているそうです。 もう1つ大きな石が磐坐(いわくら)です 。磐坐とは、神様が宿る(座る)場所(石)を 意味する言葉です。 つまり、この岩に神様が降り立ったと云われています。 この神社にも大正時代に「やましな飴」で財をなした松村興三郎氏が鳥居などを多く寄進しています。ご朱印●人康親王山荘跡碑 参道を少し南下して東側にあります。 人康(さねやす)親王(?~872)は,仁明天皇第四皇子で,母は女御藤原沢子。貞観元(859)年病により出家して山科に隠棲し,『伊勢物語』に登場する「山科の禅師親王」に比定されています。それによると,邸内には風情ある苑池が設けられていたと伝えます。 [西]この附近人康親王山荘跡 [東]昭和四十七年六月十一日認証記念 洛東ライオンズクラブ 石碑の後ろには、供養塔と思われるものがあり、紫陽花の花が供えられていました。●諸羽神社 さわり石 京阪京津線のい踏切を越え、旧東海道と交わるところに、大きな鳥居があります。その前に諸羽神社の石碑がありますが、その根元の石は「さわり石」と呼ばれ、触ると願い事がかなうといいます。旧東海道を西進します。●来迎寺(浄土宗西山禅林寺派) 保育園を営んでおられます。昼食をとるためさらに西進して山科駅前へ。●王将山科駅前店(昼食) 今日も定番王将です。メインはニラレバ炒め。 ビールも家内や娘には内緒でこっそりと。 「昼間からビール飲むなんて、最低」と娘から言われています。 旧東海道を戻り、毘沙門道に至る道を北進します。 再び琵琶湖疏水にかかる安朱三角橋に来ます。 その橋の北西に道標があります。●毘沙門堂是より北三町【道標】 [東南]毘沙門堂 是ヨリ北三丁 [北西]明治卅五壬寅年冬 京都星丹本家 谷口文治郎建之少し北に、●毘沙門道【道標】 民家の敷地内にあるので、移設されたものだと思います。さらに北に●瑞光院(臨済宗大徳寺派) 慶長18年(1613)に因幡国(現在の鳥取県)若狭城主・山崎家盛が大徳寺の琢甫(たくほ)和尚を開山に請じて一寺を建立しました。家盛の没後、その法号にちなんで瑞光院と称したのが当寺の起こりです。もと上京区の堀川鞍馬口にありましたが、昭和37年(1962)11月にこの地に移りました。 元禄初期には、当院第三世陽甫(ようほ)和尚が播州(現在の兵庫県)赤穂城主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)夫人瑤泉院(ようぜいいん)と族縁に当たることから、浅野家の祈願寺となりました。元禄14年(1701)、長矩が江戸城で吉良上野介に忍傷に及んで切腹した年、当院内に供養塔が建てられ、また元禄16年(1703)、上野介を討った大石良雄らが切腹した際、その遺髪が寺内に葬られました。境内には長矩の墓や、良雄ら四十六義士の遺髪塔のほか、良雄が生前愛したという梅の古木があります。 門の前に石碑が見えます。赤穂義士旧跡 [東]浅野稲荷社 瑞光院 赤穂義士旧跡 [西]弘化四年九月幽玄斎石東広林建之 写真右側に神社が見えますが、この神社が石標に書かれている浅野稲荷社です。瑞光院建立以前から堀川鞍馬口にあったといわれます。 お寺の瓦には大石家の家紋「右二ツ巴」 瑞光院内には、「フィールドミュージアム京都」の「いしぶみデータベース」に記載されている石碑類がいくつかあります。自由には拝観できないようですので、義士祭のときなどに再度訪れたいと思います。 さらに北進すると毘沙門堂の門前に到着します。●極楽橋 後西天皇がこの地に来られたとき、橋より上はさながら極楽浄土のような清浄華麗な霊域であると感嘆され、極楽橋の名前を賜ったことに由来しているといわれています。 明治以前までは、いかなる高位の人といえども、ここで下乗(馬から下りること)され参拝したそうです。 石柱は当時のものではなさそうですが、その名残をとどめています。 極楽橋の近くに2つの道標があります。●後山階陵・輪王寺宮御墓参道【道標】 [南]←後山階陵 輪王寺宮御墓 参道 [北]大阪皇陵巡拝会 ●大聖歓喜天尊【道標】 大聖歓喜天尊を祀る双林寺の道標 これらの道標に従い、後山階陵や輪王寺宮御墓、双林寺を目指します。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/06/19
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「京都市内全寺社巡り」2016年6月15日(土)山科区第11日です。 この日は、山科区の最終日のつもりで出かけましたが、出足が1時間くらい遅れてしまいました。◆この日の行程、ルート地図、歩行データを示します。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201606150003/ ◆この日の訪問スポットのプロットhttps://drive.google.com/open?id=1wqRukJgmJMZ1ZA79woke1ox4UUs&usp=sharing=============================== それでは山科区第11日の第1回です。 11:10、京阪京津線四宮駅からスタートです。●京阪四宮駅●音羽水路記念碑 三条通を東に歩き、滋賀県から来た国道1号線が南下しだすところを横断して、音羽病院の北側に出ます。 第10日で音羽水路を紹介しましたが、その後ネットで調べたとき、この付近に新しい記念碑があることを発見しました。位置はおおよそしか分からなかったので、少しグルグル歩き回りましたが、ようやく見つけることができました。 第10日で紹介した音羽病院敷地内の北側にある紀功碑の全文(漢文)とその訳文が書いてありました。訳文は次のようになっています。音羽水路 紀功碑文(訳文) 山科村は山城国宇治郡に位置し、その中に23地区があり、東北の2地区を四宮・音羽という。 土地が高く水が乏しく、夏に雨が10日も降らなければ収穫を望めないほどでした。 明治24年5月も日照りが続いた。この時は琵琶湖疏水工事の完成を控え、3つの水門を設けて 灌漑用水に充当した。しかし高い土地はこの利便を受けることができなかった。 音羽地区の長谷川伊之助・中山安次郎・福井清左衛門・粟津太兵衛の四人は協議し、 第1水門から水を四宮・音羽の両地区の田に引きとりあえず間に合った。 しかしこの程度では一時しのぎにしかならないので、四人は自ら折衝して計画を実行した。 明治25年7月15日に起工、工期40日と3,200人の労力を費やし竣工した。 延長60間2分(約1.1km)である。完成するころには誰もが納得し,四人の功績を称えた。 これにより長年の心労から解き放たれたである。 四宮・音羽両地区の南は東野・大塚・大宅の3地区である。 ここに林平治・平井友右衛門という人がいた。 二人は3地区にも用水を引き四宮・音羽両地区と利便を共有したいと四人に相談した。 四人はこれに賛同し翌年に用水路が竣工した。延長1,500間(約2.7km)で数十町を灌漑した。 用水計画の最初からの費用は3,000円にのぼり、田地所有者が負担した。 地区への恩恵は大きなものがある。さらに林・平井の二人がその事業を継承した。 この事業からすでに十年余が経過した。村民は石碑を建てて功績を子孫に伝えたいと考えた。 そこで私に碑文を依頼した。私はこれらの人と事業の功績に感じ筆をとった次第である。 明治41年2月 京都府知事従三位勲一等 大森鐘一…題字 京都府第一中学校教諭 生駒章……文章 発起人 五地区水利関係者建設委員 福井幸次郎 中村濱太郎 福井亀吉 林繁次郎 溝川長左衛門 澤野井勇吉 粟津文之助 阿口政 設置:音羽水路碑を守る会 2002年3月吉日 琵琶湖疏水は、京都市街区の灌漑だけでなく、山科地区の灌漑にも役立っているわけです。近くをその水路が南に向かって流れています。 すぐ上流には名神高速の京都東インターに続く道路が走っていて、その手前で一旦地下にもぐっています。 この道路の北に回ると大きなパイプがありました。おそらくこの道路の建設工事で、水路が地下化され、このパイプで一旦地下に入り、道路を横切ったところで、ポンプにより揚水されているのだと思います。 滋賀県方向の国道1号線から名神高速の京都東インターに入る道路に沿って北に進むと、滋賀県大津市のエリアに入り、旧東海道に出ます。この旧東海道の西進は国道1号線と交差しており、歩道橋を渡ります。●旧東海道 電柱に旧東海道の看板があります。●東海道の車石の説明板と車石 この家の方が自費で立てられたもののようです。●三井寺観音道・小関越道標 この道を北上すると、比叡山の南の小関越という峠を越えて、三井寺に至ります。●再び京都市へ入ります。旧東海道からスタート地点の京阪四宮駅に向かい北に入ります。駅東の踏切を横切ったところに道標があります。●波切不動尊【道標】 [西]波切不動尊参道是ヨリ北へ四丁余 [東]昭和十二年四月不動會 字に赤い朱が入れてあるのが特徴です。北へ四丁(約400メートル)この通り行くと、あとで出てくる一燈園の中を通って山すそまで行きますが、過去、一燈園境内の北方藪の中に「不動尊石仏」がまつられていました。JR東海道線の下をくぐってさらに歩くと、琵琶湖疎水に出ます。東に進むと再び滋賀県大津市に入りますが、疏水第1トンネルの出口が見たいので、東に歩きます。●藤尾橋 琵琶湖疎水にかかる橋ですが、開通当初のものと思われるレンガ造りの部分が見えます。下流側上流側。水門があります。下流の琵琶湖疏水は山裾を流れるところが多いですが、この辺りはいかにも山をU字型に削ったという感じです。●琵琶湖疏水第1トンネル出口 琵琶湖側の三保ヶ崎で琵琶湖から取水され、この出口で京都側に出ます。京都検定の試験にはよく出題される、トンネル出入り口の扁額がこの出口にもあります。「廓其有容」(かくとしてそれいるところあり)。「疏水をたたえる大地は奥深くてひろびろとしている」という意味です。揮毫は山縣有朋。 季節がら草が茂っていて扁額は見にくいです。トンネル出口上から疏水を眺めます。 さらに東に行くと、第1トンネルの中間部に掘った竪坑(たてこう)がありますが、いつか滋賀県側から琵琶湖疎水に沿って山科まで歩くことにして、この日は西に引き返しました。 京阪四宮駅の方向には戻らずに疏水沿いを歩きます。 この辺りになると、疏水は山に沿って流れていくという感じになります。 疏水の北側に一燈園があります。●一燈園本部 一燈園とは、西田天香によって明治末期に設立された懺悔奉仕団体。本部では二百数十人の同人が共同生活しています。また、組織形態としては、財団法人懺悔奉仕光泉林として、建築、出版、農業などの就労をしています。 全国各地で家庭や学校、事業所等を訪問して無償で便所の掃除をすることを活動としていますが、近年は治安も悪くなり一見の客をすんなりと家に入れることが少なくなったため、活動がやりにくくなってきているそうです。 一般企業の新人研修等として、年に数回「智徳研修会」を開いています。私の勤務していたM社でも、ここの方に来ていただいての講演会があったように記憶しています。 ダスキンの創業者鈴木清一が西田天香に師事していたそうです。 作家の倉田百三は一時期、この園で修行し、その体験を元に書いた『出家とその弟子』がベストセラーになりました。一燈園の前をさらに疏水に沿っていくと、トンネルがあります。●諸羽トンネル 第2トンネルではなく、この先の疏水部分の近くを湖西線が通過することになり、山に沿って流れていた疏水をトンネルを掘って流れを変えました。したがって、疏水誕生当時のものではなく、新しいトンネルです。ですので、第1トンネルのように、有力者の揮毫による扁額はありません。以前の流れは埋め立てられて、道になっており、東山自然公園ジョギングコースの一部になっています。●第2疏水トンネル試作物 途中にコンクリートのアーチがあります。明治43年に琵琶湖疏水の北側に第2疏水が造られましたが、水が濁らないように埋め立てトンネルとされました。 このアーチは、第2疏水の建設や維持管理に従事していた作業員が建設技術習得のために、埋め立てトンネルの上部の複製を製作したものだといわれています。●諸羽トンネル出口 右に釣り糸を垂れる人が写っています。 これは何のための構造物なのでしょうか。毘沙門堂に向かう道と交差するところに、安朱三角橋があります。ここで一旦琵琶湖疏水と別れ、南下して諸羽神社に向かいます。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/06/18
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【2016年6月15日(水)】 明日、観光ガイドの研修なので、私の中のルールでは「京都市内全寺社巡り」はしないことにしているのですが、前回の「全寺社巡り」(6月4日)から10日以上経過してしまったのと、明日は座学で体力を消耗するわけではないので、山科区の11日目の歩きに出かけました。降水確率が高くなかったのも理由です。【本日の行程】午前9時過ぎに出る心づもりだったのですが、1時間ほど出足が遅れてしまいました。*10:10バス*地下鉄五条駅*地下鉄御陵駅+京阪京津線四宮駅 歩きスタート11:20・音羽水路説明石碑・小関越道標(滋賀県)・琵琶湖疏水第1トンネル出口(滋賀県)・一燈園・琵琶湖第二疏水トンネル試作物・白蓮寺・諸羽神社・人康親王山荘跡碑・王将山科駅前店(昼食)・毘沙門堂是より北三町【道標】・瑞光院・後山階陵・輪王寺宮御墓参道【道標】・後山階陵遺跡碑・後山科陵参道【道標】・後山科陵・安祥寺上寺跡【道標】・双林院(山科聖天)・輪王寺宮墓地雨が降り出したので、早めに帰途に就きました。山科駅に着くころには土砂降りでした。 +15:30 地下鉄山科駅*地下鉄五条駅からバス*自宅 16:50 ◆ルート地図◆訪問スポットのプロットhttps://drive.google.com/open?id=1wqRukJgmJMZ1ZA79woke1ox4UUs&usp=sharing◆歩行データ・歩行距離 山科区の歩き部分 11.8km *全歩行距離 14.6km・歩数 *20,820歩 ・歩行時間 *3時間1分。 *は自宅からの往復(ワンちゃん散歩含む)の歩数計データ山科区は今日で完了したかったのですが、出足が遅れたのと、雨で早めに帰ってきたために、回りきれませんでした。もう1日山科です。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/06/15
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2016年6月4日(土)「京都市内全寺社巡り」山科区10日目の第2回(最終回)です。◆この日の行程、ルート地図、歩行データを示します。 この日の出鼻のトラブルも書いてあります。 http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201606040006/ ◆この日の訪問スポットのプロットhttps://drive.google.com/open?id=1Q58QCLqeGbALUgZhK3dOo0QPpbc&usp=sharing◆第1回投稿http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201606090001/===============================それでは山科区第10日の第2回(最終回)です。山科盆地の東の小山にある円如上人御廟を訪れた後、西に戻り、三条通りを横断し、旧東海道に入り、西に向かって歩いていきます。四ノ宮と呼ばれる地に徳林庵があります。●徳林庵六地蔵の一つ山科地蔵で有名です。夏の六地蔵の日には賑わいます。去年の夏に家内と六地蔵巡りをしたときに訪れました。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201508280009/臨済宗南禅寺派の寺院。室町時代、天文年間(1532~1555年)に南禅寺の260世住職である雲英正怡(うんえいしょうい)が仁明天皇(にんみょうてんのう:第54代天皇)の第四皇子である人康親王(さねやすしんのう)の隠棲した故地に親王の菩提を弔う為創建したのが始まりと伝わっています。この辺りの地名を『四ノ宮』と呼ぶのも、人康親王が第四皇子(四ノ宮)であることにちなんでいます。人康親王は琵琶の名手といわれ多くの盲人に琵琶を教えていた事から『琵琶法師の祖神』として崇められていました。その為、徳林庵は『琵琶法師の聖地』とも呼ばれています。地蔵堂 山科地蔵(四ノ宮地蔵)が安置されています人康親王蝉丸供養塔 地蔵堂の北東にあります。 蝉丸は、平安時代前期の歌人であり琵琶法師として知られています。 人康親王と蝉丸は別人ですが、両人とも琵琶の名手で、盲目であったことから いつの間にか同一視されるようになったのではないかとのことです。わらべ地蔵 地蔵堂の裏に六体のかわいらしいわらべ地蔵が安置されています。 向かって一番右に安置されるお地蔵さんの前掛けをめくると琵琶を持っているらしいです。 これを書くに当たって色々調べていて知りました。井戸・手水舎 「京都 大阪 名古屋 金澤 奥州 上州 宰領中」と刻まれています。 「宰領」とは、旅行者や荷物の運搬等の取り締まりのことをいいます。 井戸水が落ちる水槽の方には、「定飛脚 宰領中 文政四年巳年六月吉日」(写真には 写っていませんが)と書いてあるそうです。 交通の要所にある立地のためか、文政年間に全国各地の飛脚たちが徳林庵に手水舎と 瓦を奉納しました。そして奉納物には、写真に写っている「通」マークを入れました。 どこかで見たマークですね。そう日本通運のロゴマークです。 ルーツはここの手水舎にあるこの「通」のマークなのです。 明治時代になり飛脚たちは陸運元会社を設立。内国通運と名称変更した際にこのマーク をロゴマークとしました。その後、日本通運という会社になりました。 當所「松村興三郎」とあります。當所の意味はよく分かりませんが、松村興三郎は明治から大正に かけて「やましな飴」で財をなした人物だそうです。 ちょうど観光ツアーの一行が来られていて、ガイドの方もこのような説明をされていました。 今後の向学のために混じって聞かせていただきました。●徳林庵横の道標(右)伏見・六地蔵【道標】 [東]伏見六ぢざう【以下埋没】 [南]南無地蔵菩薩【以下埋没】 [北]元禄十六 癸未【以下埋没】 [西]施主 沢村氏道【以下埋没「範」か】(左)人康親王墓【道標】 [南]人康親王御墓 [北]大阪皇陵巡拝会裏側 左側の道標に沢村道範の名が刻まれています。沢村道範はこの日の第1回でも登場しましたが、 江戸時代の資産家で、京都に多くの道標を建てた人物です。●十禅寺 徳林庵横の大きな石碑に従って北上し、京阪京津線を渡ります。 本山修験宗、聖護院門跡の末寺。 平安時代の859年(貞観元年)に人康親王が病気によって失明し出家した山荘(山科宮)を 親王が崩御された後、寺にして聖徳太子(しょうとくたいし)の作と伝わる聖観音像 (しょうかんのんぞう)を本尊とし親王を開山に創建したといわれています。 その後、度重なる戦火で荒廃してしまいますが、江戸時代前期に 江玉真慶(こうぎょくしんぎょう)が再興をし真慶に帰依した 明正天皇(めいしょうてんのう:第109代天皇)が1655年(明暦元年)に伽藍を 寄進しました。 また、天皇が崩御された後遺言によって天皇と父母の位牌が安置され菩提寺勅願所として 36石の禄と数々の宝物が下賜されました。●人康親王墓 十禅寺の北東にあります。 参道の入り口は閉っていたので、参道横の駐車場の奥まで行き、横から撮影しました。わずかにお墓の頭が見えます。十禅寺に、「弦楽ふるさとマップ」というのが置いてありました。そこにGoogle Mapに載っていない「四宮大明神」が案内されていましたので行ってみることに。途中、さきほどの観光ツアーの一行が戻ってくるのに会いました。住宅地の間の細い道の入り口に案内がありました。●琵琶琴元祖四宮大明神 琵琶・琴などの弦楽器の祖として人康親王が祀られています。 前出の「やましな飴」で財を成した松村興三郎が祠を再興したそうです。 格子戸のある祠には、人康親王の時代の園城寺(三井寺)再興者、智証大師円珍が 慕われ信仰された大峰山修験道の祖として知られる役行者の石像が安置されています。御足摺水(おあしずりのみず) 運命を嘆いた親王が、悔しさに地面を足でこするとみるみる泉が湧きだしたといいます。 東海道線がすぐ奥を走っており、その工事で水が出にくくなったとのことで、今は水が 溜まっていませんでした。御足摺水を示す石柱京都石仏 不動明王・大日如来・地蔵尊(右から)最近、三井寺が寄進を受け、飛び地境内地として守っていくとことになったとの駒札が立っていました。●圓光寺(浄土真宗大谷派)旧東海道に戻ります。この圓光寺も十禅寺同様京阪京津線の北にありますが、旧東海道に戻ってもう一度踏切を渡らなければいけません。踏切の先には圓光寺しかないので、踏切は圓光寺専用のようです。寺名の石柱の裏に、前出の松村興三郎氏の名が刻まれていました。旧東海道を西に歩きます。●毘沙門尊天是より北へ八町【道標】 [北]毘沙門尊天 是ヨリ北江八町 [南]文政五年壬午三月 皇都施主 山田又左衛門綏正●東海道【道標】 [南]東海道 [東]京三条はし迄 一里半 [西]大津札の辻まで一里半 [北]為往来安全 三品英造建之 昭和二十三年十一月日道標の後ろには、江戸時代に牛馬車の車輪の幅にあわせて道路に二列に敷設された凹状の舗石「車石」が置かれています。旧東海道を西進し、外環状線を横断します。●旧東海道【道標】 [北]旧東海道 [西]平成十二年二月建之 京都洛東ライオンズクラブ ラクト・ショッピングセンターの南側にあります。新しい道標です。 ●明治天皇御遺跡碑上記の「旧東海道道標」の西にあります。明治天皇(1852~1912)は,明治元(1868)年9月の東幸,同2年3月の還幸,同11年10月の還幸の途中,毘沙門堂領地内で東海道沿いのこの地にあった茶店奴茶屋に駐輦した。奴茶屋は,片岡丑兵衛という勇猛な弓の達人が,街道に出没した盗賊を討ち取り,文安4(1447)年,茶店を建てて旅人を送迎したことにはじまると伝える。以後,茶店,宿場,本陣として利用された。この石標は,明治天皇が立ち寄った奴茶屋を示すものである。なお,奴茶屋は,平成(1994)年に山科駅前再開発に伴い建物を取り壊し移転した。(「フィールドミュージアム京都」から)そばに説明板があり、そこには「奴茶屋」は近くのショッピングセンターRACTO2階に移転したとあります。でも、ネット検索で調べると「閉店」とありました。●本願寺山科両別院是より左六町【道標】京阪山科駅東の踏切の東北にあります。 [北]本願寺山科両別院 是より←ひだり 六丁 [西]明治四十二年十二月建之地下鉄山科駅から帰途に就きました。山科区第10日は、これで終わりです。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/06/12
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2016年6月4日(土)「京都市内全寺社巡り」山科区第10日です。 この日は、今までの歩きで、帰ってきてから新たに発見したスポットと、山科駅南側でまだ行っていなかったスポット、旧東海道を中心に歩きました。◆この日の行程、ルート地図、歩行データを示します。 この日の出鼻のトラブルも書いてあります。 http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201606040006/ ◆この日の訪問スポットのプロットhttps://drive.google.com/open?id=1Q58QCLqeGbALUgZhK3dOo0QPpbc&usp=sharing===============================それでは山科区第10日の第1回です。上花山久保町のバス停からスタートしました。 第9日に六所神社を訪れましたが、帰ってきてから、その近くにもう一つ六所神社があることが分かりました。グーグルマップに載っていたのですが、気が付いていませんでした。この前訪れた六所神社の北約500メートル、東海道線東山トンネル出入り口の真上くらいにあります。●六所神社(北花山大峰町) 仁和三年(887)に創立され、伊勢の天照皇大神、尾張の熱田大神、山城の加茂大神、 山城の八幡大神、大和の春日大神、近江の日吉大神を奉祀しています。6つの神様を祀っているので、六所神社という名になっています。元慶寺の鎮守だったようですが、今は北花山の氏神とされています。 山裾の神社で町なかからも遠いので、寂れているかと思ったのですが、想像以上に立派なお社でした。●北花山水路の一部(北花山寺内町) 第9日で「北花山水路記念碑」を紹介しましたが、その水路の一部と思われる流れが、東海道線東山トンネル出入り口すぐ東の歩道橋の下を流れています。ここは第9日で歩いたところですが、写真を撮っていませんでした。歩道のコンクリートのすぐ下が水路になっています。 歩道橋を南に渡りきったところに、このように水が勢いよく流れ出ていました。第9日に訪れた元慶寺の前を通り、東に向かいます。●野菜販売ボックス 京都ではよく見かけます。ボックスがなく、ただ置いてある場合もありますが。 ●木造毘沙門天立像(厨子奥若葉町) 歩いていて発見しました。厨子奥公会堂というところに、このお像が安置されています。 この「毘沙門天立像」は、もともと厨子奥の総鎮守として永正寺に安置されていたもので、もとは西方にあった毘沙門堂の本尊であったのですが、堂焼失後、永正寺に移されたと1742(寛保2)年の年記(永正寺の再興文書)に記録されているとのことです。14世紀前半(鎌倉時代末期)の制作と推定されています。 今色々調べていて、窓から中に安置されている毘沙門天像を眺めることができると書いてあるサイトを発見しました。でも、当日透明な窓は見当たらなかった(今、写真で見てもなさそうです)ので拝観はトライしませんでした。こんなお像だそうです。その少し東に光久寺があります。●光久寺(浄土真宗大谷派)(厨子奥若葉町)東に向かいます。京都薬科大南校舎の北西角の道の反対側に道標があります。●今熊野道【道標】(御陵三蔵町) [西]いまくまのミち [東]東六条 今くま 道 [北]すぐ大つ道北に歩き三条通を西に歩きます。●天下一品山科店(御陵中内町)(昼食) 天下一品は「こってりラーメン」で有名。この日は醤油ラーメンと餃子。トッピング・バーがあり、小皿2つ分が無料サービスでした。少し東に戻って、「五条別れ」交差点の北東角に山階寺跡推定地碑があります。●山階寺跡推定地碑(御陵大津畑町) (横の説明板から抜粋) 山階寺は七世紀後半、藤原鎌足により創建された寺院。中大兄皇子(天智天皇)と共に大化改新を成し遂げた鎌足の「山階陶原家付属の持仏堂」が始まりと推定される。 山科寺はその後、大和に移り厩坂寺と呼ばれ、更に平城京に移り興福寺となる。このため興福寺は山階寺とも呼ばれた。天智天皇の腹心であり、藤原氏の始祖となる鎌足は、山階と深い関係があったのである。北に向かいます。旧東海道と交差します。●三条通/五条橋【道標】(御陵中内町) [北]右ハ三条通 [東]左ハ五条橋 ひがし六条大仏 にし今ぐまきよ水 道 [南]宝永四 丁亥 年十一月吉日 [西]願主 沢村道範 沢村道範は江戸時代の資産家で、京都に多くの道標を建てた人物。旧東海道を少し東に行くと、當麻寺があります。●當麻寺(浄土宗西山禅林寺派)(御陵鳥ノ向町) 派祖証空(西山上人)により天福2年(1234)に創建されたと伝わります。証空が寛喜元年(1229)に大和當麻寺に参詣し、當麻寺の曼荼羅図に感銘を受け、以後、観経曼荼羅の流布につとめたのだと言います。その當麻寺の曼荼羅図と同じものが、このお寺に継承されていて、そこから當麻寺と名付けられたとのこと。當麻寺という名前のお寺は日本には、奈良とこの山科の二寺だけだそうです。東に歩くと山科川の支流と交差します。これを南下します。再び三条通を横切り、ケーヨーD2の北西に何やら少々怪しげな建物発見。●古美術田澤(御陵大津畑町)どんどん南下します。●山科別院長福寺(真宗大谷派)(竹鼻サイカシ町) 第9日に近くの本願寺派(西本願寺派)本願寺山科別院を訪れましたが、こちらは大谷派(東本願寺派)の山科別院。山科本願寺が破壊された後、本願寺が西・東に分派し、それぞれがこの地に再興を図ったため、2つの別院ができました。 こちらにほうは、東本願寺境内にあった長福寺を移転したものなので、長福寺という寺名になっています。山門東門本堂 本願寺山科別院同様、蓮如上人自作と伝わる上人木像が安置されています。本尊阿弥陀如来像(本堂内)蓮如上人銅像太鼓堂鐘楼区民の誇りの木「イチョウ」山門を南に歩きます。●蓮如上人像跡 1934年大阪の門徒由井卯三郎氏(由井小雪の子孫)の寄進により東西別院の中間点に建立されましたが、第二次世界大戦の物資供出で無くなってしまいました。こんな大きくて立派なお像が立っていました。●蓮如上人南殿御旧地是より二町【道標】(竹鼻四丁野町) 山科別院長福寺の東門の前にあります。 [西南] 是より二丁 蓮如上人南殿御旧地 夫よりすぐ大津道 名神京都東インター付近にある音羽病院の敷地内に「音羽水路紀行碑」があるのを、この付近を訪れた後で知りましたので、そこを目指します。 東に歩いて音羽病院に到着。音羽病院に入って、うろうろと碑を探しましたがなかなか見つかりません。 止むなく携帯のiモード(お金がかかるので普通は使わない)で検索。音羽病院の裏側の敷地内にあるとの情報を得て、音羽病院の東側の一般道を病院に沿って北上。細い道が病院の北側にあったのでそれを行くと、ありました。ありました、石碑の裏側が見えました。小さな通用口を入ってようやく辿り着きました。 こんなところじゃ目立たないではないかと思って、あとで調べたら、最初は病院の東南角にあったのが増築か何かで裏側に移されたようです。●音羽水路紀功碑 農業用水不足に対処するため、疎水の水を利用、水路の開通に尽力した人々の功績を称える碑です。音羽病院から少し東に行ったところを音羽水路が流れています。●音羽水路 山科区第5日に小山の白石神社を訪れましたが、その近くに円如上人のお墓があることを後から知りましたので、次にそこを訪れることに。 牛尾観音道を南東に向かい、白石神社の近くまで到達。ネットでも詳しい位置はよく分かりませんでしたので、辺りをウロウロしてみましたが、なかなか見つかりません。ちょうど民家の庭先で花の手入れをしているお婆さんがいらしたので道を訪ねました。親切に教えていただき、ようやく辿りつきました。案内も何もない民家の間の狭い道を山に向かって歩いていきます。これでは発見できません。山の麓に円如上人のお墓がありました。しかし、「円如上人お墓」とも何も書いてありません。●円如上人御廟(小山大石山) 円如上人は、戦国時代の浄土真宗の僧侶。本願寺第9世法主実如の次男。本願寺第10世法主証如の父。父に先立って没したために歴代本願寺法主には加えられていません。 蓮如の文書の中から80通を選んで5帖に編集し『五帖御文』と呼称し、宗門信条の基本とするなどの教団改革を行い、戦国期の本願寺体制の基礎を築きましたが、31歳の若さで亡くなりました。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/06/09
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2016年5月14日(土)「京都市内全寺社巡り」の山科区9日目の第3回(最終回)です。◆第1回投稿(この日全体の行程とそのルート図含む)http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201606020003/◆第2回http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201606050002/◆この日の訪問スポットのプロットhttps://drive.google.com/open?id=1R8SXWRgTTXziDDyag-cDiuweNOY&usp=sharing===============================それでは山科区第9日の第3回(最終回)です。上花山六所神社をあとにして東に向かいます。●福應寺(浄土宗) 上花山講田町 創立は詳かではありませんが、桓武天皇の孫である遍昭僧正(816~890)の開基と伝えられています。当時は天台宗に属していましたが、その後改宗して浄土宗となりました。昭和9年(1934)の暴風雨により本堂、諸堂が倒壊し、寺は荒廃しました。昭和38年(1963)第30世綜誉の代になり檀信篤志の勧募によって本堂を始め諸堂の新築が行われ、寺の再建がなされ、現在に至っています。「京都いしぶみデータベース」のよると、上醍醐・福応寺道標(移築されたもの)があるそうですが、中に入ることができなかったので確認できませんでした。●いなり山【道標】 上花山大林町 [西]右 いなり山 [北]左 大石屋敷 刻まれている内容がこの地に合ってないように思うので、移築されたものかもしれません。●蓮如上人御塚道(道標)(痕跡) 「京都いしぶみデータベース」によると下記が刻まれた道標があったそうですが、今は痕跡が残るのみです。 [西]右 蓮如上人御塚道 [南]右 山しな御坊みち [北]京大坂 是より三町 江戸大津講中 [東]寛保二壬戌年三月●蓮如上人御往生旧地西宗寺道【道標】 西野今屋敷町 [西]右 蓮如上人御往生旧地 西宗寺道 [北]是より二丁 [南]寛政九丁巳歳二月廿五日再建この道標のある角を南に行きます。●西宗寺(浄土真宗西本願寺派) 西野広見町 蓮如上人は海老名五郎左衛門信忠より所領の地を寄進してもらい山科本願寺を建立しましたが、その海老名五郎左衛門信忠が蓮如上人の弟子となって浄乗と名乗り、1481(文明13)年に西宗寺を建立しました。また、1499年に蓮如はこの地で没し、門前に蓮如往生地を示した石標がたっています。 (「ブログ人: 京都山科 西宗寺」より)]北門東門本堂と蓮如上人放鶯の像 蓮如上人のエピソードがあります。蓮如上人の病気を慰めるために弟子が籠に入った鶯を見舞いに持参したところ、「鶯さえ法を聞け(ホーホケキョ)と鳴く」のに可哀想だと放してやったそうです。 蓮如上人の視線の先に梅と鶯、ひざ元には空になった鳥かごがあります。東に向かいます。●西野山階町の古いお屋敷●本願寺山科別院(浄土真宗本願寺派) 東野狐藪町 1532年(天文元年)、日蓮宗徒、比叡山僧徒が、六角定頼の兵が、蓮如上人の築いた山科本願寺を襲撃し、山科本願寺は消滅しました。 1732年(享保17)に北山別院の旧堂を移築、舞楽寺という寺院が建てられ、1772年(安永元年)には、現在の本堂が建立されました。 山門本堂(左)と中宗堂(右) 中宗堂に安置される蓮如上人像は、上人54歳時の自作と伝えます。鐘楼この山科別院の近くに蓮如上人の御廟があります。●蓮如上人御塚道【道標】 西野大手先町 [東]蓮如上人御塚道 [北]京大坂 是より五町 江戸大津講中 [西]寛保三癸亥年九月建之 江■【州カ】大■【津カ】 西念寺●蓮如上人御廟 西野大手先町少し西に行ったところにある山科中央公園に、山科本願寺の土塁跡があります。その麓にそれを示す石碑があります。ぐるっと一周してようやく見つけました。●山科本願寺土塁跡と石碑 西野阿芸沢町(山科中央公園内)土塁跡石碑 [南西]山科本願寺土塁跡 [北東]昭和四十七年六月十一日認証記念 洛東ライ【以下埋没】 (ライオンズクラブ)後で調べたら、地下鉄東野駅のほうが近かったのですが、北に歩いて地下鉄山科駅から帰途に就きました。山科区第9日、これで終わりです。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/06/08
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2016年5月14日(土)「京都市内全寺社巡り」の山科区9日目の第2回です。◆第1回、及びこの日全体の行程とそのルート図http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201606020003/◆この日の訪問スポットのプロットhttps://drive.google.com/open?id=1R8SXWRgTTXziDDyag-cDiuweNOY&usp=sharing===============================それでは山科区第9日の第2回です。JR東海道線の東山トンネル東側の高架を南に進みます。●阿弥陀寺(浄土宗)●元慶寺(天台宗) 藤原高子の発願により建立。僧正遍昭を開基とし、元慶元年(877年)に建立された。 現在の伽藍は安永年間(1772年-1781年)の再建と伝わる。 西国三十三所霊場の番外札所。 寛和2年(986年)、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、 兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位についた(寛和の変)。 花山法皇の宸影を安置する寺で花山寺とも呼ばれ、大鏡では花山寺と記述されている。 (以上Wikipediaより) 「山門」には梵天と帝釈天が安置されていたようであるが、それらは京都国立博物館に寄託されているとのこと。本堂『人皇六拾五代花山院法皇御落飾道場』と彫られた石柱標識 遍照僧正墓【道標】 [東]遍照僧正御墓 [南](矢印) [西]大阪皇陵巡拝会 お寺の中に道標があるのもおかしいので、移築されものと思われます。遍昭僧正(良岑宗貞(よしみねのむねさだ))歌碑 「天津風(あまつかぜ) 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」 遍照僧正は六歌仙の一人。この歌は古今和歌集に収められている。 百人一首にも選ばれています。素性法師(そせいほうし)歌碑 素性法師は遍昭僧正の子であり三十六歌仙の1人。 「今こむと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな」 こちらも百人一首に入っています。元慶寺再興碑 この碑は元慶寺の沿革と再興の経緯を記す。再興は安永8(1779)。 この碑の建立は寛政元年北隣りに華山寺があります。●華山寺(臨済宗妙心寺派) 愚堂国師入定之地 愚堂東寔(ぐどうとうしょく,1577~1661)は,美濃国(現在の岐阜県)に生まれ,妙心寺聖沢院の庸山景庸(1559~1626)に師事した後,妙心寺住持を三度勤めた臨済宗の高僧。後水尾院(1596~1680)や徳川家光(1604~51)・保科正之・中院通村など多くの公家・武家から帰依され,死去の翌年には国師号を授けられ大円宝鑑国師と追諡されている。また正伝寺(岐阜県八百津町)・中山寺(三重県伊勢市)など,各地に多くの寺院を開いた。近世初頭における臨済宗復興の先駆的人物であったが,万治元(1658)年に華山寺を建立して退隠し,この地で入滅した。この石標は,その愚堂東寔の入滅地を示すものである。(いしぶみデータベースより)花山院之墓 これがどうして「花山院之墓」とされているかは不明ですが、 江戸時代の文書などでは「華山寺」と隣の「元慶寺」とは、「花山寺」として よく混同されて記載されているところから、こうしたものが残されているのかも 知れないとのことです。 「花山院」についても、花山天皇の追号が「花山院」であることから、花山天皇の ことと考えてしまいがちですが、必ずしもそうではないのかも知れません。 「花山天皇陵」は、京都市北区衣笠の「紙屋川上陵 (かみやがわのほとりのみささぎ)」 とされていますし、花山天皇の崩御した所を「花山院」と呼び、後に、その邸宅に入った 藤原家忠も「花山院」と呼び、その子孫は花山院流と呼ばれていたからです。 (出典:http://homepage2.nifty.com/jiro/kagamiyama/hurusato/hurusato037.htm)ケヤキ(欅)の木 京都市の指定保存樹南へ歩きます。●藤黒稲荷大明神 Google Mapには掲載されておらず、偶然発見しました。●遍照僧正御墓 桓武天皇皇孫であるためか、宮内庁管理になっています。 ・俗名:良峯宗貞 ・生没年:弘仁7(816)年~寛平2(890)年 ・続柄:(父)良峯安世、(母)不詳(一説には光孝天皇の乳母) 桓武天皇の皇子であり臣籍降下した良峯安世の第八子として生まれた。 若いころは仁明天皇の蔵人から左兵衛佐、左近衛少将兼備前守を経て、 33歳で蔵人頭に任ぜられた。 翌年に仕えていた仁明天皇が崩御したため出家し、天台宗の円仁等に師事、 元慶寺を建立した。以後雲林院の別当等を歴任し70歳で僧正となった。 和歌に非常に優れた才能を発揮し、六歌仙、三十六歌仙の一人として数えられている。●北花山水路記念碑 宇治郡山科村の西北の五つの大字(日岡・北花山・上花山・川田・西野山)は潅漑用の 水利に乏しく苦しんでいた。山科村長柳田謙三と各字水利委員は,明治23(1890)年に 完成したばかりの琵琶湖疏水から日岡で分水するために長さ3,000間(約5.4キロメートル)の 水路を開くことを計画し,明治24年に着工し翌年竣工した。この功績を記念するもの。 (いしぶみデータベースより。 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/gyoseilist_frame.html)●毛利家の家紋発見。表札見たらやっぱり毛利さん●フレンドリー山科店 国道1号線まで南下して、ここで昼食。 インド料理フェアをやっていて、思わずこれをを注文。 ●旭大明神 Google Mapにはなかったのですが、何かの機会でこの神社の存在を知ったので行ってみることに。国道1号線の京都に向かって左側の歩道を上がっていきます。何も案内はありませんが、細い道の坂が戻る方向にあるので、それを上ってみます。少し上がって振り返るとこんな感じ。鳥居があります。この道で間違いなさそうです。 驚くことによく整備されています。さらに鳥居をくぐります。これが旭大明神さらに坂道を上っていきます。苔むした道伏見稲荷のお塚のようなところがあります。廃れた様子はありません。ときどき皆さんお参りに来て、手入れをされているのでしょう。国道1号線を戻ります。●上花山六所神社 1543年に地域の有力者であった比留田氏により、地域の守り神として創建されました。 (続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/06/05
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【2016年6月4日(土)】 ゴルフ、ガイド研修、お墓参りなどで日程がとれず、3週間部ぶりの「京都市内全寺社巡り」となりました。天気予報では、夜からは雨ですが、昼間はなんとか持ちそうなので、出かけました。天気予報どおり、帰る頃になってポツポツ雨が降りだしました。昨日までの高原のような心地良さはどこへやら、温度は昨日と同じくらいと思いますが、湿度が高くて、ムシムシとしていました。 今日は、過去の歩きで帰ってきてから、新たに発見した訪れるべきスポットから回り始めましたが、それが東西に分散していたので、山科を西の端から東の端まで歩きました。 夕刻から雨が降るとのことなので、いつもより約1時間程度早めに出発しました。歩き始める場所が、山科の西端で地下鉄の駅から遠いので、阪急で四条河原町に出て、そこから国道1号線(国道1号線)で山を越えて山科に行く京阪バスに乗る予定でした。とろころがなかなかバスが来ません。 ようやくバスが来たと思ったら、長く待ち過ぎたためか、トイレに行きたくなってきました。しかし、朝早いのでデパートもパチンコ屋も開いていません。町なかのコンビニはトイレがありません。新京極蛸薬師に公衆トイレがあることを知っていたので、少々遠いですが行ってみました。こういうときってあるんですね、工事中!!!!。止むなくファーストフード店に入ってことなきを得ました。そうそう、観光ガイドはトイレの場所も把握しておくことが必要なのです。結局バスに乗ったのは最初にバス停に着いてから45分後。大きく時間をロスをしてしまいました。 こういうときは、悪いことが重なるものです。国道1号線の東山トンネルを越えたところの、上花山花ノ岡町で降りようと、カメラの準備をしていて気が付いたのですが。データをPCに移すためにPCに入れたSDカードがそのままなっていたようです。写真が撮れません。それで終点の醍醐バスターミナルまで行くことに。ここにはヤマダ電機があることを知っていました。SDカードを買って、同じ系統のバスで国道1号線まで上花山久保町まで戻り、そこから歩き始めました。 結局歩き始めたのは、11:20頃。いつもと変わらない時間になってしまいました。【本日の行程】*8:50バス*阪急桂駅*四条河原町10:15バス乗車*醍醐バスターミナル*上花山久保町バス停+歩きスタート11:20・六所神社・北花山分水路のJR東海道線高架・光久寺・今熊野道【道標】・天下一品山科店(昼食)・山科寺跡(推定地)碑・三条道/五条橋道標・當麻寺・古美術田澤山科店・山科別院長福寺・蓮如上人銅像跡・蓮如上人南殿御旧地是より北へ八町【道標】・音羽水路紀功碑・音羽水路・円如上人墓・徳林庵・伏見六地蔵【道標】・人康親王墓【道標】・十禅寺・宮内庁人康親王御墓・四ノ宮大明神・円光寺・毘沙門堂是より左六町【道標】・東海道【道標】・旧東海道【道標】・明治天皇御遺跡碑・本願寺山科両別院是より左六町【道標】 +16:10 地下鉄山科駅*地下鉄四条駅*阪急桂駅*自宅 17:00 ◆ルート地図◆訪問スポットのプロットhttps://drive.google.com/open?id=1Q58QCLqeGbALUgZhK3dOo0QPpbc&usp=sharing◆歩行データ・歩行距離 山科区の歩き部分 12.6km *全歩行距離 16.9km・歩数 *23,000歩 ・歩行時間 *3時間30分。 *は自宅からの往復(ワンちゃん散歩含む)の歩数計データ スポットが離れていたので歩数が多くなりました。復帰後の京都歩きで一番多い歩数と思います。それほど暑くなかったので、思ったほど疲れませんでした。 家族外出で一人での夕食でした。ちょうど、NHKのBSで映画「レ・ミゼラブル」をやっていたので観ました。録画はしていたのですが、観だしたら引き込まれて最後まで観てしまいました。公開当時、二人で映画館で観ました。いい映画です。 バレー男子、カナダにも負けましたね。やはりオリンピックは駄目でしたね。実力通りでしょう。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/06/04
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2016年5月14日(土)「京都市内全寺社巡り」の山科区9日目の第1回です。 【この日の行程】*9:30バス*地下鉄五条駅駅*地下鉄御陵駅+歩きスタート10:40・琵琶湖疏水煉瓦工場跡碑・天智天皇山科陵道標・日時計碑・天智天皇山科陵 ・天智天皇陵兆域原標・亀の水不動尊・大乗寺・光照寺・明見寺道道標・東海道線東山トンネル出口・阿弥陀寺・元慶寺 ・遍照僧正墓道標 ・元慶寺再興碑 ・良岑宗貞(よしみねのむねさだ)(遍照僧正)歌碑 ・素性法師(そせいほうし)歌碑 ・元慶寺道標・華山寺 ・ケヤキ(京都市指定保存樹)・藤黒稲荷大明神・遍照墓・北花山水路記念碑・フレンドリー山科店(昼食)・旭大明神・六所神社・福隨寺・いなり山道標・蓮如上人御塚道 道標(痕跡)・蓮如上人御往生旧地西宗寺道.・西宗寺 ・蓮如上人卸往生地碑(北門前) ・蓮如上人御往生地碑(東門前)・蓮如上人御塚道道標・東本願寺山科別院・蓮如上人廟所・山科本願寺土塁跡碑+17:40地下鉄山科駅*地下鉄四条駅◆ルート地図◆訪問スポットのプロット https://drive.google.com/open?id=1R8SXWRgTTXziDDyag-cDiuweNOY&usp=sharing◆歩行距離山科区の歩き部分(約13.6km)◆歩数自宅往復25,500歩。歩行時間3時間51分。(ウォーキング後の飲み会会場往復含む)===============================それでは山科区第9日の第1回です。 バスで烏丸五条まで行き、地下鉄五条駅から地下鉄に乗りました。ホームの案内板に間違いを発見したのですが、これについては後日アップします。 この日は山科の北西部を歩きました。 地下鉄御陵(みささぎ)駅から歩き始めました。「御陵」で「みささぎ」、京都の難読地名の一つです。●琵琶湖疏水煉瓦工場跡碑御陵駅を上がったところに、琵琶湖疏水煉瓦工場跡の石碑があります。琵琶湖疏水建設当時、日本にはこの大工事を賄うだけの煉瓦製造能力がなく、京都府がこの地に煉瓦製造工場を造りました。若き技師、菊田宗太郎が起用され、明治19年に創業しました。●天智天皇山科陵【道標】 三条通を東に向かった南側の天智天皇陵を示す道標があります。 [西]天智天皇山科陵 [北]↓ [東]昭和四年十一月建之 大阪皇陵巡拝会●日時計碑 さらに東に向かうと、天智天皇陵の参道があり、その入口に日時計碑があります。 時計(水時計)に縁の深い天智天皇にちなみ,その御陵前に建立されました。 [南]天恩無窮【篆額】 (日時計) 日時計 [北]昭和十三年六月建之 京都時計商組合創立二十周年記念●天智天皇山科陵 天智天皇=大化の改新に登場する中大兄皇子 長い緑に抱かれた参道を行きます。近所の方々の散歩道になっています。 今度は旧東海道を西に向かいます。●亀の水不動尊 道が急な上り坂になったところに、亀の水不動尊があります。 亀の水不動尊は、一七三八(元文三)年、日ノ岡峠の改修に尽力した僧木食(もくじき)正禅が結んだ庵(いおり)の名残。峠の途中に構えた庵は休息所を兼ね、井戸水で牛馬の渇きをいやし、湯茶で旅人を接待したとされます。 2009年9月に訪れたときの写真がありました。 ところが、今回訪れてみると・・・・ 立ち入り禁止になっていて、荒れ果てていました。 ある方の話によると、この土地の所有者が別の土地のトラブルで、所有地すべてを立ち入り禁止にしてしまったためだそうです。悲しいことです。●大乗寺(日蓮宗) 少し西に行ったところ、階段を上っていくと大乗寺があります。 約三百年前に京都の七本松の内野と云う処に建立され、当初は禅宗系でしたが、日蓮宗に改宗されたと伝えられています。其の後は代々尼寺として受け継がれ無本山の寺でしたが、約二百年前に法華宗の大本山本能寺の末寺になった様です。 代々檀家が少なく細々とつないできた尼寺でしたが、凡そ二十年ほど前にその建物も大分いたみ、此の山科の現在地に移転してきました。然し檀信徒が殆ど無いという状況になり、廃寺寸前だったのですが、大本山本能寺執事長だった方が住職として来られ再興されました。その後、酔芙蓉の苗木百本ほどの寄贈を受け、それを毎年百数十鉢に挿し木して、現在は約千三百本を越えるまでになり「酔芙蓉の寺」として知られるようになりました。といっても、こんな小さな鄙びたお寺です。酔芙蓉観音 「文学の寺」も目指しておられるとのことで、多くの歌碑があります。翠芙蓉観音横のご住職直筆の漢詩源宗干(みなもとむねゆき)歌碑「山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば」(小倉百人一首)光孝天皇御製碑「君がため 春の野にいでて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ」(小倉百人一首)その他、日蓮上人、ご住職による歌の歌碑もあるようです。 さて、ご朱印をいただこうと、お寺のの中をウロウロしていたら、こんな張り紙が・・・「声をかけても誰も出ないときは、ドラを鳴らして下さい」 扉を開けて、ここに書いてあるように、声をかけましたが、どなたも出てこられません。 ドラを叩いてみました。やはり誰も出てこられません。 お昼どきに近かったので、お買い物でお留守かとあきらめかけたところ、テレビの音が聞こえます。 本堂?と思われる方向です。近づいてドアを開けて、「ごめんください。」 でもどなたも出てこられません。もう一度もっと大きな声で「ごめんください。」 ようやくお年寄りの女性が出てこられました。「ごめんなさいね。住職も私も耳が遠くてテレビを大きな声でつけていたので、なかなか気がつかなくて。」ご朱印をいただけますか?とお願いすると、ドラが掛かっていた庫裏に案内してくださいました。 「どうぞお上がりください。」とおっしゃるので、遠慮せずに上がらせていただくと、何とコーヒーとケーキを出してくださいました。 壁にはお寺には場違いの宝塚歌劇団の写真。「宙(そら)組 小春乃さよ」 と書いてあります。 ご朱印を書いて持ってきていただいたので、お聞きしたらお孫さんだそうです。娘役で活躍されているとのこと。熊本地震の直後でしたが、福岡で公演中とのことでした。 宝塚のホームページにありました。http://kageki.hankyu.co.jp/star/koharuno_sayo.html 東京に住む別のお孫さんの着物姿の写真も飾ってありました。 ご住職はヘルペスで入院されて、帰ってきて療養中で、こうやって奥様がご朱印を書かれたりしているとのこと。荒れたお寺を修復し、芙蓉の花を植え、一から再興して来られたご住職。また元気になられることを祈るばかりです。 芙蓉の花が咲くのは9月から10月だそうです。ですので、花は楽しめませんでしたが、話に花が咲きました(うまいっ!!!) この前の岩屋寺といい、この大乗寺といい、訪れる人も少なく、こうやってお寺の方と、時間を気にせず色々お話できるのは楽しいことです。 芙蓉の季節に訪れることを約束して、大乗寺をあとにしました。●光照寺(浄土宗) 少し西に行くと、光照寺があります。光照寺といえば蓮如上人ゆかりの音羽の光照寺が有名ですが、同じ名前のお寺がここ日ノ岡にもあります。 お寺の入口には、圓光大師御旧跡との石碑が立ちます。木曽義仲軍が京へ乱入した日に法然上人が避難されたのがこの場所であると言われています。●妙見道、花山稲荷道(道標)東に戻り、南への細道に入るところに道標が2つ並んでいます。妙見道【道標】 [東]右 明見道 [西]二条講中道標には「明見道」と刻まれていますが、すでに訪問した大塚の「妙見寺」に至る道のことを指しているのだと思います。花山稲荷道【道標】 [東]右 かさんいなり道 [西]中川直郎 亀山正七山科区第8日で訪れた花山稲荷神社に至る道の道標です。 南に向かい、東海道本線をまたぎます。すぐ西に東山トンネルがあります。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/06/02
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2016年5月7日(土)「京都市全寺社巡り」山科区8日目の第3回(最終回)です。 ◆この日全体の行程・ルート図と第1回http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605290006/◆第2回http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605300005/◆この日の訪問スポットのプロット https://drive.google.com/open?id=1SGrnwgoP7rixTRJqtGOjDEo2oaE&usp=sharing===============================それでは山科区第8日の第3回です。山科神社から一旦岩屋寺に戻り、脇道を大石神社に向かいます。●大石神社昭和10年に大石内蔵助を祭神に創建されました。大石の山科旧居は神社付近にあったと伝えます。岩屋寺付近とも伝えます。大石は、赤穂城の明け渡しの後、元禄14念(1702)6月下旬に、以前からこの付近に田地・屋敷を持っていた親類の進藤源四郎の世話でこの地に移り、この地でしばしば同志の会を開きました。大石は元禄15年(1702)5月、妻子を離縁し、8月にはここを引き揚げ、一旦四条寺町に移り、討ち入りのため、10月に江戸に向かいました。大石願掛け像大石神社創立記念碑 昭和十三年六月建立で、大石神社建設会長として京都府知事従四位勲三等鈴木敬一氏の名が刻まれています。義人社 赤穂義士討ち入りに際し、必要な武器を調達した大阪の豪商天野屋利兵衛を祀ります。吉田奈良丸顕彰碑(左) 大石神社創立を提唱した浪曲師吉田奈良丸の顕彰碑。 大阪府知事だった岸昌氏の建立です。福島四郎(1874~1945)氏 武士道歌碑(右) よく分かりませんでしたが、色々調べた結果、明治~昭和戦前に活躍した ジャーナリスト・赤穂義士研究家福島四郎(播州小野出身、号は「拝蘭」)の 武士道歌碑と思われます。 「播磨路のあさ野の末に武士の道のしるべとたてる大石」と刻まれています。この歌碑はよく分かりません。大石内蔵助の歌でしょうか。 「花子」という名のファベラ・ミニホース(15歳)がいます。以前参拝したときは見かけなかったと思ったら、平成19年に来たそうで、私が以前訪れた直後に来たようです。大石神社の近くにいくつかお寺があります。●福王寺(浄土宗) 大石内蔵助の隠棲地は福王寺の境内であったともいわれています。●極楽寺(浄土宗) 大石内蔵助が施主で、浅野内匠頭の位牌を同寺に納めています。 鎖帷子や硯箱など、義士の遺品も数多く残ります。 庭にある五輪の塔は遺髪塚であったといわれます。●大徳寺(真言宗) 有名な大徳寺は臨済宗ですが、ここは真言宗。 村上天皇勅許千観内供開基とあります。阪神高速の8号京都線の山科入口を右に見ながら北に向かいます。山科盆地の眺めが素晴らしいGoogle Mapによると、西野地域の伏見稲荷へ抜ける山道近くに愛宕神社という神社があるのですが、第6日に付近を歩いたときに見つけることができませんでした。こちら⇒http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605160003/しかし、思い返してみると、別れ道があり、その先にあったのではないかと気付き、今回、再度訪れました。果たして、その場所と思われるところに、鳥居があり、階段がありました。しかし、社は壊れており、背後に大きな岩がありました。何の説明もなかったので、断定はできませんが、これがGoogle Mapに載っている愛宕神社と思われます。◆愛宕神社(推定)山を下り、東に向かいます。●今熊野観音道十八町【道標】(川田西浦町) [北東]右 いまくまくはんをん道 十八丁 [北西]すく御坊道 [南西]左いまくまみち [南東]天保十一年庚子二月 京 施主 荒川氏 山田氏 木村氏 鈴木氏 国道1号線沿いに万因寺があります。万因寺・八幡神社道標●万因寺もとは東山仁王門あたりにあったと伝える。貞観元年(859)祐源開基と伝える。その後応仁文明の乱を逃れて山科に隠棲した祐正、蓮如上人の化導を蒙り六字名号を賜った。その後祐清、石山合戦(1570~1580)に功あり、顕如上人より祖師絵伝を賜った。その後、大谷派本願寺宣如上人へ願い、釋祐念と法名を賜り、正保4年(1647)真言宗の道場を改めて浄土宗の一宇を創建し、万谷山万因寺と降し賜り、合せて本尊阿弥陀如来・十字名号をたまわった。(駒札より)●八幡宮(万因寺前) 万因寺の鎮守社と思われます。東に向かいます。●山科本願寺土塁跡南西角碑(西野左義長町) 説明板もあります。 蓮如上人が文明10年(1478)に山科に本願寺を再建しました。この場所はその南西部に位置します。●山科本願寺跡碑(西野山階町) 国道1号線沿いのトヨタカローラ京都横にあります。国道1号線を東に向かい、地下鉄東野駅から帰宅の途に就きました。 山科区第8日目、これで終了です。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/06/01
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2016年5月7日(土) 「京都市内全寺社巡り」の山科区8日目の第2回です。 ◆この日全体の行程、ルート地図と第1回http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605290006/◆この日の訪問スポットのプロットhttps://drive.google.com/open?id=1SGrnwgoP7rixTRJqtGOjDEo2oaE&usp=sharing=============================== それでは山科区第8日の第2回です。 物騒な張り紙と「ストライキ決行中」の横断幕に驚いた後、少し西に向かいます。●専正寺(浄土真宗本願寺派)一般住宅風の寺院です。山科ではこのような一見して寺院と分からないような寺院が多いような気がします。南に向かいます。●増福寺(浄土宗)●王将フードサービス本社 以前社長の銃撃事件のあったところです。「王将、負けずにガンバレ」の雰囲気がありましたが、最近では黒い噂が話題になり、イメージダウンです。 東証一部上場 売上高 753億17百万円(平成28年3月31日現在) 従業員 2,000名(平成28年3月31日現在) 店舗数 直営店:473店舗 FC店:233店舗 合計706店舗(平成28年3月31日現在) 昭和44年頃、兄弟喧嘩のような形で『大阪王将』が分派として飛び出したそうです。●来来亭 昼食はこの日はその王将ではなく、来来亭山科新十条店。味噌ラーメン、餃子、生中をいただきました。 元気を出して、もう一度歩き始めます。 岩屋寺へ向かう途中に多くの道標があります。いかに大石内蔵助が人気だったかということを示していると思います。(碑文は京都市歴史資料館フィールドミュージアムにサイトの「いしぶみデータベースを参考にさせていただいています。)●義士大石良雄寓居地【道標】 左 大石やしき(埋没)【道標】(この2つは「いしぶみデータベース」にないようです)大きい方の碑の裏には多くの字が彫ってあります。●岩屋寺【道標】 [東]本尊大聖不動明王岩屋寺 [北]右 上 大石旧地義士四十七人 [西]天保十四年癸卯九月 [南]施主 銭屋八良兵衛●山科の棲家(すみか)岩屋寺【道標】 [東]右奥深き山科の棲家岩屋【以下埋没】 [南]当寺実物義士木像拝観 [西]明治四十一年十二月一日泉妙場●大石大夫閑居址 [東](巴紋)大石大夫閑居址 [西]昭和十三年戊寅歳五月 神遊山金地院巌谷寺前住八十三居西川堅明識 [南] 十二代天神治三郎 深見源次郎 西村喜三郎 大 和田卯三郎 布井公弥 井上丑松 熊野惣平 日野ツキ 山口徳次郎 阪 前田興兵衛 北村マス 西田条次郎 杣田ミツ 発 布井鹿之助 宇野徳蔵 斎藤トモ 起 前田儀兵衛 仝 キヌ 取次丹羽勝造 人 仝 イマ●大石良雄閑居址・岩屋寺【道標】(岩屋寺内)●岩屋寺(曹洞宗) 忠臣蔵でよく知られた大石内蔵助が隠棲して討ち入りの策を練った由緒のある寺です。創建時は比叡山三千坊の一つで天台宗に属していましたが、今は曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で神遊山金地院と号しています。南隣の山科神社の神宮寺だったこともあるようですが、赤穂義士・大石良雄が隠れ棲んだことでよく知られ大石寺とも呼ばれています。智証(ちしょう)大師の作とされる本尊大聖(だいしょう)不動明王が本堂に安置されており、近畿三十六不動尊第二十四番霊場として信仰を集めています。この不動明王は大石良雄の念持仏でもありました。寺域には大石良雄の遺髪塚と邸宅址があります。大石良雄は討ち入りが成功した後に邸宅、田畑等のすべてを岩屋寺に寄進しました。境内には本堂と明治年代に建立された木像堂があり、大石良雄の遺品や浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)の位牌、四十七士の位牌、遺品等が安置されています。毎年12月14日には「山科義士まつり」の行列が行われ、討ち入りの当時が再現されます。大石良雄君隠棲旧址碑 [南東] 明治三十四年仲秋 大石良雄君隠棲旧址 正三位勲二等男爵北垣国道題 播磨赤穂藩主浅野家の家老大石良雄(1659~1703)は,江戸城内での刃傷沙汰で領地召し上げとなったため,縁戚で浅野家に仕える進藤源四郎の縁故により,進藤の出身地である山科に居を構えた。ここから伏見撞木町に通って吉良邸討ち入りの機を見計らっていた。この石標は,その隠棲の跡を示すものである。 京都府第3代知事北垣国道の書です。大石内蔵助遺髪塚忠誠堂(納骨堂) 大石内蔵助の座像とともに永代供養されています。岩屋寺への階段大石稲荷大神 階段の横にあります。本堂ご朱印 いただくときに、他に訪れる人もいず、庵主さんと少しくお話させていただきました。主に世間の風潮の話をさせていただきましたが、「義士祭のときは賑わいますが、それ以外は暇で暇で。観光ガイドをなさるのなら、是非宣伝してくださいな。」などともおしゃってました。心やすまるひと時でした。可笑庵 大石内蔵助ゆかりの茶室可笑庵と大石内蔵助手植えの梅 左に小さく写っているのが、庵主さん。庭仕事の手を休めていただいて、ご朱印をいただきました。梅の木の下にシランの花 庵主さんが、開花時期の長い花だとおしゃってました。大石辧財天かわいいお地蔵様お隣に山科神社があります。急な階段を上っていきます。●山科神社 社伝によれば、宇多天皇の勅命により創建されたと伝え、以後、この地の豪族宮道氏の祖神として、また山科一ノ宮とも呼ばれてこの地の産土神として人々の崇敬を受けて栄えてきた。 盛時には、社領を丹波、山城に持ち、社殿の規模も大きかったが、度々の兵火のため焼失し、現在は、三間社流造の本殿及び権殿、拝殿、神庫などが残っている。 また、元禄14、5年(1701~2)赤穂浪士の大石良雄が山科の里に接棲していたが、その時、当社奥の院岩屋神社に参篭して、大願成就を祈ったといわれている。(社前の説明板から)(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/05/30
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「京都市内全寺社巡り」2016年5月7日(土)山科区8日目の第1回です。 【この日の行程】*11:10バス*JR桂川駅*JR山科駅*地下鉄椥辻駅+歩きスタート12:10・中臣遺跡説明板・朝日神社・左京みち道標(民家に移設?)・折上稲荷神社・中臣群集墳蹟碑・實勝院・イワイ・コーポレーション(ストライキ中)・専正寺・増福寺・王将フードサービス本社・来来亭山科新十条店(昼食)・岩屋寺義士大石良雄寓居碑道標・大石やしき道標・岩屋寺道標・大石太夫閑居址道標・岩屋寺道標・大石良雄山科閑居址道標・大石良雄君隠棲旧址碑・大石良雄遺髪塚・岩屋寺・山科神社・大石神社・大石神社創立記念碑・福王寺・極楽寺・大徳寺・大石乃瀧道標(今回発見)・愛宕神社(前回発見できず)・今熊野観音道十八町道標・万因寺・八幡神社・山科本願寺土塁跡南西角碑・山科本願寺跡碑+17:50地下鉄東野駅*地下鉄四条駅*阪急烏丸駅*阪急桂駅 *バス*自宅18:30◆ルート地図◆訪問スポットのプロット https://drive.google.com/open?id=1SGrnwgoP7rixTRJqtGOjDEo2oaE&usp=sharing◆歩行距離 山科区の歩き部分(約11.2km)◆歩数 自宅往復 19,000歩。===============================それでは山科区第8日の第1回です。地下鉄椥辻駅から歩き始めます。以前歩いた付近ですが、帰ってきてから中臣遺跡の説明板が、勧修寺第二市営住宅の敷地内にあることが分かりましたので、まずはそこからスタートです。すぐに発見できました。中臣遺跡説明板中臣(なかとみ)遺跡は、後期旧石器時代(約20,000年前)から室町時代に及ぶ、山科盆地の中心的な集落遺跡です。検出遺構の主なものには、古墳時代後期から平安時代にかけての古墳や土壙墓(どこうぼ)などの墓跡と、竪穴建物や掘立柱建物などの集落を構成する建物跡があります。中臣鎌足らを出した中臣氏(後の藤原氏)の本拠地でもあります。 北に向かい、新十条通を北に入ったところの朝日神社があります。●朝日神社この地は徳川家光の息女、千代姫が収得し、乙訓郡大山崎妙音山観音寺に寄進され、享保年代に多くの移民によって栗栖野新田が生まれたと伝えられています。その鎮守の神として、この朝日神社が創建されたと伝わります。 民家前に道標発見。「左 京ミち」 この近辺のどこからか移築されたのでしょう。●「左 京ミち」道標 朝日神社のすぐ近くに「折上(おりがみ)稲荷神社」があります。北側の鳥居から入りました。●折上稲荷神社 三九郎稲荷神社 三大苦労(人間関係・健康・お金)を除いてくださる稲荷様伏見稲荷の大神が和銅4年(712)に降臨した際、稲荷山の三ヶ峯の次に降りたのが、この境内の稲荷塚と云われています。幕末、孝明天皇は大嘗祭(だいしょうさい)に際し、長橋局(ながはしのつぼね)など女官の病気平癒を祈願し、長命箸を奉納しました。以来、女性守護のお稲荷さんともいわれ、アメリカの大富豪モルガンと結婚して異国で数奇な運命をたどり、日本の女性、とりわけ京の女性の名前を世界に広めた祇園の芸妓・モルガンお雪など、働く女性の守り神として信仰されています。稲荷塚(京都市史跡) いただいたパンフレット。たくさんのスポットがあります。モルガンお雪の姉、ウタが奉納した鳥居。 お雪の世間の批判を避けるため、四女のお雪の名前の代わりに、 「加藤楼稲吉」という名前で彫られている。 姉ウタが経営していた置屋「加藤楼」に「折上稲荷様」が吉を くだされたという意味。 この鳥居の傍らに「中臣群集遺跡」の石碑があります。「中臣群集遺跡」石碑 五社大明神稲荷様の授け脳 このコブを撫でると健康な脳が授かるとのことひょうたん大神 モルガンお雪が特に熱心に参拝した神様稲荷大明神石碑正面鳥居ご朱印 折上稲荷神社の北北西に花山稲荷神社があります。●花山稲荷神社東の正面の鳥居から入ります。 延喜3年(903)醍醐天皇の勅命により創建されたといわれます。拝殿の右側には、「稲荷塚」と呼ばれる古墳があり、この塚は、平安時代の後期に、三条小鍛冶宗近が、稲荷大神の神徳により、名刀「小狐丸」を鍛えたところとも伝えられています。『赤穂浪士討ち入り事件』で有名な大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)は山科近辺に隠れ棲み、花山稲荷神社を崇敬し大願成就を祈願したと言われています。いくつか謂れのあるものが残っています。断食をしてまでも討ち入りの策を考えたと言われている石です。 もともとは藪(神社背面)の中にあった巨岩(10畳程)で古くは 岩座(いわくら)だったと言われています 農地開発で耕作の邪魔になり爆破されたそうですが、内蔵助の話が失われるのを 惜しんだ当時の神主が破片の中でも1番大きかった物を境内に置いたそうです。大石内蔵助が寄進したという、本殿裏の鳥居、同志の心底を試したと言う『血判石』もありますが、両方とも見逃しました。壊れてしまった鳥居社務所のおじゃましてご朱印をいただきました。年老いた神主さん(だと思います)と、少しお話させていただきました。 寶勝院(真言宗) 花山稲荷神社の南の小さな工場などの集まる地域の中にありました。 一般の住宅風です。安い土地を求めて引っ越してきたのでしょうか。 西に向かう道で、物騒な張り紙を発見。さらに「ストライキ決行中」の横断幕も。帰宅後調べて分かったことを、当日の「京都歩き」に書きましたので、興味のある方は覗いてください。⇒こちら ●物騒な張り紙、横断幕 (続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/05/29
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2016年4月29日(金)(昭和の日)「京都市内全寺社巡り」の山科区7日目の第3回(最終回)です。本シリーズ第2回は下記。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605260005/この日全体の行程とその地図は第1回分に示されています。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605190004/下記地図には訪問先がスポットされています。https://drive.google.com/open?id=1NjttlTaOIQLc0JrKBgvrm4BlYr0&usp=sharing=============================(続き)実如上人、証如上人の墓(山科区東野井ノ上町)を訪れた後、国道1号線の南側で、京都外環状線を横断します。眞光寺(浄土真宗本願寺派)歌碑がありました。 「両親(おや)おくり 妻先にゆき子の急ぐ 茜の雲は美しきかな」 土橋秀高土橋秀高氏は昭和期の中国仏教思想研究者。龍谷大学教授。私は存知あげませんが、帰宅後、検索して次ぎのような文に巡り会いました。◆60才(定年より5年早く)龍谷大学教授辞任。 子息(京都大学仏教学(院)、インド留学)の就職(東海大学助教授)を期に自坊(山科 真光寺)に戻り住職専業。 その1,2年後、奥さん、暫くの患いで逝去。 その1年後、自坊全焼(夕事のローソクの灯の消し忘れが因。住職1人住まい故、防音の書斎に入っていて気づかず。通行人が発見。火炎の中、消化器を取りに入り、頭、腕に火傷)。「私の責任」と詫びる。火災の翌日、「真光寺本堂庫裏再建委員会」立ち上がる(門徒の支援篤い)。2年半後に復興する。 しかし、その1年前、東京から若坊守と孫2人、山科の寺に帰っており、子息は単身赴任。毎日のように電話連絡。ところがある時、通じない。一週間ほどして、住職上京。電気こたつに足入れて自殺している子息を発見。死臭。遺書「自分が先にいくから葬式はしないで」。東京で火葬。山科の再建まっさらの本堂で葬儀。子息の腕時計一個を形見としてもつ。「この孫2人が成人するまでは老骨に鞭打って頑張る」と式で挨拶。会葬者の涙をそそる。 ところが1年後、一周忌の翌日、若坊守は2人の子どもをつれて寺を去る。 全くの一人となる。教え子の浅田正博氏、先生を訪ね・見舞う。話は子息のことばかり。 (後略)ここに登場する、浅田正博氏による顕彰碑もありました。南に行きます。称名寺(浄土宗西山禅林寺派)少し東に戻ります。佛光寺舊址 仏光寺は,建暦2(1212)年,流罪を解かれ越前から帰京した親鸞(1173~1262)が,この地建てた堂舎にはじまる。順徳天皇(1197~1242)から「興隆正法寺」という寺号を賜り,当初は興正寺と号した。その後,第七代了源(1295~1335)が東山渋谷の今比叡に移し,寺号を仏光寺に改めた。一説によると山科興正寺を建立したのも了源という。なお,仏光寺が現在地(下京区高倉仏光寺)に移転したのは天正14(1586)年である。 (京のいしぶみデータベースより) 西雲寺(真宗大谷派) 門前のお寺の石柱の後ろに、自然石の「表徳碑」が立っています。京都鳩居堂の主人であった熊谷直恭(蓮心・1859年没)が、このあたりに老牛馬の放牧場を設けたり、洪水・窮乏から村を救ったことを顕彰するための碑です。明治21年建碑。さらに西に進むと、東野公園北には「三之宮神社」があります。三之宮神社 鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)・醍醐天皇・後水尾天皇を祭ります。江戸時代造営の本殿があり、その南に幹周5メートルを越える欅(けやき)の大木があります。 神社内に宝蔵があります。その由来の駒札全文です。大般若経宝蔵の由縁 三之宮は延喜年中(901~923)の創建と伝えられ、往古(おおむかし)より 山科七郷の総鎮守的存在であった。 後、応永三年(一五九六)に、後小松天皇より山科郷に大般若経六百巻と 大般若十六善神本尊を下賜され、三之宮宝蔵に之を納め、尓来(それより)近世に 至るまで毎年三回山科郷士が廻り持ちで輪読供養されていた。 其の後、元和三年(一六一七)神社境内に別当寺妙智院が造営され、是より 大般若経輪読の際には憎が修行することとなったが、明治維新の神仏分離令発令に 伴い廃止された。 この経典は、郷中の最も尊重するもので、うち三巻は御宸筆で其の餘(ほか)は 当時の親王、公卿、門跡方の書写せられたものである。 平成十三年正月 三之宮氏子有志 識南に向かい、旧道沿いに小さなお寺が2つあります。西楽寺(浄土宗)法敬寺(浄土真宗本願寺派) 春には門前の桜がきれに咲くそうです。南に向かいます。吉川邸(景観重要建造物) 現在はBar&喫茶YOSHIKAWAを営んでおられます。素敵なミュージックサロンだとか。ぐるぐる歩き回って、「ゆうなぎの水」を見つけました。ゆうなぎの水 椥辻池尻町の「ゆうなぎの水」は、水が湧き出ているところで、深さ30センチほど、 ゆっくりと東から南に流れています。平成13(2001)年に京都市が湧き水の 周りに護岸や階段を整備してできたものです。そして平成15(2003)年に、 名前を区民に募集して「湧く(ゆう)」「椥(なぎ)」の字からこの名が付いたそうです。 (鏡山次郎氏ホームページより)地下鉄椥辻駅に向かう途中で、山科区役所前に「山科区誕生記念碑」を発見山科区誕生記念碑観光案内板もありました。 これから回るところの参考になりそうです。地下鉄椥辻駅から帰途に就きました。山科区の歩き部分(約13km)、自宅からの全歩数は約18,000歩でした。山科区第7日目、終わりです。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/05/28
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2016年4月29日(金)(昭和の日)「京都市全寺社巡り」の山科区7日目の第2回です。第1回は下記。この日の行程とその地図も示されています。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605190003/ 下記地図には訪問先がプロットされています。https://drive.google.com/open?id=1NjttlTaOIQLc0JrKBgvrm4BlYr0&usp=sharing=============================(続き) 音羽エリアを引き続き巡ります。「蓮如上人御指図の井戸」をあとに、東に向かいます。光照寺(真宗大谷派)真宗大谷派の末寺にて浄土真宗を中興された蓮如上人が、この地に造営された南殿に延徳元年(1489)8月28日退隠されて明応8年(1499)3月25日にこの地で往生されたのであった。然るに天文元年(1532)8月24日六角定頼らの兵により、諸堂をはじめ、この南殿も本願寺と共に焼亡いたしました。幸いにして蓮如上人御在世南殿山水亭の遺跡をのこすため、東本願寺家老粟津家の祖元昌が、南殿光照寺を建立し現在に至ったのである。 『山科本願寺南殿跡案内板』より蓮如上人南殿御舊??石碑境内蓮如上人像「山科音羽 妙光人さと女生家 これより東三百米」道標妙好人(みょうこうにん)とは、浄土教の篤信者、特に浄土真宗の在俗の篤信者を指す語であるらしいが、「妙光人さと女」は調べましたが、分かりませんでした。 南殿幼稚園の背後に土塁と堀跡が残されています。門が閉っていて中へは入れませんでした。親鸞の幼少像が見えます。蓮如上人御塚道【道標】(光照寺前) [表]蓮如上人御塚道 [裏]□□□□年三月 山科区音羽稲芝町にあったものがここに移築されたようです。 少し東に行くと、山科本願寺南殿跡、山科本願寺跡の説明板と石碑があります。奥に見えるこんもりとしたところが築山の名残のようです。さきほどの幼稚園の奥に見えていたものです。 この前に訪れた、山奥の牛尾観音(法厳寺)の別院のようです。宇治道【道標】(再訪・道標の北西面も今回撮影) [南西]みぎうじみち [北西]ひだりおゝつみち皇塚 (再訪)妙見宮【道標】 妙見寺は既に訪問済みですが、道標の写真を撮り逃していました。王将京都東インター店で昼食カロリーオフのため野菜炒め。でも歩いたらやっぱりビール。本門仏立宗日風寺山科別院 普通の家にしか見えませんが・・・ 蓮如亡き後、本願寺は子の実如、その孫の証如と引き継がれます。証如の時代に、山科本願寺が焼き討ちに遭い落城し、拠点を石山本願寺へと移しました。実如、証如の墓実如上人の墓証如上人の墓(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/05/26
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2016年4月29日(金)(昭和の日)分です。 「京都市全寺社巡り」の山科区7日目の第1回です。 4月29日の「お散歩」カテゴリー記事から、その日の訪問先の概要を再掲します。【この日の行程】*10:15バス*JR桂川駅*JR山科駅+歩きスタート11:00・ダンジョ水・護国寺・西念寺・旧大野木家住宅(登録有形文化財)・三条大橋・旧渋谷道 道標・志賀直哉旧居跡碑・牛尾山法厳寺道標・清水寺奥之院牛尾山道 道標・蓮如上人南殿御旧地・両御坊道・若宮八幡宮・蓮如上人御指図の井戸・光照寺・蓮如上人南殿御舊地碑・蓮如上人御塚道 道標・史跡 山科本願寺南殿跡 付山科本願寺土塁跡 石碑・法厳寺・宇治道・大津道 道標(再訪)・皇塚(再訪)・妙見宮 道標・餃子の王将 京都東インター店(昼食)・本門仏立宗日風寺山科別院・実如・証如墓・眞光寺・仏光寺旧址・白龍山西雲寺・熊谷蓮心表徳碑・三之宮神社・西楽寺・法教寺・吉川邸(景観重要建造物)・ゆうなぎの水・山科区誕生記念碑*15:50地下鉄椥辻駅*地下鉄四条駅*阪急烏丸駅*阪急桂駅 *バス*自宅17:00下記に訪問スポットをプロットしました。https://drive.google.com/open?id=1NjttlTaOIQLc0JrKBgvrm4BlYr0&usp=sharing山科区の歩き部分(約13km)(自宅からの全歩数は約18,000歩)=============================JR山科駅を南に向かい、三条通から府道171号線を南に入ってしばく行くと「だんじょ水」があります。 元禄期以前に村民の用水願望から護国寺の協力を得て工事され、昭和初期までの300年間、住民の生活用水として使われてきました。「だんじょ」とは「談所・壇所」だそうで、地域住民が水を汲みながら、お喋りに興じる交流の場となっていたみたいです。 三条通に戻ります。護国寺(日蓮宗) 寛永20年(1643)に法性院日勇聖人によって、開創された日蓮宗のお寺です。また明治5年までの230年間、僧侶の修行興学道場である「山科檀林」として栄え、関西六檀林のひとつでした。 外環三条を南に向かいます。西念寺(浄土真宗大谷派) 一つ東の通りを南に向かいます。旧大野木家住宅 国登録有形文化財 結婚式場「洛東迎賓館」となっています。この日も式があるようで準備中でした。 三条通に戻り少し東に向かいます。三条大橋・旧渋谷道 道標 [東] 右 三条大橋 左 旧渋谷道 [西] 昭和六十三年秋 粟津□次郎 少し南の山科川支流沿いに志賀直哉旧跡碑があります。志賀直哉(1883~1971)は,詩人竹内勝太郎(1894~1935)の紹介により,大正12(1924)年10月26日,粟田口三条から居をこの地に移し,同14年4月まで住まいしました。山科における体験をもとに「山科の記憶」「痴情」「晩秋」「瑣事」などの多くの作品が生まれました。石碑には「山科の記憶」と刻まれ、傍の碑には、その一文が刻まれています。 国道1号線を越え、東の小山に向かいます。過去に見逃していた道標です。牛尾山法厳寺参詣道道標 [南] 牛尾山法厳寺参詣道 [北] 平成九年八月吉日建之 比較的新しい建立です。新しい道が出来たので新たに建てたのか、過去からあり新しいのを建てたのかは不明です。 府道33号線を南西方向に向かい、国道1号線を越え音羽の地です。清水寺奥之院牛尾山道【道標】 [西]清水寺奥之院 牛尾山道 [北]明和三丙戌年正月 その道標から西に向かいます。蓮如上人南殿御旧地・両御坊道【道標】 [北]蓮如上人南殿御旧地 左 并両御坊みち [西]此みちたひ人の為しらす [東] 施主 音羽村□□六兵衛 [南] 泉水山 光照寺 北に若宮八幡宮があります。 創祀は不明。天智天皇が志賀の都から山科郷へ巡幸を行った時、音羽の地に八幡神を勧請したのが始まりと伝えます。 境内には大津皇子と粟津王の墓とされる2基の古墳があり、室町初期の宝篋印塔が現存します。大津皇子は天武天皇の第3皇子で、母の大田皇女は天智天皇の皇女。粟津王は粟津王は大津皇子と山辺皇女の第二子。大津皇子死後、粟津王はこの地に移り住み、土地の発展に力を注ぎました。音羽地域には粟津姓が多く、その末裔たちにより八幡宮境内の宝篋印塔が建てられたと伝わります。 トイレに行きたくなり、あわてて西へ向かい外環沿いの西友山科店へ駆け込み。 西友はウォールマート傘下になってウォールマート流のシステムを導入したが、必ずしもうまくいっていない。この日トイレに行ったつでに、見た陳列も、確かに整然とした陳列で大量販売で安さを訴求をしているが、何かワクワク感がない。やはり日本人の感性には合わないのだと思う。 横道にそれましたが、再び東に向かいます。 発見に苦労しましたが、「蓮如上人御指図の井戸」です。云われはこうです。昔より音羽の里に,行基菩薩の故事があって井戸水が出ない伝説がありました。行基菩薩様が諸国行脚の時に立ち寄られ,里の女の人に水を求められたのですが,その女の人はお坊さんの身なりを見て,ばかにして水をさし上げなかったので,それ以後,この音羽の里では井戸水がでなくなったということです。 延徳元年(1489年)蓮如上人南殿御隠居の折、弟子 龍玄をしたがえて御座され お杖にて御指図になったので 人々不審ながら 掘り下げますと清水が滾々と湧き出しこの音羽の里唯一の用水になったといわれています。これによって偏執の人々も少くなり里人も全て真宗門徒のなったと伝えられています。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/05/19
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2016年4月20日(水) 「京都市全寺社巡り」の山科区6日目の第2回(最終回)です。 第6日目全体の訪問先リスト(前回投稿) http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605130007/ 第6日目全体の訪問先プロット。 https://drive.google.com/open?id=1TYeTDIUGflPjYZB8ItQgnF0h-h8&usp=sharing 第6日の経路地図。 =====================(続き) 来来亭新十条店で腹ごしらえ後、西に向かいます。大石良雄旧跡道標[東] 左 大石良雄旧跡[北] 右 京都大仏三十三間堂[南] 明治四十一年冬十二月一日 泉州堺竹本越路太夫 大石良雄旧跡とは岩屋寺のこと。京都大仏とは、この碑が建立された当時はまだ存在していた方広寺の大仏。 阪神高速京都線の稲荷山トンネルの前を通り、醍醐道を北西方向に上っていきます。醍醐道とは、京都の東山を越えて山科に通じる山越えの道。「滑り石越え」と呼ばれ、古くから西国三十三所観音霊場(第15番)の札所・今熊野観音への参詣道として利用されました。現在は他の旧道の例にもれず、京都の市街地と山科を直結するバイパスとして、自動車の往来が絶えず、歩くには少し注意を要する道になっています。 伏見稲荷の薬力社に上る道の入口付近に多くの道標があります。写真右の道標[南西]右 大石旧跡岩屋寺[北東]明治四十一年十二月その左の道標[南西]大石神社 これより東[北東]昭和十七年 京都中島源之その奥にもう1個あります。回り込んで下の写真[南西] 東寺のいなり 折上神社参詣道[北東] 大正二年八月 上記は下記の「いしぶみデータベース」記載の石碑・道標ですが、掲載にないものも発見しました。https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/gyoseilist_frame.html山道を上るところに「左 栗栖野 花山 赤???」「左 かざん(花山)???」 ここだけで5本の道標があり、一部重複しています。恐らく一部は工事などで撤去されたものが移築されたのだと思います。 山道に入ります。鳥居があります。鳥居の脇に「大石乃滝」の石碑こんなところに滝があるのでしょうか。手前には山歩きのための自然木の杖が置かれています。鳥居をくぐって上っていくと廃墟になった社のようなものがあります。説明板が整備されていて、「大石の瀧」であることが書かれています。伏見稲荷のお滝行場の一つのとのこと。以前、伏見稲荷のお滝行場を投稿したことがありますが、そのときに参考にした地図にはこの「大石の瀧」は載っておらず、紹介していたブログにも掲載されていませんでした。この説明板にある古地図には載っています。私にとっては新発見です。この絵地図で左斜面に沿った道に2つの白い四角がありますが、下のほうが「大石の瀧」のようです。 「大石の瀧」の名は、山科西野が大石内蔵助の隠棲地であったことからとのこと。大正14年にできましたが、昭和34年に神主さんが亡くなられて廃絶していたのですが、平成25年に地元有志により整備されたとのことです。お瀧行場。荒れ果てていますが、雰囲気は残っています。「稲荷神社遙拝所」と書かれているのでしょうか。近くに「大石良雄かくれ(?)家」の道標Google Mapには近くに愛宕神社があることになっていますが発見できませんでした。 醍醐道に戻って、さらに上っていくと「西野山古墓」石碑があります。 西野山古墓は,大正8(1919)年に偶然発見され、副葬品が埋葬時の状態でみつかりました。金銀平脱双鳳文鏡や金装大刀などが含まれていたことから、被葬者は高位の人物で、この地が中臣氏の根拠地である点からその一族と推定されています。 醍醐道を少し戻り、北に行ったところに「若宮八幡宮」があります。山科の音羽にも「若宮八幡宮」があり、そちらのほうは比較的大きな神社で有名です。こちらのほうはネットで夜景がきれいな場所との紹介はあいましたが、神社そのもの説明は発見できませんでした。確かに夜景がきれいそうです。川田土仏町の「今熊野観音道」道標。[東]いまくまくの(?)か(?)んおんみち[南]南無大慈大悲観世音菩薩[北]乙貞享二年 ?? 京錦棚西国順礼講中 丑四月十七日 施主 丸屋嘉兵衛国道1号線に出て、東にどんどん歩き、地下鉄東野駅から帰途に着きました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/05/16
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【2016年5月14日(土)】 このウィークデーは雨やらゴルフで京都歩きに出かけられていませんでした。今日は天気も良いし、夜京都でどうせ飲み会があるし、土曜日ですが京都歩きに出かけました。腹部の皮膚のヒリヒリ感がなかなかよくならないままですが、歩いているとあまり気になりません。 山科区の歩き部分は、13.6kmですが、飲み会会場への往復も加わり、歩数は約25,500歩。復帰後最高歩数です。気温が28.1度と夏日になり、歩いた時間も長く、アップダウンもあったので、かなり疲れました。 メジャーなスポットは、天智天皇陵、大乗寺、元慶寺、東本願寺山科別院。【本日の行程】*9:30バス*地下鉄五条駅駅*地下鉄御陵駅+歩きスタート10:40・琵琶湖疏水煉瓦工場跡碑・天智天皇山科陵道標・日時計碑・天智天皇山科陵 ・天智天皇陵兆域原標・亀の水不動尊・大乗寺・光照寺・明見寺道道標・東海道線東山トンネル出口・阿弥陀寺・元慶寺 ・遍照僧正墓道標 ・元慶寺再興碑 ・良岑宗貞(よしみねのむねさだ)(遍照僧正)歌碑 ・素性法師(そせいほうし)歌碑 ・元慶寺道標・華山寺 ・ケヤキ(京都市指定保存樹)・藤黒稲荷大明神・遍照墓・北花山水路記念碑・フレンドリー山科店(昼食)・旭大明神・六所神社・福隨寺・いなり山道標・蓮如上人御塚漫道標(痕跡)・蓮如上人御往生旧地西宗寺道.・西宗寺 ・蓮如上人卸往生地碑(北門前) ・蓮如上人御往生地碑(東門前)・蓮如上人御塚道道標・東本願寺山科別院・蓮如上人廟所・山科本願寺土塁跡碑+17:40地下鉄山科駅*地下鉄四条駅 以降、飲み会に行きました。◆ルート地図◆訪問スポットのプロット https://drive.google.com/open?id=1R8SXWRgTTXziDDyag-cDiuweNOY&usp=sharing◆歩行距離 山科区の歩き部分(約13.6km)◆歩数・歩行時間(飲み会会場往復含む) 自宅往復25,500歩。歩行時間3時間51分。 大乗寺でご朱印をいただいたとき、ご住職の奥様に庫裏に上げていただき、コーヒー・ケーキまでご馳走になり、興味あるお話を聞くことができ、気温が高く疲れましたが、思い出多い旅になりました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/05/14
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2016年4月20日(水) 「京都市全寺社巡り」の山科区6日目の第1回です。 4月20日の記事から、その日の訪問先の概要を再掲します。この日の行程*10:15バス*JR桂川駅*JR山科駅*地下鉄山科駅*地下鉄小野駅+歩きスタート11:10・大日寺跡碑・坂上田村麻呂墓・坂上田村麻呂碑・坂上田村麻呂墓道標・中臣遺跡碑・中臣遺跡説明板・宮道列子墓・中臣神社・来来亭山科新十条店(昼食)・大石良雄旧跡道標・大石旧跡岩屋寺道標・大石神社道標・折上神社参詣道道標・栗栖野・花山道標・かざん???道標・大石乃瀧道標・大石良雄かくれ家岩屋寺道標・大石の瀧・西野山古墓石碑・若宮八幡宮・今熊野観音道道標*15:50地下鉄東野駅*地下鉄四条駅*阪急烏丸駅*阪急桂駅 *バス*自宅17:00下記に訪問スポットをプロットしました。https://drive.google.com/open?id=1TYeTDIUGflPjYZB8ItQgnF0h-h8&usp=sharing山科区の歩き部分(約14km)(自宅からの全歩数は約21,000歩)=============================以前訪れた醍醐天皇御母小野陵を訪れた後、その北西に「大日寺跡」の石碑があることを知り、この日はそこから訪れることにしました。地下鉄小野駅から東へ名神高速に沿って歩き、北に入ってのどかな農道を歩きます。大日寺跡碑 平安前・中期,この地にあった大日寺跡地を示すものである。 この地から,第二次大戦前に緑釉骨壺や土器・瓦などが発見されており, 丘陵南斜面の二町四方の地が大日寺寺地であったと推定されている。 『今昔物語集』にはこの寺の僧広道の往生伝が記されている。 地下鉄椥辻方向に歩きます。坂上田村麻呂墓(墓前の説明文から) この墓には、平安前期の武将坂上田村麻呂を葬っている。 田村麻呂は、奈良時代の武将坂上苅田麻呂の子。延暦20年(801)、当時の日本では大きな問題となっていた蝦夷地を平定するため征夷大将軍に任命され、遠く陸奥に出兵し、これを治めて大変な功績をあげた。 京都にあっても弘仁元年(810)の薬子の乱などに活躍し、官職は右近衛大将にいたった。 弘仁2年/5月25日死去、五十四才。この地で葬儀が営まれ、嵯峨天皇の勅によって甲冑・ 剣や弓矢を具した姿で棺に納められ、平安京にむかって立ったまま葬られた。 田村麻呂はまた仏教の信仰も深く、清水寺を創建したことでも有名である。 なお、この墓地は、明治二十八年平安遷都千百年祭にさいし整備されたものである。坂上田村麻呂碑 墓の近くにあります。 この碑は墓所改修にあたり田村麻呂を顕彰するために立てられたもの。坂上田村麻呂墓道標中臣遺跡碑(京都市立勧修小学校前) 中臣遺跡は,山科盆地の南部,栗栖野丘陵を取り巻く一帯をいう。 この地には中臣鎌足(614~69)の陶原館があった可能性も指摘されている。 昭和44(1969)年から発掘調査が進められ,縄文時代から室町時代に至る遺物が 発掘されたが,宅地造成によって群集墳の大部分は破壊された。中臣遺跡説明板(西金崎児童公園内)宮地朝臣列士の墓 宮道列子(?~907)の墓は,栗栖野丘陵にある中臣十三塚古墳群の一つ。 円墳で周囲に空堀がある。 列子は,宇多天皇(867~931)女御で,醍醐天皇生母である藤原胤子(876~96)の母。 『今昔物語集』によると藤原高藤(838~900)が,南山科に鷹狩りをした際, 雨宿りしたのが宇治郡大領宮道弥益(生没年未詳)の家で,その娘列子と出会い二人 の間に胤子らが誕生した。列子は天皇の外祖母として手厚く葬られた。 地元の人々によって営々と守られているようです。中臣神社来来亭新十条店で昼食(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/05/13
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2016年4月15日(金) 山科区の5日目の第4回(最終回)です。 牛尾観音の前の「桜の馬場」という広場に到着です。 2013年の台風18号被害まではBBQスポットになっていたらしく、トイレもここにあったようですが、今はないようです。ここまで車で上がってこれます。この写真の場所には「黒門」という門が建っていましたが、台風被害で無くなってしまいました。急な階段を上っていきます。後で聞いたご住職さんの話ですと、ここはもともと石の階段だったのが、台風被害で壊れて最近ようやく、こうやって木で階段ができたそうです。階段を喘ぎ喘ぎ上って、ようやく牛尾観音に到着しました。 正式名称は法厳寺(ほうごんじ)。本山修験宗(ほんざんしゅげんしゅう)の単立寺院。寺伝では、垂仁天皇(すいにんてんのう・第11代天皇)の時に大國ノ不遅(おおくにのふち・大国之淵)が山の上に音羽山権現社を祀ったのが始まりといいます。その後、延鎮が夢のお告げによって、金色水の水源を尋ね歩いた際にこの地で、お告げをした本人である行叡に出会い、その後、延鎮は行叡が亡くなったこの地にお寺を創建しました。それ以来各宗派の修行僧の道場として栄え、弘法大師空海も入山した事があるといわれています。そして音羽山清水寺が建てられてからは「清水寺奥の院」として親しまれるようになりました。戦国時代には豊臣秀吉(とよとみひでよし)が祈願成就の奉謝に、前田玄以(武将であり僧・五大老の下の五奉行の一人)に命じて本寺の再興をさせました。また江戸時代には赤穂浪士の大石内蔵助良雄が毎夜毎夜、人目を避けて訪れ、祈願したんだそうです。さらに幕末にも尊王攘夷派の志士達が談合の場として牛尾観音を使ったといわれています。「京の通称寺」三十三番霊場でもあります。年に何回か観音様のご開帳があるそうで、私が訪れた4月15日の翌々日がそのご開帳になっていて、若いご住職さんが忙しそうにされていました。外で作業中で申し訳なかったのですが、ご朱印をいただきました。本堂 本尊十一面千手千眼観世音菩薩が安置されています。 天智天皇(第38代天皇)が自ら彫ったと伝わります。この本堂の後ろに、金生水があります。前述のように、延鎮が夢のお告げによって金色水の水源を尋ね歩いた際に岩の間から見つけたものと云われています。今これを書いているときに金生水があることを知りました。残念ながら当日は見逃していました。釣鐘堂(空の道場)釣鐘堂の後ろにあるのが、護摩堂(火の道場)大杉堂 背後の大杉は「天狗杉」と呼ばれ、京都市の巨木・名木に指定されています。 麓のほうには「天狗の爪研ぎ岩」もあるとのこと。下から見るとこんな感じです。竹に隠れて見にくいですが。藤原顕孝歌碑 「牛の尾や 春はのるまにかつ消えて まだらに萌ゆる 峯の白雪」西国三十三ヶ所観音霊場、四国八十八ヵ所霊場の御砂踏み場滝行の「五智瀧」へ続く踏み石「五智瀧」(水の道場) 滝行をするとき、右上の石の懸け樋から水が流されます。 高さは「役ノ行者」の教えである18尺。天龍王神(風の道場)桜桜とアカシアでしょうか、コントラストが美しい。牛尾観音をあとに、山を下ります。再び「夫婦の滝」往きには気付かなかった「しずく谷不動尊」くるっと丸まった木麓まで下りると、紀貫之・熊谷直好歌碑がありました。 「秋風の吹きにし日より音羽山峰のこずえも色づきにけり」 「音羽山峰の松風うちしぐれ冬にはなりぬ山科の里」大塚天神社「帰って来た石」 神社の中には2015年に発掘された伏見・指月城跡とされる石垣から移設された石が 置かれています。 この神社の背後の「行者ヶ森」山一帯が山科石切場の中心地だったのでこう呼ばれています。妙見寺(日蓮宗) ちょうど御開帳法要が終わったところでした。妙見寺前の鳥居「旧東海道線(引上げ線)トンネル跡」 この妙見寺前の鳥居の背後にあります。 1921(大正10)年に現在のJR東海道線が完成するまで、かつての東海道線は現在の名 神高速道路の辺りを通っていました。旧山科駅(現在の小野小学校北側付近)から 旧大谷駅(現在の京阪大谷駅付近)にかけて、上り(東京)方向に向かって急な上り勾配 が続いていました。そして、大塚地域には「大塚信号所」が設置され、スイッチバック式 の引上げ線が設けられていました。 この煉瓦づくりの壁面は引上げ線の線路下にあったトンネルの入口跡と伝えられています。宝迎寺(浄土宗) 井原西鶴『好色五人女』の主人公「おさん・茂兵衛(もへえ)」の墓があることで 知られています。皇塚 もともとこの地には,直径20mほどの円墳があり,大塚・王塚・皇塚などと呼ばれていました。 6世紀前半ごろのものと推定され,山科区内最古の古墳と考えられるが,原型は留めていません。 その名称から,桓武天皇の墓所という伝承もあり,大塚という地名の由来となったと言われます。 現在,この地は岩屋神社の御旅所となっています。道標[南西]みぎうじみち[北西]ひだりおゝつみち今日も王将京都東インター店で昼食。 遅い時間で、夕食まで時間が短いので、焼きそばだけにしました。あっ、ビールもいただきましたが。 でも例によってボリュームがあるので、結構お腹いっぱいになりました。地下鉄東野駅から帰途につきました。=========================== 山科区#5の行程と歩いたルートhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605010011/訪問先プロットhttps://www.google.com/maps/d/edit?mid=zyKUfjjbtmc8.k9FIwpANuH-Q&usp=sharing-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/05/11
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2016年4月15日(金)山科区第5日の3回目です。いよいよ牛尾観音への山道に入ります。牛尾観音およびその参道山道周辺は、2013年(平成25年)の台風18号により大きな被害を受けました。その直後に牛尾観音に行かれた方の投稿がありましたので、紹介しておきます。http://homepage2.nifty.com/jiro/kagamiyama/usiozan/usio01.htmようやく復興されたようですが、いたるところで災害の爪痕が見られました。牛尾観音への道のりです。 川に沿って、色んな見所があり、飽きることがありません。突然勾配が急になります。先が思いやられます。地図で最初にあるはずの蛙岩は見つけられませんでした。大師堂 弘法大師は牛尾山で修行をされたと伝わります。弘法さんの腰掛け石道標山の緑がきれいです。お経岩 聴呪の滝藤原公経歌碑「夕されば 松吹風の音羽川 あたりも涼し山の下かげ」後に出てくる歌碑も含め「音羽川」「音羽滝」が出てくる歌を集めているようです。橘青龍の滝 2013年の台風18号でできた滝のようです。ですので上の地図にはありません。夫婦の滝藤原定家歌碑「音羽川 雪解の波も岩こえて 関のこなたに春はきにけり」中務のみこ歌碑「鳴神の 音羽の滝やまさるらん 関のこなたの夕立の空」大蛇塚道標流れがゆるやかになりますいよいよ牛尾観音です。(続きます)=========================== 山科区#5の行程と歩いたルートhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605010011/訪問先プロットhttps://www.google.com/maps/d/edit?mid=zyKUfjjbtmc8.k9FIwpANuH-Q&usp=sharing-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/05/10
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【2016年5月7日(土)】 GW第9日。京都歩きに出かける予定でいました。しかし、腹部の皮膚のヒリヒリ感がなかなかよくならず、一旦は中止。でも結局、出かけることに。というわけで、出発がいつもより1時間くらい遅くなってしまいました。帰りも、スライドして1時間くらい遅くなってしまいました。 皮膚の痛みは、歩いている間はさほど気になりませんでした。天気予報では午後から晴れるとのことでしたが、ほぼ一日曇りでした。幸い雨に降られることはありませんでした。 山科区の歩き部分は、11.3km。自宅からの歩数は約19,000歩。これくらいが限界ですね。 山科区の8日目。地下鉄より西、新十条通以北、国道1号線以南を歩きました。メジャーなスポットは、折上稲荷神社、花山神社、岩屋寺、大石神社。【本日の行程】*11:10バス*JR桂川駅*JR山科駅*地下鉄椥辻駅+歩きスタート12:10・中臣遺跡説明板・朝日神社・左京みち道標(民家に移設?)・折上稲荷神社・中臣群集墳蹟碑・實勝院・イワイ・コーポレーション(ストライキ中)・専正寺・増福寺・王将フードサービス本社・来来亭山科新十条店(昼食)・岩屋寺義士大石良雄寓居碑道標・大石やしき道標・岩屋寺道標・大石太夫閑居址道標・岩屋寺道標・大石良雄山科閑居址道標・大石良雄君隠棲旧址碑・大石良雄遺髪塚・岩屋寺・山科神社・大石神社・大石神社創立記念碑・福王寺・極楽寺・大徳寺・大石乃瀧道標(今回発見)・愛宕神社(前回発見できず)・今熊野観音道十八町道標・万因寺・八幡神社・山科本願寺土塁跡南西角碑・山科本願寺跡碑+17:50地下鉄東野駅*地下鉄四条駅*阪急烏丸駅*阪急桂駅 *バス*自宅18:30◆ルート地図◆訪問スポットのプロット https://drive.google.com/open?id=1SGrnwgoP7rixTRJqtGOjDEo2oaE&usp=sharing◆歩行距離 山科区の歩き部分(約11.2km)◆歩数 自宅往復 19,000歩。 山科には大石内蔵助ゆかりの岩屋寺を示す道標が多くあります。昔は多くの人が訪れたのでしょうね。今回、岩屋寺を訪れたときに、ご朱印をいただくのにご住職さんとお話させていただきましたが、「最近の若い人は大石内蔵助って何?っていう人も多いんですよ。」とおしゃってました。 他にも牛尾観音の道標、東山を一山越えた今熊野観音の道標、蓮如上人御塚の道標も多く見かけます。昔の信仰の対象で、やはり多くの人が訪れたのでしょうね。 それから「行程」に観光スポットではない一件があります。イワイコーポレーション。「ストライキ中」の張り紙や幟があって物騒なことになっていました。帰ってきてから調べたら、労働争議中でややこしいことになっているようです。その記事です。http://ameblo.jp/kyoto-seikei/entry-12072251663.html この記事は翌朝書いていますが、早朝というか深夜にテニスのマドリードオープンの準決勝がありました。私は時間が時間だし、歩きで疲れていたので、トイレに起きたついでに観る程度でした。 錦織圭(世界ランク6位)は、ノバク・ジョコビッチ(1位)に3-6、6-7のストレートで敗れ、決勝進出はなりませんでした。両者の対戦成績は錦織の2勝8敗。2014年の全米オープン準決勝で勝利してから7連敗とのこと。 一部しか観ていませんが、以前のような貫禄負けという感じではなく、よく戦っていました。2セット目はタイブレークまでいったし。準決勝までの戦いを見ても、楽勝はありませんでしたが、要所要所でがんばって勝負強さを見せていました。一回り強くなったような気がします。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村____________________________「京都市内全寺社巡り」カテゴリー http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=43
2016/05/07
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2016年4月15日(金)分です。 この日はJR桂川駅までバスで行き、JR山科駅で京阪京津線に乗り換え、午前10:50頃、京阪京津線の追分駅から歩き始めました。追分駅 駅は滋賀県大津市にあります。旧東海道 ここから西は道の真ん中が京都府と滋賀県の県境になっており、 写真の手前が滋賀県、向こう側が京都府。東側は道の両側が滋賀県。 ですので、この標識は変です。京都を示す矢印は右を向いていないといけないと思います。 西に向かって歩いていると、住民の方が声をかけてくださって思わぬプレゼントをいただきました。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201604150003/ この住民の方の説明によると、県境が道路の真ん中になっているところは全国でも珍しいそうです。 そうですよね、自分ところは京都府民、お向かいさんは滋賀県民。住民税も違うでしょうからね。追分 この標識や道標は正確には大津市(滋賀県)に位置しています。 右が東海道で京都に至ります。左が奈良街道(伏見街道) 馬子が馬を追い分けることから「追分」という地名になったと説明されています。 道標 右側 「みぎは きょうみち」 「ひだりは ふしみみち」 「柳緑花紅」 「柳緑花紅人」は「りゅうりょくかこう」と読み、手を加えていない自然のままの美しさのこと。 紅い花と緑の柳ということから、春の美しい景色を言い表す言葉。 左側 「蓮如上人御塚」「是より十町」 いずれも修理されています。伏見街道の風景 昔の風情が残ります。民家の道標 右の道標は「右大徳寺」「左船岡山」と書いてあるので、京都市中で撤去されたものを移建したのだと思います。牛尾山道道標南関田神社 残念ながら社殿は廃れてました。慈愛院(真言宗) 一般の民家の様相です。室賀邸(京都市景観重要建造物) 住所から判断してこの建物と思います。道標 [北東面] 右 追分、京津国道 [北西面] 右 醍醐、伏見方面 左 牛尾山、醍醐山方面 [南東面] 京都市観光課 京都市では昭和5年に日本の自治体で最初の観光部局である観光課を設置し 昭和十年代を中心に観光地道標を多数建立しているそうです。京の田舎民具資料館 入館はしませんでした。山の神の大蛇 この地に伝わる大蛇伝説を起源に、毎年二月九日に地元の人たちが手作りし、豊作や家内安全を願って奉納している。鎌倉時代末期、体長が数十メートルにもなる大蛇が山にいた。シカやイノシシなどを食べていたが、餌がなくなるとふもとの村人や近くの牛尾観音(法厳寺)に参拝する人を襲った。この地に住む内海景忠という武士が大蛇退治を決意した。二メートル近い身長で弓に精通していたという。 ある日、山中で寝入っている大蛇を見つけた景忠は、二本の矢を打ち込み、のたうち回っているところへ大きな石を投げつけてとどめを刺した。時に1313(正和二)年。大蛇の死骸(しがい)は近くの村人が芝と一緒に焼いた。だが、景忠は奇病にかかり、村は大雨で洪水に遭って不作が続いた。たたりを恐れた村人が大蛇の霊を慰めるため、わらの大蛇を祭るようになったという。 以来、大蛇退治があったとされる二月九日に、地元住民が約三百束のわらを使って新しく大蛇を作り、古い大蛇と交換して川べりに奉納している。 この行事は「小山二ノ講(二九(にのこう))」と呼ばれ、一九九七年に京都市の無形民俗文化財に認定された。(京都新聞ホームページ、観光アーカイブから)小山地区の民家 桜・ベニカナメモチ・緑のコントラストがきれいです。道標 [東面] 右 追分、京津国道 [北面] 右 音羽、醍醐、伏見方面 左 牛尾山、高塚山、醍醐山方面 [南面] 京都市観光課安楽寺(浄土真宗本願寺派)明教寺(浄土真宗本願寺派)白石神社 大同年間(806-809)に朝廷から村中に建立勧請されたと伝わります。境内のこの白石が社名の由来。(続きます)=========================== 山科区#5の行程と歩いたルートhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201605010011/訪問先プロットhttps://www.google.com/maps/d/edit?mid=zyKUfjjbtmc8.k9FIwpANuH-Q&usp=sharing-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/05/03
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【2016年5月1日(日)】 2016年4月15日(金)「京都市内全寺社巡り」の山科区5日目の第1回です。 4月15日(金)、この日は一人在宅ですし、天気もいいし、この週はまだ単独歩きは出かけていなかったので、「京都市内全寺社巡り」に出かけました。 4月15日の記事から、その日の訪問先の概要を再掲します。4月15日(金)「京都市全寺社巡り」山科区#5-1(全体概要) 主な目的地は牛尾観音。 全歩数は約18,500歩でした。「がん」からの復帰後では、一番歩数が多かったのかもしれません。本日の行程*9:45バス*JR桂川駅*JR山科駅*京阪山科駅*京阪追分駅+歩きスタート10:50・追分 京道・伏見道道標・追分 蓮如上人御塚道標・牛尾山道標・南関田神社・慈愛院・追分京津国道(等)道標・山の神の大蛇・追分京津国道(等)道標・安楽寺・明教寺・白石神社・牛尾観音・天神社・妙見寺・旧東海道線(引上げ線)線路下トンネル跡・宝迎寺・皇塚・宇治道道標・餃子の王将京都東インター店(遅い昼食)*15:30地下鉄東野駅*地下鉄四条駅*阪急烏丸駅*阪急桂駅*バス訪問先は下記にプロットしました。https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zyKUfjjbtmc8.k9FIwpANuH-Q&usp=sharing山科区の歩き部分(約13km)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/05/01
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【2016年4月30日(金)】 GW2日目。天気が良い気持ちのいい一日でした。 ゴルフ練習に行こうかと思いましたが、午前中にとある理由で車を使うことになったので、ゴルフ練習は行かず、閑居日にしました。** 京都市内全寺社巡り 山科区#4-2(最終回) **「京都市全寺社巡り」4月6日(水)の歩き・山科区4日目の2回目(最終回)です。この日歩いたコースは、下記の散歩日記に掲載。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201604050003/この日に訪れたスポットhttps://drive.google.com/open?id=1vO5QiB1WTH5t_P3XoqJgVjfx8aE&usp=sharing川崎大師京都別院笠原寺の本堂南側の門を出て、山のほうに向かって行きます。細い山道があり、それを登っていくと、後から訪れる岩屋神社の奥の院があります。「奥の院」を示す石碑の奥に鳥居が連なっています。勾配のきつい山道を登っていきます。岩屋神社 奥の院 陰岩さらに坂道を登ります。岩屋神社奥の陰 陽岩 陰岩、陽岩は男女のアソコの形からきているのでしょうか。 細い坂道を登り初めてからの時間は15分くらいだったと思います。 地図によると、坂道を下りたところに、「浄心院」というお寺があるのですが、なかなか見つかりませんでした。行ったり来たりして探し、やはり地図通りのところにありました。一見お寺とは分からない建物ですが、写真にもあるように「浄心院」と表札に書いてあります。浄心院(真言宗)浄心院横の桜が見事でした。笠原寺を下がり、「医仁会いわやの里」の横の小道を行くと、岩屋不動尊があります。岩屋不動尊 水は流れていませんが、左に「お滝場」が見えます。さらに下がると、岩屋神社があります。さきほど紹介した陰陽岩がルーツ。陰陽岩は石座信仰の名残です。本殿境内社群正面鳥居の桜がきれいでした。ご朱印名神高速道路をくぐって西に向かいます。大圓寺(浄土宗) 桜の大木が見ごたえありました。地下鉄椥辻駅から帰途につきました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/04/30
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【2016年4月29日(金)昭和の日】 GW第一日。あまりパッとしない寒そうな天気でしタが、京都全寺社巡りに出かけました。 天気予報では、降水確率10%くらいでしたが、途中パラパラと雨に降られ、風も強くて、この季節にしては寒い一日でした。粒子線治療の副作用だと思われる、照射部近辺の痛みがありましたが、多分治っていく途中なのでしょう、あまり気にせず歩けました。 山科区の7日目。主に東野地域を歩きました。メジャーな観光スポットはありません。【本日の行程】*10:15バス*JR桂川駅*JR山科駅+歩きスタート11:00・ダンジョ水・護国寺・西念寺・旧大野木家住宅(登録有形文化財)・三条大橋・旧渋谷道 道標・志賀直哉旧居跡碑・牛尾山法厳寺道標・清水寺奥之院牛尾山道 道標・蓮如上人南殿御旧地・両御坊道・若宮八幡宮・蓮如上人御指図の井戸・光照寺・蓮如上人南殿御舊地碑・蓮如上人御塚道 道標・史跡 山科本願寺南殿跡 付山科本願寺土塁跡 石碑・法厳寺・宇治道・大津道 道標(再訪)・皇塚(再訪)・妙見宮 道標・餃子の王将 京都東インター店(昼食)・本門仏立宗日風寺山科別院・実如・証如墓・眞光寺・仏光寺旧址・白龍山西雲寺・熊谷蓮心表徳碑・三之宮神社・西楽寺・法教寺・吉川邸(景観重要建造物)・ゆうなぎの水・山科区誕生記念碑*15:50地下鉄椥辻駅*地下鉄四条駅*阪急烏丸駅*阪急桂駅 *バス*自宅17:00◆ルート地図◆訪問スポットのプロット https://drive.google.com/open?id=1NjttlTaOIQLc0JrKBgvrm4BlYr0&usp=sharing◆歩行距離 山科区の歩き部分(約13km)◆歩数 帰宅後のワンちゃん散歩も含めて、18,5000歩。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/04/29
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【2016年4月28日(木)】 午前中、予約してあった歯医者に行きました。先週3ヵ月に一度の定期メンテナンスで行ったときに、そのときは治まっていたのですが、右の下が熱いものでしみたときがあったと先生に説明したところ、レントゲンを撮ってもらって、炎症を止める薬を注入してもらいました。今日は、その後の経過確認です。 その後も熱いものがしみることはなかったので、そう説明したところ、「今日、もう一度薬を注入して、このまま様子を見ましょう。また、3ヵ月後に来てください。」ということになり、通常のサイクルに戻りました。 それ以外はルーティーンの一日でした。 朝から雨でしたが、午後からは止みました。少し寒さが戻り、また床暖のお世話になっています。体がついていけません。 それに、ここ2週間くらい粒子線治療の副作用と思われる、照射部近くの痛みに悩まされて、あまり気分が晴れません。場所的には、去年の11月に痛かった場所と同じですが、そのときのような我慢できない痛さではなく、痛みの種類も違い、肌がヒリヒリする感じです。** 京都市内全寺社巡り 山科区#4-1 **「京都市全寺社巡り」4月6日(水)の歩き・山科区4日目の1回目。この日歩いたコースは、下記の散歩日記に掲載。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201604050003/この日に訪れたスポットhttps://drive.google.com/open?id=1vO5QiB1WTH5t_P3XoqJgVjfx8aE&usp=sharingこの日は、ハローワーク御池プラザに職業相談に寄った後、土曜日の飲み会で忘れた帽子を伏見「鳥せい」でピックアップし、地下鉄醍醐駅から歩き始めました。いつもの王将で、まず腹ごしらえと思ったのですが定休日で閉っていたので、近くの「さん天」で昼食。●朱雀天皇御陵 東二町 道標 過去の歩きで見逃していたものです。 ●大宅寺『今昔物語集』によると、宮道弥益の妻が、勧修寺の東の山際に大宅寺(おおやけでら)を建立したというが、当時の大宅寺について詳細は不明。現在の大宅寺境内に宮道弥益夫妻の墓が建つというが、お寺の体をなしていない。●川崎大師京都別院笠原寺 弘法大師1150年御遠忌(昭和59年)の記念行事として開山笠原政江尼が発願し、大本山川崎大師平間寺の京都別院として建立された。・大本堂・大本堂からの眺め・ちょうど花祭で、お釈迦様に甘茶をかけることができ、甘茶接待がありました。・修行大師像・開山堂・境内八十八ヶ所 四国八十八ヶ所を再現したもの。・きもの塚・ご朱印●玉洗院(笠原寺前)地図では笠原寺の前に「玉洗院」があることになっています。しかし、それらしき建物の門には「玉洗院」とは書いてなく何も書いてありません。笠原寺の一部のようにも見えました。しかし、前のお地蔵様の後ろには「玉洗院」の看板があります(下のお地蔵さんの写真の右上に一部見えます)。一方、笠原寺の中にも水子供養の「玉洗院」というお堂がありました。もともと、玉洗院は笠原寺の子院か何かだったのを、理由は分かりませんが、笠原寺が合併して、玉洗院というお堂を笠原寺と敷地内に建てたのではないかと推定しましたが、真偽のほどは分かりません。(続きます)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/04/28
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【2016年4月27日(水)】 今日は失業給付の4回目の認定日でした。いつもならハローワークが終わった後、京都歩きをするのですが、あまり天気が良くなさそうだし、昨日のゴルフで疲れているので、ハローワークのみ行くことにしていました。 ところが、阪急電車が人身事故でダイヤが乱れていて困った状況に。別のルートで何とかハローワークに辿り着くことができました。予期せず嵐山の渡月橋を渡ることになりました。その様子は下記の散歩日記にアップしました。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201604270007/ ハローワークのほうはいつものように、端末で求人を検索して、ダミーの職業相談。職業相談では就職先を探しているという意志は見せなければ、失業給付はもらえませんので、以前から興味のあった求人の現況について質問しました。10人募集のところに、7人が応募したとのこと。今までの職業相談でも、この求人の状況を質問してきましたが、ずっと2人の方が応募して、まだ一人も採用されていないとのことでした。急に応募者が増えたようです。 天気予報より少し早かったですが、午後から雨が降ってきました。** 京都市内全寺社巡り 山科区#3-4(最終回) **「京都市全寺社巡り」3月30日(水)の歩き・山科区3日目の4回目(最終回)。この日歩いたコースは、下記の散歩日記に掲載。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201603300002/この日に訪れたスポットhttps://drive.google.com/open?id=1UaEup3T1OzGGZmur9FoyIeSBebs&usp=sharing前回記事http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201604250006/隨心院から北に向かいます。●歓喜光寺・歓喜光寺の開山である聖戒は、宗祖一遍の高弟で、一遍の諸国巡礼に随伴した僧であり、一遍の実弟ともいわれている。 ・『弥阿上人行状』等によると(「弥阿上人」は聖戒のこと)、歓喜光寺は正応4年(1291年)、綴喜郡八幡(現・京都府八幡市)に善導寺として創建されたという。 ・石清水八幡宮に近いこの地が寺地として選ばれたのは、八幡神の本地を阿弥陀如来とする信仰による。 ・それから数年後の正安元年(1299年)、寺は関白九条忠教の庇護のもと、六条東洞院(現・京都市下京区)の源融(みなもとのとおる)左大臣の旧跡(六条河原院)へ寺地を移すとともに、菅原是善(菅原道真の父)の旧邸(現・京都市上京区堀松町)の天満宮とその神宮寺である歓喜寺を合併した。この際、寺号を歓喜光寺に改め、所在地から「六条道場」とも称するようになった。 ・応仁の乱の後、寺は高辻烏丸(現・京都市下京区)に移転し、さらに天正年間(1573 - 1592)に豊臣秀吉によって四条京極へ移転させられて、近世を通じて同地にあった。 ・この地は現在の京都市中京区中之町(新京極通り四条上る)であり、境内にあった天幡宮だけが繁華街の中に残されて、錦天満宮と称している。 ・寺はその後、明治40年(1907)、東山にあった法国寺と合併し、法国寺の所在地である東山区遊行前町(五条通東大路上る)に移転した。東山五条の交差点の近く、大谷本廟などの所在する地区である。 ・法国寺は後陽成天皇の母・新上東門院が、父・勧修寺晴右(かじゅうじはれみぎ)の追善のために建てた寺で、当初「豊国寺」と称したが、豊臣秀吉の没後、徳川家をはばかって「法国寺」に改称したという。 ・移転はさらに続き、昭和50年(1975)には駐車場建設のため東山区の旧地を立ち退き、郊外の山科区に移転した。 ・なお、国宝の絵巻『一遍上人絵伝』(12巻)は、歓喜光寺の開山・聖戒と絵師・円伊によって作製された経緯から、もと歓喜光寺に伝来したものであるが、20世紀末頃に時宗本山、神奈川県藤沢市にある清浄光寺の所有になっているという。(フリー百科事典「ウィキペディア」より引用)山門山門前の石碑の裏側 明治41年内務大臣原敬名での官報の記述が彫られています。 歓喜光寺と法国寺の合弁についての官報のようです。本堂 現在の本堂は、法国寺のもので、慶長6年(1601)に淀君が二世安楽のために 施主となって建立したもの。大日尊 日露戦争の戦死者を供養するため、大正10年に五条坂にあった「法国寺」に 建立されました。石碑の字は富岡鉄斎の書を写したもの。地蔵堂 ・昔、東山の五条坂近辺は、鳥辺野墓地に隣接する埋葬地で、その中に一体の 地蔵尊が安置されていました。人々はお地蔵さんの前を通り過ぎるとき口々に 「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」とお唱えご回向したことから、「南無地蔵」 と呼ばれるようになったと伝えられています。 ・地蔵堂正面中央に安置されている「南無地蔵」は、丸彫りの石像で背丈は 1.6mあり、台座石には「宝永7年8月24日」と刻まれています。 ・地蔵堂には子安地蔵をはじめ8体のお地蔵さんが、堂の周りには約450体の お地蔵さんが鎮座しています。 (以上、駒札から) この地蔵堂も東山五条から移転したもので、かつては法国寺の境内にありました。ご朱印をいただけるかお寺の方に聞きましたが、やっておられないとのことでした。●大宅寺廃寺跡碑 歓喜光寺の隣にある大宅中学校からその北部一帯は、白鳳時代の古代寺院跡の 大宅廃寺跡です。名神高速道路建設に伴う発掘調査で瓦積み基壇の金堂跡や塔跡が 見つかり、大宅中学校開校に伴う発掘調査では掘立柱建物跡が出土しています。 藤原鎌足創建の山科精舎に比定する説もありますが、地元の豪族大宅市の氏寺と みる説が強いとのこと。 大宅中学校内にこの碑はありますが、春休みで授業がなく、部活で門が開いて いたので失礼して写真を撮らせていただきました。●大宅一里塚 東海道から分岐した奈良街道の一里塚。塚上にはエノキが植えられています。 もとは道路の両側にありましたが、今残るのは西側のみ。市内の一里塚が ほとんど姿を消し、貴重な存在で、京都市の史跡に指定されています。●岩屋神社御旅所 東方の山裾にある岩屋神社の御旅所。手前の巨木はクスノキ。●紫晃院 真言宗醍醐派地下鉄椥辻駅から帰宅しました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/04/27
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