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【2024年1月28日(日) 大津(10:20)~草津(16:20) 16km】 歩数35,200歩 天気:曇りのち雨 「京町通り」石碑大津祭 「西行桜狸山」由来滋賀県庁 設計は早稲田大学大隈講堂、群馬県庁等を設計したことで知られる佐藤功一氏。 鉄筋コンクリートの4階建で中央には塔屋がそびえ、左右に事務室、そして正面玄関には大きく車寄せを配したその容姿は、ルネサンス様式らしい格調高い存在感を放っており、滋賀県を代表する近代建築の一つとされている義仲寺 木曽義仲の墓がある。義仲の愛妾巴御前がここに草庵を結んだところから巴寺とも呼ばれた。芭蕉の墓もある。元禄7年(1694)大坂で客死した芭蕉は遺言のより義仲寺に葬られた。芭蕉は義仲を敬愛していた。「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」膳所城北総門跡 膳所城下町の西口 膳所城は徳川家康が西国に備え瀬田の唐橋を守護するために築いた。藤堂高虎が縄張りを行い、歴代の譜代大名が城主となった。石坐(いしい)神社 本殿は文永3年(1266)造営 県指定有形文化財バッタリ床几 所々に見られた琵琶湖が見える和田神社 白鳳4年(657)創建。本殿は、国の重要文化財。御神木の銀杏は樹齢650年。関ケ原の合戦の後、捕らわれた石田三成は京に護送される途中、この木に繋がれた。膳所城中大手門跡懸社篠津神社若宮八幡神社 表門は膳所城犬走り門を移築した(大津市文化財)膳所城勢多口総門跡 膳所城下町の江戸口日本電気硝子本社、ローム滋賀工場を右に見ながら進む。昼食は石山商店街にて、キーマカレー。蓮如上人休息所跡碑瀬田の唐橋山崎茶酔歌碑 「松風の 帆にとどかず 夕霞」田上太神山不動寺道標東海道立場跡碑 写真では涸れているが、月輪池は池に月が落ちる姿が美しいといわれた月輪寺 「新田開発の地」碑がある。江戸時代になって開墾が進められた。「明治天皇御東遷御輦之所」碑もある。名勝月輪大池南約一粁(キロ)弁天池 琵琶湖の竹生島から勧請した弁財天を祀っている。社には日本左衛門が隠れたという。萩の玉川跡 玉水の様な清水が湧くところから。現在は公園になっており、今も泉が湧く。これは近くの十禅寺川の伏流水。旅人の喉を潤した諸国六玉水の一つ。「野路在郷軍人用地跡」碑 かつて、満20歳から満40歳(昭和18年からは45歳)までの男性は兵役の義務を負わされていた。普段は一般の国民として生活をしながら、 いざという時には戦場に赴かなければならない人々のことを「在郷軍人」と言った。その用地跡のようである。新宮神社平清宗祠塚 壇ノ浦の合戦で源義経の捕虜になった平清宗は、鎌倉から京へ上る途中、ここで斬首された教善寺 浄土宗本誓山。承応2年(1653)遠藤権兵衛なる者が、敷地田畑一町歩を寄進して開基した寺野路一里塚碑 日本橋より119里目稲荷神社矢橋(やばせ)道標 矢橋湊(琵琶湖)から大津への舟運があった。「瀬田へ廻ろか矢橋へ出よか ここが思案の姥が餅」「武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも いそがば廻れ 瀬田の唐橋」と詠われた。寛政10年(1798)の道標(草津市指定文化財)。「右やはせ道 これより廿五丁 大津へ舟わたし」 立木橋立木神社 矢倉の産土神。境内に樹齢400年のウラジロガシ、旧追分道標や鹿の狛犬がある。草津宿場追分道標を描いたマンホールの蓋雨が降りだした太田酒造 銘酒「道灌」の蔵元。太田道灌の遠祖。代々問屋場の総取締役を勤め、政所と呼ばれた。史跡草津宿本陣 田中七左衛門本陣、遺構を残し、公開されている。(国指定史跡)安藤広重 東海道五十三次 草津宿JR草津駅よく歩きました。雨は最後の方だけだったので、助かりました。
2024/01/28
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【2014年1月7日】京都三条大橋~大津京都三条大橋 10:20~大津 14:30 (12km) 歩数27,282安藤広重 京都 三条大橋三条大橋弥次喜多像高山彦郁郎像大将軍神社粟田神社車石昼食 山科駅前 はたごや徳林庵三井寺観音道道標車石追分道標髭茶屋町説明板滋賀県に入る「右一里丁 左大谷町」この辺りに大谷の一里塚があった大津算盤の始祖碑 片岡庄兵衛が慶長7年(1611)、明国から渡来した算盤を参考にして製造を始めた元祖走井餅本家碑安藤広重 大津 走井茶店蝉丸神社分社逢坂山関所跡弘法大師堂蝉丸神社上社旧逢坂山隧道 日本人が設計施工した我が国初の山岳隧道蝉丸神社下社大津本陣跡此附近露国皇太子遭難之地碑JR大津駅から帰途につきました。第1日 無事終了
2024/01/07
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■旧東海道歩き 旧東海道を歩いて旅しようと思い、その最初として、2013年9月29日(日)に日本橋から大森まで歩きました。そのようすを、少しずつ投稿アしてきました。お読みいただきありがとうございました。 もう一度歩いたルートを掲載しておきます。 会社勤めの身ですので、この第1日目のあと、土日を利用して少しずつ歩き足していく予定でした。しかし、その後、なかなか忙しくて歩き足しができないまま、悪性腫瘍との闘病生活に入ってしまいました。 これから重粒子線治療で、残っている片方の腎臓を温存したままの治療をします。きっと、またこの歩きが再開できると信じて、治療に励みます。再開したら、またアップします。よろしければぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/23
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■旧東海道歩き 昨日までで、2013年9月29日の第1日(日本橋~大森)の歩き記録アップ終了です。 今日は、この歩きに使った地図を紹介しておきます。 旧東海道を旅するには、旧街道の位置を知る必要があります。ネットでも色々入手するのは可能ですが、印刷するのも大変なので、本屋さんに行って買い求めました。あまりたくさん種類はなかったのですが、使いやすいと思って買ったのが写真の地図です。 山と渓谷社 「ちゃんと歩ける東海道五十三次」。東と西の2冊になっていて、私が買った2013年時点で1冊3000円+税です。ちょっとお高いです。 その理由は、買う人数が限られているのと、もう一つの写真にあるように、折りたたみ式で何枚か貼り足してあるからだと思います。 東編に「真ん中の宿まで245キロが15メートルの長~い両面一枚地図に」とあります。街道近くの見るべきポイントとその簡単な説明が地図の上に書いてあり使い勝手がいいです。そのまま持っていってもよかったのですが、雨が降ったりして、ボロボロになっても困るので、歩く部分だけコピーして持っていきました。 旧東海道歩きをしてみようという方にはお薦めの一冊いや二冊です。よろしければぽちっとしてください。にほんブログ村
2015/02/22
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■旧東海道歩き 内川橋のたもとに、「するがや通り(羽田道)道標」があります。内川沿いに旅籠駿河屋があったのが、名の由来です。羽田弁天や川崎大師への参詣道でした。 2013年9月29日(日) 9:20に日本橋に向かって東京駅を出発して、一日歩きました。だいぶ足も疲れました。昼食はどうしたか書いていませんが、はっきりは覚えていません。確か、沿道でお祭をしていたので、何かバザーで売っていたものを食べたような記憶があります。京都歩きとは、また違った面白さのあるウォーキングでした。是非、近いうちに二日目と思っています。その日は、京急大森駅から京急で品川まで行き、新幹線で帰りました。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/21
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■旧東海道歩き 日曜日で商店街のお店は休みのところが多く、シャッターが閉まっています。そのシャッターに、昔の街道の様子が描いてあったりします。 写真はその一つ、川良海苔店(「かわりょう」と読むようです)のシャッターです。海苔の本場で大森で、創業75年だそうです。そういえば、大森屋の海苔とうのもありましたね。 大森は、日本の海苔養殖発祥の地とも言われ、海苔生産の中心的な役割を果たしてきたそうです。しかし、東京オリンピックに向けて、昭和37年の埋め立てにより、大森の海苔養殖の歴史は閉じられたそうですが、今も昔の名残で大森には海苔屋さんが多いそうです。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/20
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■旧東海道歩き 一旦旧道に戻り、仲町商店街に入ります。京急平和島近くに美原不動尊があります。 美原は往時、魚市場通りと呼ばれ大森の海でとれた魚を商う店があり、評判だったとのこと。南原・中原・北原を三原といい、これを美称して美原となったようです。歩き日:2013年9月29日よろしければぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/19
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■旧東海道歩き 磐井の井戸の近くに、磐井神社があります。 京都検定の勉強でも出てきた式内社の一つだそうで、古い格式を持つ神社です。「三代実録」によると、貞観元年(859)この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また、平安時代(10世紀)に編纂された「延喜式」の神明帳に記載されています。江戸時代には、徳川家の将軍も参詣したと伝わります。歩き日:2013年9月29日よろしければぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/18
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■旧東海道歩き 鈴ヶ森刑場跡から、また幹線道路に出ます。 磐井神社の前に磐井(いわい)の井戸があります。 東海道往来の旅人に利用され、霊水または薬水と称されて古来有名とのこと。もとは神社の境内であったが、国道の拡幅により、境域がせばめられたために、社前歩道上に遺存されることになったらしいです。土地の人々は、この井戸水を飲むと、心正しければ清水、心邪ならば塩水、という伝説を昔から伝えているとのこと。歩き日:2013年9月29日よろしければぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/17
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■旧東海道歩き 鈴ヶ森刑場跡です。 慶安4年(1651)に幕府によって設けられた刑場(仕置場)。丸橋忠弥(由井正雪の乱)、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お熊らが処刑されました。 鬚題目碑、首洗い井戸、火あぶり用鉄柱の丸穴石、磔(はりつけ)用木柱の角穴石があります。歩き日:2013年9月29日にほんブログ村
2015/02/16
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■旧東海道歩き 鈴ヶ森刑場跡に着きました。近くに大経寺という、近代的な建物のお寺があります。 そのHPからです。 当寺は、鈴ヶ森刑場が開設された慶安四年(1651)と前後して堂宇が建立されたらしい。度々の台風等により建物を失い、その都度再建された様であるが、記録がない為、その間の様子を詳しく知る事は出来ない。 明らかな文章によると、文久二年(1862)大井村名主大野貫蔵が中心と成り、刑場に隣接して百姓番小屋を建立し内々に本尊を安置、密かに刑場受刑者の供養を行う様に成ったのを始めと伝えられる。 その後、明治四年(1871)刑場廃止と同時に「旭松庵」と称して、無縁受刑者供養を専らとし、檀家を持つ事なく今日に至っている。その間、昭和十七年(1942)品川薄長寺42世慈洽院日完上人を開山として、寺号公称を行い「鈴森山、大経寺」と成り、第2世小越妙誠法尼の時代に戦争を経て建物を維持、昭和29年、国の区画整理事業により寺域を大幅に失い縮小された現地に移り、平成2年老朽化した建物を全面改装し、近代的寺院として再建、今日を迎えた。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/15
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■旧東海道歩き大井競馬場の近くまで来ました。浜川神社があります。江戸時代・天明の頃に、修験者・教光院了善が厄神大権現として祀ったことに始まるとのこと。浜川神社文書は、保存状態もよく、大井地区の歴史だけでなく、江戸時代から近代に至る神社史を知る上でも貴重な資料で、品川区の指定有形文化財になっています。 今は写真のように、マンションの横のテラスのようなところに鎮座しています。時代の流れですね。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/14
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■旧東海道歩き 街道沿いに、写真のようなレトロな建物がありました。何のお店だったのでしょうか。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/13
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■旧東海道歩き 京急立会川駅ちかくに浜川橋があります。別名、泪橋(なみだばし)と呼ばれています。あとで訪れる鈴ヶ森刑場で処刑される罪人と縁者が、この場所で泪で別れたので、そう呼ばれたとのことです。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/12
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■旧東海道歩き 京急鮫洲駅の近くに鮫洲神社があります。 品川沖で鮫が獲れ、腹中より聖観音が現れ、この観音は昨日紹介した海晏寺の本尊となり、鮫の頭(さめず)がこの社に祀られたとのこと。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/11
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■旧東海道歩き 海晏寺には、北条時頼・時宗の供養塔、松平春嶽・岩倉具視の墓があるそうですが、短時間の滞在だったので発見できませんでした。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/10
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■旧東海道歩き 青物横丁駅近くにある、海晏(かいあん)寺に向かいます。 海晏寺は国道を渡った駅の反対側にありますが、街道沿いに道標があります。昔はこの辺りまで境内が広がる大きなお寺だったと伝えられているとのことです。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/09
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■旧東海道歩き 京急青物横丁駅近くに、昨日の品川寺に加え、海雲寺があります。 その千躰荒神堂の奉納扁額が有名です。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/08
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■旧東海道歩き 品川寺の向かいに、「釜屋跡」があり、写真のような説明板があります。 幕府御用宿で、幕末に、鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組の一行が品川湊に上陸し、ここに投宿したとのことです。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/07
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■旧東海道歩き 街道沿いにはお寺がたくさんあります。 天妙国寺に続いて、品川寺です。「ほんせんじ」と読むようです。 弘法大師空海を開山とし、大同年間(806-810年)に創建されたといいます。長禄元年(1457年)、江戸城を築いた太田道灌により伽藍が建立されました。スイスジュネーヴ市と深い縁を持つ梵鐘を始め、江戸六地蔵の第一番にあたる地蔵菩薩像や東海七福神の毘沙門天などがあります。 この日はちょうど、柴灯大護摩・火渡り荒行が行われたようですが、私が訪れたときには、残念ながら、ちょうど終わったときでした。でも、炊かれた火がまだ燃えていました。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/06
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■旧東海道歩き写真のようなレトロな建物が残っていました。「竹内医院」とあります。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/05
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旧東海道歩き 天妙国寺です。 日蓮の直弟子天目上人が開祖で、お富与三郎や一刀流の開祖伊藤一刀斎の墓があるそうです。 探したけれども、残念ながらうまく見つけられませんでした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/04
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◆旧東海道歩き 目黒川を渡って、さらに南下すると、街道右手に入ったところに長徳寺という時宗のお寺があります。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/03
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◆旧東海道歩き 目黒川沿いに、城南信用金庫品川支店があり、そこが脇本陣跡のようで、駒札に説明がありました。 百足屋(広瀬)治兵衛が営んでいたとのことです。 品川宿は、目黒川で北品川・南品川に分かれていたようです。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/02
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◆旧東海道歩き 目黒川沿いに、南品川の鎮守、荏原神社があります。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/01
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◆旧東海道歩き さらに歩を進めます。 旧品川本陣跡が聖蹟公園というところにあります。 駒札の要約です。 江戸時代の本陣は、宿場で大名や旗本、公家などが休息や宿泊するところで、初め北品川・南品川に一軒ずつあったが、江戸中期には北品川宿のみになった。大名が宿泊すると、本陣には大名の名を書いた関札を立て、紋の入った幕をめぐらした。明治維新後、京都から江戸へ向かった明治天皇の宿舎(行在所)にもなった。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/31
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◆旧東海道歩きその日(9/29(日)は、ちょうど品川宿で、地域のイベントがあり、たくさんの人で賑わっていました。当時も、街道を行きかう人で、こんなに賑やかだったのかも知れませんね。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/30
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■旧東海道歩き 公園(名前は控えてないですが)の前に品川宿の比較的新しい石碑と説明の駒札がありました。 駒札の記述を要約すると品川は江戸から最初の宿場町。宿内の家屋1600軒、人口7000人規模だった。江戸時代と同じ道幅を保っている。歩き日:2013年9月29日
2015/01/29
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◆旧東海道歩き 「問答河岸跡」を少し京都方向に歩いた南側のファミリーマート辺りに、相模屋という旅籠がありました。壁が土蔵のような海鼠壁だったので「土蔵相模」と呼ばれていました。 1862年(文久2年)に品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞がここで密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行しました。幕末の歴史の舞台になったこの場所に、写真のような駒札が立っていました。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/28
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■旧東海道歩き 旧道に入って200mほど行くと、問答河岸跡の碑があります。 かつて海岸先に波止場があり、 三代将軍徳川家光が東海寺を訪れたとき、出迎えた沢庵和尚と問答をしたという場所です。その問答とは、将軍「海近くして東(遠)海寺 とはこれ如何に」和尚答えて「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」といい伝えられています。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/27
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■旧東海道歩き いよいよ、車の往来の激しい大通りを離れて、街道らしく、狭く、少し曲がりながら続く道に入りました。江戸を出て、最初の宿場町、品川です。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/26
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■旧東海道歩き 品川駅の高架下にラーメン屋などが固まってある食堂街があるので、そこで昼食をとって進みました。ようやく、国道から離れて街道の赴きのある狭い道に入っていきます。JRの高架を超えて、その狭い道に入る手前の国道沿いに、御殿山があります。諸大名の御殿があり、桜の名所でした。道路敷設に伴って削られたそうです。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/25
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■旧東海道歩き道路を挟んでJR品川駅の前に、高山稲荷神社があります。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/24
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■旧東海道歩き 見つけるのにかなり苦労しましたが、高輪海岸石垣石を少し行って、右手を山のほうに登っていくと東禅寺という臨済宗妙心寺派の別格本山があります。江戸四ヶ寺の一つ。幕末に英国公使館となり、浪士の襲撃に見舞われました。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/23
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■旧東海道歩き 高輪神社を、さらに京都に向かって歩きます。高輪二丁目の交差点右手前のマンションの交差点角地に、高輪海岸の石垣石跡があります。気をつけていないと、通り過ごしてしまいます。説明板が設置されています。それによると....江戸時代に高輪海岸の沿って造られた石垣に用いられたものです。近くの発掘調査で出土しました。主に相模湾から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。3段目から下の石垣は、現地でそのまま保存されています。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/22
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◆旧東海道歩き 元の日記に漏れていました。 泉岳寺から国道に戻り、少し南に歩くと高輪神社があります。 創建は室町中期明応年中で、お稲荷様、八幡様、猿田彦様を祀り、境内社には聖徳太子様を祀っています。恒例の初詣、鎮火祭、節分祭、中祭、例祭、七五三詣の他、三年に一度神社大神輿の渡御が例祭日に近い日曜日に斉行されます。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/21
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◆旧東海道歩き 高輪大木戸跡をさらに京都方向に進むと、やや道から右に入ったところに、あの有名な泉岳寺があります。播州赤穂家の菩提寺、四十七士の墓が主君内匠頭の墓を囲んでいます。車が行き交う道路を少し離れて、ほっと落ち着ける空間です。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/20
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◆旧東海道歩き 地下鉄泉岳寺駅の手前左側に、高輪大木戸跡があります。盛り土がされているので、道路に沿っている歩道が、そこだけ迂回しています。 江戸府内外の堺です。享保年間の築造です。江戸時代の出入り口にあたり茶屋が軒を連ね、送迎の人で賑わいました。伊能忠敬は、この大木戸を全国測量の起点にしました。歩き日:2013年9月29日
2015/01/19
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◆旧東海道歩き 元和キリシタン遺蹟をさらに品川方面に向かって歩くと、御田八幡があります。和銅7年(709)創祀の歴史ある神社とのこと。東国鎮護の神を祀ります。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/18
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◆旧東海道歩き 住友不動産三田ツインビル西館敷地奥の、土手のようになったところに、元和キリシタン遺蹟があります。徳川家光は元和9年(1623)に、丘の中腹で50名のキリスト教徒を処刑しました。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/16
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◆ 旧東海道歩き 田町駅近くに「元札の辻」の説明板があります。江戸時代初めに高札場がもうけられ、布告法令などが掲示されました。後に高輪大木戸に移設されました。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/16
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◆旧東海道歩き さらに品川駅方向に歩いていくと、左手の三菱自動車前に勝海舟西郷隆盛会見の碑があります。この辺りに、薩摩藩屋敷があり、江戸無血開城の話し合いが行われました。この根回しは、府中において、山岡鉄舟・西郷間で打ち合わされたとのこと。歩き日:2013年9月29日にほんブログ村
2015/01/15
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◆旧東海道歩き 増上寺から旧東海道に戻り、京都に向かってすぐ左手に浜松町の由来を示す碑があります。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/13
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【旧東海道歩き】 増上寺の門前にレトロ建築のレストランがありました。クレセントという名のレストランです。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/13
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◆ 旧東海道歩き #19 昨日の芝大神宮から、さらに右手に行くと、増上寺があります。全国的有名なお寺ですよね。徳川将軍家の菩提寺です。 惣門は国の重要文化財、惣門横の方丈門(黒門)も見事です。東京タワーとのコントラストも最高。猿回しの芸をやっていました。歩き日:2013年9月29日にほんブログ村よろしかったらぽちっとお願いします。
2015/01/11
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◆旧東海道歩き #18 さらに西に行き、右手に少し入ったところに芝大神宮があります。ちょうど結婚式をやっていて、外から見ることができました。外から見れるのってめずらしいですよね。でも、お参りに来た人にも祝ってもらえていいですよね。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/10
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◆旧東海道歩き #17 新橋跡を西に進み、JR東海道線のガードをくぐったところに日比谷神社があります。旧東海道を歩いてきて、沿道にある最初の神社仏閣です。 虫歯虫封じに霊験があるとのこと。高層ビルのふもとにあり、面白いアングルの写真がとれました。京都でも、ビルに囲まれた神社仏閣が多いのですが、このようなアングルの写真にはなりません。東京は、神社から少し離れた場所に土地があって、そこに京都に比べると何倍も高層のビルが建っているところもあり、このようなアングルの写真がとれるのでしょう。京都とは違った面白さを発見しました。【歩き日:2013年9月29日】よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/10
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◆旧東海道歩き #16 新橋跡の近くに銀座の柳碑があります。 銀座煉瓦街ができた頃、街路樹として松、桜、まきの類も植えましたが、風塵のために育たず、次第に柳だけになってしまいました。 大正10年いちょうに植えかえられましたが、柳の風情を惜しむ声は強く、昭和4年には西条八十作詞、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌う”昔恋しい銀座の柳”の「東京行進曲」が一世を風靡し、同6年柳並木が復活、再び西条、中山コンビが「銀座の柳」を作り”パリのマロニエ、銀座の柳」と四家文子が歌いました。 しかし、東京大空襲によりほとんどが焼失、その後復活しましたが、昭和43年銀座通りの大改修等により、銀座通りから柳並木がなくなりました。現在は街の人たちの尽力により銀座の柳二世が育てられ、西銀座通りに復活したとのことです。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/09
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◆旧東海道歩き #15 昨日アップした芝口御門跡近くに新橋跡があります。橋の一部が写真のように残されています。 明治32年に単アーチ鉄橋に架け替えられ、さらに大正14年、同型のコンクリート橋に架け替えられました。昭和39年、汐留川の埋立てに伴い橋は撤去されました。写真はその親柱とのこと。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/08
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◆旧東海道歩き #14 銀座新橋の首都高高架下に芝口御門跡があります。もと汐留川が流れ、昭和39年まで新橋がかかっていました。宝永7年(1710)、朝鮮の聘使(へいし)の来朝に備えて、新井白石の建築にもとづき、わが国の威光を顕示するため、この新橋北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設され、堅固な門扉が設けられていました。芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。 しかし、この芝口御門は建築後15年目の享保9年(1724)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去されました。歩き日:2013年9月29日
2015/01/07
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