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仙台藩領内には7ケ所の教会がありました。うち3ケ所は、一ノ関村・三ノ関村・石積村(いずれも現富谷町内)で、3村の信徒合計は350余人にのぼり、それぞれの代表者には位の高い、もしくは武士と思われる苗字がありかなりの勢力があったことがわかります。支倉常長の実父の領地が富谷町内にあったことから、黒川郡のキリシタン信仰は支倉氏の影響が大きかったと思われます。1611年にルイス・ソテロが政宗公に呼ばれて仙台にやってきて、政宗公直々に伝道の許しをもらい布教を始めました。しかしソテロは、2年後には常長の遣欧使節とともにヨーロッパへ旅立ちます。その3年後に禁教令が出たため、東北地方の伝道は上(宣教師)からではなく下(信者)から始まったといってもいいかもしれません。西南地方の信者が追放され奥州に逃れて移り住み、密かに信仰を守りながら、熱烈に布教したのです。禁教令のキリシタンは、正しくは「潜伏キリシタン」といいます。明治になって禁教令が廃止されたあとも、正式なカトリックに入ることなく独自の信仰形態を代々受け継いできた人たちを「カクレキリシタン」といい総称して「隠れキリシタン」といいます。つまり、本来のキリスト教が、弾圧によって民間信仰化していったいきさつがあるのです。愛子(あやし)の「おっつ神」という奇妙な祭りもその流れでしょう。富谷の旧家では、正月に玄関に飾るしめ縄の正面に藁で作った十字架を飾るという風習があるようです。それから、お灸をするときに胸で十字をきるなど。つづく
2011.12.27
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愛子(あやし)の蕃山(ばんざん)にある大梅寺(たいばいじ)。雲居禅師(うんごぜんじ)は、全国に173ヶ寺を開山し、天皇にも禅を講じたほどの高僧で、政宗公が松島瑞厳寺を創建する際開山に懇請されたが請けず、政宗公が亡きあと遺言によってその誠意に心を打たれ、やっと瑞厳寺の開山に報いた。27年間にも及ぶ雲居禅師へのラブコールは、政宗公亡き後にようやく叶ったが1648年、雲居退寺し、洞水が二世となる。1650年、禅師は愛子の蕃山を終焉の地と定めて庵を置き、この山をこよなく愛した。すぐ近くには五郎八姫の住む西舘があり、1657年に根白石の永安寺を開山し、1659年に入滅78歳。蕃山の山頂に埋葬される。古い石段の参道両脇には、個性豊かな羅漢たちの石像が並ぶ。大梅寺は、「観光客お断り」の空気ムンムンで、庭園から先の門は固く閉ざされていた。よって、住職にお会いすることためらわれ 雲居禅師の座禅姿の原画を拝見することはできなかった。庭園内には、伊達家の別荘「郷六御殿」が移築されている。雲居禅師と伊達家の関わりの深さを実感。蕃山はハイキングコースになっていて、この日も数名の登山グループとすれ違った。山頂の開山堂にはまた別の機会にお参りするとして、青葉神社へ向かう。結婚式の準備で忙しい片倉宮司さんだったが、「ちょいとあがりなさいよ」と言って広間に堂々飾られた絵を見せてくださった。真田幸村の家臣の末裔の方の作品で、政宗公の命日(5/24)に間に合うようにと先日青葉神社に寄贈されたそうです。敵方なれど、幸村は自分の子供を片倉小十郎に託した。そのとき、子供たちを仙台に送り届けたのであろう家臣の子孫である作者が、なんとこの現代に至って恩義と敬意を表し、2年がかりで仕上げたという大作です。満月(陽)の中に口を開けた龍(陽)をバックに、三日月(陰)の兜の政宗公。みごとです 400年の時を経てなお、政宗公にかかわる人たちが、絶え間なく訪れる青葉神社。片倉宮司と陰陽師イナベノ清明(せいめい)青葉神社に直接買いに来られる方が急増中。ネット通販はコチラ。
2010.05.30
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