彩工房 彩花

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大岡 信


 コミュニケーションという「日本語」は、なかなか難しい言葉だ。大岡信も、そう言っている。

 人間の心には無数の扉があって、ある扉は、ずっと開かれたり閉じたりしているのに、別の扉は一生のうちごく僅かしか開かれない、ということがあると思う。そして、私は、この開かずの扉が何らかのきっかけで開くときに生じる「コミュニケーション」こそ、その人にとって真のコミュニケーションではないかと思うのだ。それは恐ろしい自己発見の瞬間であるかもしれないし、あるいは深い歓びの爆発をともなう瞬間であるかもしれない。いずれにしても、それは誰か、あるいは何物かに対して、とつぜん見えない橋がかかったというような驚きの瞬間であるだろう。
 見えるものは見えないものに触っている。聞こえるものは聞こえないものに触っている。そうだとすれば、考えられるものは考えられないものに触っているはずだ、という意味のことを昔のドイツの詩人が書いていて、私はそれを読んだとき、深く心を突かれるのを感じた。(大岡信 「青き麦萌ゆ」)


 「昔のドイツの詩人」とは18世紀、ドイツ浪漫派の詩人ノヴァリス。あらためて、その詩を書き出すと、


すべての見えるものは見えないものに触っている。
すべての聞こえるものは聞こえないものに触っている。
すべての感じられるものは、感じられないものに触っている。
そしておそらく、
すべての考えられるものは考えられないものに触っているのだろう。
(ノヴァリス 「断章」より)


 多分、今、みんなが探しているのは、「見えないもの」「聞こえないもの」「感じられないもの」「考えられないもの」に「橋がかかる」歓びなんじゃないか、とふと考えた。



 願うのはコトバの果てのその先の
 見えないものに架かる橋・・かな?(弓蔵)


コトバのチカラ [ コトバ・言の葉 ]
 大岡信に「言葉の力」という本がある。78年だから、もう30年か・・・

 ・・・フランス語の贈り物という言葉の中には、もと、人を喜ばせおもしろがらせる言葉という意味があった。人を喜ばせるために言葉を贈り物にするという思想があった。これはなかなか意味深いことのように思われる。

 ・・・ところで、なぜ言葉のようなものが贈り物になり得たのだろうか。思うに、和歌一首は実にささやかなものにすぎない。・・・それも当然のことだった。五七五七七、わずか三十一文字の和歌といものは、どんなに工夫してみてもごくわずかな事柄しか言えはしない。けれども、それは一度にわずかなことしか言えないが故に、かえって徐々に相手に言葉が浸透していくものとなり、贈答の繰り返しを通じてしだいに互いの心が見えてくるという効果が生じるのだった。

 ガラにもなく、短歌など作り、書き散らしている上に、人様の短歌を直したりまでしちゃってる最近の自分としては、ちょっと励まされたような気分に。
 和歌に限らず、文章を書いて、コメントをいただいて、それに返事を・・・というこのブログというシロモノ。考えてみれば、言葉を贈り、贈られて、ということが、その本質なんじゃないか。だとすれば、外見は新しい装置だが、やってることは平安の昔、花をつけた木の枝に、手紙を結んで届けたことと、なあんにも変わってない。

 ダレも読まなくていいというなら、ノートに書いとけばいい話だし、やっぱり誰かに向けたメッセージなんじゃないかな。立派なことが書けりゃ、そりゃあいいけど、そんな立派に生きてるわけじゃなし、自分の身の丈で書いていくほかはない。

 ・・・「言葉の力」と言うとき、まず私の念頭に浮かぶのはこういうことにほかならない。「言葉の力」という題目を掲げた話なら、言葉というものの偉大さをあれこれ強調するに違いなかろうと思われるかもしれないが、私はむしろ、言葉というもののささやかさを強調したい。一つ一つの言葉は誠に頼りない、ささやかなものだということを言いたい。しかし、そのささやかなものの集まりが、時あって驚くべき力を発揮するところに、昔も今も変わらない偉大な力があるのだ。

 ・・・根本の問題は、その大事なすばらしい言葉というのは、実はその辺にごろごろ転がっている当たり前の日常の言葉なんだということ・・・(それに)気づいてみると、私たちの口をついて出てくる一語一語の大切さがしんから分かってくる・・・よく、「詩を書こうと思っても語彙が貧弱で・・・」という人がいる。私は常々そういうことがあり得るものかどうか疑わしく思っている。自分以外のどこかに「語彙」の宝庫があるかのように聞こえるからだ。

 う~、耳が痛い。

 この本をはじめて読んだのは27,8年前かな。今でもかなりそうだけど、極度の筆不精。電話嫌い。つまり、メッセージを発信することも受信することも苦手だった。

 文章を書いてはいたけれど、自分にはないような「語彙の宝庫」からむりやり引っ張り出してきた日本語だか外国語だかわからないような難解(を気取った鼻持ちならない)な文章ばっかり。いったい、ダレにナニを言いたかったのか・・・「オレはこんな難しい問題だって論じれるんだもんね」という、オゴリだけの文章。ああ、恥ずかしい。

 だから、今は、このブログで、身の丈に合った、誰かに何かを伝えられる文章を書きたい、というのが、弓で1350点を出すことと同じくらい大事な目標。


ささやかなコトバでも書きつづけたい 風の向こうの人々を想い(弓蔵)


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