洗濯は嫌いじゃない。好きです、と胸を張って言うほどでもないけれど、洗って、干して、乾いたものを取り込む、あの一連の流れには、私の生活がぎりぎり崩れずに済んでいる証拠みたいなものがある。
だけど、畳むところだけは、たまに少し苦手になる。洗い終わったという達成感があるわけでもなく、誰かに褒められるわけでもなく、ただ、ひとつずつ手を動かして整えていくしかない時間だからかもしれない。
今日は、取り込んだ洗濯物をソファの横に山のように置いて、その前に座り込んだ。テレビはつけていたけれど、内容はほとんど頭に入ってこなくて、聞こえてくるのは出演者の笑い声と、たまに流れるCMの明るすぎる音だけだった。
私は靴下を左右で合わせて、部屋着のTシャツを縦に半分に折って、タオルの端を揃えて、そのたびに小さく布を払う。たったそれだけのことなのに、今日は指先がやけに静かで、自分でも少し不思議だった。
別に落ち込むような出来事があったわけじゃない。
誰かと喧嘩したわけでもないし、仕事で大きな失敗をしたわけでもない。なのに今日は、洗濯物を畳んでいるあいだじゅう、心の中がしずかすぎた。
穏やか、というより、音がしない、のほうが近い。こんな日、たまにある。
干していた白いシャツを膝の上に広げたとき、袖のところに小さなしわが残っているのが見えた。別に着ればそのうちなじむ程度のものなのに、私はそれを指でなぞって、わざわざ伸ばした。
なんでだろう、と思った。別に大したことじゃないのに、きれいにしておきたかった。
たぶん服のしわというより、今日の自分の中にある、説明しづらいざらつきを見ている感じだったのかもしれない。
洗濯物を畳む時間って、意外と逃げ場がない。
掃除みたいに目に見えて部屋が変わるわけでもないし、料理みたいに最後に食べる楽しみがあるわけでもない。ただ、乾いた服を元の形に戻して、あるべき場所に戻す。それだけの作業なのに、その「戻す」が今日は妙に引っかかった。
私は最近、何かをちゃんと戻せているんだろうか、と思った。
部屋着は部屋着の引き出しへ、下着は下着の場所へ、タオルは洗面所の棚へ。物には帰る場所があるのに、自分の気持ちには帰る場所がないまま、なんとなく毎日を進めている気がした。
こういうことを、わざわざ誰かに話すほどでもないのがまた厄介だ。仕事がつらいとか、恋愛がうまくいかないとか、そういう名前のつく悩みじゃない。
ただ、少しだけ心が散らかっている。でも、大人になるとそれくらいの散らかりには、みんな平気な顔で暮らしてしまう。
私もそうだ。朝は起きるし、メイクもするし、返信しなきゃいけないLINEにはちゃんと返す。ちゃんと暮らしているはずなのに、どこかだけ置いてきぼりになっている感じがするときがある。
わかる、こういう日あるよね、と自分で自分に言いたくなる。何が嫌というほどじゃないのに、なんとなく全部の輪郭がぼやける日。元気じゃないわけじゃない、でも元気とも言い切れない、その中途半端さにいちばん名前がつけにくい。
それでも不思議なのは、洗濯物をひとつずつ畳んでいるうちに、気持ちが整う、とは違うけれど、気持ちの散らかり方が少し変わっていくことだった。
ばらばらに飛び散っていたものが、片づくのではなく、ただ「ここにある」と見えるようになる感じ。
黒いレギンスをくるくると丸めながら、私は小さく「今日の私は少しだけ変だったな」とつぶやいた。声に出したら、なんだか可笑しくて、少しだけ息が抜けた。誰に聞かせるでもない独り言は、たまにいちばん正直だ。
大丈夫、とは言えなかったけれど、変だった、くらいなら言える。そのくらいの言葉のほうが、今の自分には似合っている気がした。
タオルを畳む手つきは、いつもより丁寧だった。角を合わせて、もう一度折って、重ねる。
その単純な繰り返しの中で、私はようやく気づいた。静かなのが寂しいんじゃなくて、静かだから聞こえてしまうものがあるのだと。
普段は予定や通知や雑音に隠れて見えない、ほんの小さな本音。たとえば、少し疲れていたこと。少し無理して明るくしていたこと。少し誰かに気づいてほしかったこと。
そういうのって、別に大事件じゃない。だから後回しにできてしまう。
でも、後回しにした気持ちは消えるわけじゃなくて、こういう午後に、乾いたTシャツの間からふいに顔を出す。なんて面倒なんだろう、とも思うし、でもそれが人間っぽいのかもしれない、とも思う。
最後に残ったのは、よく着るくすんだ色のスウェットだった。何度も洗って少し生地が薄くなっていて、袖口は少しだけ伸びている。
お気に入り、というほど気分の上がる服ではないのに、こういう服ばかり着ている時期の自分は、だいたい少し疲れている。そんなことまで、私はちゃんと知っていた。
自分のことを一番わかっているのは自分、なんてきれいには言えない。むしろ、自分のことなんて全然わからない日ばかりだ。それでも、洗濯物を畳むときの手の止まり方とか、服を雑に置けない日の感じとか、そういう些細な癖の中には、説明より先に本音が出ている気がする。
人生って、もっと大きな選択とか、劇的な変化でできていると思っていた。転職とか、結婚とか、引っ越しとか、誰かとの出会いとか。
もちろんそれもある。でも実際は、洗濯物を畳む午後みたいな、誰にも話さない時間の積み重ねのほうが、ずっと生活の本体なのかもしれない。華やかではないし、映えもしないし、SNSに書くには少し地味すぎる。でも、こういう時間の中でしか見えない感情がある。
きれいに畳み終えた服の山を見ても、達成感はそこまでなかった。
それだけで十分、とはまだ思えないけれど、少なくとも雑には扱わなかった。
洗濯物をしまい終えて、空になったかごを部屋の隅に置いたとき、急に部屋が広く見えた。何も増えていないし、何も特別なことは起きていないのに、不思議だなと思う。
少し片づいたのは部屋じゃなくて、たぶん、今日の私の中の「言葉になる前の何か」だった。
こういう静けさを、昔の私は退屈だと思っていた気がする。でも今は、少し怖いと思う日もあれば、少し救われる日もある。静かな時間は、優しくはない。でも、嘘がない。だからたまに、目をそらせない。
今日、洗濯物を畳みながら感じたのは、前向きさでも希望でもなく、たぶん「私はちゃんとここにいる」という、すごく小さくて頼りない実感だった。誰かに褒められるようなことじゃないし、自分でも拍子抜けするくらい地味な確認だけれど、案外そういうもので一日はできているのかもしれない。
あなたにもありませんか。何気ない家事の途中で、急に自分の本音が追いついてくるみたいな時間。別に泣くほどじゃないし、誰かに相談するほどでもない。でも、たしかに心が立ち止まってしまう瞬間。ああいう静けさを、今日は少しだけ、そのまま受け取ってみてもいいのかもしれません。
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